伝説について

かつて全世界をおおい尽くした大雨をもって人類に試練をお与えになった主は、またその恩寵のしるしをも与えようとお考えになりました。世界を水の底に沈めた恐ろしい豪雨の記憶を消し去るため、世に二つとない素晴らしいもの、神の恩寵を語り継ぐよすがとなるものを創り出すおつもりになったのです。長くお考えになった末、全能の神は、星々の輝き、月の光の銀色、太陽の光の金色、高い空の青色、嵐の海のあぶくの白色、夕焼けの空の赤色、そして雨を知らせる雲の灰色をお集めになりました。それらをすべて小さな袋にお詰めになってから天使たちを召し出すと、この袋を地上にもたらし、その価値にふさわしい地へその中身を振りまいてくるよう命じられたのです。天使たちはすぐに出発し、全世界の上空を飛んであらゆるところを見て回りました。その中には本当に美しい場所もいくつかありました。しかしそれでも神の授けられた命令に適うような土地は一つもなかったのです。もう引き返そうかと考えたそのとき、天使たちは遠くの方に驚くべき景色を見つけました。かすかな細長い土地が水の上にわずかに浮かび上がっていたのです。そこでは優雅な鳥たちが風と戯れながら低く飛び、またその風は沼地の葦を撫でて優しい調べを奏でています。その地は創造されたときのままの魅力をたたえていたのでした。その狂おしいほどの美しさにうっとりとした天使たちはそこで立ち止まり、ゆったりとした身ぶりでその喜ばしい土地へと袋の中身を振りまきました。するとたちまち、その小さな島々のうえに金の円蓋が立ち上がり、白い大理石の館、そびえ立つ鐘楼、滑らかな石畳の敷きつめられた広場、そして彫像やモザイコ画で飾り立てられた教会が現れたのです。このようにしてヴェネツィアは生まれました。だからこの地は本当に神様の贈り物なのだということです。

……これまで言及することがなかったが、うちの家主は物書きである。最初の頃にマ氏から説明されたところによると、新聞の主幹をやっているとかいう話で、普段は講演やなんやかやで忙しい、ということだった。初めて会ったときにその新聞を一部戴いたのだが、新聞といってもおそらくヴェネツィアの地方紙で、またどうやら季刊のもののようである。知られた人なのかと思って名前を検索してみるといくつか著書もあるようだった。そこでそのリストをプリントアウトして持ち歩き、いくつか本屋を巡ってみたのだが、しかしこれがまたなかなか大変なものだったのである。

ヴェネツィアは土地が狭いので本屋も小さいところが多い。店の棚に並べられる本の数が制限されると売れる本に特化していくのは当然の成り行きであって、したがってここの本屋には地図かガイドブック、イタリア料理の本ばかりが並んでいるのである。だが、ヴェネツィアは海産物で知られる街だからであろう、その棚の中に当然のような顔をして「Sushi」「Sashimi」の本が混じっている。

ついでにいうとこちらのスーパーではマグロやサケの切り身に「Sashimi」と表示されているし、また醤油も売られている。それもキッコーマン。ただしワサビを見かけたことはまだなく、彼らがサビ抜きでどうやってSushiを食べているのかは分からない。さらについでに寿司ネタでいくと、最近こちらのASTORIAという会社が「YU Sushi Sparkling」なるワインを売り出したという話をこちらの先生から伺った。寿司に合わせて極辛口に作ってあるらしく、まだ店頭で実物を見たことはないが、これはボトルのデザインがなかなか綺麗なのでちょっと検索してご覧戴きたい。ちなみに「YU」とはどういう意味かとこちらの先生が問うてみたらしいのだが、向こうから販促しておきながらも担当者が勉強不足だったのか、芳しい答えは得られなかったとのことだった。よく分からないけど何となく格好いいから、という理由で外来語を使うのはどこの国でも一緒らしい。

さて、それはそれとして家主の本の話に戻ろう。大手チェーン以外の本屋にはそれぞれ得意とする言語や分野というものがあって、目当ての本を探すためにはヴェネツィア内をあちこち歩き回らなければならない。で、結局のところはまたこちらの先生の助力を仰いだ。先生が「古本屋」と呼んだ店へ連れていってもらって見つけたのだが、どうもこちらでは、新刊書店→発売からちょっと時間の経った本を扱う店→さらに刊行の古い本を扱う店へ、と本が流れていくようで、ここで「古本」というのは一度読者の手に渡ったものを指すのではなく、日本で言う「新古書」に近い。だからここでいわれる「古本屋」で買っても本は綺麗だし、値段も新刊当時と変わらない。ただしこちらでは本を値引きして売るのが習慣であるので、定価というわけでもない。

そうして手に入れたのは、ヴェネツィアの歴史に関する本である。イタリア語の勉強も兼ねて端から訳しているのだが、この地の人々の間で受け継がれてきたおとぎ話をその歴史の合間へ織り込んでいる、というのがこの本の特徴ということになるのだろうか。「歴史」も「物語・おとぎ話」もイタリア語では同じくstoriaになるというか、そもそもギリシャ語にhistoriaという言葉があってラテン語のhistoriæとなり、イタリア語ではhを発音しないのでistoria、そしてstoriaとなっているわけだから、英語でいうhistoryもstoryも同じ言葉なのだと言われれば納得するほかはないのだけれども、それにしてもこれを文脈だけで訳し分けなければならないというのは骨である。それともあれか、歴史とは結局作り話であるという達観がここには示されているのだろうか。ともあれ、この本の序文にも書いてあったのだが、政治史の研究が定まって幹が通ったところで、枝葉の「民衆の歴史」に目が向けられるという流れはこれまたどこの国でも一緒らしい。

家主の他の本のタイトルを見てみると、ヴェネツィアに関するものとおとぎ話などに関するものが半々くらいで、ヴェネツィアに関するこの本もどちらかというとそういう「伝説」の部分に力が入っているようだ。ちなみに残りの本についてであるが、月末に電気のメーターの確認にやってきたマ氏が、私が家主の本を読んでいるのを見て喜び、残りはオレが買ってきてプレゼントしてやる、と言ってくれた。単純に喜ぶべきなのか、それともプレッシャーをかけられたと考えるべきなのか。

で、冒頭に掲げたのはこの本の最初の部分で紹介されている、ヴェネツィアの起源に関する伝説である。おとぎ話であるから話の構造が単純なのは仕方ないが、色を集めて袋に詰めて、という部分はいかにもこの街らしく華やかで美しい。そこから考えると、どうもヴェネツィアの全盛期に創出された話であるように思われる。

