キ〇チガイについて

どうも聞いていた話と違う。ヴェネツィアはここのところ気温が30度前後まで上がる日が続いている。航空券を手配してくれた会社(長期出張などに対応したオープンチケットを扱う会社で、耳慣れないところである)から貰った資料にはヴェネツィアの6月の平均気温は25度とあるのだけれども、それでも何年前だったか、ヨーロッパでは熱波の影響で多くの死者が出たというニュースを聞いたような気もするし、最近ではもう地球上のどこにいても気候は安定しないということか。乾燥している分だけ過ごしやすいのは相変わらずであるからまあよいだろう。

おかげで食が細くなった。暑いから体調を崩しているというのではなく、ワンルームのアパルタメントで火を使うと覿面に室温が上がるので、どうしても食事を軽く済ませがちになったのである。昼間っからワインを飲まなければ暑くならないのではないかという意見もあろうし、それはそれで理に適っているとは思うけれどもここでは採らない。

こういう食生活に対応するためにヴェネト州(ヴェネツィアはその州都)にも肉の保存食が沢山ある。ヴェネツィアといえば魚をイメージされるだろうが、アルプスが近いので実はそっちの食材もバラエティーに富んでいるのだ。するとルーコラとブレザーオラとパン(とワイン)を用意すれば食事が済む。ちょっと物足りないかと思ったら、食後のエスプレッソに砂糖を多めに入れて飲めばよい。

スーパーで観察していてもパスタを買っている人をあまり見ないので、ステレオタイプなイメージと違うなと思っていたらそういうことであった。もうパスタを茹でるのも嫌だというのだ。ただしこれでは日本の夏に素麺ばかり食しているようなものである。ちょっと気合いを入れ直さなければいけないかと考えて、サン・マルコの方の本屋でヴェネツィア料理の本を二冊ほど買ってきた。

一冊目、アンティパストの最初の項に掲げられていたのはCicchetti、つまり酒のレシピである。それを見て、なるほどそういうことかと手を打った。

先日とあるカンティーナで飲んでいたとき、他の客が飲んでいるオレンジ色の液体を指して、同行していた方(日本人)がスピリッツだと教えてくれた。なんだかよく分からないがこの辺の人はアペリティーヴォから飛ばしていくのだな、と思ったらこれがとんでもない聞き違いだったのである。その酒はスピリッツではなくスプリッツであった。またそれは某大リーグの投手が肘を痛めた原因となったそれとも綴りが違う。意識していないと未だにLとRが聞き分けられないのは情けない限りであるがそれは措くとして、まずはレシピをお目に掛けるとしよう。

Spritz Aperol veneziano
(グラス一杯分の材料)
○プロゼッコ…3分の2杯分 ○アペロル…3分の1杯分 ○セルツァ(炭酸水)…1しぶき(後述) ○熟したオレンジのスライス…半分 ○氷

(作り方)
○酒杯にグラス半分程度の氷を入れる。
○プロゼッコを注ぎ、セルツァを一飛沫加える。最後にアペロルを注ぐ。全体の量はお好みで。大事なのはプロゼッコとアペロルを2:1にすること。
○慎重に混ぜ、オレンジスライスをのせて出す。

そして用語解説には次のようにあった。

“スプリッツ…白ワイン(一般的にはプロゼッコ)と、炭酸水あるいはセルツァをベースとした食前酒で、そこに好みによってアペロル、カンパリ、Select、あるいはCynerを加える。その名は、ハプスブルク家の統治時代、オーストリアの兵士達が高いアルコール度数を弱めるためにその土地のワインを水飛沫(spruzzo)で薄めたという出来事に由来するらしい(ドイツ語のspritzenからきたもので、これはspruzzareを意味する)。”

ワインを水で薄めたという話は古代ローマ時代からあるし、その製法も時代や地域によって違うだろうからこれも分からない話ではないのだが、どうもこの由来話は作りごとめいている。ともあれ、これにちなんでレシピではセルツァの分量を「一飛沫」と書いているのであるが、実際はアペロルの半分くらいの量が目安となるようである。また、このレシピで想定されているグラス(calice)はいわゆるゴブレットで、日本ではちょっといい店でビールを頼んだときに見かけるようなものなのだが、実際に街中で庶民が手にしているのは普通の脚のないグラス(bicchiere)である。そして氷を入れて飲んでいるのも今のところ見かけない。これからの季節は入れて貰うように頼んでもよいかもしれないが。

