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過ぎ去った春について

季節はとうに夏であるが、ここのところしばしばSpaghetti Primaveraを作っていた。プリマヴェーラというのはイタリア語で「春」という意味である。これはヴェネツィア料理でないどころか、そもそもイタリアではなく北米で作られたレシピなのだそうだが、ヴェネツィアかぶれの私が何故このようなものを作る気になったのかというと、そのレシピをマ氏から直伝されたからである。

滞在許可証の受領のためにマルゲラまで連れて行ってもらった際に雑談の中で教えてもらい、その後トロンケットからリアルトへ戻るヴァポレットの中でメモに書き付けたものを貰ったのだけれども、イタリア人直筆の文字というのは日本人にはとても読みづらい。私の会話能力が心許ないので、特に最初の頃はマ氏からたくさんのメモをもらったものだが、その度に苦労させられたものである。このレシピについては後日、とあるシチリアーノの助けを借りてやっとのことで解読した。

そういえばヴェネツィアの市中で最初の頃に戸惑ったのは彼らの数字の書き方であった。彼らの書く「1(いち)」はl(エル)との区別のために上部の切り返しの部分が非常に長く、ひどいときには⊿のように見えるので、日本人の目には「4」に近いのである。tramezzino(サンドウィッチ)一つが€1,70なのと€4,70なのとでは大きな違いだ。ヴェネツィアというのはこんなに物価の高いところなのか、と勘違いしたのも今はいい思い出である。

ともあれ、マ氏のレシピはスカローニョ(エシャロットのことだが、タマネギで代用可)のみじん切り、さらにニンジン、セロリ、ズッキーニの千切りを炒めたところへ茹でたパスタを和え、塩コショウ、オリーヴオイル、パルミジャーノで味付けするというもので、素材から見るに「春野菜のスパゲッティ」というくらいが適当だろうか。ネットで見てみると、組み合わせる野菜には無数のヴァリエーションがあるようだった。

スパゲッティと絡めてフォークで食べるので、千切りはかなり細く、そしてニンジンやズッキーニなどはそのままの長さで縦に切るくらいに長くした方が食べやすい。そしてこの「千切り」であるが、マ氏のレシピにはtagliati alla julienne、つまり「ジュリエンヌ流に切る」と記されていて、これは辞書を引いても間違いなく千切りの意となっている。綴りから見てフランス語起源なのは間違いないが、それにしても「ジュリエンヌ切り」という言い方はどうだろう。フランス語ではJeanジャン(男性名)に対してJeanneジャンヌ(女性名)となるのだから、ジュリエンヌも女性名なのだろうか。そうするとPaulineポーリーヌはPaulの女性形だったか、などと思考が横っ飛びする。

どのような女性だか知らないが、千切りの異名とされるようになったジュリエンヌの身の上とは一体どれほど凄絶なものであったのか、とあれこれ想像を巡らして勝手なイメージを作り上げたうえで、とはいえそのような女性とはなるべくお近づきにはなりたくないものだ、とさらに勝手なことを考えながらとりあえず検索してみた。すると某ネット百科事典に「Jean Julienという名のコックに因む」とあるではないか。Jeanであれば男性である。だったら切り裂き魔でも女性の方がよかったのに。

例えばFegato alla venezianaだとかBaccalà alla vicentinaという料理名を見ると、fegatoもbaccalàも男性名詞(baccalàはaで終わっても元が外来語なので男性名詞)であるけれども、venezianaやvicentinaは形容詞の女性形となっている。これはおそらくalla (cucina) venezianaというふうに女性名詞が間に省略されているのではないかと思うが、julienneもフランス語の形容詞を女性形に活用したものということだろう。まったくつまらない話である。

つまらないといえば、最近は早朝から深夜にかけて単純労働に明け暮れ、生活にも甚だ彩りがない。忙しいせいで例のバッカラ関連レシピの翻訳はまだ半分も進まないのであるが、そんな中、さらに私を追い詰めるかのようにヴェネト語の辞書がもたらされた。

まだヴェネツィアにいたある日のこと、Campo S. Maria Formosaの近くの書店でヴェネツィアの民話をまとめた本を二冊ほど購い、アパルタメントに帰ってから開いてみたら当然のようにヴェネト語で書かれていた(表紙のタイトルは標準イタリア語だった)ということがあった。仕方がないので帰るまでにまた辞書を探しておこうと思っていたのだが、忙しさに紛れて忘れてしまっていたのである。

ということで、6月初頭までヴェネツィアに留学していた学生(神戸の人)に頼んで適当な物を見繕ってきてもらったのである。ちなみにこの学生は帰り際に電子辞書を託した学生(東北)とは別で、また、1月にサン・マルコ聖堂に連れ立っていった学生(神奈川)とも別の人である。学生だけではなく先生方にしてもそうだが、ヴェネツィアではイタリア人だけではなく、多くの愉快な日本人と出会ったものだった、とあらためて思う。

さて、辞書が手元に来たのはいいが、先述のとおりなかなか腰を据えて読む時間がない。それでもぱらぱらとこの辞書の凡例を読んでいたところで気が遠くなったのだが、何がひどいかといって、一口にヴェネト語とはいってもヴェネツィア語とムラーノ語とブラーノ語とキオッジャ語の間ではアクセントや動詞の活用、そして代名詞の使い方が微妙に異なるなどというのである。

そういえば昨年の末頃、霧に包まれたサン•セバスティアーノの学舎で「これがcaigoというものか」とヴェネツィア大学の先生に尋ねたとき、この単語が通じなかったことがあった。ヴェネト語でラグーナに出る霧のことを指す言葉のはずだ、と説明したら「ああcaligoのことか」と納得された。

bigoiとbigoli、あるいはmoecaとmolecaという例を見知っていたのでヴェネト語に「l」が入ったり入らなかったりすること自体は知っていた。さらに広い範囲でいうと、定冠詞複数の「gli」はヴェネツィアでは「リ」に近い発音だが、シチリアーニは大きく口を横に広げて「イ」と発音する。それはそれとして驚いたのはその後であった。

「l」が入るか入らないかについては標準イタリア語の影響などを含んだ時代による変化ではないかと見当をつけていたのだが、その先生は「うちの辺り(サン•マルコ地区)ではcaigoとは言わないけれども、別の地区ではそう言うかも知れない」と仰せになったのである。つまりヴェネツィア本島内でもセスティエーレ(カステッロ地区、サン・マルコ地区、カンナレージョ地区、サン・ポーロ地区、サンタ・クローチェ地区、ドルソデューロ地区)毎に言葉遣いに違いがあるかもしれないというのだ。

それはもう誤差と言ってしまってよい(私の「caigo」がこのとき通じなかったのは、発音上の問題か、あるいは「イタリア語に不慣れな日本人がヴェネト語を使うはずがない」という文脈上の解釈の問題とも考えられる)のではないかと思うし、どうしてこの狭い島の中でこの程度の違いが収斂されていかないのかさっぱり理解できないのだが、しかしこの間の微妙な揺れというものが飲み込めなければ場合によっては辞書を引くことができないのではなかろうか。こうやってその場の勢いであれこれと手を伸ばしてはその度に泥沼に嵌まっていくというのはいつものことであるが、さすがにこれはキツい。私が買った本はいったい何処の島の何処の地区の言葉で書かれているのだろう。

口の開け方について

未だに慣れないのだが、そういえばパソコンが常時ネットにつながっているのだったと気付いてrisi e bisi e fragoleを画像検索してみたところ、単にイチゴが上に乗っかっているだけで特にどうということはなかった。イタリアの名誉のために一応ことわって置くが、ネットに関しては私が仮寓していたリアルトのアパルタメントが特別だったのである。他の先生方の家や留学生の寮ではきちんとネット環境が整っていた。

