香気と冷気について

新鮮なハーブが手に入ったのでハーブティーを手作りしてみました。今回はtimoタイム、salviaセージ、rosmarinoローズマリーのブレンドで、これらのerbe aromatiche(ハーブ)はもちろんリアルト市場で買ったものです。お湯を注いだ瞬間からお部屋がステキな香りでいっぱいになって、とってもリラックスできます。

自分で書いておきながら寒気がする。確認しておくが、私は四十に手が届こうというオッサンである。完全に道を間違えているような気がするが、もう考えても仕方がないような気もしてきた。ともあれ何故こんなことになったのか、順を追って説明しよう。

芹男氏来訪中のとある一日、リアルト市場で仕入れた食材で料理がしたいという氏のたっての御希望で朝から市場へ繰り出した。リアルト市場は昼過ぎにはどこも閉まってしまうので、朝から買い物をして昼食を作ろうという算段で、調理を行うのはもちろん市場のすぐ傍にある私のアパルタメントである。

日本にいた頃も折に触れて二人で珍道中を繰り広げていたので、基本的にやっていることは普段と変わらない。日本であれば、芹男氏が目を輝かせてあれやこれやと買い物をするのに黙ってついて行き、荷物を持つだけで済むのだが、しかしこの地ではいいモノを扱っている店への案内やら通訳やらをしなければならない。

ところが、すべて私に任せてくれればいいものを、芹男氏はご自分でイタリア語を話そうとなさる。せっかく店の人がsfilettare(魚をおろす、市場へ通うためには重要な動詞である)して欲しいか、と訊ねてくれて私が肯定したのに、横から余計なことを言ってそのままになったりなど、私が市場に通い出した頃と同じような失敗をなぞっていったのだった。まあ、氏の腕があればちょっと手間が増えただけのことで済むのであるが。

氏も完全に暴走モードに入り、まず最初の店ではシャコ1kg、ジャコウダコ四匹、ホウボウ一尾、シタビラメ一尾、アサリ一袋。青果店の方ではインゲン一つかみ、ズッキーニ四つ、ブロッコリー二つ、ラディッキオ・トレヴィーゾ二つ、レモン二つ、カストラウーレ五つ(とそれに付随する大量のイタリアンパセリ)、ルーコラ一つかみ、オレンジ四つ。そして肉屋で馬肉のカルパッチョを200gと購入。ここまでで締めて€60程度である。しかしこれだけのものがあると、この金額が高いのか安いのか判断のしようがない。シャコがでかい上に安い、と仰って芹男氏は興奮していらしたが。

そして問題のハーブである。リアルト市場で常時ハーブを扱っている店は、私の知る限りでは三箇所ある。どちらかというと広場から遠い方、露天ではなく建物の一階に入っている店が一番よい店なのだが、今回は肉屋を出たところでその話になったので、すぐ目の前にある方の店へ行く。モノがいいかは別として、おっちゃんはいい感じであった。そこでタイム、セージ、ローズマリーを一束ずつ、と手に入れたのである。

一回の料理では使い切れなかったそれらが現在、ハーブティーとして私の手元にあるわけだ。どこの店でも€2/一束で、その単位でしか買えないので仕方ない。かなり前に買ったpeperonciniトウガラシもやはり€2で、一年程度では使い切れない量が手に入る。こういったものが枝のままテーブルの上に飾られているのをたまに見かけるので私もその真似をしてハーブを飾ってみたところ、部屋が無駄にオシャレになってしまった。もう到底男の一人暮らしの部屋には見えない。どうしてくれよう。

さて、芹男氏がこれらの食材をどのように料ったかについてであるが、これは当然、氏のブログにお任せする。氏が私のアパルタメントで好き放題やっている間、私は語学学校へ行っており、ほとんど出来上がったものしか見ていないのだ。よって私の出番は片付けのみとなった。

家事の中で私が一番最初に完璧に身に付けたのは掃除、後片付けである。以前書いたように、実家暮らしが長くて料理が後回しになった所為で自然にそうなったのだと思っていたのだが、しかしこの日、私がこのように育ったのは芹男氏を初めとする大学の先輩たちに因るところも多分にあったのではないかと考え直した。思い出してみると、大学時代はやたらと共同研究室の掃除をしていたような気がする。

パラッツォ・ドゥカーレの呪いだとはこの時点で思いもしなかったが、この日すでに芹男氏の体調は下降気味であり、私が片付けに入ったらすぐに寝入ってしまわれた。これはこれで好都合である。かなり昔のことだが、やはり昼間からあちこち駆け回った後、飲みに行くにはまだ早いから大学の研究室でちょっとコーヒーを飲んでいきたい、と芹男氏が仰ったことがあった。ところがコーヒーを飲んでいる時間より準備や後片付けの時間の方が遙かに長く、私が念入りに機材やカップを拭いている間、ずっと待ちきれない様子でいらした、ということがあったのである。もちろん気付かないふりをして完璧に片付けたが。

そんなことを振り返りながら、心置きなく私のcucinaキッチンを取り戻す作業に没頭した。都合二時間以上かかっただろうか。なにしろワンルームの部屋の流しというのは小さいもので、やたらと作業効率が悪いのである。ちなみにコンロの方は四連の大きなものが備えられており、日本人には何かバランスがおかしいようにも見えるのだが、イタリア料理というものは同時並行であれこれやらなければいけないものなのでこれはこれで正しい。イタリア人がずぼらでちゃらんぽらんだから後片付けの効率性というものをまったく考えていないわけでは断じてなく、物事の優先順位が違うだけのことである。異文化を理解するというのはそういうことだ。そういうことにしておこう。

5時には起きると仰ったがお疲れの様子なのでそのまま寝ていてもらい、7時頃にはいい頃合いだとみて近くのCaffè del Dogèでエスプレッソを飲んで目を覚ましてから、これも繰り返し御希望であったbacaro(ヴェネツィア方言で居酒屋を指す)巡りへ。ベタな観光客向けコースだったのではあるが、しかし有名店が有名店であるのにはそれなりに理由があるものだと勉強になった。ヴェネツィアのバーカロにはそれぞれに趣向を凝らしたチケーティがあるのだが、Do Moriのfondi di carciofo(カルチョーフィの太い部分を輪切りにしてブイヨンで煮込んだもの)やDo Spadeのfioli di zucca ripieni di baccalà(カボチャの花にバッカラを詰めて衣を付け、揚げたもの。この料理法はシチリアに起源があると語学学校の先生に教えられた)は確かに美味しい。

ちなみにDo Spadeにはカ・フォスカリの日本語学科で学んだという店員がいて日本語が通じる。初めてこの店に入ったとき、この方が珍妙な京都弁を使ったので面食らった覚えがあるのだが、これは絶対に京都人の仕業ではなく、大阪のおばちゃんが面白がって変なことを教えたのに違いないと睨んでいる(追記:後日御本人に伺ったところ、関西の方に留学なさっていたということではあったのだが、果たしてそれだけで「おまっとさんどした、堪忍どすえ」という語彙が身につくものだろうか。ちなみに、芹男氏と行った翌日に店の近く、というか家の近くで偶然行き交って挨拶したこともあって、この方には顔を覚えて貰えたようだ。この日は開口一番「お帰りやす」と言われた)。せっかく日本に興味を持ち、真面目に勉強してくれた人に何てことをするのだ。

さらに近くのアポナル広場のバーカロからリアルト橋を渡ってカンナレージョ、そしてミゼリコルディア運河の辺りへと三軒を巡り、すべての店で最低二杯ずつワインを飲んだ。昼食の時点で当然飲み始めているし、私は片付けの間もずっと飲んでいたので、この日は一体どれくらい飲んだのやら分からない。この街の冷気が私に味方したとはいえ、芹男氏より量をこなしたことなど初めてではないだろうか。

