ナターレについて

イタリア語ではクリスマスのことをNataleという。この日の挨拶はメリー・クリスマスではなく、Buon Natale!というのであるが、街には英語のクリスマスソングも流れているし、店頭に英語でMerry Xmasと書いてあるところも多いので特にこだわりはないらしい。いかにも観光都市らしいユルさである。ちなみにサンタクロースのことはBabbo Nataleといい、これは「クリスマスおやじ」という程度の意味である。聖ニコラウスはあまり意識されていない様子だ。

この時期にはパスティッチェリーアに限らずスーパーにまで、パンドーロというサッカーボールくらいの大きさのケーキが山積みにされているのだが、これはヴェネツィアではなくヴェローナのお菓子だそうな。同じヴェネト州の都市とはいえ、普段はその間でも何かと食材や料理の違いをアピールするのがイタリア人なのだが、適当なものが無いときは都合良くスルーしてもいいらしい。ちなみにミラノのお菓子であるパネットーネもまた山積みで売っている。パンドーロより幾らか取り扱い量は少ないが。

忙しくてあまり気にしている余裕はなかったのであるが、12月に入ってからのヴェネツィアは御多分に洩れず、着々とナターレの色に染まっていった。日毎に通りや広場にイルミネーションが増えていくのは観察していたが、一番いいのはこれを橋の上から眺めてみることである。少し高いところから見ると、様々な色が運河の水面に映えて殊更に美しい。

スーパーの店員がサンタの帽子をかぶり、機嫌良くクリスマスソングを歌いながら商品を陳列しているのを見ながら、何もかも日本と一緒だな、と考えてしまい、いやその考え方はおかしい、と思い直る。

しかしここで、キリスト教国でもない日本が何故大々的にクリスマスを祝うのか、などという話をしたいのではない。そもそも教会がこの日をイエス・キリスト生誕の日としたこと自体がかなりいい加減な話だったのではないか。だいたいこの時期に祭りといえばどう考えたって冬至の祭りであり、暦の発達でちょっとずつずれていったのではないかとも思われるが、要するにこれは新年のお祝いである。

太陽神が主神であるという宗教はキリスト教以前の土着宗教の時代からいくらでもあるが、冬至というのは太陽の勢力が回復へ転じたことを祝う日であり、「復活」というイメージもちょうどよかったりしたので適当に習合したのだろう。この日が降誕祭になったのはイエスの死後数百年が経ってからだったはずで、結局のところ本当の誕生日がはっきりと分からなかったのでお座なりに定めたのに決まっているではないか。元々がそういう話なのだから、日本人の浮かれ様にもいちいち目くじらを立てるには及ばない。

Vaticanoを擁するイタリアという国であれこれ見聞しながら感じるのは、国にしても宗教にしても人にしても、とにかく都合がよすぎることである。矛盾や突っ込みどころはいくらでもあるのだが、それは言うだけ野暮なことだ。人や組織や歴史は間違いや矛盾を抱えているものなのだ、というのが前提である。文句を言ったところで、何を今更、と怪訝な顔をされるだけであろう。これまで様々な例を示してきたが、その場しのぎの積み重ねで何もかも上手くいくのがこの国の不思議なところである。

ともあれ、普段でも十分に芝居がかっているこの街は、この時期さらにロマンティックな粧いを増す。しかしヨーロッパの人々はこの時期は穏やかに過ごすものらしく、街には観光客より地元の人間の方が目立つ。珍しく団体客を見かけたと思ったらそれは韓国人である。相対的に中国人が減ったような気もするが、彼らは春節になったらまた大挙してやってくるのだろう。

街を歩いていると、人気の少ない路地へ入ったところでカップルが徐に抱き合ってキスを始める、などというのはこの時期に限らずこちらでは日常の風景である。この街でロマンに浸ってくれているのは仮寓する私の身としても歓迎すべきことではあるのだが、しかし後ろを歩いている人間としてはちょっと困る。

狭い路地で二人して抱き合っていられると横を通り抜けることもできない。数歩後ろに私がいることに気づかないのは、彼らがお互いのことしか見えていないバカップルだからではなく、私が意味もなく足音や荷物が擦れる音を消しながら歩いているためでもあるので、こちらにも幾分かの責任はある。ここへきて咳払いでもして邪魔するわけにもいかないし、引き返すわけにもいかないし、仕方がないので一通り事が済むまでただ眺めているしかない。私はただ、狭い道であちこち目移りしながらちんたら歩いている邪魔な観光客を避けたいがために裏道を通っているのに、何故ちょくちょくこんな気苦労をせねばならんのか。

