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ムラーノ島での暴走について

暴走というのは際限がないから暴走というので、例のヴェネツィア料理の食事会でアペリティーヴォを出すためのフルートグラスはvetro di Murano、いわゆるヴェネツィアングラスのものを用意した。そのためにムラーノ島まで行ってきたのだが、これもまた一仕事だったのである。

それにしてもヴェネツィアングラスというのは不思議な言葉だ。「ヴェネツィア」の形容詞はイタリア語ではvenezianoヴェネツィアーノ、英語ではvenetianヴェニーシャンとなるのだが、そのどちらでもないというか、絶妙に混ざっている。日本の外来語がいかに適当であるかがよく分かる言葉で、イタリア人のことだけを馬鹿にすることはできないな、とごくわずかに反省した。ちなみに街中での英語表記はMurano glassである。

本島内にもガラスの店はいくらでもあり、毎日街中で店先のガラスを見比べているから、店の構えと価格帯を見れば本物と偽物の違いはもう何となく区別できるような気もするのだが、やはり本物はそれなりの値段がするものである。分かりやすく公認のシールが張ってあるものもあって、そういうものを取り扱っている店で金を惜しまずに買えばとりあえず安心なのだが、ただの観光客と違って時間があるのをいいことにあちこちの店を見て回った。

ムラーノへ渡ると、ヴァポレットの乗降場のすぐ近くにあったCAM VETRI D'ARTE srlという店が目を引いた。ショーウィンドウからもお高い感じがこれでもかというくらいに伝わってくる店なので一瞬躊躇したが、ちょうど良さそうなフルートが見えたのでとりあえず入ってみることとする。しばらく眺めていると高そうなジャケットを着た店員が声を掛けてきて、何を探しているのか、と尋ねられる。

この店で面白いのは、店の奥のあちこちにそれぞれテーマの違う部屋があり、客が探しているものに応じてそこを一つ一つ案内しながら品物を見せてくれることである。ヴェネツィアという街では古い建物の構造を大きく変えずに使うことを強いられるために大変不思議なレイアウトをとっている店が多いのではあるが、その副産物として、奥へと通されると何も買わずに店を出るというのが非常にやりにくくなるのが困りものである。しかしそれも一つの狙いなのだろう。

長い廊下を歩いて階段を上って次の部屋へ向かう間、どこから来たのかと英語で問われ、そこで当然日本だと答えたわけだが、JapanではなくGiapponeと答えたために、イタリア語が話せるのか、と聞き返された。少しは話せると返したら、そこからは容赦なくイタリア語での説明が始まる。要点を外すことは少なくなったものの、それでも半分くらいしか分からないのだが。

雑談の間、ここへはプリニウスの研究に来ているのだと話したところ、この店員はプリニウスのことを全く知らなかった。こちらからいくつか教えてやったくらいのものである。まあ、澁澤龍彦の名前を知っている日本人も決して多くはないだろうし、そういうものなのだろうが。

品物はもちろんどれも素晴らしく、本島にある小さな店では見られないような一点物もたくさんあって、こちらとしても目が肥えたので大変にありがたいことではあったのだが、お手頃なフルート六脚が値引き後でも€400だという。しかし私はそこで何の躊躇いもなく買い物が出来る程に裕福ではない。ちょっと島を一巡りして考えます、とかなんとか言い訳をしつつ、どうにか店を出てからあちこち歩くが、やはりなかなかこれといったものはない。先の店を出てから橋を渡って右に進んですぐ、博物館方面に行く途中にはピンク色が主体のグラスばかりを飾っている工房系の店があってここの品物も気にはなったが、やはりそれなりのお値段がした。この店の名前は覚えておきたいので、また近いうちにムラーノへ渡ることとなろう。

その後、もう少し目を慣らしておこうと思ってガラス博物館に入ってみた。何というか、職人的な技術というのは突き詰めていくと必ず遊びの領域に入るものなのだな、と感じさせるようなものが多く、大変勉強になる場所である。ヴェネツィア共和国の終焉に近づくにつれてそういう退廃的な作品が多くなるというところが型通りで面白い。そして現代作家の作品が迷走と暴走の狭間にあるのもまた例の如しである。

それにしても、完全に実用性を無視し、ガラスという素材の限界へと果敢に挑戦した細工の数々については清々しいという他に形容詞が見当たらない。ヴェネツィアのその辺のpalazzoにぶら下がっているシャンデリアも大概ふざけたものではあるが、ここに展示されているものはそれも通り越してもう訳が分からないレベルに達している。手仕事の延長にこういうものが出てくるのが芸術の本質ではないのか、とはビエンナーレを見に行ったときにちょっと書いたが、こういう仕事が出来るからイタリア人は油断ならないのだ。ヴェネツィアに観光にいらしたならばここは一回見ておくべきだろう。

博物館を出た後、いかにも地元の直売店ふうに、一点物の芸術系の品と実用系の品が雑多にラインナップされているという微妙な構えの店があったので入ってみる。店主らしきじいちゃんが近づいてきたのでフルートを探していると伝えると、六脚セットのものを見せてくれた。

このグラスには内側に螺旋状の模様が付けてあり、液体を入れるとそれが消えたように見えるという細工があった。じいちゃんが得意気に水を入れて実演してくれたのだが、実はこれについては一軒目の店ですでに見せてもらっていたりする。さらにいうとこれは私のアパルタメントにある安物のグラスにも応用されており、どうもイタリアでは定番の細工のようだ。グラスを打ち鳴らして音を聴かせてくれるのもこれまた定番の営業手法であり、この島のグラスは独特の配合でガラスに金属が混ぜられているのだとかで、普通のガラスとは色や音が明らかに違う。慣れた人ならそれで本物と偽物とが区別できるようになるのかもしれない。

またそのせいでムラーノのグラスは強度が高いのだろう、打ち鳴らすにしても持ち運ぶにしても店の人間のガラスの取り扱い方がかなりぞんざいである。ガラスをよく知っていて慣れているからだと考えることもできるが、偽物だから取り扱いが雑になっているようにも見えるところが素人には難しい。

ともあれ、例の螺旋状の細工に加えてグラスの縁に施されたプラチナの線、そして打ち鳴らした音が一軒目の店で見たものと同じようなグラスを一式見つける。一軒目のものと違ってプラチナの細工がちと大人しいが、カクテルが主体だと考えればこれくらいで十分だとも考えられよう。大きさや細工が多少不揃いなのは、これらが基本的に手作りであるのと、ある程度実用的な中間価格帯の品はやはり中級クラスの職人が手がけるためであるので、これによって本物だとか偽物だとか言うことはできない。いや、偽物の方が割り切ってコスト削減のために機械化しており、むしろそちらの方がきっちり揃っているという可能性だってある。

しかし面白いのは、€590という値札である。一軒目のものより多少品が劣るのにこの値段はないなと思って見ていたところ、じいちゃんはいきなり€290まで値を下げた。怪しいことこの上ないが、こちらの商習慣というものが分からないので何ともいえない。一日歩き回ってあれこれ学習した目には買ってもいい品物だと映ったが、この値付けについてはどう解釈したものかと考えあぐねてその電卓の数字をしばらく眺めていたところ、じいちゃんはさらに、現金なら€250でいい、と言う。税金対策か。レシートもくれなかったし。

