滞在許可証について

イタリアでの私の身分証がやっとできた。ここで話題とするのはPermesso di soggiornoペルメッソ・ディ・ソッジョルノ、いわゆる滞在許可証というものである。もちろん大学のほうの身分証は初めの頃に貰っており、研究活動のほうはいたって順調に進んでいる。

イタリアに観光以外の目的でビザを取得して三ヵ月以上滞在する場合、最初に県(と訳していいのだろうか)の役所(prefettura)へ行ってCodice fiscaleコーディチェ・フィスカーレというコードを発行して貰う。これは直訳すると税務番号という意味を持つが、イタリアではこれがないとあらゆる経済活動が出来ない。正式な賃貸契約書も書けないし、家賃の銀行振込のときにも提示を求められる。ネットでスクロヴェーニの予約をするときにも記入させられたような記憶がある。そして例のごとく、これを発行して貰うのにイタリア到着から二週間かかった。しかしこれは大学のほうの都合があったので、お役所仕事のせいばかりではない。

こちらの大学で聞いたところによると、このコーディチェ・フィスカーレは日本に居る間にイタリア大使館でも申請できるという話なのだが、実際のところは確認していないので分からない。どちらにせよ私にとってはすでに終わった話である。

その後また本土のほうの警察署(questura)の移民局へ出頭し、ビザや移民統合事務局の認可証、大学の受入書類などを確認したうえで写真を提出、そして指紋を採られる。スキャナのような機械で一本ずつすべての指紋を採った後、さらに人差し指から小指までをまとめて一回、親指をもう一回、極めつけにいわゆる掌紋まで採り、当然もう片方の手についても同じ手順を踏む、という念の入りようである。

これらの手続きは始まってしまえばそう時間はかからないのだが、それまでの待ち時間がとにかく長い。こちらの大学職員の方が付き添ってくれていたのだが、その人のほうが我慢できない様子であった。私は待つことに慣れているので三時間ほど地蔵のように微動だにしないで待っていたのだが、こっちが落ち着いているのがまたイタリア人の気に触るらしく、余計イライラしているのが面白かった。

さて、これが5月末のことである。その際、この後30日以内にはペルメッソが出来上がったことをSMSで連絡するので取りに来るように、と言われたが、連絡が来たのは9月末のことであった。彼らの言う30日とは30営業日のことかもしれないと最初のうちは考えたが、それすら軽やかにぶっちぎった。人がせっかく好意的に解釈してやろうと骨を折っているのに、もうこの数字にはどのような意味を与えることもできない。さすがイタリアである。

表向きにはちゃんとしているように繕っているが、実際この国では何もかもがザルである。家賃の振り込みの際、銀行の窓口では毎回ペルメッソはないかと聞かれていたのだが、向こうもその実態は重々承知している、というか銀行だって似たようなものなので、無いと言えば済し崩しに切り抜けられた。顔馴染みになってからはパスポートの提示すら必要なくなったが、それが後で問題になるということもない。

彼らはごく稀に思い出したように厳格になり、自分の仕事の存在理由を主張し始めることがある(以前書いた聖アントニオ聖堂の警備員がいい例である)が、これは癇癪みたいなものなのですぐに元通りの適当な仕事に戻る。そういうタイミングに当たったら運が悪いと思って出直せばいいだけである。最初の頃は、言われたことはきちんとやらなければ、書類は不足無く揃えなければ、と日本人たる私は考えたのであるが、もういい加減慣れた。これでは移民の不法就労が横行するのももっともなことである。

それにしても、もう滞在期間も折り返したことだし、これまで滞在許可証が無くて困ったことなど何一つなかったので、別にもう受けとらなくてもいいようなものだが、出来上がったと言われては仕方ない。

しかしここで一つ問題があった。役所への出頭日がベルギー出張の日と重なったのである。のんびり仕事をしたうえに最悪のタイミングに重ねてきたわけで、この間の悪さというのもまた天才的なものだとしか言いようがない。仕方がないのでマ氏に相談したうえで役所へメールを送ったところ、一週間後になってやっと返事があり、違う期日を指定してきた。

ベルギーから帰ってきた翌日となるが、まあいいだろうと思っていると、数日後に電話がかかってきて、また延期だという。咄嗟に理由を聞き返すだけの会話力がないのでとりあえず言うことだけ聞いておいたが、同じようにベルギーへ行っていたもう一人の派遣者である先生の場合、一度は同じように延期を頼んで同じ日に延ばされていたものの、再延長はなかったようである。まったく見当が付かないが、聞いたところでどうせまともな理由ではなかろう。