ロマン溢れる街に住んでいるとはいえ、私自身の生活はそれとは無縁である。かなり前、「故国を遠く離れて留学しているからといって、この国で夏目漱石を気取るような真似はどうやったって無理だ」と書いたことがあるが、では森鴎外の真似だったらできるかといえば、それもまた私には無理な話だ。そろそろ帰国が視野に入ってきたのだが、その後の生活手段の見通しが立たない身ではそれどころではない。

こちらへ来てから弱点であった料理を中心として飛躍的に女子力が高まっているということもあり、一人で生きていても特に問題はないと言えばない。あとはこの時期、編み物さえ出来るようになればもう向かうところに敵はないのではないかと思う。何と戦っているのか自分でもさっぱり理解できないが、ブラーノへ行ってレースの編み方でも身につけてこようかと考える昨今である。

書きながら思い出したが、そういえば一度母親に編み物を習ったことがあった。自分から興味を持ったのか、母親が教えようとしたのか。いったい私はどういう教育方針で育てられたのだろう。

こうして例の如く意味のない思索に耽るvigilia di Nataleクリスマスイヴの夕方のこと、どういうわけか部屋の呼び鈴が鳴った。Babbo Nataleが来るにはまだ時間が早いし、そもそもオートロックであるパラッツォの入り口を無視し、いきなり私の部屋の呼び鈴を鳴らせる人物など一人しかいない。ドアを開けてみると、果たしてマ氏であった。年格好はバッボ・ナターレに似付かわしいと言えなくもないが。

聞くと、この時期もずっとヴェネツィアに留まっているのか、と。ずっといると答えると、マ氏が所有する隣の部屋に親戚が泊まりに来るのだが、今は部屋の暖房をマニュアルモードで低い温度にしてある、だから彼らが寒いと言ってきたら通常のモードに直してやってくれないか、とのことだった。店子の使い方に遠慮のない家主である。しかも直接の家主ではないのに。

とうに時期を迎えていながらもこれまで話題とすることがなかったが、イタリアのriscaldamento暖房装置は、日本でもたまに見かけるオイルヒーターのような器具に温水を循環させることによって熱を供給するものである。石造りの建物は一度冷やすと温め直すのが大変なので基本的にはどこでも付けっぱなしで、まず18度以下に下げることはない。

そして私の住むパラッツォは設備が比較的新しいので、曜日と時間帯ごとに細かい設定をしておけばサーモスタットが働いて温度を調整してくれるようになっている。朝になったら少し温度を上げて、仕事に出る時間帯になったら止める、その間も下限に設定した18度を下回ったらまたちょっと動かす、という具合である。とは言っても結局はただ付けるか消すかだけの単純なものであり、構造上、動き出してから部屋が暖まるまでにかなり時間差があるものなので、その辺を織り込んで設定してやる必要がある。

ちなみに私の部屋へ温水を供給するcaldaiaボイラーは例のマ氏の部屋側にあって共用となっているらしく、実はこれまでに三回、それが止まってお湯が出なくなったことがある。暖房が動かないだけではなく、シャワーのお湯も出ない。シャワーに入っていると次第にお湯がぬるくなっていくのでそれと分かるのだが、とりあえずその日はボイラー内に残ったお湯で何とかしのげる。翌朝台所でお湯が出ないのを確認してから連絡し、スイッチを入れに来てもらう、ということを繰り返し、三回目のときにはマ氏が業者と共にやってきて隣の部屋でなにやら大がかりな修理作業が行われた結果、今のところ再発はない。

それはそれとして、問題はその暖房装置のコントロールパネルの使い方を家主であるマ氏自身がちゃんと理解していないということだ。最初に暖房の付け方を教えに来てくれたときにそれが判明したので、仕方なく私自身で説明書を読み込んで設定方法を身に付けた。

その後、街で偶然会ったときにそのことを報告したら、それは私にとってもありがたいことだ、と言われて今に至る。マ氏の部屋は店子が入っていない間は別荘代わりにちょくちょく知り合いらしき客が泊まりに来るのだが、その度に、何曜日の何時に客が来るから温度はこれくらいで、などと細かい設定をやらされるのである。

マ氏は戦闘機乗りで大学の講師、しかも理系、という人物である。何度も目の前でやって見せているのだし、マニュアルモードに切り替えが出来たというのだから、今はもうすべての操作法を理解しているのではないかと思うのではあるが、先に述べたようにイタリア人の矛盾を突くのは野暮というものである。今回は単純にこちらへ来るのが面倒だから甘えたいだけなのだろう。

そうこうするうちに午前0時を回り、25日を迎えたところで街の教会の鐘が盛大に鳴り始めた。この街での生活も残り三ヶ月を切ったが、しかし春はまだ遠いようである。