庶民の食卓について

ヴェネツィア共和国時代、国家的な正餐は年に五回あったそうである。これらは順に、
○4月25日:守護聖人聖マルコの祭日
○キリスト昇天祭[移動祝祭日]:999年にドージェ、ピエトロ・オルセオロII世がアドリア海を平定するためにヴェネツィアを出航したのを記念する日
○6月15日:聖ヴィトゥスと聖モデストの祭日で、1310年のこの日、バイアモンテ・ティエポロのクーデター未遂事件があったことを記念する日
○9月30日:聖ジローラモの祭日、この日もなにやら事件があったみたいなのだが、ここの記述を訳しただけではよく分からない。塩野さんの本をひっくり返せば分かりそうなものだが、今は宿題とする。
○12月26日:最初の殉教者聖ステファノの祭日で、コンスタンティノープルからヴェネツィアへその聖人の聖遺物が移されたことを記念する日
となっている。

キリスト昇天祭は一般的にAscensioneアシェンシオーネというが、ヴェネト語ではSènsaという。この祭日はSposalizio del Mare(海との結婚)の儀式で知られており、今年は次の日曜日になっているようだ。ウェブサイトを見るとこれに合わせてレガータも開催されるとあったが、とすると、滞在中のこの時期に偶然観たレガータはセンサのものであったか。当時はまだ不慣れでヴェネツィアについて詳しいことを何も知らなかったが、カルネヴァーレやレデントーレと並ぶヴェネツィアの大事なイベントにギリギリかすっていたことを今さらながらに知る。

ピエトロ・オルセオロII世についてはちょっと検索して戴ければすぐに分かるほどの偉人なので説明は省略。この祭日の祝宴にはオルセオロの偉業の達成に深く貢献したことを記念してアルセナーレの職工が百人ほど招待された。彼らの前に供されたのは、
arance belle grosse, lingua salata, salami di Firenze, offelle, torte, savoiardi grandi, sfogliate, cagliate, cedri grossi e pan di Spagna
大ぶりのオレンジ、塩タン、フィレンツェのサラミ、オッフェッラ[北伊のパンケーキ]、パイ、サヴォイビスケット、スフォリアータ[折りパイ]、カリャータ[凝乳物]、大きなシトロンの実やスペインのパンからなる十種のアンティパスト、と記録されている。名門の貴顕や大使はアルセナーレの職工たちがもてなされているその隣のサロンで宴席に臨み、こちらには十二種のordoverオルドヴェルが並べられた。ご想像のとおり、オルドヴェルというのはフランス語のオードブルに由来する。前回見たことだが、嘆かわしいことに十八世紀のヴェネツィア貴族はフランスかぶれである。

その後、温かいメイン料理が運ばれてきたが、こちらには多くの肉料理があり、その中にはハトのラグーのパイ、メンドリのローストやボイル、そしてデザートにアーティチョークやフェンネルなどがあったという。

このほかの祭日についてざっと見ていくと、聖ヴィトゥスと聖モデストの祭日にはrisi coi pedocchi[ムール貝のリゾット]、これは現代に伝わるrisotto ai frutti di mare[海の幸のリゾット]の祖先だという。risottoというのは想像通りのリゾットであるが、ヴェネト語でrisiとある料理は本来、少しスープ寄りで汁気の多いものである。以降は便宜上「粥」と訳す。

聖マルコの祝祭の期間中はアンティパストにsfoge in saor[シタビラメの南蛮漬け]が供された。これはまた聖マルタの祭日前夜に民衆の間でも口にされていたという。4月25日の祝宴にはtrote[マス]が用意されるのが常だったそうだが、その式典の配膳に関する文書にはこう示されているそうな。「もし水産物が不漁で同種のものが不足した場合は、牛か子牛のタン、あるいは切ったpersutto[プロシュット?]で賄うことも可能である。もし牛がやせていれば、スズキかヒラメを茹でたもの、その他シタビラメ、アカザエビ、カニなどのフリットで代用しても良い」。

日本人の場合「土用の丑にはウナギを食べる」と一度決めたら、万難を排して何が何でも準備をしておくようなイメージがあるが、もっとも重要な祭日用の食材であったとしても無かったら無いで適当に濁す、というやり方が彼らのイメージにぴったりである。

ウナギといえば、この魚は本来冬が旬なのである。クリスマスイヴには、庶民の各家庭で「極上のカラスミのアンティパストに始まり、伝統的なウナギ料理やホタテのリゾットの並ぶ食卓」に人々が集ったという。このほかクリスマスイヴの定番料理として「サケ、i cavoli crespi[チリメンキャベツか]、モスタルダ、il mandorlato[アーモンドケーキ]」などが挙げられているが、モスタルダやマンドルラートなどの菓子については後日まとめることとする。

ウナギでもっとも好まれた調理法はin umido[トマト煮込み]だった。また、大きなものはグリルでロースト、小さなものはsull'ara[ローリエの上に並べてオーブンで焼く]という調理法もあったとのこと。この辺は簡単に応用できるかもしれない。