歴史に関する部分はこちらへ来る前に塩野七生氏の本で学んでいたお陰で私の語学力でも充分理解出来るし、ところどころへこういう「おはなし」が差し挟まれるので、かなり分厚い本であるにもかかわらず読んでいて飽きない。さて、帰国するまでにすべて訳出できるであろうか。

日陰について

以前スプリッツの話をした際、cicchettoチッケット(複数形cicchetti)という言葉について「少量の酒」と書き、その後また別のところで、これはもしかしたら意味が違うかもしれない、と書いていたことがあったかと思う。解明が進んだのでご報告しよう。

そもそも手元の小学館の伊和辞典に「(グラッパなど強い酒について)少量の酒」とあったのが始まりである。派生して別の意味もあるのだが面倒なのでここでは省略。で、この電子辞書にはオックスフォードの伊英辞典もついているのでそちらも見てみると「(liquore)bracer, short, shot, snifter BE」とあった。どれも少量の強いアルコールという意味の単語であってまったく齟齬はない。ちなみに「BE」というのは「British English」の略号だそうな。

ところがヴェネツィアの市中へ出ると、どこへ行っても酒のつまみのようなものを指して「cicchetti」と書いてある。一箇所や二箇所ではないので誤用ではありえないし、後で引用するようにヴェネツィア料理の本でもチッケットは「食べる」ものと書いてある。明らかに辞書の記述が現実に合っていないのだが、まあ、同じ酒に関する言葉であるし、時代によって意味が変化するようなことだってあるだろう、日本やイギリスで編纂された辞書であれば多少の間違いやずれが生じるのも仕方ないかと思っていた。

そんな中、研究に関して手元のこの辞書では間に合わない単語に遭遇することも増えてきた。今後のイタリア語の勉強のためにもまた必要だろうと思い、イタリアの国語辞典についてこちらの先生に教えを請うたところ、TRECCANIトレッカーニという辞典を教えていただいたのである。これはイギリスのブリタニカのように、由緒があるイタリアの国立百科事典(Enciclopedia)だそうで、辞書(Dizionario)、同義語類語辞典(Sinonimi)としての機能もある。

「機能もある」という書き方が辞典にはそぐわないような気もするが、それもそのはず、この辞典はネットで使えるものなのだ。大学教授が信を置いて使うような辞典がネットで誰でも無料で使えるというのはちょっと驚いた。日本で最も権威ある辞典といえば小学館の『日本国語大辞典』であるが、これをネットで使おうと思ったらそれなりの対価を必要とするはずである。

見てのとおり、国が作るか一出版社が作るかというところに直接的な原因があるが、それはまた間接的には、文化事業に対する人々の理解度が違うということでもあるかと思う。それはそれとしても、日本で国家事業として同じようなものを作ろうとしたら、きっと反対する人が出てくるのではないか。国家が行えばそこに権威化という作用が働くのは仕方のないことで、国が「正しい日本語」を固定化すれば文化の多様性が抹殺される、とか何とか面倒なことを言い出す人が必ずあるだろう。

ところがイタリアでは、国家が集めた知識を皆が平等に利用できるようにする、ということが自ずと優先されているわけだ。これを見て、この国では保険や公共交通機関が妙に安いのを思い出した。きっと税金の観念と似たようなものなのである。

交通機関なら電車でも船でも、高いものを利用しようと思えばそういう選択肢がいくつもあり、日本人からは階級差があからさまなように見える場面もある。しかし、使える人にはそれ相応のものを用意したうえでぱーっと使ってもらい、そのお金をその他大勢の最低限のラインを維持するために回すというのも充分筋が通っている。貴族のいないこの時代、富裕層がいつまでも富裕層である保証もないわけで、どこまでこの構造が維持できるかという点は別の問題だが。

日本人が考える「平等」って何なのだろうかとちょっと考え込んでしまったのだがそういう話はつまらないので放っておいて、イタリアと比べてみた場合、日本人は「国家」というシステムを信用しきれていない、ということはまず言える。ここの人々が「イタリア」というものに対して持つ信頼感は、しかし日本の政治家が言うところの「愛国心」と同じものではない。何というか「年季が違う」のだ。共和制というものが二千年以上前に存在していた国では何もかもが日本と違いすぎる。どうも私には上手く説明できないが、ともあれ、この国と人々との関係は日本人が真似しようとしてできるものではないという気はする。

さてさてまた盛大に遠回りをしたが、私もイタリア共和国のおこぼれに与ってcicchettoについてトレッカーニで調べてみたところ、次のようになっていた。
cicchétto s. m. [dal fr. chiquet, der. di chiqueter «sminuzzare»]. –
1. Bicchierino di liquore forte, come acquavite o sim.: bere un c.; ricomparvero più volte a bere cicchetti su cicchetti (Pavese).
やはり「少量の強い酒、蒸留酒など」と書いてあり、「チッケットを飲む」という用法を示したうえで、パヴェーゼの一節が引用されている。前後の文章の流れが分からないし、イタリア語はイタリア人と同じで都合の悪いときには当たり前のように原則を無視するから自信は持てないのだが、おそらく「彼らは幾度となく現れてはチッケットにチッケットの杯を重ねた」という訳になる。

どう見たところで手元の辞書の方と一緒である。イタリアの国立の辞典にそう書いてあるのだからもう間違いない。途方に暮れてこちらの先生に伺ってみたところ、なんのことはない、結局例の「ヴェネト語」というお答えだった。要所要所で権威にまつろわぬ人々である。

少なくともヴェネトではチッケッティを「おつまみ」という意味で使うのは間違いない、そしてここでは少量の酒は「ombra」というのだと教えられ、その表現は例のヴェネツィア料理の本の序文で見たことがあったのをすぐに思い出した。ヴェネツィアの漁師がcaigo(ラグーナ特有の霧のこと、これもヴェネツィア方言)に阻まれて漁に出られず、

 Allora tanto vale andare a bere un'ombra di vino e mangiare un cicchetto.
だったら(オステリアへ行って)軽くワインでもひっかけ、チッケットをつまんでいてもおんなじことだ。

という内容の文があったのだ。ちなみにombraという言葉は標準イタリア語では「日陰、影」を指す。何しろ日差しの強いこの地でのことであるから、
「ちょっとそこの日陰で一休みしてワインでも飲もうや」
「ちょっと日陰で飲もうや」
「ちょっと日陰へ」
「日陰」(グラスを傾ける仕草が伴う)
とだんだん約まってきたのではないかと想像してみた。日本語にも酒に関する隠語が山ほどあるが、やはり酒という言葉は直接使いづらいというか、何かしら後ろめたさが伴うものなのだろう。

