口の開け方について

未だに慣れないのだが、そういえばパソコンが常時ネットにつながっているのだったと気付いてrisi e bisi e fragoleを画像検索してみたところ、単にイチゴが上に乗っかっているだけで特にどうということはなかった。イタリアの名誉のために一応ことわって置くが、ネットに関しては私が仮寓していたリアルトのアパルタメントが特別だったのである。他の先生方の家や留学生の寮ではきちんとネット環境が整っていた。

して、ヴェネツィアかぶれとしては当然のこと、4月25日にrisi e bisiを作ってみたのだが、旬の素材で作ったらさすがに味が違った。この料理、古いレシピではインゲンの莢を捨てることなく、塩ゆでした後に裏ごし器でつぶしてペースト状にしたものを加えるという一手間がある。参考とした本によると、食材をわずかなりとも無駄にすることが許されなかった往事の様子が思い起こされる、との評であった。

実際にそっちのレシピでやってみたところ、火も水も手間も余計にかけて繊維質の多い莢からわずかな栄養を搾り取ることにどれほどの意味があるのかは今ひとつ分からなかった。イタリアでは料理の最中にトマトをつぶしたりする機会も多いと思われ、そのために裏ごし器という道具が日本より身近であるのだろうが、日本の我が家にある道具でこれをこなすのは一苦労である。ちなみにここで裏ごし器としたpassaverduraという機械は、日本語で「裏ごし器」と書いて想像されるものとはちょっと違う。新鮮な豆を使って作ったのが初めてなので味の違いについてはそっちに気を取られており、莢のペーストの効果については色味が変わること以外には何ともいえないのではあるが、ともあれ、ヴェネツィア、あるいはヴェネト州にもそういう貧しい時代があったということだけは何となく実感できた。

4月25日頃にヴェネツィアの街のウェブサイトを見ていたところ、解放記念日や聖マルコの祝日、そしてこれも以前紹介したbocoloボーコロ、ボッコロの記事があったのだが、現代のボーコロでは伴侶だけではなく母や娘にも薔薇の蕾が贈られる、というふうになっていた。日本のバレンタインチョコレートが女性同士で、あるいは自分自身にも贈られるものとなったように、イベントを盛り上げるために拡大解釈を繰り返して対象を広げていく、というのはどこにでもある話である。しかしイタリアには3月8日のfesta della donnaにも女性にミモザの花を贈るという習慣があるのだ。似たようなイベントが間を置かずに続くのなら差別化が必要ではないかと思うのだが、まあ、彼ら自身が楽しくやっているのであれば取り立てて問題とすることでもない。

気候や風土によってあれこれ違いはあるが、イタリアでそういう違いを一つ一つ取り上げて突き詰めていると、人間というのは何処で生きていても根本的に同じものだ、という結論に行き着くことがしばしばであった。

私は基本的に異端者と呼ばれるような人々ばかりを研究対象としており、ヴェネツィアにいた間もキリスト教の教義に引っかかるようなテーマで研究せざるを得なかった。ヴェネツィア共和国というのは自分たちが生き残るためなら十字軍の矛先をキリスト教徒へとねじ向けることすら敢えてする国であったが、欧州のとある国では現代でも神を冒涜すると現実的に刑法上の罪に問われるらしい。カトリックの総本山の国に滞在する間、この無神論者が何処で地雷を踏むことになるかとびくびくしていたのだった。

ところが、イタリアは欧州とアジア・アフリカとの境界、つまりイスラム世界という他者と直面するところに位置しているためか、あるいは総本山であることが精神的な余裕を生み出しているのか、結局は特に問題となるようなことはなかった。考えてみると、どの宗教でも総本山の近くには原理主義というものがないような気がする。逆にいうと、拠り所となるものが無い場所であると、信徒としてのアイデンティティを得るために「極端な実践によるアピール」という選択肢が生まれるのではないかとも考えてみた。

例によって話が飛ぶが、そうするとヴェネツィアから遠く離れてしまった私が「ヴェネツィア帰り」であることをネタにするためにも、やはり「極端な実践」が必要となるわけである。

と言っても今のところ生活に余裕がないので、家主の本を読み進める時間もなかなかとれない。せいぜい、バッカラに関するレシピを片っ端からまとめて訳している程度である。レシピの翻訳というのは実際に作ってみなければ大事なところで言葉の選択を間違えることがあるので、ここのところ肝心要の素材である干鱈・棒鱈といわれるものを探しているのだが、これがなかなか手近なところでは売っていない。

また、これら食材探しのついでにちょくちょくワインも物色しているのだが、日本のスーパーなどで売っているワインはコルク栓を使わないタイプばかりとなっているのが少々気にかかった。飲み残す際に便利ではあるもののどうも味気ない。

