ブルジョワの食卓について

ヴェネツィア大学の軒先を借りていた頃のこと、肩書きだけはそれなりに客員研究員というものであったため、日本語学科の建物の三階(イタリア語では二階)、教員の研究室のあるフロアの一角に机を与えられていた。もっとも、図書館の最下層で文献を漁り、必要な物をコピーしたらアパルタメントに帰って訳すという生活の流れがあり、また研究室に行ったところで私以外の人間が居ることも少ないので、安定したWi-Fiを使う用事のあるときだけパソコンを提げていく程度のものであった。

そのときはパソコンの調子が悪くなっていたのだが、サポートの整わないイタリアで初期化をするのもリスクが大きい。仕方がないので久しぶりに日本語学科の建物へパソコンを持ち込み、BIOSの辺りまで手を入れながらあれこれ苦心していた。アップデートや再起動待ちなど、とかくパソコンのメインテナンスは時間のかかるものである。

ところで、日本語学科には当然日本語の本が必要となるわけだが、それは図書館の方ではなく日本語学科の二階と三階に配されていた。東京の某有名私立大学から寄贈されたものが多く目につき、一流どころと付き合いがあるんやったらそらうちらの大学なんぞはのらくら躱されてなかなか相手してもらえんわな、と妙に納得した覚えがある。これは私の待遇の話ではない。では何の話かと問われるとそれは立場上説明しづらい。

ともあれ、待ち時間を潰すのによいものはないかと書架を物色し、『須賀敦子全集』が目に留まったので手に取ってみたのだった。当時は勿論イタリア語の本ばかりに囲まれており、日本の本の手触りや質感に何とはなしの懐かしさと、そして何故か、疎外されるようなのっぺりした感覚を覚えたものである。

さて、なぜ今さらこのようなことを思い出したのか。

この二年ほど勤めていたブラック企業の軛からどうにか逃れ、めでたく中年フリーターへと返り咲いた先日のこと、久しぶりに大きな書店で書棚の間を巡っていたところで『須賀敦子全集』が文庫化されていたのを見つけた。一巻がなかったのでとりあえず二巻を買って帰ったのだが、読み始めたところで、あのときヴェネツィア大学の三階で読んだものと同じ巻であったことに気付く。文の構成順序がイタリア語のものであることが体感的に分かるようになったというのがあのときと比べて多少なりとも進んだところであるが、久しぶりに読んでみたところで、悲しみを書き付けたり、誰かの肩に預けられるのは強さなのだな、とつくづく思った。

私とは時代も立場も異なり、また言語能力についても遙かに及ばないわけだが、ヴェネツィア滞在記を書いてもなぜ私の場合はこのようにエレガンテにいかないのだろうか。なぜイタリアで須賀氏が出会ったのはウンベルト・サバであったのに、私が出会ったのはルイージ・プレットのような阿呆だったのだろう。類は友を呼ぶとでもいうのか。

嘆いてばかりいても仕方がないので本題に入る。ゴルドーニに導かれて18世紀のヴェネツィア料理について見ていくのは今回で一区切りとなる。

カルロ・ゴルドーニはヴェネツィアーニの伝統に則って浮き沈みの大きい人生を送ったが、何もかもすっ飛ばして最後の三十年ほどの期間を過ごしたパリにいた頃、「MÈMOIRES」に記されたこんなエピソードがある。

「マダム、イタリア人にはパンのスープをあげましょうか?」ド・ラ・クリシュ氏は、ジェニオ・イタリコ座での昼食会にともに招かれていた愛らしい貴婦人に向かって言った。「我々の流儀でやりますと、彼に何を出せば良いのでしょう?」「マカロニですよマカロニ、イタリア人はマカロニしか食べないのですよ!」

この引用に続く解説文をとりあえず引く。引用の「」と重なってややこしいことこの上ないが、[]内は断りがない限り私の註である。

ジュゼッペ・マッフィオーリはメモワールのこの場面に注目して次のように言う。「ヴェネツィアを出発する以前、ゴルドーニはおそらくビーゴリ、メヌエーリ、タッリャテッレ、タッリョリーニ、そしてラザーニェを食していた。当時すでにレオナルディの『Apicio Moderno』(1791年出版)によって広く知られていたにせよ、まずトマトスープのパスタは食べていなかった。」加えて、「ヴェネトのパスタは、フェデリーニやタッリャテッレ、または米と同様に使われていた種子類を主にブロードで食していた。炒ったトマトを隠し味程度に使うことはあった。当地のものではなくプーリア起源で、大小のリガトーネのようなものであるスビオーティやスビオティーニがときにインゲン豆のミネストラにも加えられた。陸路よりも海路で運ぶのにより適しており、またすべてのヴェネトの船はバーリやブリンディジの港に寄ることが義務づけられていたので、ナポリのパスタよりはプーリアのパスタの方がより多く話題に上っている。パステ・コンツェ[paste condite味付けパスタ]となるとほぼ常に挙げられるのはラザーニェで、パスティッサーダやストゥファディンのような特定の料理のソースが調味料として用いられる。しかしヴェネトの人々にとって常に最上位にあるのはビーゴリである。ビーゴリと言えば全粒粉を使った茶色いものであるが、精白した粉をベースとしたより大きくどっしりとしたもの、またはヴィチェンツァのレシピのように卵を使ったもの、カモのラグーを使ったものもある。ともあれこれは特別な料理で、日常的に作るものではなかった。」

