ユートピア人の恐怖について

ヴェネツィアの街中にはところどころ、柔らかいボールのような玩具を地面に置いたマットの上にペタペタとたたきつけて観光客(の子供)の気を引いている人々が居る。彼らは大概黒人なのだが、S. Lio教会の辺りにいたある物売りの前を少し通り過ぎたところで、一緒に歩いていた例のヴェネツィアーノが私の腕を取って振り返り、あれを見ろ、と言う。

何だろうかと思ったら、彼は物売りの動作を戯画的に真似て、あいつら黒人はビッグバンの時に人間とは別に生まれた猿だ、というようなことを言ってみせた。そもそもビッグバンとともに人類が生まれたとかいうのがどうにもちぐはぐで、科学的な言葉を無理に使おうとするのが教養人の迷いというか、矛盾を示していて興味深い。カトリックのお膝元にいる人が言うからに、このビッグバンというのは唯一神による天地創造を指しているとみるのが正しかろう。要は、神に似せて作られた自分たち白人と彼ら黒人とは同じ起源を持つものではなく、彼らは神に祝福されていない生き物だと言いたいのだ。彼は多少日本びいきなので、私に対してもまったく悪びれることなくこういう話をしてくれたのだが、神の威光の届かぬ極東の島国の黄色い猿としては、何ともいえない気分になったことであった。

ただこの話、差別はいけないとかいう建前でもって口を挟むような雰囲気のものとはちょっと違った。まあ、その気になったところで私の語学力ではまだ何も言えないのであるが、そこには「奴隷は自由人のために自然が作ったものである」というアリストテレスふうな自然観がいくらかは含まれているにせよ、どうもそれだけではなさそうである。

そしてまた、低所得層に対する差別というのともまた少し違う。例えば、ヴェネツィアの街中には、ところどころに物乞いがいる。いかにも不自由そうな緩慢な動作と言葉でもって通りすがりの人に憐れみを乞うているのであるが、彼らは毎日本土から電車で出勤してくるそうで、毎日ある時間になると概ね同じ人が同じ位置にやってきて陣取っている。だから数日暮らしていれば彼らの顔も覚えられるし、たまに配置換えがあるとすぐに気づくようになる。それはそうと、彼らは観光客たちがこの地でキリスト教的な施しの精神を発揮するのを助けているのであって、基本的にこの街の文化的景観の一つとなり果せているもののようだ。どう見ても儲かっているようには見えないが、よく見るとそこそこ小綺麗であったりもするので、どこからか別に給料が出ているのではないかと思ってみたりもする。そして当然、彼らを排斥するような言説は聞かれない。

そう考えると、先述のチネーゼもそうだが、歴史と誇りを持つこの街にとって、街頭の物売りのような存在は文化や治安・秩序を乱すものだというのが一番の問題なのではないか。後日ジャルディーニへ向かってスキアヴォーニの辺りを歩いていたときのこと、彼ら物売りを取り締まっている場面に遭遇したことがあった。黒っぽい服装のちょいワルオヤジが物売り達に近づいて注意すると、彼らは一斉に地面に広げた商品(海岸沿いは直射日光がきついので、この辺りでは概ね質の悪そうなサングラスを売っている)を引き上げる動作を見せたのである。よって私服ではあったが、このオヤジは顔なじみの警官とみられた。彼らの数が多いのできっちり取り締まっていたらきりがないのだろう、結局は注意するだけで済んでいたようだが、彼らが法秩序の境界線付近に位置しているのは確かなようだ。

イタリア語の参考書にあった2002年のレプブリカ(イタリアの新聞)の記事によれば、労働局が監査に入ったところ、全国平均で62%が不法就労だったということである。見ての通り十年以上前のデータで、もう少しイタリア語ができるようになったらISTAT(政府中央統計局)の最新データものぞいてみたいものだが、それにしても恐ろしい数値ではないか。きっとそれだけ政府も税金を取りっぱぐれていることだろうし、これではイタリアの財政も長いこと回復しないわけである。

ちなみにこの黒人達は、夜になると、空へ放るときらきら光りながら回る玩具を売るようになる。カンナレッジョのストラーダノーヴァの方ではこれを多く見かけた。また、橋のたもとで今流行の自撮り棒を売っている人たちというのがおそらく一番多い。少数だが、明らかに偽物のブランドバッグを路上に並べて売っている人もある。

 

唐突だが、この街はユートピアである。日本語でこの言葉が持つ肯定的なニュアンスでいうのではない。外界と隔絶され、歴史の時間が止まった(ように見える)街だということだ。観光客はその止まった時間を楽しむためにやってきて、それを維持するためのお金を落としてくれる。だから彼ら観光客はこの街の秩序を犯さない。よって概ね歓迎すべき存在である。

しかし、街頭の物売り達が持ち込む安物や偽物は、この街の文化や景観、経済の秩序を少しずつ蝕んでいる。不景気の続くイタリアにおいて、ヴェネツィアーニがこの街の価値を劣化させる「変化」のにおいに敏感になり、それをもたらすと見える異質なものに対して本能的な恐怖を抱くのも当然ではないかと思う。

では私のようなジャッポーネは異質なものではないのか、ということについてはまた改めて。