トリコローレについて

気がついたら帰国から三週間ほど経過していた。一年ぶりの車の運転、街での歩き方(ヴェネツィアは右側通行が基本だが、関西はどうやら左側通行のようだ)、異常に柔らかいパンなど、最初はあれこれ戸惑ったが、仕事が無いこと以外はもう何もかも元通りで、ヴェネツィアでの生活がすべて夢であったかのような気がするほどである。となればこのブログを続ける理由も無いのだが、まだ書いていないことや持って帰ってきた本などをネタにして、もうちょっと続けてみようかと思う。これまでより更新頻度は落ちるだろうが、もとより読者の少ないブログなので問題ないだろう。

ここで一つ問題なのは、イタリア語の電子辞書をとある学生に譲ってしまったということだ。何故そんな大尽ぶった真似をしたかというと、この学生が昨年末に電子辞書を無くしたという話を聞いたからである。この学生は大学の掲示板に「電子辞書を無くしてしまったので見つけたら連絡を」という趣旨の張り紙をしていた。事を荒立てようとしない日本人らしい対応である。これを見た時点で盗難被害と推測できたが、後に確かめたところ、大学で勉強中、ちょっと席を外した隙に無くなっていたとのことであった。

ヴェネツィアにいたとき、大学の日本語の授業を見学させてもらったことがあったのだが、そこでは結構な数の学生が日本の電子辞書を使っていた。今はスマホさえあれば大概のことは調べられるのだけれども、併用してみれば信頼性もスピードも電子辞書の方が上である。私も向こうにいた間は月に一回電池を交換しなければならないほどの勢いで使い倒していたし、日本人がイタリア語を学ぶにしても、イタリア人が日本語を学ぶにしても、これほど頼もしいものはないだろう。しかし、ただでさえ結構なお値段がするものなのに、イタリアで買おうとすれば当然日本で買うより高くなる。欲しいと思ったところで誰もが手に入れられるものではない。

そのような環境下にありながら日本と同じようなつもりで気を抜いていたその学生にも落ち度があると言えば言えるのだが、それもちょっと酷だと思う。何度も書いているとおりヴェネツィアというのは本当に治安のよいところなので、下手をすると日本にいるときより警戒心が緩んでしまうものなのだ。一般的に外国は日本より治安が悪いから気をつけろというけれども、日本の大学の図書館や自習室にだって置き引き注意の張り紙がある。張り紙があるということは被害があったということだ。程度の違いはあるのかも知れないが、何処でだって起こる話である。

私のような研究員、また教員の方々は日本の暦に従ってみんな3月のうちに帰ってきたが、留学生というのはイタリアの暦に従って6月まで滞在する。残り3ヶ月とはいえ、勉強も大詰めを迎える時期には電子辞書があった方が何かと便利だろう、と考えて若者の未来に託したわけだ。というわけで帰国してからはもともと持っていた紙の辞書を使っているのだが、読むスピードが遅くなるのは如何ともし難い。

読むだけならこの伊和辞典でなんとかなるが、今でもヴェネツィアで世話になった人にメールを書くことがあるので、和伊辞典の方を持っていないというのも不便なことである。ちなみにこの小学館の伊和辞典の表紙は緑色、和伊辞典の方は赤色となっている。これまで何とも思わなかったが、これはイタリア国旗に対応しているのではないかと今気付いた。

例によって話が飛ぶ。帰国直前の混乱の中、最後にアパルタメントの光熱費の清算というものがあった。各種のメーターの数字から実際に使った額を計算し、月々固定で払っていた額と最初の預け金の合計から引いたところ、€200超が現金で戻ってくることとなった。ここで€200紙幣というものを初めて見たが、最後になってユーロの高額紙幣を渡されても使い道に困る。結局帰国後に金券ショップで両替をしたのだけれども、昨年渡航した頃と比べて10%前後円高になっているので、このタイミングで€→¥の両替というのは何ともいえない気分であった。

それはそれとしてこの清算のやりとりの最後、例のイタリア国旗を模したエプロンをマ氏に進呈したところ、後日家主の方から御礼のメールが来た。そこでイタリア国旗とヴェネツィアに関するちょっとした逸話が紹介されていたのである。

イタリアが近代国家として統一する過程、いわゆるリソルジメント運動は1820年頃に始まるそうだが、その最後の一幕は1861年のイタリア王国成立に始まる。オーストリア治下にあったヴェネツィアが奪回されたのは1866年のこと、そしてその後の1870年のローマ併合、翌1871年の遷都へと到る。

この時期のスローガンとして最も有名なのはおそらく‘‘Viva Verdi’’という言葉である。Verdiというのは表向きには当時活躍した作曲家のヴェルディを指しているが、これはVittorio Emanuele II Re d'Italia(イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレII世)の略となっている。オーストリアの占領下にあった地域では表立ってイタリア王国を支持することが憚られたので、このような符丁を使ったということらしい。

これと似たようなもので、ヴェネツィアには‘‘Risi e bisi e fragole’’という言葉があったという。Risi e bisiというのは昨年ヴェネツィア料理の会をやったときの記事でも紹介した料理で、risiは米、またbisiというのはヴェネト語でエンドウ豆(標準イタリア語ではpiselli)のことである。そしてfragoleというのはイチゴ、これで白・緑・赤のトリコローレとなる。ヴェネツィアの愛国者たちはエンドウ豆のリゾット(厳密にはリゾットではないが)とイチゴを食すことによってオーストリアへの抵抗の意思を確かめ合ったとのことであった。

ちなみに英語と同じで、三つの名詞を並べる際、普通はrisi, bisi e fragole(家主はこう書いていた)となる。それがこの場合risi e bisi e fragoleとなるのは、
(risi e bisi) e fragole
だからである。risi e bisiという料理はドージェにも供されていたというからリソルジメント運動以前から存在しているもので、ここへイチゴがどういう形で付け加えられるようになったのかは現物を見たことがないので知らない。この料理はタマネギとエンドウ豆を大量に使うので思い切って塩を入れても十分に甘く、ここへイチゴを加えるにはどうしたらいいのかまったく想像が付かない。そんなもん別添のデザートに決まっているだろうと仰るかも知れないが、プリーモにドルチェが付くのも妙ではないか。まあ、これはどちらかというと庶民の料理なので、その可能性が無いとも言えない。つまりコースの中で出てくるのではなく、これ一皿で済ませるという食事の仕方もあると言えばある。

このrisi e bisi e fragoleについての逸話は以前から知っていたのだが、最初にこの話を読んだときには妙にこじつけくさいと感じ、後から適当に作った話なのだと思っていた。ところが後にカ・フォスカリの先生に確かめてみたところ、これは大真面目な話だというので大いに面食らったことがある。ここまでの話で、イタリア国旗のトリコローレを模した代表的な料理としてPizza Margherita(バジリコの緑、モッツァレッラの白、トマトの赤)を思い出した方もあるのではないかと思うが、このようにしてリソルジメント運動への連帯の意思を示した例はいくつもあったのだそうな。先日無くなった彼のウンベルト・エーコの弟子たちがこういった例を集めて記号論的に研究した本もあるらしい。この本は買って帰ってくるつもりだったのだが、残念ながら帰国前のドタバタの中で失念してしまった。それにしてもイタリア人と料理の関係というのは面白い。こうも抜き難いほどにアイデンティティに食い込んだ料理というのは日本にもあるのだろうか。

