阿房蒸気について

言わずと知れたことだが、ヴェネツィアは水の都であって街中に運河が張り巡らされている。辞書を繰ると、運河というのは「人工的に陸地を掘って作られた船舶用の水路」と書いてあるのだが、しかしこの街では陸地の方を人工的に作ったのであって、運河となっている部分は元から海の一部である。

粘土をくっつけて作っても、粘土の塊から削り出して作っても、どちらも粘土像と言ってしまってよいのだから、どちらから形成されたかという問題はひとまず措こう。「陸地を掘って作られた」という部分を削り、運河とは「人工的に作られた船舶用の水路」である、と定義すれば解決するし、実際そうしている辞書もある。

それでもまだ分からないことがある。海はいったいどこから運河になるのだろう。例えば、湖を埋め立てていって細長くしたものは川と呼んでよいのだろうか。よいものと仮定した場合、どこまで狭くすればそれは川になるのだろう。

人の認識というのは考えてみると難しいものである。さて、ヴェネツィアの運河は本当に運河と呼称してもよいものだろうか。

 

馬鹿の考え休むに似たり。暑さのせいで頭がおかしくなったのか知らん。なんだか記録的な暑さだというし。

 

先日聞いたところによると、イタリアの暑さのピークは今頃で、例年通りであれば八月に入るともう落ち着いてくるということである。もっともここ数年、世界のどこへ行っても「例年通り」に期待したところで裏切られることが多いのであるが。

それはそうと、この街の運河にはその定義のとおりに数多くの船舶が往来している。その運河にはまた多くの橋が架けられていて、歩くだけで大概の場所に行けるようになってはいるものの、目的地によっては遠回りを強いられることも多く、当然船に乗った方が便利である。

中には個人で船を所有している人もある。夜に運河沿いで飲んでいるときなど、目の前をステレオの重低音を響かせながら流していく船があったりするのが面白い。イルミネーションで飾り立てていたり、若い女性が何人か同乗していたりして、何となく週末の夜の梅田駅前を思い出させるものがある。ただし、船の灯火に関してはおそらく法によって決められている部分があり、装飾のイルミネーションはそんなに派手なものではない。夜は皆速度も控えめで、おとなしいものである。

それでもやはり大半の船は公共のものか仕事に関するものである。リアルト市場に魚を運んでくるのも当然そういう輸送船で、よく観察するときちんと冷蔵コンテナ付きの船であった。イタリアの魚の流通管理について侮っていたことを詫び、以前書いた文章の内容は訂正しなければならない。また、ゴミを集積して島外へ運ぶのにもクレーンの装備された専用船があるし、パトカーや救急車も「車」ではなく船である。イタリア語で船はnave(小さいものはbarca)だからパトナーヴェと書くか。実際はbarca della poliziaかと思われるが。

さてそんな中、庶民たる私に直接関係のある船はというと、ヴァポレットという水上バスくらいのものである。以前家主と食事をした日に初めて乗せられたが、一回€7.50かかった。日本円に直すと千円前後か。しかしこれだけの金を払って乗るのは本来稀なことである。

観光客であれば一日€20で乗り放題とか三日間でいくらとかいう乗船券を買うのであるが、長期滞在者にはこれでは逆に不便である。マ氏に促され、その翌日カルタ・ヴェネツィアというカードを購入してきた。ヴェネツィア市民以外は発行手数料その他が€50、そしてまた幾許かのチャージ分を払うことになるので最初こそまとまった出費となるが、これで一回€1.50で乗ることができる(10回分をまとめて買うと€14.00になってさらに€1.00お得になる)ようになる。差額が€6.00ということで、五往復目辺りから元が取れ始めるという計算である。

その存在については当初から聞かされていたのであるが、長期滞在者であることを証明するのに何か必要なのではないか(正式な滞在許可証はまだ発行されていない)等、購入の条件がはっきりしなかったので様子を見ていたのであった。マ氏に聞いたらパスポートだけでよいということなので、早速買い求めてきたというわけである。

ヴェネツィア本島内はほぼ踏破し、細かい地理も相当なくらいまで把握できている。使い始めてみれば、ヴァポレットをどう使えば効率的に移動できるかということが直感的に分かるようになっていたので、購入のタイミングとしてはちょうどよかったのかもしれない。リアルトの窓口で顔写真入りの赤いカードを受けとってみると、ヴェネツィアの住民として一人前になったような気もしてくる。

さて、これでいつでも気軽に乗れるようになったわけだが、すっかり歩くことに慣れてしまっているので、いざ使えと言われても最初はなかなか用途が思いつかなかった。それでもまず乗ってみないことには始まらない。

「用事がなければどこへも行つてはいけないと云ふわけはない。なんにも用事がないけれど、ヴアポレツトに乗つてリドまで行つて来ようと思ふ。」

というわけですぐさまリアルトの乗船場でヴァポレットに乗り込み、終点まで行ってみた。vaporeというのは蒸気あるいは蒸気船を意味し、vaporettoとはその小さいものを指す言葉であるが、無論現代のヴァポレットは蒸気で走ったりはしない。足を動かすことなく移動するのは久しぶりで楽なのはよいが、乗客の多い路線ということもあって昼間はまだちょっと暑苦しい。それでもカナル・グランデを抜ければそこそこ快適になってきた。

スキアヴォーニ辺りなら道が広いとはいえ、ひっきりなしに行き来する人々に気をつけなければならないので、歩いているときには辺りを見回している余裕はない。船に乗っているとその点でも楽で、ぼうっとパラッツォ・ドゥカーレを眺めていると、来たばかりの頃の観光客気分が甦ってきた。

各駅停船であるし、スピードはそんなに速くないので、リアルトからリドに着くまで45分ほどかかる。海の上には渋滞がないので、ほぼ完璧に定時運行されるというところに何故か違和感を抱いた。私もだいぶイタリアに慣れたようだ。

リドへ近づくと、車が走っているのが見えてきた。別にイタリアで車を見るのが初めてというわけではないが、やはり新鮮である。船を降り、どうしようかと一瞬迷ったが、船着き場の正面の大通りを抜け、とりあえずアドリア海が見えるところまで行くこととした。

目抜き通りを歩いていると貸し自転車の店がいくつか目につく。歩き回った後につくづく後悔したが、これは借りておいた方がよかった。本島とは距離の感覚が違うのである。ただまっすぐな道で、いい加減飽きてきたかという頃になってようやく海沿いへ到達する。

アドリア海沿いはほぼ全域が海水浴場になっているようである。水着姿の人がうろうろしていて、シャツと革靴という身形の私は場違いなこと夥しい。海岸へ入ることは諦めて道路からアドリア海を望むが、やはり海の色がまったく違っていた。

