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聖マルコについて

すでにプレイベントも始まっており、パスティッチェリアにはfrittelleフリッテッレやgalaniガラーニなど、この時期ならではのお菓子が並んでいる。街はまた混雑し始め、休暇していた店の多くもぽつぽつ営業を始めるようになった。この1月30日からヴェネツィア最大のイベント、カルネヴァーレが始まるのである。

その陰に隠れてあまり話題になることもないのだが、1月31日というのは聖マルコの聖遺物がヴェネツィアにもたらされた記念日である。混み合う前にと思って先日サン・マルコ聖堂へ入ってみたということもあるので、ここでちょっと記しておこう。久しぶりに家主の本によるヴェネツィア案内であるが、しかしそもそもこれは54代ドージェであり、文人でもあったアンドレア・ダンドロの記録に拠ったものだということである。各所で話の内容や年号などに現在の通説と異なる部分があるのはその所為かと思われるが、とりあえずそのままとする。

このエヴァンジェリスタの行跡については様々な伝説があるのだが、エルサレムに生まれたマルコは使徒ペテロによって洗礼を施され、その忠実な代弁者・使者となった。その後ローマから北へ向かって進んでアクィレイアに到着、そこに最初のキリスト教会を創設したということになっている。このアクィレイアというのはヴェネツィアの北西100kmほど、電車なら三時間強の位置にある。

マルコはその後、ローマへの帰途についた。航海は順調に始まったが、しかしそれで終わっては伝説にならない。リーヴォアルト(リアルトの語源となった言葉だが、もともとこの言葉はヴェネツィアの中心部、現在のサン・マルコ地区の辺りを指していた)の湿原にある島々の近辺へくると不意に(都合よく)風が激しさを増し、荒れ狂う時化となったというのである。エヴァンジェリスタを乗せた船はやむを得ず、小島の間を流れる運河へ待避した。

彼が降り立ったのは現在ではサン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ修道院が建てられている辺りだとされている。ヴェネツィア北岸、アルセナーレの側の辺りで、ここら辺にはCelestia(天国)という、いかにもそれらしい名のヴァポレットの乗降場があるのだが、しかしここにはマルコが降り立った地であることを示すモニュメントも観光客の姿も見られない、落ち着いた場所である。

何とか嵐を避けることのできた船乗りたちは、漁師たちのあばら屋で手厚いもてなしを受けた。ところがマルコは一人海岸にひざまずき、熱心に祈り始めたとされる。彼は法悦に陥り、光に包まれて天から降りてきた天使を見た。
  “Pax tibi Marce, evangelista mevs”
「安寧は汝と共にある、マルコ、我が福音を伝える者よ」天使はこう彼に告げた。「恐れることはない、福音を伝える神の使者よ。苦難はまだ多いが、汝の死後この場所に比類なき街が興り、汝の肉体はそこに安らぎを見出すこととなろう。そして汝はその街の守護者となる」
その間に嵐は止み、マルコは旅を再開することができた。彼はローマへ到着し、福音を説くためにまたそこからアレクサンドリアへ赴く。多くの人々が彼の話を聞くために駆けつけ、エジプトの街のキリスト教徒の数は夥しいものとなった。

そんなある日、憎しみに駆られた異教徒たちが彼の背中を切りつけ、そして馬車に縛り付けて街中を引きずり回した後、牢獄に閉じ込めるという事件が起きる。夜になると、その傷を癒やすために天使が降り立った。しかしその後もつらい殉難の日は続き、三日目にマルコは亡くなったのである。それは西暦68年の4月25日のことであった。

4月25日というのはイタリアの解放記念日でもあるので紛らわしいのだが、聖マルコの祝日として知られるのはこちらの日付である。この日までヴェネツィアに居ることができないというのが心残りでならないが、ともあれ、彼の遺体はアレクサンドリアの教会に安置され、その後数世紀が経った。かの天使が予言したとおり、ヴェネトのラグーナには一つの街が作りあげられてゆき、マルコの降り立った地には住民が小さな教会を建てて、ドージェは毎年そこを訪れて祈祷を捧げた。その福音史家への崇拝は非常に大きなものとなり、アレクサンドリアへ行ったヴェネツィア商人は皆その遺骸を崇めることを常としていた。