紆余曲折を繰りかえし、面倒に面倒を重ねてきたわけだが、しかし仕上げのペルメッソの受け取りは一瞬で終わった。何度も期日が変わったせいで完全にイレギュラーな時間に指定されていたようで、同行してくれたマ氏が入口近くの窓口で尋ねると、もう配布は終わった、との返事。日本人同士のつながりでここのタイムテーブルについてはよく分かっているし、こいつらが行き当たりばったりで動いていることはとっくにお見通しなので、こちらもいちいち驚いたりはしない。向こうが先の電話の後で寄越した日程変更についてのメールを見せたところ、中へ入ってその旨を伝えろと言われ、着いてから10分もしないうちに受けとることができた。他の方の報告によると、上手くタイミングを合わせても一時間はかかるとのことだったのだが。

よって、イタリアに留学し、ペルメッソについて思い悩んであれこれ検索した結果このブログにたどり着いた、という方には何の参考にもならないことをここで謝っておく。そういう方は、東京の方の大学からいらしている先生のブログ、

サバイバル☆サバティカルinVenezia

をご参照いただきたい。私は客員研究員なので大学の方がいくらかサポートしてくれたのと、家主が世話好きなのとで相対的にかなり楽をしているようだ。大学のハウジングオフィスとつながっている物件には同じような境遇の人ばかりが入るからであろう、マ氏は二年前にもここの大学にアルゼンチンからやって来たprofessoressa(professore教授、の女性形)の世話をしたと言っていた。

イタリア語には男性名詞と女性名詞の別があるので、このようにこっちに聞くつもりがなくとも話題としている人の性別が分かってしまう。このプロフェッソレッサについては以前にも話を聞いており、初めの頃に問題としていた「先住民」ではないかと踏んでいたのだが、「二年前」ということは間にもう一人居るのだろうか。最初に入ったときの部屋の埃の積もり具合からは、一年間誰も入らずに放置してました、という可能性もなくはないのだけれど。

ベルギーについて

ブリュッセルはただひたすら寒かった。到着したのは昼過ぎだったので最初はそう違いは感じなかったものの、なにしろ朝がきつい。サンカントネール公園の近くに宿を取ったので朝早く公園に散歩に出てみたが、もう完全に冬の空気だった。コートを用意しておいて正解である。それでも軽く体調を崩したが。

空港からホテルに向かうバスの中でアナウンスを聞いていると、途中に「なーとー」という停留所があって思わず降りそうになったが、ブリュッセルにはNATOの本部もあるのだった。ここはEUの中心地であり、それゆえ私が日本で所属する大学のEUオフィスもこの街に置かれている。今回私に課せられた用務は、そこで開かれるワークショップに参加して発表を行うというものであった。

ワークショップは朝早くから行われるので前日にブリュッセルに入ったのだが、夕食をどうしようかと考えながら街を歩いてみたところ、どうも適当な店が見当たらない。中華料理やsushiの店は論外。小綺麗な店があったので表に出ているメニューを見てみると、その店はスパゲッティが中心で、なかにはnero di seppie(イカスミ)などと書いてある。何でヴェネツィアからやってきてわざわざここでイタリア料理、しかもヴェネツィア料理そのものを食わなけりゃならんのかと消沈。結局スーパーを見つけてそこで出来合いのものを買って済ませた。いかにも出張中のサラリーマンといった風情である。

ちなみにこの国はフランス語とオランダ語(の方言)が公用語なので、スーパーはフランス系のカルフールである。店員の応対はヴェネツィアよりも丁寧だった。ただ、バスの運転は明らかにベルギーの方が荒い。イタリアのバスだって日本に比べればかなり攻める方で、ランナバウトなどではいつもふりまわされているのだが、何というか、イタリア人は丁寧になめらかに飛ばすのでまだ動きが読める。ところがベルギーのバスはとにかく発進と停止がきつく、不快極まりない。二連バスの重量で急発進と急停止を繰りかえしていればすぐに駆動系が駄目になると思うのだが、ベンツのバスはトランスミッションが頑丈にできているのだろうか。

