文化人について

家主からコンサートに招待された。イタリアといえばオペラで、ヴェネツィアといえばフェニーチェ劇場であり、そこにはそこで行く予定もあるのだけれど、今回はそうかしこまったものではない。招待された場所はそのフェニーチェのすぐ傍にあるAteneo Venetoであった。ここはここで当然のように歴史のある建物であり、ヴェネツィアの文化を語るうえで大事な場所だと家主は言う。

実はこのコンサートより前、ヴェネト語で書かれた詩の本を探しにここの図書室に入ったことがあった。ここは国が管理しているサン・マルコ広場のマルチャーナ図書館などと比べると身分のチェックが適当で、ろくに注意することも無く貴重な資料を出してきて見せてくれた。長閑なところである。

古い資料で、傷むといけないのでコピーは出来ないとのこと。スマホで写真を撮るくらいは良さそうなものだが、何にしてもそう長いものではないので、マルチャーナで手に入れた別の資料と校合しながらせっせと書き写す。図書室には事務員らしき女性が二人詰めていたのだが、夕方になると双方に電話がかかってきてそれぞれ部屋の外へ出て行ってしまった。そのまま30分ほど話しっぱなしで帰ってこない。本当に長閑なところである。

ちなみにこれはヴェネツィア料理研究に関連した探し物であり、基本的にはただの趣味である。図書館に通っているからといって、古い文献から失われたヴェネツィア料理を復活させようとか、そういう込み入ったことをしているわけでもない。ヴェネツィアのチケーティ(cicchettiという言葉の使い方については以前書いたとおりだが、注意して見ているとヴェネト語訛りのcichetiという表記もよく見かけるのでそちらに合わせる)でよく見られるバッカラ・マンテカートについて調べていたら、バッカラを愛するあまり、それを称える詩を詠んだ人が居るというので興味を持ったのだ。その名をLuigi Pletといい、彼の詠んだバッカラについてのotava(8行詩、標準イタリア語ではottava)は33にも及ぶ。どう考えても阿呆である。そしてそういう人を見つけ出しては嬉々として図書館に出かけていく私もまた同様であろう。第一歌はネット上にもよく出ているので(当然イタリア語、いやヴェネト語だが)、第二歌を訳してお目に掛ける。

    "EL BACALÀ"
       2
Esiste un manoscrito, a Liverpol,
 Portà gran ani in drio, dal Senegal,
 Che, co gh' è mezo, consultar se pol,
 E che xe tuto erudizion, nel qual,
 In modo incontrastabile, se vol,
 Co' vegnìmo a la Storia Natural,
 Ch' el pesse se xe petrificà
 Primo de tuti, fusse un bacalà.

リヴァプールの地に写本があって
セネガルの地から昔持ってきた
半分でもありゃ何でも分かる
すべての知識がその中にはある
知りたいことならすっかり分かる
まず『博物誌』を読んだらいいのさ
世界で最初の魚の化石は
バッカラだったと書いてある

ヴェネト語の説明は煩雑なので省く。苦労して訳したのに内容がまったくないところが素晴らしい。脚韻を日本語訳に取り入れるのは端から無理だとして、音の数だけでもそれらしくしようとしたためにかなり訳をいじってあること、また私は元よりヴェネト語の研究をしているわけではないので、これはいわゆる「豪傑訳」であることもお断りしておきたい。そしてその内容についてであるが、まず詩人というだけで信憑性がないのに、ルイージ・プレットはイタリア人でもあるので、二重の意味で彼の言うことは信じるに値しない。一応調べてみたが、当然『博物誌』に上記のような記述はない。もっとも、『博物誌』自体がルイージ以上に怪しい書物なので、もとよりデタラメだということを示すためのものだろう。

リヴァプールだのセネガルだのという地名もきっと脚韻を合わせるために適当なことを言っているだけである。また、何故ここで化石という言葉が出てくるのか分からない方は棒ダラを買ってきて囓ってみるとよい。