ともあれ、リアルトの近くの店だとこれより少し小さなフルートグラスが一式で€190であり、値段としては妥当な線なのでここで手を打つこととした。ちなみに、現金で直接持ち帰りなら値引きするという店は他にもたくさんある。本島の方ではそういう店は見ないし、やはり品揃えが違うので、ガラスを買うなら多少無理をしてでもムラーノへ渡ることをお勧めしたい。本島の店の人は、ムラーノで買うと割高だ、とは言うが、ムラーノのグラスをムラーノ島で買ったという物語が大事なのであって、そこに価値を見出せるなら悪い値段ではなかろう。しかし、これをあらためて日本へ持ち帰るにはどうすればよいのだろうか。

リアルト市場での暴走について

市場で事件があったとかいう話ではないので勘違いしないで戴きたい。暴走したのは私である。

縁あってこちらで知り合いとなった日本人の先生方には普段からいろいろとお世話になっており、また、イベントがあると一緒になって繰り出したりするということについてはこれまでにも何度か書いている。

その交流のシンボルとなっているイベントに、「うち飲み」と題された食事会がある。字面のままのイベントで、ヴェネツィアで外食すると高くつくので(と言いながらちょくちょく行ってはいるが)それぞれの先生方のお宅へ集まってひたすら酒を飲もうというものであり、これまで、第一回「ヴェネツィアの食材で作る和食」、第二回「オーガニックピッツァ」、第三回「大阪・名古屋の居酒屋」というテーマで行われてきた。

最近ヴェネツィア料理の勉強に無駄な力が入っているとは先日も書いたが、それはこの食事会に関したものだったのである。上から順に降りてきて、第四回の企画・製作が私に託されたのであった。私のアパルタメントにはそんなに人が入らないので、会場はまた別の先生のお宅をお借りするという寸法である。

日本での私を知る人の中には驚いた方もあるのではないか。何しろ実家暮らしということもあって、私は数年前までまったく料理ができなかったのである。ここでの自炊のためにイタリア料理の勉強をしていたことをすでにご存じの方々もあり、日本を発つ前に堺の包丁(例のTagliazucca)を贈って戴いたということはあるが、しかし学生時代には考えられないことではなかったか。

もう十年近くも前、大学の研究室で鍋が行われた際のこと。買い出し等では私もテキパキ動いていたのだが、調理が始まったらもう何も出来ないので、ただじっと座っていることしかできなかった。それを見た後輩に「何もしない空男さんを初めて見た」と言われたくらいである。「何も出来ない」と言わなかったのがこの後輩の優しさであるが、それはそれとして、これまで役に立たない能力は山ほど身につけてきたというのに、料理だけはすっぽり抜け落ちていたのだった。しかし、日本でこちらに来る準備をしていた一年の間にはもう、ピッツァを生地から作ったり、ニョッキを作ったりなどとしていたのだから、人間幾つになっても変わろうと思えば変わるものである。

これまでの「うち飲み」担当の先生はそれぞれご自分の得意分野で料理をなさっており、上述のように日本を思わせるテーマも見られるのだが、私は今書いたとおり、ここでの自炊のために料理を学び始めたのでイタリア料理しか出来ない。真正面から突っ込むしかなかろうということで、第四回のテーマは「La cucina vaneziana」とした。芹男氏がお聞きになったら、悪い冗談だ、と仰ることであろう。

冗談は本気でやれ、というのが私の人生のモットーである。逆にいうと、ふざけたことにしか力が入らないということになるが、私の人生が失敗続きであるのはこの辺に原因があるのかも知れない。ともあれ、イタリア語の勉強と称してこれまで読み漁った料理の本の中から、ヴェネツィアの歴史や文化にかかわる蘊蓄がある料理ばかりを選び出してメニューを構成し、料理毎にいちいち解説を加えるという鬱陶しい食事会を企画した。資料はイタリア語と日本語の対訳としたので、最終的にA4で14ページに上る。我ながらよくやったものだと思う。ちなみに、当日のリアルト市場での仕入れの都合や、他のメニューとのバランスの問題からボツとなったメニューがこれとは別に5ページ分ある。メニューは以下のようなものとなった。

APERITIVO
 Mimosa
 オレンジとプロセッコのカクテル。ヴェネツィアのカクテルといえばBelliniであるが、これは夏のカクテルで、実はRossini(春、イチゴ)Bellini(夏、白桃)Tiziano(秋、アメリカブドウ)Mimosa(冬、オレンジ)と、季節に応じたカクテルがそれぞれにある。作り方はすべて、砂糖で味を調整した果汁三分の一にプロセッコ三分の二をゆっくり注ぐだけ。

ANTIPASTI
 Bacalà mantecato
 バッカラのクロスティーニ
 Capesante ai feri
 マリネしたホタテ貝に薄切りのパンチェッタを巻き、セージの葉と交互に串に通してグリルしたもの。カペ・サンテというのはサン・ジャコモ(聖ヤコブ)貝のヴェネツィアにおける呼び名。
 ...ed altri cicheti
 その他いろいろ

PRIMI
 Risi e bisi
 エンドウ豆のリゾットというか、リゾットにしては汁気が多いので、これがリゾットなのかミネストローネなのかということについては議論があるようだ。そういうことを真剣に論じることの出来る人たちを羨ましく思う。4月25日の聖マルコの祭日には、この料理がドージェの食卓に供されるというのがヴェネツィア共和国での慣習であった。本来は春の季節の料理であるが、ヴェネツィアのスーパーには季節を問わず、どんな小さい店にも必ず冷凍のエンドウ豆が置いてある。それほどに人気のある料理なのだろう。
 Spaghetti alla busara
 スカンピのスパゲッティ

SECONDI
 Garusoli lessi
 アクキ貝の塩茹で。この貝から採れる赤紫色の染料は貴重なもので、テュロスで作られていたこの紫染料を取り扱うことでヴェネツィアは大もうけしていた。洋の東西を問わず紫色というのは権力と経済力を誇示するものであったわけで、もちろんヴェネツィア共和国の旗はこの染料で染められていたのである。今回出せなかったMoeche fritteもそうだが、この料理はアンティパストとして出されることもある。
 Filetti di San Pietro con zucchini
 マトウダイのバター焼き。サン・ピエトロは使徒ペテロのこと。
 (Sgroppino)
 レモンジェラートに生クリームとプロセッコとウォッカを混ぜたもの。今では食後のドルチェとされているが、本来はヴェネツィア貴族の食卓において、魚料理と肉料理の間の口直しとして考案されたと伝わる。その本来の形式で出してみた。
 Carpaccio di cavallo
 馬肉のカルパッチョ、ヴェネツィア風。有名な話だが、カルパッチョはヴェネツィアのハリーズ・バーという店で考案された料理である。何故牛肉ではなくて馬肉なのかは後述。
 Coniglio con carciofi
 兎肉とカルチョーフィの煮込み、レモン風味。この辺の特産だというカストラウーレという名の小さくて柔らかいカルチョーフィを使用。

CONTORNO
 Verze sofegae
 サボイキャベツ。時間と調理器具のやり繰りの都合で実際には出せず。人の家で料理をするというのは難しいものである。

DOLCE
 Tiramisù
 ティラミス。これは私の手によるものではなく、メンバーの中のとある学生に作ってきてもらった。このドルチェについては来たばかりの頃に一度書いたことがある。