翌朝、ホテルの近くに欧州委員会の本部であるベルレモンというビルがあるというのでとりあえず行ってみる。周辺の地区はどこもかしこも忙しく工事が行われ、どこにでもありそうなオフィス街という趣の巨大な建物が林立しているが、その中でも一際目を引く奇妙な形をしたビルがベルレモンである。しかしわざわざ見に行くほどのものではなかった。

自由になる時間はほとんどないので、とっととオフィスに向かう。この街には鉄道やバスやトラムが張り巡らされているようだが、路線を調べてみたところ、歩いて30分の距離が20分に短縮できるといわれてもあまり効率がよいとは思えない。ヴェネツィア在住の人間としては徒歩で移動する方が気楽なので歩いて行く。

土曜日の朝だったが、中学生くらいの子供の集団をよく見かけた。揃いでラクロスの道具を持ったグループもあったし、部活動のようなものがこちらにもあるのだろうか。フランス語を話すグループの方が多いようだったが、見ていると人種の混ざり方がヴェネツィアよりも多様である。ヴェネツィアというのはイタリアの中でもかなり特殊な街なので、比較しても意味はないのだが。

ほとんどオフィスに缶詰状態だったので観光などできはしないし、大学の金で出張しておいてのんびり観光などしていたらそれはそれで問題なのだが、ワークショップの始まった二日目の夜、食事の前後にグラン・プラスに立ち寄った。しかし発表の準備に忙殺されていてベルギーについて下調べなどをしている余裕はなかったので、グラン・プラスについても予備知識がない。細部の建築様式についてもいくらか観察できるようにはなっているものの、その場でゴシックだと言えるほどには目が肥えていないし、また修復直後だったそうでえらく金ぴかな建物も目に付いたが、謂れが分からなければ世界遺産だと言われても感心の仕様がない。後で調べてコクトーが絶賛していたと知ったが、そんな話もあったかな、という程度である。

さて、食事が終わった後、ホテルに帰ろうとそのグラン・プラスで一人別れて歩き出すが、その後完全に道に迷った。一応おおまかな方向だけは教えてもらって出発したのだが、すぐに怪しいと分かる。日本から来た先生方がまとまって宿泊しているホテルで地図を貰っていたものの、これは表示範囲が狭くて大して役に立たず、また自分の宿泊しているホテル周辺なら事前に頭に入れているといったところで、その範囲にも到達できない。

とりあえず見たことのあるものにたどり着くまで歩くほかなかろうと思って進むと、大きな道路沿いにある巨大な観覧車の足元に着いた。これは見たことのないものである。今調べ直してみても一体どこまで行ったのかさっぱり分からない。どうにもならんなと思って、ちょっと飲みに行っていたという風情の地元民らしき三人組のおっさんに道を尋ねる。そのうちの一人が英語を話してくれたので、サンカントネール公園の傍のホテルまで帰りたいのだが、と説明すると、この時間ではもうトラムも動いていないから、と言ってタクシーをつかまえてくれた。それにしても無駄なところで冒険をしたものである。ただ、乗ったタクシーがシュコダ(運転手に確認したところ、ブリュッセルでの発音はスコダだったが)のオクタヴィアだったのはちょっとした拾い物だった。

帰りが遅くなった御陰でこの夜は風呂を沸かすのを諦めざるを得ず、シャワーだけで済ませることとなった。リアルトのアパルタメントにはシャワーしか付いておらず、せっかく半年ぶりに出会ったバスタブだというのに、一回しか利用できなかったのは無念だとしか言いようがない。

三日目に用事が終わってからは他の先生方にくっついてWITTAMERという有名らしいチョコレートのお店に行く。席がなかなか空かず、他の先生方はお土産を買いに店舗内に入っていったので、表の席で国語学の先生と二人、ホットチョコレートを頼んで席を確保しながら待つ。この国には二つの公用語があると先に書いたが、駅名や道路標識などはかならずその両方を使って二重に表記されている。この店でテーブルクロス代わりに敷いてくれる紙にも二通りに何やら書いてあったのだが、不思議なのはその隣に「ごゆっくりどうぞ(原文ママ)」と書いてあることであった。日本人はベルギーといえばチョコレートしか思い浮かばないのであろうか。さて、この表記が中国語に置き換えられるのはあと何年か、などという話をしながらチョコレートを味わう。

その後は夜の飛行機でヴェネツィアに戻る。他の先生方はもう一泊される方が多いようだったが、飛行機で一時間半ちょっとの距離でわざわざもう一泊する理由もない。移動のための航空機代は別途支給されるものの、滞在費用はヴェネツィアへの派遣費用の中から賄うことになっているので宿代は自腹なのである。

