死んだ男について

以前買ってきてもらったヴェネツィア語の辞書にはまとまった文法解説があって、これがなければ何も始められなかった。また、ヴェネツィア語を読もうとする人間にとって聖典とも言える、Boerioという人が作った辞書があるのだけれども、それがいつの間にかGoogle Booksで検索を掛けて読めるようになっていたのにも非常に助けられている。

今の日本に何人いるのだか分からないけれども、このBoerioの辞書を始めとして、古いヴェネツィア語の辞書がいくつもネット上で使えるというのはヴェネツィア語の研究者にとっては夢のような状態であろう。とはいえこれで喜ぶのは私の知る限り、京都のほうの大学にいらっしゃる中東史の先生くらいのものである。そういえばお元気でいらっしゃるのであろうか。

このように環境は整っているのだが、ゴルドーニの本は切りのいいところまで訳せたのでしばらく寝かせることとする。この先はゴルドーニの戯曲に沿って料理を見ていく章となっているのだが、ヴェネツィア語にもだいぶ慣れてきたとはいえ、端からすべて自分で訳すのはあまりにも効率が悪い。すでにゴルドーニの喜劇にいくつもの邦訳があるということはつまり、ネットが発達する前から苦労してヴェネツィア語を研究してきた人たちがいるということである。ここでその偉大な先達に敬意を払ってその研究成果に全面的に頼りたいところなのではあるけれども、無職の私には趣味の本を購う金がない。図書館に通う時間的な余裕はないこともないのだが、そこまでの精神的な余裕はない。

ということで、以前一つだけ訳した(黄金の果実について - 水都空談)ヴェネツィアの民話の本を久しぶりに開いてみたのである。

ところで、私はこの3月までひたすら日曜日のない暮らしを続けていたのだが、その日曜日は休日出勤とする代わりに、取れるはずもない振替休日を付与して目の前の人件費を抑える、という処理が行われていた。そしてそれについては退職時に清算するという話をそこそこ責任のある人から聞いていたのである。しかしいざ辞めてみたところで40日近くまで積み上がったそれがすべて踏み倒される、つまりは2ヶ月分に近い労働の対価を丸ごと無かったことにされるという扱いを受けたのだった。

さすがにこれには力が抜けて、これでは次の仕事を見つけるまで持たんな、と考えていたところで目についたのが、件の民話の本の「L'OMO MORTO」、omoは標準イタリア語のuomoであるのでつまり「死んだも同然の男」というタイトルであった。時宜を得たりとはこのことである。訳してお目にかけよう。

 

L'OMO MORTO

あるところに王様がありまして、その王には一人の娘がおりました。さてある日のこと、その娘は侍女たちとバルコニーにおりました。その時一人の老婆が通りがかり、このように言います。「お嬢様、私めにお慈悲を。何かくださいませ。」「ええいいわよ。」と娘は言い、鐚銭を下へ放り投げてやりました。老婆は言います。「お嬢様、これでは少なくて…もうちょっとくださいませ。」そこで彼女はさらに小銭を投げてやりました。老婆はもう一度言います。「お嬢様、もう少しくださいませ。」そこでこの王女は言いました。「何が言いたいというの、面倒な奴ね。二度もやったじゃない。これ以上はやれないわ。」すると老婆はこの娘の方を向いて言いました。「ではもう何も言うまい。天に誓い、おまえはもう、死んだ男を見つけないかぎり結婚することができないのだ。」

この娘はバルコニーの中へ入り、悲嘆のあまり倒れて泣き出してしまいました。彼女の父がそれを見つけて何を泣いているのかと尋ねますと、彼女は老婆が「死んだ男を見つけないかぎり結婚することができない」と言ったことを伝えます。父は答えました。「おろかなことを、そういうことには気をつけなければ!」彼女は言います。「もう二度とあんなことはしないわ、でもなるようになるわよ、私はその人を見つけに行きたいの。」「おまえが望むようにすればいいのだけれども」父は言います。「おまえがいなくなってしまうと思うと…」と、父は泣き出しましたが、彼女はそれを気にすることなく、立ち上がって出て行ってしまいました。

彼女は何日も道を行き、ある夜、すべて大理石で作られたパラッツォにたどり着きます。入口が開いているのを見て彼女は中へ入り、階上へ進みました。夜だったので何もかもよく見えません。彼女は尋ねました。「誰かいませんか?」―誰も答えません。キッチンへ進むと、ブリキ鍋の中でお肉が煮えています。食器棚を開け、中に入っているものを見て彼女は言いました。「ここには誰かいるみたいね。」そして何日も旅をしてお腹が空いていたので、彼女は食事を始めました。食事の後、ある部屋の扉を開けると、ベッドがあります。「明日になるまで寝ましょう、それから何が起こるか様子を見ることにするわ。」―翌日、彼女は起き出すとパラッツォを見て回ります。すべての部屋を開け、終いに、美しい男が死んだように横たわり、その足の傍に大きなカードのある部屋を見つけました。そこにはこう書いてあります。「一年三ヶ月と一週間、付き添って世話をした者はその最愛の伴侶となるであろう」彼女は言いました。「やっと探していた人を見つけたわ。こうなったら昼も夜もここにいなきゃ。」実際、その後彼女は食事などの用事以外では片時もその場を離れませんでした。