左へ曲がって北側へ進み、反時計回りにリドを半周していく。南へ進んでいればエクセルシオールが見られたようだが、何にせよ私に用事のあるところではない。そしてまた北側というのはあまり観光客が行くような場所ではないようで、だんだんと住宅街のような気配になってきた。

本島とは違い、広い道路があって大きな庭があってと、どこかで見たような高級住宅街のような印象もあるのだが、やはりここでも空き家が多く目についた。雑草が繁茂して石畳にひびの入った庭と、ことごとく割られた窓ガラスとの組み合わせには寂寥感ばかりが漂う。私自身はこういう雰囲気は嫌いではないというか、むしろそういう場所が好きなのであるけれども、それはそれとしてあっちもこっちも夢の跡となっているのは残念なことであるな、と思いながら歩を進める。すると、びっしり丸ごと蔦のようなものに覆われた家というのがあって、これはさすがにファンタスティカと評すべきところまで突き抜けていた。

一時間以上歩き回って、すれ違った人は十人程度だったか。船着き場周辺以外で走っている車も五台くらいしか見なかったが、そのうちの一台は救急車であった。驚いたのはそのスピードである。本島の方で夜の街をふらふらしていたとき、救急船が猛スピードで運河を駆け抜けていったのも見たことがあるが、イタリアの緊急車両とはきっとそういうものなのだ。これはこれでイタリアのイメージに合致する。ランボルギーニのパトカーが必要になるのも納得できるというものである。

元気のよいのはこの救急車だけであったが、おそらくまだ時間が早かったのだろう。イタリア人は日の高い時間帯(それでも夕方五時前後だった)にはあまり外を出歩かない。まだ半分しか歩いていないし、日と時間帯を改めてまた行ってみようかと思う。

カッフェについて

イタリア語でコーヒーはcaffèという。カフェではなくてカッフェ。最後にアクセントがあるので始めは違和感があったがさすがにもう慣れた。こちらではエスプレッソが主流なので「Un caffè, per favore.(A coffee please.)」と頼むとエスプレッソが出てくると何かで読んだのだが、今のところ実際にそういう頼み方をしたことはないので本当かどうかは分からない。だいたいヴェネツィアは観光地なので、客は余所者であることが前提である。イタリアならではの頼み方をさせるようにできていない。

ヴェネツィアには世界最古のCaffè Florianという超有名店があるのだが、そこにはまだ入ったことがない。前を通ったことはいくらでもあるが、サン・マルコの辺りはいかにも観光地然としていて落ち着かないので、ここでゆっくりしようという気になれないのである。まったく、わさわさうろうろざわざわと観光客が目の前を往来するサン・マルコ広場のテーブルで、ありがたがってカップッチーノを飲んでいる人の気が知れない。豪華な内装の店内に入ってしまえばいいのかもしれないが、それではまた違う意味で落ち着かない。朝早くならまだなんとかなりそうではあるが、わざわざそんなところまで行って朝食を、という気にもならない。

さて、こちらのアパルタメントには当然のように直火式のエスプレッソメーカーが備えてあった。機械式の方がいいに決まっているのだが当然それなりの買い物になるし、なによりこのアパルタメントにそんな大層な機械を置くスペースはない。それは別に構わないのだけれども、このエスプレッソメーカーも最初の頃に書いたように何かと問題のある先住民から受け継がれた道具である。やはり苦労させられた。

コーヒーというか、茶道具というのは基本的に洗剤とスポンジを使って洗ってはいけない。洗剤の香りが邪魔になるから、というのはしかし昔の話である。最近のものであっても環境に配慮した石けんタイプのものならそういうこともあるが、今時の洗剤はきちんと濯いだら香りが残るようなへまはしない。イタリアの洗剤とて同様である。

アルミの器具ならほっといてもできるものなのだが、コーヒーの場合は道具の表面に酸化皮膜を形成するのでそれを落としたくないということであろうか。嗜好品であるからしてそこには思い込みの効果が多分に作用する。科学的に正しいとか正しくないとかいうことは考えてもあまり意味がないが、ともあれ道具は水だけを以て丹念に洗わなければいけないとされる。

丹念に洗わなければいけない。洗剤を使ってはいけないというのは洗剤を使わなくていいという意味合いではなく、したがって水でさっと流せばいいということではないのだ。先住民には一度会って説教をする必要があるかもしれない。

備えられていたエスプレッソメーカーには細かい部分にびっしりとコーヒーの粉が固着しており、それが酸化して、悪臭とまではいかないものの微妙な匂いを発していた。また、蓋が上手く開かないのでどこかをぶつけたかして歪んでいるのかと思ったら、ヒンジ部分に浸み入ったコーヒーが乾いて詰まっているのであった。

一瞬、捨ててしまおうかと思ったが、仮住まいのものを勝手に処分するわけにもいかない。最初の頃は時間を持て余していたということもあり、新品に戻すようなつもりで洗剤とスポンジで汚れを削り取り、これなら使ってもよいと思えるまであらゆる手段を講じてひたすら洗った。

ちなみにアパルタメントには大小二つのエスプレッソメーカーが備わっている。普段使っているのはサイズの小さい中国製の安物、そしてもう一台は5-6人用の大きなものである。こちらはイタリア製。日本を発つ直前に三宮の「いたぎ家」で飲んでいたときのこと、イタリアへ行ったらムーミンのパクリみたいなキャラの書かれたエスプレッソメーカーばっかり並んでいる、と弟さんが話していたのだが、まさにそれであった。BIALETTIというメーカーのもので、確かにムーミンに似た変なおっさんが右手の人差し指を高々と突き上げた絵が描かれている。街中で見ると同じサイズの中国製のものより概ね€10くらいは値が張るが、無論のことこちらの方が造りがいい。

このアパルタメントに必要な大きさだとは到底思えないのだが、どういうわけかこちらの大きいものも頻繁に使われていたようで、同じように汚れていた。ただしフィルターが歪んでいる(アルミ製なので下手に扱うとすぐ歪む)のでこのままでは使えない。各部品は個別に売っているのでフィルターだけ買いなおして使おうと思えば使えるのだが、私には使う機会がなかろう。それでもとりあえず徹底的に洗って再生しておいた。

道具が整ったら次はコーヒー豆である。アパルタメントには結構な量の粉が残っていて、これがいつ購入されたものだか不審ではあったのだが、しかし特に変な香りがするということもない。同じように残されていたオリーヴオイルと自分の買ってきたオイルを見比べてみたところ消費期限が同じであったので、先住民は私の入る直前までここで暮らしていたものと判断し、このコーヒー豆も捨てるのは思いとどまった。調達先がはっきりするまではこれでしのぐことにする。

