郷里の食について

こちらに来てから初めて米を炊いた。

別に今さら里心がついたわけではない。どこへ行っても出されたもので満足する質であるし、父親が長野県出身で母親が埼玉県出身、自身の生まれは神奈川県で一番長く暮らしたのは兵庫県、という人生なので県単位のナショナリズムというものも持ち合わせておらず、これがなければ生きていけないという食材もない。

だからたとえば日本酒が好きだからといってわざわざイタリアで探して呑もうという気にはならない。ワインしかなければそれだけを呑んでいて事足りる。ここから北西方向のとある島国では違うらしいと聞くけれども、おおむねその土地にあるものが一番美味いに決まっているのだ。ワインなどはローマからヴェネツィアに運んだだけでも味が落ちる、とこちらの先生は仰っていた。

イタリアでは肉も魚も果物も本当に美味い。ちなみにヴェネト州特産のものもあると言えばあるのだが、野菜に関してはあまり見るべきものはなく、これはやはり南部の方がよいらしい。

で、何もかもが安い。旬に合わせて綺麗に品物が入れ替わるので、これもそろそろ終わりだろうと思うが、スーパーへ行けばブドウやら桃やら杏子やらが1kgで€3程度である。ブドウなんぞは€2を切っていることもある。リアルト市場では品が良い分ほんのちょっと高くなるが、それであっても日本では考えられない安さではないか。杏子なんてものはこれまで意識して食べたことがなかったが、こんなに美味しいものだとは思わなかった。

どこのリストランテでもドルチェにmacedonia(フルーツポンチ)を出し、ただ果物を切って盛りつけただけのそれがすぐに売り切れるという話も納得できるというものだ。ただし私はザバイオーネを使ったものの方がお気に入りである。ちなみにこのマチェドーニアという呼称、古来よりマケドニアが交通の要衝であって複雑な歴史を持つため、その民族構成が雑多であることに由来しているそうな。

イタリアの気候風土とそれが生み出す作物とは、プリニウスがそれを褒め称えた二千年前から変わることなく素晴らしいもので在り続けている。経済的、社会的にはいくつか問題を抱えているとはいえ、それは所詮私のような余所者に関係のあることではない。一年暮らす程度の関わりであればここは天国である。遠く故国を離れて留学しているとはいえ、このイタリアの地で夏目漱石を気取るような真似はどうやったって無理である。

ではなぜ米を炊いたのかというと、先日こちらへご旅行にいらした先輩から、のどぐろの茶漬け、ふくふりかけ、そしてふくのお吸い物を手土産に戴いたからである。「ふぐ」ではなくて「ふく」なのは山口県での慣用だったか。パスタに絡めるといういう使い方もあるかもしれないと今思いついたが、数に限りがあるのでわざわざ冒険することもあるまい。

何度か書いたとおりイタリアでもsushiが知られているわけだから、探せば炊飯器も売っているかもしれないが、これだってそこまですることもないだろう。鍋で米を炊く要領については大阪ガスのウェブサイトにご教示いただき、caraffa(計量カップ)だけは必要だったので買ってきた。味気ないような気もするが、インターネットというのは本当に便利なものである。何で読んだのだったか、昔は留学先から母親に国際電話をかけて米の炊き方を聞いたとかいう話があったような。

米はこちらでも売っている。ヴェネト州は電車に乗って見ていると沿線にずっとトウモロコシ畑が続くのだが(なのでポレンタが有名)、イタリア北部のポー川流域では稲作が盛んなので、イタリアはヨーロッパの中ではかなり米を食べる国なのだそうな。ただし主食としては食べない。アランチーノ(小さなオレンジの意)という丸いライスコロッケや米を使ったサラダなどがよく見られるのだが、同じ炭水化物でいうと、日本におけるジャガイモのような扱いなのだろうか。

まあしかし、日本人に最も馴染みのあるイタリアの米料理といえば何より各種のリゾットだろう。そしてこのrisottoというのは元の単語に縮小辞がついた形であって、それを外してriso(リーゾ)というのがイタリア語で米を意味する単語である。すると、ああそうかrice(ライス)か、ということになる。

