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隣り合わせの聖と俗について

ここ二日ほど夜になる度に雷雨があり、ヴェネツィアの街はすっかり涼しくなった。この先数日間はまだ天気が優れないとの予報なのだが、さて、これが一通り過ぎたら秋の気配が感じられるようになるのであろうか。何ともタイミングの悪いことである。

というのも、先週は先輩方が二組、盆休みを利用してイタリア旅行にいらしていたからである。イタリアでも8月15日の聖母被昇天祭を中心に一週間強のヴァカンツァとなって大学にも図書館にも入れなくなっており、この週はガイド役に専念することとなった。

まず最初の一行、先輩とその御同僚の二人を迎えにマルコ・ポーロ空港へ行く。この書き方では味気ないので、以下先輩のブログに倣って芹男氏と芒男氏としよう。そしてそのブログにおいて私は空男であり、ちなみにいうと、このブログのタイトルはこの渾名にちなんで芹男氏に付けて戴いたものなのであった。さらにいうと、この空男という名は以前書いたように私の本来の姓がとある天空神と似通っていることに由来している。

で、合流後はどういう訳かヴェネツィアを横目にバスと電車でパドヴァへ移動。このお二人はこの翌日ミラノまで行き、さらにその翌日にヴェネツィアへ戻ってくるという旅程である。よってこの日はCappella degli Scrovegni(スクロヴェーニ礼拝堂)やBasilica di Sant'Antonio(聖アントニオ聖堂)へ御案内。実は縁あって少し前にヴィチェンツァとパドヴァには遠足に行っており、私は二回目となるので案内はスムーズであった。

詳しいことは芹男氏のブログ

新・鯨飲馬読記

を見ていただいたらよいかと思うが、聖アントニオ聖堂で芒男氏が服装チェックに引っかかって入れなかったことについては一つ書いておきたいと思う。中には軽快な格好をしていてもチェックを素通りしていた人があったので、それを見た芒男氏は人種差別だと憤慨しておられた。ヨーロッパでの生活経験は私なんぞより芒男氏の方が遙かに長いので、その仰るところには間違いがないかとも思うが、ここに関しては一概にそうとも言えないのではなかろうか。

前回来たときは聖アントニオの墓の裏へ回る巡路へ進み、巡礼者が墓に直接手を触れることができるようになっていた。日本風にいうとここはパワースポット(軽い言葉だ)となっており、奇跡を信じて本気で巡礼に来る人が絶えないのである。そして墓の傍にはパネルがあり、ここへ来たことで病気が治ったとかいう人々がお礼参りにやって来て納めたメダルと写真とが所狭しと並べられていた。

ちなみにこのとき私は墓に手を触れていない。キリスト教に限らず、私には信仰心というものが微塵もないのだが、真剣に信じている人を茶化すような真似には意味がないので、軽々しい行いは慎もうと考えてのことである。

さてしかし、二度目のこの日は墓の周辺が封鎖されていて巡礼路に入れなかった。正式には何というのか知らないが、折悪しく夕方のお勤めの時間にさしかかっていたようで、一周して中央部分に戻ってみると、居並んだ人々と墓の間に設けられた壇上に神父が立って何やら説教を始めている。なるほど、この状況で信者たちの視線の先に観光客がうろうろしていたらぶち壊しになるだろう。

スクロヴェーニ礼拝堂へは金を払って入るが、聖アントニオ聖堂は中へ入るのに金を取られることはない。つまりこの聖堂は観光施設ではなく、生きている宗教施設なのである。ならば地元の信者が普段着で入ってくるのは自然なことだともいえる。

逆にしてみれば分かりやすいか。高野山が世界遺産に登録されたことで外国人観光客が増えたのはいいが、彼らは日本人なら自ずと分かるルールが理解出来ず、当初は些少の軋轢があったというニュースを以前見た覚えがある。高野山に来た外国人観光客が一目で分かるのと同様、私たちはこの地では明らかに異物である。それはもうお互い様なので仕方がないのではなかろうか。一応文句を言われない格好をしていた私と芹男氏であっても、もう少し遅くなり、お勤めが佳境に入るタイミングであったら入れてもらえなかったのではないかと思われる。

お勤めの間は物音を立てるのが憚られたので動けず、やっと終わったところで、異教徒(私は無神論者であるから異教徒ですらない)がうろうろして申し訳ありません、と内心謝りながら出口へ向かう。正面にある入口は基本的に一方通行で、出口は別に設けられている。

そちらへ向かうと、巡礼者は必ず売店の中を通ってから外に出るように作られている。そもそも聖アントニオの墓の区画で天井を見上げただけでもあれこれ突っ込みたくなるのだが、聖堂内部の豪奢な造りに打ちのめされた後でこの売店へ誘導されると、先ほど内心で謝ったのが一変、何やら言いたくなるのを抑えるのに苦労するような品揃えである。だがしかし、ここは黙っているのが礼儀というものだろう。

その後はすぐ近くのオルト・ボタニコ(植物園)でゲーテが見たという棕櫚の木を眺め、ヴィチェンツァへ移動。芒男氏の御友人であるイタリア人がこの街に住んでいらして、合わせて四人で夕食となる。前回来たときにも見たBasilica Palladiana(パッラーディオの公会堂)の中の店でしこたまワインを飲み、その後はその屋上のバールへ上がる。こちらへ上がるのは今回が初めてで、これがまた素晴らしい場所だった。

終電でヴェネツィアへ戻る。酒を飲んで終電で帰るなんて真似をイタリアでもすることになろうとは思わなかったが、ヴェネツィアへ戻ってくると何となく安心した。こちらが多少慣れたというのもあるが、千年以上も異邦人が出入りしてきた土地の雰囲気はやはり東洋人にも優しい。せっかくの深夜の散歩であるからあちこちで夜景を写真に収め、カナル・グランデに出たところのお気に入りの場所で一服していると、通りすがりの女性から火を貸してくれと頼まれた。

すでに日付も変わっている時間帯であったが、妙齢の女性が深夜でも一人で出歩き、見知らぬ東洋人に声をかけるのに何の躊躇もいらないのがヴェネツィアという街である。一歩テッラフェルマへ入ってメストレの辺りでは少し怪しくなってくると聞いたが、ヴェネツィアのこの治安の良さは特筆すべきものだろう。が、そうやってすっかり安心していると足下を掬われることになるのであった。それについてはまた次回。