そういえば2月の半ばにはすでにリアルトのメルカートにもイチゴが出ていて、ブドウを入れるような深いパックに山盛りで€2.50だった。日本へ帰ってきてから野菜や果物があまりに高いのに驚いたが、このイチゴもまた日本の半額から三分の一くらいだろう。というわけで今はちょうどrisi e bisi e fragoleの季節である。滞在中は季節を問わず、冷凍のエンドウ豆を使って何度もrisi e bisiを作ったものだが、この時期のヴェネツィアで新鮮なものを使って作ればまた格別であろう。何故私は日本に戻ってきてしまったのだろうか。

街の原点について

気がついたら帰国まで二週間を切っていた。帰国直後に最後の一仕事があり、その準備に掛かりきりでいたためにあまり考えずにいたのだが、概ね出来上がってきたところで余裕ができるとあらためて帰国後のことを考えてしまう。

帰国と共に私の研究生活が終わるという可能性もあり、日本のことなど一瞬たりとも考えたくはないのだが、今の時期、街には卒業旅行と思しき日本人の若者がやたらとうろうろしている。カルネヴァーレが終わった途端に街はPasqua(復活祭)の準備を始めた(一年中祭りのことしか考えていないのだろうか)が、それでもやはり西洋人の観光客は当然減っている。もしかするとこの時期は一番日本人の比率が高いのではなかろうか。新婚旅行のカップルや老夫婦などと違って、彼らはグループの人数が多く、またよくしゃべるのでどうしても目に付いてしまう。

というわけで、一見の日本人なら絶対に近づかないであろうところへ現実逃避のための散歩に出た。

Fondamente Noveの船着き場からヴァポレットに乗って一時間弱。目指したのはTorcelloトルチェッロという島である。ブラーノ経由で行くのが一番簡単なので最初はヴァポレットの船内に中国語や韓国語も聞こえてはいたのだが、トルチェッロに降り立ってみれば私以外に東洋人の姿は見えない。それだけでもこの島に来た甲斐があったというものだ。

ヴェネツィアはこの島から始まった。共和国の歴史を語るうえで最初に必ず触れるべきところであるのだが、今ははっきり言って何もない島である。余程ヴェネツィアについて興味を持った人間でなければここに来ようとは思わないはずだ、という当て推量は見事に的中したのであった。

ラグーナ一帯にまとまった人が住むようになったのは6世紀頃のこと、ランゴバルド族の侵略から逃れるためであった。トルチェッロへ逃れてきた人々は、主にここから北方にあるアルティーノという街から来たとされている。時が経つにつれこの島は、マッズォルボ、ブラーノに加え、今は目立たないものとなっている島々(コスタンツィアーカ、チェントラーニカ、アンミアーナ、アンミアネッラ)など、多くの島をまとめ上げる体制の中心となっていった。

ところが8世紀から9世紀辺りになると、この地域の人々はより安全な場所を求めてリアルト方面の島々へ移住していった。地図で見るとトルチェッロの辺りは島が飛び石のようになっており、本土からもすぐに到達できるように見える。実際にはそれらは干潟であるので、土地勘や航海術を持たない侵略者がそう簡単に近づけるような場所ではないのだが、より安全な場所があればそれに越したことはないだろう。こうしてトルチェッロは衰退していくこととなった。

この島の不幸な運命と、ある司教がグラン・トッレ(大鐘楼)から突き落とされたときにこの町にかけられたという呪いとを結びつけた悲しい伝説がある。ここまでの解説もそうなのだが、出典はもちろん家主の本である。

司教によって呪いがかけられてからというもの、この島では不作が続き、人々はここを立ち去らざるを得なくなっていました。残ったのは、その罪に関するある予言を固く信じていたわずかな住民だけでした。穢れなき若者が塔に登って鐘を鳴らせばトルチェッロは蘇る、そういう予言です。その後、たくさんの者が手柄を立てようと試みましたが、誰も成功した者はありませんでした。

そんなある日、勇敢で誠実な一人の船乗りが、この試練に挑戦すると言い出します。彼はある美しい娘と恋仲であり、結婚も間近でした。ところがこの島に住んでいたある別の男もまた、もうすぐ花嫁となるこの娘に横恋慕をしていたのです。この男は恋敵である船乗りの青年のふるまいに疑いがかかるようにと、ありもしないことを言いふらし、土地の人々と諍いが起こるように仕向けます。その結果、殴り合いの喧嘩が始まってしまい、その最中にあって、愛しい人を守ろうと間に入った若い娘は誤って殴られ、死んでしまいました。

その瞬間のこと、誰一人いない塔の鐘が鳴り出したのです。それはもの悲しい、しかし決然とした響きでした。「無垢な乙女の血が流れたことで呪いは消え去った、しかしその住民は軽はずみな行いで彼女を死に至らしめた罪を購わねばならぬ。よってトルチェッロが昔日の繁栄を取り戻すことはない」、塔の鐘はそう告げました。そしてそのとおり、この島は衰退していくこととなったのです。

……この話で理解できないのは、失敗したら死んでしまうなどという条件もないのに、鐘楼に登って鐘を鳴らすだけのことが「試練」というほど難しいことなのか、という部分と、塔の鐘が告げたという「呪いは消え去った」という言葉が何を指すのかという部分である。「町が滅びる」という呪いが消えたのにも関わらず町が滅びるというのはどういう計算なのか。司教の呪いは消えたけれども新たな罪ができたので差し引きは変わらない、というのは悪徳金融みたいで救いのない話である。

ともあれ、トルチェッロの鐘楼に実際に上ってみた。ここで買ったガイドブックによるとこの鐘楼が最初に立てられたのは11世紀のことであり、その後何度か再建や修復をしているとのことであるから厳密には伝説に出てきた鐘楼とは違う。いや、この伝説自体が例によって怪しいものであるから時代考証を気にしてはいけない。

ヴェネツィア本島と違い、全盛期には顧みられなくなっていた地域であるので何もかもが何となく古くさい。もちろん本島の建築物だって古いものには違いないのだが、こちらはいかにもうらぶれた趣がある。飾り気のない通路をぐるぐる回って天辺へ行くと、当然ながら四方がよく見渡せた。が、見渡したところで何もない。島の住民は数十人、とガイドブックにあるのだが、小さな島の大部分は畑で、人家らしきものが至極わずかに見えるだけである。高いところは苦手なのだが、何にも無い景色に満足して暫しの間ぼんやりとラグーナを眺めていた。日本に帰らず、ここかサント・エラズモ辺りでカルチョーフィでも育てながら暮らしたいものだ。

鐘楼の手前にはBasilica di Santa Maria Assuntaという聖堂がある。中にはモザイコ画がいくつかあって、特に最後の審判の図は結構な見応えがあった。Lucifero(ルチフェロ、ルシファー)がただの白髪のオッサンで、またその膝の上にごく普通の格好をした人を座らせているのがよく分からなかったのだが、ガイドブックによるとこれはルチフェロの息子のアンティクリストだそうである。ルシファーに息子がいたという話は初めて聞いた。そうすると母親は誰なのだろう、と、こうやって無駄なことを考えていられるのもあと一週間ちょっとである。