して、ヴェネツィアかぶれとしては当然のこと、4月25日にrisi e bisiを作ってみたのだが、旬の素材で作ったらさすがに味が違った。この料理、古いレシピではインゲンの莢を捨てることなく、塩ゆでした後に裏ごし器でつぶしてペースト状にしたものを加えるという一手間がある。参考とした本によると、食材をわずかなりとも無駄にすることが許されなかった往事の様子が思い起こされる、との評であった。

実際にそっちのレシピでやってみたところ、火も水も手間も余計にかけて繊維質の多い莢からわずかな栄養を搾り取ることにどれほどの意味があるのかは今ひとつ分からなかった。イタリアでは料理の最中にトマトをつぶしたりする機会も多いと思われ、そのために裏ごし器という道具が日本より身近であるのだろうが、日本の我が家にある道具でこれをこなすのは一苦労である。ちなみにここで裏ごし器としたpassaverduraという機械は、日本語で「裏ごし器」と書いて想像されるものとはちょっと違う。新鮮な豆を使って作ったのが初めてなので味の違いについてはそっちに気を取られており、莢のペーストの効果については色味が変わること以外には何ともいえないのではあるが、ともあれ、ヴェネツィア、あるいはヴェネト州にもそういう貧しい時代があったということだけは何となく実感できた。

4月25日頃にヴェネツィアの街のウェブサイトを見ていたところ、解放記念日や聖マルコの祝日、そしてこれも以前紹介したbocoloボーコロ、ボッコロの記事があったのだが、現代のボーコロでは伴侶だけではなく母や娘にも薔薇の蕾が贈られる、というふうになっていた。日本のバレンタインチョコレートが女性同士で、あるいは自分自身にも贈られるものとなったように、イベントを盛り上げるために拡大解釈を繰り返して対象を広げていく、というのはどこにでもある話である。しかしイタリアには3月8日のfesta della donnaにも女性にミモザの花を贈るという習慣があるのだ。似たようなイベントが間を置かずに続くのなら差別化が必要ではないかと思うのだが、まあ、彼ら自身が楽しくやっているのであれば取り立てて問題とすることでもない。

気候や風土によってあれこれ違いはあるが、イタリアでそういう違いを一つ一つ取り上げて突き詰めていると、人間というのは何処で生きていても根本的に同じものだ、という結論に行き着くことがしばしばであった。

私は基本的に異端者と呼ばれるような人々ばかりを研究対象としており、ヴェネツィアにいた間もキリスト教の教義に引っかかるようなテーマで研究せざるを得なかった。ヴェネツィア共和国というのは自分たちが生き残るためなら十字軍の矛先をキリスト教徒へとねじ向けることすら敢えてする国であったが、欧州のとある国では現代でも神を冒涜すると現実的に刑法上の罪に問われるらしい。カトリックの総本山の国に滞在する間、この無神論者が何処で地雷を踏むことになるかとびくびくしていたのだった。

ところが、イタリアは欧州とアジア・アフリカとの境界、つまりイスラム世界という他者と直面するところに位置しているためか、あるいは総本山であることが精神的な余裕を生み出しているのか、結局は特に問題となるようなことはなかった。考えてみると、どの宗教でも総本山の近くには原理主義というものがないような気がする。逆にいうと、拠り所となるものが無い場所であると、信徒としてのアイデンティティを得るために「極端な実践によるアピール」という選択肢が生まれるのではないかとも考えてみた。

例によって話が飛ぶが、そうするとヴェネツィアから遠く離れてしまった私が「ヴェネツィア帰り」であることをネタにするためにも、やはり「極端な実践」が必要となるわけである。

と言っても今のところ生活に余裕がないので、家主の本を読み進める時間もなかなかとれない。せいぜい、バッカラに関するレシピを片っ端からまとめて訳している程度である。レシピの翻訳というのは実際に作ってみなければ大事なところで言葉の選択を間違えることがあるので、ここのところ肝心要の素材である干鱈・棒鱈といわれるものを探しているのだが、これがなかなか手近なところでは売っていない。

また、これら食材探しのついでにちょくちょくワインも物色しているのだが、日本のスーパーなどで売っているワインはコルク栓を使わないタイプばかりとなっているのが少々気にかかった。飲み残す際に便利ではあるもののどうも味気ない。

中でも一番の問題は、ヴェネツィアで手に入れたcavatappi栓抜きの出番がないということである。道具にはこだわる質なので滞在中にあれこれ手を尽くして探したところ、帰国する頃にはどういうわけか四本もの栓抜きを手に入れていたのだった。一般的にイタリアの家庭で使うものは、瓶のうえに固定してスクリューをねじ込むと両側のレバーが上がっていき、それを下ろすとコルク栓が抜けるようになっているタイプのものであるが、私が手に入れたのはすべてウェイターズナイフと言われるタイプである。こちらは通常、ソムリエやカメリエーレ(給仕)が使うものであるのだが、当然のことながら私は大勢でワインを飲む場面にあっては給仕役を務めることが多い。

一本目はリアルト橋の傍にある馴染みのタバッキ(煙草屋)で手に入れた。デザインはイタリアだが中国製で€6。このタバッキのおばちゃんと向かいにあるワイン屋のおっちゃんは、おそらく私がヴェネツィアで最も多く言葉を交わした人物である。

おばちゃんの方は先の熊本の地震のときにもメールをくれたが、6月辺りに日本に旅行に来るという話だったから何かと様子が気になるのだろう。東京~京都~広島と回る予定なのだそうで、ヴェネツィアでは日本の地図が手に入らない、と相談されてあれこれ手を尽くしたこともあった。世界に名だたる観光都市で他所の観光地の地図が手に入らないのは当然のことのようにも思えるが、住民にとっては不便な話である。

それにしても、東京と京都は何となく分かるが、そこへ広島が加わるのはどういうわけか。そういえばヴァポレットの乗降場などにある旅行会社の広告でしばしば厳島神社の写真を見た覚えがあり、その時は何故数多の観光地の中から厳島が選ばれているのかピンとこなかったのだが、これはもしかすると水没つながりではないのか。しかし、わざわざ極東の島国に出かけてまでアックァ・アルタを観ることもないと思うのだが。

それはそれとして、この一本目の栓抜きは馴染みの店で買ったものだけに愛着もあるのだけれども、中国製というのは少々物足りない。

そんな中、あれは初冬の頃だったか、大学の語学の授業で一緒になった人々とカ・フォスカリの近くの店で食事をしていたとき、店員が見慣れない型の栓抜きを使っていたのを見た。気になったので「その栓抜きは何処で売っているのか」と尋ねところ、「ワイナリーの販促用のもので売っているものではない」と説明した後で、奥から新しいものを出してきてプレゼントしてくれたのである。これにはMontagnerというワイナリーのロゴがあるのだが、後にあちこちのワイン屋で尋ねてもここのワインを取り扱っているところは見つからなかった。

三本目も同じ要領である。また別の店で店員がテーブルの下に落としていった栓抜きを見つけ、届けた際に二本目と同じ質問をしたところ、ほぼ同じ遣り取りでプレゼントしてもらった。こちらにはTerramusaというワイナリーのロゴが入っているのだが、ここのワインもまた見つけられなかった。だいたいイタリアに限らずワイナリーというのは多すぎるのである。日本のビール業界のように大手に収斂されてしまっているということがないので、この世界には分け入っても分け入っても切りがない。まったくうらやましい話だ。またこの栓抜きにはMuranoという刻印があり、同じタイプのもの(ただし当然ながらワイナリーのロゴはない)がsalizada S. Canzianの刃物店で売られているのを後に見つけたが、これがムラーノ島と関係があるのかどうかは知らない。

