季節の行事について

 

  有る程の芋投げ入れよ鍋の中

 

今や伝説となったラジオドラマ「芋煮会」を聴いて以来、芋煮なるものにいつかは参加したいものだと、この季節が巡ってくる度に考える。東北に知り合いが居ないこともないのだけれど、しかし実際にはなかなか行く機会がない。

里芋を使うという共通点はあれど、それ以外の材料(主に使用する肉の種類)や味付け(味噌か醤油か)に関しては、東北各地方それぞれの地域ナショナリズムに端を発する異常なまでのこだわりがあるらしい。特に山形(牛肉が主)と宮城(豚肉が主)の間の対立は熾烈を極め、越境者が何も考えずに準備に関わって厳正なる鉄の掟に触れた場合、会場となる河原には芋煮用の薪を使った磔台が組み上げられ、咎人は火刑に処されるとかいうこともあったとかなかったとか。

またあるとき、山形県のある女性と宮城県のある男性が恋仲となったのだが、その年の秋のこと、男性の母親から芋煮用の肉を買ってくるように頼まれたその女性が山形の慣習に従い牛肉を、しかもあろうことか米沢牛を買って帰ったということがあった。それを見た宮城の男性の両親は激怒して二人の仲を引き裂いてしまい、故郷へと帰ったその女性は芋煮会用に作られた巨大鍋(通称「鍋太郎」、直径6メートル)の中で煮えたぎる芋煮へと身を投じ、儚き命を絶ったとかいう悲しい恋の物語もあったとかなかったとか。

これまで折に触れ紹介してきたとおり、料理に関する地域間対立はイタリアでもよくある話であるが、イタリアにしても東北にしても、実物を見たことがないが故に種々の風説によって勝手なイメージを膨らませていくのが面白いのであって、『高岳親王航海記』の蟻塚に嵌まった石の如くに、手に取ったら最後、その光を失ってしまうようなものなのかもしれない。東北はヴェネツィアより遙かに近いのであるが、遠きにありて思うもの、としておいた方がよいのであろうか。もっとも、彼の大プリニウスは各地を巡って自分の目であらゆるものを見たうえで、なお荒唐無稽な『博物誌』を著した。実物を見たからといって負けてしまうような想像力ではまだ甘いのだとも思える。

ではそろそろ本題に入ろう。ヴェネツィアの民衆の季節行事としては、二大祝聖記念日、聖マルタとレデントーレというものがあった。エウジェニオ・ムザッティという人によると、「共和国の初期のこと、七月にもっともよく食されるシタビラメの漁に出た人たちは日が落ちる頃に陸に上がり、少し涼しくなった空気の中で一息ついて長い仕事の疲れを癒やした。そして最も外側の岸、つまりサン・ニコロ通りのサンタ・マルタの家[教会]の辺りでその日の獲物を使って質素な酒宴を開くのである。最下層の人々も聖マルタの晩餐(7月29日)に相応しい一張羅を引っ張り出し、sfogio in saorシタビラメのサオールに乾杯するために多くの人々が集まって陽気に騒いだ。木の筏が揚げられたことでザターレ[ザッテレ]といわれた対岸のフォンダメンタとの間を隔てるジュデッカの運河沿いには、美しく飾られ、照らし出されたあらゆる形と大きさの舟が見られた。たとえば甘美な響きが度々流れ出てくる裕福な貴人のpeotaペオータから、シタビラメ漁に使われ、市民家庭の事情から賃貸しされて祭りに姿を見せたtartanaタルターナなど。小枝で飾られ、それぞれの家族の食事のために準備された質素な職人たちのbattelliバッテッロも欠かせない。それは普段から使っている紙提灯でわずかに照らされ、その中では小さなランプが燃えていた。また、宴会の準備をしていなくても、また他にたいした動機がなくても、混み合う舟の間を気の向くままに流していくのが好きだったり、シタビラメを揚げたり伝統的なサオールを用意したりしているカフェや酒場、そして行商人の料理を楽しむ人々で埋め尽くされた岸辺の愉快な光景を楽しむために流していったりする人たちの軽快なgondoletteゴンドレッタもあった。」