これだけ見せられても何のことやら今ひとつ分からないだろうが、詳しく解説をしていたらいくら紙幅があっても足りないので省略。興味のある方がもしいらしたら資料をお送りする。資料にはすべてレシピを付してある。

それにしても、ヴェネツィアまでやって来て兎を解体することになろうとは夢にも思わなかった。スーパーでは切り分けたものをパックにして売っているが、それでは面白くないので、リアルトの肉屋で丸ごとそのまんまの姿で売っているものを自分で捌いたのである。一回目の練習ではやはり上手く出来ず、その後YouTubeで兎の解体動画を繰り返し見て勉強したところ、二回目にはそこそこの形になった。こういうものは体の構造を立体的に把握出来てからでないと上手くいかない。

ヴェネツィアはそもそも大きな動物の肉が手に入らない島であった。ヴェネト州全体を見ればアルプスに近いところでサラミやプロシュット(ハム)を作っていたりするのだが、しかしイタリア人に聞いたところ、ヴェネト州で肉といえば基本的には馬肉なのだということである。実際リアルト市場にはショーウィンドウに馬の絵が描かれた馬肉専門店があり、今回のカルパッチョはそこで仕入れた。そうは言っても結局のところ馬というのは後背地のものであり、これも基本的にはサラミにするものだそうな。というわけでこの島には大型家畜、つまり牛肉や豚肉を使った郷土料理というのがなかなかない。ここのリストランテでメニューに載っている肉料理は大概ミラネーゼとかフィオレンティーナである。

ヴェネツィア料理といっても、昔ながらの郷土料理と、ハリーズ・バー風の都会的料理の二つの流れがあって、例えばヴェネツィアの肉料理といえば牛肉のカルパッチョが最も有名ではあるものの(あとはfegatoレバーくらいか)、これは当然後者である。古くから伝わるというヴェネツィアの肉料理では、ラグーナ周辺で捕まえたり、この狭い島々でも家禽とすることの出来たカモ、アヒル、ホロホロ鳥や兎などの小動物を使ったものが多いのだ。

それにしても、私の風貌はこちらでは目立つのだろうか、すぐに顔を覚えられ、前を通る度に何か買っていけと声を掛けられるようになった店がメルカート内に数軒出来てしまって、最近は歩きにくいことこの上ない。何せここの店はどこも結構押しが強いのだ。青果市場の方には何か買うと必ずイタリアンパセリをおまけに付けてくれる店なんてのもある(訂正:ほぼ毎回買うので勘違いしていたが、これはカストラウーレを買ったときのみだった。一緒にしておくと長持ちしたりするのだろうか)のだが、常連客の獲得に必死なのだろう。前にも書いたが、ここはヴェネツィアの名所でありながら観光客からの収入があまり期待できない。観光客向けに、その場でホタテやエビにレモンを搾って食べられるようにしてある店もあるにはあるが、そこはいつも何となく活気がない。

ここの店の人々にはやはりヴェネツィアーノが多いのか、ここでまた一つ新しいヴェネツィア方言を覚えた。「Grazie.」というのは通常「グラツィエ」と発音するのだが、とある店のおっちゃんが「グラッシェ」と言っていたのである。その後、街中でおばあちゃんが「Graxie amore! グラッシェ、アモーレ!」と挨拶していたのも耳にした。

だいぶ前にスーパーの肉売り場で、「そのハモンセラーノをドシェントおくれ!ドシェントよドシェント!」とまくし立てているおばちゃんも見たが、「シェント」というのはおそらく「centoチェント、100」のヴェネト語での発音で、敢えて表記すれば「xento」となるのだろうか。どうも日本語でいうところのタ行がサ行に転訛するようである。同じ要領で、「ヴェネツィア」というのも実は標準イタリア語風の発音であって、ヴェネト語では「Venexiaヴェネシャ」が正しい。

ちなみに「ドシェント」の「doド」というのは「dueドゥエ、2」である。リアルトには観光地としても有名な「Do Mori」というオステリアがあるが、これはサン・マルコ広場にある「二人の鐘撞き」の像のことだ。話がややこしくなるが、「moro(単数形)」は本来モーリタニア人を指し、そこから転じてアフリカ系のイスラム教徒を指すようになった言葉である。しかし、何故彼らがここで鐘撞きとなっているのかは知らない。ヴェネツィアのすべてを知るには一年ではとても足りない。

あれこれこの街で学んだ上で、ヴェネト語の辞典に「leoneレオーネ、獅子」がヴェネト語では「lionリオン」になると書いてあったのを見て、ああやっぱり、と思ったのだが、ヴェネト語というのは何となくどれもフランス語の発音に近くなっているような気がする。同じロマンス語の系統として、ヴェネト語がフランス語に似通っていても何ら不思議はないのだが。

文化人について

家主からコンサートに招待された。イタリアといえばオペラで、ヴェネツィアといえばフェニーチェ劇場であり、そこにはそこで行く予定もあるのだけれど、今回はそうかしこまったものではない。招待された場所はそのフェニーチェのすぐ傍にあるAteneo Venetoであった。ここはここで当然のように歴史のある建物であり、ヴェネツィアの文化を語るうえで大事な場所だと家主は言う。

実はこのコンサートより前、ヴェネト語で書かれた詩の本を探しにここの図書室に入ったことがあった。ここは国が管理しているサン・マルコ広場のマルチャーナ図書館などと比べると身分のチェックが適当で、ろくに注意することも無く貴重な資料を出してきて見せてくれた。長閑なところである。

古い資料で、傷むといけないのでコピーは出来ないとのこと。スマホで写真を撮るくらいは良さそうなものだが、何にしてもそう長いものではないので、マルチャーナで手に入れた別の資料と校合しながらせっせと書き写す。図書室には事務員らしき女性が二人詰めていたのだが、夕方になると双方に電話がかかってきてそれぞれ部屋の外へ出て行ってしまった。そのまま30分ほど話しっぱなしで帰ってこない。本当に長閑なところである。

ちなみにこれはヴェネツィア料理研究に関連した探し物であり、基本的にはただの趣味である。図書館に通っているからといって、古い文献から失われたヴェネツィア料理を復活させようとか、そういう込み入ったことをしているわけでもない。ヴェネツィアのチケーティ(cicchettiという言葉の使い方については以前書いたとおりだが、注意して見ているとヴェネト語訛りのcichetiという表記もよく見かけるのでそちらに合わせる)でよく見られるバッカラ・マンテカートについて調べていたら、バッカラを愛するあまり、それを称える詩を詠んだ人が居るというので興味を持ったのだ。その名をLuigi Pletといい、彼の詠んだバッカラについてのotava(8行詩、標準イタリア語ではottava)は33にも及ぶ。どう考えても阿呆である。そしてそういう人を見つけ出しては嬉々として図書館に出かけていく私もまた同様であろう。第一歌はネット上にもよく出ているので(当然イタリア語、いやヴェネト語だが)、第二歌を訳してお目に掛ける。

    "EL BACALÀ"
       2
Esiste un manoscrito, a Liverpol,
 Portà gran ani in drio, dal Senegal,
 Che, co gh' è mezo, consultar se pol,
 E che xe tuto erudizion, nel qual,
 In modo incontrastabile, se vol,
 Co' vegnìmo a la Storia Natural,
 Ch' el pesse se xe petrificà
 Primo de tuti, fusse un bacalà.