こうして二本目と三本目は酔いに任せた積極的なコミュニケーションの末に手に入れた。帰国直前、日本に荷物を送るために郵便局へ行ったときにもイタリア語を褒められたことがあったが、いくら英語が通じるとはいっても、やはりイタリアではイタリア語で話した方が何かと受けがいい。特に日本人の話すイタリア語はよく誉められる。

言語には閉鎖音(閉塞音)と開放音という区分があると向こうで聞いたのだが、イタリア語と日本語は共に開放音なのだそうな。さすがに言語学の説明は手に余るので詳しいことは適当に検索して調べてほしいところであるが、とりあえず英語のbankとイタリア語のbancaを見比べてもらえばわかりやすいのではなかろうか。銀行の語源はイタリア語のbanco(机)で、さらにいうと銀行というものはそもそもヴェネツィアで生まれたという話があるのだがそれはともかく、日本語もイタリア語も単語が母音で終わるのが基本なのである。そのせいで、英語とイタリア語で語源を一にする単語、あるいは近代になって英語からイタリア語に入った外来語であっても、辞書で見るとシラブルの切り方がずれていたりする。

そういえば、とある店で食事をしたときに珍しく突き出しが出てきて、まだ最初だったのでイタリア語ではなく英語で「これはプレゼントだ」と説明されたことがあった。しかしその発音はpresentではなく明らかにpresentoであって、日本人の中学生の英語を聞いているかのような気分になったものである。この店員は昔船乗りをやっており、商船に乗って日本にも行ったことがあるという話だったのではあるが問題はそういうことではない。

とにかく、日本人の発音はイタリア人に聞き取りやすく、その逆もまた同様、ということだ。したがって日本人にとってイタリア語は学びやすい言葉であると思うのだが、あまり需要がないのは残念なことである。

だいぶ長くなった。最後の四本目についてまだ説明していないが、これについてはまたそのうち出番があるだろう。

トリコローレについて

気がついたら帰国から三週間ほど経過していた。一年ぶりの車の運転、街での歩き方(ヴェネツィアは右側通行が基本だが、関西はどうやら左側通行のようだ)、異常に柔らかいパンなど、最初はあれこれ戸惑ったが、仕事が無いこと以外はもう何もかも元通りで、ヴェネツィアでの生活がすべて夢であったかのような気がするほどである。となればこのブログを続ける理由も無いのだが、まだ書いていないことや持って帰ってきた本などをネタにして、もうちょっと続けてみようかと思う。これまでより更新頻度は落ちるだろうが、もとより読者の少ないブログなので問題ないだろう。

ここで一つ問題なのは、イタリア語の電子辞書をとある学生に譲ってしまったということだ。何故そんな大尽ぶった真似をしたかというと、この学生が昨年末に電子辞書を無くしたという話を聞いたからである。この学生は大学の掲示板に「電子辞書を無くしてしまったので見つけたら連絡を」という趣旨の張り紙をしていた。事を荒立てようとしない日本人らしい対応である。これを見た時点で盗難被害と推測できたが、後に確かめたところ、大学で勉強中、ちょっと席を外した隙に無くなっていたとのことであった。

ヴェネツィアにいたとき、大学の日本語の授業を見学させてもらったことがあったのだが、そこでは結構な数の学生が日本の電子辞書を使っていた。今はスマホさえあれば大概のことは調べられるのだけれども、併用してみれば信頼性もスピードも電子辞書の方が上である。私も向こうにいた間は月に一回電池を交換しなければならないほどの勢いで使い倒していたし、日本人がイタリア語を学ぶにしても、イタリア人が日本語を学ぶにしても、これほど頼もしいものはないだろう。しかし、ただでさえ結構なお値段がするものなのに、イタリアで買おうとすれば当然日本で買うより高くなる。欲しいと思ったところで誰もが手に入れられるものではない。

そのような環境下にありながら日本と同じようなつもりで気を抜いていたその学生にも落ち度があると言えば言えるのだが、それもちょっと酷だと思う。何度も書いているとおりヴェネツィアというのは本当に治安のよいところなので、下手をすると日本にいるときより警戒心が緩んでしまうものなのだ。一般的に外国は日本より治安が悪いから気をつけろというけれども、日本の大学の図書館や自習室にだって置き引き注意の張り紙がある。張り紙があるということは被害があったということだ。程度の違いはあるのかも知れないが、何処でだって起こる話である。

私のような研究員、また教員の方々は日本の暦に従ってみんな3月のうちに帰ってきたが、留学生というのはイタリアの暦に従って6月まで滞在する。残り3ヶ月とはいえ、勉強も大詰めを迎える時期には電子辞書があった方が何かと便利だろう、と考えて若者の未来に託したわけだ。というわけで帰国してからはもともと持っていた紙の辞書を使っているのだが、読むスピードが遅くなるのは如何ともし難い。

読むだけならこの伊和辞典でなんとかなるが、今でもヴェネツィアで世話になった人にメールを書くことがあるので、和伊辞典の方を持っていないというのも不便なことである。ちなみにこの小学館の伊和辞典の表紙は緑色、和伊辞典の方は赤色となっている。これまで何とも思わなかったが、これはイタリア国旗に対応しているのではないかと今気付いた。

例によって話が飛ぶ。帰国直前の混乱の中、最後にアパルタメントの光熱費の清算というものがあった。各種のメーターの数字から実際に使った額を計算し、月々固定で払っていた額と最初の預け金の合計から引いたところ、€200超が現金で戻ってくることとなった。ここで€200紙幣というものを初めて見たが、最後になってユーロの高額紙幣を渡されても使い道に困る。結局帰国後に金券ショップで両替をしたのだけれども、昨年渡航した頃と比べて10%前後円高になっているので、このタイミングで€→¥の両替というのは何ともいえない気分であった。

それはそれとしてこの清算のやりとりの最後、例のイタリア国旗を模したエプロンをマ氏に進呈したところ、後日家主の方から御礼のメールが来た。そこでイタリア国旗とヴェネツィアに関するちょっとした逸話が紹介されていたのである。

イタリアが近代国家として統一する過程、いわゆるリソルジメント運動は1820年頃に始まるそうだが、その最後の一幕は1861年のイタリア王国成立に始まる。オーストリア治下にあったヴェネツィアが奪回されたのは1866年のこと、そしてその後の1870年のローマ併合、翌1871年の遷都へと到る。

この時期のスローガンとして最も有名なのはおそらく‘‘Viva Verdi’’という言葉である。Verdiというのは表向きには当時活躍した作曲家のヴェルディを指しているが、これはVittorio Emanuele II Re d'Italia(イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレII世)の略となっている。オーストリアの占領下にあった地域では表立ってイタリア王国を支持することが憚られたので、このような符丁を使ったということらしい。

これと似たようなもので、ヴェネツィアには‘‘Risi e bisi e fragole’’という言葉があったという。Risi e bisiというのは昨年ヴェネツィア料理の会をやったときの記事でも紹介した料理で、risiは米、またbisiというのはヴェネト語でエンドウ豆(標準イタリア語ではpiselli)のことである。そしてfragoleというのはイチゴ、これで白・緑・赤のトリコローレとなる。ヴェネツィアの愛国者たちはエンドウ豆のリゾット(厳密にはリゾットではないが)とイチゴを食すことによってオーストリアへの抵抗の意思を確かめ合ったとのことであった。