その後は傍にある博物館へ。小さなところで、始終私以外に一人の客もいなかったのだが、この島に来てここ以外に見るべきものがあるのだろうか。ただ、この島にあったものとはいえ、ビザンティンのラヴェンナ総督府の影響下にあった頃のものなどはどこにでもありそうなものばかりで、人々がヴェネツィアという言葉から期待するようなものばかりが展示されているわけではない。元々聖堂にあったものだという小さなPala d'oroがあって、右端に聖テオドーロが居るのがやっとそれらしい、という程度のものであった。そういえばこの島にはあまり聖マルコの獅子が居ない。とある民家の門柱の上に狛犬のように二匹が鎮座していたくらいだったが、この二匹には翼が見られなかった。ヴェネツィアとはいろんな意味で距離のある島である。

博物館の表へ出ると、アッティラの玉座ともいわれる石の椅子があり、観光客が代わる代わるそれに座って記念撮影をしていたが、家主によるとこれはおそらくtribuni(護民官)の椅子だという話である。

日が落ちる頃になって一旦ブラーノへ戻る。同じ乗り場からヴェネツィア行きの船が出るので降りたところで待とうと思ったが、ものすごい行列ができていた。これを見て一時に現実に引き戻される。

一隻のヴァポレットに乗り切れるものだろうか、これは次の船を待たなければならないのではないか、と考えたが杞憂であった。来たときのものとは違うタイプ、本島では見たことのないような巨大なヴァポレット(乗船後に表示を見たら定員は400人とあった)がやってきて、待っていた人をすべて呑み込んでくれたのである。このヴァポレットは二階部分に操縦席があり、面白いものだと思って見ていたところ、停船後に操縦士がスマホを取り出して船着き場の行列を撮影していた。彼らにとって珍しいものではないだろうに、理解できない行動である。業務報告にでも使うのであろうか。

肉と魚について

気をつけるようにとは言われながらも、寝起きするパラッツォを一歩外に出ればそこはリアルト橋なわけで、カルネヴァーレの期間中も結局はちょくちょく街中を見て回っていた。夏場のレデントーレ前後の喧噪と比べてみるとどうも人が少ないような気がしたので例のイタリア人に伺ってみたところ、やはり昨年と比べると人出は格段に少ないそうな。テロの影響以外に思い当たることはないようだった。御陰で人混みの嫌いな私もそこそこ快適に見物することができたのではあるが、観光産業で生きている街としてはちょっと難しい話である。

カルネヴァーレの最後の二日間は「懺悔の月曜日」「懺悔の火曜日(マルディ・グラ)」、そして終わった翌日、つまり今日は「灰の水曜日」といい、この日から四旬節が始まる。キリストの荒野での受難を思い、この期間は断食をするというのが元々の話で、しかしいくら何でもそれはつらすぎるので、まずは肉食(卵・乳製品・油も)を断つ、というふうに変化したようだ。カルネヴァーレの''carne''というのは「肉」という意味であるが、「謝肉祭」とは「四旬節の間は肉が食べられないからそれまでにたくさん喰っとけ」という趣旨のものだと理解していいのだろうか。文字通り「肉祭り」である。

18世紀、ヴェネツィア共和国が最後の輝きを放っていた頃のカルネヴァーレの話である。期間中の最後の木曜日、ドージェ以下のお偉方が出そろう前へ雄牛が引き出されてきて、肉屋のオヤジがその牛の首を一撃で刎ねる、というイベントがあったそうな。その牛はリボンや花で飾られており、これは1164年にアクィレイアの総大司教ウルリコ(ウルリヒ)から贈られてきた貢ぎ物を模していたのだという。そこにどういう皮肉が込められているのかはちょっと解説が難しい。ともあれ、いかにも肉祭りというふうな催しである。

またそのとき、サン・マルコの鐘楼からパラッツォ・ドゥカーレの開廊、あるいは船着き場の筏の上へと延びた綱の上を曲芸師が渡っていき、ドージェや群衆の上へ花を投げていくという見世物があった。これを題して''Svolo dell'Angero''(天使の飛翔)という。現代のカルネヴァーレにおいては以前説明した''Festa delle Marie''(マリアたちの祭り)と組み合わされて再現されているようで、私は観ていないのだが、カルネヴァーレの初日、プレイベントの間に選ばれたマリアがワイヤーアクションでサン・マルコ広場の上空を飛び交ったのだという。なんか違うような気がするが。

このワイヤーは最終日にもまた利用される。夕方になると、まず特設会場に十一人のMarie(全部で十二人いるのだが、最後の一人は後から出てくる)、ドージェに扮した市長やドガレッサ(ドージェ婦人)、その他種々の扮装をした人々が現れる。そしてMarieの中から選ばれたMaria(単数形、要はミス・カルネヴァーレ)が発表された後、 ‘‘Svolo del Leon’’というのがあって、これでカルネヴァーレは一応終わりということになる。何度も書いているのでお分かりだとは思うが、Il Leon(標準イタリア語ではLeone)とは聖マルコの象徴である有翼の獅子のことである。

夕方五時の鐘が街に響く中、特設会場のステージの上に横並びになったドージェや十二人のマリアたちが、折りたたまれた長大な深紅の布地を掲げた。当然ながらそれは有翼の獅子が描かれたヴェネツィア共和国国旗であり、これが件のワイヤーで吊り上げられてサン・マルコ広場上空へと向かって展開、盛大な楽曲と共に鐘楼までの間をゆっくりと進んでいく。あいにくというか、いつも通りの曇天を背景に鮮やかな緋色が映え、まずまずの見世物であった。

家主の教える18世紀のカルネヴァーレにおいては、最終日の日没と同時に広場では花火(打揚花火ではないものと思われる)に火が付けられ、またラグーナは篝火で満たされたのだそうな。そういうものを期待して広場へ行ったのだが、さすがに昔のようにはいかないようだ。

ラグーナの篝火というのは水面に浮かべた松脂の樽に火を付けたもので、日の落ちたサン・マルコ運河一面に火が灯されたとなればさぞかし壮観であったろう。ただ、Gaspare Gozziという人が書き残した‘‘Gazzetta Veneta’’の一節によると「その火は得も言われぬほど美しく、称揚すべきものであったのだが、多くのマスケラがそれを褒め称えることはなかった」とのこと。修辞のみで文章を書くイタリア人には珍しいことだが、これは、火に見惚れていたとしてもその陶酔した表情はマスケラによって覆い隠されており、その本心を窺い知ることは決してできない、とかいう気の利いた表現ではない。

これがはっきりと不評であったのは、篝火のせいで張り込んで作った衣装が煤けてしまうからである。大量の松脂が燃やされるのだから、その臭いと煤は相当なものだったはずだ。大気汚染が問題となっている現代のヴェネツィアでは到底再現できまいが、それ以前にヴァポレットの運航に与える影響や安全上の問題があるだろう。

では当時はどうしてわざわざそんなものを使っていたのかというと、ヴェネツィアにとって松脂というのは、常に一定程度の量が手元にある、お手頃なものだったからである。船の建造に使うというのが第一の用途であったのだが、戦時になるとこれは武器にもなった。ラグーナに不慣れな敵の船をおびき寄せて浅瀬で座礁させ、動きの止まったところへ火を付けた松脂を投げ込む、というのはヴェネツィア防衛の基本戦術である。

と、ここまで考えて、この篝火の話はすでにどこかで読んだことがあるもののような気がしてきた。やはり塩野さんの本だろうか。

さて、カルネヴァーレが終われば節制の日々が始まるのだけれども、しかし家主によると、ヴェネツィアーニは「四旬節の間であれ、食べる楽しみを押さえ込むことなどできなかった」とのこと。イタリア人に「美味いものを喰うな」というのは死刑宣告と同義であるからこれは当然のことだろう。よって結局のところは灰の水曜日と聖金曜日の二日だけ質素なもので済ませる(妥協しすぎではないのか)というところへ落ち着いた。ヴェネツィアではこれらの小斉日に、これまで何度か話題にしてきたbigoli in salsaを食べる習わしがある。