そして、11代ドージェであったジュスティニアーノ・パルテチパツィオが二人の商人、ブオーノ・ダ・マラモッコ(マラモッコのブオーノ)とルスティコ・ダ・トルチェッロ(トルチェッロのルスティコ、マラモッコとトルチェッロというのは地名)を使ってアレクサンドリアから聖マルコの遺骸を盗み出したという例の有名な話になるのだが、これについては他所にいくらでも書いてあるので例によって省略。

828年の1月31日、その福音史家の遺骸はヴェネツィアに到着、そしてそれは政治権力が宗教権力より優位にあることを示すため、司教のところにではなくドージェのところへと持ち込まれ、まずは聖テオドール教会に安置された。

そもそもそれまで聖テオドーロ(この地での愛称はトダーロ)を守護聖人としていたヴェネツィアがなぜ聖マルコを欲したかというと、聖テオドーロというのが、できればそこから独立してその影響力を排除したいと考えていたビザンチンの聖人であったこと、そして、アクィレイアにあった司教座大聖堂を拠点とする教会権力との角突き合いの中にあって、「アクィレイアの教会の創設者である聖マルコはヴェネツィア共和国の独立を願ってこの地に自らの遺骸を移されたのだ、これこそが神の意志である」という方向へ話を持って行きたかったからである。何もかも計算尽くで動くのがヴェネツィアであって、この共和国はただの信仰心から干涸らびた遺骸を欲したりはしない。

聖遺物というのは金による取引が禁止されているので、どちらかというと「信仰心から盗み出した」、そして聖マルコの場合、「アレクサンドリアの教会がイスラム教徒によって壊されようとしていたので、その遺骸を救出するために危険を冒した」という方が表向きには通りがいいのだが、実際のところ、アレクサンドリアの教会の内通者にはかなりの報酬が渡されたという話である。必要であればドージェや十人委員会(まだこの時代にはないのだが)の判断でいくらでもこういうことができたという、この柔軟性がヴェネツィア共和国の強みであった。

それはそれとして、聖マルコの遺骸がヴェネツィアにもたらされたことで人々は高らかにこの街の守護聖人マルコを称揚し、ドージェ、ジュスティニアーノ・パルテチパツィオは、その聖遺物を管理するのにふさわしい教会の建設を速やかに開始すると布告、4年後にその教会は完成する。そしてここから始まるサン・マルコ聖堂という建物の歴史が非常に興味深い。

ちなみに日本語だとサン・マルコ聖堂、サン・マルコ大聖堂、サン・マルコ寺院という書き方が混在するようだが、パラッツォ・ドゥカーレとつながっており、ドージェの私的な礼拝堂として建設されたこの建物は本来「聖堂(basilica)」である。「大聖堂(cattedrale)」というのは中央の教会から指定された司教座大聖堂のことで、確かに現在は大聖堂となってはいるのだけれども、教会の権力を頑なに遠ざけていたヴェネツィア共和国の建物としては「聖堂」と呼ぶ方が相応しい。

最初のサン・マルコ聖堂はまだ草の茂る空地に作りあげられた、ロマネスク様式とビザンティン様式の要素を含んだ木と煉瓦の建物で、後にヴェネツィアのシンボルとなる、かの壮麗な聖堂とはかけ離れた建築物だった。それは仕方のないこととして、「汝の肉体はそこに安らぎを見出す」と例の天使が告げたにもかかわらず、聖遺物の受難はこれからが本番である。なにしろこの時代、ヴェネツィアの家々はほぼすべて木で作られており、火事は頻繁なものだったのだ。守護聖人の教会もまた火事に遭い、焼失してしまったのである。そしてその際に聖マルコの遺骸は跡形もなく失われてしまったという。面白いのはここからである。