ちなみに英語と同じで、三つの名詞を並べる際、普通はrisi, bisi e fragole(家主はこう書いていた)となる。それがこの場合risi e bisi e fragoleとなるのは、
(risi e bisi) e fragole
だからである。risi e bisiという料理はドージェにも供されていたというからリソルジメント運動以前から存在しているもので、ここへイチゴがどういう形で付け加えられるようになったのかは現物を見たことがないので知らない。この料理はタマネギとエンドウ豆を大量に使うので思い切って塩を入れても十分に甘く、ここへイチゴを加えるにはどうしたらいいのかまったく想像が付かない。そんなもん別添のデザートに決まっているだろうと仰るかも知れないが、プリーモにドルチェが付くのも妙ではないか。まあ、これはどちらかというと庶民の料理なので、その可能性が無いとも言えない。つまりコースの中で出てくるのではなく、これ一皿で済ませるという食事の仕方もあると言えばある。

このrisi e bisi e fragoleについての逸話は以前から知っていたのだが、最初にこの話を読んだときには妙にこじつけくさいと感じ、後から適当に作った話なのだと思っていた。ところが後にカ・フォスカリの先生に確かめてみたところ、これは大真面目な話だというので大いに面食らったことがある。ここまでの話で、イタリア国旗のトリコローレを模した代表的な料理としてPizza Margherita(バジリコの緑、モッツァレッラの白、トマトの赤)を思い出した方もあるのではないかと思うが、このようにしてリソルジメント運動への連帯の意思を示した例はいくつもあったのだそうな。先日無くなった彼のウンベルト・エーコの弟子たちがこういった例を集めて記号論的に研究した本もあるらしい。この本は買って帰ってくるつもりだったのだが、残念ながら帰国前のドタバタの中で失念してしまった。それにしてもイタリア人と料理の関係というのは面白い。こうも抜き難いほどにアイデンティティに食い込んだ料理というのは日本にもあるのだろうか。

そういえば2月の半ばにはすでにリアルトのメルカートにもイチゴが出ていて、ブドウを入れるような深いパックに山盛りで€2.50だった。日本へ帰ってきてから野菜や果物があまりに高いのに驚いたが、このイチゴもまた日本の半額から三分の一くらいだろう。というわけで今はちょうどrisi e bisi e fragoleの季節である。滞在中は季節を問わず、冷凍のエンドウ豆を使って何度もrisi e bisiを作ったものだが、この時期のヴェネツィアで新鮮なものを使って作ればまた格別であろう。何故私は日本に戻ってきてしまったのだろうか。

街の原点について

気がついたら帰国まで二週間を切っていた。帰国直後に最後の一仕事があり、その準備に掛かりきりでいたためにあまり考えずにいたのだが、概ね出来上がってきたところで余裕ができるとあらためて帰国後のことを考えてしまう。

帰国と共に私の研究生活が終わるという可能性もあり、日本のことなど一瞬たりとも考えたくはないのだが、今の時期、街には卒業旅行と思しき日本人の若者がやたらとうろうろしている。カルネヴァーレが終わった途端に街はPasqua(復活祭)の準備を始めた(一年中祭りのことしか考えていないのだろうか)が、それでもやはり西洋人の観光客は当然減っている。もしかするとこの時期は一番日本人の比率が高いのではなかろうか。新婚旅行のカップルや老夫婦などと違って、彼らはグループの人数が多く、またよくしゃべるのでどうしても目に付いてしまう。

というわけで、一見の日本人なら絶対に近づかないであろうところへ現実逃避のための散歩に出た。

Fondamente Noveの船着き場からヴァポレットに乗って一時間弱。目指したのはTorcelloトルチェッロという島である。ブラーノ経由で行くのが一番簡単なので最初はヴァポレットの船内に中国語や韓国語も聞こえてはいたのだが、トルチェッロに降り立ってみれば私以外に東洋人の姿は見えない。それだけでもこの島に来た甲斐があったというものだ。

ヴェネツィアはこの島から始まった。共和国の歴史を語るうえで最初に必ず触れるべきところであるのだが、今ははっきり言って何もない島である。余程ヴェネツィアについて興味を持った人間でなければここに来ようとは思わないはずだ、という当て推量は見事に的中したのであった。

ラグーナ一帯にまとまった人が住むようになったのは6世紀頃のこと、ランゴバルド族の侵略から逃れるためであった。トルチェッロへ逃れてきた人々は、主にここから北方にあるアルティーノという街から来たとされている。時が経つにつれこの島は、マッズォルボ、ブラーノに加え、今は目立たないものとなっている島々(コスタンツィアーカ、チェントラーニカ、アンミアーナ、アンミアネッラ)など、多くの島をまとめ上げる体制の中心となっていった。

ところが8世紀から9世紀辺りになると、この地域の人々はより安全な場所を求めてリアルト方面の島々へ移住していった。地図で見るとトルチェッロの辺りは島が飛び石のようになっており、本土からもすぐに到達できるように見える。実際にはそれらは干潟であるので、土地勘や航海術を持たない侵略者がそう簡単に近づけるような場所ではないのだが、より安全な場所があればそれに越したことはないだろう。こうしてトルチェッロは衰退していくこととなった。

この島の不幸な運命と、ある司教がグラン・トッレ(大鐘楼)から突き落とされたときにこの町にかけられたという呪いとを結びつけた悲しい伝説がある。ここまでの解説もそうなのだが、出典はもちろん家主の本である。

司教によって呪いがかけられてからというもの、この島では不作が続き、人々はここを立ち去らざるを得なくなっていました。残ったのは、その罪に関するある予言を固く信じていたわずかな住民だけでした。穢れなき若者が塔に登って鐘を鳴らせばトルチェッロは蘇る、そういう予言です。その後、たくさんの者が手柄を立てようと試みましたが、誰も成功した者はありませんでした。

そんなある日、勇敢で誠実な一人の船乗りが、この試練に挑戦すると言い出します。彼はある美しい娘と恋仲であり、結婚も間近でした。ところがこの島に住んでいたある別の男もまた、もうすぐ花嫁となるこの娘に横恋慕をしていたのです。この男は恋敵である船乗りの青年のふるまいに疑いがかかるようにと、ありもしないことを言いふらし、土地の人々と諍いが起こるように仕向けます。その結果、殴り合いの喧嘩が始まってしまい、その最中にあって、愛しい人を守ろうと間に入った若い娘は誤って殴られ、死んでしまいました。

その瞬間のこと、誰一人いない塔の鐘が鳴り出したのです。それはもの悲しい、しかし決然とした響きでした。「無垢な乙女の血が流れたことで呪いは消え去った、しかしその住民は軽はずみな行いで彼女を死に至らしめた罪を購わねばならぬ。よってトルチェッロが昔日の繁栄を取り戻すことはない」、塔の鐘はそう告げました。そしてそのとおり、この島は衰退していくこととなったのです。

……この話で理解できないのは、失敗したら死んでしまうなどという条件もないのに、鐘楼に登って鐘を鳴らすだけのことが「試練」というほど難しいことなのか、という部分と、塔の鐘が告げたという「呪いは消え去った」という言葉が何を指すのかという部分である。「町が滅びる」という呪いが消えたのにも関わらず町が滅びるというのはどういう計算なのか。司教の呪いは消えたけれども新たな罪ができたので差し引きは変わらない、というのは悪徳金融みたいで救いのない話である。