アックァ・アルタについて

年末年始は特別なこともなく、ただ仕事をしながら過ごしていた。大晦日にサン・マルコ広場のカウントダウンに出かけようかと考えたこともあったが、ナターレの頃に少し体調を崩していたこともあり、大事を取ったのである。カウントダウンのイベントはこの先また見る機会があるかもしれないが、リアルト橋の傍の閑静なアパルタメントの一室に佇み、一人でソアーヴェを飲みながら年越しの瞬間を迎えるということはもう無いだろう。

年が明けてからは、とある先生のお誘いでフェニーチェのコンサートに行って五嶋みどりのヴァイオリンを手の届くような距離で聴いたりなどと、相変わらずのんびりしていたのだが、しかし優雅な生活はそう長くは続かなかった。カルネヴァーレ直前のこの閑散期に、芹男氏がヴェネツィアを再訪されたのである。しかも運がいいのか悪いのか、ちょうどアックァ・アルタに当たったので面倒なことこの上なかった。

某有名海賊マンガでも知られるアックァ・アルタだが、これは満月・新月の辺りの大潮に加え、湾に海水を吹き寄せる南風、高潮を引き起こす低気圧等の諸条件が重なって起きるものだそうな。したがって、毎年決まった時期に必ず起こるというものではない。

だいたい9月くらいから心配をし始めるものだと来たばかりの頃に聞いており、シーズンになってから県のウェブサイトの予報ページを探して見たところ、やはりスマホの予報アプリがあったので使ってみた。このサイトで紹介されているアプリには二種類あって、パドヴァ大学の学生だった人たちが作ったものと、お役所の方で作ったものとがあるのだが、お役所が作ったものはサービス過剰で重たくて使いづらい。こういう傾向は世界共通なのだろうか。元となる予報データは共通であるからもちろん私はシンプルな方を使っているが、しかしこちらのアプリは場所の情報が文字でしか出ない。つまり土地勘のない人間には役に立たない代物なので、旅行者はお役所が作ったものを使うとよい。そちらでは地図の上に危険箇所が色分けして表示される。

ただ、この予報はせいぜい三日分しか出ないし、しかもその予報も5cm~10cmくらいの範囲でころころ変わる。これがどうにも中途半端である。海面すれすれのこの街にとってはその5cmが大切なのだが、やはり条件が複雑すぎてどうにもならんのだろう。

とうとう来るぞ、というときになると三時間ほど前に空襲警報のようなサイレンが街に響き、それに続いてどこからかアラーム音が聞こえてくる。二日目の夜に芹男氏と食事をしていた店で、うちのアパルタメントで聞こえるのと同じアラーム音を聞いた。すると防災無線のようなものがあるのだと思われる。

聞くところによるとこの冬はどうも外れらしく、大きなものは昨年10月、ちょうどベルギーから帰ってきた辺りに一回起こったきりであった。あの頃に前振りをしておきながらもこれまで話題とすることがなかったのはそういう訳である。して、先ほど挙げた諸条件を見て戴ければお分かりかと思うが、アックァ・アルタには雨が付き物となる。道の狭いこの街を傘を差しながら移動するのはただでさえ億劫であり、加えて足下にまで気を遣わなければならないというのはあまりにも鬱陶しい。ピークの数時間さえ外せばたいしたことにはならないので、時間に縛られない生活をしているのをいいことにこれまでは上手に避けていたのであるが、しかし滞在期間の限られる芹男氏をあちこち案内しなければならないとなると、これはちょっと追い詰められたかもしれない。

駅の近くにあるホテルまで芹男氏を迎えに行かなければならなかった朝のこと。7時くらいに例のサイレンとアラームが鳴り、家を出るかという時間になってから窓の外を見てみると、隣のPalazzo Dieci Saviの通路が水を湛えていた。文字通りに最高潮の時間だったのだが、実のところ、ヴェネツィアに住んでいるのに私はまだ長靴を買っていなかったりする。部屋には先住民が置いていった長靴があるのだが、しかし他人の履いた靴というのは余程のことがない限り履きたくない。

ヴェネツィアーニならば当然長靴を持っており、予報とアラームで事前にアックァ・アルタが起こるのを知って長靴で出勤する。長靴といえば、最初のアックァ・アルタの日、シルバーのスーツにえらくスタイリッシュな茶色の長靴を履いた、まるで植民地の探検に出かけたイギリス人のような紳士を見かけたが、これはきっとお金持ちの旅行客であろう。完全に街から浮いていた。

こういう日にはゴム底とビニールで出来た派手な色の簡易長靴があちこちの店頭に出るので、一般の観光客の場合はそれを買い、靴の外から装着して歩くことになる。同じものであっても値段は場所によって€5~10程度と開きがあるが、必要になったらその場で買うほかないので、いちいち値段を気にしている余裕はないだろう。

私はヴェネツィアーノではないので出来ることなら今さら長靴は買いたくないし、観光客でもないので不細工な簡易長靴を履きたくもない。ヴェネツィアの地理に詳しいのと時間に余裕があるというマージナルな特性を武器に、残り二ヶ月間、最後まで避けて通るつもりである。

ともあれ、予報通りの潮位であれば何とかなるはずだが、と思いながら部屋を出ると、アパルタメントの前の広場までは水が来ていない。ちなみにそこから数歩進んだcampo S. Giácomo di Rialto、いわゆるリアルト広場は池と化していた。こうやってほんの数センチの高低差で変わってしまうものであり、アプリを見たり何度か現場に遭遇したりするうちに各所の危険度もある程度把握できているので、行けるだろうと思っていつもの靴のまま家を出て駅へ向かう。私がいつも通る近道はやはりあちこちで水に浸かっていたので、結局一番メインとなっている道を選び、ローマ広場から回り込んで駅前まで到着。

最初の目的地であるフラーリ聖堂の辺りに問題が無いのはこの道すがらに確認しており、そこを見ているうちにピークも過ぎるだろうと思っていたのだが、次の目的地であるアッカデミアへ行こうとしたところ、バルナバ広場の南でまた道を阻まれた。今回のアックァ・アルタはなかなか強敵である。

芹男氏は突っ切っていきたい様子であったが、ヴェネツィアを観光するのにがっついてはいけない。この日は遠回りした御陰で午後二時までの開館時間を逃し、後日に回すこととなったが、わずか四日間程の滞在期間、それもアックァ・アルタの起こる期間にあれもこれもと詰め込み、いい飲食店が片っ端からferie(長期休暇)を取っているという悪条件の中で最終的にほぼ辻褄を合わせたのは優秀なガイドがあってこそである。例えば今回、サン・マルコ広場にはほぼ毎日のように行ったのだが、その場で最も効率的な道を選びつつも毎回違った道を通って行き、また違った道を通って帰るという離れ業までこなしたのだ。少しくらいこちらのこだわりを通してもよかろう。

一般の観光客なら必ず道に迷って時間を失い、この街のことを知らずに立てた計画ならば三分の一も達成できないに違いない。しかしヴェネツィアで道に迷うというのは必然でありながらも大事な経験の一つだったりする。

さて、アッカデミアを措いて向かったのはPalazzo Ducale、ドージェ宮である。人混みと行列が嫌いな私はこれまで中に入ることがなかったのだが、何しろ今は閑散期なので貸し切りのような状態であった。広大な部屋の数々と膨大な絵画に圧倒され、改めてヴェネツィア共和国の度外れた国力を思い知り、それでありながらも引き締まった造作にこの国を千年続かせた堅い節制を見て取る。とにかくどの部屋にいても名状し難い重圧を感じた。国としては200年以上も前に潰され、ドージェや十人委員会の人々の姿もすでに無くなって久しいというのに、この建物は明らかにまだ生きている。