彼女はずっと一人で死んだ男の世話をしながら、一年が経ちました。そんなある日、運河から呼び声が聞こえます。「奴隷はいらんかー召使いはいらんか。」彼女は言いました。「まあ、下へ行ってせめて一人はお手伝いを買わないと。疲れてこれ以上はどうにもできないし、少しは休まないとね。」そこで彼女はバルコニーへ出て奴隷たちを呼び、一人の女奴隷を買いました。そして常に傍に置いておきました。

さらに三ヶ月間お世話を続けたところで、疲れてしまった娘は例の奴隷に言いました。「いいこと、これから寝るので三日間はそのままにしておいて。四日目になったら起こしてね。それまでは呼んだり起こしたりしないでちょうだい、頼んだわよ。」女奴隷は言いました。「静かにして、起こしたりは致しません。」娘は横になり、女奴隷を昼夜死んだ男の傍に置いておきました。

三日経ち、四日目になりました。お世話が終わるまではあと一日です。娘はずっと寝ています。女奴隷は言いました。「彼女を起こす頃合いだけど、起こしてやらないわ!寝かせたままにしてやるのよ。」

お世話の終わる瞬間が来ましたが、女奴隷は彼女の主人をまだ寝かせたままにしておきました。そうしている間に時が過ぎ、かの男は起き上がると、女奴隷を見て抱き寄せ、こう言いました。「ああ、おまえが私の妻となるのか。」その瞬間、魔力が解けて、パラッツォ全体が目覚めます。使用人、給仕、侍女たちなど、多くの人が起き出してきました。

かの娘は多くの人々がざわめくのを聞き、起き上がって嘆きました。「ああ、なんてこと!…あの女狐は私を起こさなかったのね、私の運命ももう終わり、もうチャンスはないわ!」

かの死んだ男は王様であり、偉大な領主でした。この王は女奴隷に言います。「おまえがずっと一人で世話をしてくれたのか。」彼女はなんと答えたでしょう?「一人の女に手伝ってもらいました。一日のうち少しだけで、でもいつも寝ていました。」王は聞きます。「その人は今どこにいる?」彼女は答えました。「彼女の部屋で寝ています。いつもどおりに。」

王はこの女奴隷と結婚することにしました。

王女となるべき女奴隷は華やかで金の刺繍をした衣装を身につけましたが、元が卑しいので何一つ似合いません。八日間にわたるパレードと、結婚式へ向けた大きな宴が開かれることになりました。その宴の後で、王は家来たちすべてをtola bianca[tavola bianca、結婚式の前に新居で行われる軽食会]でねぎらいたいと考えます。そこで王は婚約者に、彼女をずっと手伝ってくれていた召使いも来させるように、と言いました。彼女は、あの人はずっと寝ていて来ないだろうから呼ばない、と答えます。その一方で、かの娘は一日余計に寝ていたばかりに幸運を逃したことをずっと嘆いていました。

八日間のパレードの後に王はその治める土地の様子を見に行くことにし、出かける度に家来に贈り物を手に入れてこようと考えて、次のように婚約者に言いました。「おまえの召使いも呼ぶように。彼女にも何かやりたいので、何が欲しいのか聞きたいのだ。」家来たちと、あの召使いが呼ばれました。ある人はネッカチーフ、次の人は洋服、またある人はズボン、そのまたある人は礼服。彼は忘れないようにすべて紙に書き付けていきます。そして女奴隷の召使いの番がやってきました。彼女はとても若くて美しい女性であり、優美で綺麗な話し方をしています。彼女が好ましかったので、王は彼女のことが気に入りました。そしてこう言います。「美しい人よ、何なりと欲しいものを言いなさい。」そこで彼女は「火打金と黒いろうそく、そしてナイフをくださいましたら幸いに存じます。」と答えました。王は彼女が望んだ三つの品に驚きましたが「よしよし、忘れずに持ってきてやるので安心するとよい。」と言いました。

