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街の原点について

気がついたら帰国まで二週間を切っていた。帰国直後に最後の一仕事があり、その準備に掛かりきりでいたためにあまり考えずにいたのだが、概ね出来上がってきたところで余裕ができるとあらためて帰国後のことを考えてしまう。

帰国と共に私の研究生活が終わるという可能性もあり、日本のことなど一瞬たりとも考えたくはないのだが、今の時期、街には卒業旅行と思しき日本人の若者がやたらとうろうろしている。カルネヴァーレが終わった途端に街はPasqua(復活祭)の準備を始めた(一年中祭りのことしか考えていないのだろうか)が、それでもやはり西洋人の観光客は当然減っている。もしかするとこの時期は一番日本人の比率が高いのではなかろうか。新婚旅行のカップルや老夫婦などと違って、彼らはグループの人数が多く、またよくしゃべるのでどうしても目に付いてしまう。

というわけで、一見の日本人なら絶対に近づかないであろうところへ現実逃避のための散歩に出た。

Fondamente Noveの船着き場からヴァポレットに乗って一時間弱。目指したのはTorcelloトルチェッロという島である。ブラーノ経由で行くのが一番簡単なので最初はヴァポレットの船内に中国語や韓国語も聞こえてはいたのだが、トルチェッロに降り立ってみれば私以外に東洋人の姿は見えない。それだけでもこの島に来た甲斐があったというものだ。

ヴェネツィアはこの島から始まった。共和国の歴史を語るうえで最初に必ず触れるべきところであるのだが、今ははっきり言って何もない島である。余程ヴェネツィアについて興味を持った人間でなければここに来ようとは思わないはずだ、という当て推量は見事に的中したのであった。

ラグーナ一帯にまとまった人が住むようになったのは6世紀頃のこと、ランゴバルド族の侵略から逃れるためであった。トルチェッロへ逃れてきた人々は、主にここから北方にあるアルティーノという街から来たとされている。時が経つにつれこの島は、マッズォルボ、ブラーノに加え、今は目立たないものとなっている島々(コスタンツィアーカ、チェントラーニカ、アンミアーナ、アンミアネッラ)など、多くの島をまとめ上げる体制の中心となっていった。

ところが8世紀から9世紀辺りになると、この地域の人々はより安全な場所を求めてリアルト方面の島々へ移住していった。地図で見るとトルチェッロの辺りは島が飛び石のようになっており、本土からもすぐに到達できるように見える。実際にはそれらは干潟であるので、土地勘や航海術を持たない侵略者がそう簡単に近づけるような場所ではないのだが、より安全な場所があればそれに越したことはないだろう。こうしてトルチェッロは衰退していくこととなった。

この島の不幸な運命と、ある司教がグラン・トッレ(大鐘楼)から突き落とされたときにこの町にかけられたという呪いとを結びつけた悲しい伝説がある。ここまでの解説もそうなのだが、出典はもちろん家主の本である。

司教によって呪いがかけられてからというもの、この島では不作が続き、人々はここを立ち去らざるを得なくなっていました。残ったのは、その罪に関するある予言を固く信じていたわずかな住民だけでした。穢れなき若者が塔に登って鐘を鳴らせばトルチェッロは蘇る、そういう予言です。その後、たくさんの者が手柄を立てようと試みましたが、誰も成功した者はありませんでした。

そんなある日、勇敢で誠実な一人の船乗りが、この試練に挑戦すると言い出します。彼はある美しい娘と恋仲であり、結婚も間近でした。ところがこの島に住んでいたある別の男もまた、もうすぐ花嫁となるこの娘に横恋慕をしていたのです。この男は恋敵である船乗りの青年のふるまいに疑いがかかるようにと、ありもしないことを言いふらし、土地の人々と諍いが起こるように仕向けます。その結果、殴り合いの喧嘩が始まってしまい、その最中にあって、愛しい人を守ろうと間に入った若い娘は誤って殴られ、死んでしまいました。

その瞬間のこと、誰一人いない塔の鐘が鳴り出したのです。それはもの悲しい、しかし決然とした響きでした。「無垢な乙女の血が流れたことで呪いは消え去った、しかしその住民は軽はずみな行いで彼女を死に至らしめた罪を購わねばならぬ。よってトルチェッロが昔日の繁栄を取り戻すことはない」、塔の鐘はそう告げました。そしてそのとおり、この島は衰退していくこととなったのです。