バールへ入ってきて開口一番、"Dammi un'ombra di prosecco."(プロゼッコ一杯くれ)とか言っているゴンドリエーレとか、一度見てみたいものだ。

そうそう、プロゼッコをプロゼッコというのは本当にヴェネツィアだけらしい。ちょっとでも離れたら「プロセッコ」になるのだそうな。

水面に映る灯について

一週間ほど前のこと。こちらではレデントーレの祭があった。その由来などは検索して他で見てもらった方が早いので省く。日程はだいたい7月の第3日曜日ということになるのだったか。その日曜日がメインで土曜日はその前夜祭ということになるのだが、前夜祭の方が盛り上がるのは日本でもすっかり定着したキリスト教の祭日と同じである。

その前夜祭で花火が上がるというのが有名らしく、またカルネヴァーレに次ぐヴェネツィアの一大イベントと聞いては見逃すわけにはいかない。些か潤いには欠けるが、同時期にこちらに派遣されてきた縁で何かというと一緒に行動する三匹のおっさん(全員日本人)で花火見物に繰り出そうということになった。

花火はジュデッカ運河に据え付けられた台船から打ち上げられる。ということは、当然ではあるが、ヴェネツィアの中心であるサン・マルコ広場周辺、スキアヴォーニから見るのが一番だということになる。先日マ氏に聞いたところによると、ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世の像の台座に登って見物すればよく見える、若い奴らは台座のもっと上の方まで登ったりするんだ、という話だったが、そういうことは勢いのある人たちに任せよう。私たちは歳を取ってひねくれているので、人が多く集まるであろう場所は避け、ザッテレの方へ向かうという手筈を立てた。

それはそれとして、その混雑ぶりがどういうものなのか一目見ておきたいので、夕食の約束の一時間以上前にアパルタメントを出て、一人サン・マルコ広場に偵察に行ってみた。しかし六時前後のサン・マルコ広場は普段とそう変わりはない。

拍子抜けしてアカデミア橋を渡るが、サルーテ教会の辺りまで行ってみるとだんだんそれらしくなってきた。観光客はまずサン・マルコ広場へ向かうであろうから、ここら辺を狙うのは慣れた地元の人たちなのであろう。場所取りのシートが隙間なく敷き詰められている。サルーテ教会辺りの島の先端、Punta della Doganaといわれる場所にいたグループなどは早くも盛り上がっていたが、だいたいの人はただ寝っ転がっていたり、本を読んだりして時間をつぶしているようだった。

ザッテレまで進み、明朝のメインイベントでドージェがレデントーレ教会まで渡っていくという仮設橋のところまで行く。今はこの橋を架けるのにイタリア軍が動員されるのだそうで、橋脚となる台船を数箇所に配置したうえで、がっちりとした立派な木橋が架けられている。但し元来この橋は沢山の船を繋げて作るものであったという話で、それにちなんでいるのだろう、橋の周辺を埋め尽くした見物客の船が互いに綱で連結されていた。

このように伝統を大切にし、それに誇りを持って忠実に記憶していこうとする人々がイタリアにはいくらでもいるのだから、昔ながらのやり方で橋を架けようとしても皆喜んで協力するだろうに、とも思うが、そんな橋を作ったらジュデッカ運河は完全に通行止めとなってしまう。巨大なクルーズ船などは当然無理だが、現代の仮設橋は小さい船なら下を通れるように作ってあるのだ。お祭りのためであっても一瞬たりとて経済活動を止める訳にはいかない。いやむしろここで稼がなければいけない。世知辛いものである。

橋の袂は動けないほど人が集まっているので通り抜けることもできない。迂回して待ち合わせ場所へ向かうが、すれ違う人を見ていると大きく膨らんだスーパーの袋やピッツァの箱をもった人がちらほらと居る。場所取りの係と合流してこれからゆっくり飲み食いするのだろう。何しろ花火は十一時半からなので、これから相当な時間をつぶさなければいけない。何度も書いているが、この時期のヴェネツィアの空が完全に暗くなるのは九時から十時前である。開始時間が遅いのはそのせいだとこのときは考えていた。

おっさん方と合流してタヴェルナで夕食。ここでBigoi in salsaなるものを初めて食す。ビーゴリというのはこの地方に特有の太いパスタで、後日こちらの先生に伺ったときなどは「うどん」と仰っていたほどのものである。暇潰しに訳しているヴェネツィア料理の本にはBigoliと書かれているのだが、現場での表記はBigoiであった。同様にZaletiというヴェネトの菓子も実際に店で見るとZaetiというふうにLが抜けるのだが、こちらの先生によるとヴェネト語というものはそういうものらしい。これだからイタリア語は切りがない。

レシピ本の注釈を見ると、Bigoi in salsaは祭日の前夜など、小斎日に食べるものだ、と書いてあったので頼んでみたのだが、レデントーレはキリスト教のイベントというよりは地元のお祭りなので、ちょっと違ったかもしれない。注文時に店の人が注意してくれてはいたのだが、アンチョビを大量に使ったもので相当に塩辛い。物珍しいというだけのものであって、こちらへ旅行されることがあってもまずおすすめはしない。

食事が終わってからザッテレへ向かう。例の橋は通行が解禁されていて人が動いているので、せっかくだからとこれを渡ってドージェに先駆けレデントーレ教会へ。どちらかというとこのお祭りはここが中心なのだから、ジュデッカも相当な人手である。教会脇では福引きのようなものもやっているし、見慣れた形式の出店まであった。教会前の階段は居並んだ人々で野球場の観客席のようになっていて、この辺は日本人にも馴染みのあるお祭りの雰囲気である。それでもレデントーレ教会へ一歩入ると、その内部は打って変わってひんやりとした静謐な空気に充たされており、歴史のある宗教施設の力というものを感じさせられた。

ザッテレへ戻って花火が始まるのを待つ。しかしいざ始まってみると、予想通りたいしたことはなかった。技術も演出も日本のものには遠く及ばない。イタリア国旗をイメージしていると思しき単純な赤と緑の花火が三割くらいもあったか。とにかく単調で物語性がなく、五分も見ていれば飽きる。これを見ていると、日本の花火はもっと外国人客を呼べるな、と思った。