こうして王は出かけました。しなければならないことを済ませ、すべて終わったところで家来たちのための買い物をします。ネッカチーフ、礼服、洋服、ズボンなど、すべてのものを手に入れ、家へ帰ろうと商船に戻りました。ところが、彼の船は前にも後ろにも動こうとしません。そのとき船員たちが言いました。「王陛下、何かお忘れなのでは?」彼は答えます。「いや、何一つ忘れてはいない。」そして彼がメモを見直すと、婚約者の召使いが言っていた三つの品を忘れていたことに気付いたのでした。すぐに彼は陸に上がり、まっすぐにとある店へ入って、例の三つの品が欲しいと言います。店の人たちはこう答えました。「これらのものをどなたにお贈りになるのか伺ってもよろしいでしょうか。」彼は自分の召使いにやるのだと答えます。「よろしい」と彼らは答えました。「お戻りになっても何も渡してはいけません。彼女を三日間待たせ、その三日の後にその召使いの部屋へ行って『水を一杯くれ』と仰ってください。それから彼女にこの三つの品を与えます。タンスの上に置いて、それからあなたはベッドの下かテラスに隠れてください。そして彼女がすることを見張るのです。」「分かった。」と王は言いました。そしてお金を払い、店を出ました。

家へ帰るやいなや、家来たちがみな出迎えに駆けつけてきました。王はそれぞれに約束の贈り物を与えます。最後にあの娘がやってきて、例の三つの品が手に入ったかと尋ねます。王は言いました。「やれやれ、せっかちな!…ああ、手に入れてきた、そのうち与えるとも。」すると彼女は部屋へ戻って泣き出してしまいました。そして独りごちます。「別にあの方が何もくれなくてもいいのよ。」次の日が来て、彼女はまた贈り物について尋ねます。王もまた言いました。「おまえは本当にせっかちな!…取らせるとも、もちろん。」さらに二日経ってから、王は娘の部屋へ行ってこう言いました。「さあ、おまえの品を与えよう。しかしまずは水を一杯持ってきてくれ。喉が渇いた。」彼女はお水を取りに行きました。すると彼はすぐに三つの品をタンスの上に置き、そしてベッドの下に隠れました。さて、彼女は戻ってきましたが、王の姿が見えません。彼女は言いました。「まあ、あの方は今日もまた何もくださらないの。」彼女は水の入ったカップをタンスの上に置くと、例の品が置いてあるのに気付きました。彼女は飛びあがって喜ぶとドアに大きな掛け金を掛けて衣服を脱ぎ、打ち金を打って黒いろうそくに火を灯すとテーブルの上に置きました。そしてナイフを取ってテーブルの上に突き刺し、ナイフの前に身一つで跪いて言いました。「おまえは私がまだ、王である我が父君の家にいた時、老婆が私に向かって、死んだ男を見つけなければ結婚できないと言ったことを覚えているか?」ナイフは答えます。「はい、覚えております。」「おまえは私が外の世界に出てパラッツォを見つけ、そこで死んだ男を見つけたことを覚えているか?」そのナイフは答えます。「はい、覚えております。」そして「私が一年と三ヶ月付き添いの世話をした頃、手伝いのためにあの忌々しい女奴隷を手に入れ、疲れていたので三日間寝かせてくれと私が言ったこと、ところが彼女が丸々一週間私を寝かせたままにしておいたこと、そしてかの死んだ男が目覚めた時、彼女が抱きついて、彼があの女を婚約者としたことは?」ナイフは答えます。「あいにくのことながら覚えております。」「良心に従い、幸運を得るべきなのは…? 一年と三ヶ月苦労した私であるか、それともほんの数日そこにいたあの女であるか?」ナイフは答えました。「あなたです。」そして彼女は言いました。「おまえがそのことを分かっていて、幸運は私のものとなるべきであったというのが確かなら、テーブルを離れて私の胸を刺せ。」ナイフが抜ける音を聞き、王はベッドの下から飛び出して娘を抱きしめました。彼は言います。「すべて聞いていた、おまえこそが私の伴侶だ! 今は気を落ち着けてこの部屋にいなさい、私に考えがある。」

そして王は女奴隷のところへ行って言いました。「やっと旅が終わった。パレードをしよう。」「まあ、あまり無駄遣いはしないでね。」と彼女は言いました。彼は旅行をする度にいつも使い込むというのです。

ようやくパレードが行われ、その後で宴が行われます。王は女奴隷に言いました。「家来たちを皆tola biancaに呼びたい。おまえの召使いにも来て欲しいので呼んでくれないか。」女奴隷は言います。「まあ、放っておいてくださいな、あんなヒキガエル[無愛想な人]!」王は「そうか、おまえが呼びに行かないのなら私が行こう。」と言います。仕方ないので彼女が行って呼んできました。かの娘は涙ぐみながら食卓に着きます。何もかも分かっているのでした。

