庶民の食卓について

ヴェネツィア共和国時代、国家的な正餐は年に五回あったそうである。これらは順に、
○4月25日:守護聖人聖マルコの祭日
○キリスト昇天祭[移動祝祭日]:999年にドージェ、ピエトロ・オルセオロII世がアドリア海を平定するためにヴェネツィアを出航したのを記念する日
○6月15日:聖ヴィトゥスと聖モデストの祭日で、1310年のこの日、バイアモンテ・ティエポロのクーデター未遂事件があったことを記念する日
○9月30日:聖ジローラモの祭日、この日もなにやら事件があったみたいなのだが、ここの記述を訳しただけではよく分からない。塩野さんの本をひっくり返せば分かりそうなものだが、今は宿題とする。
○12月26日:最初の殉教者聖ステファノの祭日で、コンスタンティノープルからヴェネツィアへその聖人の聖遺物が移されたことを記念する日となっている。

キリスト昇天祭は一般的にAscensioneアシェンシオーネというが、ヴェネト語ではSènsaという。この祭日はSposalizio del Mare(海との結婚)の儀式で知られており、今年は次の日曜日になっているようだ。ウェブサイトを見るとこれに合わせてレガータも開催されるとあったが、とすると、滞在中のこの時期に偶然観たレガータはセンサのものであったか。当時はまだ不慣れでヴェネツィアについて詳しいことを何も知らなかったが、カルネヴァーレやレデントーレと並ぶヴェネツィアの大事なイベントにギリギリかすっていたことを今さらながらに知る。

ピエトロ・オルセオロII世についてはちょっと検索して戴ければすぐに分かるほどの偉人なので説明は省略。この祭日の祝宴にはオルセオロの偉業の達成に深く貢献したことを記念してアルセナーレの職工が百人ほど招待された。彼らの前に供されたのは、
arance belle grosse, lingua salata, salami di Firenze, offelle, torte, savoiardi grandi, sfogliate, cagliate, cedri grossi e pan di Spagna
大ぶりのオレンジ、塩タン、フィレンツェのサラミ、オッフェッラ[北伊のパンケーキ]、パイ、サヴォイビスケット、スフォリアータ[折りパイ]、カリャータ[凝乳物]、大きなシトロンの実やスペインのパンからなる十種のアンティパスト、と記録されている。名門の貴顕や大使はアルセナーレの職工たちがもてなされているその隣のサロンで宴席に臨み、こちらには十二種のordoverオルドヴェルが並べられた。ご想像のとおり、オルドヴェルというのはフランス語のオードブルに由来する。前回見たことだが、嘆かわしいことに十八世紀のヴェネツィア貴族はフランスかぶれである。

その後、温かいメイン料理が運ばれてきたが、こちらには多くの肉料理があり、その中にはハトのラグーのパイ、メンドリのローストやボイル、そしてデザートにアーティチョークやフェンネルなどがあったという。

このほかの祭日についてざっと見ていくと、聖ヴィトゥスと聖モデストの祭日にはrisi coi pedocchi[ムール貝のリゾット]、これは現代に伝わるrisotto ai frutti di mare[海の幸のリゾット]の祖先だという。risottoというのは想像通りのリゾットであるが、ヴェネト語でrisiとある料理は本来、少しスープ寄りで汁気の多いものである。以降は便宜上「粥」と訳す。

聖マルコの祝祭の期間中はアンティパストにsfoge in saor[シタビラメの南蛮漬け]が供された。これはまた聖マルタの祭日前夜に民衆の間でも口にされていたという。4月25日の祝宴にはtrote[マス]が用意されるのが常だったそうだが、その式典の配膳に関する文書にはこう示されているそうな。「もし水産物が不漁で同種のものが不足した場合は、牛か子牛のタン、あるいは切ったpersutto[プロシュット?]で賄うことも可能である。もし牛がやせていれば、スズキかヒラメを茹でたもの、その他シタビラメ、アカザエビ、カニなどのフリットで代用しても良い」。

日本人の場合「土用の丑にはウナギを食べる」と一度決めたら、万難を排して何が何でも準備をしておくようなイメージがあるが、もっとも重要な祭日用の食材であったとしても無かったら無いで適当に濁す、というやり方が彼らのイメージにぴったりである。

ウナギといえば、この魚は本来冬が旬なのである。クリスマスイヴには、庶民の各家庭で「極上のカラスミのアンティパストに始まり、伝統的なウナギ料理やホタテのリゾットの並ぶ食卓」に人々が集ったという。このほかクリスマスイヴの定番料理として「サケ、i cavoli crespi[チリメンキャベツか]、モスタルダ、il mandorlato[アーモンドケーキ]」などが挙げられているが、モスタルダやマンドルラートなどの菓子については後日まとめることとする。

ウナギでもっとも好まれた調理法はin umido[トマト煮込み]だった。また、大きなものはグリルでロースト、小さなものはsull'ara[ローリエの上に並べてオーブンで焼く]という調理法もあったとのこと。この辺は簡単に応用できるかもしれない。

庶民の家庭でも祭日には肉料理を食べる習慣があった。サルーテ教会の祭日である11月21日のカストラディーナ、レデントーレ前夜のニワトリやカモのロースト、カルネヴァーレの最後の数日にはラヴィオリやシチメンチョウ、そして復活祭には子牛肉やフォカッチャ、さらに8月1日にはカモを食べたとのこと。

そのほかには牛タンのsalmistrata、家禽、羊肉、雄牛肉、豚肉、ハチノスなどが庶民の食卓に上ったそうだが、見慣れないのがサルミストラータという言葉である。辞書を引くと「塩と硝酸カリウムで処理し、薬味入りの塩水に浸ける」とあり、ちょっと検索してみると、まず塩と硝酸カリウムを溶かした水に数日間浸け、その後弱火で煮込んで仕上げるという流れになっていた。簡略化したレシピもあったが、長いものでは一ヶ月近く塩漬けにするようである。細部は違うが、結局のところは日本でもよく知られた「牛タンの塩漬け」であった。

しかし庶民にとって、特別な料理を必要とする祭日は実際のところ少ない。それ以外の日は身近に手に入るもの、つまりヴェネツィアを取り巻くラグーナや運河に満ちていた魚介類を主に食べていた。ヴェネツィアの大衆料理といえばすでに何度も取り上げたフェーガト・アッラ・ヴェネツィアーナ、バッカラ・マンテカート、ポレンタの三つに始まるが、ミネストラから並べると、

la minestra di risi in brodo con il sedano セロリとブロード粥のミネストラ
la minestra di risi con la luganega ソーセージ粥のミネストラ
la minestra de risi co le verze チリメンキャベツ粥のミネストラ
la minestra de risi e fagioli インゲン豆粥のミネストラ
i risi e bisi エンドウ豆粥、これについてはこれまでに何度も書いた。
i risi in cavroman カヴロマン粥(切り分けた去勢羊肉を入れ、セロリやニンジン、玉ねぎ、ミックスした香辛料で味付けしたもの)
などがあり、リゾットになると、

il risotto de cape ホタテ[だと思うのだがマテ貝かもしれない]のリゾット
il risotto de peoci ムール貝のリゾット
il risotto de bisato ウナギのリゾット
il risotto de scampi (del Quarnaro) アカザエビのリゾット(クァルナロ[アドリア海北東、現クロアチア領の湾]産)
il risotto de sepoline 小イカのリゾット
il risotto a la bechera 肉屋風リゾット[詳細不明]
il risotto a la sbiraglia  ズビラーリア風リゾット(レバーや鶏の内臓を使う)
il risotto de zuca カボチャのリゾット
などが挙げられている。