薄切りにしたタマネギを炒めてから塩漬けの鰯を加えて身をほぐし、そこへ茹でたビーゴリを和えて胡椒を振る、というだけのシンプルな料理で、手元にある詳しい方のレシピ本を見ても、炒ったパン粉を振りかけるとか、パルミジャーノの粉末を加えるとかいう程度のヴァリエーションしかない。何しろ簡単な料理なので私自身もこれまでに何度か作っているが、いわゆる精進料理であるにもかかわらず、外で食べると「ヴェネツィア料理」というだけの理由で結構なお値段がする。よって今晩はもちろん自炊である。それはそうと、ヨーロッパでは魚は節制の対象とはならないのだろうか。

一番最初にこの料理を食べた店ではあまりの塩辛さに悶絶した、と書いたことがあったと思うが、大量の鰯ペーストで灰色になっていたあのbigoli in salsaは、もしかすると「灰の水曜日」と引っかけてあるのだろうか。そう思いついたところで、わざわざあの店へ確かめに行く気にはなれないが。

サン・マルコ聖堂について

ヴェネツィアーニは総じて地味で、イタリア南部の人たちと比べると人見知りも強く、とにかく控え目で始末屋、というのがこれまでのイメージであった。パラッツォ・ドゥカーレへ入ったときもその印象は変わることがなく、この自制心こそがヴェネツィア共和国の繁栄の礎であったのだな、と思っていたのだが、これはとんでもない勘違いだったようだ。

サン・マルコ聖堂へ入るのは滞在9ヶ月目にして初めてのことである。これまで前を通り過ぎるだけであったのだが、ちょっとした切っ掛けがあったのでようやく中へ入ってみた。入るのはとりあえずタダだが、例の秘蹟の祭壇の近くへ行くには€2、聖具室の見学には€3のお布施が必要である。しかしここまで来て多少の金をケチっては逆に勿体ない。これこそが見所である。

聖堂の外側にもあるのだが、中へ入ってまず目を引くのは天井のモザイコ画であった。そして暗い灯りに目が慣れると、それ以外の部分がほぼ金で装飾されているのに気付いて気圧される。いや、辟易とする。どうもこれまでのヴェネツィアとは雰囲気が違うようである。保護のためだろう、カーペットなどで遮られて実際には見えないのが残念であるが、帰ってから家主の本に付されている写真を見ると床の紋様もまた手の込んだものであった。

一応は宗教施設であるから、こういう場所はいくら装飾を施そうとも概ね俗悪になる一歩手前で踏みとどまるものだと思っていた。が、この聖堂は迷うことなく突き抜けているではないか。調べてみると三代目のこの聖堂は完成した後にも何度か改修を施され、その度に装飾が付け加えられていったということであった。ヴェネツィア共和国が手に入れた富を脈絡無く吸収していったことでこうなったということか。

聖マルコの柩が出てきたという例のパネルを探して€2を支払い、祭壇の裏側へ回っていくと、Pala d'Oroという祭壇画を見ることができる。是非これは画像検索して見て戴きたいが、これを見て宗教的な有難味などを感じている暇など無い。目に入るのはただ全面の金の輝きと夥しく鏤められた巨大な宝石の数々、感じられるのはヴェネツィア共和国の想像を絶する富力のみである。同行者は、これだけ宝石がある(二千個に近いそうな)のだから一つくらいくれたっていいのに、などと暢気なことを言っていたが、これだけのものを見てまだ欲が出るというのが私には理解できない。これが若さか。ともあれ、パネル探しを忘れて束の間呆然としてしまった。

ちなみにそれらしきパネルはすぐ傍に見つかったが、例の話を知らなければどうということはないものである。周りの観光客も誰一人そのパネルを気にする人はなかった。モノというのはモノガタリが伴わなければ生きることができない。

次に聖具室へと巡る。ここにもまた溜め息しか出ないような銀の燭台や十字架、杯などが展示されているのだが、何とも不思議なことにこれらの品々には邪気がない。彼らにとって富とは一体何だったのだろうかとここで暫し考えることとなった。これらが一人の人間に帰するものではないというのと、美意識や様式というものを一顧だにせず、偏執狂的に詰め込まれた過剰な装飾のためだろう、権力意識や自己顕示欲のようなものが微塵も感じられず、金や銀、高価な細工を玩具のようにして遊んでいるとしか見えないのである。玩具にできるほどまでに貴金属や宝石が溢れかえっていたというのは恐るべきことだが、しかしながら決してそこに溺れているというふうではない。ということは、これはこれでヴェネツィアらしい自制心の表れということになるのか。

ここに一つの聖母子像がある。光背に例の如く幾つもの巨大な宝石を配してあり、真珠とカメオ、そしてまず間違いなくムラーノのガラスのビーズで作った首飾りの合間に幼いキリストが在しているのだが、素朴な表情の母子の図柄が完全に装飾に負けていた。聖母子の魂は金と宝石の輝きによって残りなくかき消されており、宗教的テーマを無機質なモノのレヴェルにまで還元したという点で希有な聖母子像であろう。ヴェネツィアらしくてよい。

とにかく、せいぜいムラーノのガラスでできたシャンデリア程度の贅沢品しか見られない他の建物とはまったく趣が違っている。自分たちで派手な装飾品を身に纏い、屋敷をコテコテに飾り立てるなどというのは気恥ずかしくてできないので、そこで余った財力がこの聖堂に集中しているのだろうか。つまりこの聖堂はヴェネツィアーニの内に秘めた願望を具現するための着せ替え人形みたいなものか、と思い至ったら何だか親しみが湧いてくるようでもあった。

さて、祭壇の正面にあり、聖マルコの遺骸だとラテン語で書いてある石棺にも一応挨拶を済ませ、先日までメンテナンス工事中で閉まっていたカッフェ・フローリアンでお茶をしたところで、ようやくサン・マルコ広場周辺の空気にも馴染んできた。

この日は特設会場の建設が着々と進められている最中であったが、ここは当然、カルネヴァーレの期間中に行われるあらゆるイベントの中心地となる。慣れてきたことだし、私も期間中は足繁くここに通うことになるのかといったらそうではない。実は、カルネヴァーレの間はサン・マルコ広場へは近づくなと言われている。勿論テロの危険性を鑑みてのことである。例のテロの後、次はヴェネツィアだ、という話が一瞬出たことがあったので、皆結構気にしているのだ。

カルネヴァーレのウェブサイトを見ると、以前レガータの起源として紹介したLa Festa delle Marieが初日に行われるとあった。祭りや人混みは基本的に嫌うものの、これだけは観ておこうかと思っていたのだが、イタリア人に行くなと言われては仕方ない。幼い子を持つ母親の意見なので、心配も度が過ぎると一笑に付すこともできるが、しかしこれはイタリアの中でも特に危険に対する嗅覚が鋭いと思われる地方の出身者が言うことでもある。

ヴェネツィアは特殊な空間なので、この島の中に留まる限り、治安に関する意識は特に日本と変えないで済む。しかしここは紛れもなくヨーロッパである。今のところ何も起こってはいないし、何も起こらないまま終わればそれはそれで喜ぶべきことではあるが、どちらにせよ無理を押してまで人混みの中へ出るほどのことではない。

