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海の男たちについて

約束の日、マ氏と待ち合わせた後、まずヴァポレット(水上バス)に乗せられた。サン・マルコの近くからだったので、ジュデッカかリドへ連れて行かれるのかと思ったが、船は外海方面へ進み、ジャルディーニで降りろと言われる。確かに遠い場所ではあるが、ここは歩いても行ける場所である。しかもその後はアルセナーレへ歩いていった、つまり来た方向へ戻っていったので、何のために乗ったのかが今ひとつ分からない。しかしこれは家主の到着までの時間稼ぎと、また、夕涼みというくらいの意味合いであったようだ。実際、八時くらいの時間帯にヴァポレットに乗るのは非常に心地よいものである。

以前も書いたと思うが、今の季節のヴェネツィアで八時というのはまだ「夕方」である。そもそも最初の待ち合わせが七時半なのだ。ヴェネツィアはそういうテンポで動いている。

それにしても巡り合わせというのは分からないものである。私のことをよく知る方はきっと腹を抱えて笑うことだろうが、案内されたのはなんとイタリア海軍のサロンであった。道中、家主の旦那が潜水艦乗りだったという話があったのは、ここへ行く理由を説明していたものらしい。そしてマ氏の方は空軍に所属していたともいうが、どちらも佐官までいったそうなのでかなりのものだ。ちなみにイタリアには数年前まで徴兵制があったのでこれは特別なことではない。

徴兵制は世界的に減る傾向にある。世に紛争が絶えることはないが、現代では世界大戦規模の戦争が想定しにくいこと、経済の低迷による軍事費の削減要求、そして兵器が高度化しているせいで士気の低い兵隊では使い物になるまで育たない、などの理由で割に合わなくなっているのである。

では今でも世界中で紛争に首を突っ込んでいるあの自由の国などはどうやって兵員を確保しているのかというと、金で釣るのである。何年か兵役を務めたら給料とは別に大学に通う奨学金を支給するとお触れを出せば、所得格差の大きい彼の国ではいくらでも若い志願者が集まる。ただし、紛争地で命を落とすことなく帰ってこられたとしても、PTSDで鬱になったり自殺したりと、結果的には大学どころではなくなってしまったりする人も多いらしい。

それはそうと、為政者として兵員が欲しければ、経済的な格差が広がるように仕向けていけばいいということだ。徴兵制などなくてもいくらでも人が寄ってくるようになる。政策的にも予算的にも容易なものである。世界的な潮流を読み解こうともせず、今さら徴兵制がどうのこうのと言っている政治的センスの欠片もないどこかの野党は、ぜひ彼の自由の国に学ばれるとよい。

だいたい日本に徴兵制があった頃だって、金持ちはどうにかして兵役を逃れるか後方にいるかしたもので、前線に出たのは貧しい農家の次男や三男だったはずだ。賛否どちらの立場であろうと、歴史に学ぶというのはそういうことではないのか。

およそヴェネツィアには似つかわしくない話にも思えるが、この街とてヴェネツィア共和国時代は峻厳なリアリズムに徹することで幾多の戦争をくぐり抜け、その結果として今こうやって静かな老境を迎えているのだ。アルセナーレの広大な軍管区とこのサロンはその名残でもある。

さて、きな臭い話はこの辺にして建物の奥に進む。すると家主が待っており、さらにその奥にリストランテがあった。

場所が場所だけにおそらく一般客は入れない。当然客層は限られてくる。客は私たちの他にもう一組だけで、ご夫婦とその友人と思しい三人組だったのだが、家主とマ氏は皆と親しげに挨拶していた。そしてその中のご婦人の方がどうも東洋人に興味をひかれたらしく、向こうの食事が終わって旦那とその友人がバールへ移動(同じ建物内にある)したあと、こちらのテーブルにやって来て話に混ざる。ちゃんと聞き取れなかったが、子供だかなんだかが日本で仕事をしていたことがあるらしく、日本のことをよくご存じである。

プロゼッコの話をしたときに一度書いたが、イタリア語では母音に挟まれたSは濁音になるので、大概のイタリア人は大阪のことを「オーザカ」と発音する。分かりやすいようにと私も「オーザカ」と説明していたのであるが、このご婦人はちゃんと清音で発音していた。

こちらの食事も終わってバールへ移動。総勢六人でなんだかよく分からないことになっていった。ハーブを使ったリキュールでプリニウスに関連するものがあるらしく、それっぽいものをショットで飲まされたが、食後には向いているかもしれない。

旦那の方はいい感じに出来上がっていて、話すときにはもっと動け、それが生きている証なんだ、と仰る。イタリア人男性は話すときに必ず手が動く、というのは「ヘタリア」にも書いてあった(ちなみに手が動かせないとき、例えば冬場で手をポケットに入れているときなどはそれに伴って無口になるらしい)が、実際にイタリア人の口からそれを裏付ける言葉を聞くことができるとは思わなかった。

そんな中、例のご婦人が、イタリア語を上達させるためにはとにかくイタリア人と話さなきゃ駄目だ、と繰り返し仰る。しまいには、私が話し相手になってやるからそのうちまた会おう、と。最初にこちらのテーブルに押しかけてきたときからそれを狙っている節があったのだが、それにしてもイタリア人の押しの強さと親切心というのは底抜けであるなと思う。

日本のテレビでイタリアの紀行番組を観ていると、別れに際してマンマが、アンタはもう私の子供みたいなもんなんだからいつでもまたいらっしゃい、というようなことを言う場面がよくある。家主とマ氏に最初に会ったときにも似たようなことを言われたのだが、これは決まり文句みたいなものであり、深い意味はないのではないかと考えていた。

しかしこうやって実際に接してみると、これはもう掛け値なしである。ヴェネツィアという街では、細い道をくっつきそうになりながら人々が行き交い、常に顔を突き合わせながら生活している。互いに手の届くような距離にいて、深く関わり合うことでみんなが人間らしく生きている街なんだ、というようなことをマ氏が話してくれた。袖擦り合うも多生の縁、という感覚か。キリスト教に輪廻転生の概念はないが。

ともあれこのとおり、どうやってついていったのか思い返してもよく分からないが、始終会話は成り立っていた。いや、なんとかなるものである。またそこで便利だったのはB5サイズの携帯用ホワイトボードだった。仕事柄、黒板にものを書いて説明することに慣れているということもあるのだが、日本の地理の説明など、私の語学力だけで満足に説明できるものではない。こういう使い方を想定して購入し、その通りに役に立ったわけで、本当に持ってきて正解である。

サロンのある建物を出て、皆でジェラートを食べながら運河沿いの石のベンチに座り、まだ話は続く。家主がヴァポレットで帰っていった頃には十一時を過ぎていた。皆元気なものである。家主の方は知らないものの、マ氏は七十歳を超えているという話なのだが。

歩いて帰る途中でのこと、マ氏は、ここがかの有名なダニエリ(一泊€2.500の超高級ホテル)だという説明をした勢いで、よし、静かにしてろよ、というジェスチャーをし、客でもないのにロビーに入っていった。仕方がないので後に続く。当然ながらどこもかしこも呆れるくらい豪華な造りである。マ氏はここで結婚披露宴をしたのだというが、このときはまた新婚旅行と思しい日本人の夫婦がいた。美男美女だわ金持ちだわで普段なら僻むような言葉の一つも出るところだが、この日の私は何となく気持が豊かだったので、彼らの幸せを願いながらロビーを後にしたのであった。