この後はパスタ料理で、例のビーゴリ・イン・サルサの他にいくつか見慣れないものが挙げられているのだが今回は省略。これらの料理の中には肉類や野菜がかなり混じっているが、魚介類は基本的にもっとシンプルな調理法で食べられていた。新鮮なものが手に入る土地だとどこでもこういった流れになるものだが、ヴェネツィア料理研究家としては物足りないような気がせんでもない。ともあれ調理法別に並べると、

lessati茹でたもの:
l'asià, la raza, il brancino, la bosega. ホシザメ、エイ、スズキ、メナダ

arrostiti alla griglia (rosti in graèla) グリルでローストしたもの:
cievoli, code de rospo, sgombri, triglie, tonno, orate, sardoni, storioni. ボラ、アンコウ、サバ、ヒメジ、マグロ、タイ、イワシ、チョウザメ

fritti フライにしたもの:
sfogi (sogliole), passarini, costolette de San Pietro, marsioni, bisatei picoli, scampi, calamaretti, moleche. シタビラメ、ヨーロッパヌマガレイ、マトウダイ、ハイイロハゼ、小型のウナギ、アカザエビ、イカ、モエカ

アンコウのグリルは確かに美味しかった。ボラは『博物誌』で読んでからずっと探していたが、結局これといったものに出会えなかったのが心残りである。これに加え、茹でてオイルやレモンで味付けしたle schie[スジエビ]というものがあり、これはアンティパスト・ミストを頼むとよく入っていた覚えがある。ポレンタに載せても美味しかった。bovoleti co l'aglioというのはカタツムリを茹でてオイル・ニンニク・イタリアンパセリで味付けしたものとあるが、これは残念ながら食べたことはない。

まだあった。
i folpi, le tante varietà di cappe, le seppie, le sardelle e poi ancora gatti e cagnetti, gò, passarini, angusigole, varagni. マダコ、ホタテ各種、イカ、イワシ、そしてナマズやイソギンポ、ハゼ、ヨーロッパヌマガレイ、ヨウジウオ、クモウオ、
これらは茹でたものが各オステリアの店先や道端の行商人のところで売られていたというのだが、こういったいわゆるストリートフードについてはこの後で一章を割いて語られている。現代だとレッサート[茹でたもの]ではなくフリット・ミスト[魚介のフライ]があちこちで売られており、観光客が手にしていたのをよく見かけたものだが、ともあれ今回はこの辺で。

貴顕の食卓について

エリオ・ゾルズィという人によると、かつてヴェネツィアーニは一般的に一日二回の食事を取っていたそうである。十一時から正午の間に取る軽食、おおむね一皿のみで済ますmerenda、そしてミネストラと二、三皿の料理からなっていて、午後五時、これをora dogaleと言ったそうだが、その時間帯から始められたdisnarあるいはpranzoの二つとなっている。

プランツォという単語は標準イタリア語でも習うが、ディズナルというのは辞書に載っていない。ヴェネツィア語辞書を引くとdesinareのことだと書いてあって、これだと標準イタリア語の辞書にもあった。「食事[正餐]を取る」という意味のトスカーナの言い回しだそうで、いつものことだが同じことをいうのに地方差がありすぎて面倒なことこの上ない。ただしそもそもイタリア語には同義語というものが非常に多く存在し、修辞学の伝統に従って日常的に表現をひねくりまわすものなので、この程度で文句を言っていては彼らにはつきあえない。

「オーラ・ドガーレ」のdogaleというのはドージェの形容詞形(パラッツォ・ドゥカーレの「ducale」と同じ)なので全体的には「ドージェの時間」となるが、これは「ドージェが謁見を終えた時刻。書記局が閉まり、国家の各部局、司法局、評議会も仕事を中断して、皆が食事に向かう時刻」だそうである。その仕事が始まる時間ではなく、それを終える時間、つまり「よっしゃこれから遊ぶぞ!」という時間にドージェの名を冠するところがいかにもイタリア人である。

しかし1700年代というのはヴェネツィアが絶頂を超え、そしてその終焉に向かう時期なのであった。ポンペオ・ゲラルド・モルメンティという人がこう書いている。「貴族階級は彼らに優雅な生活をもたらしているものが何であるかを考慮することもなく、翌日のことすら考えずに、投げ捨てるかのようにしてその富を使い尽くした。彼らの日々はただ無為、無益なもので満たされていた。彼らの最大の関心事は遊戯と食事のみだった」。

遊戯用のテーブルは多くの遊び仲間や食客で賑わい、彼らは食堂から食堂へと渡り歩いた。貴族階級の間ではたまに、もっとも豪奢で美味にあふれた正餐を出せるのは誰か、という競争が行われた。それぞれ異なった三つの部屋に三つの食卓を用意し、一つの部屋ではスープと煮込み料理、二つ目の部屋では肉料理が出され、最後に三つ目の部屋のテーブルの上にはドルチェや果実、ジェラートが山と積まれている、というようなことも行われたそうである。

が、こういう記述を読んでいてもヴェネツィアの場合はあまり面白くない。貴族どものやっていることが当たり前すぎるというか、ムラーノのガラス職人ほどには突き抜けた想像力が見られないのだ。フランスの貴族のように無邪気なほど調子に乗りまくって退廃を極めているのではなく、どこかしらに成金的な限界が垣間見えるのがどうにも残念である。ヴェネツィアの貴族階級はイタリア語でpatrizi、そしてフランスのはnobiltàと書き分けられているのだが、この間にはどういう違いがあるのだろう。

共和国最後のドージェにルドヴィーコ・マニンという人があるが、彼はカンポフォルミオの恥辱の日の数日前、牡蠣とムール貝が採れるアルセナーレの養殖場の監督をとある人物に託し、2,400ダース以上の吟味された最上の牡蠣と400ダースの中級品、そして500ダースの大きなムール貝の「引き渡しをさらに細かく仕切る」ように命じたそうである。

あれこれの話を総合するに、このとき彼はナポレオンとともに本土の自分の邸宅にいたことになるのだが、これは本島の役所に向かって「食材の支払いを分割しておけ」とかいうケチな命令ではない。「手間がかかっても鮮度が大事だからちょっとずつ持ってこい」という指示である。国が滅ぶというまさにその時であっても、人間というものは日常に引きずられてその本質が見えないものなのだろうか。それともプレッシャーに圧し潰されまいとして些事の手配に没頭しようとしたのだろうか。

「ヴェネツィアはまだ限界に達してなどいない!」と信じるためのものだったとこの本の著者(これまで名前を出さなかったがGiampiero Roratoという方)はいうのだが、これはどう見ても「ジオンはあと十年は戦える!」と同じだ。何とも悲痛な叫びである。