1004年、23代ドージェであるピエトロ・オルセオロⅡ世によって再建された教会が献納された際も、その聖遺物が再び見出されることはなかった。聖遺物を失ったままの守護聖人の教会を献納するというのは、ヴェネツィアのすべての人々にとって非常に心苦しいことであった。そこで彼らは、まだこの街に守護聖人がいなかった頃のように、父なる神に直接助けを求め、祈り始めたのである。ドージェと評議委員、ドージェ夫人とその子女も慎ましい装いをして祈った。貴族とその使用人、聖職者、商人、職人、人夫、漁師も祈った。つまりヴェネツィア全体が祈りを捧げたのである。

昼夜途切れることなく続いたその祈りのささやきを聞き届けざるを得ず、主はとうとう、聖マルコにその姿を現すようお命じになったのであった。そう、荘厳なミサが行われていたときのこと、焼け残ったものであった大理石の壁柱の壁が突然裂け、列席者の驚嘆、歓喜、そして畏怖の中、マルコはその腕を外へ差し出したのである。

感謝を捧げるための荘重な儀式の後、盗難や涜神の危険に備えるため、その遺骸は新たに教会の中に作られた秘密の場所に安置された。ただドージェと聖堂参事会員長のみがその場所を知っていた。その秘密はあまりに注意深く守られたので、時が経ち、この土地に聖マルコが安置されているということが忘れられてしまうほどだったという。

……パドヴァの聖アントニオ聖堂へ行くと分かるが、聖遺物というのは非常に強い信仰の対象となっており、持っていればこれ以上に教会の権威付けになるものはない。通常であれば、これでもかというくらいきらびやかに、そして自慢げに、人目に付くような中心部に飾られているものである。後は察して貰いたい。

ここまででも何ともいえない話なのだが、しかしまだ終わりではない。1050年頃のこと、またもや恐ろしい火事があり、教会は完全に焼失することとなる。炎は建物に重大な損害を与えながら瞬く間に広がり、人々は真っ先に、聖遺物が焼き尽くされてしまったのではないかと恐れた。その後の聖堂の再建工事は1094年になってやっと完成、その間もやはり守護聖人の遺骸が見つけ出されることはなかったのではあるが、32代ドージェ、ヴィタリーノ・ファリエルは6月25日に建物の献納式を行うことを決めた。

もうどうコメントすればいいのか分からないが、ここでまたヴェネツィアの人々は同じように祈り、そして今一度、荘厳なミサの行われていた間に神意によって建物の壁が崩れ、光の中から聖マルコの古い柩が現れたというのである。今回の場合、聖遺骸そのものではなく、柩というところにちょっと遠慮が表れている。さすがに無理があると思ったのか。

この柩は新しい教会の、当然また秘密とされた場所へ安置されることとなるのだが、しかしこの奇跡的な出来事を祝うため、人々がそれを直接崇めることができるようにと半年の間は公に展示された。このような機会には貴賤の別なくあらゆる人々の間でお祭り騒ぎとなるものであり、何人かの研究者はここにヴェネツィアのカルネヴァーレの起源を見出しているという。ただし私の経験からいうと、イタリア人がこういう言い方をした場合の信憑性は皆無である。カルネヴァーレの起源についての話など、幾つあるのか知れたものではない。

柩は出てきたものの、聖人の遺骸そのものはあいにくながらその形跡を失ったまま長い年月が過ぎた。それがやっと見つかったのはなんとヴェネツィア共和国が崩壊して十数年が経った1811年、聖堂の修復作業が行われていた間のことであったという。現在それは最も大きな祭壇の下に埋葬されているそうな。また、秘蹟の祭壇の左側面の支柱の上、その前で灯明の燃えるところに、モザイコで飾られた大理石の四角いパネルが見える。その場所こそ、1094年6月25日、聖者の柩が信者の前へ奇跡的に姿を現したところだという。

というわけで実際にそのパネルを見に行ってみたのだが、長くなったので一旦休憩。