シタビラメは一般にsogliolaという。ヴェネツィアではよく見られる魚だが、滞在中は専らグリルで食した。サオールといえばsarde in saorであり、シタビラメのサオールというのは残念ながら覚えがない。聖マルタ教会はヴェネツィアの南西の端、珍しく車道のある区域にあって、カ・フォスカリ大学のサン・セバスティアーノの校舎から近いので授業の帰りに一度だけその大外を歩いたことがある。が、当時は車道近くを歩くことに恐怖を覚えるような状態となっていたので、車のエンジン音を警戒しながら歩いた覚えしかない。

ローマ広場周辺からこの地域にかけては近代まで何らかの工場として使われていたような建物が多い。その工場や倉庫群へと繋がっている線路跡も残っており、それはそれで味があるにしても、一つ一つが大きいうえにのっぺりしているため、ヴェネツィアと聞いて一般に思い出すようなものとは趣が異なる。ただしこの辺りを散歩した日は例のcaigo(霧)が強く出ており、霞んだ景色の中で撮った写真はそれなりにヴェネツィアらしい出来であった。

それはそれとして、聖マルタの祭日というのも知らないのでちょっと検索してみたが、特に何も出てこないようである。日程が近いのでレデントーレに呑み込まれてしまったのであろうか。

ムザッティ氏の記述に戻る。「レデントーレの祭日[七月の第三日曜日]の人出もそれに引けを取るものではない。というのも、サン・マルコ広場からジュデッカのサン・ジョヴァンニまで荘厳な行列が渡っていくこととなる木製の仮設橋を介してそこへ簡単にいくことができ、その祝聖祭日の夜の間、人々はそれを利用して、この島の岸辺や美しい庭園へと散らばり、日中の暑さで疲れた体を癒やすのだった。そこにはまさに、皆で集まって騒ぐために混ざり合い、草の上に横たわったり、簡素な食堂の中に座っていたりする陽気な人々の集まりがあった。彼らは質素な食事のために集い、そこで鶏のローストを味わった。しかし何にもまして、慎みと節度を保ったユーモアと快活なお喋りを楽しんだのだった。ザッテレからジュデッカ島まで、もう一つはサンタ・マリア・デル・ジッリォの渡し場からサルーテ(ザッテレからすぐ)までをつなぐ二つの仮設橋によって、レデントーレの祝聖祭日の宵から当日の夕暮れまでずっと人々の活況は続いた。その島のフォンダメンタ沿い、一キロメートルほどの空間全体にアニス酒の水割、フェンネル、鶏のロースト、フルーツ、フリッテッラ、玩具などを売る人の列が途切れなく見られた。そしてレデントーレ教会のあるサン・ジャコモ広場ではzarese moreザレーゼ・モーレ(赤黒サクランボ)売りが声を切らして叫んでいた。」

仮設橋や物売りに関しては今でも同じようなものがあるが、「慎みと節度を保ったユーモアと快活なお喋り」というのはもう期待できないだろう。ヴェネツィアーニがそれを失ったというのではない。この日はヴェネツィアに観光客が押し寄せる一大イベントなので、どこもかしこも朝から晩まで雑然としているのである。ヴェネツィアを愛する余所者としては申し訳ないというほかない。

この本の編者であるジャンピエロ氏はこう言う。
「1700年代、祝聖祭日の騒ぎの向こうには、彼らの日常生活に即し、フラトーラ[惣菜屋、大衆食堂]やフリトリーノ[フリットやポレンタを売った店]に端を発した庶民の料理があり、それは書物に多く書き残すに値しないほどに単純な料理であった。しかし、恒常的な外来物の流行、味気なく、うわべだけの創造性、即席の安易な調理法の中にありながらも、すでに見たように、現代へと続いて今も人々の味わっているヴェネツィア料理文化の基幹でありつづけるほどに、人々の実生活に即したものであったことを記して締めくくりとしよう。
 それはヴェネツィアーノが日々食べ続けている料理のおかげ、また毎朝早起きして魚市場へ駆けつけ、午後は丸々「curar schie」[スジエビを茹でて]過ごし、彼らの料理が本物かつ貴重なヴェネツィア文化の中心であると考える多くの愛好家たちのおかげである。ガイドブックに載らないこの大多数の人々こそ、かの至上の光輝に満ちた共和国の香り、美味、そして繊細さを今も味わうことのできる人たちなのである。」