ヴェネツィアの国としての運命はここで措いて料理に関して見ていくと、1700年代の終盤、つまり共和国がナポレオンにぶっつぶされて以降、フランスの影響で貴族向けの料理に突如として根本的な変化がおきたということが言われている。貴族階級の邸宅ではフランス人の料理人を雇うことが流行り、それにともなって伝統料理が衰退していったということがザネッティという人によって非常に強く糾弾されているのである。まずその本のタイトルが『気高きヴェネツィアの歴史を保存するための記録(未刊)』となっている時点で相当のヴェネツィアびいきであることが分かるが、その内容はやはり激烈であった。

「フランス人料理人は大量のクズ料理、ソース、ブロデット、そしてとりわけ四対のハトを澄んだブロードにしたエストラット[エキス]によってヴェネツィア人の胃袋をめちゃくちゃにした。これは奴らが来てすぐのことだ(略)今はニンニクと玉ねぎがやたらと流行していて、ほとんどすべての料理に入っている。肉と魚は食卓に着いたと思ったらすっかり形を変えられてしまうほどだ(略)。大量のハーブ、スパイス、ソースやなんかですべてが隠され、ごちゃまぜになっている」。

前回玉ねぎが昔からヴェネツィアの特産であったと書いたが、それはそれで正しいのである。「もっともよく知られた料理のうちの二つ、玉ねぎなしではあり得ないものであるフェーガト・アッラ・ヴェネツィアーナとサルデ・イン・サオールを思い出せば足りるが、もともとニンニクと玉ねぎが昔からヴェネツィア料理の中で十分な市民権を持っていたにしてもザネッティの記述は正しい」というのがジャンピエロ氏の意見である。

ここで「クズ料理」と訳した単語はporcheriaというものなのだが、ソース、ブロデット、エストラットと料理名が並ぶ中では違和感がある。イタリア語の場合はこうやって単語を並べるとき、一つ目がまとめで二つ目以降が具体例、「奴らのクズ料理、つまりソースやブロデットやなんか……」という意味合いになるのだろうか。

イタリア料理と日本料理の共通点としてしばしば「素材を活かす」という点が挙げられるが、肉や魚について原形をとどめないほどに加工したり、やたらと材料を付け加えるという点が当時から批難されているのが面白い。素材を活かした料理を作りたければ新鮮で良質なものを手に入れなければいけないわけで、その点でイタリアも日本も地理的に恵まれているのである。今ほど流通が発達していない時代、不毛の地には不毛の地でそれなりに生きていくための知恵が必要だったわけで、そう怒らなくても良いものをとも思うけれども、ヴェネツィアーニとしてはやはりフランスに対しては特別な感情があるのだろう。新しい支配者や新しい流行にすぐに乗っかっていく貴族達とそうでない人との対比を見ていると、戦後の日本に重なるようでもある。

以下はゴルドーニの「反抗心」の一幕である。旧訳を確認しに行く余裕がないので拙訳で我慢されたい。

ドロテア   「一度に一皿ずつ持ってこさせましょう。コンテ、あなたはどう思う?」
コンテ    「もちろん一度に一皿ずつよ。それが本来の食事というものだわ」
フェッランテ 「僕もそう思うよ。最初はミネストラ、そして次は……」
ドロテア   「いいえ、ミネストラは最後よ。コンテはどう思って?」
コンテ    「すごくいいと思うわ。今どきフランスではスープとミネストラは最後だっていうふうに先生が教えるのよ」
フェッランテ 「でも最初に胃を温めておくのがいいとは思わないかい?」
ドロテア   「いいえシニョーレ、流行には合わせなきゃいけないわ。(給仕に向かって)サラミはテーブルに残しておいてちょうだい。残りは片付けていいわ」

「先生」の訳が今ひとつ定まらないのだが、そのうち直す。これ以外にワインについての話もあるのだが、狂ったように多くの銘柄が列挙されていて煩雑なので今回は省略。

肉料理について

古いヴェネツィア料理について調べていればもちろんヴェネツィア語の文章に行き当たるわけで、昨年買ってきてもらったヴェネツィア語辞典は本当に重宝している。紙の辞書というのはときに思いがけない言葉との出会いをもたらすもので、先日は調べ物の最中にこんな言葉を見つけた。

Tògo: togo, fico, forte, in gamba, bravo.

ヴェネツィアには「強い、すごい」という意味を持つ「トーゴ」という単語があり、「つよーい!」あるいは「すごーい!」と表現したいときには"Che togo!"、つまり「うわ、おまえめっちゃトーゴーやん!」などというらしい。その由来については以下のような説明があった。

"La versione più accreditata sull'origine di tale vocabolo afferma che essa dovrebbe derivare dallo stupore suscitato nel 1905 dalla clamorosa vittoria dell'ammiraglio giapponese Togo sulla flotta russa durante la guerra russo-giapponese del 1904-1905".

お分かりだろうか。「この用語の起源についてもっとも信頼性の高い説は、1904-1905年の日露戦争の最中、日本の東郷提督がロシア艦隊に劇的な勝利を収めたことで巻き起こった1905年の衝撃に由来するというものである」というのだ。

これがイタリアの中でもヴェネツィアでしか通用しないというのは、この地が開国以降日本と強いつながりを持っていたせいか、それとも海洋強国であったが故に海戦についてとりわけ強い関心があったためか。ちなみに私の辞書は"DIZIONARIO DEL VENEZIANO RECENTE"すなわち「現代ヴェネツィア語辞典」(recenteはvenezianoを修飾しているので「最新版の辞典」ということではないと思う)、しかも2011年初版であるので、この言い回しは今でも残っているということになる。

どこまでが冗談なのか分からないが、「東洋の果ての日本人とかいう奴らは時々とんでもないことをしたり、とんでもないものを生み出したりする」という西洋人のステレオタイプはこういう印象が100年以上も積み重ねられてきた上にあるのだろう。お互い様だが、エグゾティシズムというのは毎度愉快なものである。

さて、ではさらに100年ほど遡って先日の続きを。

1780年頃のヴェネツィアにおける牛の年間消費量は14,545頭とされている。彼らの話はヴェネツィア本島の人口を10万人として進められているが、現在の日本の人口を1.27億人とするとこれが当時のヴェネツィアの約1270倍、ここ数年の日本の年間出荷頭数は乳牛を除いて肉牛のみで40万~50万頭ほどになるのだそうで、50万を1270で割れば約394頭となる。

するとその消費量は約37倍という計算になるのだが、そもそもイタリア人と日本人の食生活、牛肉消費量が根本から違うということ、さらにはイタリア料理では子牛肉をよく使うため、頭数で比較すると重量ベースの比較より消費量が多く見えるだろうということを加味してもまだ凄まじい数字である。人口についての前提がおかしいのかもしれないと思ったが、ヴェネツィアのコムーネのウェブサイトを見ると現在の人口は26万人ほどであるから、どういう史料に拠ったのかは分からないにしても200年前で10万人という設定も大きく外していることはないものと考えられる。とにかくヴェネツィアーニはよく牛を食った。

これらの肉類は、コムーネから年毎に認可を受け、当初はリアルトとサン・マルコでのみ開業を許された業者によって売られていた。その店は「bancheバンケ」と言い習わされ、そこで働く人は「bechèriベケーリ」と呼ばれていたという。1600年代の終わりには公的独占権が緩和され、1700年代を通して多くのライセンスが与えられるようになったことで販売網が広がったとのことである。