リヴァプールの地に写本があって
セネガルの地から昔持ってきた
半分でもありゃ何でも分かる
すべての知識がその中にはある
知りたいことならすっかり分かる
まず『博物誌』を読んだらいいのさ
世界で最初の魚の化石は
バッカラだったと書いてある

ヴェネト語の説明は煩雑なので省く。苦労して訳したのに内容がまったくないところが素晴らしい。脚韻を日本語訳に取り入れるのは端から無理だとして、音の数だけでもそれらしくしようとしたためにかなり訳をいじってあること、また私は元よりヴェネト語の研究をしているわけではないので、これはいわゆる「豪傑訳」であることもお断りしておきたい。そしてその内容についてであるが、まず詩人というだけで信憑性がないのに、ルイージ・プレットはイタリア人でもあるので、二重の意味で彼の言うことは信じるに値しない。一応調べてみたが、当然『博物誌』に上記のような記述はない。もっとも、『博物誌』自体がルイージ以上に怪しい書物なので、もとよりデタラメだということを示すためのものだろう。

リヴァプールだのセネガルだのという地名もきっと脚韻を合わせるために適当なことを言っているだけである。また、何故ここで化石という言葉が出てくるのか分からない方は棒ダラを買ってきて囓ってみるとよい。

そう、ヴェネツィア料理といえば、レデントーレの時に話題にしたBigoli in salsaであるが、その後何回か見つけて頼んでみたところ、他の店ではすべて常識的な範囲の塩味で出していた。最初に食べたあの店は一体何にこだわったせいでああなったのだろう。

まあいい。ともあれ、イタリアだからといってルイージのような奇妙な人ばかりではないということは一応言っておかねばならぬ。家主に招待されたコンサートの話に戻ろう。

アテネーオ・ヴェネトのAula Magna(大講堂)へ入ると、壁と天井一面に描かれた絵が圧倒的である。どこかで見たことがあるような気がして、これは誰が描いたのかと問うてみたところ、ティントレットだということであった。ヴェネツィア派の絵画がヴェネツィアの古い建物にあることに何の不思議もないのだが、とんでもない街だとあらためて思う。

今回のコンサートのお題は「ヴェネツィア音楽の精髄 ジュリオ・ルエッタ・ファビアン」というものである。このお題はどうもジュリオの作った曲の題名にちなんでいるようだ。本当はジューリオ・ルエッタ・ファッビアンという方が原語の発音に近いのだが、ここはジュリオで通す。

Giulio Ruetta Fabbian(1925-2011)というのはヴェネツィア生まれ、ヴェネツィアのBenedetto Marcello音楽院でピアノと作曲を習ったという、生粋のヴェネツィアーノである。50年代から60年代にかけ、I Gondolieri Cantoriというグループと共に、美しくロマンティックなヴェネツィアのイメージを外国にまで広めた、という人らしい。

コンサートに先駆け、家主が司会者のような立場にあって、専門家からの話を聞くという講演会があった。当然私の語学力では十分の一も理解できなかったのであるが、ここで話をなさっていたLeopoldo Pietragnoliという方の書いたものは日本語にもなっているとかいないとか言っていたような気がする。帰ってきてから軽くネットで探してみたが今のところ見つからない。何かご存じの方はおられようか。

講演の後にはジュリオの曲のピアノ演奏があった。弾き手はフェニーチェのPrimo Maestroだったという人とその娘(こちらも当然相当な経歴の音楽家)である。そんな人たちの演奏をただで聴いてよかったのだろうか。この街の文化は一体どういうからくりで動いているのだろう。

ゴンドリエリの歌であるから、どれもドラマティックな展開があるような曲ではない。始終ラグーナのゆったりとした波に揺られているような曲調で、講演でイタリア語を詰め込まれて緊張した頭には非常に心地よいものであった。

帰ってから調べてみるとI Gondolieri CantoriのCDというのがあって、日本でも某大手通販サイトに一つだけ在庫があった。イタリアにいるのだからその辺で売っているだろうと思い、翌日リアルト橋の傍のCDショップへ行ってみるが、I Gondolieri CantoriのCDはもう流通していない、あるいはそもそも流通に乗ったものではない、というようなことを言われ、ここで手に入れることは出来なかった。

私のイタリア語の聞き取りはまだ相当に怪しいので実際のところはよく分からないが、店を出た後すぐ、日本に残った最後の流通品を注文しておく。聴くのは帰国後のこととなるが、慌てるようなものでもないだろう。

ちなみに、某大手通販サイトに出品されているものを手に入れようと思えばまだ出来ないことはないが、今のところ私の買った価格の四倍強の値が付いている。ただ、ダウンロードでも手に入るみたいなので、聴くだけならわざわざ高値でCDを買うこともないのではないか。

ゴンドリエレが歌を歌っているのはしばしば耳にするが、やはり独特の歌は知る人が少ないので受けが悪いのか、“Volare”(ビールのCMで日本でも有名)などの流行歌を歌っていることもあるという話である。ヴェネツィアに旅行してゴンドラに乗ろうとお考えの方は、予習しておいたうえでこのI Gondolieri Cantoriの曲をリクエストしてみたらきっと面白いことになるのではなかろうか。高いものなので私はもう乗らないが。

衝突のない文化について

とある日の帰り道、いつものように家の傍のRiva del Vinへ出たところで、カナル・グランデの対岸にあるCa' RoredànとCa' Farsettiの様子がいつもと違うのに気づいた。例のテロの関係だろう、イルミネーションが青・白・赤のトリコロールになっていたのである。この建物は今はお役所で、イタリアの祝日であった先日の諸聖人の日の頃には緑・白・赤のトリコローレとなっていたのだが、旗を掲げるのにもいろいろな理由があるものだ。

また18日の夜、お誘いがあってリアルトの広場で待ち合わせをしていたときのこと。リアルト橋周辺は早仕舞いする店が多いのでどこもシャッターが降りていたのだが、そこで店舗毎に張られた張り紙が目に入った。7時からサン・マルコ広場でテロの犠牲者を追悼するためキャンドルを灯す、というようなことが書いてある。せっかくなので酒が入る前に見に行ってみた。しかし人はまばらで、キャンドルの数も思っていたよりは大人しいものである。警官や消防士が何人もうろうろしているのが物々しい。

当然のこと、灯火を囲んでいる人々は一様に沈痛な面持ちであった。さすがにこれだけ距離が近いと日本人の感覚とは違うのだろうと想像はつくが、ただ、世界のどこかで紛争によって人が殺されなかった日などあるのだろうか。目につくところで人が死んだからって今さら騒ぎ立てるのは些か想像力に欠けるのではないか、と思うのだが、これは私の方にも何かが欠けているのかもしれない。

イタリアが何の躊躇もなくフランス側に立ってこの事件を解釈するのは分からないではない。しかし例えば、結婚式に集まって祝砲を撃っていたところを誤認され(お手頃とはいえ、カラシニコフで祝砲を撃つのは慣習としてどうかと思うが)、不意に精密誘導弾を撃ち込まれた人々と、今回の犠牲者とを区別する感覚は私にはない。

