七つの海について

こちらに来てからかなり痩せた。すっかりベルトが緩くなってしまっていたのだが、だからといってベルトの奥の穴を使えばいいというものではない。ベルトには大抵五つの穴が空けられているものだが、これは真ん中の穴を使ったときに余りの部分がちょうどよく収まり、美しく見えるようにデザインされている。だいたいベルトの調整が必要になるまでにはある程度の期間があるもので、その間に革に癖がついてしまっているということもあり、ここは面倒であってもきちんと革を切って調整しなければならない。

今私が使っているベルトはバックルと革の接続部分に穴を開けなければならないタイプなので、仕方なくRATTIへ行って革用のパンチを買ってきた。この店、当初は雑貨屋と書いたが、品揃えに見慣れてくると、どうも日本のホームセンターに近いもののようである。

収まりがいいように調整してみると、ちょうどベルトの穴二つ分、測ってみると5cmほど腰回りが細くなっていた。食生活の変化というのは当然あるものの、毎日三食、規則正しく満足するまで食べている。ここへ来る前はヴェネツィアは物価が高いと脅されていたのだが、それは外食をした場合に限ってのことであって、何度か紹介したとおり、生活に必要なものは近頃の円安を差し引いてもまだ日本より安い。パルマやサン・ダニエレの生ハムに各種のチーズ、地中海性気候に育まれた野菜や果物、そして何よりアドリア海の海産物を目一杯使った食生活(近くのスーパーで買い物をしていれば自然にそうなる)でも、自炊していれば一日€10もかからない。ワイン代は別途であるが、ボトル一本€10強のワインを週に二本空けたところで一日€3程度であるので何の遠慮もいらない。煙草が割高なのは生活のために(健康のためにではなく)ちょっと考えたいところではあるが。

きっちり食べているのに何故痩せるかというと、それは当然、この街で生きるにはひたすら歩くほかないからである。私は万歩計などというものを持ち歩くほど健康に関心はないし、スマートフォンの同機能も鬱陶しいので切っているが、用事があってちょっと遠出をしたときなど、同行している人に聞いてみたら三万歩を越えていたという日もある。

最近特に歩いた用事はというと、ビエンナーレを見てきたことであろうか。5月からずっとやっているのは知っていたものの、何となく気が乗らずに放っておいた。しかしせっかく二年に一回の機会にこの地にいるのだし、ここはマ氏から宿題として出されている見学場所の一つでもある。あと数日で終わるということもあって、涼しくなったのを機に出かけることにした。

ヴァポレットでジャルディーニの会場へ行くと、結構人が並んでいる。おそらくこれでも少なくなった方なのだろう、大人しく列に並んで順番を待つ。ジャルディーニとアルセナーレの両方に入れる当日分のチケットを購入、係の女性(当然のように美人)が最後に「じゃあ楽しんできてね」とウィンクしながら首を傾げてみせた仕草が余りにも決まっていて、何をするにしても芝居がかった国だな、と苦笑しながら会場内へ。

しかしよくもまあ世界中からこれだけの量の展示物を集めたものである。二日間分の入場券というのが存在するのももっともなことであるが、しかし結論から言うと、二日もかけて観るほどのものでもない。

現代芸術というのは私の肌に合わんのかな、と思いながらも片っ端から見て回る。Gran Bretagna(グレートブリテン)のものなどは、そうそう、現代芸術ってこういうのよくあるわな、と思うようなものだった(「biennale Gran Bretagna(Great Britainの方がいいか)」で画像検索、黄色い風船みたいな素材のものと一連の下半身だけの石膏像)。私などはこういうものを観ても今さら何とも思わず、何故ここに刺さっている煙草はキャメルなのだろう、そこには何か意味があるのだろうか、などとぼんやり考えながら観ていたが、やはりこれはちょっと子供に見せられるようなものではない(したがってよい子は検索してはいけない)。だいたい入口に展示してあるものを一目見ればその先に何があるか分かりそうなものだが、芸術に対し深い理解を持つ御両親に連れられて館内へ入ってきてしまった女の子が今にも泣き出しそうな顔をしていたのには、申し訳ないが笑ってしまった。トラウマにならなければいいが。

イタリアに限ったことではなかろうが、彼らは常に当時最先端の芸術家や建築家に仕事を任せることで今の街並みを作り上げてきたわけだから、やっていることは今も昔も変わらないはずだし、その歴史を自覚しているからこそ、この街はこうやってビエンナーレを続けているのではないかとも思う。だがそれにしても、一体何が違うというのだろう。芸術とは何か、というのは創っている方にはまた言い分があるのだろうけれども、私の好みからいうと、どうも発想の奇抜さやメッセージ性に頼る割合の多いものは観ても面白くないようである。