そして牛肉だけではなく、テッラフェルマ(本土)から入ってきた家禽類としては以下のようなものが挙げられている。
gran quantità di polli, galline, tacchini, chiamati anche pollastri d'India o, più semplicemente, dindi, colombini di casa (detti di sottobanca), torresani, osellame e selvatici in genere (germani reali ed anatidi selvatici vari, folaghe, quaglie, francolini, pernici, fagiani, oche, chiurli, e altri)
ニワトリ、メンドリ、シチメンチョウ(「ポッラストリ・ディンディア(インド若鶏の意)」あるいはより単純に「ディンディ」といわれた)、イエバト(ソットバンカといわれた)、トウバト、オゼッラーマ(沼鴨の意)と並んできて、最後の括弧内はマガモ、オオバン、ウズラ、シャコ、ライチョウ、キジ、ガチョウ、シギなど、ガンカモ科を中心とした野禽類となっている。

古いヴェネツィアの家庭料理だといわれてanatraカモを食べたことがあったが、現代の方の肉料理のレシピを見るとこのカモに加えてbeccacciaヤマシギ、colombaハト、fagianoキジ、faraonaホロホロチョウ、germano reale (masorin)マガモなどの鳥類を使ったものが大半を占めている。金に飽かして大量に牛を食べていたという割には牛肉料理のヴァリエーションが少ないようだが、現代の場合は「肉の国」フィレンツェに正面から対抗するよりも鳥類や魚介類を使ったものの方が独自色を出しやすいという計算もあるように思える。

それはともかく、当時これら鳥類の肉を扱う業者は「galinèriガリネーリ」や「pollaroliポッラローリ」といわれていた。卵を売る「ovaròliオヴァローリ」、そして「onti sotiliオンティ・ソティーリ〔unti sottili、ヴェネト語はイタリック、標準イタリア語は通常表記としている〕」と呼ばれたバターを売る「butirrantiブティッランティ」という人々がそれに続く。大雑把な「肉屋」というものがいて彼らが扱う品々がたくさんあるということではなく、売るものに対していちいち「~売り」という言葉があるのが面倒である。流通や経営を効率化せずになるべく個々の権益を守ろうとする傾向は今のイタリアでも見られるように思うが、食肉の販売に際して品目ごとに当局の許可が必要だったとか、それにともなってそれぞれ業者が集まってアルテといわれる組合を形成していったとかいう歴史的背景を見ると、なるほどそういうことかと思う。

そんな中に「luganeghèriルガネゲーリ」という人たちもいた。彼らが扱っていたものは「moreli de lugànegaモレーリ・デ・ルガーネガ」という腸詰めが中心で、つまりは加工肉の業者である。この言葉は手元の辞書ではmurèlo de ugànega=rocchio di salsicciaとなっており、morelimurèloのようにちょくちょく音位転換が起こるのが余所者には厳しい。おかげで単語一つ調べるのにも手間がかかって仕方ない。

彼らは牛の「menuzzamiメヌッザーミ」(頭、脚、内臓)を手に入れることもできた。1700年代末にルガネゲーリが販売していた加熱済みのminuzzami〔語義的にはまさにホルモン〕の価格表が残されている。
 Trippe cotte - s. 6 alla libbra
 Doppion (intestino retto) - s. 8 alla libbra
 Spienza cotta (milza) - s. 10 alla libbra
 Piedi cotti - s. 4 alla libbra
 Carne di tasto e modegal (basso ventre e collo) - s. 28 alla libbra
 Lingua cotta - s. 32 alla libbra
 トリッパ〔ハチノス〕-リッブラあたり6ソルド
 ドッピオン(直腸)-リッブラあたり8ソルド
 スピエンツァ・コッタ(脾臓)-リッブラあたり10ソルド
 脚-リッブラあたり4ソルド
 タストとモデガル(下腹部とネック)-リッブラあたり28ソルド
 タン-リッブラあたり32ソルド
トリッパは日本のイタリア料理の本でもよく見かけるし、zampone(豚足)などはヴェネツィアのスーパーにも常においてあるので見知っていたが、何しろこれまで魚料理を中心に研究していたこともあり、ここまでモツが利用されていたというのは聞いたことがあるようでもそれほど気にしたことがなかった。そして今回、ゴルドーニの作中の料理をリストアップして食材をチェックしているうちに引っかかったのが、meola〔midollo骨髄〕とcervello〔脳髄〕である。

"Cento risi colla meola de manzo e la so loganega a torno via"
刻んだニンニク、玉ねぎと一緒に牛の骨髄に火を通し、米を入れてリゾットにしたうえでソーセージ(リゾットと一緒に茹でる)を添えたもの。料理の名前を見た時点では豚骨と同じようにスープを取るのかと思ったが、骨髄を抜き出してそのまま使うようだ。粉骨砕身とはこのことか。長きにわたって牛を食らい続けてきた人々の食べ方は何とも念の入ったものである。

"Cervella tenere"
牛や山羊の脳を下ゆでして氷水で締めた後にスライスし、衣を付けて揚げたもの。ホルモンだから当然のことだが「とにかく安くついた」と書いてあるので、庶民の料理だったのだろう。この作り方だったら……と思って試しに「cervello fritto」で検索してみたらフィレンツェとローマで取り合いに、つまりどちらの郷土料理かで揉めているようだったので、残念ながらヴェネツィア料理ではない。

栄華を極めていた頃のヴェネツィアには世界中から食材が集まっていたので、ヴェネツィアらしいものより目新しいものの方が好まれたのだろうと思う。「ヴェネツィアらしい牛肉料理」というのはなかなか難しいようだ。

ヴェネツィアらしい肉料理というものを考えるに、「この周辺でなければ手に入らない肉」となるとやはり水鳥ということになる。そしてもう一つ、何を合わせていくかというのもポイントとなるだろう。フェーガトやサオールなどを思い出してもらえば納得できるかと思うが、実はヴェネツィア周辺では玉ねぎが大量に作られていたそうな。殺菌作用があるおかげで船旅にも向いた、と聞くといかにもヴェネツィアらしくなってくる。この筋でカモやオオバンなどの方をもう少し調べてみようと思う。

魚料理について

18世紀、共和国が滅び行く頃にもヴェネツィアには多くの漁師がいた。マランゴーニという人のリポートによると、1784年には、「聖アンドレアのスクオーラ[組合]は、i venditori di pesce, i vallesani e i batellieriを含めて3390人を擁していた」という。最初のはそのまま魚売りで、次のヴァッレザーニというのはvalligianiで語義は「谷間の住人」であるが、あれこれ調べた結果、どうも養殖業者のことのようである。

ヴェネツィアにはmoecaという名物があり、脱皮した直後の小さめのカニを丸ごとフライにして食す。リアルト市場でも運が良ければ出ているが、ヴェネツィア料理の会をやったときにはタイミングが合わなくて出せなかったのは今思い返しても残念である。値段は確かキロ当たり60ユーロ弱くらいだったか。かなりの高級食材であるが、この養殖業者も今ではかなり少なくなっているそうな。ちなみにこのmoeche fritteはヴェネツィア市中で伝統料理を出す店へ行けばおおむねいつでも食べられる。店名にanticaやanticheなどとある店を選ぶのがわかりやすいだろう。