そう、ヴェネツィア料理といえば、レデントーレの時に話題にしたBigoli in salsaであるが、その後何回か見つけて頼んでみたところ、他の店ではすべて常識的な範囲の塩味で出していた。最初に食べたあの店は一体何にこだわったせいでああなったのだろう。

まあいい。ともあれ、イタリアだからといってルイージのような奇妙な人ばかりではないということは一応言っておかねばならぬ。家主に招待されたコンサートの話に戻ろう。

アテネーオ・ヴェネトのAula Magna(大講堂)へ入ると、壁と天井一面に描かれた絵が圧倒的である。どこかで見たことがあるような気がして、これは誰が描いたのかと問うてみたところ、ティントレットだということであった。ヴェネツィア派の絵画がヴェネツィアの古い建物にあることに何の不思議もないのだが、とんでもない街だとあらためて思う。

今回のコンサートのお題は「ヴェネツィア音楽の精髄 ジュリオ・ルエッタ・ファビアン」というものである。このお題はどうもジュリオの作った曲の題名にちなんでいるようだ。本当はジューリオ・ルエッタ・ファッビアンという方が原語の発音に近いのだが、ここはジュリオで通す。

Giulio Ruetta Fabbian(1925-2011)というのはヴェネツィア生まれ、ヴェネツィアのBenedetto Marcello音楽院でピアノと作曲を習ったという、生粋のヴェネツィアーノである。50年代から60年代にかけ、I Gondolieri Cantoriというグループと共に、美しくロマンティックなヴェネツィアのイメージを外国にまで広めた、という人らしい。

コンサートに先駆け、家主が司会者のような立場にあって、専門家からの話を聞くという講演会があった。当然私の語学力では十分の一も理解できなかったのであるが、ここで話をなさっていたLeopoldo Pietragnoliという方の書いたものは日本語にもなっているとかいないとか言っていたような気がする。帰ってきてから軽くネットで探してみたが今のところ見つからない。何かご存じの方はおられようか。

講演の後にはジュリオの曲のピアノ演奏があった。弾き手はフェニーチェのPrimo Maestroだったという人とその娘(こちらも当然相当な経歴の音楽家)である。そんな人たちの演奏をただで聴いてよかったのだろうか。この街の文化は一体どういうからくりで動いているのだろう。

ゴンドリエリの歌であるから、どれもドラマティックな展開があるような曲ではない。始終ラグーナのゆったりとした波に揺られているような曲調で、講演でイタリア語を詰め込まれて緊張した頭には非常に心地よいものであった。

帰ってから調べてみるとI Gondolieri CantoriのCDというのがあって、日本でも某大手通販サイトに一つだけ在庫があった。イタリアにいるのだからその辺で売っているだろうと思い、翌日リアルト橋の傍のCDショップへ行ってみるが、I Gondolieri CantoriのCDはもう流通していない、あるいはそもそも流通に乗ったものではない、というようなことを言われ、ここで手に入れることは出来なかった。

私のイタリア語の聞き取りはまだ相当に怪しいので実際のところはよく分からないが、店を出た後すぐ、日本に残った最後の流通品を注文しておく。聴くのは帰国後のこととなるが、慌てるようなものでもないだろう。

ちなみに、某大手通販サイトに出品されているものを手に入れようと思えばまだ出来ないことはないが、今のところ私の買った価格の四倍強の値が付いている。ただ、ダウンロードでも手に入るみたいなので、聴くだけならわざわざ高値でCDを買うこともないのではないか。

ゴンドリエレが歌を歌っているのはしばしば耳にするが、やはり独特の歌は知る人が少ないので受けが悪いのか、“Volare”(ビールのCMで日本でも有名)などの流行歌を歌っていることもあるという話である。ヴェネツィアに旅行してゴンドラに乗ろうとお考えの方は、予習しておいたうえでこのI Gondolieri Cantoriの曲をリクエストしてみたらきっと面白いことになるのではなかろうか。高いものなので私はもう乗らないが。