日本のものは「花火大会」と銘打たれて、花火そのものを観賞するのが目的である。時期を考慮すれば迎え火や送り火のようなものと繋げて考えることもできるのかもしれないが、ともあれ、花火にはどういった歴史や意味合いがあるのかなどと今まで考えたことはなかったし、またここにいては調べる方策もない。それでも改めて思うに、夜空に華々しく広がってまたすぐ消えゆくものをただじっと眺める、というのは世界的にも変わった習慣なのではないだろうか。

ヨーロッパ全体のことは知らないが、このレデントーレの花火はその色彩の妙を楽しむというのではなく、祭日を迎えたことを喜び、祝砲を打ち上げるという意味合いが強いのだと思われる。それであれば花火そのものの演出に興味が向かないのも無理はないだろう。打ち上げ時間が日付の変わるところにかかっているのは、ただ空が暗くなるのが遅いからというわけではないようだ。年末のカウントダウンと同じなのだと考えればよいか。

終わった後には見物客の船が一斉に帰って行く。そちらの方がまた壮観で、暗い水面に船の灯火が連なって流れてゆく様をアカデミア橋の上から眺めていると、さながら蛍の群れのようであった。こちらの方がよほど日本人の嗜好に合うというものであるが、やはりこの地ではそういったものを眺めて余韻に浸ろうなどという人は少ない。何しろ祭りは翌日が本番なのだから、これからまだまだテンションを上げていかなければいけないのだろう。ただの花火見物でもいろいろ違って考えさせられるものである。

阿房蒸気について

言わずと知れたことだが、ヴェネツィアは水の都であって街中に運河が張り巡らされている。辞書を繰ると、運河というのは「人工的に陸地を掘って作られた船舶用の水路」と書いてあるのだが、しかしこの街では陸地の方を人工的に作ったのであって、運河となっている部分は元から海の一部である。

粘土をくっつけて作っても、粘土の塊から削り出して作っても、どちらも粘土像と言ってしまってよいのだから、どちらから形成されたかという問題はひとまず措こう。「陸地を掘って作られた」という部分を削り、運河とは「人工的に作られた船舶用の水路」である、と定義すれば解決するし、実際そうしている辞書もある。

それでもまだ分からないことがある。海はいったいどこから運河になるのだろう。例えば、湖を埋め立てていって細長くしたものは川と呼んでよいのだろうか。よいものと仮定した場合、どこまで狭くすればそれは川になるのだろう。

人の認識というのは考えてみると難しいものである。さて、ヴェネツィアの運河は本当に運河と呼称してもよいものだろうか。

 

馬鹿の考え休むに似たり。暑さのせいで頭がおかしくなったのか知らん。なんだか記録的な暑さだというし。

 

先日聞いたところによると、イタリアの暑さのピークは今頃で、例年通りであれば八月に入るともう落ち着いてくるということである。もっともここ数年、世界のどこへ行っても「例年通り」に期待したところで裏切られることが多いのであるが。

それはそうと、この街の運河にはその定義のとおりに数多くの船舶が往来している。その運河にはまた多くの橋が架けられていて、歩くだけで大概の場所に行けるようになってはいるものの、目的地によっては遠回りを強いられることも多く、当然船に乗った方が便利である。

中には個人で船を所有している人もある。夜に運河沿いで飲んでいるときなど、目の前をステレオの重低音を響かせながら流していく船があったりするのが面白い。イルミネーションで飾り立てていたり、若い女性が何人か同乗していたりして、何となく週末の夜の梅田駅前を思い出させるものがある。ただし、船の灯火に関してはおそらく法によって決められている部分があり、装飾のイルミネーションはそんなに派手なものではない。夜は皆速度も控えめで、おとなしいものである。

それでもやはり大半の船は公共のものか仕事に関するものである。リアルト市場に魚を運んでくるのも当然そういう輸送船で、よく観察するときちんと冷蔵コンテナ付きの船であった。イタリアの魚の流通管理について侮っていたことを詫び、以前書いた文章の内容は訂正しなければならない。また、ゴミを集積して島外へ運ぶのにもクレーンの装備された専用船があるし、パトカーや救急車も「車」ではなく船である。イタリア語で船はnave(小さいものはbarca)だからパトナーヴェと書くか。実際はbarca della poliziaかと思われるが。

さてそんな中、庶民たる私に直接関係のある船はというと、ヴァポレットという水上バスくらいのものである。以前家主と食事をした日に初めて乗せられたが、一回€7.50かかった。日本円に直すと千円前後か。しかしこれだけの金を払って乗るのは本来稀なことである。

観光客であれば一日€20で乗り放題とか三日間でいくらとかいう乗船券を買うのであるが、長期滞在者にはこれでは逆に不便である。マ氏に促され、その翌日カルタ・ヴェネツィアというカードを購入してきた。ヴェネツィア市民以外は発行手数料その他が€50、そしてまた幾許かのチャージ分を払うことになるので最初こそまとまった出費となるが、これで一回€1.50で乗ることができる(10回分をまとめて買うと€14.00になってさらに€1.00お得になる)ようになる。差額が€6.00ということで、五往復目辺りから元が取れ始めるという計算である。

その存在については当初から聞かされていたのであるが、長期滞在者であることを証明するのに何か必要なのではないか(正式な滞在許可証はまだ発行されていない)等、購入の条件がはっきりしなかったので様子を見ていたのであった。マ氏に聞いたらパスポートだけでよいということなので、早速買い求めてきたというわけである。

ヴェネツィア本島内はほぼ踏破し、細かい地理も相当なくらいまで把握できている。使い始めてみれば、ヴァポレットをどう使えば効率的に移動できるかということが直感的に分かるようになっていたので、購入のタイミングとしてはちょうどよかったのかもしれない。リアルトの窓口で顔写真入りの赤いカードを受けとってみると、ヴェネツィアの住民として一人前になったような気もしてくる。

さて、これでいつでも気軽に乗れるようになったわけだが、すっかり歩くことに慣れてしまっているので、いざ使えと言われても最初はなかなか用途が思いつかなかった。それでもまず乗ってみないことには始まらない。

「用事がなければどこへも行つてはいけないと云ふわけはない。なんにも用事がないけれど、ヴアポレツトに乗つてリドまで行つて来ようと思ふ。」

というわけですぐさまリアルトの乗船場でヴァポレットに乗り込み、終点まで行ってみた。vaporeというのは蒸気あるいは蒸気船を意味し、vaporettoとはその小さいものを指す言葉であるが、無論現代のヴァポレットは蒸気で走ったりはしない。足を動かすことなく移動するのは久しぶりで楽なのはよいが、乗客の多い路線ということもあって昼間はまだちょっと暑苦しい。それでもカナル・グランデを抜ければそこそこ快適になってきた。