もちろんスーパーで売っている豆などは使う気にならない。最初に見当を付けたのはマ氏から教えられたヴェネツィアーノおすすめの店、アパルタメントのすぐ近くにあるCaffè del Dogeという店である。

街中のパスティッチェリア(菓子屋)のショーウィンドウなどにもこの店のロゴが入った粉が並んでいて、どこでも買えるようではあったが、近いことでもあるしとりあえずカフェの方へ行ってみる。入口のステッカーの年号が目に付いたのでよく見てみると、雑誌だかなんだかでカフェのランキングがあるのだろうか、それに選ばれたというようなことを示すステッカーがいくつも貼られていた。

それを見て、ちょっと私の狙いとは違ったかな、と思ったものの、とりあえずエスプレッソを頼んで店内を観察。小綺麗な店であるし、リアルトの中心とはいえ少し路地を入ったところにあるので場所も申し分ない。ただし有名店なので、時間帯にもよるが客は多い。

当然ここでも粉を売っていたので、あのコーヒーの粉(caffè macinato,カッフェ・マチナート)も欲しい、と言ってみる。粉はショーケースに陳列されていて、開けるのに手間取っていた。あまりここへ来てこれを買って帰る人はいないようである。味の方はというと、まあ、最初に残されていたものより幾分かはましであるものの、という程度だった。パック詰めの粉は結局どれも似たり寄ったりである。有名店の名を冠しているとはいえ、その店で飲むのと同じ味が期待できるはずもない。

大学の読書室(共同研究室)でコーヒーを淹れなくなったのでここ数年は足が遠のいているが、神戸ではマツモトコーヒーという店で焙煎し立ての豆を買ってきて、毎回挽くところから始めていた。やはり自前で焙煎をやっているような店を探さねばなるまい。古来のカフェ文化を守り続けるこの街にまともなコーヒー豆店がないはずはない。

情報はもう一人の派遣者である先生から入った。カンナレージョの方にいい店があるという。だいたい何もかも頼りっぱなしではあるのだが、お住まいの関係で特にこの地区に関する情報にはお詳しいのである。

TORREFAZIONE CANNAREGIO(カンナレージョ珈琲豆店)という何の衒いもない名前のその店は、教えられたとおりPonte delle Guglieのすぐ近くに見つかった。表には1930という創業年が書いてある。店内へ入ると生豆を輸入する際に使われる麻袋がいくつも壁際に置かれており、立ち込める新鮮な豆の香りが何故か懐かしい。やはりコーヒーはこれでなくてはいけない。この店はその場でコーヒーを淹れてもらうこともできるのだが、この日はヴェネツィアへ来て初めてcaffè freddoを頼んだ。これは直訳するとアイスコーヒーということになるが、まず氷が入っておらず、そしてタイミングの問題もあったのかもしれないが、日本のものほど冷やされていない。

ちなみにこの時期どこでもおすすめされるのは、シェケラート(shakerato)という言語学的に面倒な名前の飲み物である。shakeという英語をイタリア語の動詞化(shakerare)してその過去分詞形、という成り立ちの言葉らしいが、コーヒーと砂糖と氷をシェイカーに入れて作るものだとのこと。バニラやクリーム系のリキュールが入ることもあるようだ。後から自分でお好みの量を、ということができないので、頼むのと同時に砂糖の量を聞かれる。

それはそうと、久しぶりにまともなコーヒーを味わいながら、おすすめの豆は、と店の人に聞いてみた。するとこっちの豆はアラビカ種でどうのこうのという説明が始まった(前の客にも同じ説明をしていた)が、そんなことは産地の名前を見ればほぼ見当が付く。そうではなくて、エスプレッソとの相性について知りたかったのだが、それ以上に質問を重ねられるほど私は器用に話せない。

こういう場面に出くわす度に、あのときはどう言えばよかったのだろう、と家へ帰ってから復習する毎日である。最初の頃よりは反射的に答えられる場面も増えてきたのではあるけれども。

このときも仕方がないので一通り言わせておいてから、とりあえずはくせの少ないものを、とコロンビアを200g買い求めて帰った。エスプレッソの探求もイタリア語会話の上達もまだまだ先は長いようである。

海の男たちについて

約束の日、マ氏と待ち合わせた後、まずヴァポレット(水上バス)に乗せられた。サン・マルコの近くからだったので、ジュデッカかリドへ連れて行かれるのかと思ったが、船は外海方面へ進み、ジャルディーニで降りろと言われる。確かに遠い場所ではあるが、ここは歩いても行ける場所である。しかもその後はアルセナーレへ歩いていった、つまり来た方向へ戻っていったので、何のために乗ったのかが今ひとつ分からない。しかしこれは家主の到着までの時間稼ぎと、また、夕涼みというくらいの意味合いであったようだ。実際、八時くらいの時間帯にヴァポレットに乗るのは非常に心地よいものである。

以前も書いたと思うが、今の季節のヴェネツィアで八時というのはまだ「夕方」である。そもそも最初の待ち合わせが七時半なのだ。ヴェネツィアはそういうテンポで動いている。

それにしても巡り合わせというのは分からないものである。私のことをよく知る方はきっと腹を抱えて笑うことだろうが、案内されたのはなんとイタリア海軍のサロンであった。道中、家主の旦那が潜水艦乗りだったという話があったのは、ここへ行く理由を説明していたものらしい。そしてマ氏の方は空軍に所属していたともいうが、どちらも佐官までいったそうなのでかなりのものだ。ちなみにイタリアには数年前まで徴兵制があったのでこれは特別なことではない。

徴兵制は世界的に減る傾向にある。世に紛争が絶えることはないが、現代では世界大戦規模の戦争が想定しにくいこと、経済の低迷による軍事費の削減要求、そして兵器が高度化しているせいで士気の低い兵隊では使い物になるまで育たない、などの理由で割に合わなくなっているのである。

では今でも世界中で紛争に首を突っ込んでいるあの自由の国などはどうやって兵員を確保しているのかというと、金で釣るのである。何年か兵役を務めたら給料とは別に大学に通う奨学金を支給するとお触れを出せば、所得格差の大きい彼の国ではいくらでも若い志願者が集まる。ただし、紛争地で命を落とすことなく帰ってこられたとしても、PTSDで鬱になったり自殺したりと、結果的には大学どころではなくなってしまったりする人も多いらしい。