手仕事の重み、というのだろうか。例えば、片手で持てるような大きさの煉瓦を幾つも積み上げて作った巨大な教会や、その中の壁一面の絵画を見れば、そこに携わった幾人もの人の祈りの重さを感じ取ることができる。しかし、廃材を集めて並べたものを見せられても、(イスラエルの展示だっただけに)言いたいことは分からんでもないが……以上に言葉が出てこない。

その点で、祖国だから贔屓目に見ているということもあろうが、日本の展示(Chiharu Shiota, The Key in the Hand, 2015)は興味深いものだった。多くの人から集められた今は使われていない無数の鍵を、二艘の木の船を結節点として建物内に張り巡らせた赤い糸で吊り下げてあるというものだが、それぞれの歴史を背負って古びた鍵と、糸を張って一つ一つそれを吊していく作業の中には、イタリアが最も大事にしている「人間そのもの」の姿があったように思う。私が館内へ入る際に入口ですれ違ったおっちゃんも、ため息をつくように「Bello…」と呟いていた。先日の聖アントニオ聖堂のところでも書いたように、私自身はすでに「祈る力」を持たないのだけれども、それはその力の強さと危うさを充分に知っているからであって……などと訳の分からないことを書き出すとまた芹男氏に馬鹿にされそうなのでここで留める。それもまた我々の様式美というものではあるが。

その足でアルセナーレの会場の方へも回ったが、そんなこんなで特筆すべきものはない。船のドックに巨大な鳥のオブジェが吊り下げられていたもの(Xu Bing, Phoenix, 2010、北京とニューヨークを行き来しながら活動している中国人だそうである)くらいか。でもこれは半分以上が展示場所の持つ力だろう。帰ってきてからスマホを確認すると、九割方がアルセナーレの施設そのものの写真だった。

さすがにしんどかったので帰りもヴァポレットを使う。するとカナル・グランデへ入った辺りで、例の赤と白(紅白というのとはちょっとちがう、また、何かランク付けがあるのだろうが黒と白の人もいる)の横縞のシャツではなく、グレーのTシャツというか、要は普段着で客を乗せずにゴンドラを漕いでいる若者を見かけた。見習いなのであろうか。どうやらラグーナにも順調に後継者が育っているようである。

例の家主の本によると、八世紀前半にはすでにヴェネツィアの人々は“七つの海を知る男たち”という評判を得ていたようである。しかし大航海時代もまだ遙か先のこと、この“七つの海”は現在のそれとはまったく違うものであった。

そして家主が言うには、この“七つの海”はなんとプリニウスに拠った言葉らしい。プリニウスについて調べるという名目でこの地へ派遣されてきた私としては、こう聞いて調べないわけにはいかない。というわけで『博物誌』第3巻第120節より引用する。

“(パドゥス川の)その次の河口はカプラシア河口、それからサギス河口、そしてウォラネ河口、これは以前オラネ河口と呼ばれていた。これらすべてがフラウィア運河をつくっている。この運河は最初トスカナ人によってサギス河口から作られ、かくして川の流れを、七つの海といわれるアトゥリアニ族の沼に注ぎ込み、そこにはトスカナ人の町アトリアの有名な港があって、それが以前、現在アドリア海と呼ばれている海にアトリアという名を与えたのである。”
(『プリニウスの博物誌 第Ⅰ巻』中野定雄・中野里美・中野美代訳、雄山閣、1986年)

パドゥス川というのは現在のポー川である。アトリアがアドリアになるのだからアトゥリアニ族というのは現在のアドリア近辺に住んでいた人々のことなのだろう。ポー川の支流の河口というのは無数にあるし、イタリアの詳しい地図も手元になく(近々探しに行かねばなるまい)、またアパルタメントに居ては最終手段のトレッカーニも碌に使えないので、今のところそれぞれの地名について詳しいことは分からないが、それはそれとして、少なくともプリニウスの時代であった二千年ほど前からヴェネツィアの男たちがアドリア海をうろちょろし始めたこの頃まで、彼らにとって“七つの海”というのはヴェネツィアのラグーナからアドリア海西岸を南に下ってコマッキオまでの間、今ではDelta del Poデルタ・デル・ポーと言われている辺りに連なる沼や湾を指す言葉であったらしい。海という言葉の概念が多少違うような気もするが、ヨーロッパでの用例としては最古の部類に入るだろう。GoogleMapでこの辺りを広く表示して遠目に眺めてもらうと、なんとなく七つの水域が数えられるかと思う。後々ヴェネツィアは“アドリア海の女王”と称されるほどの権勢を誇るようになり、それとともに“七つの海”という言葉が示す範囲も広がって今に至る、ということになるのだろうが、最初はえらくこぢんまりとしていたものである。