で、最後のバテッリエリは船頭という語とほぼ同じだが、販売人、養殖業者ときて最後に漁師、というこの並びは分かるようで分からない。battello、つまり小型の舟を使った漁師はpescatoriとは別扱いであるようにも読める。ともあれ、これに加えて「1796年の二つの宣誓書によると、ペッレストリーナを含むキオッジャの漁師は約10,000人、ブラーノの漁師は4,000人を数えた」ということである。

彼らが使う船にはla bragagna, la granzera, i pieleghiその他tartane, tartanelle, bragozziというものがあった。ブラガーニャは底が平らで、全長9-11メートルほどの舟、これはラグーナの女王と言われていたという。手元の船舶事典の復元イラストを見ると、三本の帆を立てることができ、網を巻き上げるための器具も備え付けられた、そこそこ大きい船である。グランゼーラについては(軽くて帆があるカニ獲り用の舟)と注があるのだが、こちらで調べてみると「曳き網漁のための網」とあった。この本の筆者の読み違えだろうか。そしてピエレーギを調べていると「ラティンセイル」という言葉が出てきて、調べ物がどんどん船の構造の方へ脱線していく。やはり船舶免許を取りに行くべきか。今のところそんな余裕はないが。

ヴェネツィアの古い料理書にはどういう訳かあまり魚料理の記載がないそうだが、歴史家という生き物はその程度で挫けたりはしない。穀物租税法と公定価格に関する記録を使って、中世(1173年、ドージェ・ツィアニの時代)以降、ヴェネツィアの食卓に最も多く上った魚を調べ上げている。trote, storioni, rombi, orate, barboni, passere, sogliole, anguille, lucci, tincheとあり、順番に、マス、チョウザメ、ヒラメ、タイ、ニゴイ、ツノガレイ、シタビラメ、ウナギ、カマス、テンチとなる。今とそう変わらないようでもあるが、淡水魚は今ではあまり見ないような気もする。

マランゴーニによると、「もっとも珍重された魚はle orade de varie, dette della corona[ヨーロッパヘダイ] e le orade vecchie, i branzini[スズキ], il pesce matto scortegado (zigrinato)」だそうな。ヨーロッパヘダイは調べがついたがle orade vecchieが分からず、スズキは常識レベルだとして、ペーシェ・マット・スコルテガード[乱暴に皮をはがされた、の意、斑点のある魚か]というのがさっぱり分からない。スズキは今でもやたらと人気で滞在中もよく食べたものだが、ヴェネツィアのものより先日いたぎ家で出してもらったものの方が美味しかった。淡泊な魚は場所によって匂いがつくということらしいが。

そしてその他小さいもの、一山いくらで売られた雑魚としてはmenuagia mora, paganelli, schile, anguele, marsioni、これらは順に、クロハゼ、よく分からないがハゼの一種、ヨーロッパエビジャコ、トウゴロウイワシ、ハイイロハゼとなる。やたらとハゼの類いが目立つが、これはヴェネト語でil go、標準イタリア語でghiozzoといい、よく市場で見かけたものである。ブラーノではこれを弱火でひたすら煮込んで溶かし、ブロードを作っておいてリゾットに使うのだそうな。そのレシピは滞在中に訳してあったが、あまりに手間がかかるので実際に作ったことはない。トウゴロウイワシについてはワカサギのようにフライで食べるようである。

種類はそんなものとして、次にこの時代のヴェネツィアでどれほどの量の魚が消費されていたのかを見積もるため、彼らはまたあれこれ史料をこねくり回している。が、ここがまたよく理解できない。1リッブラ[重量の単位]というのがおおむね0.476999kgに相当するそうで、ここでマランゴーニは、
「ヴェネツィアの十万の人が一週間に一人頭2リッブラ[つまり約1kg]の魚を食べたものとして、一年分の量は10-8,000,000リッブラ以上という計算になる」
と書いているのだが、つまり
 100,000(人)×2(libbre)×52(週)=10,400,000
ということである。人口に関する前提が省略されているのだろうが、下限が8,000,000となっている理由が分からない。ともあれ、週に2リッブラと仮定すれば年間消費量は一人当たり50.56kgとなるので相当なものであるが、肝心の「週に2リッブラ」の根拠も省略されている。

また「毎年国の養殖場から本国へ5,000コルバのウナギが卸される」という数字も残っているそうで、「1コルバは200リッブラ」、つまり約95.380kgになる(手元の計算と微妙にずれるのが気持ち悪い)そうだから、5,000コルバは約477トンになる。人口で割れば一人当たり年間5kg弱ということになるが、あまりに多すぎやしないか。

リストランテでは今のところウナギのグリル以外は食べた経験がないが、レシピについてはこれまでいくつか訳している。トマトで煮込んだり、中にはchiocciole di terra、つまりカタツムリと一緒にした料理もあった。まったく味が想像できないが、ロンドンでは労働者階級の栄養源だったという話をどっかで読んだこともあるし(いかにも不味そうな料理だと思ったことは覚えている)、レシピの数からみても馴染み深い食材であったのは間違いないようである。

以上のように、非常に多くの魚がヴェネツィアで消費されていたということになるのだが、ここまで説明しておきながら、ゴルドーニの作中の食卓では魚は滅多に出てこないという。「シンプルで大衆的にすぎ、揚物、煮物、焼物の他にはその料理集に入れるに値しない」と考えられたためだとされているが、とにかくそのレシピは非常に少なく、il brodeto[ブロードで煮たもの]、lo sguazzeto[シチュー]、il saòr[南蛮漬け]、la buzaraくらいしかない。最後のブザーラというのは例のとおりに炒めた食材にトマトと白ワイン、トウガラシ等で味付けしたもので、この調理法についてはまた面倒な起源論があるのだが今回は省略。

現代のヴェネツィアで大人気の魚料理は、往事は下層民向けのものであったということだ。とはいってもヴェネツィアの下層民というのは、例えば『どん底の人びと』の下層民などというものとはまったくイメージが違う。それはともかく、当時手に入りやすかったものには重きが置かれないというのは当然のことで、現代のように失いかけて初めてその有り難さに気付くというのもまたお約束である。

さて、では貴族階級は何を食べていたかというと、もちろん肉ということになるが、これについてはまた次回。現代のヴェネツィア料理だと肉料理はフェーガトかカルパッチョくらいのものしか知らなかったが、調べてみたら結構な広がりがあった。見たことのないレシピがたくさんあるので、つぎはちょっと時間がかかりそうである。

カルロ•ゴルドーニについて

カルロ・ゴルドーニ(1707-1793)はヴェネツィア生まれの著名な喜劇作家。モデナ出身の医師であった父ジュリオと母マルゲリータ・サヴィオーニ(サルヴィオーニ)の間に生まれ、本人は中産階級ということになるのだが、父の往診につきあって様々な社会階層の人々を観察し、またキオッジャの刑事書記局に勤めた経験などが後の劇作に資したと言われる。最初の幕間劇を書いたのはヴェネト州の北方にあるフェルトレというところで仕事をしていた時期とされるが、父親の死に伴いヴェネツィアに帰った後、彼は弁護士の勉強をしながらその創作活動を展開していった。

ただし彼の生涯の中でヴェネツィアにいた期間というのは少なく、ペルージャ、リミニ、ジェノヴァ、ピサ、ローマなど、陸続きのイタリア半島内とはいえ、あちらこちらへと渡り歩いたのはヴェネツィアーノの宿命か。彼は革命の嵐が吹き荒れるパリにいたこともある。

