安寧の日々について

最近は本業の方がちょっと忙しく、これといって面白い出来事はないようである。月末辺りからはまたあれこれ用事が始まるし、街を歩いているとそろそろヴェネツィア名物のアレの気配もあるのだが、それはまた始まってからの話としよう。

唐突なようだが、私のTagliazucca(南瓜切)は男の子である。物に名前を付けたうえに性別まで設定し始めたなんてとうとうこの人……と後へ寄った方はちょっと待って欲しい。

イタリア語にも男性名詞と女性名詞というものがあるという話は何度も書いているが、基本的には男性名詞は-o(複数形-i)、女性名詞は-a(-e)で終わる。人の名前もおおむねこれに準拠していて、
 Marioマリオ―Mariaマリア
 Paoloパオロ―Paolaパオラ
となる。男性名が-iで終わって、
 Luisiルイージ―Luisaルイーザ
 Giovanniジョヴァンニ―Giovannaジョヴァンナ
というパターンも多い。そして姓の方はというと、一族全体を表すために複数形の-iで終わっていることが多い。アルマーニ、フェラーリ、ストラディヴァーリ、ガリバルディ、ムッソリーニ、ベルルスコーニなどは-iで終わっているが、しかしジャコーザ、ジュジャーロ、チマローザ、ロンブローゾ、ボルジァ、ジローラモ(訂正:あのジローラモさんは姓名が日本風の表記で、こちらが名前だった)という例もあるので絶対ではない。イタリアでは原則が貫き通されるということは絶対にない。

そんなこんなで私の名前はちょっとイタリア人には抵抗があるらしい。姓が-oで終わって名前が-iで終わるので、ちょうどイタリアのルールと逆なのだ。マ氏などは当初から名前の方で私を呼んでいたので、イタリア人はのっけからフランクなのだなと思っていたら、どうもイタリア語のルールに従って姓と名を勘違いしていたようである。それに気づいてからしばらくは「プロフェッソーレ」という呼び方になったが、大げさなのでやめてくれと頼み、結局また名前で呼んでもらうというところへ落ち着いた。

さて一通りルールが頭に入ったところで引っかかるのがLucaルカという名前である。ジョヴァンニ(ヨハネ)もそうだが、これはevangelisti(福音史家)に由来する名前なので、-aで終わるのに男性名であったりする。

そしてエヴァンジェリスタかつヴェネツィアの守護聖人でもあるMarcoの場合、その女性形はMarcaとはならず、縮小辞を付けて、
 Marcelloマルチェッロ―Marcellaマルチェッラ
となる。ちなみに男性名のマルチェッロさんの場合、親しい人からは省略されてMarceマルチェと呼ばれることになる(後に分かったが、マルチェッラさんも同様にマルチェになっていた)のだが、これによってマルコのラテン名と一致するという副産物もある。聖マルコの象徴、そしてヴェネツィアの象徴となってこの共和国の旗にも印されている有翼のライオン(「leone alato」で画像検索)はたいてい本を持った姿で描かれ、そこには戦時を除いてほぼ間違いなく、
    “Pax tibi Marce, evangelista mevs”
  (安寧は汝と共にある、マルコ、我が福音を伝える者よ)
と書いてあるのだが、ヴェネツィアの人々にとってはこうやってマルコのラテン名を見る機会も多く、これを狙って付けているのかも知れない。この言葉の由来となった伝説も家主の本に書いてあるのだが、面倒なのでまたの機会とする。

して残る一人のエヴァンジェリスタ、Matteoマッテオ(マタイ)であるが、これはどういじったら女性名になるのだろう。ルカと同じでちょっと思いつかない。

ともあれ、私の可愛いTagliazuccaであるが、taglia(切る)もzucca(カボチャ)も-aで終わってそれぞれ女性名詞である。ところが、複合語になるとこれが男性名詞扱いになるのだという。イタリア語にはないのだけれどもラテン語にはneutro中性名詞というものがあったので、感覚的にはこのネウトロになるということであった。

なぜこうやって性にこだわるかというと、イタリア語では冠詞も形容詞も性と数に合わせて変化するので、これがはっきりしないと文章の中で使えないのである。例えば先ほど書いた「私の可愛いTagliazucca」はmio caro Tagliazuccaであってmia cara Tagliazuccaではない。

事程然様にイタリア語というのはしち面倒くさいのだが、これにはイタリア人自身も対応しきれないことがあったりする。ヴェネト語でウナギを表すbisatoビサート(標準イタリア語ではanguillaアングィッラ)という言葉はトレッカーニで調べると今書いたように男性名詞となっているのだが、ヴェネツィア料理の本を見ていると女性名詞として使われていたりする。どう見ても前回も話題にしたbissaビッサ(蛇)から派生した言葉なので、元の単語の性を受け継いだものとして使われているわけである。標準イタリア語のアングィッラが女性名詞であることもまた意識されているのかも知れない。

そしてまた外来語への対応となると余計にややこしいことになる。初歩の頃に何かで読んだ話だが、日本の「柿」はそのままイタリア語へ入ってcachiカーキとなっているそうである。外来語はたいがい性数変化しないのであるが、それはそれとして基本的にイタリア語では-iで終わるのは男性形複数である。よってこれが外来語であることを知らずに、イタリア語の文法に則って単数形をcacoカーコと言う人があるのだそうな。

ちょくちょく買い物に行く例の「アドリア海生活協同組合」、最近はここの会員になるべきか否かでちょっと迷っている。もう滞在期間も折り返しが見えてきたところだし、今さらという気もしてどうも踏み切れないのだが、レジで毎回会員証を持っているかどうか尋ねられるのでその度に考えるのである。会員になった方がいいか、と聞いてみたらいろいろ特典を教えてもらったのだけれども、それはそれとして、ここで面白いのはその会員証の発音である。

カードはイタリア語ではcartaカルタであり女性名詞である。だから例えば「赤いカード」と言おうと思ったらrossoロッソという形容詞を女性形に変化させてcarta rossaカルタ・ロッサと言わなければならない。コープは当然coopなのだけれども、イタリア語は開放音なので、どうやら単語が子音で終わるというのが我慢ならないらしい。ここの会員証はcarta coopというのだが、この「コープ」が形容詞coopoになった後で女性形へ変化、また-oo-と綴りが重なるところはイタリア語ではまず促音になる(母音が重なるのはイレギュラーだが)ので、結局のところcarta coopaカルタ・コォッパと聞こえるのだ。coppaコッパ(コップ、カップ)という単語が別にあるので最初は何のことやら分からなかったが、どう聞いても会員証のことを指しているのでよくよく考えてみたわけである。

文学者の出来損ないだから言葉についてあれこれ考えるのはクセのようなものなのだけれども、それでもこんなしょうもないことを長々と考えていられるくらい波風の立たない生活が続いているのである。最初に書いたとおり、ヴェネツィアの運河の波はもう足元へ迫りつつあるのだけれども。