ということでこの話題にそれほど興味はないのだ。上の方から注意するようにとの連絡が回ってきたが、何に気をつければいいというのだろう。人が多く集まる場所には出向かない、という程度のことしか思いつかない。

少し警官の姿が増えたこと以外、この街に特に変わったことはないように思える。寒くなり、観光客向けのイベントも少なくなるこの時期は人も少なくなるので、ここぞとばかりにあちこちの道で石畳を引っぺがして工事を始めたことくらいのものか。

そんな中、11月21日には先日のサン・マルティーノに続く地元のお祭りとしてサルーテ聖堂の祭日があった。これもよく知られたものであり、検索すればいくらでも出てくるので例によって詳しい由来は省く。レデントーレと同じようにペストの終焉を願って建設を計画したというか、ペストをなんとかしてくれたら教会を寄進してやると誓ったという、その思考回路が面白い。神に対しても札束で頬をはたくような頼み方しか出来ないのがヴェネツィアのヴェネツィアたる所以である。ガイドを読むと当時の政府がこれこれの手順でいくら援助したとかいう金額も書いてあった。矢継ぎ早に追加支援を決めていったといえば聞こえはよいが、最初に出し惜しみしておきながらすぐに不安になったようにも見えるところが特にそれらしくてよい。

ともあれ、レデントーレが観光客を呼ぶ一大イベントであるのに対し、こちらは人々の健康を祈るための祝日なので、ドージェ(の代わりの市長)が教会を訪れるだとかいうこともなく、人々が教会に集うことそのものがメインである。こちらの祭日でも同じように運河に仮設橋が架けられるのだが、ジュデッカにあるレデントーレ修道院とは違い、サルーテ聖堂は普段でも歩いて行ける場所にある。ジュデッカ運河とカナル・グランデでは幅が大きく違うため、この祭日のために架けられる橋はそう大きなものではない。ちょっと拍子抜けした。

周辺の屋台では聖堂に納めるための蝋燭が売られ、あいにくの雨にもかかわらず善男善女が詰めかけていた。聖堂内へ入るとちょうどミサが始まった時間帯で、神父が説教を始めている。話し方がゆっくりで、また使われている単語も単純なものが多いので何となく意味が分かるような気もするが、完璧に理解出来るというところまでは程遠い。

内陣と訳していいのだろうか。マリアと四人のエヴァンジェリスティの像が設えられた祭壇とその裏側へ向かう人々は正面と左右の三方に別れ、順番に規制線が解かれて少しずつ通されていた。今回はこちらで知り合った日本人の教員や学生が総勢六名となって見物に繰り出していたのだが、皆でその順番待ちの列に加わって祭壇へ向かう。どういうわけか、私はここでえらく緊張した。

何度も書いているが私には信仰心がない。よってこれは神に対する畏敬の念に起因するものではなく、信心を持った人々が怖くて緊張しているのである。多くの人がいるので祭壇の左側にある説教壇は直接見えないのだが、各所にモニターが設置されていてそれが映るようになっている。列に並んだ前後の人々は神父の導きに合わせて祈りの言葉を唱和したり、賛美歌を歌ったりしていたのだが、そういう人々の間にいると、私のような者がここに混じっていてよいものだろうか、彼らの祈りの邪魔になってはいないだろうか、と考えてしまうのだ。

祭壇へ通される順番が来た途端にスマホで写真を撮りまくっている観光客らしき人もいたし、実際のところそう気にする必要はないのだと思われる。内陣を抜けると記念品を売っているところがあって、私もそこでガイドを一冊買い求めたのだが、ここで同行していた学生が「Japan?」と声を掛けられていた。彼女がそれを肯定すると、その人は手を合わせて拝むような仕草を見せ、「Arigatou.」と言う。英語の発音から察するに彼自身も観光客なのかもしれず、イタリア人が私たちのような存在をどう受け止めるのか、ということはこれだけでは分からない。しかしイタリア人がいちばんいい加減に決まっているし、結局のところ邪魔だとも何とも考えていないのだろう。

それにしても私自身がこういった風に、日本人に興味を持つ人から声を掛けられたことがないのは何故だろうか。同時に派遣されている先生の場合、一人で飲んでいたらちょくちょく声を掛けられることがある、というふうに仰っている。実際、二人で例の如くカンナレージョのカンティーナで飲んでいたときのこと、私が二杯目のワインを注文するために店内へ入り、グラスを持って外に戻ってみたら見知らぬイタリア人と話していたということもあった。

私の場合、声を掛けられたと思ったら、アカデミア橋はこっちで合っているのか、とイタリア語で聞かれていたりする。ああそうだあっちへ進め、と反射的に答えた後になって、なんでイタリア人がヴェネツィアで東洋人に道を聞くのかと疑問が湧いた。この街にも東洋系の移民がいくらか存在するので理屈に合わないことはないのだが、どうも釈然としない。私は観光客に見えないのだろうか。現実には先ほどの先生の方があらゆる意味でイタリアとヴェネツィアに馴染んでいるのだが。

それはさておいて、聖堂を出た後は近くの通りへ。ここには主に食べ物の屋台が立ち並び、縁日風の風景となっている。日本と大きく違うのは、売られている食べ物が大方甘いものだということだ。ただ、すべてを知っているわけではないけれども、ヴェネツィアの菓子は目にしなかったように思う。砂糖をまぶした巨大な揚げパンはどこのものだか分からないが、マルツァパーネ(マジパン)や円錐形のアランチーニはシチリアの方の食べ物だったはずだ。同行した先生(先ほどの方とは別)はアーモンドやクルミなどを飴がけした菓子にひかれたご様子で、お買いになったものを私もちょっと戴いたのだが、アーモンドというのはシチリアのドルチェによく見られるもので(そもそもマルツァパーネがそうだった)、そっちの方でよく栽培されているものだと読んだ覚えがある。まあ、綿飴やリンゴ飴まで売っていたし、その辺もあまり気にしないのだろう。

最近ヴェネツィア料理の勉強をしていて改めて感じたことだが、ヴェネツィア共和国は地中海全域を股に掛け、ヨーロッパのみならずアジアやアフリカなど、あらゆる地域のあらゆる物品を貿易品として取り扱っていた国である。つまりこの街には何があっても、どんな人がいてもおかしくないということだ。御陰で私も気楽にやらせてもらっているが、それで特に何の問題もなかったというか、むしろその共和国時代の方が上手くいっていたというのは本当に幸せなことではなかったかと思う。今の世界とは何が違っていたというのだろうか。

冬の到来について

SAN MARTINO
ヴェネツィアとその後背地にだけ見られるお菓子、サン・マルティーノは11月の11日、この聖人の祝祭にあたって作られます。その馬にまたがった騎兵の形はある伝説にちなんだものです。

その昔、警備の任務に当たっていた古代ローマの兵士マルティーノは、巡回の最中に半裸の乞食に出会いました。そこで彼は自分のマントを二つに裂き、それをその物乞いに与えたのです。次の夜、夢の中にイエスが現れ、彼にお礼の言葉を述べました。そして彼が再び目覚めたとき、彼のマントはすっかり元の通りになっていたのでした。