宴が終わった後、皆が話を終えて、王の番がやってきました。王は言います。「私の友人が生まれた、ある王の治める街で起きたことだ。ある若い娘が一年と三ヶ月の間付き添いの世話をした。その一年と三ヶ月の後、彼女は手伝いのために一人の女奴隷を手に入れる。その娘は疲れていたので眠ろうとして、奴隷に向かって、三日間だけ彼女を寝かせて、その後起こすようにと言った。ところがその奴隷は彼女を起こすどころか、一週間も寝かせっぱなしにしたのだ。こうして死んだ男が目覚めた時、彼は女奴隷が世話をしてくれたのだと思い、その娘ではなく女奴隷を婚約者としたのだ。だが今、おまえたちに問いたい。王の婚約者とすべきなのは、一週間だけの女か、それとも一年と三ヶ月世話をした女か?」そこで皆は答えました。「一年と三ヶ月の人です。」王は言います。「よし、皆の者、この人が一年と三ヶ月付き添ってくれた人だ。そしてこいつは彼女が買った女奴隷だ。では主人を押しのけたこの醜い黒人女に死を与えるよう、皆に命ずる。」皆がその言葉に従い、彼女は広場の真ん中に引き出され、瀝青の樽の上で火刑に処されました。

そうして、この王と婚約者となった若い娘はずっと幸せに、満足して暮らしました。もう何も言うことはありません。


……さて、岸辺に建つ大理石のパラッツォや運河をやってくる奴隷商人、火刑に使う瀝青の樽(船の建造には欠かせない材料であった)など、ヴェネツィアらしい舞台装置がある一方で、何故この父娘は老婆の呪いの言葉を頭から信じているのか、また父王が意外に人格者なのはどういう必然性があるのかというふうに、突っ込みどころは数多ある。tavola biancaという習慣も知らなかったし、結婚祝賀パレードと買物旅行の前後関係についても最後まで腑に落ちないところがあるのだが、まずはこの物語のヒロインについてである。

たしかに冒頭の物乞いに対する彼女の態度は褒められたものではないだろうが、時代と場所を考えれば格別ひどいものとは言えないだろう。が、何を措いてもこの娘はあまりに強すぎないか。「呪いを受けて悲嘆にくれる→現状を受け入れて開き直る→課題を果たすと決意し、父が泣くのを無視して出発する」までの切り替えの早さについては、読む者に違和感と戸惑いを感じさせる間もないほどの疾走感がある。これくらいのメンタリティの強さと行動力がなければヴェネツィアでは生き残れないということなのだろうか。

後半の贈り物の場面については、王が部屋の中に隠れるためには他の家来たちと同じように渡すわけにいかないというのは理解できる。が、だからといって三日も待たせる理由がよく分からない。三という数字は要所で使われているけれども、何にせよこのように理不尽な放置プレイにもじっと耐えるところが涙ぐましい。これだけ強い人が自決寸前まで追い込まれるという展開にはそこはかとなく共感するものがある。

ところで、何を今さらという感もあるが、ナイフが喋り出すというのはいかにも荒唐無稽である。corteloというヴェネツィア語はその筋の辞書を引くとcoltelloと出るのでナイフで間違いはないのだが、corteloと似たような綴りの単語を探してみるとcorteggioという筋も無いことは無い(ただし標準イタリア語の[g]は大概ヴェネツィア語で[z]に転訛するので、あまりいい筋とは言えない)ので、一時は「従者」という可能性も考えた。そうすると会話ができたところで何の問題もないのだが、そうはいっても「従者」をタンスの上に置いたり、それを取り上げてテーブルの上に置けるはずはないし、人間であったなら王がベッドの下に隠れるのを見ていることになってしまうので、また違うところで筋が通らなくなる。

最後の自決寸前の場面を訳していてナイフということに落ちついたが、それでも喋るのは何故かという問題にうまいこと筋を通してくれたのが「黒いろうそく」である。これは黒魔術を行う際の道具であって、ナイフはつまり魔術の依り代である。衣服を脱いだ(原文に従えば一応シャツ一枚だけは着ている)のも儀式のための潔斎だろう。だからこそこれを売った店の人は「こんなものを欲しがる人間のすることはしっかり監視しておけ」と王に対して忠告したのであった。

この「黒いろうそく」については日本語で検索しても出てくるが、イタリア語で検索すると本気のサイトがいくつも出てくる。昔ながらの考え方を大事にするというか、イタリア人がどこかで近代化を拒絶しているふうなのは一年足らずの生活の中でも折に触れて感じられたことだが、このように普段はあまり感じられない世界観の「壁」がふとした時に見えると、いつもイタリアをオモチャにしている私にも滅多に笑わないイタリア人の目が思い出されて、冷や水を浴びせられたような気分になる。

あと、schiavaは現代の感覚では「奴隷」というより「下僕」というくらいのほうが近いような気がするのだが、これまでヴェネツィアについて読んだ本の中ではこの単語は常に「奴隷」だったのでそれで通した。最後の「黒人女」もど真ん中の剛速球だが、いわゆる「時代背景と作品の価値を鑑み(以下省略)」ということで加減はしていない。