慣れてしまったことについて

スプリッツはその後、実際に家のすぐ近くのバールで頼んでみた。その店ではなんとスプリッツ専用に、氷とオレンジのスライスを入れたグラスを冷やした状態で用意してある。実はその前の一軒目の店でも他の客が頼んだスプリッツを作っている様子を見ていたのだが、そこでは氷は入れていなかった。どうも構えの古い店の方が氷が入る率が高いような気がする。

店主はグラスを取りだした後、「アペロル(「ア」にアクセントがあった)かカンパリか」と問う。「アペロル」と即答したら「Perfetto!」と言われた。綴りを見て想像が付くと思うが、パーフェクトという意味の言葉である。

まずスプリッツはある程度この地に慣れた人間でないと頼まない。さらにアペロルとカンパリではカンパリの方が知名度が高いので、この二択を示されたら、じゃあ知っている方で、となってしまいがちなところでアペロルの方を選んだから完璧、ということなのかもしれないが、あまり調子に乗るのもどうかと思う。

イタリア人からペルフェットと言われたことはこれまでに数回あるのだが、何となく語感が違うようで、「O.K.」の強調形というか、「よっしゃわかったまかしとき」のようなものにも聞こえるのだ。そのうちまたこちらの先生に聞いてみよう。

ちなみに「O.K.」はイタリア語でも「O.K.」だが、たまに「okay」をイタリア語風に発音した「オカーイ」という言い方も耳にする。同じ人でも時によって発音が違うのだが、何か使い分けがあるのだろうか。

さて、味の方はというと、まあ、日本だったらカラフルなデザインの缶入りで売っている低アルコール飲料のようなものである。と思ったらやはり、こちらのスーパーでも三本セットの瓶入りで売っていた。よく見るとアペロルの瓶も並んでいる。目の前にあっても知らないものはなかなか目に止まらないものなのだなと思ったが、未だ買い物をするのにゆっくり棚を見て回る余裕がないということかもしれない。ともあれ、昼過ぎ辺りから暑気払いに飲むのに最適であるとは思う。店の主人やカウンター席の常連ぽい客がちょっと好意的になるという副次的効果もある。

そういえば最初にスプリッツの話を書いたときCicchettiという言葉を酒という意味で使った。辞書には「(グラッパなど強い酒について)少量の酒」とあり、スプリッツのレシピが載った本でも食前酒に近い位置づけで使っているので「イタリア語」としてひとまず間違いではないのだが、この言葉は「アンティパスト」という意味で使うことがあるのかもしれない。酒、あるいは食前酒(グラッパは食後酒だから辞書の記述も現実との辻褄が合わないのだが)というような意味ではちょっと通らないような使われ方をその後いくつか目にした。

追加報告をもう一つ。先日の魚の名前のリストを整理し、一通り調べ直してからレイアウトを整え、PDFにしてスマホに入れておいたらこれがとんでもなく便利だったので、調子に乗って肉料理用語集、菓子とジェラートの用語集まで作ってみた。日々更新されているので今すぐにとはいかないが、イタリアを旅行される方にも便利かと思うので、夏にいらっしゃる予定の先輩方にはそのうち送るつもりである。

調べ直していると、やはり方言の多彩さに悩まされる。今のところ、いわゆるムール貝についてはまったく共通性の見られない四種類の名が出てきた。あと、ソーセージという意味の「salsiccia」という単語はかなり初歩の段階で覚える単語なのだが、この語はイタリア北部のこの地ではまず見られず、スーパーで売られている現物を見てもドイツ語そのままの「wurstel」である。「ヘタリア」というマンガによく「ヴルステル」という言葉が出ていたのを思い出したが、しかし辞書に示された発音は最初の音が濁らず「ウルステル」となっている。ついでに言うと日本に居た頃カラブリア出身のイタリア語教師から、故郷には「nduja」というものがあるとも教えられた。

辞書によると「イタリア語」という言葉自体に「共通語」というニュアンスがあるらしく、たとえば「ヴェネト語」はイタリア語とは見做されないとのことであった。逆に言うと、共通語としての「イタリア語」なんてものは日常的には誰も使っていないということである。それぞれの土地での言葉の多様性には際限がないということで、勉強する方としては諦めるほかはない。

それにしてもこの電子辞書、誤植が多いのはどうにかならんかと思う。「牛勢羊肉」とは何のことかと思って元の単語を調べ直したら「去勢羊肉」のことだった。他にもつまらない脱字も散見される。今年出た最新版のモデルを買ったのにこんな状態というのは残念というほかはないし、辞書自体の信用性にも関わる。使い勝手は気に入っているし、何よりイタリア語の電子辞書といってはこれしかないのだから、もうちょっと頑張ってほしい。

イタリア人の作ったものや行いについてはいくら欠陥があろうと何を言う気にもならないが、日本人が作ったものとなると途端に許せなくなるのは何故だろう。

それはそうと、今週は本業を放り出して作った用語集を使って充実した食生活を、と意気込んでいたのだが、この週はなかなかそうもいかなかった。

ここへ入った当初から、トイレの水が使っていないときでも少しずつ流れているということがあった。様子を見ていても止まらないどころかひどくなっているようでもある。日本と同じような作りであれば自分で直すところだが、こちらのものはタンクや何かがすべて壁の中なのでおいそれとは手が出せない。光熱水費は毎月固定なので放っておいても実害はないのだが、そうはいっても向こうが困るだろうと思って管理人に相談したところ、お馴染みのパターンである。

当日「じゃあ今日の夕方に配管工を連れて行くよ」
……夕方「配管工が忙しいみたいだからまた後日ね」

数日後の朝、管理人と配管工が来て、しばらくあれこれチェックをして原因を特定した後、管理人氏「部品の交換が必要みたいだから、彼の他の仕事が終わってから、今日の四時頃にまた彼だけ来させるよ」
……四時を過ぎても、予想通り誰も来ない。六時前になってやっと管理人氏がやってきて「明日の夕方四時頃に配管工が来るから」

翌日四時半過ぎ。やはり来ない。管理人氏から電話があり「配管工は来た?」「いいえ」「十分後には行かせるよ」
……珍しいことに言ったとおり十分後に配管工がやってきて作業開始。

イタリアってのは何ごとも督促しないと話が進まない土地なのであろうか。電話の後すぐに来られたということは、配管工氏はどっかのバールで油でも売っていたのだろうか。

作業が終わった雰囲気になったのでのぞいてみると、配管工氏は、スイッチがこわれているので(作業中に壊したのか?)大の方しか使えない、来週また修理に来るから、と言う。配管工氏は私に対してはずっと英語で話しており、お互い片言どうし(私はイタリア語で答えている)気楽でよかったのだが、この説明の時に「Big」という単語を使った。これはスイッチの形状(ボタンがそういうデザインになっている)を指して言ったのだと思うが、一瞬日本語の「大」と共通なのかと思っておかしかった。この他にクーラーの方にも水漏れがあるのに気づいてくれて、そっちも直してくれるという話なのだが、今までの経験からだと、すべて片付くのにこの先一か月くらいかかるかもしれない。

ともあれ、これに付き合ってアパルタメントに張り付いていたのでなかなか思うとおりに外出できなかったのである。そうこうするうちに風邪も引いたし。