ともあれ、トルチェッロの鐘楼に実際に上ってみた。ここで買ったガイドブックによるとこの鐘楼が最初に立てられたのは11世紀のことであり、その後何度か再建や修復をしているとのことであるから厳密には伝説に出てきた鐘楼とは違う。いや、この伝説自体が例によって怪しいものであるから時代考証を気にしてはいけない。

ヴェネツィア本島と違い、全盛期には顧みられなくなっていた地域であるので何もかもが何となく古くさい。もちろん本島の建築物だって古いものには違いないのだが、こちらはいかにもうらぶれた趣がある。飾り気のない通路をぐるぐる回って天辺へ行くと、当然ながら四方がよく見渡せた。が、見渡したところで何もない。島の住民は数十人、とガイドブックにあるのだが、小さな島の大部分は畑で、人家らしきものが至極わずかに見えるだけである。高いところは苦手なのだが、何にも無い景色に満足して暫しの間ぼんやりとラグーナを眺めていた。日本に帰らず、ここかサント・エラズモ辺りでカルチョーフィでも育てながら暮らしたいものだ。

鐘楼の手前にはBasilica di Santa Maria Assuntaという聖堂がある。中にはモザイコ画がいくつかあって、特に最後の審判の図は結構な見応えがあった。Lucifero(ルチフェロ、ルシファー)がただの白髪のオッサンで、またその膝の上にごく普通の格好をした人を座らせているのがよく分からなかったのだが、ガイドブックによるとこれはルチフェロの息子のアンティクリストだそうである。ルシファーに息子がいたという話は初めて聞いた。そうすると母親は誰なのだろう、と、こうやって無駄なことを考えていられるのもあと一週間ちょっとである。

その後は傍にある博物館へ。小さなところで、始終私以外に一人の客もいなかったのだが、この島に来てここ以外に見るべきものがあるのだろうか。ただ、この島にあったものとはいえ、ビザンティンのラヴェンナ総督府の影響下にあった頃のものなどはどこにでもありそうなものばかりで、人々がヴェネツィアという言葉から期待するようなものばかりが展示されているわけではない。元々聖堂にあったものだという小さなPala d'oroがあって、右端に聖テオドーロが居るのがやっとそれらしい、という程度のものであった。そういえばこの島にはあまり聖マルコの獅子が居ない。とある民家の門柱の上に狛犬のように二匹が鎮座していたくらいだったが、この二匹には翼が見られなかった。ヴェネツィアとはいろんな意味で距離のある島である。

博物館の表へ出ると、アッティラの玉座ともいわれる石の椅子があり、観光客が代わる代わるそれに座って記念撮影をしていたが、家主によるとこれはおそらくtribuni(護民官)の椅子だという話である。

日が落ちる頃になって一旦ブラーノへ戻る。同じ乗り場からヴェネツィア行きの船が出るので降りたところで待とうと思ったが、ものすごい行列ができていた。これを見て一時に現実に引き戻される。

一隻のヴァポレットに乗り切れるものだろうか、これは次の船を待たなければならないのではないか、と考えたが杞憂であった。来たときのものとは違うタイプ、本島では見たことのないような巨大なヴァポレット(乗船後に表示を見たら定員は400人とあった)がやってきて、待っていた人をすべて呑み込んでくれたのである。このヴァポレットは二階部分に操縦席があり、面白いものだと思って見ていたところ、停船後に操縦士がスマホを取り出して船着き場の行列を撮影していた。彼らにとって珍しいものではないだろうに、理解できない行動である。業務報告にでも使うのであろうか。

肉と魚について

気をつけるようにとは言われながらも、寝起きするパラッツォを一歩外に出ればそこはリアルト橋なわけで、カルネヴァーレの期間中も結局はちょくちょく街中を見て回っていた。夏場のレデントーレ前後の喧噪と比べてみるとどうも人が少ないような気がしたので例のイタリア人に伺ってみたところ、やはり昨年と比べると人出は格段に少ないそうな。テロの影響以外に思い当たることはないようだった。御陰で人混みの嫌いな私もそこそこ快適に見物することができたのではあるが、観光産業で生きている街としてはちょっと難しい話である。

カルネヴァーレの最後の二日間は「懺悔の月曜日」「懺悔の火曜日(マルディ・グラ)」、そして終わった翌日、つまり今日は「灰の水曜日」といい、この日から四旬節が始まる。キリストの荒野での受難を思い、この期間は断食をするというのが元々の話で、しかしいくら何でもそれはつらすぎるので、まずは肉食(卵・乳製品・油も)を断つ、というふうに変化したようだ。カルネヴァーレの''carne''というのは「肉」という意味であるが、「謝肉祭」とは「四旬節の間は肉が食べられないからそれまでにたくさん喰っとけ」という趣旨のものだと理解していいのだろうか。文字通り「肉祭り」である。

18世紀、ヴェネツィア共和国が最後の輝きを放っていた頃のカルネヴァーレの話である。期間中の最後の木曜日、ドージェ以下のお偉方が出そろう前へ雄牛が引き出されてきて、肉屋のオヤジがその牛の首を一撃で刎ねる、というイベントがあったそうな。その牛はリボンや花で飾られており、これは1164年にアクィレイアの総大司教ウルリコ(ウルリヒ)から贈られてきた貢ぎ物を模していたのだという。そこにどういう皮肉が込められているのかはちょっと解説が難しい。ともあれ、いかにも肉祭りというふうな催しである。

またそのとき、サン・マルコの鐘楼からパラッツォ・ドゥカーレの開廊、あるいは船着き場の筏の上へと延びた綱の上を曲芸師が渡っていき、ドージェや群衆の上へ花を投げていくという見世物があった。これを題して''Svolo dell'Angero''(天使の飛翔)という。現代のカルネヴァーレにおいては以前説明した''Festa delle Marie''(マリアたちの祭り)と組み合わされて再現されているようで、私は観ていないのだが、カルネヴァーレの初日、プレイベントの間に選ばれたマリアがワイヤーアクションでサン・マルコ広場の上空を飛び交ったのだという。なんか違うような気がするが。

このワイヤーは最終日にもまた利用される。夕方になると、まず特設会場に十一人のMarie(全部で十二人いるのだが、最後の一人は後から出てくる)、ドージェに扮した市長やドガレッサ(ドージェ婦人)、その他種々の扮装をした人々が現れる。そしてMarieの中から選ばれたMaria(単数形、要はミス・カルネヴァーレ)が発表された後、 ‘‘Svolo del Leon’’というのがあって、これでカルネヴァーレは一応終わりということになる。何度も書いているのでお分かりだとは思うが、Il Leon(標準イタリア語ではLeone)とは聖マルコの象徴である有翼の獅子のことである。

夕方五時の鐘が街に響く中、特設会場のステージの上に横並びになったドージェや十二人のマリアたちが、折りたたまれた長大な深紅の布地を掲げた。当然ながらそれは有翼の獅子が描かれたヴェネツィア共和国国旗であり、これが件のワイヤーで吊り上げられてサン・マルコ広場上空へと向かって展開、盛大な楽曲と共に鐘楼までの間をゆっくりと進んでいく。あいにくというか、いつも通りの曇天を背景に鮮やかな緋色が映え、まずまずの見世物であった。

家主の教える18世紀のカルネヴァーレにおいては、最終日の日没と同時に広場では花火(打揚花火ではないものと思われる)に火が付けられ、またラグーナは篝火で満たされたのだそうな。そういうものを期待して広場へ行ったのだが、さすがに昔のようにはいかないようだ。