……この話で理解できないのは、失敗したら死んでしまうなどという条件もないのに、鐘楼に登って鐘を鳴らすだけのことが「試練」というほど難しいことなのか、という部分と、塔の鐘が告げたという「呪いは消え去った」という言葉が何を指すのかという部分である。「町が滅びる」という呪いが消えたのにも関わらず町が滅びるというのはどういう計算なのか。司教の呪いは消えたけれども新たな罪ができたので差し引きは変わらない、というのは悪徳金融みたいで救いのない話である。

ともあれ、トルチェッロの鐘楼に実際に上ってみた。ここで買ったガイドブックによるとこの鐘楼が最初に立てられたのは11世紀のことであり、その後何度か再建や修復をしているとのことであるから厳密には伝説に出てきた鐘楼とは違う。いや、この伝説自体が例によって怪しいものであるから時代考証を気にしてはいけない。

ヴェネツィア本島と違い、全盛期には顧みられなくなっていた地域であるので何もかもが何となく古くさい。もちろん本島の建築物だって古いものには違いないのだが、こちらはいかにもうらぶれた趣がある。飾り気のない通路をぐるぐる回って天辺へ行くと、当然ながら四方がよく見渡せた。が、見渡したところで何もない。島の住民は数十人、とガイドブックにあるのだが、小さな島の大部分は畑で、人家らしきものが至極わずかに見えるだけである。高いところは苦手なのだが、何にも無い景色に満足して暫しの間ぼんやりとラグーナを眺めていた。日本に帰らず、ここかサント・エラズモ辺りでカルチョーフィでも育てながら暮らしたいものだ。

鐘楼の手前にはBasilica di Santa Maria Assuntaという聖堂がある。中にはモザイコ画がいくつかあって、特に最後の審判の図は結構な見応えがあった。Lucifero(ルチフェロ、ルシファー)がただの白髪のオッサンで、またその膝の上にごく普通の格好をした人を座らせているのがよく分からなかったのだが、ガイドブックによるとこれはルチフェロの息子のアンティクリストだそうである。ルシファーに息子がいたという話は初めて聞いた。そうすると母親は誰なのだろう、と、こうやって無駄なことを考えていられるのもあと一週間ちょっとである。

その後は傍にある博物館へ。小さなところで、始終私以外に一人の客もいなかったのだが、この島に来てここ以外に見るべきものがあるのだろうか。ただ、この島にあったものとはいえ、ビザンティンのラヴェンナ総督府の影響下にあった頃のものなどはどこにでもありそうなものばかりで、人々がヴェネツィアという言葉から期待するようなものばかりが展示されているわけではない。元々聖堂にあったものだという小さなPala d'oroがあって、右端に聖テオドーロが居るのがやっとそれらしい、という程度のものであった。そういえばこの島にはあまり聖マルコの獅子が居ない。とある民家の門柱の上に狛犬のように二匹が鎮座していたくらいだったが、この二匹には翼が見られなかった。ヴェネツィアとはいろんな意味で距離のある島である。

博物館の表へ出ると、アッティラの玉座ともいわれる石の椅子があり、観光客が代わる代わるそれに座って記念撮影をしていたが、家主によるとこれはおそらくtribuni(護民官)の椅子だという話である。

日が落ちる頃になって一旦ブラーノへ戻る。同じ乗り場からヴェネツィア行きの船が出るので降りたところで待とうと思ったが、ものすごい行列ができていた。これを見て一時に現実に引き戻される。

一隻のヴァポレットに乗り切れるものだろうか、これは次の船を待たなければならないのではないか、と考えたが杞憂であった。来たときのものとは違うタイプ、本島では見たことのないような巨大なヴァポレット(乗船後に表示を見たら定員は400人とあった)がやってきて、待っていた人をすべて呑み込んでくれたのである。このヴァポレットは二階部分に操縦席があり、面白いものだと思って見ていたところ、停船後に操縦士がスマホを取り出して船着き場の行列を撮影していた。彼らにとって珍しいものではないだろうに、理解できない行動である。業務報告にでも使うのであろうか。