それはそうと、為政者として兵員が欲しければ、経済的な格差が広がるように仕向けていけばいいということだ。徴兵制などなくてもいくらでも人が寄ってくるようになる。政策的にも予算的にも容易なものである。世界的な潮流を読み解こうともせず、今さら徴兵制がどうのこうのと言っている政治的センスの欠片もないどこかの野党は、ぜひ彼の自由の国に学ばれるとよい。

だいたい日本に徴兵制があった頃だって、金持ちはどうにかして兵役を逃れるか後方にいるかしたもので、前線に出たのは貧しい農家の次男や三男だったはずだ。賛否どちらの立場であろうと、歴史に学ぶというのはそういうことではないのか。

およそヴェネツィアには似つかわしくない話にも思えるが、この街とてヴェネツィア共和国時代は峻厳なリアリズムに徹することで幾多の戦争をくぐり抜け、その結果として今こうやって静かな老境を迎えているのだ。アルセナーレの広大な軍管区とこのサロンはその名残でもある。

さて、きな臭い話はこの辺にして建物の奥に進む。すると家主が待っており、さらにその奥にリストランテがあった。

場所が場所だけにおそらく一般客は入れない。当然客層は限られてくる。客は私たちの他にもう一組だけで、ご夫婦とその友人と思しい三人組だったのだが、家主とマ氏は皆と親しげに挨拶していた。そしてその中のご婦人の方がどうも東洋人に興味をひかれたらしく、向こうの食事が終わって旦那とその友人がバールへ移動(同じ建物内にある)したあと、こちらのテーブルにやって来て話に混ざる。ちゃんと聞き取れなかったが、子供だかなんだかが日本で仕事をしていたことがあるらしく、日本のことをよくご存じである。

プロゼッコの話をしたときに一度書いたが、イタリア語では母音に挟まれたSは濁音になるので、大概のイタリア人は大阪のことを「オーザカ」と発音する。分かりやすいようにと私も「オーザカ」と説明していたのであるが、このご婦人はちゃんと清音で発音していた。

こちらの食事も終わってバールへ移動。総勢六人でなんだかよく分からないことになっていった。ハーブを使ったリキュールでプリニウスに関連するものがあるらしく、それっぽいものをショットで飲まされたが、食後には向いているかもしれない。

旦那の方はいい感じに出来上がっていて、話すときにはもっと動け、それが生きている証なんだ、と仰る。イタリア人男性は話すときに必ず手が動く、というのは「ヘタリア」にも書いてあった(ちなみに手が動かせないとき、例えば冬場で手をポケットに入れているときなどはそれに伴って無口になるらしい)が、実際にイタリア人の口からそれを裏付ける言葉を聞くことができるとは思わなかった。

そんな中、例のご婦人が、イタリア語を上達させるためにはとにかくイタリア人と話さなきゃ駄目だ、と繰り返し仰る。しまいには、私が話し相手になってやるからそのうちまた会おう、と。最初にこちらのテーブルに押しかけてきたときからそれを狙っている節があったのだが、それにしてもイタリア人の押しの強さと親切心というのは底抜けであるなと思う。

日本のテレビでイタリアの紀行番組を観ていると、別れに際してマンマが、アンタはもう私の子供みたいなもんなんだからいつでもまたいらっしゃい、というようなことを言う場面がよくある。家主とマ氏に最初に会ったときにも似たようなことを言われたのだが、これは決まり文句みたいなものであり、深い意味はないのではないかと考えていた。

しかしこうやって実際に接してみると、これはもう掛け値なしである。ヴェネツィアという街では、細い道をくっつきそうになりながら人々が行き交い、常に顔を突き合わせながら生活している。互いに手の届くような距離にいて、深く関わり合うことでみんなが人間らしく生きている街なんだ、というようなことをマ氏が話してくれた。袖擦り合うも多生の縁、という感覚か。キリスト教に輪廻転生の概念はないが。

ともあれこのとおり、どうやってついていったのか思い返してもよく分からないが、始終会話は成り立っていた。いや、なんとかなるものである。またそこで便利だったのはB5サイズの携帯用ホワイトボードだった。仕事柄、黒板にものを書いて説明することに慣れているということもあるのだが、日本の地理の説明など、私の語学力だけで満足に説明できるものではない。こういう使い方を想定して購入し、その通りに役に立ったわけで、本当に持ってきて正解である。

サロンのある建物を出て、皆でジェラートを食べながら運河沿いの石のベンチに座り、まだ話は続く。家主がヴァポレットで帰っていった頃には十一時を過ぎていた。皆元気なものである。家主の方は知らないものの、マ氏は七十歳を超えているという話なのだが。

歩いて帰る途中でのこと、マ氏は、ここがかの有名なダニエリ(一泊€2.500の超高級ホテル)だという説明をした勢いで、よし、静かにしてろよ、というジェスチャーをし、客でもないのにロビーに入っていった。仕方がないので後に続く。当然ながらどこもかしこも呆れるくらい豪華な造りである。マ氏はここで結婚披露宴をしたのだというが、このときはまた新婚旅行と思しい日本人の夫婦がいた。美男美女だわ金持ちだわで普段なら僻むような言葉の一つも出るところだが、この日の私は何となく気持が豊かだったので、彼らの幸せを願いながらロビーを後にしたのであった。

越えられぬ壁について

エアコンの故障が思わぬ方向へ転がった。典型的な「怪我の功名」というやつである。まあ、順を追って記すとしよう。

エアコンが動かなくなったその日、まずはパラッツォの共用部分、階段の踊り場にあるブレーカーをチェックしに行った。こちらでは電圧が安定しないうえによくブレーカーが落ちるというのはすでに何度か経験済みである。他の電化製品がすべて正常に動いているのでそこが原因だとは考えにくいのだが、他にやりようがないのでとりあえずチェックしに行ってみた。

見てみるとブレーカーが一つ落ちており、上げようとしてもまたすぐ下がる。日本であればこういうときは電化製品の方に漏電が起きている可能性が高い。先日エアコンの水漏れを修理してもらった際に排水経路を変更していたのが裏目に出て、配線の方に水が入った可能性もあるかとこのときは考えた。

このパラッツォでブレーカーが落ちるときというのは概ね他の部屋のも揃って一斉に落ちるというのがまたイタリアらしくて豪快なところで(何のためにブレーカーが個別になっているのだろうか)、電源が落ちてから部屋を出るのにもたついていると、隣人がこちらの部屋のものまでついでに上げてくれたりすることもある。したがって一つだけ落ちているというのがまた珍しい(日本では普通)。実際エアコンが動かなくなった日には廊下で話し込む声がしばらく聞こえていたし、私が考え至ってブレーカーを見にいったときにはケースが中途半端に閉まっていて、人の手が入った形跡があった。他の人も上げようとして上がらなかったのだとも考えられ、よって私が正しい復旧方法を理解していないという可能性も低い。