ラグーナの篝火というのは水面に浮かべた松脂の樽に火を付けたもので、日の落ちたサン・マルコ運河一面に火が灯されたとなればさぞかし壮観であったろう。ただ、Gaspare Gozziという人が書き残した‘‘Gazzetta Veneta’’の一節によると「その火は得も言われぬほど美しく、称揚すべきものであったのだが、多くのマスケラがそれを褒め称えることはなかった」とのこと。修辞のみで文章を書くイタリア人には珍しいことだが、これは、火に見惚れていたとしてもその陶酔した表情はマスケラによって覆い隠されており、その本心を窺い知ることは決してできない、とかいう気の利いた表現ではない。

これがはっきりと不評であったのは、篝火のせいで張り込んで作った衣装が煤けてしまうからである。大量の松脂が燃やされるのだから、その臭いと煤は相当なものだったはずだ。大気汚染が問題となっている現代のヴェネツィアでは到底再現できまいが、それ以前にヴァポレットの運航に与える影響や安全上の問題があるだろう。

では当時はどうしてわざわざそんなものを使っていたのかというと、ヴェネツィアにとって松脂というのは、常に一定程度の量が手元にある、お手頃なものだったからである。船の建造に使うというのが第一の用途であったのだが、戦時になるとこれは武器にもなった。ラグーナに不慣れな敵の船をおびき寄せて浅瀬で座礁させ、動きの止まったところへ火を付けた松脂を投げ込む、というのはヴェネツィア防衛の基本戦術である。

と、ここまで考えて、この篝火の話はすでにどこかで読んだことがあるもののような気がしてきた。やはり塩野さんの本だろうか。

さて、カルネヴァーレが終われば節制の日々が始まるのだけれども、しかし家主によると、ヴェネツィアーニは「四旬節の間であれ、食べる楽しみを押さえ込むことなどできなかった」とのこと。イタリア人に「美味いものを喰うな」というのは死刑宣告と同義であるからこれは当然のことだろう。よって結局のところは灰の水曜日と聖金曜日の二日だけ質素なもので済ませる(妥協しすぎではないのか)というところへ落ち着いた。ヴェネツィアではこれらの小斉日に、これまで何度か話題にしてきたbigoli in salsaを食べる習わしがある。

薄切りにしたタマネギを炒めてから塩漬けの鰯を加えて身をほぐし、そこへ茹でたビーゴリを和えて胡椒を振る、というだけのシンプルな料理で、手元にある詳しい方のレシピ本を見ても、炒ったパン粉を振りかけるとか、パルミジャーノの粉末を加えるとかいう程度のヴァリエーションしかない。何しろ簡単な料理なので私自身もこれまでに何度か作っているが、いわゆる精進料理であるにもかかわらず、外で食べると「ヴェネツィア料理」というだけの理由で結構なお値段がする。よって今晩はもちろん自炊である。それはそうと、ヨーロッパでは魚は節制の対象とはならないのだろうか。

一番最初にこの料理を食べた店ではあまりの塩辛さに悶絶した、と書いたことがあったと思うが、大量の鰯ペーストで灰色になっていたあのbigoli in salsaは、もしかすると「灰の水曜日」と引っかけてあるのだろうか。そう思いついたところで、わざわざあの店へ確かめに行く気にはなれないが。

サン・マルコ聖堂について

ヴェネツィアーニは総じて地味で、イタリア南部の人たちと比べると人見知りも強く、とにかく控え目で始末屋、というのがこれまでのイメージであった。パラッツォ・ドゥカーレへ入ったときもその印象は変わることがなく、この自制心こそがヴェネツィア共和国の繁栄の礎であったのだな、と思っていたのだが、これはとんでもない勘違いだったようだ。

サン・マルコ聖堂へ入るのは滞在9ヶ月目にして初めてのことである。これまで前を通り過ぎるだけであったのだが、ちょっとした切っ掛けがあったのでようやく中へ入ってみた。入るのはとりあえずタダだが、例の秘蹟の祭壇の近くへ行くには€2、聖具室の見学には€3のお布施が必要である。しかしここまで来て多少の金をケチっては逆に勿体ない。これこそが見所である。

聖堂の外側にもあるのだが、中へ入ってまず目を引くのは天井のモザイコ画であった。そして暗い灯りに目が慣れると、それ以外の部分がほぼ金で装飾されているのに気付いて気圧される。いや、辟易とする。どうもこれまでのヴェネツィアとは雰囲気が違うようである。保護のためだろう、カーペットなどで遮られて実際には見えないのが残念であるが、帰ってから家主の本に付されている写真を見ると床の紋様もまた手の込んだものであった。

一応は宗教施設であるから、こういう場所はいくら装飾を施そうとも概ね俗悪になる一歩手前で踏みとどまるものだと思っていた。が、この聖堂は迷うことなく突き抜けているではないか。調べてみると三代目のこの聖堂は完成した後にも何度か改修を施され、その度に装飾が付け加えられていったということであった。ヴェネツィア共和国が手に入れた富を脈絡無く吸収していったことでこうなったということか。

聖マルコの柩が出てきたという例のパネルを探して€2を支払い、祭壇の裏側へ回っていくと、Pala d'Oroという祭壇画を見ることができる。是非これは画像検索して見て戴きたいが、これを見て宗教的な有難味などを感じている暇など無い。目に入るのはただ全面の金の輝きと夥しく鏤められた巨大な宝石の数々、感じられるのはヴェネツィア共和国の想像を絶する富力のみである。同行者は、これだけ宝石がある(二千個に近いそうな)のだから一つくらいくれたっていいのに、などと暢気なことを言っていたが、これだけのものを見てまだ欲が出るというのが私には理解できない。これが若さか。ともあれ、パネル探しを忘れて束の間呆然としてしまった。

ちなみにそれらしきパネルはすぐ傍に見つかったが、例の話を知らなければどうということはないものである。周りの観光客も誰一人そのパネルを気にする人はなかった。モノというのはモノガタリが伴わなければ生きることができない。

次に聖具室へと巡る。ここにもまた溜め息しか出ないような銀の燭台や十字架、杯などが展示されているのだが、何とも不思議なことにこれらの品々には邪気がない。彼らにとって富とは一体何だったのだろうかとここで暫し考えることとなった。これらが一人の人間に帰するものではないというのと、美意識や様式というものを一顧だにせず、偏執狂的に詰め込まれた過剰な装飾のためだろう、権力意識や自己顕示欲のようなものが微塵も感じられず、金や銀、高価な細工を玩具のようにして遊んでいるとしか見えないのである。玩具にできるほどまでに貴金属や宝石が溢れかえっていたというのは恐るべきことだが、しかしながら決してそこに溺れているというふうではない。ということは、これはこれでヴェネツィアらしい自制心の表れということになるのか。

ここに一つの聖母子像がある。光背に例の如く幾つもの巨大な宝石を配してあり、真珠とカメオ、そしてまず間違いなくムラーノのガラスのビーズで作った首飾りの合間に幼いキリストが在しているのだが、素朴な表情の母子の図柄が完全に装飾に負けていた。聖母子の魂は金と宝石の輝きによって残りなくかき消されており、宗教的テーマを無機質なモノのレヴェルにまで還元したという点で希有な聖母子像であろう。ヴェネツィアらしくてよい。

とにかく、せいぜいムラーノのガラスでできたシャンデリア程度の贅沢品しか見られない他の建物とはまったく趣が違っている。自分たちで派手な装飾品を身に纏い、屋敷をコテコテに飾り立てるなどというのは気恥ずかしくてできないので、そこで余った財力がこの聖堂に集中しているのだろうか。つまりこの聖堂はヴェネツィアーニの内に秘めた願望を具現するための着せ替え人形みたいなものか、と思い至ったら何だか親しみが湧いてくるようでもあった。