ウェブサイトの過去の写真と説明を見て分かったのだが、La Festa delle Marieは私が期待したものとは違っていた。私は巨大な木造の人形Marioneが観たかったのであるが、現代の「マリアたちの祭り」は単なるミスコンになっているようである。イタリア人は美しい女性が大好きであるから、問題が無ければ生身の女性に出てきてもらいたいという気持ちは分かる。また、今のカルネヴァーレは私が生まれた頃になってから復興された祭りであるから、現代的なアレンジが施されているのも致し方ないのではあるが、それでも釈然としないところは残る。

街を歩いている観光客の仮装にも私としては違和感を感じる。カルネヴァーレの仮装といえば、シンプルかつ薄気味の悪い種々の仮面に黒い外衣を纏うものだと思っていたし、こちらのマスケラの工房の店先などにはそういうマネキンも出ているのだが、どういうわけか観光客たちはことごとく華美で奇抜な衣装を身に付け、自分の存在を誇示しながら歩いているのである。

仮装というものは自らを怪物と化すことで人間としてのアイデンティティを消すところに意味があるのだと思っていた。私はヴェネツィアの街に冷たい霧と黒衣の怪物が忍び寄り這い回り、次第に冥い異界へと変貌していくところが観たかったのであって、チンドン屋が明るく盛大に練り歩く街が観たかったわけではない。

どうやら本来のカルネヴァーレは私が恋したヴェネツィア共和国と共に、すでに歴史の闇の中に消え去っていたようだ。まあ今回の場合、御陰で期間中に外に出る気が失せたというのはありがたいことかも知れないが。

聖マルコについて

すでにプレイベントも始まっており、パスティッチェリアにはfrittelleフリッテッレやgalaniガラーニなど、この時期ならではのお菓子が並んでいる。街はまた混雑し始め、休暇していた店の多くもぽつぽつ営業を始めるようになった。この1月30日からヴェネツィア最大のイベント、カルネヴァーレが始まるのである。

その陰に隠れてあまり話題になることもないのだが、1月31日というのは聖マルコの聖遺物がヴェネツィアにもたらされた記念日である。混み合う前にと思って先日サン・マルコ聖堂へ入ってみたということもあるので、ここでちょっと記しておこう。久しぶりに家主の本によるヴェネツィア案内であるが、しかしそもそもこれは54代ドージェであり、文人でもあったアンドレア・ダンドロの記録に拠ったものだということである。各所で話の内容や年号などに現在の通説と異なる部分があるのはその所為かと思われるが、とりあえずそのままとする。

このエヴァンジェリスタの行跡については様々な伝説があるのだが、エルサレムに生まれたマルコは使徒ペテロによって洗礼を施され、その忠実な代弁者・使者となった。その後ローマから北へ向かって進んでアクィレイアに到着、そこに最初のキリスト教会を創設したということになっている。このアクィレイアというのはヴェネツィアの北西100kmほど、電車なら三時間強の位置にある。

マルコはその後、ローマへの帰途についた。航海は順調に始まったが、しかしそれで終わっては伝説にならない。リーヴォアルト(リアルトの語源となった言葉だが、もともとこの言葉はヴェネツィアの中心部、現在のサン・マルコ地区の辺りを指していた)の湿原にある島々の近辺へくると不意に(都合よく)風が激しさを増し、荒れ狂う時化となったというのである。エヴァンジェリスタを乗せた船はやむを得ず、小島の間を流れる運河へ待避した。

彼が降り立ったのは現在ではサン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ修道院が建てられている辺りだとされている。ヴェネツィア北岸、アルセナーレの側の辺りで、ここら辺にはCelestia(天国)という、いかにもそれらしい名のヴァポレットの乗降場があるのだが、しかしここにはマルコが降り立った地であることを示すモニュメントも観光客の姿も見られない、落ち着いた場所である。

何とか嵐を避けることのできた船乗りたちは、漁師たちのあばら屋で手厚いもてなしを受けた。ところがマルコは一人海岸にひざまずき、熱心に祈り始めたとされる。彼は法悦に陥り、光に包まれて天から降りてきた天使を見た。
  “Pax tibi Marce, evangelista mevs”
「安寧は汝と共にある、マルコ、我が福音を伝える者よ」天使はこう彼に告げた。「恐れることはない、福音を伝える神の使者よ。苦難はまだ多いが、汝の死後この場所に比類なき街が興り、汝の肉体はそこに安らぎを見出すこととなろう。そして汝はその街の守護者となる」
その間に嵐は止み、マルコは旅を再開することができた。彼はローマへ到着し、福音を説くためにまたそこからアレクサンドリアへ赴く。多くの人々が彼の話を聞くために駆けつけ、エジプトの街のキリスト教徒の数は夥しいものとなった。

そんなある日、憎しみに駆られた異教徒たちが彼の背中を切りつけ、そして馬車に縛り付けて街中を引きずり回した後、牢獄に閉じ込めるという事件が起きる。夜になると、その傷を癒やすために天使が降り立った。しかしその後もつらい殉難の日は続き、三日目にマルコは亡くなったのである。それは西暦68年の4月25日のことであった。

4月25日というのはイタリアの解放記念日でもあるので紛らわしいのだが、聖マルコの祝日として知られるのはこちらの日付である。この日までヴェネツィアに居ることができないというのが心残りでならないが、ともあれ、彼の遺体はアレクサンドリアの教会に安置され、その後数世紀が経った。かの天使が予言したとおり、ヴェネトのラグーナには一つの街が作りあげられてゆき、マルコの降り立った地には住民が小さな教会を建てて、ドージェは毎年そこを訪れて祈祷を捧げた。その福音史家への崇拝は非常に大きなものとなり、アレクサンドリアへ行ったヴェネツィア商人は皆その遺骸を崇めることを常としていた。

そして、11代ドージェであったジュスティニアーノ・パルテチパツィオが二人の商人、ブオーノ・ダ・マラモッコ(マラモッコのブオーノ)とルスティコ・ダ・トルチェッロ(トルチェッロのルスティコ、マラモッコとトルチェッロというのは地名)を使ってアレクサンドリアから聖マルコの遺骸を盗み出したという例の有名な話になるのだが、これについては他所にいくらでも書いてあるので例によって省略。

828年の1月31日、その福音史家の遺骸はヴェネツィアに到着、そしてそれは政治権力が宗教権力より優位にあることを示すため、司教のところにではなくドージェのところへと持ち込まれ、まずは聖テオドール教会に安置された。

そもそもそれまで聖テオドーロ(この地での愛称はトダーロ)を守護聖人としていたヴェネツィアがなぜ聖マルコを欲したかというと、聖テオドーロというのが、できればそこから独立してその影響力を排除したいと考えていたビザンチンの聖人であったこと、そして、アクィレイアにあった司教座大聖堂を拠点とする教会権力との角突き合いの中にあって、「アクィレイアの教会の創設者である聖マルコはヴェネツィア共和国の独立を願ってこの地に自らの遺骸を移されたのだ、これこそが神の意志である」という方向へ話を持って行きたかったからである。何もかも計算尽くで動くのがヴェネツィアであって、この共和国はただの信仰心から干涸らびた遺骸を欲したりはしない。