スキアヴォーニ辺りなら道が広いとはいえ、ひっきりなしに行き来する人々に気をつけなければならないので、歩いているときには辺りを見回している余裕はない。船に乗っているとその点でも楽で、ぼうっとパラッツォ・ドゥカーレを眺めていると、来たばかりの頃の観光客気分が甦ってきた。

各駅停船であるし、スピードはそんなに速くないので、リアルトからリドに着くまで45分ほどかかる。海の上には渋滞がないので、ほぼ完璧に定時運行されるというところに何故か違和感を抱いた。私もだいぶイタリアに慣れたようだ。

リドへ近づくと、車が走っているのが見えてきた。別にイタリアで車を見るのが初めてというわけではないが、やはり新鮮である。船を降り、どうしようかと一瞬迷ったが、船着き場の正面の大通りを抜け、とりあえずアドリア海が見えるところまで行くこととした。

目抜き通りを歩いていると貸し自転車の店がいくつか目につく。歩き回った後につくづく後悔したが、これは借りておいた方がよかった。本島とは距離の感覚が違うのである。ただまっすぐな道で、いい加減飽きてきたかという頃になってようやく海沿いへ到達する。

アドリア海沿いはほぼ全域が海水浴場になっているようである。水着姿の人がうろうろしていて、シャツと革靴という身形の私は場違いなこと夥しい。海岸へ入ることは諦めて道路からアドリア海を望むが、やはり海の色がまったく違っていた。

左へ曲がって北側へ進み、反時計回りにリドを半周していく。南へ進んでいればエクセルシオールが見られたようだが、何にせよ私に用事のあるところではない。そしてまた北側というのはあまり観光客が行くような場所ではないようで、だんだんと住宅街のような気配になってきた。

本島とは違い、広い道路があって大きな庭があってと、どこかで見たような高級住宅街のような印象もあるのだが、やはりここでも空き家が多く目についた。雑草が繁茂して石畳にひびの入った庭と、ことごとく割られた窓ガラスとの組み合わせには寂寥感ばかりが漂う。私自身はこういう雰囲気は嫌いではないというか、むしろそういう場所が好きなのであるけれども、それはそれとしてあっちもこっちも夢の跡となっているのは残念なことであるな、と思いながら歩を進める。すると、びっしり丸ごと蔦のようなものに覆われた家というのがあって、これはさすがにファンタスティカと評すべきところまで突き抜けていた。

一時間以上歩き回って、すれ違った人は十人程度だったか。船着き場周辺以外で走っている車も五台くらいしか見なかったが、そのうちの一台は救急車であった。驚いたのはそのスピードである。本島の方で夜の街をふらふらしていたとき、救急船が猛スピードで運河を駆け抜けていったのも見たことがあるが、イタリアの緊急車両とはきっとそういうものなのだ。これはこれでイタリアのイメージに合致する。ランボルギーニのパトカーが必要になるのも納得できるというものである。

元気のよいのはこの救急車だけであったが、おそらくまだ時間が早かったのだろう。イタリア人は日の高い時間帯(それでも夕方五時前後だった)にはあまり外を出歩かない。まだ半分しか歩いていないし、日と時間帯を改めてまた行ってみようかと思う。

カッフェについて

イタリア語でコーヒーはcaffèという。カフェではなくてカッフェ。最後にアクセントがあるので始めは違和感があったがさすがにもう慣れた。こちらではエスプレッソが主流なので「Un caffè, per favore.(A coffee please.)」と頼むとエスプレッソが出てくると何かで読んだのだが、今のところ実際にそういう頼み方をしたことはないので本当かどうかは分からない。だいたいヴェネツィアは観光地なので、客は余所者であることが前提である。イタリアならではの頼み方をさせるようにできていない。

ヴェネツィアには世界最古のCaffè Florianという超有名店があるのだが、そこにはまだ入ったことがない。前を通ったことはいくらでもあるが、サン・マルコの辺りはいかにも観光地然としていて落ち着かないので、ここでゆっくりしようという気になれないのである。まったく、わさわさうろうろざわざわと観光客が目の前を往来するサン・マルコ広場のテーブルで、ありがたがってカップッチーノを飲んでいる人の気が知れない。豪華な内装の店内に入ってしまえばいいのかもしれないが、それではまた違う意味で落ち着かない。朝早くならまだなんとかなりそうではあるが、わざわざそんなところまで行って朝食を、という気にもならない。

さて、こちらのアパルタメントには当然のように直火式のエスプレッソメーカーが備えてあった。機械式の方がいいに決まっているのだが当然それなりの買い物になるし、なによりこのアパルタメントにそんな大層な機械を置くスペースはない。それは別に構わないのだけれども、このエスプレッソメーカーも最初の頃に書いたように何かと問題のある先住民から受け継がれた道具である。やはり苦労させられた。

コーヒーというか、茶道具というのは基本的に洗剤とスポンジを使って洗ってはいけない。洗剤の香りが邪魔になるから、というのはしかし昔の話である。最近のものであっても環境に配慮した石けんタイプのものならそういうこともあるが、今時の洗剤はきちんと濯いだら香りが残るようなへまはしない。イタリアの洗剤とて同様である。

アルミの器具ならほっといてもできるものなのだが、コーヒーの場合は道具の表面に酸化皮膜を形成するのでそれを落としたくないということであろうか。嗜好品であるからしてそこには思い込みの効果が多分に作用する。科学的に正しいとか正しくないとかいうことは考えてもあまり意味がないが、ともあれ道具は水だけを以て丹念に洗わなければいけないとされる。

丹念に洗わなければいけない。洗剤を使ってはいけないというのは洗剤を使わなくていいという意味合いではなく、したがって水でさっと流せばいいということではないのだ。先住民には一度会って説教をする必要があるかもしれない。

備えられていたエスプレッソメーカーには細かい部分にびっしりとコーヒーの粉が固着しており、それが酸化して、悪臭とまではいかないものの微妙な匂いを発していた。また、蓋が上手く開かないのでどこかをぶつけたかして歪んでいるのかと思ったら、ヒンジ部分に浸み入ったコーヒーが乾いて詰まっているのであった。

一瞬、捨ててしまおうかと思ったが、仮住まいのものを勝手に処分するわけにもいかない。最初の頃は時間を持て余していたということもあり、新品に戻すようなつもりで洗剤とスポンジで汚れを削り取り、これなら使ってもよいと思えるまであらゆる手段を講じてひたすら洗った。

