生粋のヴェネツィアーノについて

こちらへ来てすぐのある日のこと、アパルタメントの管理を任されているという人より電話があり、部屋へ来てもらっていろいろ説明を受ける。相手は当然イタリア語(たまに英語)なのだが、ちゃんと全部理解できたのかどうか。

その後、警察に届けを出す必要があるとかでともに外出。彼はリアルト橋を渡ったところにあるCampo S. Bartolomeo(カンポ・サン・バルトロメオと読む。イタリア語は基本的にローマ字読みそのままである。カンポとはヴェネツィアのあちこちにある中小の広場を指す)で銅像を見上げながらあれこれ説明をしてくれたり、そこからサンマルコ広場へ向かう道の一つであるSotto Bissaのbissaというのはヴェネツィア方言で蛇(現代イタリア語ではbiscia)を意味するのだと説明してくれたりした。

サンタ・マリア・フォルモーザ広場においてはさまざまな年代と建築様式の建物が一度に見渡せるとのことで、そこであれやこれやと講義も受けた。そして、カフェならここだとか、ジェラートはこの店がおいしいとか、ここの家具はよいとか、何とかいう靴は革が柔らかくてよいとかいうように、生粋のヴェネツィアーノに街を案内してもらうという夢のような展開となっていった。私が初めてサンマルコ広場(Piazza S. Marco、これは大きい広場なのでpiazzaという)を訪れたのもこのときのことである。

彼(ちなみに七十前後のジイさんである)はおすすめの店を紹介する際、BeneとかBuonoという意味を示すのに右手の人差し指と親指で輪を作って口に当て(ちょうど口笛を吹くような形)、チッと音を立てながら投げキッスのような仕草をする。後日、先遣者の日本人に伺ったところ、やはりヴェネツィアーニによく見られるものなのだそうである。イタリア人のジイさんがやるとなかなか格好が良いのだが、こういうものは東洋人が真似したくとも様にならない。

ちなみに、駄目な店の前では×を描く動作をするのだが、これはそのままなので分かりやすい。そしてこの動作は大概「cinese」(チネーゼ:中国の、中国人)という言葉を伴う。大きな通りに面しており、2€前後から土産物風のアクセサリーを売っている店の商品は軒並み「チネーゼ」と断罪されていた。また、Vetro di Murano(いわゆるヴェネツィアングラス)も最近は中国製の偽物が多いのだそうな。だから買い物をするときは私に聞け、といわれた。そういう買い物は帰国が近くなってからのこととなろうが、何とも心強いことである。

他にもカフェでエスプレッソをごちそうになったり、立ち飲みや惣菜の量り売りの店(そういう類の店をロスティッチェリーアという)で軽い食事をおごってもらったりする。この日はアンチョビとモッツァレラを包んで揚げたもの、オリーブに衣を付けて揚げたものなどを食べながら昼間からプロゼッコを飲んだ。ここでバッカラを買って帰り、パンにのせて食べると美味いとも教えられる。

日本ではプロセッコと表記することが多いようだが、ヴェネツィアの人は母音に挟まれたSは概ね濁って発音する。プロセッコではなくプロゼッコ、ブレサオラではなくブレザーオラである。イタリア語の参考書に書いてあったが、こういうのは地域によるらしい。場合によっては文法までが地域によって変わるとのことだ。

その後はその隣の店でジェラートまで買ってもらって、サン・バルトロメオ広場へ戻っていった。私のようなオッサンと七十を超えたジイさんが二人でジェラートをなめながら歩いているというのもヴェネツィアでは当たり前の光景である。まあ、日本でも似たようなことをした覚えはあるのだが。

この御仁、二十数年前まではここの大学で地理学だか気象学だかを教えていたという。だからだろうか、私の名字は偶然にもイタリア語で天王星、或いは天空神を意味する言葉とまったく同一なのだけれども、それについて話題にしてくれた。日本語ではどういう意味なのかと問われたので持ち歩いている電子辞書を使って示してみたが、さてどんな反応だったかな。Belloとか何とか言って適当に流されたような気がする。それにしても、一年勉強した程度の語学力で何とか会話についていった自分をここでちょっとだけ褒めてやりたい。