貴顕の食卓について

エリオ・ゾルズィという人によると、かつてヴェネツィアーニは一般的に一日二回の食事を取っていたそうである。十一時から正午の間に取る軽食、おおむね一皿のみで済ますmerenda、そしてミネストラと二、三皿の料理からなっていて、午後五時、これをora dogaleと言ったそうだが、その時間帯から始められたdisnarあるいはpranzoの二つとなっている。

プランツォという単語は標準イタリア語でも習うが、ディズナルというのは辞書に載っていない。ヴェネツィア語辞書を引くとdesinareのことだと書いてあって、これだと標準イタリア語の辞書にもあった。「食事[正餐]を取る」という意味のトスカーナの言い回しだそうで、いつものことだが同じことをいうのに地方差がありすぎて面倒なことこの上ない。ただしそもそもイタリア語には同義語というものが非常に多く存在し、修辞学の伝統に従って日常的に表現をひねくりまわすものなので、この程度で文句を言っていては彼らにはつきあえない。

「オーラ・ドガーレ」のdogaleというのはドージェの形容詞形(パラッツォ・ドゥカーレの「ducale」と同じ)なので全体的には「ドージェの時間」となるが、これは「ドージェが謁見を終えた時刻。書記局が閉まり、国家の各部局、司法局、評議会も仕事を中断して、皆が食事に向かう時刻」だそうである。その仕事が始まる時間ではなく、それを終える時間、つまり「よっしゃこれから遊ぶぞ!」という時間にドージェの名を冠するところがいかにもイタリア人である。

しかし1700年代というのはヴェネツィアが絶頂を超え、そしてその終焉に向かう時期なのであった。ポンペオ・ゲラルド・モルメンティという人がこう書いている。「貴族階級は彼らに優雅な生活をもたらしているものが何であるかを考慮することもなく、翌日のことすら考えずに、投げ捨てるかのようにしてその富を使い尽くした。彼らの日々はただ無為、無益なもので満たされていた。彼らの最大の関心事は遊戯と食事のみだった」。

遊戯用のテーブルは多くの遊び仲間や食客で賑わい、彼らは食堂から食堂へと渡り歩いた。貴族階級の間ではたまに、もっとも豪奢で美味にあふれた正餐を出せるのは誰か、という競争が行われた。それぞれ異なった三つの部屋に三つの食卓を用意し、一つの部屋ではスープと煮込み料理、二つ目の部屋では肉料理が出され、最後に三つ目の部屋のテーブルの上にはドルチェや果実、ジェラートが山と積まれている、というようなことも行われたそうである。

が、こういう記述を読んでいてもヴェネツィアの場合はあまり面白くない。貴族どものやっていることが当たり前すぎるというか、ムラーノのガラス職人ほどには突き抜けた想像力が見られないのだ。フランスの貴族のように無邪気なほど調子に乗りまくって退廃を極めているのではなく、どこかしらに成金的な限界が垣間見えるのがどうにも残念である。ヴェネツィアの貴族階級はイタリア語でpatrizi、そしてフランスのはnobiltàと書き分けられているのだが、この間にはどういう違いがあるのだろう。

共和国最後のドージェにルドヴィーコ・マニンという人があるが、彼はカンポフォルミオの恥辱の日の数日前、牡蠣とムール貝が採れるアルセナーレの養殖場の監督をとある人物に託し、2,400ダース以上の吟味された最上の牡蠣と400ダースの中級品、そして500ダースの大きなムール貝の「引き渡しをさらに細かく仕切る」ように命じたそうである。

あれこれの話を総合するに、このとき彼はナポレオンとともに本土の自分の邸宅にいたことになるのだが、これは本島の役所に向かって「食材の支払いを分割しておけ」とかいうケチな命令ではない。「手間がかかっても鮮度が大事だからちょっとずつ持ってこい」という指示である。国が滅ぶというまさにその時であっても、人間というものは日常に引きずられてその本質が見えないものなのだろうか。それともプレッシャーに圧し潰されまいとして些事の手配に没頭しようとしたのだろうか。