聖遺物というのは金による取引が禁止されているので、どちらかというと「信仰心から盗み出した」、そして聖マルコの場合、「アレクサンドリアの教会がイスラム教徒によって壊されようとしていたので、その遺骸を救出するために危険を冒した」という方が表向きには通りがいいのだが、実際のところ、アレクサンドリアの教会の内通者にはかなりの報酬が渡されたという話である。必要であればドージェや十人委員会(まだこの時代にはないのだが)の判断でいくらでもこういうことができたという、この柔軟性がヴェネツィア共和国の強みであった。

それはそれとして、聖マルコの遺骸がヴェネツィアにもたらされたことで人々は高らかにこの街の守護聖人マルコを称揚し、ドージェ、ジュスティニアーノ・パルテチパツィオは、その聖遺物を管理するのにふさわしい教会の建設を速やかに開始すると布告、4年後にその教会は完成する。そしてここから始まるサン・マルコ聖堂という建物の歴史が非常に興味深い。

ちなみに日本語だとサン・マルコ聖堂、サン・マルコ大聖堂、サン・マルコ寺院という書き方が混在するようだが、パラッツォ・ドゥカーレとつながっており、ドージェの私的な礼拝堂として建設されたこの建物は本来「聖堂(basilica)」である。「大聖堂(cattedrale)」というのは中央の教会から指定された司教座大聖堂のことで、確かに現在は大聖堂となってはいるのだけれども、教会の権力を頑なに遠ざけていたヴェネツィア共和国の建物としては「聖堂」と呼ぶ方が相応しい。

最初のサン・マルコ聖堂はまだ草の茂る空地に作りあげられた、ロマネスク様式とビザンティン様式の要素を含んだ木と煉瓦の建物で、後にヴェネツィアのシンボルとなる、かの壮麗な聖堂とはかけ離れた建築物だった。それは仕方のないこととして、「汝の肉体はそこに安らぎを見出す」と例の天使が告げたにもかかわらず、聖遺物の受難はこれからが本番である。なにしろこの時代、ヴェネツィアの家々はほぼすべて木で作られており、火事は頻繁なものだったのだ。守護聖人の教会もまた火事に遭い、焼失してしまったのである。そしてその際に聖マルコの遺骸は跡形もなく失われてしまったという。面白いのはここからである。

1004年、23代ドージェであるピエトロ・オルセオロⅡ世によって再建された教会が献納された際も、その聖遺物が再び見出されることはなかった。聖遺物を失ったままの守護聖人の教会を献納するというのは、ヴェネツィアのすべての人々にとって非常に心苦しいことであった。そこで彼らは、まだこの街に守護聖人がいなかった頃のように、父なる神に直接助けを求め、祈り始めたのである。ドージェと評議委員、ドージェ夫人とその子女も慎ましい装いをして祈った。貴族とその使用人、聖職者、商人、職人、人夫、漁師も祈った。つまりヴェネツィア全体が祈りを捧げたのである。

昼夜途切れることなく続いたその祈りのささやきを聞き届けざるを得ず、主はとうとう、聖マルコにその姿を現すようお命じになったのであった。そう、荘厳なミサが行われていたときのこと、焼け残ったものであった大理石の壁柱の壁が突然裂け、列席者の驚嘆、歓喜、そして畏怖の中、マルコはその腕を外へ差し出したのである。

感謝を捧げるための荘重な儀式の後、盗難や涜神の危険に備えるため、その遺骸は新たに教会の中に作られた秘密の場所に安置された。ただドージェと聖堂参事会員長のみがその場所を知っていた。その秘密はあまりに注意深く守られたので、時が経ち、この土地に聖マルコが安置されているということが忘れられてしまうほどだったという。

……パドヴァの聖アントニオ聖堂へ行くと分かるが、聖遺物というのは非常に強い信仰の対象となっており、持っていればこれ以上に教会の権威付けになるものはない。通常であれば、これでもかというくらいきらびやかに、そして自慢げに、人目に付くような中心部に飾られているものである。後は察して貰いたい。

ここまででも何ともいえない話なのだが、しかしまだ終わりではない。1050年頃のこと、またもや恐ろしい火事があり、教会は完全に焼失することとなる。炎は建物に重大な損害を与えながら瞬く間に広がり、人々は真っ先に、聖遺物が焼き尽くされてしまったのではないかと恐れた。その後の聖堂の再建工事は1094年になってやっと完成、その間もやはり守護聖人の遺骸が見つけ出されることはなかったのではあるが、32代ドージェ、ヴィタリーノ・ファリエルは6月25日に建物の献納式を行うことを決めた。

もうどうコメントすればいいのか分からないが、ここでまたヴェネツィアの人々は同じように祈り、そして今一度、荘厳なミサの行われていた間に神意によって建物の壁が崩れ、光の中から聖マルコの古い柩が現れたというのである。今回の場合、聖遺骸そのものではなく、柩というところにちょっと遠慮が表れている。さすがに無理があると思ったのか。

この柩は新しい教会の、当然また秘密とされた場所へ安置されることとなるのだが、しかしこの奇跡的な出来事を祝うため、人々がそれを直接崇めることができるようにと半年の間は公に展示された。このような機会には貴賤の別なくあらゆる人々の間でお祭り騒ぎとなるものであり、何人かの研究者はここにヴェネツィアのカルネヴァーレの起源を見出しているという。ただし私の経験からいうと、イタリア人がこういう言い方をした場合の信憑性は皆無である。カルネヴァーレの起源についての話など、幾つあるのか知れたものではない。

柩は出てきたものの、聖人の遺骸そのものはあいにくながらその形跡を失ったまま長い年月が過ぎた。それがやっと見つかったのはなんとヴェネツィア共和国が崩壊して十数年が経った1811年、聖堂の修復作業が行われていた間のことであったという。現在それは最も大きな祭壇の下に埋葬されているそうな。また、秘蹟の祭壇の左側面の支柱の上、その前で灯明の燃えるところに、モザイコで飾られた大理石の四角いパネルが見える。その場所こそ、1094年6月25日、聖者の柩が信者の前へ奇跡的に姿を現したところだという。

というわけで実際にそのパネルを見に行ってみたのだが、長くなったので一旦休憩。

香気と冷気について

新鮮なハーブが手に入ったのでハーブティーを手作りしてみました。今回はtimoタイム、salviaセージ、rosmarinoローズマリーのブレンドで、これらのerbe aromatiche(ハーブ)はもちろんリアルト市場で買ったものです。お湯を注いだ瞬間からお部屋がステキな香りでいっぱいになって、とってもリラックスできます。

自分で書いておきながら寒気がする。確認しておくが、私は四十に手が届こうというオッサンである。完全に道を間違えているような気がするが、もう考えても仕方がないような気もしてきた。ともあれ何故こんなことになったのか、順を追って説明しよう。

芹男氏来訪中のとある一日、リアルト市場で仕入れた食材で料理がしたいという氏のたっての御希望で朝から市場へ繰り出した。リアルト市場は昼過ぎにはどこも閉まってしまうので、朝から買い物をして昼食を作ろうという算段で、調理を行うのはもちろん市場のすぐ傍にある私のアパルタメントである。

日本にいた頃も折に触れて二人で珍道中を繰り広げていたので、基本的にやっていることは普段と変わらない。日本であれば、芹男氏が目を輝かせてあれやこれやと買い物をするのに黙ってついて行き、荷物を持つだけで済むのだが、しかしこの地ではいいモノを扱っている店への案内やら通訳やらをしなければならない。