空港から出ると、ぽつぽつと雨が降り始めた。湿度が上がって、ベルギー帰りの身には空気がまとわりつくようである。この街でコートを着るのはしばらく先になりそうだ。暗闇のなかを進むアリラグーナの船内には数組の観光客が見られたが、時計は23時を回っており、カップルの旅行客も言葉少なである。夜だからか心なしかスピードは控えめだったが、窓に当たる雨音は少しずつ強くなっていくようだった。この時期にこうやって低気圧が来ると、ヴェネツィアでは厄介事が一つ増える。この翌日から始まってまずは三日ほど面倒な思いをしたのだが、詳しいことはまた改めて。

モーダについて

所用あって近いうちにベルギーへ赴かねばならない。ここのところ普段使っている天気予報のアプリにブリュッセルの表示を追加して向こうの様子をチェックしているのだが、昼間の気温は似たようなものでも、最低気温が恐ろしく低い。

ヴェネツィアでも朝晩は冷えるようになって、薄手のジャケットでは間に合わないくらい寒く感じる。山育ちであって私の体は寒冷地仕様にできているはずなのにこちらでは妙に寒さが身にしみる、と雑談に話したところ、痩せたせいではないのか、と言われた。こちらへ来てから痩せたとは一度書いたが、それで寒さに弱くなるとまでは思い至らなかった。なるほど、体脂肪にもそれなりに重要な役目があるものである。別に落とそうと思って落としてきたわけではないので後悔するということでもないが。

昼間、日差しのあるうちはそこそこ暖かいので、ヴェネツィアの観光客や力仕事の人の中には未だに半袖や短パンの人が居る。しかしヴェネツィアーニはもう軽めのダウンジャケットを着ているし、中にはがっちり冬物のコートを着ていたりする人もある。というわけで、先日はcappottoコートを探して島内を歩き回った。

ここしばらく気をつけてショーウィンドウを覗いていたのだが、カンポ・サン・バルトロメオの店は雰囲気はいいものの€1000くらいするので手が届かず、リアルトにある三軒の店のうち二軒はアメリカのブランドなのとドイツのブランドなのとで回避。イタリアに来ているのに無粋なアメリカのブランドのものを買うことほど下らないことはない。ここはやはりきちんとしたイタリアのものを持って帰りたい。

三軒目の革のコートは気になってはいたのだが、基本的に黒ばっかりなのでやめにした。最初の頃にも書いたが、ヴェネツィア人はひたすら黒を好む。そういえば日本にいた頃、こちらの大学からいらした先生が黒のシャツに黒のジャケットを着ているのを見て圧倒された覚えもあった。何だったか、とにかく高位の役職なのだが、昔のヴェネツィアでは全身真っ黒の格好をしている役職があったと塩野さんの本で読んだような記憶があって(芹男さん御確認願います)、それにちなんでいるのかと思ったらそうでもなさそうである。とにかくみんな黒いので、これがベースの色なのだろう。迷ったらとりあえず黒を着ていれば安心なのである。みんなが同じ地味な色のものを着ているのは日本人のようでもあるが。

たまに明るい色のパンタローニ(イタリア語ではズボンともパンツとも言わない)を穿いている人も見かけるが、彼らはおそらくヴェネツィアーニではない。イタリアでも南部と北部ではまったく感覚が違うようで、何にしても北部は落ち着いたものである。

サン・トマの店にはいい色のものがあった。値段もお手頃である。イタリア人風の名前だが創業地は当時ドイツ領で今はフランス領、だけれども今の元締めはドイツ資本という自動車メーカー(これだけで分かる人がいるだろうか)と同じ名前のブランドで、洋服のブランドとしては日本で見たことがない。車の方は大阪で走っているのを一回だけ見たが。

創業者はイタリア人だし、どっかで服飾メーカーが枝分かれしたのかなと思って調べてみたらどういう訳かフランスでもイタリアでもなくドイツのブランドだったのでここもやめにした。これだからヨーロッパはややこしい。だからあまり国にこだわることに意味は無いのかも知れないが、日本人としてはそうもいかない。ヴェネトは特にオーストリアやドイツとのつながりが大きいし、北にある分だけ気候も近いので、ドイツ風のがっちりしたものも好まれるのかも知れないが、私はやはりイタリア風の柔らかいデザインのものの方がよい。