Ponte dei Sospiriため息橋の内部を通って監獄へ向かう。パラッツォ・ドゥカーレの方だけでも十分怖いのだが、こちらもまた当然のように怖い。見物客が耐え切れなくなるのを見越したのか、所々で見学コースをショートカットして戻れるようになっているほどである。窓の極端に少ない堅牢な石造りの監獄の中にはアックァ・アルタと雨のせいでじめじめとした寒さが這いまつわっており、こんなところに入れられたら数ヶ月も持たないのではないかと感じるような厭わしい空気だったのだが、しかし芹男氏と私は嬉々として端から端までじっくりと見て回り、どん底の部屋にあった囚人達の落書きの解説を見てはケタケタ笑っていたのだった。この後、最終日に向けて芹男氏はどんどん体調を崩していったのだけれども、それはここの空気が体に障った所為ではないかと思う。それともこの場所で何かに取り憑かれたのだろうか。

ナターレについて

イタリア語ではクリスマスのことをNataleという。この日の挨拶はメリー・クリスマスではなく、Buon Natale!というのであるが、街には英語のクリスマスソングも流れているし、店頭に英語でMerry Xmasと書いてあるところも多いので特にこだわりはないらしい。いかにも観光都市らしいユルさである。ちなみにサンタクロースのことはBabbo Nataleといい、これは「クリスマスおやじ」という程度の意味である。聖ニコラウスはあまり意識されていない様子だ。

この時期にはパスティッチェリーアに限らずスーパーにまで、パンドーロというサッカーボールくらいの大きさのケーキが山積みにされているのだが、これはヴェネツィアではなくヴェローナのお菓子だそうな。同じヴェネト州の都市とはいえ、普段はその間でも何かと食材や料理の違いをアピールするのがイタリア人なのだが、適当なものが無いときは都合良くスルーしてもいいらしい。ちなみにミラノのお菓子であるパネットーネもまた山積みで売っている。パンドーロより幾らか取り扱い量は少ないが。

忙しくてあまり気にしている余裕はなかったのであるが、12月に入ってからのヴェネツィアは御多分に洩れず、着々とナターレの色に染まっていった。日毎に通りや広場にイルミネーションが増えていくのは観察していたが、一番いいのはこれを橋の上から眺めてみることである。少し高いところから見ると、様々な色が運河の水面に映えて殊更に美しい。

スーパーの店員がサンタの帽子をかぶり、機嫌良くクリスマスソングを歌いながら商品を陳列しているのを見ながら、何もかも日本と一緒だな、と考えてしまい、いやその考え方はおかしい、と思い直る。

しかしここで、キリスト教国でもない日本が何故大々的にクリスマスを祝うのか、などという話をしたいのではない。そもそも教会がこの日をイエス・キリスト生誕の日としたこと自体がかなりいい加減な話だったのではないか。だいたいこの時期に祭りといえばどう考えたって冬至の祭りであり、暦の発達でちょっとずつずれていったのではないかとも思われるが、要するにこれは新年のお祝いである。

太陽神が主神であるという宗教はキリスト教以前の土着宗教の時代からいくらでもあるが、冬至というのは太陽の勢力が回復へ転じたことを祝う日であり、「復活」というイメージもちょうどよかったりしたので適当に習合したのだろう。この日が降誕祭になったのはイエスの死後数百年が経ってからだったはずで、結局のところ本当の誕生日がはっきりと分からなかったのでお座なりに定めたのに決まっているではないか。元々がそういう話なのだから、日本人の浮かれ様にもいちいち目くじらを立てるには及ばない。

Vaticanoを擁するイタリアという国であれこれ見聞しながら感じるのは、国にしても宗教にしても人にしても、とにかく都合がよすぎることである。矛盾や突っ込みどころはいくらでもあるのだが、それは言うだけ野暮なことだ。人や組織や歴史は間違いや矛盾を抱えているものなのだ、というのが前提である。文句を言ったところで、何を今更、と怪訝な顔をされるだけであろう。これまで様々な例を示してきたが、その場しのぎの積み重ねで何もかも上手くいくのがこの国の不思議なところである。

ともあれ、普段でも十分に芝居がかっているこの街は、この時期さらにロマンティックな粧いを増す。しかしヨーロッパの人々はこの時期は穏やかに過ごすものらしく、街には観光客より地元の人間の方が目立つ。珍しく団体客を見かけたと思ったらそれは韓国人である。相対的に中国人が減ったような気もするが、彼らは春節になったらまた大挙してやってくるのだろう。

街を歩いていると、人気の少ない路地へ入ったところでカップルが徐に抱き合ってキスを始める、などというのはこの時期に限らずこちらでは日常の風景である。この街でロマンに浸ってくれているのは仮寓する私の身としても歓迎すべきことではあるのだが、しかし後ろを歩いている人間としてはちょっと困る。

狭い路地で二人して抱き合っていられると横を通り抜けることもできない。数歩後ろに私がいることに気づかないのは、彼らがお互いのことしか見えていないバカップルだからではなく、私が意味もなく足音や荷物が擦れる音を消しながら歩いているためでもあるので、こちらにも幾分かの責任はある。ここへきて咳払いでもして邪魔するわけにもいかないし、引き返すわけにもいかないし、仕方がないので一通り事が済むまでただ眺めているしかない。私はただ、狭い道であちこち目移りしながらちんたら歩いている邪魔な観光客を避けたいがために裏道を通っているのに、何故ちょくちょくこんな気苦労をせねばならんのか。

ロマン溢れる街に住んでいるとはいえ、私自身の生活はそれとは無縁である。かなり前、「故国を遠く離れて留学しているからといって、この国で夏目漱石を気取るような真似はどうやったって無理だ」と書いたことがあるが、では森鴎外の真似だったらできるかといえば、それもまた私には無理な話だ。そろそろ帰国が視野に入ってきたのだが、その後の生活手段の見通しが立たない身ではそれどころではない。

こちらへ来てから弱点であった料理を中心として飛躍的に女子力が高まっているということもあり、一人で生きていても特に問題はないと言えばない。あとはこの時期、編み物さえ出来るようになればもう向かうところに敵はないのではないかと思う。何と戦っているのか自分でもさっぱり理解できないが、ブラーノへ行ってレースの編み方でも身につけてこようかと考える昨今である。

書きながら思い出したが、そういえば一度母親に編み物を習ったことがあった。自分から興味を持ったのか、母親が教えようとしたのか。いったい私はどういう教育方針で育てられたのだろう。

こうして例の如く意味のない思索に耽るvigilia di Nataleクリスマスイヴの夕方のこと、どういうわけか部屋の呼び鈴が鳴った。Babbo Nataleが来るにはまだ時間が早いし、そもそもオートロックであるパラッツォの入り口を無視し、いきなり私の部屋の呼び鈴を鳴らせる人物など一人しかいない。ドアを開けてみると、果たしてマ氏であった。年格好はバッボ・ナターレに似付かわしいと言えなくもないが。

聞くと、この時期もずっとヴェネツィアに留まっているのか、と。ずっといると答えると、マ氏が所有する隣の部屋に親戚が泊まりに来るのだが、今は部屋の暖房をマニュアルモードで低い温度にしてある、だから彼らが寒いと言ってきたら通常のモードに直してやってくれないか、とのことだった。店子の使い方に遠慮のない家主である。しかも直接の家主ではないのに。