中でも一番の問題は、ヴェネツィアで手に入れたcavatappi栓抜きの出番がないということである。道具にはこだわる質なので滞在中にあれこれ手を尽くして探したところ、帰国する頃にはどういうわけか四本もの栓抜きを手に入れていたのだった。一般的にイタリアの家庭で使うものは、瓶のうえに固定してスクリューをねじ込むと両側のレバーが上がっていき、それを下ろすとコルク栓が抜けるようになっているタイプのものであるが、私が手に入れたのはすべてウェイターズナイフと言われるタイプである。こちらは通常、ソムリエやカメリエーレ(給仕)が使うものであるのだが、当然のことながら私は大勢でワインを飲む場面にあっては給仕役を務めることが多い。

一本目はリアルト橋の傍にある馴染みのタバッキ(煙草屋)で手に入れた。デザインはイタリアだが中国製で€6。このタバッキのおばちゃんと向かいにあるワイン屋のおっちゃんは、おそらく私がヴェネツィアで最も多く言葉を交わした人物である。

おばちゃんの方は先の熊本の地震のときにもメールをくれたが、6月辺りに日本に旅行に来るという話だったから何かと様子が気になるのだろう。東京~京都~広島と回る予定なのだそうで、ヴェネツィアでは日本の地図が手に入らない、と相談されてあれこれ手を尽くしたこともあった。世界に名だたる観光都市で他所の観光地の地図が手に入らないのは当然のことのようにも思えるが、住民にとっては不便な話である。

それにしても、東京と京都は何となく分かるが、そこへ広島が加わるのはどういうわけか。そういえばヴァポレットの乗降場などにある旅行会社の広告でしばしば厳島神社の写真を見た覚えがあり、その時は何故数多の観光地の中から厳島が選ばれているのかピンとこなかったのだが、これはもしかすると水没つながりではないのか。しかし、わざわざ極東の島国に出かけてまでアックァ・アルタを観ることもないと思うのだが。

それはそれとして、この一本目の栓抜きは馴染みの店で買ったものだけに愛着もあるのだけれども、中国製というのは少々物足りない。

そんな中、あれは初冬の頃だったか、大学の語学の授業で一緒になった人々とカ・フォスカリの近くの店で食事をしていたとき、店員が見慣れない型の栓抜きを使っていたのを見た。気になったので「その栓抜きは何処で売っているのか」と尋ねところ、「ワイナリーの販促用のもので売っているものではない」と説明した後で、奥から新しいものを出してきてプレゼントしてくれたのである。これにはMontagnerというワイナリーのロゴがあるのだが、後にあちこちのワイン屋で尋ねてもここのワインを取り扱っているところは見つからなかった。

三本目も同じ要領である。また別の店で店員がテーブルの下に落としていった栓抜きを見つけ、届けた際に二本目と同じ質問をしたところ、ほぼ同じ遣り取りでプレゼントしてもらった。こちらにはTerramusaというワイナリーのロゴが入っているのだが、ここのワインもまた見つけられなかった。だいたいイタリアに限らずワイナリーというのは多すぎるのである。日本のビール業界のように大手に収斂されてしまっているということがないので、この世界には分け入っても分け入っても切りがない。まったくうらやましい話だ。またこの栓抜きにはMuranoという刻印があり、同じタイプのもの(ただし当然ながらワイナリーのロゴはない)がsalizada S. Canzianの刃物店で売られているのを後に見つけたが、これがムラーノ島と関係があるのかどうかは知らない。

こうして二本目と三本目は酔いに任せた積極的なコミュニケーションの末に手に入れた。帰国直前、日本に荷物を送るために郵便局へ行ったときにもイタリア語を褒められたことがあったが、いくら英語が通じるとはいっても、やはりイタリアではイタリア語で話した方が何かと受けがいい。特に日本人の話すイタリア語はよく誉められる。

言語には閉鎖音(閉塞音)と開放音という区分があると向こうで聞いたのだが、イタリア語と日本語は共に開放音なのだそうな。さすがに言語学の説明は手に余るので詳しいことは適当に検索して調べてほしいところであるが、とりあえず英語のbankとイタリア語のbancaを見比べてもらえばわかりやすいのではなかろうか。銀行の語源はイタリア語のbanco(机)で、さらにいうと銀行というものはそもそもヴェネツィアで生まれたという話があるのだがそれはともかく、日本語もイタリア語も単語が母音で終わるのが基本なのである。そのせいで、英語とイタリア語で語源を一にする単語、あるいは近代になって英語からイタリア語に入った外来語であっても、辞書で見るとシラブルの切り方がずれていたりする。

そういえば、とある店で食事をしたときに珍しく突き出しが出てきて、まだ最初だったのでイタリア語ではなく英語で「これはプレゼントだ」と説明されたことがあった。しかしその発音はpresentではなく明らかにpresentoであって、日本人の中学生の英語を聞いているかのような気分になったものである。この店員は昔船乗りをやっており、商船に乗って日本にも行ったことがあるという話だったのではあるが問題はそういうことではない。

とにかく、日本人の発音はイタリア人に聞き取りやすく、その逆もまた同様、ということだ。したがって日本人にとってイタリア語は学びやすい言葉であると思うのだが、あまり需要がないのは残念なことである。

だいぶ長くなった。最後の四本目についてまだ説明していないが、これについてはまたそのうち出番があるだろう。