ところで一つ腑に落ちないのは、落ちているのが自分の部屋のブレーカーではないということである。先ほども書いたように他の電化製品は動いているので、何がどう関係しているのやらさっぱり理解出来ない。ともあれ週が明けてから(前回も書いたが、土日に連絡してもまず事態が動くことはない)症状をまとめたメールを書き、管理人氏に報告する。

その翌朝のこと、管理人氏がやってきて、どんな具合だ、と聞く。暑さで疲弊しきった私が症状を示そうとリモコンのスイッチを押したら、これが当たり前のように動くではないか。驚いた顔をしてみせた私に対し、管理人氏は、いや、オレの部屋のスイッチをちょいと上げてやったからもう問題ないのさ、と。管理人氏はこのパラッツォから十分ほど歩いたところに住んでいるはずであり、何を言っているのかよく理解出来ないので、後学のためにもそのスイッチはどこにあるのかと聞いてみた。

案内されたのは隣の部屋であった。この部屋にあるサブブレーカーが一つ落ちており、それを上げたからもう大丈夫、という説明である。この部屋は現在無人であり、何故これが落ちたのかは管理人氏にも分からないということであった。

しかしそれ以前に分からないのは、何故隣の部屋のサブブレーカーが落ちたら私の部屋のエアコンが動かなくなるのか、という点である。これに関しては何の説明もなかった。イタリアでは電気系統においても日本の常識は通用しないということか。仮にこの先何年もイタリアで暮らしたとしてもきっと理解出来ないことであろう。

ときに管理人氏が、オレの部屋、と言っていたのは管理人氏が所有する部屋且つ彼がデザインした部屋、という意味であり、どうもこのパラッツォは私の部屋の方の家主と共同経営しているもののようである。まだ日本にいた頃のメールのやりとりの中で、家主が「管理を任せている人」という遠回しな書き方をしていたのが些か気になってはいたが、どうも管理人氏という名称は改める必要がありそうだ。以下、名前の最初の文字を取って「マ氏」とする。マッカーサー元帥を略してマ元帥というふうに当時の新聞に記されていた例があるので、略称としておかしくはないはずだ。マ氏は本当はマ大佐なのであるが(後述)、ともあれ、イタリアにはマで始まる名前がいくらでもあるのでこれで迷惑がかかることはなかろう。

話は逸れるが、イタリア人の名前はものすごくありふれたものが多い。こぞって人と違う名前を付けたがる日本とはまた対照的である。これは生まれた日にちなんだ聖人の名前を付けたり、その街の守護聖人の名前を付けたりすることが多いからだそうな。だからヴェネツィアにはマルコという男性が非常に多いのだと教えられたことがある。ここで一応断っておくが、マ氏の名前はマルコではない。私はまだヴェネツィアでマルコと名乗る男性に会ったことはない。

逆に姓の方はバラエティに富んでおり、未だに、ああその姓は聞いたことがある、というイタリア人に会ったことがない。皆が皆聞いたこともないような姓であって、覚えるのに苦労する。まあ、そんなに知り合いが多いわけでもないのだが。

閑話休題、怪我の功名その一はまずこの隣の部屋を見せて貰ったことである。それはもう贅沢なものであった。私の部屋の三倍か、いや多分四倍以上の広々としたスペースにピアノやら高そうな椅子やらソファーやら大きなテレビやらが並んでおり、窓からは広場の様子がよく見える。内部の階段で階上に上がるとそこにはまた豪華な寝室や浴室、書斎が設えてあり、天窓がリモコンで動いたりしていた。家賃がどれくらいかかるものなのか想像もつかない。自分の部屋が常識的な広さであるし、家賃もまた常識的な価格帯なので油断していたが、やはりヴェネツィア、やはりリアルトである。どうも私は本当に「隙間」に住んでいるようで、隣人がすべてセレブに思えてきた。そしてそれ以上に、家主とマ氏がとんでもない人に見えてきた。いや、二人ともかなりの人だというのは最初から聞いてはいるのだが。

ちなみに最初の頃「最近どこへ行っても幅をきかせている東アジアの某国の人」が深夜まで騒いでいたという話を書いたが、内部の構造から判断するに、あの騒ぎは間違いなくこの部屋でのことである。あれは帰国前の最後の夜だったようだ。なんというかまあ、何もかもイメージ通りだからこれについてはもう何も言うまい。

怪我の功名その二は、後日、家主とマ氏から夕食に招待されたことである。不自由な思いをさせたお詫びという意味合いもあったのだろうか。何しろ例の部屋を見た後であるし、きちんとしたシャツを着てこいとも言われていたので、どんな店へ連れて行かれるのかとびくびくしていたのだが、これが完全に予想を越えた場所だった。

この先も長くなるのでここでいったん切ろう。

相変わらず鷹揚な人々について

食べ物の話ばかりしているというご指摘をいくつか戴いた。食べ物の話以外は理解出来ないので読み飛ばしているだけなのではないかとも思ったが、子供の言うことだからまあよかろう。斜め読みであってもこれだけ冗長な文章を一通り読んだという点については褒めて然るべきだし、確かにここ数回を見返すとその傾向はある。

ヴェネツィアに来てはや二ヶ月。スーパーや市場の話題ばかりで、ブログが下宿生活日記と化しているのは何故か。数ある名所へ足を運び、あれやこれやと観てこないのは何故かと訝しむ方もおられよう。理由は大きく二つあるのだが、まずは単純に暑いからである。

日本では夏でもクーラーがほとんど必要ないほど涼しい、裏六甲の標高400メートルほどのところに住んでいる。その気候に体が慣れているので、この地の海抜0メートルの暑さはなかなかしんどい。乾燥しているのであまり重たさは感じないが、何を措いても高緯度の日差しがきついのである。現地の人が必ずといってよいほどサングラスを携帯しているのは別に格好を付けているのではないのだ。

逆に建物の内部は常に薄暗い。建物が古いせいもあるのだろうが、どうもイタリア人はあまり明るい照明を好まないようである。例えば、私のアパルタメントの天井にあるのは40W程度と思しい電灯が五つだけ。それだけではさすがに足りないと判断したのか、もう一つ別の電灯が置かれてはいるが、それすらたったの100Wである。すべて点けても光が柔らかすぎて物足りない。ただし今はもう慣れたのでほぼ天井のものだけで済ませている。