ところが、すべて私に任せてくれればいいものを、芹男氏はご自分でイタリア語を話そうとなさる。せっかく店の人がsfilettare(魚をおろす、市場へ通うためには重要な動詞である)して欲しいか、と訊ねてくれて私が肯定したのに、横から余計なことを言ってそのままになったりなど、私が市場に通い出した頃と同じような失敗をなぞっていったのだった。まあ、氏の腕があればちょっと手間が増えただけのことで済むのであるが。

氏も完全に暴走モードに入り、まず最初の店ではシャコ1kg、ジャコウダコ四匹、ホウボウ一尾、シタビラメ一尾、アサリ一袋。青果店の方ではインゲン一つかみ、ズッキーニ四つ、ブロッコリー二つ、ラディッキオ・トレヴィーゾ二つ、レモン二つ、カストラウーレ五つ(とそれに付随する大量のイタリアンパセリ)、ルーコラ一つかみ、オレンジ四つ。そして肉屋で馬肉のカルパッチョを200gと購入。ここまでで締めて€60程度である。しかしこれだけのものがあると、この金額が高いのか安いのか判断のしようがない。シャコがでかい上に安い、と仰って芹男氏は興奮していらしたが。

そして問題のハーブである。リアルト市場で常時ハーブを扱っている店は、私の知る限りでは三箇所ある。どちらかというと広場から遠い方、露天ではなく建物の一階に入っている店が一番よい店なのだが、今回は肉屋を出たところでその話になったので、すぐ目の前にある方の店へ行く。モノがいいかは別として、おっちゃんはいい感じであった。そこでタイム、セージ、ローズマリーを一束ずつ、と手に入れたのである。

一回の料理では使い切れなかったそれらが現在、ハーブティーとして私の手元にあるわけだ。どこの店でも€2/一束で、その単位でしか買えないので仕方ない。かなり前に買ったpeperonciniトウガラシもやはり€2で、一年程度では使い切れない量が手に入る。こういったものが枝のままテーブルの上に飾られているのをたまに見かけるので私もその真似をしてハーブを飾ってみたところ、部屋が無駄にオシャレになってしまった。もう到底男の一人暮らしの部屋には見えない。どうしてくれよう。

さて、芹男氏がこれらの食材をどのように料ったかについてであるが、これは当然、氏のブログにお任せする。氏が私のアパルタメントで好き放題やっている間、私は語学学校へ行っており、ほとんど出来上がったものしか見ていないのだ。よって私の出番は片付けのみとなった。

家事の中で私が一番最初に完璧に身に付けたのは掃除、後片付けである。以前書いたように、実家暮らしが長くて料理が後回しになった所為で自然にそうなったのだと思っていたのだが、しかしこの日、私がこのように育ったのは芹男氏を初めとする大学の先輩たちに因るところも多分にあったのではないかと考え直した。思い出してみると、大学時代はやたらと共同研究室の掃除をしていたような気がする。

パラッツォ・ドゥカーレの呪いだとはこの時点で思いもしなかったが、この日すでに芹男氏の体調は下降気味であり、私が片付けに入ったらすぐに寝入ってしまわれた。これはこれで好都合である。かなり昔のことだが、やはり昼間からあちこち駆け回った後、飲みに行くにはまだ早いから大学の研究室でちょっとコーヒーを飲んでいきたい、と芹男氏が仰ったことがあった。ところがコーヒーを飲んでいる時間より準備や後片付けの時間の方が遙かに長く、私が念入りに機材やカップを拭いている間、ずっと待ちきれない様子でいらした、ということがあったのである。もちろん気付かないふりをして完璧に片付けたが。

そんなことを振り返りながら、心置きなく私のcucinaキッチンを取り戻す作業に没頭した。都合二時間以上かかっただろうか。なにしろワンルームの部屋の流しというのは小さいもので、やたらと作業効率が悪いのである。ちなみにコンロの方は四連の大きなものが備えられており、日本人には何かバランスがおかしいようにも見えるのだが、イタリア料理というものは同時並行であれこれやらなければいけないものなのでこれはこれで正しい。イタリア人がずぼらでちゃらんぽらんだから後片付けの効率性というものをまったく考えていないわけでは断じてなく、物事の優先順位が違うだけのことである。異文化を理解するというのはそういうことだ。そういうことにしておこう。

5時には起きると仰ったがお疲れの様子なのでそのまま寝ていてもらい、7時頃にはいい頃合いだとみて近くのCaffè del Dogèでエスプレッソを飲んで目を覚ましてから、これも繰り返し御希望であったbacaro(ヴェネツィア方言で居酒屋を指す)巡りへ。ベタな観光客向けコースだったのではあるが、しかし有名店が有名店であるのにはそれなりに理由があるものだと勉強になった。ヴェネツィアのバーカロにはそれぞれに趣向を凝らしたチケーティがあるのだが、Do Moriのfondi di carciofo(カルチョーフィの太い部分を輪切りにしてブイヨンで煮込んだもの)やDo Spadeのfioli di zucca ripieni di baccalà(カボチャの花にバッカラを詰めて衣を付け、揚げたもの。この料理法はシチリアに起源があると語学学校の先生に教えられた)は確かに美味しい。

ちなみにDo Spadeにはカ・フォスカリの日本語学科で学んだという店員がいて日本語が通じる。初めてこの店に入ったとき、この方が珍妙な京都弁を使ったので面食らった覚えがあるのだが、これは絶対に京都人の仕業ではなく、大阪のおばちゃんが面白がって変なことを教えたのに違いないと睨んでいる(追記:後日御本人に伺ったところ、関西の方に留学なさっていたということではあったのだが、果たしてそれだけで「おまっとさんどした、堪忍どすえ」という語彙が身につくものだろうか。ちなみに、芹男氏と行った翌日に店の近く、というか家の近くで偶然行き交って挨拶したこともあって、この方には顔を覚えて貰えたようだ。この日は開口一番「お帰りやす」と言われた)。せっかく日本に興味を持ち、真面目に勉強してくれた人に何てことをするのだ。

さらに近くのアポナル広場のバーカロからリアルト橋を渡ってカンナレージョ、そしてミゼリコルディア運河の辺りへと三軒を巡り、すべての店で最低二杯ずつワインを飲んだ。昼食の時点で当然飲み始めているし、私は片付けの間もずっと飲んでいたので、この日は一体どれくらい飲んだのやら分からない。この街の冷気が私に味方したとはいえ、芹男氏より量をこなしたことなど初めてではないだろうか。

アックァ・アルタについて

年末年始は特別なこともなく、ただ仕事をしながら過ごしていた。大晦日にサン・マルコ広場のカウントダウンに出かけようかと考えたこともあったが、ナターレの頃に少し体調を崩していたこともあり、大事を取ったのである。カウントダウンのイベントはこの先また見る機会があるかもしれないが、リアルト橋の傍の閑静なアパルタメントの一室に佇み、一人でソアーヴェを飲みながら年越しの瞬間を迎えるということはもう無いだろう。

年が明けてからは、とある先生のお誘いでフェニーチェのコンサートに行って五嶋みどりのヴァイオリンを手の届くような距離で聴いたりなどと、相変わらずのんびりしていたのだが、しかし優雅な生活はそう長くは続かなかった。カルネヴァーレ直前のこの閑散期に、芹男氏がヴェネツィアを再訪されたのである。しかも運がいいのか悪いのか、ちょうどアックァ・アルタに当たったので面倒なことこの上なかった。

某有名海賊マンガでも知られるアックァ・アルタだが、これは満月・新月の辺りの大潮に加え、湾に海水を吹き寄せる南風、高潮を引き起こす低気圧等の諸条件が重なって起きるものだそうな。したがって、毎年決まった時期に必ず起こるというものではない。