思い返せば何度も見ているような気もするし、ただ「スプリッツ」と頼めばこれがでてくるらしいので、ここいらでは「とりあえずビール」ならぬ「とりあえずスプリッツ」なのだろう。そういえば大学の近くで「水を節約しろ、スプリッツを飲め」という意味の言葉が大書されたTシャツが売られていたのを思い出した。

それはそうと、アペロル(アクセントの位置が今ひとつ分からん)とかいうものは日本でも手に入るのだろうか。Seltzという炭酸水は聞いたことがあるような気もするが、SelectとCynerというものの正体も分からない。ここにいるととりあえずネットで検索、ということができないのだがそれにも慣れてしまった。

ここ最近は部屋にこもってカルヴィーノのレトリカルな文章と格闘していたところだったので、こういう素直な本を訳すのは息抜きになって良いものである。

ということでもう一冊の方を開いてみてまた感心した。これもヴェネツィアの郷土料理、さらに魚介類を使った料理に限った本なのだが、それでもとんでもない量のレシピが並べられている。価格が€5もしない安物なので仕方がないのだが、写真は所々にしかない。まるで気が違ったかのようにレシピの詰め込まれたページを繰っていると、ここは確かに『博物誌』を生み出した国だな、と思い知らされた。その一端だけでも窺えるように、使われている食材だけでも抜き出して並べてみよう。ものによって単数形と複数形が混在しているが、複数形でしか使わないものがあったりするのを確認するのが手間なので御容赦を。

Acciugheアンチョビ、カタクチイワシ、Agugliaダツ、Aliciアンチョビ(保存用にオイル漬けにしたもの)、Anguillaウナギ、Aragostaイセエビ、Aringaニシン、Asticeオマールエビ、Avannottoマスの幼魚、Bogaタイの一種、Bottargaからすみ、Branzino(Spigola)スズキ、Calamaroヤリイカ、Cannolicchiマテ貝、Canocchieシャコ、Caponeカサゴ、Cappesanteよく分からないが貝の一種、Cefaloボラ、Cerniaハタ、Cheppiaニシン科の魚、Chioccioleカタツムリを意味する言葉だがここでは巻き貝の一種、Cocciole不明、Coda di rospo(Rana pescatrice)アンコウ、Denticeヨーロッパキダイ、Donzellaニジベラ、Gamberettoシバエビ、Gamberoザリガニ、Gamberoneクルマエビ、Ghiozzoハゼ、Grancevoleクモガニ、Lampugaシイラ、Luccioカワカマス、Merluzzoタラ、Mitiloムール貝、Mormoraタイの一種、Moscardinoジャコウダコ、Naselloメルルーサ(タラ科)、Ombrinaニベ、Orataチヌ、クロダイ、Pagroマダイ、Palomboホシザメ、Passere di mareツノガレイ、Peocioイガイ、Pesce spadaメカジキ、Razzaエイ、Ricciolaニシカンパチ、コルビナ、Romboヒラメ、Rossettoヘダイ、Sampietroマトウダイ、Saragoアフリカチヌ、Sardelle(Sarde Sardina)イワシ、Scampiアカザエビ、Scorfanoフサカサゴ、Seppiaコウイカ、モンゴウイカ、Sgombroサバ、Sogliolaシタビラメ、Spinaroloツノザメ、Stoccafisso干鱈、Storioneチョウザメ、Tonnoマグロ、Tracinaトラキヌス、Trigliaヒメジ、メバル、Vongoleアサリ

私が研究対象として追っている人々は、日本人の方もイタリア人(というよりローマ人)の方もこういう網羅的な本を拾い読みするのが好きな人であった。しかし私は人が取っ散らかしたものを後を追って片付けていく性分なので、こういう類のものは端からきっちり訳していかなければ気が済まない。翻訳作業は本業の合間に順を追って進めていくつもりではあるが、もし、セコンドピアットで何か面白いレシピを訳せとか、この食材を使った料理を教えろとかいうご要望があれば個別に伺う。

クモガニとボラについてはプリニウスも書いていたような気がするので、ここにいるうちに一度お目にかかりたいものである。旬はいつ頃になるのだろうか。