その名を冠した劇場があるのは勿論、San Tomàにある生家も観光名所となっており、Campo S. Bartolomioには立派な銅像まで立てられている。リアルト橋を渡ってすぐのところ、私も滞在中は毎日のように通っていた広場であるが、ここはヴェネツィアの中では比較的広く、その銅像の回りにはいつも多くの人がたむろしていた。その人達のためにいくつかゴミ箱が設置され、またそれを狙って多くのハトも集まっていたものだが、そうすると当然糞害がひどくなるわけで、いつだったか、銅像のクリーニングに伴ってゴミ箱も撤去されていたということがあった。カルネヴァーレの頃だったので単にイベント向けの対応なのかもしれず、今頃は元の通りという可能性もあるけれども、往来の盛んな広場であまり人に顧みられることのない彼の銅像に心静かな日々のあらんことをと願うばかりである。

さて、久しぶりに料理の話題ではないようにも思えるがそれは甘い。冒頭の記述は''La Cucina di Carlo Goldoni''『カルロ・ゴルドーニの料理-1700年代のヴェネツィアの食卓』という本を参照したものである。ゴルドーニの一生は十八世紀をほぼカバーし、それはまた「至上の光輝に満ちたヴェネツィア共和国」の最後の時期でもあった。彼のコメディアの中にはヴェネツィアの市井の人々の生活が活写されているが、イタリア人の生活は美味い食い物と美しい女性を中心に回っているので、そこには当然料理の描写もある。そこから当時のヴェネツィア料理を窺い知ろうというのがこの本の趣旨である。

話は飛ぶが、暇がある時にANSAというイタリアのニュースサイトを見ることがある。ここのニュースのカテゴリーの中には「Terra&Gusto」というものがあるのだが、季節の料理だとかワインの出来具合だとか誰それというシェフが賞を取っただとか、そういうニュースに需要があり、一つのカテゴリーを作らないと収まらないのがイタリアという国である。ゴルドーニについてこのような本が大真面目に作られるのも極めて自然なことであろう。

ちなみに日本ではどうだろうかと思って主要な新聞社のニュースサイトを確認したところ、M新聞のサイトでかろうじて、トップページの「ライフ」のカテゴリーを選択したところに「食」というものがあったが、これはちょっと残念な出来だった。今年の酒はどこそこが出来がいいだとか、春野菜が豊作だとか、そういうことが知りたければ日本農業新聞を読まなければいけないのだろうか。ジャガイモが不足しているだの、イカナゴが獲れないだの、ウナギやマグロが減っているだのと、否定的なものなら大手でもニュースにするようだが。

調子に乗って脱線するが、最近あれこれ料理について調べるうちにたどり着いたサイトでレシピの動画を観るのも面白い。
http://ricette.giallozafferano.it/Crostata-alla-confettura-di-albicocche.html
なるほどMicroPlaneはそっち向きで使うか、という発見があるのも動画ならではのことであるが、そういったまともな話だけではなく、イタリア人が餃子を作っている動画などは、笑えるようでだんだんとムカついてくるところが何ともいえない。
http://ricette.giallozafferano.it/Ravioli-di-carne-giapponesi-Gyoza.html
大げさに「Gyoza!!」と言いながら手を合わせる動作を繰り返し見ていると、映画「TAXi」(2だったか)の「ニンジャ!!」を思い出す。

餃子はイタリア語でRavioli di Carne Giapponesi (Gyoza)となっている。そういえば何度目だったかの「うち飲み」で餃子を作るという方がいらした際、それに合うワインを求めてリアルトのMille Viniに行き、店主に対して必死で餃子の説明をしたことがあった。「ラヴィオリに似た食べ物で作り方はこうで……」と手振りを交えて長々と説明したのだが、ラヴィオリに例えたのがまさかの正解である。その時は「それはきっとかなり油っぽい料理だからこれとこれをこの順番で飲め」と丁寧にワインを選んでもらったものだが、あのおっちゃんは元気にしているだろうか。

ついでなので次の動画も観ていただきたい。
http://ricette.giallozafferano.it/Sushi-all-italiana.html
蕎麦ざるの上に巻き寿司を置いたり、米を研ぐときに盛大に米粒をこぼしていたりなど、ツッコミどころ満載である。まあ、私も知らずに西洋の食器の使い方や調理法を間違えていることもあるのではないか、と考えると笑ってばかりもいられない。

この時代になってもまだ間違ったままの情報が流布しているのか、様々な誤解やアレンジが起こるのは仕方がないにしても、日本としては世界に向けて基準となる情報を発信すべきではないのか、と思って英語で日本食のレシピの検索をしてみたところ、某放送協会のウェブサイトにたどり着いた。やっていることはやっているのだな。

本題に戻る。件のゴルドーニの本は、
I 当時のヴェネツィアの食生活に関する論考
II 作中で料理の出てくる場面の抜粋
III ヴェネツィアとその近郊のリストランテのシェフによる各料理の現代でのレシピ
という構成となっている。このIII章の店の名前をざっと見ていったところ、ヴィチェンツァの店がやたらと多く、ヴェネツィアにしても一番多いのはキオッジャ、そしてイェーゾロ、メストレという地名が続く。本島内の店はハリーズ・バーを含めて三軒だけだった。

ヴェネツィアの美食スポットは実のところキオッジャなのではないか。そうなると一年近くヴェネツィアに滞在しておきながら一度も行ったことがないのが悔やまれるが、そうはいってもここはかなり本島から遠い。地図で見るとそうでもないような気がするけれども、ヴァポレットというのは実にのんびりした乗り物なのである。ヴェネツィアに住み、自家用ボートが持てるような人でもなければ気軽に遊びに行けるところではない。

考えるほどに懐かしさが募る。私がヴェネツィアに戻ることのできる日は来るのだろうか。

まあいい。この本はI章の部分が一番面白いのだけれども、今回はふざけすぎたので次回に回そう。

料理学校について

先日、近くにある農協の直売所で野菜を物色していたときのこと、エンダイブという見慣れない野菜が目に留まる。ポップには「炒め物にするかそのままサラダに」と書いてあったが、これがどういうわけか気になって仕方がない。何に使うかも決まらないままにとりあえず購入して帰った。

洗いながら細部を観察していると、茎の形状と感触がヴェネツィアにいた頃の記憶を刺戟するようである。調べてみると、このエンダイブ(和名:キクヂシャ)はチコリーの近縁種だとあった。チコリーはイタリア語ではradicchioラディッキオといい、つまりエンダイブはヴェネト州特産のradicchio trevisoラディッキオ・トレヴィーゾの遠縁に当たるということになる。

こんな細々とした縁にまで引っかかるほどおまえはヴェネツィアが恋しいのか、と呆れたが、懐かしいものは仕方なかろう。そういえば今くらいの時期でもradicchio tardivo(タルディーヴォは晩生の意)が市場に出ていたな、と思い返すともういけない。あの頃と同じようにこれでリゾットを作ることにする。

ラディッキオ・トレヴィーゾは赤い色をしており、プロシュットを炒めたものを合わせると赤い食材同士の競演で目にも鮮やかなリゾットが出来上がるのであるが、エンダイブは当然の如く青い。この違いを無視して同じようにプロシュットを使うのも芸がない、何かより白っぽい肉の方が合うのではないかと考えた末、ツナ缶があったのを思い出した。