だいたい9月くらいから心配をし始めるものだと来たばかりの頃に聞いており、シーズンになってから県のウェブサイトの予報ページを探して見たところ、やはりスマホの予報アプリがあったので使ってみた。このサイトで紹介されているアプリには二種類あって、パドヴァ大学の学生だった人たちが作ったものと、お役所の方で作ったものとがあるのだが、お役所が作ったものはサービス過剰で重たくて使いづらい。こういう傾向は世界共通なのだろうか。元となる予報データは共通であるからもちろん私はシンプルな方を使っているが、しかしこちらのアプリは場所の情報が文字でしか出ない。つまり土地勘のない人間には役に立たない代物なので、旅行者はお役所が作ったものを使うとよい。そちらでは地図の上に危険箇所が色分けして表示される。

ただ、この予報はせいぜい三日分しか出ないし、しかもその予報も5cm~10cmくらいの範囲でころころ変わる。これがどうにも中途半端である。海面すれすれのこの街にとってはその5cmが大切なのだが、やはり条件が複雑すぎてどうにもならんのだろう。

とうとう来るぞ、というときになると三時間ほど前に空襲警報のようなサイレンが街に響き、それに続いてどこからかアラーム音が聞こえてくる。二日目の夜に芹男氏と食事をしていた店で、うちのアパルタメントで聞こえるのと同じアラーム音を聞いた。すると防災無線のようなものがあるのだと思われる。

聞くところによるとこの冬はどうも外れらしく、大きなものは昨年10月、ちょうどベルギーから帰ってきた辺りに一回起こったきりであった。あの頃に前振りをしておきながらもこれまで話題とすることがなかったのはそういう訳である。して、先ほど挙げた諸条件を見て戴ければお分かりかと思うが、アックァ・アルタには雨が付き物となる。道の狭いこの街を傘を差しながら移動するのはただでさえ億劫であり、加えて足下にまで気を遣わなければならないというのはあまりにも鬱陶しい。ピークの数時間さえ外せばたいしたことにはならないので、時間に縛られない生活をしているのをいいことにこれまでは上手に避けていたのであるが、しかし滞在期間の限られる芹男氏をあちこち案内しなければならないとなると、これはちょっと追い詰められたかもしれない。

駅の近くにあるホテルまで芹男氏を迎えに行かなければならなかった朝のこと。7時くらいに例のサイレンとアラームが鳴り、家を出るかという時間になってから窓の外を見てみると、隣のPalazzo Dieci Saviの通路が水を湛えていた。文字通りに最高潮の時間だったのだが、実のところ、ヴェネツィアに住んでいるのに私はまだ長靴を買っていなかったりする。部屋には先住民が置いていった長靴があるのだが、しかし他人の履いた靴というのは余程のことがない限り履きたくない。

ヴェネツィアーニならば当然長靴を持っており、予報とアラームで事前にアックァ・アルタが起こるのを知って長靴で出勤する。長靴といえば、最初のアックァ・アルタの日、シルバーのスーツにえらくスタイリッシュな茶色の長靴を履いた、まるで植民地の探検に出かけたイギリス人のような紳士を見かけたが、これはきっとお金持ちの旅行客であろう。完全に街から浮いていた。

こういう日にはゴム底とビニールで出来た派手な色の簡易長靴があちこちの店頭に出るので、一般の観光客の場合はそれを買い、靴の外から装着して歩くことになる。同じものであっても値段は場所によって€5~10程度と開きがあるが、必要になったらその場で買うほかないので、いちいち値段を気にしている余裕はないだろう。

私はヴェネツィアーノではないので出来ることなら今さら長靴は買いたくないし、観光客でもないので不細工な簡易長靴を履きたくもない。ヴェネツィアの地理に詳しいのと時間に余裕があるというマージナルな特性を武器に、残り二ヶ月間、最後まで避けて通るつもりである。

ともあれ、予報通りの潮位であれば何とかなるはずだが、と思いながら部屋を出ると、アパルタメントの前の広場までは水が来ていない。ちなみにそこから数歩進んだcampo S. Giácomo di Rialto、いわゆるリアルト広場は池と化していた。こうやってほんの数センチの高低差で変わってしまうものであり、アプリを見たり何度か現場に遭遇したりするうちに各所の危険度もある程度把握できているので、行けるだろうと思っていつもの靴のまま家を出て駅へ向かう。私がいつも通る近道はやはりあちこちで水に浸かっていたので、結局一番メインとなっている道を選び、ローマ広場から回り込んで駅前まで到着。

最初の目的地であるフラーリ聖堂の辺りに問題が無いのはこの道すがらに確認しており、そこを見ているうちにピークも過ぎるだろうと思っていたのだが、次の目的地であるアッカデミアへ行こうとしたところ、バルナバ広場の南でまた道を阻まれた。今回のアックァ・アルタはなかなか強敵である。

芹男氏は突っ切っていきたい様子であったが、ヴェネツィアを観光するのにがっついてはいけない。この日は遠回りした御陰で午後二時までの開館時間を逃し、後日に回すこととなったが、わずか四日間程の滞在期間、それもアックァ・アルタの起こる期間にあれもこれもと詰め込み、いい飲食店が片っ端からferie(長期休暇)を取っているという悪条件の中で最終的にほぼ辻褄を合わせたのは優秀なガイドがあってこそである。例えば今回、サン・マルコ広場にはほぼ毎日のように行ったのだが、その場で最も効率的な道を選びつつも毎回違った道を通って行き、また違った道を通って帰るという離れ業までこなしたのだ。少しくらいこちらのこだわりを通してもよかろう。

一般の観光客なら必ず道に迷って時間を失い、この街のことを知らずに立てた計画ならば三分の一も達成できないに違いない。しかしヴェネツィアで道に迷うというのは必然でありながらも大事な経験の一つだったりする。

さて、アッカデミアを措いて向かったのはPalazzo Ducale、ドージェ宮である。人混みと行列が嫌いな私はこれまで中に入ることがなかったのだが、何しろ今は閑散期なので貸し切りのような状態であった。広大な部屋の数々と膨大な絵画に圧倒され、改めてヴェネツィア共和国の度外れた国力を思い知り、それでありながらも引き締まった造作にこの国を千年続かせた堅い節制を見て取る。とにかくどの部屋にいても名状し難い重圧を感じた。国としては200年以上も前に潰され、ドージェや十人委員会の人々の姿もすでに無くなって久しいというのに、この建物は明らかにまだ生きている。

Ponte dei Sospiriため息橋の内部を通って監獄へ向かう。パラッツォ・ドゥカーレの方だけでも十分怖いのだが、こちらもまた当然のように怖い。見物客が耐え切れなくなるのを見越したのか、所々で見学コースをショートカットして戻れるようになっているほどである。窓の極端に少ない堅牢な石造りの監獄の中にはアックァ・アルタと雨のせいでじめじめとした寒さが這いまつわっており、こんなところに入れられたら数ヶ月も持たないのではないかと感じるような厭わしい空気だったのだが、しかし芹男氏と私は嬉々として端から端までじっくりと見て回り、どん底の部屋にあった囚人達の落書きの解説を見てはケタケタ笑っていたのだった。この後、最終日に向けて芹男氏はどんどん体調を崩していったのだけれども、それはここの空気が体に障った所為ではないかと思う。それともこの場所で何かに取り憑かれたのだろうか。