世界遺産の隙間について

私のアパルタメントであるが、どういうわけかヴェネツィアの観光地として有名なリアルト橋から徒歩で三十秒ほどのところに位置している。だからといって開け放していても観光客の声でうるさいということはなく(後述するが隣人はたまにうるさい)、総じて快適である。そしてワンルームだからか、家賃もそう高くはない。ヴェネツィアの物件としてはむしろ安いのではないか。

ご存じの方は読み飛ばして戴きたいが、ヴェネツィアの建物は、程度の差はあれ、すべて歴史のある建物である。この街は潟(ラグーナ)に木の杭を打ち込み、その上に石を並べ、さらにその上に土を盛り、さらにさらにその上にまた石を並べて基礎が作られているらしい。街中をあちこち歩いていると、舗石をはがして工事をしているところに行きあうことがあるのだが、確かに石畳の下には土(といっても石と石に挟まれて生物の活動が少ないためか、不健康そうな灰色をしている)があり、そこへ水道管なんぞを通しているようである。

で、この杭を打ち込めるような水深の浅い場所というのは、当然ながら自然にできた潟の分布に拠るのであって、それに沿ってこの街は形作られていったのだそうな。よってこの水面下の基礎から思い通りに作り直すのは原理的に不可能というか、そもそも今はもう世界遺産なので手を出せないというか、だいたい快適な建物に住みたかったらこの街を選ぶ必然性がないだろうとかいう諸々の理由で、この街では元からある建物を壊すことがない。

だから私の仮住まいとなっているこのアパルタメントも、もともと一つの屋敷であったものを数部屋に分割してできている。これがいつ頃の建物なのだかは知らないが、階段のすり減り具合などを見ていると何となく気が遠くなることもあるほどだ。そしてもともとは何のための部屋であったのやら、これがアパートの一室かというほど古めかしくて大仰なデザインをした扉の一室があったり、壁に何かしらの部屋の入口をつぶした跡があったりと、悩みながら継ぎ接ぎをしたであろう跡がそこかしこに見受けられる。

こちらの大学でお世話になっている先生の解説によると、primo piano(直訳すれば一階であるが、こちらの用法では二階を示す)とsecondo piano(同じく三階)は貴族の居住用の階層であり、terzo piano(四階)より上は召使いの居住に充てられたそうである。したがって三階までは天井が高くて扉の大きい部屋が多く、四階以上はその逆になる。私は入ったことがないので推測に過ぎないが、三階までは当然部屋の間取りも広いのであろう。日本のマンションだと逆にお金持ちほど上に住むような印象があるが、エレベーターのない時代の生活を想像すればこれはこれで自然なことだと納得がいく。

ちなみに日本でいうところの一階はpianterrenoとかpianoterraとかいう。意味から考えると「地階」と訳したいところだが、この言葉は日本語では地下室を指すようだ。それはともかく、私のアパートでは外のドアを開けて入ったところにはただ階段があるのみで、この一階の部分に部屋が存在しない。外見から察するに後から追加されたと思しい扉がアパートの入口の両隣にあるのだが、これはカナル・グランデに面したリストランテの裏口となっているようである。一階部分はすべてこのリストランテに供し、二階以上の居住部分には反対側のカンポに面した入口からのみ上がれるようにしているようだ。

さて私の部屋であるが、独身者用で広い空間は必要ないのだから当然terzo piano(四階)に位置している。二階や三階に比べて世帯数(ドアの数)が一番多いのが、「召使い用」の階層であることを如実に示している。ということは、使い勝手のよい広い空間はもともとあまりなかったはずなのだ。

ところが、同じ階には子供のいる世帯や、最近どこへ行っても幅をきかせている東アジアの某国の人(夜中の二時くらいまで大声で騒いでいたことがあったので分かった)が数人でルームシェアをしていると思しき世帯がある。そうすると、この階層にもそれなりに大きい部屋があるものと考えられ、そして私の部屋はそのような大きい世帯の間に不自然に挟まれている。

元の骨格がいじれないので、単身世帯向け、あるいは子供のいる世帯向け、と割り切ったアパートが作れないのがヴェネツィアである。イタリア人のことだから行き当たりばったりに改装するうちになんとなく隙間が残ってしまっただけなのではないか。そう言われても仕方がないような妙な配置である。