とにかく、欲しいのは青色のコートである。ウェネーティコと呼ばれていた古代のヴェネツィア人はほとんど青色の服装をしていたと家主の本に書いてあったので、それに合わせたいとの思惑があるのだ。こちらで売っているものは青というよりどれも藍色に近いのだが、こちらへ来たばかりの頃、この藍色のワンピースを着ている女性を何人か街で見かけ、その美しさに感心したという記憶もいくらか与っている。

他にヴェネツィアの色と言えば、緋色に近い紫色であろうか。プリニウスが無駄な贅沢品だと文句を言っていた高価な紫染料を使ったもので、ヴェネツィア共和国の旗に使われていた。この旗も買って帰りたいと考えているのだが、どうも土産物風の安っぽいものしか見つからない。

それにしてもイタリアの店がイタリアのブランドを扱っていないのはなぜだろうかと思ったが、これについては一日歩き回った末、イタリアのブランドは高いので街中のお手頃価格の店では売れないのではないか、という仮説を立てるに至った。

駅の辺りからカンナレージョを突っ切ってみるが、こっちの方には紳士服の店がほとんどない。リアルトへ戻る途中、ダメ元で前回こき下ろしたCOINに入ってみた。紳士服売り場へ行ってコートを見ているとすぐに店員が寄ってくるが、こちらではそういうものなので仕方ない。

イタリアではとにかく人を介在させないと何もかも進まない。何度も書いているようにスーパーでも肉や惣菜を買うのには量り売りのカウンターへ行かなければならないので、メモしたものだけを買おうと思って行ってもえらく時間を取られる。一人一人きっちり相手するので、やたらと待たされるのである。

タバコや飲み物については自動販売機というものも稀に存在しているが、どうもこちらの人は他人の手を煩わせないと買い物をした気にならないようである。サン・マルコ広場近くの路地に自販機を並べたブースがあるのだが、人がいるのを見たことがない。また、駅で切符を買うのも自販機でできるのであるが、手数料が余計にかかるのに有人のカウンターへ並んでいる人も多い。ちなみにRegionaleレジョナーレ(普通電車)やRegionale veloceレジョナーレ・ヴェローチェ(快速)の切符の場合、菓子や新聞などを売っている駅構内の売店で区間乗車券を買った方が早い。これは有人カウンターはもとより、あろうことか自動販売機よりも早い。

こちらの切符の自動販売機では、まず行き先を入力することを求められる。すると利用できる電車の時刻と価格がずらっと画面に示され、その中から乗りたい電車を選ぶと、一等にするか二等にするか、座席の位置はどこがいいか、人数は何人分か、復路の切符も要るか、支払いは現金かカードか、といちいち答えていかないといけないのである。きっと有人カウンターでのやりとりをモデルに作られているのであろう。ちょっとパドヴァまで行きたい、電車の時間も分かっている、というときには煩わしいことこのうえない。

というわけでこちらでは会話ができないと生活に必要な最低限の買い物にも困るので、イタリアへ旅行をされる場合は少なくとも英会話能力かイタリア語会話集などの本が必須である。店へ入るとすぐに人が寄ってくるというかなんというか、とにかく店の空間についての概念が違うので、どこでもまず店舗内に入ったらそこの店主なり店員なりに挨拶をせねばならない。また街を歩いていると、時折店の入口を塞ぐように立って誰かとお喋りをしていたり、一人でただぼうっと通りを行き交う人を眺めている人を見かけるが、これは暇を持て余した店主であるので、用事があるならこの人に挨拶して店内に入れて貰うということになる。しかし中へ入って挨拶して会話したうえで何も買わずに出てくる、というのには非常に高度な会話能力を要する。

いろいろやりとりをするなかで、「こういうものが欲しかったのだがここにはなかった」、あるいは「ちょっと高すぎる」「ここが気に入らない」などと説明ができれば店主の方でも奥からいろいろ出してきてくれるし、それでも駄目なら、じゃあ仕方ない、また機会があれば、と気持ちよく送り出してくれるが、一軒一軒全力で対話していたら目当てのものを見つけるのに何日かかることやら。のんびり生きているイタリア人ならそれでもいいのかもしれないが、そんなやりとりに付き合う意志は私にはないし、そもそも私のコミュニケーション能力では一軒回っただけでその日の精神力を使い果たしてしまう。