とうに時期を迎えていながらもこれまで話題とすることがなかったが、イタリアのriscaldamento暖房装置は、日本でもたまに見かけるオイルヒーターのような器具に温水を循環させることによって熱を供給するものである。石造りの建物は一度冷やすと温め直すのが大変なので基本的にはどこでも付けっぱなしで、まず18度以下に下げることはない。

そして私の住むパラッツォは設備が比較的新しいので、曜日と時間帯ごとに細かい設定をしておけばサーモスタットが働いて温度を調整してくれるようになっている。朝になったら少し温度を上げて、仕事に出る時間帯になったら止める、その間も下限に設定した18度を下回ったらまたちょっと動かす、という具合である。とは言っても結局はただ付けるか消すかだけの単純なものであり、構造上、動き出してから部屋が暖まるまでにかなり時間差があるものなので、その辺を織り込んで設定してやる必要がある。

ちなみに私の部屋へ温水を供給するcaldaiaボイラーは例のマ氏の部屋側にあって共用となっているらしく、実はこれまでに三回、それが止まってお湯が出なくなったことがある。暖房が動かないだけではなく、シャワーのお湯も出ない。シャワーに入っていると次第にお湯がぬるくなっていくのでそれと分かるのだが、とりあえずその日はボイラー内に残ったお湯で何とかしのげる。翌朝台所でお湯が出ないのを確認してから連絡し、スイッチを入れに来てもらう、ということを繰り返し、三回目のときにはマ氏が業者と共にやってきて隣の部屋でなにやら大がかりな修理作業が行われた結果、今のところ再発はない。

それはそれとして、問題はその暖房装置のコントロールパネルの使い方を家主であるマ氏自身がちゃんと理解していないということだ。最初に暖房の付け方を教えに来てくれたときにそれが判明したので、仕方なく私自身で説明書を読み込んで設定方法を身に付けた。

その後、街で偶然会ったときにそのことを報告したら、それは私にとってもありがたいことだ、と言われて今に至る。マ氏の部屋は店子が入っていない間は別荘代わりにちょくちょく知り合いらしき客が泊まりに来るのだが、その度に、何曜日の何時に客が来るから温度はこれくらいで、などと細かい設定をやらされるのである。

マ氏は戦闘機乗りで大学の講師、しかも理系、という人物である。何度も目の前でやって見せているのだし、マニュアルモードに切り替えが出来たというのだから、今はもうすべての操作法を理解しているのではないかと思うのではあるが、先に述べたようにイタリア人の矛盾を突くのは野暮というものである。今回は単純にこちらへ来るのが面倒だから甘えたいだけなのだろう。

そうこうするうちに午前0時を回り、25日を迎えたところで街の教会の鐘が盛大に鳴り始めた。この街での生活も残り三ヶ月を切ったが、しかし春はまだ遠いようである。

ムラーノ島での暴走について

暴走というのは際限がないから暴走というので、例のヴェネツィア料理の食事会でアペリティーヴォを出すためのフルートグラスはvetro di Murano、いわゆるヴェネツィアングラスのものを用意した。そのためにムラーノ島まで行ってきたのだが、これもまた一仕事だったのである。

それにしてもヴェネツィアングラスというのは不思議な言葉だ。「ヴェネツィア」の形容詞はイタリア語ではvenezianoヴェネツィアーノ、英語ではvenetianヴェニーシャンとなるのだが、そのどちらでもないというか、絶妙に混ざっている。日本の外来語がいかに適当であるかがよく分かる言葉で、イタリア人のことだけを馬鹿にすることはできないな、とごくわずかに反省した。ちなみに街中での英語表記はMurano glassである。

本島内にもガラスの店はいくらでもあり、毎日街中で店先のガラスを見比べているから、店の構えと価格帯を見れば本物と偽物の違いはもう何となく区別できるような気もするのだが、やはり本物はそれなりの値段がするものである。分かりやすく公認のシールが張ってあるものもあって、そういうものを取り扱っている店で金を惜しまずに買えばとりあえず安心なのだが、ただの観光客と違って時間があるのをいいことにあちこちの店を見て回った。

ムラーノへ渡ると、ヴァポレットの乗降場のすぐ近くにあったCAM VETRI D'ARTE srlという店が目を引いた。ショーウィンドウからもお高い感じがこれでもかというくらいに伝わってくる店なので一瞬躊躇したが、ちょうど良さそうなフルートが見えたのでとりあえず入ってみることとする。しばらく眺めていると高そうなジャケットを着た店員が声を掛けてきて、何を探しているのか、と尋ねられる。

この店で面白いのは、店の奥のあちこちにそれぞれテーマの違う部屋があり、客が探しているものに応じてそこを一つ一つ案内しながら品物を見せてくれることである。ヴェネツィアという街では古い建物の構造を大きく変えずに使うことを強いられるために大変不思議なレイアウトをとっている店が多いのではあるが、その副産物として、奥へと通されると何も買わずに店を出るというのが非常にやりにくくなるのが困りものである。しかしそれも一つの狙いなのだろう。

長い廊下を歩いて階段を上って次の部屋へ向かう間、どこから来たのかと英語で問われ、そこで当然日本だと答えたわけだが、JapanではなくGiapponeと答えたために、イタリア語が話せるのか、と聞き返された。少しは話せると返したら、そこからは容赦なくイタリア語での説明が始まる。要点を外すことは少なくなったものの、それでも半分くらいしか分からないのだが。

雑談の間、ここへはプリニウスの研究に来ているのだと話したところ、この店員はプリニウスのことを全く知らなかった。こちらからいくつか教えてやったくらいのものである。まあ、澁澤龍彦の名前を知っている日本人も決して多くはないだろうし、そういうものなのだろうが。

品物はもちろんどれも素晴らしく、本島にある小さな店では見られないような一点物もたくさんあって、こちらとしても目が肥えたので大変にありがたいことではあったのだが、お手頃なフルート六脚が値引き後でも€400だという。しかし私はそこで何の躊躇いもなく買い物が出来る程に裕福ではない。ちょっと島を一巡りして考えます、とかなんとか言い訳をしつつ、どうにか店を出てからあちこち歩くが、やはりなかなかこれといったものはない。先の店を出てから橋を渡って右に進んですぐ、博物館方面に行く途中にはピンク色が主体のグラスばかりを飾っている工房系の店があってここの品物も気にはなったが、やはりそれなりのお値段がした。この店の名前は覚えておきたいので、また近いうちにムラーノへ渡ることとなろう。

その後、もう少し目を慣らしておこうと思ってガラス博物館に入ってみた。何というか、職人的な技術というのは突き詰めていくと必ず遊びの領域に入るものなのだな、と感じさせるようなものが多く、大変勉強になる場所である。ヴェネツィア共和国の終焉に近づくにつれてそういう退廃的な作品が多くなるというところが型通りで面白い。そして現代作家の作品が迷走と暴走の狭間にあるのもまた例の如しである。

それにしても、完全に実用性を無視し、ガラスという素材の限界へと果敢に挑戦した細工の数々については清々しいという他に形容詞が見当たらない。ヴェネツィアのその辺のpalazzoにぶら下がっているシャンデリアも大概ふざけたものではあるが、ここに展示されているものはそれも通り越してもう訳が分からないレベルに達している。手仕事の延長にこういうものが出てくるのが芸術の本質ではないのか、とはビエンナーレを見に行ったときにちょっと書いたが、こういう仕事が出来るからイタリア人は油断ならないのだ。ヴェネツィアに観光にいらしたならばここは一回見ておくべきだろう。

博物館を出た後、いかにも地元の直売店ふうに、一点物の芸術系の品と実用系の品が雑多にラインナップされているという微妙な構えの店があったので入ってみる。店主らしきじいちゃんが近づいてきたのでフルートを探していると伝えると、六脚セットのものを見せてくれた。

