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衝突のない文化について

とある日の帰り道、いつものように家の傍のRiva del Vinへ出たところで、カナル・グランデの対岸にあるCa' RoredànとCa' Farsettiの様子がいつもと違うのに気づいた。例のテロの関係だろう、イルミネーションが青・白・赤のトリコロールになっていたのである。この建物は今はお役所で、イタリアの祝日であった先日の諸聖人の日の頃には緑・白・赤のトリコローレとなっていたのだが、旗を掲げるのにもいろいろな理由があるものだ。

また18日の夜、お誘いがあってリアルトの広場で待ち合わせをしていたときのこと。リアルト橋周辺は早仕舞いする店が多いのでどこもシャッターが降りていたのだが、そこで店舗毎に張られた張り紙が目に入った。7時からサン・マルコ広場でテロの犠牲者を追悼するためキャンドルを灯す、というようなことが書いてある。せっかくなので酒が入る前に見に行ってみた。しかし人はまばらで、キャンドルの数も思っていたよりは大人しいものである。警官や消防士が何人もうろうろしているのが物々しい。

当然のこと、灯火を囲んでいる人々は一様に沈痛な面持ちであった。さすがにこれだけ距離が近いと日本人の感覚とは違うのだろうと想像はつくが、ただ、世界のどこかで紛争によって人が殺されなかった日などあるのだろうか。目につくところで人が死んだからって今さら騒ぎ立てるのは些か想像力に欠けるのではないか、と思うのだが、これは私の方にも何かが欠けているのかもしれない。

イタリアが何の躊躇もなくフランス側に立ってこの事件を解釈するのは分からないではない。しかし例えば、結婚式に集まって祝砲を撃っていたところを誤認され(お手頃とはいえ、カラシニコフで祝砲を撃つのは慣習としてどうかと思うが)、不意に精密誘導弾を撃ち込まれた人々と、今回の犠牲者とを区別する感覚は私にはない。

ということでこの話題にそれほど興味はないのだ。上の方から注意するようにとの連絡が回ってきたが、何に気をつければいいというのだろう。人が多く集まる場所には出向かない、という程度のことしか思いつかない。

少し警官の姿が増えたこと以外、この街に特に変わったことはないように思える。寒くなり、観光客向けのイベントも少なくなるこの時期は人も少なくなるので、ここぞとばかりにあちこちの道で石畳を引っぺがして工事を始めたことくらいのものか。

そんな中、11月21日には先日のサン・マルティーノに続く地元のお祭りとしてサルーテ聖堂の祭日があった。これもよく知られたものであり、検索すればいくらでも出てくるので例によって詳しい由来は省く。レデントーレと同じようにペストの終焉を願って建設を計画したというか、ペストをなんとかしてくれたら教会を寄進してやると誓ったという、その思考回路が面白い。神に対しても札束で頬をはたくような頼み方しか出来ないのがヴェネツィアのヴェネツィアたる所以である。ガイドを読むと当時の政府がこれこれの手順でいくら援助したとかいう金額も書いてあった。矢継ぎ早に追加支援を決めていったといえば聞こえはよいが、最初に出し惜しみしておきながらすぐに不安になったようにも見えるところが特にそれらしくてよい。

ともあれ、レデントーレが観光客を呼ぶ一大イベントであるのに対し、こちらは人々の健康を祈るための祝日なので、ドージェ(の代わりの市長)が教会を訪れるだとかいうこともなく、人々が教会に集うことそのものがメインである。こちらの祭日でも同じように運河に仮設橋が架けられるのだが、ジュデッカにあるレデントーレ修道院とは違い、サルーテ聖堂は普段でも歩いて行ける場所にある。ジュデッカ運河とカナル・グランデでは幅が大きく違うため、この祭日のために架けられる橋はそう大きなものではない。ちょっと拍子抜けした。

周辺の屋台では聖堂に納めるための蝋燭が売られ、あいにくの雨にもかかわらず善男善女が詰めかけていた。聖堂内へ入るとちょうどミサが始まった時間帯で、神父が説教を始めている。話し方がゆっくりで、また使われている単語も単純なものが多いので何となく意味が分かるような気もするが、完璧に理解出来るというところまでは程遠い。