買い物をする場合、とりあえずショーウィンドウから商品や価格帯を物色して、これと決めたら意を決して中へ入る、というのがこちらでの基本的な作法である。だからこちらのショーウィンドウはどこでもやたらと大きいし、店の人は暇があれば営業時間中でも表のガラスを磨いている。

ともあれ、グレーのものを勧めてきたCOINの店員に青いものが欲しいと告げると、なかなかのものを出してくれた。有名なブランドのものではないが、きちんとしたイタリア製のものである。藍色のものはもう一つあったが一割以上も高く、「そちらが高いのは品質ではなくてブランド料なのでこちらの方がおすすめです」と言われた。たしかに「そちら」はどこかで見たようなブランドである。しかし安い方でも、また外国人なら10%オフ、というキャンペーン中であっても結構なお値段である。ちょっと予算を超えているので「申し訳ありません、決断できないので考えてからまた来ます」と言い残して昼食のために一度帰宅する。

絶対駄目だとは思ったが、昼からは一応サン・マルコ方面へ行ってみる。しかしやはりこの界隈にある店のものはどれも軽く€1000を越えていた。中には€5000くらいするものもあって、こういうものを買える人は一体どういう人なのだろうかと思った。

アカデミア橋から大回りしてリアルトへ帰り、これで店舗の多い地区はすべて回ったのだが、結局めぼしい店は見つからず。冬用の厚手のジャケットに着替え、これで袖が通ったら買うと決めてからまたCOINへ赴く。店員はさすがに私のことを覚えていて、袖直しのための試着を経てお会計。

来週金曜日からベルギーへ行かなければいけないのだ、と言ったら袖直しにかかる期間を念入りに確認してくれたのはいいのだが、土曜日に買い物をして仕上がるのが水曜日の夕方というのはどういうことか。木曜日の夕方には用事があるので、出発前のタイミングとしてはギリギリだった。この一日歩き回りながら、そう急ぐことはないのではないか、私は何をそんなに焦っているのだろう、と不思議に思っていたのだが、イタリアの時間の流れに対応して早めに動くよう、本能的な警戒心が働いていたのではないかとも考えられる。しかしこれ、観光客であったら洋服の買い物は事実上不可能ではないのか。

それはそうと、会計のときにまた気になることがあった。スーパーでは使えないし、余計な買い物をすることはほとんど無いのでJCBのカードを出す機会は滅多にないのだが、店員がJCBを「ジェイビーシー」と間違えて発音したのである。二回目くらいまではちょっとした言い間違いかとも思えたが、違う人が同じ間違いを繰り返しているという実例が重なってくるともう偶然とは言いづらい。日本人がsimulationを「シュミレーション」と言ってしまうように、イタリア人には発音しづらい音の並びというものがあるのだろうか。

サービス精神について

ここのところ過ごしやすくなってきたこともあり、ブチントーロの模型を探しながら街を歩き回っている。一度アルセナーレの近くで見つけたのだが、とりあえずいくつか見つけてから比べて買おうと思って見逃したところ、二日後には売れてしまっていた。再入荷を待つ余裕があるからいいものの、ここ以外のものもなかなか見つからない。こちらの人はそういうものにあまり興味がないのだろうか。

Museo Storico Navale海軍(海事)歴史博物館というところがあって、そこへ行けばブチントーロの模型が見られるということなのだが、これが残念ながら改装中なのである。そこからちょっと離れたところで慎ましやかに仮営業をしているのでとりあえず入ってみたところ、目玉商品のはずのその模型は見当たらなかった。ヴィットーリオ・エマヌエーレⅡ世がヴェネツィア入りしたときの御座船は実物が展示してあって、これはそこそこ見応えがあったのだけれど、見るべきものは本当にそれだけというくらいのものである。

模型といえば、リアルトの近く、地元の人しか通らない路地の印刷屋の前で、天気のいい日だと50cm以上もあるかと見える立派な船の模型を道端に出しているところがある。全体的にはブチントーロに似ているのだが、細かい装飾を見ると違うような気もする。あれはいったい何なのだろう。

ともあれ、博物館の方は入場料が€5だったので別に文句を言う気にもならなかったが、それにしても物足りない。何か持って帰らねばと思ったので、机の上に本を並べただけという、日本だったら高校の文化祭でもやらないような、いかにもイタリアらしい適当な売店でヴェネツィアの船の辞典を購入する。家主の本にはあれこれ船の名前が出てくるので何かの助けにもなるだろう。トレッカーニで足りないということもないのだが、図解があるのは嬉しい。