さて、祭壇の正面にあり、聖マルコの遺骸だとラテン語で書いてある石棺にも一応挨拶を済ませ、先日までメンテナンス工事中で閉まっていたカッフェ・フローリアンでお茶をしたところで、ようやくサン・マルコ広場周辺の空気にも馴染んできた。

この日は特設会場の建設が着々と進められている最中であったが、ここは当然、カルネヴァーレの期間中に行われるあらゆるイベントの中心地となる。慣れてきたことだし、私も期間中は足繁くここに通うことになるのかといったらそうではない。実は、カルネヴァーレの間はサン・マルコ広場へは近づくなと言われている。勿論テロの危険性を鑑みてのことである。例のテロの後、次はヴェネツィアだ、という話が一瞬出たことがあったので、皆結構気にしているのだ。

カルネヴァーレのウェブサイトを見ると、以前レガータの起源として紹介したLa Festa delle Marieが初日に行われるとあった。祭りや人混みは基本的に嫌うものの、これだけは観ておこうかと思っていたのだが、イタリア人に行くなと言われては仕方ない。幼い子を持つ母親の意見なので、心配も度が過ぎると一笑に付すこともできるが、しかしこれはイタリアの中でも特に危険に対する嗅覚が鋭いと思われる地方の出身者が言うことでもある。

ヴェネツィアは特殊な空間なので、この島の中に留まる限り、治安に関する意識は特に日本と変えないで済む。しかしここは紛れもなくヨーロッパである。今のところ何も起こってはいないし、何も起こらないまま終わればそれはそれで喜ぶべきことではあるが、どちらにせよ無理を押してまで人混みの中へ出るほどのことではない。

ウェブサイトの過去の写真と説明を見て分かったのだが、La Festa delle Marieは私が期待したものとは違っていた。私は巨大な木造の人形Marioneが観たかったのであるが、現代の「マリアたちの祭り」は単なるミスコンになっているようである。イタリア人は美しい女性が大好きであるから、問題が無ければ生身の女性に出てきてもらいたいという気持ちは分かる。また、今のカルネヴァーレは私が生まれた頃になってから復興された祭りであるから、現代的なアレンジが施されているのも致し方ないのではあるが、それでも釈然としないところは残る。

街を歩いている観光客の仮装にも私としては違和感を感じる。カルネヴァーレの仮装といえば、シンプルかつ薄気味の悪い種々の仮面に黒い外衣を纏うものだと思っていたし、こちらのマスケラの工房の店先などにはそういうマネキンも出ているのだが、どういうわけか観光客たちはことごとく華美で奇抜な衣装を身に付け、自分の存在を誇示しながら歩いているのである。

仮装というものは自らを怪物と化すことで人間としてのアイデンティティを消すところに意味があるのだと思っていた。私はヴェネツィアの街に冷たい霧と黒衣の怪物が忍び寄り這い回り、次第に冥い異界へと変貌していくところが観たかったのであって、チンドン屋が明るく盛大に練り歩く街が観たかったわけではない。

どうやら本来のカルネヴァーレは私が恋したヴェネツィア共和国と共に、すでに歴史の闇の中に消え去っていたようだ。まあ今回の場合、御陰で期間中に外に出る気が失せたというのはありがたいことかも知れないが。

聖マルコについて

すでにプレイベントも始まっており、パスティッチェリアにはfrittelleフリッテッレやgalaniガラーニなど、この時期ならではのお菓子が並んでいる。街はまた混雑し始め、休暇していた店の多くもぽつぽつ営業を始めるようになった。この1月30日からヴェネツィア最大のイベント、カルネヴァーレが始まるのである。

その陰に隠れてあまり話題になることもないのだが、1月31日というのは聖マルコの聖遺物がヴェネツィアにもたらされた記念日である。混み合う前にと思って先日サン・マルコ聖堂へ入ってみたということもあるので、ここでちょっと記しておこう。久しぶりに家主の本によるヴェネツィア案内であるが、しかしそもそもこれは54代ドージェであり、文人でもあったアンドレア・ダンドロの記録に拠ったものだということである。各所で話の内容や年号などに現在の通説と異なる部分があるのはその所為かと思われるが、とりあえずそのままとする。

このエヴァンジェリスタの行跡については様々な伝説があるのだが、エルサレムに生まれたマルコは使徒ペテロによって洗礼を施され、その忠実な代弁者・使者となった。その後ローマから北へ向かって進んでアクィレイアに到着、そこに最初のキリスト教会を創設したということになっている。このアクィレイアというのはヴェネツィアの北西100kmほど、電車なら三時間強の位置にある。

マルコはその後、ローマへの帰途についた。航海は順調に始まったが、しかしそれで終わっては伝説にならない。リーヴォアルト(リアルトの語源となった言葉だが、もともとこの言葉はヴェネツィアの中心部、現在のサン・マルコ地区の辺りを指していた)の湿原にある島々の近辺へくると不意に(都合よく)風が激しさを増し、荒れ狂う時化となったというのである。エヴァンジェリスタを乗せた船はやむを得ず、小島の間を流れる運河へ待避した。

彼が降り立ったのは現在ではサン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ修道院が建てられている辺りだとされている。ヴェネツィア北岸、アルセナーレの側の辺りで、ここら辺にはCelestia(天国)という、いかにもそれらしい名のヴァポレットの乗降場があるのだが、しかしここにはマルコが降り立った地であることを示すモニュメントも観光客の姿も見られない、落ち着いた場所である。

何とか嵐を避けることのできた船乗りたちは、漁師たちのあばら屋で手厚いもてなしを受けた。ところがマルコは一人海岸にひざまずき、熱心に祈り始めたとされる。彼は法悦に陥り、光に包まれて天から降りてきた天使を見た。
  “Pax tibi Marce, evangelista mevs”
「安寧は汝と共にある、マルコ、我が福音を伝える者よ」天使はこう彼に告げた。「恐れることはない、福音を伝える神の使者よ。苦難はまだ多いが、汝の死後この場所に比類なき街が興り、汝の肉体はそこに安らぎを見出すこととなろう。そして汝はその街の守護者となる」
その間に嵐は止み、マルコは旅を再開することができた。彼はローマへ到着し、福音を説くためにまたそこからアレクサンドリアへ赴く。多くの人々が彼の話を聞くために駆けつけ、エジプトの街のキリスト教徒の数は夥しいものとなった。

そんなある日、憎しみに駆られた異教徒たちが彼の背中を切りつけ、そして馬車に縛り付けて街中を引きずり回した後、牢獄に閉じ込めるという事件が起きる。夜になると、その傷を癒やすために天使が降り立った。しかしその後もつらい殉難の日は続き、三日目にマルコは亡くなったのである。それは西暦68年の4月25日のことであった。

4月25日というのはイタリアの解放記念日でもあるので紛らわしいのだが、聖マルコの祝日として知られるのはこちらの日付である。この日までヴェネツィアに居ることができないというのが心残りでならないが、ともあれ、彼の遺体はアレクサンドリアの教会に安置され、その後数世紀が経った。かの天使が予言したとおり、ヴェネトのラグーナには一つの街が作りあげられてゆき、マルコの降り立った地には住民が小さな教会を建てて、ドージェは毎年そこを訪れて祈祷を捧げた。その福音史家への崇拝は非常に大きなものとなり、アレクサンドリアへ行ったヴェネツィア商人は皆その遺骸を崇めることを常としていた。