ちなみにアパルタメントには大小二つのエスプレッソメーカーが備わっている。普段使っているのはサイズの小さい中国製の安物、そしてもう一台は5-6人用の大きなものである。こちらはイタリア製。日本を発つ直前に三宮の「いたぎ家」で飲んでいたときのこと、イタリアへ行ったらムーミンのパクリみたいなキャラの書かれたエスプレッソメーカーばっかり並んでいる、と弟さんが話していたのだが、まさにそれであった。BIALETTIというメーカーのもので、確かにムーミンに似た変なおっさんが右手の人差し指を高々と突き上げた絵が描かれている。街中で見ると同じサイズの中国製のものより概ね€10くらいは値が張るが、無論のことこちらの方が造りがいい。

このアパルタメントに必要な大きさだとは到底思えないのだが、どういうわけかこちらの大きいものも頻繁に使われていたようで、同じように汚れていた。ただしフィルターが歪んでいる(アルミ製なので下手に扱うとすぐ歪む)のでこのままでは使えない。各部品は個別に売っているのでフィルターだけ買いなおして使おうと思えば使えるのだが、私には使う機会がなかろう。それでもとりあえず徹底的に洗って再生しておいた。

道具が整ったら次はコーヒー豆である。アパルタメントには結構な量の粉が残っていて、これがいつ購入されたものだか不審ではあったのだが、しかし特に変な香りがするということもない。同じように残されていたオリーヴオイルと自分の買ってきたオイルを見比べてみたところ消費期限が同じであったので、先住民は私の入る直前までここで暮らしていたものと判断し、このコーヒー豆も捨てるのは思いとどまった。調達先がはっきりするまではこれでしのぐことにする。

もちろんスーパーで売っている豆などは使う気にならない。最初に見当を付けたのはマ氏から教えられたヴェネツィアーノおすすめの店、アパルタメントのすぐ近くにあるCaffè del Dogeという店である。

街中のパスティッチェリア(菓子屋)のショーウィンドウなどにもこの店のロゴが入った粉が並んでいて、どこでも買えるようではあったが、近いことでもあるしとりあえずカフェの方へ行ってみる。入口のステッカーの年号が目に付いたのでよく見てみると、雑誌だかなんだかでカフェのランキングがあるのだろうか、それに選ばれたというようなことを示すステッカーがいくつも貼られていた。

それを見て、ちょっと私の狙いとは違ったかな、と思ったものの、とりあえずエスプレッソを頼んで店内を観察。小綺麗な店であるし、リアルトの中心とはいえ少し路地を入ったところにあるので場所も申し分ない。ただし有名店なので、時間帯にもよるが客は多い。

当然ここでも粉を売っていたので、あのコーヒーの粉(caffè macinato,カッフェ・マチナート)も欲しい、と言ってみる。粉はショーケースに陳列されていて、開けるのに手間取っていた。あまりここへ来てこれを買って帰る人はいないようである。味の方はというと、まあ、最初に残されていたものより幾分かはましであるものの、という程度だった。パック詰めの粉は結局どれも似たり寄ったりである。有名店の名を冠しているとはいえ、その店で飲むのと同じ味が期待できるはずもない。

大学の読書室(共同研究室)でコーヒーを淹れなくなったのでここ数年は足が遠のいているが、神戸ではマツモトコーヒーという店で焙煎し立ての豆を買ってきて、毎回挽くところから始めていた。やはり自前で焙煎をやっているような店を探さねばなるまい。古来のカフェ文化を守り続けるこの街にまともなコーヒー豆店がないはずはない。

情報はもう一人の派遣者である先生から入った。カンナレージョの方にいい店があるという。だいたい何もかも頼りっぱなしではあるのだが、お住まいの関係で特にこの地区に関する情報にはお詳しいのである。

TORREFAZIONE CANNAREGIO(カンナレージョ珈琲豆店)という何の衒いもない名前のその店は、教えられたとおりPonte delle Guglieのすぐ近くに見つかった。表には1930という創業年が書いてある。店内へ入ると生豆を輸入する際に使われる麻袋がいくつも壁際に置かれており、立ち込める新鮮な豆の香りが何故か懐かしい。やはりコーヒーはこれでなくてはいけない。この店はその場でコーヒーを淹れてもらうこともできるのだが、この日はヴェネツィアへ来て初めてcaffè freddoを頼んだ。これは直訳するとアイスコーヒーということになるが、まず氷が入っておらず、そしてタイミングの問題もあったのかもしれないが、日本のものほど冷やされていない。

ちなみにこの時期どこでもおすすめされるのは、シェケラート(shakerato)という言語学的に面倒な名前の飲み物である。shakeという英語をイタリア語の動詞化(shakerare)してその過去分詞形、という成り立ちの言葉らしいが、コーヒーと砂糖と氷をシェイカーに入れて作るものだとのこと。バニラやクリーム系のリキュールが入ることもあるようだ。後から自分でお好みの量を、ということができないので、頼むのと同時に砂糖の量を聞かれる。

それはそうと、久しぶりにまともなコーヒーを味わいながら、おすすめの豆は、と店の人に聞いてみた。するとこっちの豆はアラビカ種でどうのこうのという説明が始まった(前の客にも同じ説明をしていた)が、そんなことは産地の名前を見ればほぼ見当が付く。そうではなくて、エスプレッソとの相性について知りたかったのだが、それ以上に質問を重ねられるほど私は器用に話せない。

こういう場面に出くわす度に、あのときはどう言えばよかったのだろう、と家へ帰ってから復習する毎日である。最初の頃よりは反射的に答えられる場面も増えてきたのではあるけれども。

このときも仕方がないので一通り言わせておいてから、とりあえずはくせの少ないものを、とコロンビアを200g買い求めて帰った。エスプレッソの探求もイタリア語会話の上達もまだまだ先は長いようである。

海の男たちについて

約束の日、マ氏と待ち合わせた後、まずヴァポレット(水上バス)に乗せられた。サン・マルコの近くからだったので、ジュデッカかリドへ連れて行かれるのかと思ったが、船は外海方面へ進み、ジャルディーニで降りろと言われる。確かに遠い場所ではあるが、ここは歩いても行ける場所である。しかもその後はアルセナーレへ歩いていった、つまり来た方向へ戻っていったので、何のために乗ったのかが今ひとつ分からない。しかしこれは家主の到着までの時間稼ぎと、また、夕涼みというくらいの意味合いであったようだ。実際、八時くらいの時間帯にヴァポレットに乗るのは非常に心地よいものである。