瞳の色の薄い人は強い光が苦手だとも聞くが、それもあるのだろうか。教会などでは広くて薄暗い空間に蝋燭の明かりだけが揺らいでいたりするが、それは伝統であり、また演出というものだから理解出来る。しかし、私の部屋のあるpalazzo(パラッツォ、英語ではpalaceに相当する言葉だが、ビルなどの建物も指す)は、入口の足下に1999と銘されているので、ヴェネツィア基準でいうとごく最近内部が改装されているのである。このように新しい設えの住居ですら何かと薄暗いのだが、果たしてこれは文化の違いというだけで説明できるものだろうか。新しいものが嫌いだから蛍光灯やLEDの白色光がきつくて受け入れられない、という話は分からんでもないが。

街のショーウィンドウや大学の図書館はそれなりに近代的な明るさとなっている。ちなみにヴェネツィア大学は正式にはUniversità Ca' Foscari Veneziaという。日本語ではヴェネツィア・カ・フォスカリ大学と表記すればいいようだが、このフォスカリというのはこの地にあった貴族の名前である。ヤマザキマリ氏がこの家の末裔を主人公としたマンガを描いていると思うのだが、とにかくこの大学の敷地や建物は何かしらヴェネツィアの貴族に関係のあるものばかりなのだそうで、どれもとんでもなく古く、歴史的価値のありそうなものばかりである。カナル・グランデに面した本部の建物などは庭園も美しい。

とはいえ、内部はそれなりに改装されており、私の受入先となっているアジア・アフリカ学科の建物にはエレベーターだってある。ただ、とても狭苦しく、故障しているのではないかと思うくらい遅い。また、やたらと天井が高いので効率は悪いものの、一応クーラーも付いている。歴史的価値の高い建物はいじりづらいと言っていたはずだが、意外にも思い切った手が入っているようだ。

原則をすぐに忘れるのがイタリアである。彼らの言うことを真に受けてはいけない。

学科の建物にはオフィスと教員の研究室、日本語・中国語の書籍を中心とした図書室がある。主に授業が行われるのは別の建物で、そちらはヴェネツィアにあっては少々違和感のある、普通の大学っぽい大きな建物である。

私は語学留学に来ているわけではなく、説明しづらい話なのだが日本文学の研究員としてイタリアに来ているので、大学の授業とはまったく関わりがない。大学も休みに入って人がほとんど居ないということもあり、あまりイタリア人と関わる機会がないので会話力も一向に伸びないのだが、一年間の滞在であれもこれもと望むのは無理な話だろう。とりあえず与えられた使命を全うするのが最優先なので図書館に通い詰めているわけだが、私が通う人文系の図書館もこの大きな建物の一部にある。BAUMという略称のこの図書館は、明るいしクーラーは効いているしで非常に過ごしやすい。ついでにいうと入口カウンターの女性職員の中にモデル並みの美人がいる。さすがイタリアである。

一つ不思議なのは、この図書館が地上二階、地下二階という構造になっていることだ。一体どうやってヴェネツィアに地下室を作ったのだろう。潟を掘るのは相当面倒な工程になると思うのだけれども。私に必要なプリニウス関連の書籍はほとんど地下二階にあるのでいつも最下層まで下りていくのだが、この周りは海なのではないかと思うと不思議な感じがする。

もう一つ不思議なのは、この地下二階に蚊が出ることである。トイレがあるのでそこの水場の周辺に巣くっているものと考えられるが、地下二階の書庫にまでトイレが必要なのかという点もまた疑問だ。階段の付け方が下手くそで、一階から二階へ上がる階段、一階から地下一階へ下りる階段、そして地下一階から地下二階へ下りる階段がすべて別になっているということも含め、イタリア人の設計思想というのは理解しがたい。

イタリアの蚊は何となくひ弱である。日本のもののようなしつこさがなく、ちょっと追い払うとすぐにどっかへ行ってしまうし、喰われてもあまり痒くないような気がする。だからなのだろうか、イタリアには網戸というものがないにもかかわらず、昼間は大概の家で窓を開け放しており、部屋に蚊が入ってくるのをあまり気にしていないようである。

蚊取線香は見慣れた形の渦巻き香も含めて様々なものが売られているが、大して効き目がないとかいう話で、ほとんど頼りにされていない。こちらの人は肌を露出するような格好をすることが少ないからいいのだろうが、しかし観光客の中には足一面を蚊に食われているような人も見受けられた。いろんな意味で見ている方が痛々しくなるような足であったが、それでもその足を見せて外を歩いていたのだから見上げたものである。

イタリアのカフェ、バール、リストランテなどは路上に席を設けているところが非常に多い。狭いバールなどでは店内で酒を受けとったら外へ出るのが当たり前になっている。広い運河に面した店ならば外で立っていても岸に腰掛けていても至極快適(席に座ると高くつく)だが、路地裏のバールでは外で飲んでいたら蚊が鬱陶しくて仕方ない。と私は思うのだが、周りを見るとやはり皆気にしている様子はない。

このように街全体としては蚊に対して鷹揚に構えているのだが、私は基本的にアパルタメントの窓を締め切っている。窓が細い路地に面しているのと、一階がリストランテであって水気が多いせいだろう、開けているとすぐに蚊が入ってくるのである。昼間は何かと料理の匂いが入ってきて邪魔になるというのもある。

だからこれからの季節はクーラーに頼るほかはないのだが、そのクーラーが今朝から動かなくなっている。話題を提供してやろうというその心遣いはありがたいが、土日にかかると物事が動かないので、月曜日まではなんとかこのままこらえなければいけない。もうヴェネツィアもかなり暑くなってきたのだが。

大きく二つある、と書いた理由の一つしか説明していないが、それはまたクーラーが動くようになってからということで。

南瓜切という包丁について

季節はすっかり夏に入った。ヨーロッパの暦がどうなっているのか詳しく知らないが、しばらく前に「学校が終わった!」と掲げてセールをしている店があったのをみると、もうとっくに休みに入ったもののようで、大学や図書館も閑散としている。そして家族連れだったり社会見学と思しき団体だったりで、街中には明らかに子供の姿が増えた。しかし子供が古くさい街に興味を持つはずもなく、顔を見ると皆あまり楽しそうではない。

さすがにジャケットは着ていられないのでクリーニングに出した。アパルタメントから一番近い店で、その辺りの地名そのままの名が付いた店である。伝票を見ると、どうやらウェブサイトもあるらしい。服飾に関してはさすがイタリアだと感心させられたが、ラペルの部分のプレスが素晴らしい仕上がりだった。