庶民の家庭でも祭日には肉料理を食べる習慣があった。サルーテ教会の祭日である11月21日のカストラディーナ、レデントーレ前夜のニワトリやカモのロースト、カルネヴァーレの最後の数日にはラヴィオリやシチメンチョウ、そして復活祭には子牛肉やフォカッチャ、さらに8月1日にはカモを食べたとのこと。

そのほかには牛タンのsalmistrata、家禽、羊肉、雄牛肉、豚肉、ハチノスなどが庶民の食卓に上ったそうだが、見慣れないのがサルミストラータという言葉である。辞書を引くと「塩と硝酸カリウムで処理し、薬味入りの塩水に浸ける」とあり、ちょっと検索してみると、まず塩と硝酸カリウムを溶かした水に数日間浸け、その後弱火で煮込んで仕上げるという流れになっていた。簡略化したレシピもあったが、長いものでは一ヶ月近く塩漬けにするようである。細部は違うが、結局のところは日本でもよく知られた「牛タンの塩漬け」であった。

しかし庶民にとって、特別な料理を必要とする祭日は実際のところ少ない。それ以外の日は身近に手に入るもの、つまりヴェネツィアを取り巻くラグーナや運河に満ちていた魚介類を主に食べていた。ヴェネツィアの大衆料理といえばすでに何度も取り上げたフェーガト・アッラ・ヴェネツィアーナ、バッカラ・マンテカート、ポレンタの三つに始まるが、ミネストラから並べると、

la minestra di risi in brodo con il sedano セロリとブロード粥のミネストラ
la minestra di risi con la luganega ソーセージ粥のミネストラ
la minestra de risi co le verze チリメンキャベツ粥のミネストラ
la minestra de risi e fagioli インゲン豆粥のミネストラ
i risi e bisi エンドウ豆粥、これについてはこれまでに何度も書いた。
i risi in cavroman カヴロマン粥(切り分けた去勢羊肉を入れ、セロリやニンジン、玉ねぎ、ミックスした香辛料で味付けしたもの)
などがあり、リゾットになると、

il risotto de cape ホタテ[だと思うのだがマテ貝かもしれない]のリゾット
il risotto de peoci ムール貝のリゾット
il risotto de bisato ウナギのリゾット
il risotto de scampi (del Quarnaro) アカザエビのリゾット(クァルナロ[アドリア海北東、現クロアチア領の湾]産)
il risotto de sepoline 小イカのリゾット
il risotto a la bechera 肉屋風リゾット[詳細不明]
il risotto a la sbiraglia  ズビラーリア風リゾット(レバーや鶏の内臓を使う)
il risotto de zuca カボチャのリゾット
などが挙げられている。

この後はパスタ料理で、例のビーゴリ・イン・サルサの他にいくつか見慣れないものが挙げられているのだが今回は省略。これらの料理の中には肉類や野菜がかなり混じっているが、魚介類は基本的にもっとシンプルな調理法で食べられていた。新鮮なものが手に入る土地だとどこでもこういった流れになるものだが、ヴェネツィア料理研究家としては物足りないような気がせんでもない。ともあれ調理法別に並べると、

lessati茹でたもの:
l'asià, la raza, il brancino, la bosega. ホシザメ、エイ、スズキ、メナダ

arrostiti alla griglia (rosti in graèla) グリルでローストしたもの:
cievoli, code de rospo, sgombri, triglie, tonno, orate, sardoni, storioni. ボラ、アンコウ、サバ、ヒメジ、マグロ、タイ、イワシ、チョウザメ

fritti フライにしたもの:
sfogi (sogliole), passarini, costolette de San Pietro, marsioni, bisatei picoli, scampi, calamaretti, moleche. シタビラメ、ヨーロッパヌマガレイ、マトウダイ、ハイイロハゼ、小型のウナギ、アカザエビ、イカ、モエカ

アンコウのグリルは確かに美味しかった。ボラは『博物誌』で読んでからずっと探していたが、結局これといったものに出会えなかったのが心残りである。これに加え、茹でてオイルやレモンで味付けしたle schie[スジエビ]というものがあり、これはアンティパスト・ミストを頼むとよく入っていた覚えがある。ポレンタに載せても美味しかった。bovoleti co l'aglioというのはカタツムリを茹でてオイル・ニンニク・イタリアンパセリで味付けしたものとあるが、これは残念ながら食べたことはない。

まだあった。
i folpi, le tante varietà di cappe, le seppie, le sardelle e poi ancora gatti e cagnetti, gò, passarini, angusigole, varagni. マダコ、ホタテ各種、イカ、イワシ、そしてナマズやイソギンポ、ハゼ、ヨーロッパヌマガレイ、ヨウジウオ、クモウオ、
これらは茹でたものが各オステリアの店先や道端の行商人のところで売られていたというのだが、こういったいわゆるストリートフードについてはこの後で一章を割いて語られている。現代だとレッサート[茹でたもの]ではなくフリット・ミスト[魚介のフライ]があちこちで売られており、観光客が手にしていたのをよく見かけたものだが、ともあれ今回はこの辺で。