以前も書いたと思うが、今の季節のヴェネツィアで八時というのはまだ「夕方」である。そもそも最初の待ち合わせが七時半なのだ。ヴェネツィアはそういうテンポで動いている。

それにしても巡り合わせというのは分からないものである。私のことをよく知る方はきっと腹を抱えて笑うことだろうが、案内されたのはなんとイタリア海軍のサロンであった。道中、家主の旦那が潜水艦乗りだったという話があったのは、ここへ行く理由を説明していたものらしい。そしてマ氏の方は空軍に所属していたともいうが、どちらも佐官までいったそうなのでかなりのものだ。ちなみにイタリアには数年前まで徴兵制があったのでこれは特別なことではない。

徴兵制は世界的に減る傾向にある。世に紛争が絶えることはないが、現代では世界大戦規模の戦争が想定しにくいこと、経済の低迷による軍事費の削減要求、そして兵器が高度化しているせいで士気の低い兵隊では使い物になるまで育たない、などの理由で割に合わなくなっているのである。

では今でも世界中で紛争に首を突っ込んでいるあの自由の国などはどうやって兵員を確保しているのかというと、金で釣るのである。何年か兵役を務めたら給料とは別に大学に通う奨学金を支給するとお触れを出せば、所得格差の大きい彼の国ではいくらでも若い志願者が集まる。ただし、紛争地で命を落とすことなく帰ってこられたとしても、PTSDで鬱になったり自殺したりと、結果的には大学どころではなくなってしまったりする人も多いらしい。

それはそうと、為政者として兵員が欲しければ、経済的な格差が広がるように仕向けていけばいいということだ。徴兵制などなくてもいくらでも人が寄ってくるようになる。政策的にも予算的にも容易なものである。世界的な潮流を読み解こうともせず、今さら徴兵制がどうのこうのと言っている政治的センスの欠片もないどこかの野党は、ぜひ彼の自由の国に学ばれるとよい。

だいたい日本に徴兵制があった頃だって、金持ちはどうにかして兵役を逃れるか後方にいるかしたもので、前線に出たのは貧しい農家の次男や三男だったはずだ。賛否どちらの立場であろうと、歴史に学ぶというのはそういうことではないのか。

およそヴェネツィアには似つかわしくない話にも思えるが、この街とてヴェネツィア共和国時代は峻厳なリアリズムに徹することで幾多の戦争をくぐり抜け、その結果として今こうやって静かな老境を迎えているのだ。アルセナーレの広大な軍管区とこのサロンはその名残でもある。

さて、きな臭い話はこの辺にして建物の奥に進む。すると家主が待っており、さらにその奥にリストランテがあった。

場所が場所だけにおそらく一般客は入れない。当然客層は限られてくる。客は私たちの他にもう一組だけで、ご夫婦とその友人と思しい三人組だったのだが、家主とマ氏は皆と親しげに挨拶していた。そしてその中のご婦人の方がどうも東洋人に興味をひかれたらしく、向こうの食事が終わって旦那とその友人がバールへ移動(同じ建物内にある)したあと、こちらのテーブルにやって来て話に混ざる。ちゃんと聞き取れなかったが、子供だかなんだかが日本で仕事をしていたことがあるらしく、日本のことをよくご存じである。

プロゼッコの話をしたときに一度書いたが、イタリア語では母音に挟まれたSは濁音になるので、大概のイタリア人は大阪のことを「オーザカ」と発音する。分かりやすいようにと私も「オーザカ」と説明していたのであるが、このご婦人はちゃんと清音で発音していた。

こちらの食事も終わってバールへ移動。総勢六人でなんだかよく分からないことになっていった。ハーブを使ったリキュールでプリニウスに関連するものがあるらしく、それっぽいものをショットで飲まされたが、食後には向いているかもしれない。

旦那の方はいい感じに出来上がっていて、話すときにはもっと動け、それが生きている証なんだ、と仰る。イタリア人男性は話すときに必ず手が動く、というのは「ヘタリア」にも書いてあった(ちなみに手が動かせないとき、例えば冬場で手をポケットに入れているときなどはそれに伴って無口になるらしい)が、実際にイタリア人の口からそれを裏付ける言葉を聞くことができるとは思わなかった。

そんな中、例のご婦人が、イタリア語を上達させるためにはとにかくイタリア人と話さなきゃ駄目だ、と繰り返し仰る。しまいには、私が話し相手になってやるからそのうちまた会おう、と。最初にこちらのテーブルに押しかけてきたときからそれを狙っている節があったのだが、それにしてもイタリア人の押しの強さと親切心というのは底抜けであるなと思う。

日本のテレビでイタリアの紀行番組を観ていると、別れに際してマンマが、アンタはもう私の子供みたいなもんなんだからいつでもまたいらっしゃい、というようなことを言う場面がよくある。家主とマ氏に最初に会ったときにも似たようなことを言われたのだが、これは決まり文句みたいなものであり、深い意味はないのではないかと考えていた。

しかしこうやって実際に接してみると、これはもう掛け値なしである。ヴェネツィアという街では、細い道をくっつきそうになりながら人々が行き交い、常に顔を突き合わせながら生活している。互いに手の届くような距離にいて、深く関わり合うことでみんなが人間らしく生きている街なんだ、というようなことをマ氏が話してくれた。袖擦り合うも多生の縁、という感覚か。キリスト教に輪廻転生の概念はないが。

ともあれこのとおり、どうやってついていったのか思い返してもよく分からないが、始終会話は成り立っていた。いや、なんとかなるものである。またそこで便利だったのはB5サイズの携帯用ホワイトボードだった。仕事柄、黒板にものを書いて説明することに慣れているということもあるのだが、日本の地理の説明など、私の語学力だけで満足に説明できるものではない。こういう使い方を想定して購入し、その通りに役に立ったわけで、本当に持ってきて正解である。

サロンのある建物を出て、皆でジェラートを食べながら運河沿いの石のベンチに座り、まだ話は続く。家主がヴァポレットで帰っていった頃には十一時を過ぎていた。皆元気なものである。家主の方は知らないものの、マ氏は七十歳を超えているという話なのだが。

歩いて帰る途中でのこと、マ氏は、ここがかの有名なダニエリ(一泊€2.500の超高級ホテル)だという説明をした勢いで、よし、静かにしてろよ、というジェスチャーをし、客でもないのにロビーに入っていった。仕方がないので後に続く。当然ながらどこもかしこも呆れるくらい豪華な造りである。マ氏はここで結婚披露宴をしたのだというが、このときはまた新婚旅行と思しい日本人の夫婦がいた。美男美女だわ金持ちだわで普段なら僻むような言葉の一つも出るところだが、この日の私は何となく気持が豊かだったので、彼らの幸せを願いながらロビーを後にしたのであった。