料理をする際まで中身より見た目のことを先に考えるこの性向はどうかと思う。ともあれ、味の方も一応及第点であった。元のレシピの素材が受け持っていた役割を分析して的確に置き換えていけば、素人のアレンジもそう失敗することはない。

さて、帰国してからちょうど一年ほど経つ。その間、「イタリアで何をしていたのか」と問われる度に「ヴェネツィア料理の研究をしていた」と答えていたのはもちろん冗談のつもりだったのだが、最近はどうも洒落にならなくなっているようである。文学研究の方は足を洗った、というかそもそも片足しか入ってなかったみたいなのでもういいとして、ヴェネツィア史の勉強として家主の本も読み進めたいところなのではあるが、ここのところは故あってずっとイタリアの料理学校のサイトばかりを眺めている始末。

しかしイタリア語を訳すというのは私にはまだまだ難しい。英語ならば反射的に文が出てくるのに、その経験が役に立たないというか、文章の構造からしてまったく違うクセがあるように感じる。それに、
la sua continua propensione ad approfondire, indagare e imparare, alla scoperta......
とあるうちの「approfondire(探究する)」「indagare(調査する)」「imparare(習う)」のように、似たような意味の言葉をやたらと重ねて使うのも困りものだ。とにかく三つ重ねるのが修辞学の基本だとは小プリニウスも言っていたような気がするが、装飾過多なイタリア語はそのまま日本語にするとどうしてもクドい。これを上手に均すのは大変な仕事である。

参考にしようと思って表示を英語に切り替えられないかとサイト内をあちこち探したところ、そのようなものは見当たらなかった。イタリア人男性と同じく、ヴィジュアル的には凝りに凝ったサイトだというのに、言語に関しては強気のイタリア語一択である。今のところこの翻訳は正式な要請ではないはずなので彼らがどれほど本気なのかは分からないが、国際共通語たる英語を無視してイタリア語の次に日本語のサイトを用意しようというのは一体どういう了見かと首を傾げた。暫し考えた末、「イギリス人やアメリカ人などに食い物の味が分かろうはずがない」というのがイタリア人の認識なのではないか、との結論に至る。

冗談はともかく、これはきっと日本に縁のあるヴィチェンティーノが居たから思いついただけのことであって、いつもの行き当たりばったりではないかと思う。上手くいけばそれでよし。上手くいかなかったらスプリッツでも飲もう。

目下、メインの部分の下訳はひとまず終わり、講師陣のプロフィールを訳しているところであるが、この仕事がまた非常にストレスフルである。文章が難しいとかそういうことではない。彼らが修行時代を送った、あるいは現在経営している店というのがいずれも錚々たるものであって、片っ端から行ってみたくて仕方がないのである。

とりあえずこちらをご覧いただきたい。
https://www.alajmo.it/it/sezione/la-montecchia/la-montecchia
https://www.alajmo.it/it/sezione/le-calandre/le-calandre
http://www.ristorantecracco.it/
http://www.degpatisserie.it/
http://latanagourmet.incellulare.it/
http://www.aimoenadia.com/
http://www.aquacrua.it/
http://www.ristorantetrequarti.com/
http://www.lapeca.it/lapeca/
http://www.sandomenico.it/
http://www.anticobrolo.it/newsite/ristorante-anticobrolo-padova.html
http://lalocandadipiero.it/
http://www.foodboutiqueverona.com/
料理学校がヴィチェンツァにあるためか、その講師たちのリストランテやパスティッチェリアの多くはヴェネトからロンバルディアにかけての地域にある。パドヴァのカッフェ・ペドロッキの近くに名高い店がある
http://www.caffecavour.com/
のを知ったときなど、滞在中の不勉強をいくら後悔しても足りなかった。何度も前を通っておきながらいかにもお洒落で高そうな店なので素通りしていたが、こんなことになるなら無理をしてでも入っておくべきだった。

寂しいことに州都たるヴェネツィアで出てくる名前はエクセルシオールくらいのものであって、都会ではなく、いい素材を手に入れるためだということで自然豊かな地方の山間部に宿泊施設込みで立地しているリストランテが多い。いわゆるオーベルジュというやつかと思ったのだが、しかしそう名乗っているところは少ないようである。イタリア語でlocandaという言い方をしているところもあり、これは辞書を引くと「安ホテル,安宿;小さなレストラン兼ホテル」とあるものの、ウェブサイトを見る限りどうやったって安そうには見えない。ともあれ規模が変わると呼び名も変わるのか、それともフランス起源の文化への対抗心なのか。

そうはいってもミシュランの格付けに関しては素直に受け入れているというか、むしろ星が付いていることを純粋に誇っているし、Chef de cuisineだとかCommisだとかいう、いわゆるブリゲードのシステムについてはそのままフランス語を使っている。また特に必要だとは思えないところで英語を使っているのが散見されるのも不思議である。日本人に言わせれば、いい加減見慣れてしまった英語よりもイタリア語のままにしておいてもらった方がエグゾティシズムをかき立てられると思うのだけれど、イタリア人はイタリア人でやはり外来語を使った方がかっこいいと思うようである。

翻訳というのは結局その文章の背後にある文化を知らないとどうにもならないわけで、ブリゲードのような厨房の階級制度や「全イタリア調理師連盟」なるものの存在など、こんな機会が無ければ知ることはなかっただろう。こうやってまた中途半端な知識が増えていくわけだが、さて、私はこんなことをしていていいのだろうか。とりあえず楽しいからいいか。

パーネについて

イタリア人の主食はパンである。パスタではない。

日本語の語彙でいうパスタ、つまりスパゲッティやらペンネやらは概ねプリーモで出されるものである。イタリア料理のコースは基本的に、

○antipastoアンティパスト(前菜)+aperitivoアペリティーヴォ(食前酒)
○primo piattoプリーモピアット(第一皿、スープ)
○secondo piattoセコンドピアット(第二皿、メイン)
〔+contornoコントルノ(付け合わせ)〕
○dolceドルチェ(デザート)+digestivoディジェスティーヴォ(食後酒)

という構成になっており、このプリーモにスパゲッティなどの炭水化物が置かれ、メインの料理に合わせてまたパンを食べるという構成に日本人はまず面食らうものである。だが、プリーモピアットというのは元をたどればminestraミネストラであり、これはスープを意味する言葉となっている。

イタリア料理にはcucina riccaクチーナ・リッカ(リッカというのは英語のrichに当たる)、cucina poveraクチーナ・ポーヴェラ(真っ直ぐに訳すと「貧乏料理」)という区分があるが、クチーナ・ポーヴェラ、つまり庶民の食卓においてミネストローネにペンネや短く折ったスパゲッティを入れてヴォリュームを増やすなどというのは常套であるわけで、このようにミネストラが起源を無視しながら発展し、minestre asciutte(乾いたミネストラ)を経て現在の「プリーモ・ピアット」となったのである。つまりここに出てくるパスタはあくまで「付け足し」だということだ。実際は付け足しとは思えない量で出てくるが、軒を貸して母屋を取られるというのは行き当たりばったりを信条とするイタリアではままある話である。柔軟だと言えば聞こえは良いが、歴史を読み解こうとする者にとってはややこしいことこの上ない。またその歴史が長いだけに余計である。