内陣と訳していいのだろうか。マリアと四人のエヴァンジェリスティの像が設えられた祭壇とその裏側へ向かう人々は正面と左右の三方に別れ、順番に規制線が解かれて少しずつ通されていた。今回はこちらで知り合った日本人の教員や学生が総勢六名となって見物に繰り出していたのだが、皆でその順番待ちの列に加わって祭壇へ向かう。どういうわけか、私はここでえらく緊張した。

何度も書いているが私には信仰心がない。よってこれは神に対する畏敬の念に起因するものではなく、信心を持った人々が怖くて緊張しているのである。多くの人がいるので祭壇の左側にある説教壇は直接見えないのだが、各所にモニターが設置されていてそれが映るようになっている。列に並んだ前後の人々は神父の導きに合わせて祈りの言葉を唱和したり、賛美歌を歌ったりしていたのだが、そういう人々の間にいると、私のような者がここに混じっていてよいものだろうか、彼らの祈りの邪魔になってはいないだろうか、と考えてしまうのだ。

祭壇へ通される順番が来た途端にスマホで写真を撮りまくっている観光客らしき人もいたし、実際のところそう気にする必要はないのだと思われる。内陣を抜けると記念品を売っているところがあって、私もそこでガイドを一冊買い求めたのだが、ここで同行していた学生が「Japan?」と声を掛けられていた。彼女がそれを肯定すると、その人は手を合わせて拝むような仕草を見せ、「Arigatou.」と言う。英語の発音から察するに彼自身も観光客なのかもしれず、イタリア人が私たちのような存在をどう受け止めるのか、ということはこれだけでは分からない。しかしイタリア人がいちばんいい加減に決まっているし、結局のところ邪魔だとも何とも考えていないのだろう。

それにしても私自身がこういった風に、日本人に興味を持つ人から声を掛けられたことがないのは何故だろうか。同時に派遣されている先生の場合、一人で飲んでいたらちょくちょく声を掛けられることがある、というふうに仰っている。実際、二人で例の如くカンナレージョのカンティーナで飲んでいたときのこと、私が二杯目のワインを注文するために店内へ入り、グラスを持って外に戻ってみたら見知らぬイタリア人と話していたということもあった。

私の場合、声を掛けられたと思ったら、アカデミア橋はこっちで合っているのか、とイタリア語で聞かれていたりする。ああそうだあっちへ進め、と反射的に答えた後になって、なんでイタリア人がヴェネツィアで東洋人に道を聞くのかと疑問が湧いた。この街にも東洋系の移民がいくらか存在するので理屈に合わないことはないのだが、どうも釈然としない。私は観光客に見えないのだろうか。現実には先ほどの先生の方があらゆる意味でイタリアとヴェネツィアに馴染んでいるのだが。

それはさておいて、聖堂を出た後は近くの通りへ。ここには主に食べ物の屋台が立ち並び、縁日風の風景となっている。日本と大きく違うのは、売られている食べ物が大方甘いものだということだ。ただ、すべてを知っているわけではないけれども、ヴェネツィアの菓子は目にしなかったように思う。砂糖をまぶした巨大な揚げパンはどこのものだか分からないが、マルツァパーネ(マジパン)や円錐形のアランチーニはシチリアの方の食べ物だったはずだ。同行した先生(先ほどの方とは別)はアーモンドやクルミなどを飴がけした菓子にひかれたご様子で、お買いになったものを私もちょっと戴いたのだが、アーモンドというのはシチリアのドルチェによく見られるもので(そもそもマルツァパーネがそうだった)、そっちの方でよく栽培されているものだと読んだ覚えがある。まあ、綿飴やリンゴ飴まで売っていたし、その辺もあまり気にしないのだろう。

最近ヴェネツィア料理の勉強をしていて改めて感じたことだが、ヴェネツィア共和国は地中海全域を股に掛け、ヨーロッパのみならずアジアやアフリカなど、あらゆる地域のあらゆる物品を貿易品として取り扱っていた国である。つまりこの街には何があっても、どんな人がいてもおかしくないということだ。御陰で私も気楽にやらせてもらっているが、それで特に何の問題もなかったというか、むしろその共和国時代の方が上手くいっていたというのは本当に幸せなことではなかったかと思う。今の世界とは何が違っていたというのだろうか。