近代化について

ブログのコメント欄を使えるようにせよとの要請があった。そのメールで用事を済ませてくれればいいものをと思ったが、私の育ったゼミには「士農工商・犬・後輩」の仮借なき序列がある。そのゼミの先輩の言うことなので仕方なく使えるようにはするが、こちらからの返事は期待しないでほしい。パソコンをネットにつなぐのは一太郎で書いた原稿をアップするときの数分間のみであるし、携帯も基本的にメールと天気をチェックするときにしか使わない。したがってコメントを管理する余裕もないので野放しにする。どんなコメントが付いていても私は知らない。

せっかく人が近代文明から隔絶された不自由な環境を楽しんでいるのに、と振り返って、あらためて変わったものだと思う。まず、日本では毎日のように乗っていた車がない。おかげで昼間から飲んだくれていられるわけであるが、以前も書いたように小さな舟の外付けエンジンはかなりの割合で日本のメーカーのものである。開け放していても無音に近い大学の研究室にいるとき、たまに舟が通ると妙に懐かしい音だったりして、今のは間違いなくYAMAHAだ、と思うこともある。

買い物も日本と同じようにはいかない。前回の記事を書く過程で魚の名前を大分覚えたので、先日またリアルトの魚市場へ行ってみた。歩いて三分もかからない場所なので何度も足を運んではいるが、実をいうとまだここで買い物をしたことはない。

何故かというと、売っているものがどれも大きいのだ。だいたいの魚は丸ごと置いてあり、切り分けられているものといったら巨大な鮭をただ輪切りにしたものくらいである。あれでも二十人分くらいにはなるのではないだろうか。魚一匹にしたって、一人で消費するには余る。ヨーロッパキダイなど、大きいものは5~60センチはあるのではないか。ヒラメを丸ごと買ってどうしろと。

ここで買った魚はその日のうちに消費せねばならない。流通が発達しておらず、おそらくこの市場へ来るまでの過程で冷蔵されてはいない。そして市場ではただ砕いた氷の上に並べられているだけである。肉屋にはあるのだから、魚市場でも近代的な冷蔵ショーケースを使えばよいものをと思うが、これも名だたるリアルト魚河岸流の演出なのであろう。もう一人の派遣者の方が実際にここで魚を買ってみたところ、昼に食べきれずに保存しておいたものは、夜には鮮度が落ちてちょっと残念な結果になったとのことであった。

だったら日本の魚市場でそうするように、店の人に頼んでちょうどいいくらいの大きさにして貰えばよいではないかと言われるかもしれない。しかしである、当地での買い物の習慣を身につけるためには他の人がやっていることを見て真似をしていく必要があるのだが、実際のところなかなかそういう買い方をする人がいないのだ。数多い観光客がここで魚を買って自分で調理などするはずもなく、彼らはただ物珍しそうに眺めては写真を撮るばかりである。たまに買物カートを引き摺ったおっちゃんやおばちゃんも見かけることは見かけるが、実際に買い物をしているのはほとんどがリストランテやオステリアなどの業者ではないのだろうか。両手で貝をかき集めてはキロ単位で買っていくなど、到底真似できるものではない。もうしばらくは様子見である。

ちなみに先日出ていたものには数種類のタイとヒラメ、シタビラメ、アンコウが目立った。タコ、イカ、エビの類はここに来て以来常に置いてある。クモガニもあった。あとCappesante(おそらくヴェネツィアでの正しい表記はCapesante)は後で見たところ例のレシピ本にも写真が載っていたのだが、ホタテのような貝で、気持ち小さいかというくらいのもの。殻の表側は取り外した状態で売られている。これは買ってきて自分でアンティパストにできるかもしれない。

Chioccioleは本来カタツムリを意味する言葉であるが巻貝の一種である、と前回のリストに書いた。そのレシピの写真では間違いなく巻貝なのだが、しかしカタツムリはカタツムリでちゃんと売っている。しかも生きたままなのでこれに関しては鮮度の心配がない。これらも食材として今さら見て驚くものでもないのだが、何故魚介類に入れられているのかという点については幾許かの疑問が残る。しかしアリストテレス以来の伝統ある分類を近代の賢しらで見直そうという気はイタリア人にはないのだろう。

彼らカタツムリの中にはたまに逃げ出そうとするものがあり、店のオッサンが気づいてはまとめ直すということを繰り返していた。通気孔を空けた透明アクリル板か金網でもかぶせておけばいいのに、と思ったのだが、やはり野天で売るのがリアルトの定法というものである。効率性より情緒を優先するのがイタリアの流儀であり、今までこれでやってこられたのだから、なにもわざわざ変える必要はない。いや、変えてはいけない。

話は変わって、街中には至る所に地区名などを記した表示がある。たまにその綴りの一部を塗りつぶしたものが見受けられ、例えば「Rio Terrà Primo del Parrucchetta」が「Rio Te●rà Primo del Pa●ru●che●ta」とされていたりする。これももう一人の派遣者である言語学の先生から伺った話なのだが、これはただの悪戯ではない。この表示は数年前、街全体で標準イタリア語表記に統一されたらしいのだが、ヴェネト語(決して「方言」ではない)を大事にする地元の人がこれに反発し、片っ端から修正していったのだそうな。Cappesanteの正しい表記がおそらくCapesanteであろうというのもここからの類推である。

話としては面白いが、観光客は手元の観光用地図と実際の表示が違ったりして困惑するもととなる。ところどころ完全に昔のままの表示が残っているところもあり、横文字に慣れない人が見たら迷うこと必定である。

日本の場合、メディアの発達と東京一極集中が進んだ高度成長期には、方言は格好悪いもので、東京に出て「標準語」が話せるようになるのがステイタス、という風潮があった。しばらく前からはこれが「共通語」となって多少の揺り戻しが見られるものの、自分のアイデンティティを中央のもの、より大きなものにすり寄せていこうとする性向は相変わらずのものであるように思う。自分の生まれた地方、街により狭く限定し、そこへ頑なに拠って立とうとするイタリア人とは対照的であるなと思った。別にどちらがよいとも思わないが、イタリアも日本もおおむね同じ頃に近代国家として統一された国なのに、こうも違う進み方があるものかと。

そんなイタリア人にも、これだけは新しいものを受け入れてくれと思うものがある。家庭用の食品保存用ラップである。とにかく箱がヤワで刃の切れ味も悪く、絶対に上手く切れない。そして失敗を繰り返すうちにこちらがキレることとなる。基本的に食材を持ち越さない人たちのようなのでほとんど使わないのだろうが、しかし、日々の暮らしの中でのちょっとした不満を改善・発展につなげ、新しいものを生み出していくことをしない、あるいはそれができない、いやむしろ、新しいものは能う限り拒絶するという姿勢はどうなのだろう。これまで見てきた文化的な問題に関わることではあるものの、傍で見ていて何となく不安になる。