「ヴェネツィアはまだ限界に達してなどいない!」と信じるためのものだったとこの本の著者(これまで名前を出さなかったがGiampiero Roratoという方)はいうのだが、これはどう見ても「ジオンはあと十年は戦える!」と同じだ。何とも悲痛な叫びである。

ヴェネツィアの国としての運命はここで措いて料理に関して見ていくと、1700年代の終盤、つまり共和国がナポレオンにぶっつぶされて以降、フランスの影響で貴族向けの料理に突如として根本的な変化がおきたということが言われている。貴族階級の邸宅ではフランス人の料理人を雇うことが流行り、それにともなって伝統料理が衰退していったということがザネッティという人によって非常に強く糾弾されているのである。まずその本のタイトルが『気高きヴェネツィアの歴史を保存するための記録(未刊)』となっている時点で相当のヴェネツィアびいきであることが分かるが、その内容はやはり激烈であった。

「フランス人料理人は大量のクズ料理、ソース、ブロデット、そしてとりわけ四対のハトを澄んだブロードにしたエストラット[エキス]によってヴェネツィア人の胃袋をめちゃくちゃにした。これは奴らが来てすぐのことだ(略)今はニンニクと玉ねぎがやたらと流行していて、ほとんどすべての料理に入っている。肉と魚は食卓に着いたと思ったらすっかり形を変えられてしまうほどだ(略)。大量のハーブ、スパイス、ソースやなんかですべてが隠され、ごちゃまぜになっている」。

前回玉ねぎが昔からヴェネツィアの特産であったと書いたが、それはそれで正しいのである。「もっともよく知られた料理のうちの二つ、玉ねぎなしではあり得ないものであるフェーガト・アッラ・ヴェネツィアーナとサルデ・イン・サオールを思い出せば足りるが、もともとニンニクと玉ねぎが昔からヴェネツィア料理の中で十分な市民権を持っていたにしてもザネッティの記述は正しい」というのがジャンピエロ氏の意見である。

ここで「クズ料理」と訳した単語はporcheriaというものなのだが、ソース、ブロデット、エストラットと料理名が並ぶ中では違和感がある。イタリア語の場合はこうやって単語を並べるとき、一つ目がまとめで二つ目以降が具体例、「奴らのクズ料理、つまりソースやブロデットやなんか……」という意味合いになるのだろうか。

イタリア料理と日本料理の共通点としてしばしば「素材を活かす」という点が挙げられるが、肉や魚について原形をとどめないほどに加工したり、やたらと材料を付け加えるという点が当時から批難されているのが面白い。素材を活かした料理を作りたければ新鮮で良質なものを手に入れなければいけないわけで、その点でイタリアも日本も地理的に恵まれているのである。今ほど流通が発達していない時代、不毛の地には不毛の地でそれなりに生きていくための知恵が必要だったわけで、そう怒らなくても良いものをとも思うけれども、ヴェネツィアーニとしてはやはりフランスに対しては特別な感情があるのだろう。新しい支配者や新しい流行にすぐに乗っかっていく貴族達とそうでない人との対比を見ていると、戦後の日本に重なるようでもある。

以下はゴルドーニの「反抗心」の一幕である。旧訳を確認しに行く余裕がないので拙訳で我慢されたい。

ドロテア   「一度に一皿ずつ持ってこさせましょう。コンテ、あなたはどう思う?」
コンテ    「もちろん一度に一皿ずつよ。それが本来の食事というものだわ」
フェッランテ 「僕もそう思うよ。最初はミネストラ、そして次は……」
ドロテア   「いいえ、ミネストラは最後よ。コンテはどう思って?」
コンテ    「すごくいいと思うわ。今どきフランスではスープとミネストラは最後だっていうふうに先生が教えるのよ」
フェッランテ 「でも最初に胃を温めておくのがいいとは思わないかい?」
ドロテア   「いいえシニョーレ、流行には合わせなきゃいけないわ。(給仕に向かって)サラミはテーブルに残しておいてちょうだい。残りは片付けていいわ」

「先生」の訳が今ひとつ定まらないのだが、そのうち直す。これ以外にワインについての話もあるのだが、狂ったように多くの銘柄が列挙されていて煩雑なので今回は省略。