さて、パスタはあくまで脇役だということに納得してもらったところでpaneパーネの話である。イタリア料理の店に行くとプリーモの直前からセコンドの終わりまで、卓上にずっとパン籠が置かれているものであるが、これにはいつ手を出したものやらと困惑する日本人も多いことであろう。食事の進行状況に合わせて適宜、という他に正解はないのだろうが、例えば家に人を呼んで食事をする場合、食卓にパンが出されていないとか足りなくなるなどということがあると嫁は後でこっぴどく叱られることになるのだそうな。それくらいイタリア人はパンを喰らう。

日本に帰ってきてからあちこちへパンを求めに行くようになった。神戸市民の常としてイタリアに行く前から知ったパン屋はいくつかあったが、以前から食べていたものは口に合わなくなってしまったのである。イタリアでは何もかもが原理主義的というか、いや、深く考えているはずはないからただ原始的なのだろうが、パンは小麦・酵母・塩・水と、以上で作るのが原則である。オリーヴオイルだの何だのと加えられたものは別扱いで、店頭ではきちんとその旨表示がなされている。

ここで問題となるのは味ではない。これは日本に来たイタリア人も口を揃えていうことなのだが、日本のパンはイタリアのものと比べるととにかく柔らかすぎるのである。「軽くトーストして外はカリッと、中はふんわり」とか要らんし。そんなふわっふわしたパンでクロスティーニが作れるかいな。パン作るときに三温糖を入れるとか何考えとんねん。

ということである日のこと、イタリアで小麦まみれとなり、糖質制限だのグルテンフリーだのという流行に逆らってどういうわけか10%以上も減量して帰ってきた私は、すっかりイタリアにかぶれた舌に合うパンを探して三田の方まで足を伸ばしたのだった。

いかにも中途半端な田舎の風景の中をフウィヌム(愛車)で進んでいくと、地方三桁国道沿いに古民家風の建物がある。駐車場へ入るとロードバイク用のスタンドがあった。たまに街中でガードレールや電柱に立てかけられた自転車を見かけることがあるが、ロードバイクは基本的に車体にスタンドを付けないものである。ロードバイク原理主義者は目的地にこういうものを見つけるとちょっと嬉しい。

イタリアは日本と並ぶ自転車王国である。これは自転車の利用者が多いとかいうことではなく、自転車のコンポーネントにおいて、日本のシマノとイタリアのカンパニョーロの二社が非常に大きなシェアを誇るという事実に拠る。イタリアに行く前からこのことは知っていたが、何しろヴェネツィアでは自転車に乗れないので、向こうにいる間は特に思い出すことはなかった。カンパニョーロの本社はヴィチェンツァにあるそうだが、そこへ三度も通っておきながらそれと知らずにいたというのも迂闊なことである。ボッテガ・ヴェネタもここにあるというし、なかなか侮れない街だ。

カンパニョーロのコンポーネントはそれを見ながらワインが飲めるほどに美しいが、同程度のシマノの製品と比べるとかなり値が張るために、実際はシマノが選ばれることの方が多い。いつものパターンである。先ほど名前を出したボッテガ・ヴェネタもそうだが、職人の手仕事の美しさを残したものの方がよいと分かっていても、同程度で安いものがあれば人はそちらに流れるものだろう。イタリアは大量生産の冷たさに対して脊髄反射的に抵抗する国であり、今のところはどうにかこうにかそれを自分たちの強みとすることができているが、他人事ながら先行きが心配である。まあ、ローマの末裔たちのことであるから、傍目には危なっかしくても結果的には誰よりも遠くまで走っていくことになる、という展開もありそうなことではあるが。

駐車場で足踏みしたが、件のパン屋の店内へ。入口のドアノブからして凝った物で、一瞬開け方に迷った。店内は梁を目立たせた内装が印象的で、壁の装飾もユーズド感を演出した小洒落たものとなっており、また綺麗にディスプレイされたパンにはセンスの良いポップが添えてあったりと、非の打ち所のない当世風の店である。しかも店主は鳥打ち帽にベストを着用、故あってしばらく雑談を交わしたが、「外国での修行経験を生かしながらも日本の風土に合ったパンを」などと、雑誌のインタビュー記事にでもありそうな優等生ふうなことを仰せであった。実際に取材された経験があって、その時の紋切り型が反射的に出てきたものだと思うが。

勿論パンはどれも美味しかった。特に店の名前を冠したパンは私の求める「食事の傍らにあるべきパン」として適したものだと思う。ただ、もやもやしたものを抱えながら帰途につき、途中で近くのケーキ屋(ここは以前から知った店)に立ち寄ったときにこれと得心がいったのだが、中途半端なニュータウンにありがちなドイツ風の、つまりメルヘンな山小屋風の店構えというのは日本の田園風景の中ではひたすらうさんくさい。ヴェネト州の北部はアルプスであり、ヴィチェンツァなども山岳地帯であるから当然ヴェネツィアとは建築物の雰囲気が違ってくるのだが、そこで本物の「ヨーロッパの山の家」を見た後では何もかもが嘘っぽいのだ。憧れる気持ちは分からないではないというか、むしろ多大なる共感を寄せるところではあるが、一軒だけが頑張ったところで町全体の雰囲気は変えようがない。中途半端な嘘っぽさに違う種類の嘘っぽさを加えたところで、ただ空回りの感しかない。そこへきて、店構えがヘンゼルとグレーテルなのに店のイメージキャラクターはアリスだとかいう、ちぐはぐな真似をされると余計に訳が分からなくなる(これはケーキ屋の話)。

ちなみに、この三田のパン屋は「味取」という別のパン屋に教えて戴いた。多井畑厄神の傍にあるこの店で「うちに来るぐらいならそっちの方が近い」と言われたので行ってみたのである。結果的には私の家からは反対側にほぼ同距離であったというだけでなく、店の方向性まで正反対なのは面白いことであった。夏場に店に伺ったときには店主が流行を超越したシュールなデザインのTシャツ姿で作業をしていたし、店構えは子供の頃に小銭を握りしめてガムや駄菓子を買いに行った昭和の駄菓子屋の雰囲気、というか実際に煙草屋だった店舗をそのまま使っている。そして酒を呑んでは「パンより米の方が美味い」と放言し、クリスマスには流行なのでシュトーレンを作ってはみたが、客(私は客と思われていないのかもしれないが)に向かって「僕はこれはあまり好きではない」とのたまう(イタリアで濃い味のドルチェに慣れた私の舌には合った)。せっかく美男美女の夫婦が神戸の街角で小さなパン屋をやっているというところまでカードが揃っているのに、この絶妙な外し方が堪らない。それなのに(だからこそか)これが正解としか思えないのが素晴らしいところである。

当然ながらここのパンは絶品である。過日「バッカラ当番」(このときのことも書こうと思っていたが、何しろ二ヶ月ほども前のことなので詳細は、

ヴェネツィア同窓会@神戸|サバイバル☆サバティカルinVenezia

を参照のこと)が開催された際に「味取」のパンを仕入れていったのだが、これはヴィチェンティーノにも好評であった。こちらが何も言わないうちに「これは天然酵母だ」と看破されたのだが、イタリア人てのは皆がパンに対して斯様に鋭敏な感覚を持っているものなのだろうか。ともあれ、今後も三田よりは多井畑の方へ通うことが多くなりそうである。