……料理の本であるのは承知しているが、それでもツッコむのはそこではなかろう。イタリア人が「マカロニ食い」と馬鹿にされているのは放っておいていいのか。ゴルドーニはマカロニを食べていないから的外れだというのはどこへ向けた反論だというのだ。

まあ、イタリア人が気にしていないならそれでよい。さて、当時のヴェネツィアのそこそこの家庭の料理は「LA CAMERIERA BRILLANTE」でブリゲッラという登場人物がその主人の食事について語るところに見られる。

「粗布の上に、普段どおりの米やパスタのミネストラ……雄鶏と雄牛肉。子牛肉のロースト一つとオゼレーティ[ucceletti小型の鶏を焙ったもの]二つ……次の料理、これはストゥファディン、あるいはポルペッテ四つかムール貝のようなもの、そしていくらかのチーズ、フルーツ……しかしタルトはない、パイもない、野生の獲物もない……」

そしてもうちょっとましなブルジョワの家については「UNA DELLE ULTIME SERE DI CARNOVALE」で描かれている。以下はドメニカが午後五時の夕食を準備するところである。

「raffioiラヴィオリのソースを作る手伝いをして、深鍋でシチューを作って、そしてそこにムール貝も入れたいわね、鶏肉をきれいにして、シチメンチョウの詰め物を作って、ポルペッテも捏ねとかないとね。ワインの用意も……」

大概の料理は現在でもそのままであるが、小鳥の串焼きあるいは鉄板焼きだけは郷土料理とたいして関係がないというので、あいにく今となっては珍しいものとなっているそうな。

もうひとつ、「LE MASSERE」の中にこのような対話がある。

ドロテア   料理は得意?

メネギーナ  メンドリの煮込み、ロースト、giustar
       [aggiustareの関連語と思われるが未詳]
       リージもできるし、ちょっと危なっかしいけど
       必要ならおいしいソースも作れるし。

ドロテア   私はてんで駄目、お祭りごとに
       もう一皿お肉は出すけど、それでおわり。
       お腹がふくれれば十分よ。何であなたはそんなにできるのよ?
       節約しないと今にどん底行きよ。

この最後の「節約しないと今にどん底行きよ」という台詞は当時の貴族階級に向けた警鐘であると解説されているのだが、イタリア人のツッコミのセンスにはどうも違和感を拭えない。表面的にはどう考えても料理ができないドロテアの負け惜しみとしか聞こえないのだがどうか。

この後は当時ヴェネツィアに押し寄せていたフランス料理に対し、「マカロニ食い」が罵詈雑言を投げつけながらの解説が続くのだが既出のものが中心なので省略。salsaソースに関するところだけちょっと見ておきたい。これもトレヴィーゾの大美食家とされるマッフィオーリの解説に拠る。

「もちろんフランスの流行は共和国でも見受けられる。ヴェネツィアのトラットリアの主人たちは最近フリカンドやフラカッセを勧めてくるが、それはつまるところソース仕立てのスペッツァティーノと、子牛、子羊、ニワトリを下ごしらえして一口大にしたものを煮込み、卵黄を入れて和えたもののことで、多くの煮込み料理とロースト料理、フリットとシチューの中の一つでしかない。」

ヴェネツィアでは「ボイル料理にソースが添えられる。イタリアにはpavarà[pepe]からいわゆるグリーンソースまで多くの伝統的なヴァリエーションがあり、またcren[ホースラディッシュ・セイヨウワサビ]、パンの柔らかい部分、野菜や固茹で卵、イワシ、tarantello[マグロ系の魚と思われるが未詳]、マグロに合わせて供された。それでも、ヴェネトの人々は常に出された食材がごてごて飾られずにきちんと見えるのを好み、ソースは肉全体を覆うのではなく肉の傍らに少量で控え目にしていたのであって、肉であろうと魚であろうと少量のコショウにオイル、ニンニク、イタリアンパセリをベースとした最も古めかしいソースが常に好まれていたというのが事実である。」

この辺りは始末屋のヴェネツィアーニのイメージに沿うものであった。

さて、そしてこの時代を解説していて外すことのできないのが「カフェ」である。店の名前や歴史については他所でいくらでも解説されているが、当時のメニューについて詳しく書いてあったので挙げておこう。