この聖人の聖遺物が同じ名前の教会に保管されていたので、この祭りはヴェネツィアにおいて特に盛んで、今でもヴェネツィアの子供たちは鍋や蓋を打ち鳴らしながら歌を歌い、代わりに小銭や駄菓子を貰いながら家や商店を巡ります。この祭りの期間中にヴェネツィアの人々は皆、サン・マルティーノという柔らかいパスタ菓子を食べるのですが、多くのマンマたちは紙の上でその形を切り抜き、子供たちと一緒に飾り付けをしながら我が家でそのお菓子を作るのです。

久しぶりに家主の本、というわけではなく、これはヴェネツィア料理の本からの引用である。多くの人が引っかかったと思うのだが、イタリア語でパスタというのは小麦粉で作ったものすべてを指す言葉である。スパゲッティ、ヴェルミチェッリ、ブカトーニ、リングィーネ、カペッリーニ、フェデリーニ、キタッラ、パッパルデッレ、ストロッツァプレーティ、ニョッキ、テスタローリ、カヴァテッリ、ガルガネッリ、トロフィエ、オレッキエッテ、フェットゥチーネ、ラザーニャ、ラヴィオリ、タリアテッレ、ファルファッレ、ペンネ、リガトーニ(以上、日本人が想定する方の「ぱすた」の種類だが、おそらくこれでもまだ十分の一にも満たない)だけではないのだ。イタリア語ではtortaケーキもbiscottoビスケットもcornettoクロワッサンもまたパスタであり、菓子屋のことはpasticceriaという。

故あって最近また料理の勉強に無駄な力が入っているのだが、新しく買った本をぱらぱらと眺めていて目に留まったのがこのサン・マルティーノである。この菓子の騎兵の形を抜くために使う、30cm四方程度の巨大なプラスチックの型が雑貨屋で売られているのはしばらく前から目にしており、一体何なのだろうかと気になっていたのだが、実はこの料理の本を買って帰るちょうどその道すがら、その型を買って帰る親子を見かけていたのであった。そしていざ分かってみると、街中のあらゆるパスティッチェリーアでこのお菓子が売られているのが目につく。値段はおおむね€20前後だが、中には€40くらいするものまである。

サン・マルティーノの祝日である11月11日の直前にこのレシピに出会ったのも奇縁である。これも聖人のお導きか、と思ったので、アルセナーレの近くにあるサン・マルティーノ教会へ足を運んでみた。例のブチントーロの模型を売っていた店のすぐ傍であり、最近の散歩コース沿いなので迷うことはない。サン・マルコ地区周辺は用事がなくてあまり近づかないため、その辺りで細い道に入ると今でもちょっと怪しいが、基本的にはもうヴェネツィアで道に迷うことはない。

この聖人の伝説については聞いたことがあったような気がする。改めて検索してみると話の細部がそれぞれに異なっているようだが、イタリアでなくとも伝説というものはそういうものなので仕方ない。

「この聖人の聖遺物が同じ名前の教会に保管されていた」というのは、過去の継続的な状態を表すイタリア語の「直説法半過去」の受動態で書かれている。また伝説の部分は、現在と関わりを持たない遠い過去を表す「直説法遠過去」という時制で書かれているのだが、日本語に訳すときにはこの違いをどう表したものだろう。ちなみにイタリア語の時制には直説法、命令法、条件法、接続法などの分類を除いても現在、近過去、半過去、大過去、遠過去、先立過去、未来、先立未来、ジェルンディオを使った進行形、とあるのでこれ以上の詳しい説明は勘弁してほしい。

ともあれ、現在はここに聖遺物がないということなのか、と考えながら教会に入り、それらしきものはないかと一巡してみるが、ちょっとまだよくわからない。なにしろ宗教施設というものは見るのに気を遣うものである。聖アントニオ聖堂のように、これでもか、と自慢するように展示されていれば分かりやすいのだが。

そういえば、サン・マルコ大聖堂の方には聖マルコの遺骸が収蔵されているということになっている。アレクサンドリアからそれを運んできた(盗んできた)ときの伝説は非常に有名なもので、大聖堂の表のアーチにもそのときの様子が描かれていたりするのだが、では現在その遺骸は大聖堂のどこにあるのか、ということに関しては聞いてはならない。私もこれ以上の説明は控えよう。

入口の傍で教会のガイドが売られていたので覗いてみると、古代のヴェネツィアの地区区分図が載っていたのですぐさま購入する。この古代の地区名は家主の本にぽつぽつ出てきていたのだが、もともと土地勘がないのでその記述だけでは今ひとつ自信が持てなかったのである。それはそうと、このガイドによるとここには聖マルティーノのチュニカ、指の骨、脛骨が収められていたとのことだが、脛骨は教会の修復代のカタにヴェネツィア内の他の教会に預けられ、聖人の祝日にだけ行列を組んでサン・マルティーノ教会へ戻ってきていたとのことである。しかしこれも大過去で書かれており、結局今はどうなっているのか分からない。

翌日から始まって一週間ほど続く祝祭の日程を記したパンフレットも置いてあったので一つ貰って帰る。と、11日には子供たちが路地を巡ってお菓子を貰うという例の百鬼夜行があるようだ。

11日の夕方になってから市中へ出てみる。あらゆるcalli(路地の複数形)に鍋の蓋と玉杓子を手にした子供たちが跳梁跋扈し、けたたましい金属音と喊声に覆い尽くされたヴェネツィア全域は阿鼻叫喚の巷と化す、というような展開を期待したいところだが、さて、高齢化の進むこの街にどれほどの子供が居るものか。

案の定、子供たちは多くても四、五人のグループで、かならずベビーカーを押した親がついていた。ほぼ日本でいう未就学児童に限られるようで、完全に大人の統制下にある。ほほえましいものではあるけれども今ひとつ物足りない。バールやオステリアでジュースやお菓子を貰ったり、タバッキでアメ玉などを貰ったりしているのは分かるが、しかし中には化粧品店を強襲しているグループもあった。ここでは一体何が貰えたのだろう。

あちこちのカッレを歩いてみるが、サン・マルコ地区のメルチェリーアといわれる辺りで値段も態度もお高くとまっている店舗を狙うグループはやはり少ないようである。数日前から冷え込んでラグーナにはずっと霧が出ているのだが、観光客の姿もまばらなスキアヴォーニには鍋の金属音も届かない。静かな岸辺から霧にかすんだジュデッカを眺めていると、この聖人の祭日は冬を知らせる合図でもある、という話を思い出した。

きちんとお歌を歌ってからご褒美を貰っているグループはほとんど目にしなかったが、リアルトに戻ってみると、商店のおばちゃんのほうが音頭を取って子供たちを歌わせているという場面を目にする。伝統というものはこうやって大人がきちんと伝えていかないといけない。

といったところで、私自身は子供たちに受け継いでもらえるような伝統を何かしら身につけているのだろうか、と考えて少々寂しい思いになった。以前、私は県単位のナショナリズムを持たない、と書いたことがあるが、郷土愛なるものを持てないことの裏返しとして、余所者であることには慣れているはずである。よってこの街でも心許ない思いをしたことはないのだが、生まれた土地に自分の拠り所を置いて頑固なまでに揺らがないイタリアの人々を見ていると、そういう人たちがなんだか羨ましいようでもある。