このグラスには内側に螺旋状の模様が付けてあり、液体を入れるとそれが消えたように見えるという細工があった。じいちゃんが得意気に水を入れて実演してくれたのだが、実はこれについては一軒目の店ですでに見せてもらっていたりする。さらにいうとこれは私のアパルタメントにある安物のグラスにも応用されており、どうもイタリアでは定番の細工のようだ。グラスを打ち鳴らして音を聴かせてくれるのもこれまた定番の営業手法であり、この島のグラスは独特の配合でガラスに金属が混ぜられているのだとかで、普通のガラスとは色や音が明らかに違う。慣れた人ならそれで本物と偽物とが区別できるようになるのかもしれない。

またそのせいでムラーノのグラスは強度が高いのだろう、打ち鳴らすにしても持ち運ぶにしても店の人間のガラスの取り扱い方がかなりぞんざいである。ガラスをよく知っていて慣れているからだと考えることもできるが、偽物だから取り扱いが雑になっているようにも見えるところが素人には難しい。

ともあれ、例の螺旋状の細工に加えてグラスの縁に施されたプラチナの線、そして打ち鳴らした音が一軒目の店で見たものと同じようなグラスを一式見つける。一軒目のものと違ってプラチナの細工がちと大人しいが、カクテルが主体だと考えればこれくらいで十分だとも考えられよう。大きさや細工が多少不揃いなのは、これらが基本的に手作りであるのと、ある程度実用的な中間価格帯の品はやはり中級クラスの職人が手がけるためであるので、これによって本物だとか偽物だとか言うことはできない。いや、偽物の方が割り切ってコスト削減のために機械化しており、むしろそちらの方がきっちり揃っているという可能性だってある。

しかし面白いのは、€590という値札である。一軒目のものより多少品が劣るのにこの値段はないなと思って見ていたところ、じいちゃんはいきなり€290まで値を下げた。怪しいことこの上ないが、こちらの商習慣というものが分からないので何ともいえない。一日歩き回ってあれこれ学習した目には買ってもいい品物だと映ったが、この値付けについてはどう解釈したものかと考えあぐねてその電卓の数字をしばらく眺めていたところ、じいちゃんはさらに、現金なら€250でいい、と言う。税金対策か。レシートもくれなかったし。

ともあれ、リアルトの近くの店だとこれより少し小さなフルートグラスが一式で€190であり、値段としては妥当な線なのでここで手を打つこととした。ちなみに、現金で直接持ち帰りなら値引きするという店は他にもたくさんある。本島の方ではそういう店は見ないし、やはり品揃えが違うので、ガラスを買うなら多少無理をしてでもムラーノへ渡ることをお勧めしたい。本島の店の人は、ムラーノで買うと割高だ、とは言うが、ムラーノのグラスをムラーノ島で買ったという物語が大事なのであって、そこに価値を見出せるなら悪い値段ではなかろう。しかし、これをあらためて日本へ持ち帰るにはどうすればよいのだろうか。

リアルト市場での暴走について

市場で事件があったとかいう話ではないので勘違いしないで戴きたい。暴走したのは私である。

縁あってこちらで知り合いとなった日本人の先生方には普段からいろいろとお世話になっており、また、イベントがあると一緒になって繰り出したりするということについてはこれまでにも何度か書いている。

その交流のシンボルとなっているイベントに、「うち飲み」と題された食事会がある。字面のままのイベントで、ヴェネツィアで外食すると高くつくので(と言いながらちょくちょく行ってはいるが)それぞれの先生方のお宅へ集まってひたすら酒を飲もうというものであり、これまで、第一回「ヴェネツィアの食材で作る和食」、第二回「オーガニックピッツァ」、第三回「大阪・名古屋の居酒屋」というテーマで行われてきた。

最近ヴェネツィア料理の勉強に無駄な力が入っているとは先日も書いたが、それはこの食事会に関したものだったのである。上から順に降りてきて、第四回の企画・製作が私に託されたのであった。私のアパルタメントにはそんなに人が入らないので、会場はまた別の先生のお宅をお借りするという寸法である。

日本での私を知る人の中には驚いた方もあるのではないか。何しろ実家暮らしということもあって、私は数年前までまったく料理ができなかったのである。ここでの自炊のためにイタリア料理の勉強をしていたことをすでにご存じの方々もあり、日本を発つ前に堺の包丁(例のTagliazucca)を贈って戴いたということはあるが、しかし学生時代には考えられないことではなかったか。

もう十年近くも前、大学の研究室で鍋が行われた際のこと。買い出し等では私もテキパキ動いていたのだが、調理が始まったらもう何も出来ないので、ただじっと座っていることしかできなかった。それを見た後輩に「何もしない空男さんを初めて見た」と言われたくらいである。「何も出来ない」と言わなかったのがこの後輩の優しさであるが、それはそれとして、これまで役に立たない能力は山ほど身につけてきたというのに、料理だけはすっぽり抜け落ちていたのだった。しかし、日本でこちらに来る準備をしていた一年の間にはもう、ピッツァを生地から作ったり、ニョッキを作ったりなどとしていたのだから、人間幾つになっても変わろうと思えば変わるものである。

これまでの「うち飲み」担当の先生はそれぞれご自分の得意分野で料理をなさっており、上述のように日本を思わせるテーマも見られるのだが、私は今書いたとおり、ここでの自炊のために料理を学び始めたのでイタリア料理しか出来ない。真正面から突っ込むしかなかろうということで、第四回のテーマは「La cucina vaneziana」とした。芹男氏がお聞きになったら、悪い冗談だ、と仰ることであろう。

冗談は本気でやれ、というのが私の人生のモットーである。逆にいうと、ふざけたことにしか力が入らないということになるが、私の人生が失敗続きであるのはこの辺に原因があるのかも知れない。ともあれ、イタリア語の勉強と称してこれまで読み漁った料理の本の中から、ヴェネツィアの歴史や文化にかかわる蘊蓄がある料理ばかりを選び出してメニューを構成し、料理毎にいちいち解説を加えるという鬱陶しい食事会を企画した。資料はイタリア語と日本語の対訳としたので、最終的にA4で14ページに上る。我ながらよくやったものだと思う。ちなみに、当日のリアルト市場での仕入れの都合や、他のメニューとのバランスの問題からボツとなったメニューがこれとは別に5ページ分ある。メニューは以下のようなものとなった。

APERITIVO
 Mimosa
 オレンジとプロセッコのカクテル。ヴェネツィアのカクテルといえばBelliniであるが、これは夏のカクテルで、実はRossini(春、イチゴ)Bellini(夏、白桃)Tiziano(秋、アメリカブドウ)Mimosa(冬、オレンジ)と、季節に応じたカクテルがそれぞれにある。作り方はすべて、砂糖で味を調整した果汁三分の一にプロセッコ三分の二をゆっくり注ぐだけ。

ANTIPASTI
 Bacalà mantecato
 バッカラのクロスティーニ
 Capesante ai feri
 マリネしたホタテ貝に薄切りのパンチェッタを巻き、セージの葉と交互に串に通してグリルしたもの。カペ・サンテというのはサン・ジャコモ(聖ヤコブ)貝のヴェネツィアにおける呼び名。
 ...ed altri cicheti
 その他いろいろ

PRIMI
 Risi e bisi
 エンドウ豆のリゾットというか、リゾットにしては汁気が多いので、これがリゾットなのかミネストローネなのかということについては議論があるようだ。そういうことを真剣に論じることの出来る人たちを羨ましく思う。4月25日の聖マルコの祭日には、この料理がドージェの食卓に供されるというのがヴェネツィア共和国での慣習であった。本来は春の季節の料理であるが、ヴェネツィアのスーパーには季節を問わず、どんな小さい店にも必ず冷凍のエンドウ豆が置いてある。それほどに人気のある料理なのだろう。
 Spaghetti alla busara
 スカンピのスパゲッティ