そして、11代ドージェであったジュスティニアーノ・パルテチパツィオが二人の商人、ブオーノ・ダ・マラモッコ(マラモッコのブオーノ)とルスティコ・ダ・トルチェッロ(トルチェッロのルスティコ、マラモッコとトルチェッロというのは地名)を使ってアレクサンドリアから聖マルコの遺骸を盗み出したという例の有名な話になるのだが、これについては他所にいくらでも書いてあるので例によって省略。

828年の1月31日、その福音史家の遺骸はヴェネツィアに到着、そしてそれは政治権力が宗教権力より優位にあることを示すため、司教のところにではなくドージェのところへと持ち込まれ、まずは聖テオドール教会に安置された。

そもそもそれまで聖テオドーロ(この地での愛称はトダーロ)を守護聖人としていたヴェネツィアがなぜ聖マルコを欲したかというと、聖テオドーロというのが、できればそこから独立してその影響力を排除したいと考えていたビザンチンの聖人であったこと、そして、アクィレイアにあった司教座大聖堂を拠点とする教会権力との角突き合いの中にあって、「アクィレイアの教会の創設者である聖マルコはヴェネツィア共和国の独立を願ってこの地に自らの遺骸を移されたのだ、これこそが神の意志である」という方向へ話を持って行きたかったからである。何もかも計算尽くで動くのがヴェネツィアであって、この共和国はただの信仰心から干涸らびた遺骸を欲したりはしない。

聖遺物というのは金による取引が禁止されているので、どちらかというと「信仰心から盗み出した」、そして聖マルコの場合、「アレクサンドリアの教会がイスラム教徒によって壊されようとしていたので、その遺骸を救出するために危険を冒した」という方が表向きには通りがいいのだが、実際のところ、アレクサンドリアの教会の内通者にはかなりの報酬が渡されたという話である。必要であればドージェや十人委員会(まだこの時代にはないのだが)の判断でいくらでもこういうことができたという、この柔軟性がヴェネツィア共和国の強みであった。

それはそれとして、聖マルコの遺骸がヴェネツィアにもたらされたことで人々は高らかにこの街の守護聖人マルコを称揚し、ドージェ、ジュスティニアーノ・パルテチパツィオは、その聖遺物を管理するのにふさわしい教会の建設を速やかに開始すると布告、4年後にその教会は完成する。そしてここから始まるサン・マルコ聖堂という建物の歴史が非常に興味深い。

ちなみに日本語だとサン・マルコ聖堂、サン・マルコ大聖堂、サン・マルコ寺院という書き方が混在するようだが、パラッツォ・ドゥカーレとつながっており、ドージェの私的な礼拝堂として建設されたこの建物は本来「聖堂(basilica)」である。「大聖堂(cattedrale)」というのは中央の教会から指定された司教座大聖堂のことで、確かに現在は大聖堂となってはいるのだけれども、教会の権力を頑なに遠ざけていたヴェネツィア共和国の建物としては「聖堂」と呼ぶ方が相応しい。

最初のサン・マルコ聖堂はまだ草の茂る空地に作りあげられた、ロマネスク様式とビザンティン様式の要素を含んだ木と煉瓦の建物で、後にヴェネツィアのシンボルとなる、かの壮麗な聖堂とはかけ離れた建築物だった。それは仕方のないこととして、「汝の肉体はそこに安らぎを見出す」と例の天使が告げたにもかかわらず、聖遺物の受難はこれからが本番である。なにしろこの時代、ヴェネツィアの家々はほぼすべて木で作られており、火事は頻繁なものだったのだ。守護聖人の教会もまた火事に遭い、焼失してしまったのである。そしてその際に聖マルコの遺骸は跡形もなく失われてしまったという。面白いのはここからである。

1004年、23代ドージェであるピエトロ・オルセオロⅡ世によって再建された教会が献納された際も、その聖遺物が再び見出されることはなかった。聖遺物を失ったままの守護聖人の教会を献納するというのは、ヴェネツィアのすべての人々にとって非常に心苦しいことであった。そこで彼らは、まだこの街に守護聖人がいなかった頃のように、父なる神に直接助けを求め、祈り始めたのである。ドージェと評議委員、ドージェ夫人とその子女も慎ましい装いをして祈った。貴族とその使用人、聖職者、商人、職人、人夫、漁師も祈った。つまりヴェネツィア全体が祈りを捧げたのである。

昼夜途切れることなく続いたその祈りのささやきを聞き届けざるを得ず、主はとうとう、聖マルコにその姿を現すようお命じになったのであった。そう、荘厳なミサが行われていたときのこと、焼け残ったものであった大理石の壁柱の壁が突然裂け、列席者の驚嘆、歓喜、そして畏怖の中、マルコはその腕を外へ差し出したのである。

感謝を捧げるための荘重な儀式の後、盗難や涜神の危険に備えるため、その遺骸は新たに教会の中に作られた秘密の場所に安置された。ただドージェと聖堂参事会員長のみがその場所を知っていた。その秘密はあまりに注意深く守られたので、時が経ち、この土地に聖マルコが安置されているということが忘れられてしまうほどだったという。

……パドヴァの聖アントニオ聖堂へ行くと分かるが、聖遺物というのは非常に強い信仰の対象となっており、持っていればこれ以上に教会の権威付けになるものはない。通常であれば、これでもかというくらいきらびやかに、そして自慢げに、人目に付くような中心部に飾られているものである。後は察して貰いたい。

ここまででも何ともいえない話なのだが、しかしまだ終わりではない。1050年頃のこと、またもや恐ろしい火事があり、教会は完全に焼失することとなる。炎は建物に重大な損害を与えながら瞬く間に広がり、人々は真っ先に、聖遺物が焼き尽くされてしまったのではないかと恐れた。その後の聖堂の再建工事は1094年になってやっと完成、その間もやはり守護聖人の遺骸が見つけ出されることはなかったのではあるが、32代ドージェ、ヴィタリーノ・ファリエルは6月25日に建物の献納式を行うことを決めた。

もうどうコメントすればいいのか分からないが、ここでまたヴェネツィアの人々は同じように祈り、そして今一度、荘厳なミサの行われていた間に神意によって建物の壁が崩れ、光の中から聖マルコの古い柩が現れたというのである。今回の場合、聖遺骸そのものではなく、柩というところにちょっと遠慮が表れている。さすがに無理があると思ったのか。

この柩は新しい教会の、当然また秘密とされた場所へ安置されることとなるのだが、しかしこの奇跡的な出来事を祝うため、人々がそれを直接崇めることができるようにと半年の間は公に展示された。このような機会には貴賤の別なくあらゆる人々の間でお祭り騒ぎとなるものであり、何人かの研究者はここにヴェネツィアのカルネヴァーレの起源を見出しているという。ただし私の経験からいうと、イタリア人がこういう言い方をした場合の信憑性は皆無である。カルネヴァーレの起源についての話など、幾つあるのか知れたものではない。

柩は出てきたものの、聖人の遺骸そのものはあいにくながらその形跡を失ったまま長い年月が過ぎた。それがやっと見つかったのはなんとヴェネツィア共和国が崩壊して十数年が経った1811年、聖堂の修復作業が行われていた間のことであったという。現在それは最も大きな祭壇の下に埋葬されているそうな。また、秘蹟の祭壇の左側面の支柱の上、その前で灯明の燃えるところに、モザイコで飾られた大理石の四角いパネルが見える。その場所こそ、1094年6月25日、聖者の柩が信者の前へ奇跡的に姿を現したところだという。

というわけで実際にそのパネルを見に行ってみたのだが、長くなったので一旦休憩。