職人の生き様について

冬が近づき、すっかり日が暮れるのも早くなった。ora legale(直訳すると法定時刻、夏時間のこと)が終わったので時計が一時間遅くなり、例えばそれまで夕方6時が日没だったとして、それが翌日の同じ頃合になると時計は5時を指している、ということになるので、そこには人為的な原因もある。

パソコンやスマホは勝手に切り替えてくれるので、寝ている間に勝手に時刻が変わる。そしてそのまま体内時計に合わせて起きると、あれ、なぜ今日はこんなに早く目が覚めたのか、ということになる。しかし自分で買ってきて部屋に置いている安物の時計にそんな器用な切り替えはできない。

朝起きてからしばらくスマホの時計で動いていて、ふと部屋の時計をみたらその時刻だけ1時間進んだままだったりするのである。これにはちょっと肝を冷やした。切り替わるのは10月最後の日曜日と決まっているから実害は少なくて済むのだが。

また、ただでさえ低い太陽の高度がこの季節にはさらに低くなるので、昼間はやたらと眩しい。日本ではサングラスというと夏のものというイメージだが、こちらではこの季節でも掛けている人を見かける。私もずっと欲しいと思っているのだが、この人相でサングラスを掛けると冗談では済まないのでこればかりは我慢する外はない。度入りのサングラスというのはまた値が張りそうでもあるし。

空気もすっかり冷たくなったので冬用の厚手のジャケットを出してきて、春秋用の薄手のジャケットはクリーニングに出した。店は6月に話題にしたところと同じ近所の店である。

店へ行ってジャケットを見せると€6、と言われた。前回は€8払った記憶があるのでおかしいなと思い、傍にあった料金表を見るとやはり「giacca €8」と書いてある。それを指して、間違っているのではないかと言ったら、店主は、いや€6だと言い張った。

安く上がるのはありがたいが、理屈が分からないのは不安で仕方ない。そしてその不安はまた違う意味で的中するのであった。

二日後には仕上がっているとのことだったが、指定された日にはいろいろ用事があったので、夕方、あと30分程で閉店という時刻になって店へ赴く。すると私の顔を見た店主が、「ああ、あのジャケット!」と言って何やら慌てた様子である。何ごとかと思ったら、まだアイロンを掛けていなかったらしい。仕舞うものだから別に急ぐものではないし、この国の人ならそれくらいのことはあるだろうと理解しているので出直しても構わなかったのだが、ここからまたイタリア人らしいリカバリーを見せてくれた。

一瞬そのまま引き渡そうとしたのを私は見逃していないのだが、やはりプロとしての自制心が働いたらしく、決心するようにため息をついた後、ものすごいスピードでアイロン掛けを始めたのである。ちなみに作業場は店の外からでも丸見えの位置にある。

何十万もするブランド品ではないが、だからといって安いものでもない。気に入っているものなので最初はちょっと不安になったのだが、しばらく見ていると、まあ大丈夫か、という気になってきた。肝心なところではふっと速度が緩んで丁寧になるのである。やはりプロの手つきは違う。

私の母親は若い頃、洋服を作る仕事をやっていた。私が最初にアイロン掛けをやらされたのは、さて何歳のときだったか。一度仕込まれているとはいえ、長い間自分でやることはなかったのだが、私も着るものにこだわるようになってからはせっせとアイロン掛けをするようになっている。

母親は今でもなんやかやと自分で生地を買ってきては自作する。洋服だけではなく、帽子、鞄、椅子のクッション、枕カバー、終いにはトイレットペーパーのホルダーカバーまで作るので、家にはプロ仕様のごついミシン、そしてスチーム用の水のタンクが別体になっているのにそれでもやたらと重いアイロン、さらにはそれに付随する小道具が揃っている。物の価値が分かるようになってきたら、いい道具を見ると自分でも使いたくなってくるものであり、したがって私はアイロン掛け、とくにワイシャツのアイロン掛けについて語り出すとかなりうるさい。ただし、語ったところで誰も聞く耳を持たないし、人前で披露する機会のあるものでもないので、実際に語ったことはない。

そういえばこちらに持ってきているエプロン(イタリア語ではgrembiule)は、私がデザインして母親の指導の下に型紙を作り、生地については私が選定したものの、後はすべて母親に丸投げして作ってもらったものである。正面の生地は白、そして右サイドは深緑、左サイドは深紅の生地に切り替えてあり、要はイタリアの国旗を模してある。

これに食いついたのがマ氏であった。部屋に引っかけてあるこのエプロンを見て、これはイタリアで買ったのか、日本で買ったのか、と部屋に来る用事がある度に聞かれた。最初の頃は咄嗟に答えられず、もたもたしていたらすぐに話題が切り替わってしまっていたのだが、何度目のことだったか「これは私の母親が作ったのだ」と答えたところ、えらく考え込んだ表情になった。おそらく売っている場所が分かったら自分も買おうと思っていたのである。型紙は残っているはずだからもう一度作ってもらえるだろうし(ただし作っている最中に横からあれこれ口を出して細部を直してもらっているので、まったく同じ物とはならないが)、これは私が日本に帰る際、プレゼントとして置いていってもよいかもしれない。

例によって話が遠回りをしたが、店主の手つきを見ていたところ、高速でアイロンを動かしているのにジャケットの方はわずかに波打つこともない。スチームと力加減で適度にアイロンを浮かし、生地を傷めないように動かしているということだろう。背抜きのジャケットなので裏地はかなりばらつきやすいのだが、それをまとめる手つきも鮮やかであった。

そして前回も褒めたラペルの仕上げであったが、ここはハンガーに掛けて天井のレールから吊り下げた状態で裏側から手を当て、綺麗に立体的な曲線を付けながらアイロンを掛けていたのである。当然素手での作業であるし、裏側からといってもラペルという物は下へ行くほど細くなるので、素人では危なくてとても真似のできるものではない。これは想像もつかなかった。

仕事を忘れていたのはプロとしてどうかと思うが、イタリア人としては問題なかろう。そしてその技の方はというとこれは紛れもなくプロのものであった。こんな機会でもなければ一生見ることもなかっただろうし、とにかく面白かったので、仕上がったところで、Brava!と言葉を掛ける。皮肉は一切ない。ちなみにイタリア語ではこのBravoという形容詞も性と数によって変化させなければならない。ここの店主は女性である。

私の褒め言葉に、店主は決まり悪そうに頭を下げた。イタリア人にお辞儀をする習慣があるとは聞いたことがないが、こちらが日本人だと知れているからだろうか。

今回のことはいいネタになったからよしとするが、しかし現在着ている冬物のジャケットはどうしたものか。日本に帰る前に一度クリーニングに出す気でいたのだが、イタリア人の仕事というのは良くも悪くもイタリア人の仕事である。

職人技とズボラなスケジュール管理が概ねセットになっているのはどうにもならないものなのだろうか。それとも、ちゃらんぽらんに生きているから、ギリギリになって辻褄を合わせるために高度な技術が必要になるということなのだろうか。イタリアというのは本当に愉快な国である。