SECONDI
 Garusoli lessi
 アクキ貝の塩茹で。この貝から採れる赤紫色の染料は貴重なもので、テュロスで作られていたこの紫染料を取り扱うことでヴェネツィアは大もうけしていた。洋の東西を問わず紫色というのは権力と経済力を誇示するものであったわけで、もちろんヴェネツィア共和国の旗はこの染料で染められていたのである。今回出せなかったMoeche fritteもそうだが、この料理はアンティパストとして出されることもある。
 Filetti di San Pietro con zucchini
 マトウダイのバター焼き。サン・ピエトロは使徒ペテロのこと。
 (Sgroppino)
 レモンジェラートに生クリームとプロセッコとウォッカを混ぜたもの。今では食後のドルチェとされているが、本来はヴェネツィア貴族の食卓において、魚料理と肉料理の間の口直しとして考案されたと伝わる。その本来の形式で出してみた。
 Carpaccio di cavallo
 馬肉のカルパッチョ、ヴェネツィア風。有名な話だが、カルパッチョはヴェネツィアのハリーズ・バーという店で考案された料理である。何故牛肉ではなくて馬肉なのかは後述。
 Coniglio con carciofi
 兎肉とカルチョーフィの煮込み、レモン風味。この辺の特産だというカストラウーレという名の小さくて柔らかいカルチョーフィを使用。

CONTORNO
 Verze sofegae
 サボイキャベツ。時間と調理器具のやり繰りの都合で実際には出せず。人の家で料理をするというのは難しいものである。

DOLCE
 Tiramisù
 ティラミス。これは私の手によるものではなく、メンバーの中のとある学生に作ってきてもらった。このドルチェについては来たばかりの頃に一度書いたことがある。

これだけ見せられても何のことやら今ひとつ分からないだろうが、詳しく解説をしていたらいくら紙幅があっても足りないので省略。興味のある方がもしいらしたら資料をお送りする。資料にはすべてレシピを付してある。

それにしても、ヴェネツィアまでやって来て兎を解体することになろうとは夢にも思わなかった。スーパーでは切り分けたものをパックにして売っているが、それでは面白くないので、リアルトの肉屋で丸ごとそのまんまの姿で売っているものを自分で捌いたのである。一回目の練習ではやはり上手く出来ず、その後YouTubeで兎の解体動画を繰り返し見て勉強したところ、二回目にはそこそこの形になった。こういうものは体の構造を立体的に把握出来てからでないと上手くいかない。

ヴェネツィアはそもそも大きな動物の肉が手に入らない島であった。ヴェネト州全体を見ればアルプスに近いところでサラミやプロシュット(ハム)を作っていたりするのだが、しかしイタリア人に聞いたところ、ヴェネト州で肉といえば基本的には馬肉なのだということである。実際リアルト市場にはショーウィンドウに馬の絵が描かれた馬肉専門店があり、今回のカルパッチョはそこで仕入れた。そうは言っても結局のところ馬というのは後背地のものであり、これも基本的にはサラミにするものだそうな。というわけでこの島には大型家畜、つまり牛肉や豚肉を使った郷土料理というのがなかなかない。ここのリストランテでメニューに載っている肉料理は大概ミラネーゼとかフィオレンティーナである。

ヴェネツィア料理といっても、昔ながらの郷土料理と、ハリーズ・バー風の都会的料理の二つの流れがあって、例えばヴェネツィアの肉料理といえば牛肉のカルパッチョが最も有名ではあるものの(あとはfegatoレバーくらいか)、これは当然後者である。古くから伝わるというヴェネツィアの肉料理では、ラグーナ周辺で捕まえたり、この狭い島々でも家禽とすることの出来たカモ、アヒル、ホロホロ鳥や兎などの小動物を使ったものが多いのだ。

それにしても、私の風貌はこちらでは目立つのだろうか、すぐに顔を覚えられ、前を通る度に何か買っていけと声を掛けられるようになった店がメルカート内に数軒出来てしまって、最近は歩きにくいことこの上ない。何せここの店はどこも結構押しが強いのだ。青果市場の方には何か買うと必ずイタリアンパセリをおまけに付けてくれる店なんてのもある(訂正:ほぼ毎回買うので勘違いしていたが、これはカストラウーレを買ったときのみだった。一緒にしておくと長持ちしたりするのだろうか)のだが、常連客の獲得に必死なのだろう。前にも書いたが、ここはヴェネツィアの名所でありながら観光客からの収入があまり期待できない。観光客向けに、その場でホタテやエビにレモンを搾って食べられるようにしてある店もあるにはあるが、そこはいつも何となく活気がない。

ここの店の人々にはやはりヴェネツィアーノが多いのか、ここでまた一つ新しいヴェネツィア方言を覚えた。「Grazie.」というのは通常「グラツィエ」と発音するのだが、とある店のおっちゃんが「グラッシェ」と言っていたのである。その後、街中でおばあちゃんが「Graxie amore! グラッシェ、アモーレ!」と挨拶していたのも耳にした。

だいぶ前にスーパーの肉売り場で、「そのハモンセラーノをドシェントおくれ!ドシェントよドシェント!」とまくし立てているおばちゃんも見たが、「シェント」というのはおそらく「centoチェント、100」のヴェネト語での発音で、敢えて表記すれば「xento」となるのだろうか。どうも日本語でいうところのタ行がサ行に転訛するようである。同じ要領で、「ヴェネツィア」というのも実は標準イタリア語風の発音であって、ヴェネト語では「Venexiaヴェネシャ」が正しい。

ちなみに「ドシェント」の「doド」というのは「dueドゥエ、2」である。リアルトには観光地としても有名な「Do Mori」というオステリアがあるが、これはサン・マルコ広場にある「二人の鐘撞き」の像のことだ。話がややこしくなるが、「moro(単数形)」は本来モーリタニア人を指し、そこから転じてアフリカ系のイスラム教徒を指すようになった言葉である。しかし、何故彼らがここで鐘撞きとなっているのかは知らない。ヴェネツィアのすべてを知るには一年ではとても足りない。

あれこれこの街で学んだ上で、ヴェネト語の辞典に「leoneレオーネ、獅子」がヴェネト語では「lionリオン」になると書いてあったのを見て、ああやっぱり、と思ったのだが、ヴェネト語というのは何となくどれもフランス語の発音に近くなっているような気がする。同じロマンス語の系統として、ヴェネト語がフランス語に似通っていても何ら不思議はないのだが。

文化人について

家主からコンサートに招待された。イタリアといえばオペラで、ヴェネツィアといえばフェニーチェ劇場であり、そこにはそこで行く予定もあるのだけれど、今回はそうかしこまったものではない。招待された場所はそのフェニーチェのすぐ傍にあるAteneo Venetoであった。ここはここで当然のように歴史のある建物であり、ヴェネツィアの文化を語るうえで大事な場所だと家主は言う。

実はこのコンサートより前、ヴェネト語で書かれた詩の本を探しにここの図書室に入ったことがあった。ここは国が管理しているサン・マルコ広場のマルチャーナ図書館などと比べると身分のチェックが適当で、ろくに注意することも無く貴重な資料を出してきて見せてくれた。長閑なところである。