外国で米というと多くの方は細長いインディカ米を想像されるかもしれないが、イタリアの米の多くはいくらか品種が違うとはいえ、基本的にはジャポニカ米の系統であって、形も日本でみるものと同じである。スーパーでざっと見たところ、arborio、carnaroli、roma、ribe、vialone nanoと種類があった。手元のイタリア料理の本(日本語)によると、イタリアの米は銘柄ではなく粒の大きさの順に、
スペルフィーノ(カルナローリ)
フィーノ
セミフィーノ(ナーノ)
コムーネ
と四段階に分類されるということだからカルナローリとナーノは分かったのだが、それ以外は辞書にも載ってないので何のことやら分からない。

ともあれ、計量も火加減もマニュアル通り、時間通りに蒸らしも終わったときには何となく気が浮き立ってくるのを感じた。リゾットもアランチーノも食べているから米そのものは久しぶりでもなんでもないが、やはり「ご飯」となると嬉しいものである。

それだけに、鍋のフタを開けたときの失望感というのは筆舌に尽くしがたいものがあった。切ないとはこういうことかと。

調理に失敗したわけではない。大阪ガスのサイトには火加減の写真まであって、これに従えばまったく料理の経験がなくても失敗することなどないだろう。先ほど書いたとおり基本的には日本の米と一緒だから、水加減や火加減に特段のアレンジが必要だということもない。

問題はその色である。真っ白なご飯を想像していたらこれが全体的にうっすらと黄色いのだ。精米技術の違いか、それともやはり品種の違いか。研いでいるときからその違いは感じていたし、結果が違うことも予想して然るべきではあったのだが、これはもう、ただ期待に目が眩んでいたとしか言いようがない。

食べてみれば味はちゃんとした「ご飯」だったし、鍋の底にはちょうどいいお焦げもある。茶碗や箸などはあるはずもなく(一応島内でも売ってはいる)、ミネストローネなどに使う少し底の深い皿とスプーンを使ったのだが、多少の趣の違いはそれとして、食べきったときには先ほどの失望も忘れてすっかり満足していた。そしてこの日の教訓から翌日は米を念入りに研いでみたところ、色は少し改善されたようでもある。ただあんまりしつこく研ぐと米が割れそうだし、その辺の加減は今後の研究課題となるか。また、絶望的にワインに合わないというのも解決すべき重要な問題なのだが、これはsecco(辛口)のものを探していくつか試してみる他ないだろう。

この日はとりあえずふりかけを戴いたが、お茶漬けの方はどうするかと考え、そういえば芹男氏からは玉露を戴いていたな、と思い出した。日本茶というのもこちらに来てから見向きもしなかったのでまったく道具が揃っておらず、計量カップを探しに行ったついでにbollitore(ヤカン)、colino(茶こし)、teiera(ティーポット)と購入してあるのだが、しかし玉露で茶漬けというのもどうかと思う。tè verde(緑茶)は安物のティーパックも売っているのでそちらを使うか。

この日偶然買っておいたバッカラがご飯のおかずになったのは発見だった。どこでも見るマンテカートではなく、baccalà conditoというものである。味付けバッカラという程度の意味だが、cucina nostrana、郷土料理と書いてあった。ちなみにcucinaクチーナは「料理(キッチンという意味でも使う)」、nostranoへ派生する前のnostroノストロという単語は「私たちの」という意味で、ここでコーサ・ノストラという言葉を思い出した方もおられようかと思う。

詳しい方のヴェネツィア料理の本を見るとやはり載っていて、玉ねぎ、ニンニクと一緒に煮込んで戻した干鱈をオリーブオイルに漬け、白ワインビネガーで味付けして刻んだパセリを振ったものとあった。この日買ったものには玉ねぎの姿もニンニクの気配もなかったが、スーパーの惣菜コーナー(だいたい肉の売り場と一緒になっていて、当然量り売り)で売られているものは万人向けに調整してあるのだろうか。

魚料理はご飯に合わせやすいか、これならおにぎりの具にしてもよいのではないか、と思い至り、しかしこの程度のことならすでに誰かがやっているのではないかと思って「イタリアン おにぎり」で検索したらレシピが幾つも出てきた。バッカラを使ったものは見受けられなかったが、それにしても、とりあえずバジルかモッツァレッラかトマトを使えばイタリアン、という安易な認識はどうにかならないものか。日本のsushiだって同じ目に遭っているのだから仕方がないともいえるが、ここはイタリアびいきとして苦言を呈しておきたい。

それはそうと、バッカラ・マンテカートの方は日本におけるツナマヨのような手軽さと人気と味だから絶対におにぎりに合うと思うのだが、誰かやってみてもらえないだろうか。