ステータスシンボルについて

さて例のペルメッソ受領の日のこと、まずはリアルトの桟橋でマ氏と待ち合わせ、ヴァポレットでトロンケットへ向かった。ここはヴェネツィアにあっても普通の観光客はまず行くことのない場所である。私も滞在半年にして初めて足を踏み入れた。

ここには駐車場と大型客船の船着き場しかない。つまりヴェネツィアの住民か、あるいはクルーズ船に乗ってやって来るような観光客しか用のない場所なのだ。駐車場は一時利用も可能であるが、一日目に€30弱、その後24時間毎に€21が加算されるので、この駐車場を利用することのできる人もまた普通の観光客ではない。ちなみに住人であれば€100/月だそうな。

ここで思いがけず懐かしいエンブレムを見ることになった。トロンケットの乗降場の向かいに客船CRYSTAL SERENITYが停泊していたのである。この船を運航しているクリスタル・クルーズ社はちょっと前まで日本郵船の子会社であったのだが、父親が日本郵船に勤めていた関係で、クリスタル・クルーズ社の最初の豪華客船クリスタル・ハーモニー(今は郵船クルーズが買い取って「飛鳥II」と改名)がお披露目で神戸港に寄港した際、内部の見学に行ったことがある。

あれはバブルの終わりの頃だったか。このとき確か、世界一周で千八百万円、という部屋を覗いた覚えがある。客船としてはそう大きなものではないし、おそらくもっと高い船もあるのだろうけれど、何にしても私に乗る機会があるとは今になっても思えない。それはそれとして、この会社の船に掲げられているタツノオトシゴが向かい合ったエンブレムは紋章化の具合がスマートで、その透明感のある緑色と相俟っていつ見ても優雅である。

船というのはなぜどれもこれも美しいのだろう。技術的には水や空気の抵抗を考えているうちに自然と今の形に収斂されていったということなのだろうが、あの曲線の美しさというのは人類が作ったものの中でいちばん魅惑的なのではないか。クリスタル・セレニティの場合は客船であるから船としてはどちらかというとふくよかなのであるが、客室部分に入れられた逆台形のラインによって視覚的な重たさが舳と艫に集中させられることになり、それが全体のスタイルを引き締めている。ホンダの車の無駄なキャラクターラインとはえらい違いで、考え抜かれたデザインだと感心した。思い出すだけで身震いするほどに美しい船である。

Nave, Bàrca, Góndola, Peàta, Caorlìna, Mascaréta, Bissóna, また某有名マンガでも見たことのあるGalèraガレーラと、各種の船を表す名詞の大半が女性名詞であるように、船というものが古来より女性に準えられるのも故無しとしない。日本に帰ったら船舶免許を取りに行こうかと真剣に考えている今日この頃。

ちなみにヴェネツイアの市中では稀に「NO GRANDI NAVI(大型船は出て行け!)」という横断幕や、それに類した落書きを見ることがある。大型客船がヴェネツィアに寄港する際に立てる波は殊の外強く、主に古い建物がダメージを受けるという理由でクルーズ船の寄港に反対している人たちがあるのだそうな。実際はただの僻みだと思うが。私の先遣者はこの運動について社会学的に研究していたそうで、その縁でいうとクルーズ船は敵だと言えないこともないのだが、個人的には悪であろうと何であろうと美しいものの味方である。クリスタル・セレニティに出逢ったときにそう決めた。

その後のクェストゥーラでの用事があっという間に終わったことは前回書いたが、用が済んだ後はマ氏の用事で近くのLEROY MERLINというフランス系のホームセンターに行ったり、パノラマというショッピングモールを巡ったりした。マ氏によるとパノラマはそこそこ名の知れたブランドの店ばかりが入っているのでちょっと価格帯も高めで気に入らない、とのことである。ホームセンターの近辺にあるNave de Vero(これはヴェネト語で、標準イタリア語ではdi vetroの意味だと言っていたような気がするが自信はない)の方が安くていい、とのことだった。

ヴェネツィアーニは黒を好み、総じて地味であるとは先日も書いたが、彼らは本当に始末屋である。マ氏が空軍大佐であったことについてもまた以前述べたと思うが、七十歳を超えた今も航空学校の教官をしているそうな。共同経営とはいえリアルト橋のすぐ側のパラッツォを所有していることからも金銭的に余裕があることは確実なのだが、しかし彼の車はフィアットのクロマである。実用一辺倒の飾り気のないものであった。ちなみに後席にはチャイルドシートがついている。

途中で休憩してコーヒーを飲んだ後のこと。乗り込む前に私がつらつらと車を眺めていたところ、右前のフェンダーについた傷に注目していると勘違いしたらしく、それはgenero娘婿がやったのだと言う。自分の運転が下手だと思われるのはやはりイタリア人として許せないようだ。そういえば最初に書くのを忘れていたが、彼の車は当然マニュアルシフトである。そして当然のように飛ばす。ヴェネツィアと本土とをつなぐリベルタ橋では110km/h以上のスピードを出していた。

車は娘夫婦と共用なのだという話の流れで船も持っているという話を聞いたのだが、車に関しては、六歳になる孫娘から「じいちゃんの車は何色? うちの車は灰色なんだよ。」と聞かれたことがあったそうな。いやそれはオレの車なんだ、と言い返すわけにもいかずに答えに窮した、といってマ氏は大笑いしていた。それはそうと、話に集中する度にハンドルから両手を離して手振りを交えたり、話の間ずっと低速運転を続けて後続車に迷惑をかけたりするのはやめて欲しい。久しぶりに『ヘタリア』の一場面を思い出した。ともあれ、ヴェネツィアーニが倹約家であるという以前に、今の時代に結婚して子供がいれば経済的に何かと思うようにならないこともあるだろうと、娘夫婦にも些か同情の余地はある。

最近、とある方にヴェネツィアーニの服の趣味について伺ったところ、ヴェネツィア人は服装や物(例えば時計や車やボート)でステータスを表すということはしない、ベルルスコーニみたいな派手な格好は南部の成り上がり者がするものだという意識がある、とのことだった。イタリア南北の人間性の違いや対立についてはちょくちょく聞く話ではあるが、ただ、ヴェネツィアに限って考えてみるとやはりカルネヴァーレに思いが至る。

よく言われることだが、マスケラ(マスク)を身につけてマントを身に纏い、一個の怪物となるというのは、自分の社会的なアイデンティティを消すということである。ヴェネツィアーニが年がら年中黒子のような服装をしているのはそれに通じるところがあるのではないだろうか。これもおそらく塩野氏の本に教えられた話のような気がするが、ヴェネツィアはイタリアの中でも例外的に狭い街であり、どこを歩いていてもすぐに知り合いに会う生活というのは結束の強い共同体をつくり出すのに寄与する一方、他人との距離が近すぎて時に息の詰まるものでもある。

濃密な人間関係から離れ、暫し息を抜かんとして影と化す、というとしかし綺麗事に過ぎる。社会が狭いと、ちょっと目立つものを身につけていただけであれやこれやと噂の種になるようなこともあるのではないか、と日本人としては考えてしまう。

余所者としてはいちいち舞台裏のことを詮索する必要もないのではあるが、だからといって観光客のように舞台上で役者に徹するというふうにもいかない。どこで生きていても人間というのは厄介なものである。