古い資料で、傷むといけないのでコピーは出来ないとのこと。スマホで写真を撮るくらいは良さそうなものだが、何にしてもそう長いものではないので、マルチャーナで手に入れた別の資料と校合しながらせっせと書き写す。図書室には事務員らしき女性が二人詰めていたのだが、夕方になると双方に電話がかかってきてそれぞれ部屋の外へ出て行ってしまった。そのまま30分ほど話しっぱなしで帰ってこない。本当に長閑なところである。

ちなみにこれはヴェネツィア料理研究に関連した探し物であり、基本的にはただの趣味である。図書館に通っているからといって、古い文献から失われたヴェネツィア料理を復活させようとか、そういう込み入ったことをしているわけでもない。ヴェネツィアのチケーティ(cicchettiという言葉の使い方については以前書いたとおりだが、注意して見ているとヴェネト語訛りのcichetiという表記もよく見かけるのでそちらに合わせる)でよく見られるバッカラ・マンテカートについて調べていたら、バッカラを愛するあまり、それを称える詩を詠んだ人が居るというので興味を持ったのだ。その名をLuigi Pletといい、彼の詠んだバッカラについてのotava(8行詩、標準イタリア語ではottava)は33にも及ぶ。どう考えても阿呆である。そしてそういう人を見つけ出しては嬉々として図書館に出かけていく私もまた同様であろう。第一歌はネット上にもよく出ているので(当然イタリア語、いやヴェネト語だが)、第二歌を訳してお目に掛ける。

    "EL BACALÀ"
       2
Esiste un manoscrito, a Liverpol,
 Portà gran ani in drio, dal Senegal,
 Che, co gh' è mezo, consultar se pol,
 E che xe tuto erudizion, nel qual,
 In modo incontrastabile, se vol,
 Co' vegnìmo a la Storia Natural,
 Ch' el pesse se xe petrificà
 Primo de tuti, fusse un bacalà.

リヴァプールの地に写本があって
セネガルの地から昔持ってきた
半分でもありゃ何でも分かる
すべての知識がその中にはある
知りたいことならすっかり分かる
まず『博物誌』を読んだらいいのさ
世界で最初の魚の化石は
バッカラだったと書いてある

ヴェネト語の説明は煩雑なので省く。苦労して訳したのに内容がまったくないところが素晴らしい。脚韻を日本語訳に取り入れるのは端から無理だとして、音の数だけでもそれらしくしようとしたためにかなり訳をいじってあること、また私は元よりヴェネト語の研究をしているわけではないので、これはいわゆる「豪傑訳」であることもお断りしておきたい。そしてその内容についてであるが、まず詩人というだけで信憑性がないのに、ルイージ・プレットはイタリア人でもあるので、二重の意味で彼の言うことは信じるに値しない。一応調べてみたが、当然『博物誌』に上記のような記述はない。もっとも、『博物誌』自体がルイージ以上に怪しい書物なので、もとよりデタラメだということを示すためのものだろう。

リヴァプールだのセネガルだのという地名もきっと脚韻を合わせるために適当なことを言っているだけである。また、何故ここで化石という言葉が出てくるのか分からない方は棒ダラを買ってきて囓ってみるとよい。

そう、ヴェネツィア料理といえば、レデントーレの時に話題にしたBigoli in salsaであるが、その後何回か見つけて頼んでみたところ、他の店ではすべて常識的な範囲の塩味で出していた。最初に食べたあの店は一体何にこだわったせいでああなったのだろう。

まあいい。ともあれ、イタリアだからといってルイージのような奇妙な人ばかりではないということは一応言っておかねばならぬ。家主に招待されたコンサートの話に戻ろう。

アテネーオ・ヴェネトのAula Magna(大講堂)へ入ると、壁と天井一面に描かれた絵が圧倒的である。どこかで見たことがあるような気がして、これは誰が描いたのかと問うてみたところ、ティントレットだということであった。ヴェネツィア派の絵画がヴェネツィアの古い建物にあることに何の不思議もないのだが、とんでもない街だとあらためて思う。

今回のコンサートのお題は「ヴェネツィア音楽の精髄 ジュリオ・ルエッタ・ファビアン」というものである。このお題はどうもジュリオの作った曲の題名にちなんでいるようだ。本当はジューリオ・ルエッタ・ファッビアンという方が原語の発音に近いのだが、ここはジュリオで通す。

Giulio Ruetta Fabbian(1925-2011)というのはヴェネツィア生まれ、ヴェネツィアのBenedetto Marcello音楽院でピアノと作曲を習ったという、生粋のヴェネツィアーノである。50年代から60年代にかけ、I Gondolieri Cantoriというグループと共に、美しくロマンティックなヴェネツィアのイメージを外国にまで広めた、という人らしい。

コンサートに先駆け、家主が司会者のような立場にあって、専門家からの話を聞くという講演会があった。当然私の語学力では十分の一も理解できなかったのであるが、ここで話をなさっていたLeopoldo Pietragnoliという方の書いたものは日本語にもなっているとかいないとか言っていたような気がする。帰ってきてから軽くネットで探してみたが今のところ見つからない。何かご存じの方はおられようか。

講演の後にはジュリオの曲のピアノ演奏があった。弾き手はフェニーチェのPrimo Maestroだったという人とその娘(こちらも当然相当な経歴の音楽家)である。そんな人たちの演奏をただで聴いてよかったのだろうか。この街の文化は一体どういうからくりで動いているのだろう。

ゴンドリエリの歌であるから、どれもドラマティックな展開があるような曲ではない。始終ラグーナのゆったりとした波に揺られているような曲調で、講演でイタリア語を詰め込まれて緊張した頭には非常に心地よいものであった。

帰ってから調べてみるとI Gondolieri CantoriのCDというのがあって、日本でも某大手通販サイトに一つだけ在庫があった。イタリアにいるのだからその辺で売っているだろうと思い、翌日リアルト橋の傍のCDショップへ行ってみるが、I Gondolieri CantoriのCDはもう流通していない、あるいはそもそも流通に乗ったものではない、というようなことを言われ、ここで手に入れることは出来なかった。

私のイタリア語の聞き取りはまだ相当に怪しいので実際のところはよく分からないが、店を出た後すぐ、日本に残った最後の流通品を注文しておく。聴くのは帰国後のこととなるが、慌てるようなものでもないだろう。

ちなみに、某大手通販サイトに出品されているものを手に入れようと思えばまだ出来ないことはないが、今のところ私の買った価格の四倍強の値が付いている。ただ、ダウンロードでも手に入るみたいなので、聴くだけならわざわざ高値でCDを買うこともないのではないか。

ゴンドリエレが歌を歌っているのはしばしば耳にするが、やはり独特の歌は知る人が少ないので受けが悪いのか、“Volare”(ビールのCMで日本でも有名)などの流行歌を歌っていることもあるという話である。ヴェネツィアに旅行してゴンドラに乗ろうとお考えの方は、予習しておいたうえでこのI Gondolieri Cantoriの曲をリクエストしてみたらきっと面白いことになるのではなかろうか。高いものなので私はもう乗らないが。

衝突のない文化について

とある日の帰り道、いつものように家の傍のRiva del Vinへ出たところで、カナル・グランデの対岸にあるCa' RoredànとCa' Farsettiの様子がいつもと違うのに気づいた。例のテロの関係だろう、イルミネーションが青・白・赤のトリコロールになっていたのである。この建物は今はお役所で、イタリアの祝日であった先日の諸聖人の日の頃には緑・白・赤のトリコローレとなっていたのだが、旗を掲げるのにもいろいろな理由があるものだ。

