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過ぎ去った春について

季節はとうに夏であるが、ここのところしばしばSpaghetti Primaveraを作っていた。プリマヴェーラというのはイタリア語で「春」という意味である。これはヴェネツィア料理でないどころか、そもそもイタリアではなく北米で作られたレシピなのだそうだが、ヴェネツィアかぶれの私が何故このようなものを作る気になったのかというと、そのレシピをマ氏から直伝されたからである。

滞在許可証の受領のためにマルゲラまで連れて行ってもらった際に雑談の中で教えてもらい、その後トロンケットからリアルトへ戻るヴァポレットの中でメモに書き付けたものを貰ったのだけれども、イタリア人直筆の文字というのは日本人にはとても読みづらい。私の会話能力が心許ないので、特に最初の頃はマ氏からたくさんのメモをもらったものだが、その度に苦労させられたものである。このレシピについては後日、とあるシチリアーノの助けを借りてやっとのことで解読した。

そういえばヴェネツィアの市中で最初の頃に戸惑ったのは彼らの数字の書き方であった。彼らの書く「1(いち)」はl(エル)との区別のために上部の切り返しの部分が非常に長く、ひどいときには⊿のように見えるので、日本人の目には「4」に近いのである。tramezzino(サンドウィッチ)一つが€1,70なのと€4,70なのとでは大きな違いだ。ヴェネツィアというのはこんなに物価の高いところなのか、と勘違いしたのも今はいい思い出である。

ともあれ、マ氏のレシピはスカローニョ(エシャロットのことだが、タマネギで代用可)のみじん切り、さらにニンジン、セロリ、ズッキーニの千切りを炒めたところへ茹でたパスタを和え、塩コショウ、オリーヴオイル、パルミジャーノで味付けするというもので、素材から見るに「春野菜のスパゲッティ」というくらいが適当だろうか。ネットで見てみると、組み合わせる野菜には無数のヴァリエーションがあるようだった。

スパゲッティと絡めてフォークで食べるので、千切りはかなり細く、そしてニンジンやズッキーニなどはそのままの長さで縦に切るくらいに長くした方が食べやすい。そしてこの「千切り」であるが、マ氏のレシピにはtagliati alla julienne、つまり「ジュリエンヌ流に切る」と記されていて、これは辞書を引いても間違いなく千切りの意となっている。綴りから見てフランス語起源なのは間違いないが、それにしても「ジュリエンヌ切り」という言い方はどうだろう。フランス語ではJeanジャン(男性名)に対してJeanneジャンヌ(女性名)となるのだから、ジュリエンヌも女性名なのだろうか。そうするとPaulineポーリーヌはPaulの女性形だったか、などと思考が横っ飛びする。

どのような女性だか知らないが、千切りの異名とされるようになったジュリエンヌの身の上とは一体どれほど凄絶なものであったのか、とあれこれ想像を巡らして勝手なイメージを作り上げたうえで、とはいえそのような女性とはなるべくお近づきにはなりたくないものだ、とさらに勝手なことを考えながらとりあえず検索してみた。すると某ネット百科事典に「Jean Julienという名のコックに因む」とあるではないか。Jeanであれば男性である。だったら切り裂き魔でも女性の方がよかったのに。

例えばFegato alla venezianaだとかBaccalà alla vicentinaという料理名を見ると、fegatoもbaccalàも男性名詞(baccalàはaで終わっても元が外来語なので男性名詞)であるけれども、venezianaやvicentinaは形容詞の女性形となっている。これはおそらくalla (cucina) venezianaというふうに女性名詞が間に省略されているのではないかと思うが、julienneもフランス語の形容詞を女性形に活用したものということだろう。まったくつまらない話である。

つまらないといえば、最近は早朝から深夜にかけて単純労働に明け暮れ、生活にも甚だ彩りがない。忙しいせいで例のバッカラ関連レシピの翻訳はまだ半分も進まないのであるが、そんな中、さらに私を追い詰めるかのようにヴェネト語の辞書がもたらされた。

まだヴェネツィアにいたある日のこと、Campo S. Maria Formosaの近くの書店でヴェネツィアの民話をまとめた本を二冊ほど購い、アパルタメントに帰ってから開いてみたら当然のようにヴェネト語で書かれていた(表紙のタイトルは標準イタリア語だった)ということがあった。仕方がないので帰るまでにまた辞書を探しておこうと思っていたのだが、忙しさに紛れて忘れてしまっていたのである。

ということで、6月初頭までヴェネツィアに留学していた学生(神戸の人)に頼んで適当な物を見繕ってきてもらったのである。ちなみにこの学生は帰り際に電子辞書を託した学生(東北)とは別で、また、1月にサン・マルコ聖堂に連れ立っていった学生(神奈川)とも別の人である。学生だけではなく先生方にしてもそうだが、ヴェネツィアではイタリア人だけではなく、多くの愉快な日本人と出会ったものだった、とあらためて思う。

さて、辞書が手元に来たのはいいが、先述のとおりなかなか腰を据えて読む時間がない。それでもぱらぱらとこの辞書の凡例を読んでいたところで気が遠くなったのだが、何がひどいかといって、一口にヴェネト語とはいってもヴェネツィア語とムラーノ語とブラーノ語とキオッジャ語の間ではアクセントや動詞の活用、そして代名詞の使い方が微妙に異なるなどというのである。

そういえば昨年の末頃、霧に包まれたサン•セバスティアーノの学舎で「これがcaigoというものか」とヴェネツィア大学の先生に尋ねたとき、この単語が通じなかったことがあった。ヴェネト語でラグーナに出る霧のことを指す言葉のはずだ、と説明したら「ああcaligoのことか」と納得された。

bigoiとbigoli、あるいはmoecaとmolecaという例を見知っていたのでヴェネト語に「l」が入ったり入らなかったりすること自体は知っていた。さらに広い範囲でいうと、定冠詞複数の「gli」はヴェネツィアでは「リ」に近い発音だが、シチリアーニは大きく口を横に広げて「イ」と発音する。それはそれとして驚いたのはその後であった。

「l」が入るか入らないかについては標準イタリア語の影響などを含んだ時代による変化ではないかと見当をつけていたのだが、その先生は「うちの辺り(サン•マルコ地区)ではcaigoとは言わないけれども、別の地区ではそう言うかも知れない」と仰せになったのである。つまりヴェネツィア本島内でもセスティエーレ(カステッロ地区、サン・マルコ地区、カンナレージョ地区、サン・ポーロ地区、サンタ・クローチェ地区、ドルソデューロ地区)毎に言葉遣いに違いがあるかもしれないというのだ。

それはもう誤差と言ってしまってよい(私の「caigo」がこのとき通じなかったのは、発音上の問題か、あるいは「イタリア語に不慣れな日本人がヴェネト語を使うはずがない」という文脈上の解釈の問題とも考えられる)のではないかと思うし、どうしてこの狭い島の中でこの程度の違いが収斂されていかないのかさっぱり理解できないのだが、しかしこの間の微妙な揺れというものが飲み込めなければ場合によっては辞書を引くことができないのではなかろうか。こうやってその場の勢いであれこれと手を伸ばしてはその度に泥沼に嵌まっていくというのはいつものことであるが、さすがにこれはキツい。私が買った本はいったい何処の島の何処の地区の言葉で書かれているのだろう。