越えられぬ壁について

エアコンの故障が思わぬ方向へ転がった。典型的な「怪我の功名」というやつである。まあ、順を追って記すとしよう。

エアコンが動かなくなったその日、まずはパラッツォの共用部分、階段の踊り場にあるブレーカーをチェックしに行った。こちらでは電圧が安定しないうえによくブレーカーが落ちるというのはすでに何度か経験済みである。他の電化製品がすべて正常に動いているのでそこが原因だとは考えにくいのだが、他にやりようがないのでとりあえずチェックしに行ってみた。

見てみるとブレーカーが一つ落ちており、上げようとしてもまたすぐ下がる。日本であればこういうときは電化製品の方に漏電が起きている可能性が高い。先日エアコンの水漏れを修理してもらった際に排水経路を変更していたのが裏目に出て、配線の方に水が入った可能性もあるかとこのときは考えた。

このパラッツォでブレーカーが落ちるときというのは概ね他の部屋のも揃って一斉に落ちるというのがまたイタリアらしくて豪快なところで(何のためにブレーカーが個別になっているのだろうか)、電源が落ちてから部屋を出るのにもたついていると、隣人がこちらの部屋のものまでついでに上げてくれたりすることもある。したがって一つだけ落ちているというのがまた珍しい(日本では普通)。実際エアコンが動かなくなった日には廊下で話し込む声がしばらく聞こえていたし、私が考え至ってブレーカーを見にいったときにはケースが中途半端に閉まっていて、人の手が入った形跡があった。他の人も上げようとして上がらなかったのだとも考えられ、よって私が正しい復旧方法を理解していないという可能性も低い。

ところで一つ腑に落ちないのは、落ちているのが自分の部屋のブレーカーではないということである。先ほども書いたように他の電化製品は動いているので、何がどう関係しているのやらさっぱり理解出来ない。ともあれ週が明けてから(前回も書いたが、土日に連絡してもまず事態が動くことはない)症状をまとめたメールを書き、管理人氏に報告する。

その翌朝のこと、管理人氏がやってきて、どんな具合だ、と聞く。暑さで疲弊しきった私が症状を示そうとリモコンのスイッチを押したら、これが当たり前のように動くではないか。驚いた顔をしてみせた私に対し、管理人氏は、いや、オレの部屋のスイッチをちょいと上げてやったからもう問題ないのさ、と。管理人氏はこのパラッツォから十分ほど歩いたところに住んでいるはずであり、何を言っているのかよく理解出来ないので、後学のためにもそのスイッチはどこにあるのかと聞いてみた。

案内されたのは隣の部屋であった。この部屋にあるサブブレーカーが一つ落ちており、それを上げたからもう大丈夫、という説明である。この部屋は現在無人であり、何故これが落ちたのかは管理人氏にも分からないということであった。

しかしそれ以前に分からないのは、何故隣の部屋のサブブレーカーが落ちたら私の部屋のエアコンが動かなくなるのか、という点である。これに関しては何の説明もなかった。イタリアでは電気系統においても日本の常識は通用しないということか。仮にこの先何年もイタリアで暮らしたとしてもきっと理解出来ないことであろう。

ときに管理人氏が、オレの部屋、と言っていたのは管理人氏が所有する部屋且つ彼がデザインした部屋、という意味であり、どうもこのパラッツォは私の部屋の方の家主と共同経営しているもののようである。まだ日本にいた頃のメールのやりとりの中で、家主が「管理を任せている人」という遠回しな書き方をしていたのが些か気になってはいたが、どうも管理人氏という名称は改める必要がありそうだ。以下、名前の最初の文字を取って「マ氏」とする。マッカーサー元帥を略してマ元帥というふうに当時の新聞に記されていた例があるので、略称としておかしくはないはずだ。マ氏は本当はマ大佐なのであるが(後述)、ともあれ、イタリアにはマで始まる名前がいくらでもあるのでこれで迷惑がかかることはなかろう。

話は逸れるが、イタリア人の名前はものすごくありふれたものが多い。こぞって人と違う名前を付けたがる日本とはまた対照的である。これは生まれた日にちなんだ聖人の名前を付けたり、その街の守護聖人の名前を付けたりすることが多いからだそうな。だからヴェネツィアにはマルコという男性が非常に多いのだと教えられたことがある。ここで一応断っておくが、マ氏の名前はマルコではない。私はまだヴェネツィアでマルコと名乗る男性に会ったことはない。

逆に姓の方はバラエティに富んでおり、未だに、ああその姓は聞いたことがある、というイタリア人に会ったことがない。皆が皆聞いたこともないような姓であって、覚えるのに苦労する。まあ、そんなに知り合いが多いわけでもないのだが。

閑話休題、怪我の功名その一はまずこの隣の部屋を見せて貰ったことである。それはもう贅沢なものであった。私の部屋の三倍か、いや多分四倍以上の広々としたスペースにピアノやら高そうな椅子やらソファーやら大きなテレビやらが並んでおり、窓からは広場の様子がよく見える。内部の階段で階上に上がるとそこにはまた豪華な寝室や浴室、書斎が設えてあり、天窓がリモコンで動いたりしていた。家賃がどれくらいかかるものなのか想像もつかない。自分の部屋が常識的な広さであるし、家賃もまた常識的な価格帯なので油断していたが、やはりヴェネツィア、やはりリアルトである。どうも私は本当に「隙間」に住んでいるようで、隣人がすべてセレブに思えてきた。そしてそれ以上に、家主とマ氏がとんでもない人に見えてきた。いや、二人ともかなりの人だというのは最初から聞いてはいるのだが。

ちなみに最初の頃「最近どこへ行っても幅をきかせている東アジアの某国の人」が深夜まで騒いでいたという話を書いたが、内部の構造から判断するに、あの騒ぎは間違いなくこの部屋でのことである。あれは帰国前の最後の夜だったようだ。なんというかまあ、何もかもイメージ通りだからこれについてはもう何も言うまい。

怪我の功名その二は、後日、家主とマ氏から夕食に招待されたことである。不自由な思いをさせたお詫びという意味合いもあったのだろうか。何しろ例の部屋を見た後であるし、きちんとしたシャツを着てこいとも言われていたので、どんな店へ連れて行かれるのかとびくびくしていたのだが、これが完全に予想を越えた場所だった。

この先も長くなるのでここでいったん切ろう。