1683年のヴェネツィア、プロクラティエ・ヌオーヴェにAll'araboという看板を掲げた最初のカフェがその扉を開き、また1689年にシチリア人のプロコピオという人物が監修し、そこから名を取ってProcopeと名付けられたヨーロッパ最初の近代的カフェがコメディ・フランセーズの前に開店したと考えられているその時から、実質的にヨーロッパを通して新たな時代が始まった。

すぐにヴェネツィアでは多くのカフェが店を開き、サン・マルコ広場には一時35軒もの店があったと見られている。これらの店内ではコーヒーに加え「氷水、あるいは清涼飲料(orzate[アーモンドフラッペ]やリモナータのようなもの)、カップ入りチョコレート、ロゾリオ(ヴェネツィアで作られたリキュール)、papine(ミルクや様々な材料を使ったシャーベット)baicoli, bussoladi, bigné[シュークリーム]にフリトーレが供された。客を呼ぶためにmandorle confettate[糖衣で覆ったアーモンド]、ビスコッティーニ、一服のタバコ、これが一杯のコーヒー込みで締めて4ソルディ(1723年当時)で提供されるようになった。」とマランゴーニが書いている。

……ロゾリオというのは現在のアペロルやカンパリのようなものではないかと思う。バイコーリやブッソーラは今はヴェネツィア中のスーパーでも売っている。小さなシュークリームも思い返してみると大学の近くのパスティッチェリアで食べたような気が。ともあれ話を戻す。

加えて「1720年12月29日は、イタリアのみならずヨーロッパのカフェの年代記・歴史上最も大事な日として記録されている。サンマルコ広場、プロクラティエ・ヌオーヴェにカフェAlla Venezia Trionfanteが開店したのだ。それはすぐに所有者の名前(フローリアン、あるいはフロリアーノ・フランチェスコーニ)にちなんでFlorianと名を変え、最上級の貴族階級の客が通うようになって、あっという間に最も知られた旅行ガイドにおいて注目と評判を集め、好評となった。

フローリアンの行く手では、1723年(やはりプロクラティエ・ヌオーヴェ)にAuroraという看板を掲げたカフェが開店したが、これもヴェネツィアで最も輝かしく豪華なカフェの一つと考えられている。Quadriという、1700年代の終わりにジョルジョ・クアドリ(コルフ島出身)が開いた店(サン・マルコ広場のプロクラティエ・ヴェッキエ)も同様に記録に残されており、それらの店ではヴェネツィアーニが何よりもsemada[原註:メロンの種、アーモンド、砂糖のジュースをベースとした飲み物]、そして初めてトルコ風に淹れられたコーヒーを味わった。Orso coronato(現在のLavena)にはcodega[原註:広場のポーター]が通い、Chioggiaは船員のたまり場となり、Martiniはジュスティニアーニ劇場[未詳]の俳優、その後フェニーチェの俳優が常連となった。」

これらの店は1700年代のヴェネツィアの文化を少なからず特徴付けたが、古い伝統を逼塞させたわけではなく、実際のところ人々はグラスに入ったワインを飲み続け、「magazeni」に通った。アルヴィーゼ・ゾルズィが記録するところに拠ると「そこは抵当を預かって貸しにもしてくれるところで、bastioniという下層階級向けのオステリア、さらにmalvasieと同様にヴェネツィアの多くの地名に跡を残し、そこへはギリシャやキプロスのワインが一杯ほしいという貴族たちも通ったのだった。」

ワインに関しては「Enoteche」という作品中、「素晴らしきピエトロ・コンタリーニ氏と麗しきマリーナ・ヴェニエル婦人との間の幸福に包まれた結婚式に際して」詠まれた滑稽な短詩の中で以下のように描かれている。ヴェネツィア語の詩であるから例の如く豪傑訳となることをお断りしておく。特にドイツ人のところが今一つの出来である。

 グラスがブルゴーニュのワインで満たされると
 すぐにフランス人は賛歌を歌い出す
 ライン川流域のワインとともにドイツ人は
 私の後に続こうと並び出す
 さらにスペイン人がその後に続き
 スペインのティントを飲んで活気づく
 イギリス人はパンチの甕を抱えて飲む
 フリウリ人はピコリットを、ペルシア人はキプロスを
 「我らの酒をジョッキに入れてここへ持て」
 (麗しきヴェネツィア人が笑いながら言う)
 しかし上質なものがまったくなくて
 ブルゴーニュやアリカンテのほうを飲んだがまし
 パドヴァ人やヴィチェンツァ人たちは
 Ponente西方やLevante東方のがお気に入り
 遠くのものをありがたがるのも分かるが
 私は我らの酒を呑むのが一番だ