これを受け取りにいった際、店主が私の顔を見ただけで伝票も見ずにジャケットを取りに行ったのは、こちらが特徴的な東洋人の客であるから不思議はない。ただそれを手渡してくれたときのこと、店主はジャケットを見てこっちを見て、そして意味ありげな笑いを浮かべながら「Arrivederci.」と言った。前にもちょっと書いたが、イタリア人は愛想笑いなど滅多にしない。ジャケットがイタリア製の生地を使って仕立てたものだったので、これは「あんたなかなか分かってるじゃないか」という意味だと受けとった。我らが水道筋の「ゑみや洋服店」の仕事はイタリア人にも通じるものがあったようだ。

リストランテなどに限らず、イタリアの店の名は通りの名前や店主の名前そのままというものが多い。このクリーニング店は地名の後に店主と思しき人の名が掲げられているのでその両方なのだが、そうやって自分の名前を前面に出して仕事をしようという気概が好ましい。住宅街の隅々まで大手チェーンの看板ばかり、寄らば大樹の陰、という日本とはまた好対照である。ちなみにヴェネツィアでスーパー以外にチェーンといったら「Rosa Salva」というカフェが四店舗(そのうち一軒はメストレ)あるのと、名前は覚えていないがジェラートの店で同じ看板を出している店が数軒、「GIUNTI」という本屋が数軒あるくらいか。アメリカの大手ハンバーガーチェーンの店は一軒だけある。いつ見てもあまり客は入っていない。

Mの字が特徴的なこの大手ハンバーガーチェーンであるが、リアルト近くのとあるショーウィンドウで「I'm fat」のmの字がこのチェーンのロゴに置き換えられているTシャツを見た。「I'm lovin'it」のパロディか。同じ傾向のもので「F○○k facebook! I've got real friends!(原文伏せ字なし)」「F○○k google! Ask me!(やはり伏せ字なし)」というものも売られている。ただアメリカが嫌いということなのかもしれないが、やはり新しいものが駄目なのだろう。以前食品包装用ラップに絡め、イタリアは進歩を拒否していると書いたが、それはこういうものを見ていたからである。

さて、平和な散歩に戻ろう。ファッション業界の慣習というのが私には未だに理解出来ないのだが、あれは必ず一つ季節を先取りしたものを扱わなければならないものなのだろうか。夏の最盛期はまだまだこれからだというのに、ショーウィンドウにずらっと革のジャケットを並べられたのでは暑苦しくてかなわない。隅から隅まで革のジャケットである。おまえたちはそんなに革が好きか、と思って我が身を振り返ってみたら、鞄も財布も小銭入れも靴もすべてイタリア製の革であった。

あちこち歩いて、最近は遠くのスーパーにも行ってみるようになった。そうするとほとんどのところが普通のスーパーの広さで、狭いのはリアルト周辺のスーパーだけだということが判明する。これだから中心部などに住むものではない。何も分からないまま大学のハウジングオフィスが提示してくれたところに入ったので、自分で選んだのではないけれど。

アスパラは直径7-8センチの束でしか売ってないので、ちょっと多いな、と思って敬遠しているうちに季節が終わってしまった。白アスパラがこの辺の名産だと先頃何かで読んだのだが後の祭り。セロリももう見ない。最近ではレモンが目立ってきたというところか。量り売りのものも勿論あるが、これは大きな袋入りで売っている。一気に十個、二十個と買っても、イタリアではすぐに使い切ってしまえるのであろう。量り売りで買えば一個30セントほどで、日本の半額以下となろうか。この値段なら使い倒せるわな。

あまり火を使わない生活が続いているので、包丁の出番がめっきり減ってしまった。野菜は葉物ばかり食べているから手でちぎれるし、肉は保存食のプロシュットやブレザーオラばかりなので、買うときに店でスライスされている。自分で切るのはパンチェッタくらいのものである。

アパルタメントで使っている包丁は日本から持参したものだ。日本を発つ前に「新天地を切り開く」という意味をこめて大学のゼミの方々がプレゼントして下さったもので、私の名が彫り込まれ、守り刀のようなものとなっている。堺で作られたもので、またこれが恐ろしいほどによく切れる。だからこれで野菜を切っていると面白くて仕方ない。玉ねぎは下手なスライサーより薄く切れるし、ジャガイモなどはまるでそこに何も存在していないかのように切れる。

ちなみに、こちらの玉ねぎは生で食べるには向かない。淡路のものばかり食べていたので生でサラダにする習慣があったのだが、一回やってみて後悔した。水にさらしても、まあ食べられないこともないか、という程度。結構種類が出ているので、片っ端から試してみれば一つくらいはおいしいものもあるかも知れないが、面倒なのでこれはおとなしく加熱して食べるに限る。

ニンジンは野性的というかなんというか、細くて不格好で、どれも高麗人参みたいである。そしてまた異常に安い。全体的に野菜は安いような気がするのだが、ものが豊富にあるせいなのか、或いは品質が低いせいなのかは今のところ判断できない。

ある日のこと、アマトリチャーナを作ろうとして例の包丁でパンチェッタを切っていたところ、断面をみて初めて骨が付いていたことに気づいた。ばら肉を使って作るものだから骨があっても別段おかしくはないのだが、日本で売っているものに骨が付いていたことは私の経験では無い。そういう部分を避けて作るから日本のは無駄に高いのだろうかとも思うが、おかげで最初からその存在を意識せずに切っていたのだ。そして切り終えるまでまったく気づかなかった。

愚鈍な人間であることは自覚しているが、指先の感覚には自信がある。レジ袋が二枚重なっていれば触っただけで分かるし、パスタの茹で具合は木のフォークで鍋を混ぜれば判断できる。車のハンドルにかかる力の変化でタイヤが滑り始める前兆も感じ取れるし、部屋のドアを開けたときの圧力の変化で窓が開けっ放しになっているかどうかまで分かる。その私が気づかなかったのだからその切れ味は相当なものである。欠点といえば、あまりに刀身が美しいのでわずかな汚れも目立ち、手入れに時間がかかることくらいのものだ。

気に入った道具には名前を付ける習慣がある。せっかくこっちへ持ってきたのだから何かハイカラな名前にせねばなるまいとあれこれ思案した結果、これで最初に切ったのが当地のズッキーニだったことからTagliazucca(和名:南瓜切〔なんきんぎり〕)と銘すこととした。

悪徳の甘味について

意外なことに週明けすぐに配管工氏と管理人氏がやってきて、トイレとクーラーの水漏れを直していった。さらにもう一つ意外なことに、やってきたのは午後六時前である。この時期のヴェネツィアは九時を過ぎてもまだちょっと明るいくらいなので、活動していてもおかしくないといわれたらそれもその通りなのだが、しかし、イタリア人は五時を過ぎたら絶対に働かないものという先入観がこちらにはあった。電話がかかってきたときは不意を突かれて少々慌てたものである。何しろこっちはもう晩酌にかかっていたので。

