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生活感との戦いについて

リアルト付近は常に混雑する場所なので、ちょっと買い物に出るにしても人込みが億劫である。仮住まいとはいえヴェネツィアに起居するものとしては、やはり快適な裏道を開拓すべきであろうということで、数日前からローマ広場方面に用事がある場合はカナル・グランデ沿いのRiva del Vin(ワイン河岸と訳すのだろうか。昔日はこの辺りでワインの荷揚げが多かったことを示すのだったかと思う)を通ることにした。

カナル・グランデ沿いにはそれなりに人が集まるが、サン・シルヴェストロの辺りの脇道へ入ると人通りも少なくなり、妙に下町っぽい雰囲気になる。観光客が通らないところには当然店舗もない。逆にいうと、ヴェネツィアで迷いそうになった場合はショーウィンドウのある道を選んで歩いて行けばなんとかなるので、覚えておいて戴ければいつか役に立つかもしれない。まあ、半日も歩けば勘で分かるようになると思うが。

こういうところに入っていくとぽつんとクリーニング屋が店を出していることがままある。観光客が街のクリーニング屋を使うというのは考えづらく、現地住民だけを相手に商売をしているからだろう。そして、話には聞いていたが、実際に居住区を歩いてみるとやはり空き家が目に付くようである。不便な場所だし物価は高いしで住民が減っており、また高齢化も進んでいるのだそうな。

居住区では外に洗濯物を干すことができる。運がいいのか悪いのか、今日は散歩していてふと見上げると、オバちゃんが真っ赤な下着を干していたところへ出くわした。イタリアでは何かの祭日に赤い下着を贈る習慣があると聞いたが、しかし今の季節ではなかったような。贈られた下着は日常的に使うということなのか。

それにしてもなぁ……まあいいや。

先ほど「居住区では」と書いたが、これに対しリアルトのような観光地区では当然のこと、生活感あふれる物品を人目に付く場所に掲げることは許されない。したがって私のアパルタメントには洗濯物を外に干せるような場所も設備もない。ではどうするのかというと別に特別なこともないのだ。部屋には全自動洗濯乾燥機が備え付けられている。

天候に左右されずに洗濯ができるのは良いのだけれど、これで洗濯するとワイシャツがシワっぽくなって、どんなにしつこくアイロンを掛けてもきれいにならない。そもそも日本から持ってきたワイシャツのほとんど(水道筋商店街の洋服店で作ってもらった)にはタンブラー乾燥をするなと書いてあり、その理由はもう嫌というほど分かったのではあるが、何とかこれだけ部屋干しにする方法を考えなければならないだろうか。

アイロンといえば、当初から部屋にアイロン(ドイツ製で超高出力)は残されていたのに、アイロン台の方がなかったのはどういうわけか。前の居住者がここを出る際に持ち帰ったと考えるのが妥当だが、どう考えてもアイロン自体の方が高価であるしかさばらないしで、これを置いてアイロン台のみ持ち帰るというのは理屈に合わないような気がする。前回書いた洗い物のことといい、先住民は一体どういう人だったのだろう。或いは、アイロン台を使わずにアイロンを掛けられるような奇抜な人だったのだろうか。

ヴェネツィア本島内にも家庭用品を扱う店はある。仕方がないのでここへ来て三日目くらいにその店(RATTIという)へ行き、€70ほどでアイロン台を買ってきた。ちょうどセールの時期であり、いくらか割引で買えたのは良かったのだが、ただ、この店はサンタ・マリア・フォルモーザにほど近いところにあるのだ。と書いても何が問題なのか分からないだろうが、この店からアパルタメントへ帰るには、リアルト橋を渡らなければならないのである。

ヴェネツィア大学に日本語学科があるということもあり、この街で生活した日本人の数は決して少なくはないだろう。現にこのアパルタメントにほぼ使われずに残されていた、イケアの食卓用ナイフの包装を見ても、そのリサイクル表示に「プラ」「紙」(ともに原文ママ)と書いてあり、先駆者の存在を身近にうかがわせる。だがしかし、よりによってアイロン台を抱えてリアルト橋を渡った日本人というのはこれまでにもそうそうなかろうと思う。何故か誇らしい気分になったことであった。