日陰について

以前スプリッツの話をした際、cicchettoチッケット(複数形cicchetti)という言葉について「少量の酒」と書き、その後また別のところで、これはもしかしたら意味が違うかもしれない、と書いていたことがあったかと思う。解明が進んだのでご報告しよう。

そもそも手元の小学館の伊和辞典に「(グラッパなど強い酒について)少量の酒」とあったのが始まりである。派生して別の意味もあるのだが面倒なのでここでは省略。で、この電子辞書にはオックスフォードの伊英辞典もついているのでそちらも見てみると「(liquore)bracer, short, shot, snifter BE」とあった。どれも少量の強いアルコールという意味の単語であってまったく齟齬はない。ちなみに「BE」というのは「British English」の略号だそうな。

ところがヴェネツィアの市中へ出ると、どこへ行っても酒のつまみのようなものを指して「cicchetti」と書いてある。一箇所や二箇所ではないので誤用ではありえないし、後で引用するようにヴェネツィア料理の本でもチッケットは「食べる」ものと書いてある。明らかに辞書の記述が現実に合っていないのだが、まあ、同じ酒に関する言葉であるし、時代によって意味が変化するようなことだってあるだろう、日本やイギリスで編纂された辞書であれば多少の間違いやずれが生じるのも仕方ないかと思っていた。

そんな中、研究に関して手元のこの辞書では間に合わない単語に遭遇することも増えてきた。今後のイタリア語の勉強のためにもまた必要だろうと思い、イタリアの国語辞典についてこちらの先生に教えを請うたところ、TRECCANIトレッカーニという辞典を教えていただいたのである。これはイギリスのブリタニカのように、由緒があるイタリアの国立百科事典(Enciclopedia)だそうで、辞書(Dizionario)、同義語類語辞典(Sinonimi)としての機能もある。

「機能もある」という書き方が辞典にはそぐわないような気もするが、それもそのはず、この辞典はネットで使えるものなのだ。大学教授が信を置いて使うような辞典がネットで誰でも無料で使えるというのはちょっと驚いた。日本で最も権威ある辞典といえば小学館の『日本国語大辞典』であるが、これをネットで使おうと思ったらそれなりの対価を必要とするはずである。

見てのとおり、国が作るか一出版社が作るかというところに直接的な原因があるが、それはまた間接的には、文化事業に対する人々の理解度が違うということでもあるかと思う。それはそれとしても、日本で国家事業として同じようなものを作ろうとしたら、きっと反対する人が出てくるのではないか。国家が行えばそこに権威化という作用が働くのは仕方のないことで、国が「正しい日本語」を固定化すれば文化の多様性が抹殺される、とか何とか面倒なことを言い出す人が必ずあるだろう。

ところがイタリアでは、国家が集めた知識を皆が平等に利用できるようにする、ということが自ずと優先されているわけだ。これを見て、この国では保険や公共交通機関が妙に安いのを思い出した。きっと税金の観念と似たようなものなのである。

交通機関なら電車でも船でも、高いものを利用しようと思えばそういう選択肢がいくつもあり、日本人からは階級差があからさまなように見える場面もある。しかし、使える人にはそれ相応のものを用意したうえでぱーっと使ってもらい、そのお金をその他大勢の最低限のラインを維持するために回すというのも充分筋が通っている。貴族のいないこの時代、富裕層がいつまでも富裕層である保証もないわけで、どこまでこの構造が維持できるかという点は別の問題だが。

日本人が考える「平等」って何なのだろうかとちょっと考え込んでしまったのだがそういう話はつまらないので放っておいて、イタリアと比べてみた場合、日本人は「国家」というシステムを信用しきれていない、ということはまず言える。ここの人々が「イタリア」というものに対して持つ信頼感は、しかし日本の政治家が言うところの「愛国心」と同じものではない。何というか「年季が違う」のだ。共和制というものが二千年以上前に存在していた国では何もかもが日本と違いすぎる。どうも私には上手く説明できないが、ともあれ、この国と人々との関係は日本人が真似しようとしてできるものではないという気はする。

さてさてまた盛大に遠回りをしたが、私もイタリア共和国のおこぼれに与ってcicchettoについてトレッカーニで調べてみたところ、次のようになっていた。
cicchétto s. m. [dal fr. chiquet, der. di chiqueter «sminuzzare»]. –
1. Bicchierino di liquore forte, come acquavite o sim.: bere un c.; ricomparvero più volte a bere cicchetti su cicchetti (Pavese).
やはり「少量の強い酒、蒸留酒など」と書いてあり、「チッケットを飲む」という用法を示したうえで、パヴェーゼの一節が引用されている。前後の文章の流れが分からないし、イタリア語はイタリア人と同じで都合の悪いときには当たり前のように原則を無視するから自信は持てないのだが、おそらく「彼らは幾度となく現れてはチッケットにチッケットの杯を重ねた」という訳になる。

どう見たところで手元の辞書の方と一緒である。イタリアの国立の辞典にそう書いてあるのだからもう間違いない。途方に暮れてこちらの先生に伺ってみたところ、なんのことはない、結局例の「ヴェネト語」というお答えだった。要所要所で権威にまつろわぬ人々である。

少なくともヴェネトではチッケッティを「おつまみ」という意味で使うのは間違いない、そしてここでは少量の酒は「ombra」というのだと教えられ、その表現は例のヴェネツィア料理の本の序文で見たことがあったのをすぐに思い出した。ヴェネツィアの漁師がcaigo(ラグーナ特有の霧のこと、これもヴェネツィア方言)に阻まれて漁に出られず、

 Allora tanto vale andare a bere un'ombra di vino e mangiare un cicchetto.
だったら(オステリアへ行って)軽くワインでもひっかけ、チッケットをつまんでいてもおんなじことだ。

という内容の文があったのだ。ちなみにombraという言葉は標準イタリア語では「日陰、影」を指す。何しろ日差しの強いこの地でのことであるから、
「ちょっとそこの日陰で一休みしてワインでも飲もうや」
「ちょっと日陰で飲もうや」
「ちょっと日陰へ」
「日陰」(グラスを傾ける仕草が伴う)
とだんだん約まってきたのではないかと想像してみた。日本語にも酒に関する隠語が山ほどあるが、やはり酒という言葉は直接使いづらいというか、何かしら後ろめたさが伴うものなのだろう。

バールへ入ってきて開口一番、"Dammi un'ombra di prosecco."(プロゼッコ一杯くれ)とか言っているゴンドリエーレとか、一度見てみたいものだ。

そうそう、プロゼッコをプロゼッコというのは本当にヴェネツィアだけらしい。ちょっとでも離れたら「プロセッコ」になるのだそうな。