時間外労働ではあったし、非常に作業が的確で丁寧(他人の所有する家でなければ自分でやっていたところなので、何が原因でどう直しているかは見ていれば理解できる)であったしで、ちょっとイタリア人を見直したのだが、作業後にあちこちが水浸しのままだったり、バスルームに部品が一個放置されていたりしたのを見て、この詰めの甘さはやはりイタリア人の仕事だと確認できて安心した。

クーラーを直している間、脚立の上の配管工氏に向かって管理人氏があれこれ話しかけていた。GEとかDAIKINとかいって、どうやら電器メーカーの品定めをしているようである。現地人同士の会話だからスピードが速くてまったくついて行けなかったのだが、所々の単語と話の調子で、聞いているうちにそろそろオチだな、という雰囲気は分かる。いざ話が終わってみると、管理人氏一人は自分の話で笑っているものの、配管工氏はささやかな作り笑いで応じるのみであった。

日本でイタリア語の勉強をしていたときにイタリアの笑い話(barzelletta)というものをいくつか紹介して貰ったことがある。「バルゼッレッタ」で検索すればいくらか出てくるのではないかと思うのだが、どこでどう笑ったらいいのか理解に苦しむものばかりであった。管理人氏の話が理解出来たところで私も笑えたものかどうか、推して知るべしである。

配管工氏はその後、共用の廊下の電球が切れていたのも取り替えていた。管理人氏はずっとidraulico(イドラウーリコ、イタリア語にはhがないので、それを付けるとhydro-というような語感になる)と言っていたのだが、ただの配管工ではなかったか。

さて、安心してクーラーが使えるようになったのはよいが、ヴェネツィアでは雷を伴って強い夕立が降るような天気がしばらく続いた後、また涼しくなってしまった。したがってクーラーの出番はしばらくなさそうである。どうやらひと頃の厳しい暑さは一過性のものだったようだ。

ただ、体の方はもう暑熱順化が済んでしまっているので、室温が25度台だと涼しいどころか寒く感じる。湿度が低いとこうも違うものかと思ったが、寝ているときなど、毛布を外すと気化熱で体温が奪われていくのをはっきりと感じられるくらいである。おかげで風邪を引いた。

薬局(farmaciaファルマチーア)は街中至るところにあるものの、海外には日本の風邪薬のようなものはないと聞いていたし、体調の悪いときに無駄足を踏むのは避けたい。食料に余裕があるのを確認し、何もせずに一日中寝ていることとした。喉から鼻、頭痛へと半日くらいで目まぐるしく症状が変化していったが、辛抱強く毛布にくるまっていたところ、翌日には峠を越えたようである。

食料調達に外へ出てみると、同じような目に遭っている人がちょくちょく見られるようであった。通りを歩きながらふと見ると、カウンターのところで盛大な音を立てて鼻をかんでいる店員がいる。使っているのはやはり食卓用の紙ナプキンであった。

現地の人でも対応しきれなかったのであれば仕方がないかと思いながら、とにかく床上げとなれば何か祝いをせねばなるまいと考え、チョコレートを買いに行くことにした。向かったのはVizioVirtùという、多分ものすごく有名な店である。チョコレートの表面のデザインに見覚えがあったので、日本のテレビでも紹介されていたはずだ。

昼前の中途半端な時間だったからか、入ってみると広い店内には誰もいない。しばらくするとおばちゃんが一人入ってきて、ゆったりした口調で「Buon giorno」とご挨拶。見ていると徐にカウンターの中へ入っていった。店員だったようだ。

こういうことがヴェネツィアでは(そしておそらくイタリアではどこでも)よくある。店員が店員らしい格好をしていないので、店の人だと分からないのだ。とあるタバッキへ行ったときなど、店の入口でコルネットをほおばりながら井戸端会議をしていたおばちゃんが実は店員だったということもある。このVizioVirtùの人も、品のよい格好ではあるとはいえ普段着であった。後で見ると、奥の方で作業をしている人は白の調理服にチョコレート色のエプロンをしていたのだが。

気を取り直していくつかチョコレートを見繕う。店の人は小さな箱に仕切り紙も立てずに次々と品物を放り込んでいくのだが、今さらそんなことで目くじらを立てたりはしない。ただしその箱を最終的に秤の上に置いたのを見たときにはやられたと思った。ここでも量り売りか。香辛料を使ったものなどは目方で売ったら損をすると思うのだが。

アパルタメントに帰り、最初に選んだのはティラミスのチョコレートだった。何しろ風邪で消耗したところに老舗の逸品である。口にした途端に脳が痺れるような快感が走り、まさにVizio(悪徳)というに相応しい香りが広がる。その後に食べたペペロンチーノ(唐辛子)入りのものについては買うときも口にするときも一瞬の躊躇いがあったが、やはりそこにはVirtù(美徳)の女神に頭をどやされたかのような強烈な刺激があった。

香辛料入りのものは下手物のような印象もあるが、どれも上品な味にまとまっている。香辛料貿易の一大中継地点だったヴェネツィアならではの味、ということになるのだろう。

それはそうと、最初がティラミスだったのには一応訳がある。Tiramisùという名は、
Tira 「引く」の意の命令法現在二人称
mi 「私」の意の直接補語代名詞
su 「上に」の意の前置詞
と分かれ、全体で「私を高めて」というような意味になる。栄養価が高く、食べると元気になるという意味なのだ。病み上がりにはもってこいだろう。

……というところまではどんなレシピ本にも書いてある。しかしこちらの大学の先生と食事をしていた際、ティラミスを前にしながら聞いたところによると、この菓子は本来強壮剤だったそうである。ここでいう強壮剤とは、大人の強壮剤という意味である。

Spaghetti alla puttanescaの場合は単語として誤魔化しようがないせいだろう、「娼婦風スパゲッティ」と訳され、日本のレシピ本にも「娼婦が強壮剤として食べさせた」あるいは「客引きに使った」という解説が書いてある。しかしまさかティラミスも似たような出自だったとは。この語源に関しても、ヴェネツィア発祥だということに関しても異論が存在するようではあるが、私にはもう「Tirami su!」はそういう意味にしか聞こえない。

マンジャーレとアモーレは表裏一体、美味いものがあるとそっちへ結びつけていくというのはイタリアの一つの定型なのだろうか。

街を案内されていて「ここは貴族の遊び場だったんですよ」と言われ、よくよく聞いてみたらその遊びは「大人の遊び」だったりとか、そういうネタに事欠かないのがヴェネツィアという街である。これだから金持ちの貴族ってやつは。