すると店員がカードをくれて、こちらの店もよろしく、とローマ広場近くの本屋の宣伝をされた。するとこの売店はその本屋の出店であったのか。Mare di Carta(直訳すると「紙の海」)という本屋、というか出版社で、もちろん私の買った辞典もそこが出している。ヴェネツィアにあって海事関係の本を編集・出版するというのは一見分かるような話だが、それにしてもなんだか規模が小さいような。ふと海文堂のことを思い出した。

アパルタメントに帰って改めて辞書の中身をじっくり見てみると、こちらの本はだいたいそうなのだが、やはりデザインやレイアウトなどが単調で味気ない。よく言えば質実剛健、悪く言えば独りよがりで気が利かないのである。イタリアの出版業界というものを詳しくは知らないが、この人たちは本というものを写本の時代の延長線上で考えているのだろうか。ヴェネツィアの船のカタログなど、写真やイラストを多用して少し薄めにして価格は€15くらいで、とやれば土産物としていくらでも売れるだろうにと思うのだが、分かる人にしか分からない本を分かる人のためだけに作る、という仕事しかできないようである。すると沢山は売れないので、価格は当然高く設定される。実際、この紙とこの造りで€21か……とちょっと迷った。芹男氏も書いていらしたが、どうしてもこちらの本は割高に思える。

ヴェネツィア料理の本ではそんなことはない。街中の大手チェーンらしき本屋では、ヴェネツィアの海産物や風景を描いた美しいイラストが中心でレシピは二の次、という料理の本があって、これはイタリア語を知らない人にでも土産物として喜ばれそうだと思う。だから「中身にこだわるよりとりあえず売れ筋の本を」というやり方がまるっきりできないわけではない。

一体にイタリア人は商売が下手、というか、そこまでして稼がんでもよい、とでも考えているのか。店の営業時間も観光客の動きではなくて店の主人の生活サイクルの方が優先される。土日の方が観光客は多いのにいい店ほど正直に休む。日本のように重箱の隅を突いて需要を掘り起こし、乾いた雑巾を絞るように商機を探すというやり方に慣れているともどかしい思いをすることも多々あるが、どこまで行っても人間の自然な感覚に従い、手に負えないことはきっぱり諦めるのがここの人々の特徴なので仕方ない。

例を挙げると、スーパーでは商品が売り切れてもすぐには補充されない。またPOSシステムを活用しようという気もないのか、売れ筋のものと大して売れないものが同じ幅で棚を占めていることが多いのも下手くそだな、と思う。具体的にいうと、よく売れている水のペットボトルの棚は昼前には空っぽになっていても、少し高いものの棚はほとんど手付かずだったりするのだ。日本のコンビニだったらそんな商品は一週間も経たずに店から消えてなくなるだろう。大学の近くの雑貨屋では罫線のみのノートがすぐに売り切れて私もなかなか買えなかったのだが、隣の方眼のノートは常に山積みである。

水道の蛇口のフィルターも硬水のミネラル分が固着して詰まるので交換したいのだが、台所の蛇口の径に合うものは売っているのに、洗面所用の少し径の小さいものはどこに行っても見つからない。そんなわけで、欲しいものが欲しいときに欲しい場所にない。

欲しいものといえば、ワインのコルクを抜くためのいわゆるウェイターズナイフというものをここで買って帰ろうと思っているのだが、質の良いものはなかなか売ってない。ヴェネツィアにはCOINというデパートがあって、そこへ行けばあるかと考えたが、これもまたしばらく前から改装中であったのだ。そしてその改装工事中、通りに面したところにはずっと「9月再開」としか書いてなかった。

具体的にいつできあがるのか、きっと誰にも分からないのだろうな、と思って苦笑したが、9月も半ばを過ぎて、やっと「24日オープン」という表示が追加されることになる。イタリア人は一週間くらいの長さでないと目処が立てられないということはよく分かったが、それにしても書いたとおり9月中に間に合わせたのだから偉いものである、と、そういう感覚で見なければならない。いつの間にか、まるで最初から無かったかのように「9月再開」の表示が消されていたりしてもおかしくはなかったし、むしろそういう展開を期待していたのだが。