また18日の夜、お誘いがあってリアルトの広場で待ち合わせをしていたときのこと。リアルト橋周辺は早仕舞いする店が多いのでどこもシャッターが降りていたのだが、そこで店舗毎に張られた張り紙が目に入った。7時からサン・マルコ広場でテロの犠牲者を追悼するためキャンドルを灯す、というようなことが書いてある。せっかくなので酒が入る前に見に行ってみた。しかし人はまばらで、キャンドルの数も思っていたよりは大人しいものである。警官や消防士が何人もうろうろしているのが物々しい。

当然のこと、灯火を囲んでいる人々は一様に沈痛な面持ちであった。さすがにこれだけ距離が近いと日本人の感覚とは違うのだろうと想像はつくが、ただ、世界のどこかで紛争によって人が殺されなかった日などあるのだろうか。目につくところで人が死んだからって今さら騒ぎ立てるのは些か想像力に欠けるのではないか、と思うのだが、これは私の方にも何かが欠けているのかもしれない。

イタリアが何の躊躇もなくフランス側に立ってこの事件を解釈するのは分からないではない。しかし例えば、結婚式に集まって祝砲を撃っていたところを誤認され(お手頃とはいえ、カラシニコフで祝砲を撃つのは慣習としてどうかと思うが)、不意に精密誘導弾を撃ち込まれた人々と、今回の犠牲者とを区別する感覚は私にはない。

ということでこの話題にそれほど興味はないのだ。上の方から注意するようにとの連絡が回ってきたが、何に気をつければいいというのだろう。人が多く集まる場所には出向かない、という程度のことしか思いつかない。

少し警官の姿が増えたこと以外、この街に特に変わったことはないように思える。寒くなり、観光客向けのイベントも少なくなるこの時期は人も少なくなるので、ここぞとばかりにあちこちの道で石畳を引っぺがして工事を始めたことくらいのものか。

そんな中、11月21日には先日のサン・マルティーノに続く地元のお祭りとしてサルーテ聖堂の祭日があった。これもよく知られたものであり、検索すればいくらでも出てくるので例によって詳しい由来は省く。レデントーレと同じようにペストの終焉を願って建設を計画したというか、ペストをなんとかしてくれたら教会を寄進してやると誓ったという、その思考回路が面白い。神に対しても札束で頬をはたくような頼み方しか出来ないのがヴェネツィアのヴェネツィアたる所以である。ガイドを読むと当時の政府がこれこれの手順でいくら援助したとかいう金額も書いてあった。矢継ぎ早に追加支援を決めていったといえば聞こえはよいが、最初に出し惜しみしておきながらすぐに不安になったようにも見えるところが特にそれらしくてよい。

ともあれ、レデントーレが観光客を呼ぶ一大イベントであるのに対し、こちらは人々の健康を祈るための祝日なので、ドージェ(の代わりの市長)が教会を訪れるだとかいうこともなく、人々が教会に集うことそのものがメインである。こちらの祭日でも同じように運河に仮設橋が架けられるのだが、ジュデッカにあるレデントーレ修道院とは違い、サルーテ聖堂は普段でも歩いて行ける場所にある。ジュデッカ運河とカナル・グランデでは幅が大きく違うため、この祭日のために架けられる橋はそう大きなものではない。ちょっと拍子抜けした。

周辺の屋台では聖堂に納めるための蝋燭が売られ、あいにくの雨にもかかわらず善男善女が詰めかけていた。聖堂内へ入るとちょうどミサが始まった時間帯で、神父が説教を始めている。話し方がゆっくりで、また使われている単語も単純なものが多いので何となく意味が分かるような気もするが、完璧に理解出来るというところまでは程遠い。

内陣と訳していいのだろうか。マリアと四人のエヴァンジェリスティの像が設えられた祭壇とその裏側へ向かう人々は正面と左右の三方に別れ、順番に規制線が解かれて少しずつ通されていた。今回はこちらで知り合った日本人の教員や学生が総勢六名となって見物に繰り出していたのだが、皆でその順番待ちの列に加わって祭壇へ向かう。どういうわけか、私はここでえらく緊張した。

何度も書いているが私には信仰心がない。よってこれは神に対する畏敬の念に起因するものではなく、信心を持った人々が怖くて緊張しているのである。多くの人がいるので祭壇の左側にある説教壇は直接見えないのだが、各所にモニターが設置されていてそれが映るようになっている。列に並んだ前後の人々は神父の導きに合わせて祈りの言葉を唱和したり、賛美歌を歌ったりしていたのだが、そういう人々の間にいると、私のような者がここに混じっていてよいものだろうか、彼らの祈りの邪魔になってはいないだろうか、と考えてしまうのだ。

祭壇へ通される順番が来た途端にスマホで写真を撮りまくっている観光客らしき人もいたし、実際のところそう気にする必要はないのだと思われる。内陣を抜けると記念品を売っているところがあって、私もそこでガイドを一冊買い求めたのだが、ここで同行していた学生が「Japan?」と声を掛けられていた。彼女がそれを肯定すると、その人は手を合わせて拝むような仕草を見せ、「Arigatou.」と言う。英語の発音から察するに彼自身も観光客なのかもしれず、イタリア人が私たちのような存在をどう受け止めるのか、ということはこれだけでは分からない。しかしイタリア人がいちばんいい加減に決まっているし、結局のところ邪魔だとも何とも考えていないのだろう。

それにしても私自身がこういった風に、日本人に興味を持つ人から声を掛けられたことがないのは何故だろうか。同時に派遣されている先生の場合、一人で飲んでいたらちょくちょく声を掛けられることがある、というふうに仰っている。実際、二人で例の如くカンナレージョのカンティーナで飲んでいたときのこと、私が二杯目のワインを注文するために店内へ入り、グラスを持って外に戻ってみたら見知らぬイタリア人と話していたということもあった。

私の場合、声を掛けられたと思ったら、アカデミア橋はこっちで合っているのか、とイタリア語で聞かれていたりする。ああそうだあっちへ進め、と反射的に答えた後になって、なんでイタリア人がヴェネツィアで東洋人に道を聞くのかと疑問が湧いた。この街にも東洋系の移民がいくらか存在するので理屈に合わないことはないのだが、どうも釈然としない。私は観光客に見えないのだろうか。現実には先ほどの先生の方があらゆる意味でイタリアとヴェネツィアに馴染んでいるのだが。

それはさておいて、聖堂を出た後は近くの通りへ。ここには主に食べ物の屋台が立ち並び、縁日風の風景となっている。日本と大きく違うのは、売られている食べ物が大方甘いものだということだ。ただ、すべてを知っているわけではないけれども、ヴェネツィアの菓子は目にしなかったように思う。砂糖をまぶした巨大な揚げパンはどこのものだか分からないが、マルツァパーネ(マジパン)や円錐形のアランチーニはシチリアの方の食べ物だったはずだ。同行した先生(先ほどの方とは別)はアーモンドやクルミなどを飴がけした菓子にひかれたご様子で、お買いになったものを私もちょっと戴いたのだが、アーモンドというのはシチリアのドルチェによく見られるもので(そもそもマルツァパーネがそうだった)、そっちの方でよく栽培されているものだと読んだ覚えがある。まあ、綿飴やリンゴ飴まで売っていたし、その辺もあまり気にしないのだろう。

最近ヴェネツィア料理の勉強をしていて改めて感じたことだが、ヴェネツィア共和国は地中海全域を股に掛け、ヨーロッパのみならずアジアやアフリカなど、あらゆる地域のあらゆる物品を貿易品として取り扱っていた国である。つまりこの街には何があっても、どんな人がいてもおかしくないということだ。御陰で私も気楽にやらせてもらっているが、それで特に何の問題もなかったというか、むしろその共和国時代の方が上手くいっていたというのは本当に幸せなことではなかったかと思う。今の世界とは何が違っていたというのだろうか。