オープン初日に行ってみたが、まあ、デパートというものはどこでもそんなものだろう、どっかで見たような有名ブランドばかりが目につく。なぜヴェネツィアでフランスやらアメリカのブランドのものを買わねばならんのかは疑問である。ここで買い物をするのはどういう人たちなのだろうか。

いきなりエスカレータが故障して動かなくなっていたのはイタリアだから当たり前のことだとして、要所要所にスーツを着たごつい黒人が立っているのはやはり伝統というものなのだろうか。ヴェネツィアの常としてこの店もけっしてスペースに余裕があるわけではないので、狭い通路に2mくらいの格闘家みたいな人が立っているとその威圧感は並ではない。

一番上まで上がってみるが、食卓用品の売り場もたいしたことなくて、結局ナイフも見つからずじまい。

何をするにも急ぐということがなくなったので、どれも問題となるような話ではないのだけれど、なぜ今回はあれこれと不満を書き連ねたのだろうかと考えてみると、どうも私は再建中だというブチントーロが見たくて仕方ないようである。日本の姫路城が修復工事を逆手にとってそれを見世物にしたようにすればいいものを、そうすれば再建費用の足しにもなるだろうにと思うのだが、そういうことはやらない。思いつかないのか、それとも見世物にできる程にも作業が進んでいないのか。彼らのことだからおそらく両方だろうと思うが、やはりこういうものはいざというときにしか人前に出してはいけないのかも知れない。

安寧の日々について

最近は本業の方がちょっと忙しく、これといって面白い出来事はないようである。月末辺りからはまたあれこれ用事が始まるし、街を歩いているとそろそろヴェネツィア名物のアレの気配もあるのだが、それはまた始まってからの話としよう。

唐突なようだが、私のTagliazucca(南瓜切)は男の子である。物に名前を付けたうえに性別まで設定し始めたなんてとうとうこの人……と後へ寄った方はちょっと待って欲しい。

イタリア語にも男性名詞と女性名詞というものがあるという話は何度も書いているが、基本的には男性名詞は-o(複数形-i)、女性名詞は-a(-e)で終わる。人の名前もおおむねこれに準拠していて、
 Marioマリオ―Mariaマリア
 Paoloパオロ―Paolaパオラ
となる。男性名が-iで終わって、
 Luisiルイージ―Luisaルイーザ
 Giovanniジョヴァンニ―Giovannaジョヴァンナ
というパターンも多い。そして姓の方はというと、一族全体を表すために複数形の-iで終わっていることが多い。アルマーニ、フェラーリ、ストラディヴァーリ、ガリバルディ、ムッソリーニ、ベルルスコーニなどは-iで終わっているが、しかしジャコーザ、ジュジャーロ、チマローザ、ロンブローゾ、ボルジァ、ジローラモ(訂正:あのジローラモさんは姓名が日本風の表記で、こちらが名前だった)という例もあるので絶対ではない。イタリアでは原則が貫き通されるということは絶対にない。

そんなこんなで私の名前はちょっとイタリア人には抵抗があるらしい。姓が-oで終わって名前が-iで終わるので、ちょうどイタリアのルールと逆なのだ。マ氏などは当初から名前の方で私を呼んでいたので、イタリア人はのっけからフランクなのだなと思っていたら、どうもイタリア語のルールに従って姓と名を勘違いしていたようである。それに気づいてからしばらくは「プロフェッソーレ」という呼び方になったが、大げさなのでやめてくれと頼み、結局また名前で呼んでもらうというところへ落ち着いた。

さて一通りルールが頭に入ったところで引っかかるのがLucaルカという名前である。ジョヴァンニ(ヨハネ)もそうだが、これはevangelisti(福音史家)に由来する名前なので、-aで終わるのに男性名であったりする。

そしてエヴァンジェリスタかつヴェネツィアの守護聖人でもあるMarcoの場合、その女性形はMarcaとはならず、縮小辞を付けて、
 Marcelloマルチェッロ―Marcellaマルチェッラ
となる。ちなみに男性名のマルチェッロさんの場合、親しい人からは省略されてMarceマルチェと呼ばれることになる(後に分かったが、マルチェッラさんも同様にマルチェになっていた)のだが、これによってマルコのラテン名と一致するという副産物もある。聖マルコの象徴、そしてヴェネツィアの象徴となってこの共和国の旗にも印されている有翼のライオン(「leone alato」で画像検索)はたいてい本を持った姿で描かれ、そこには戦時を除いてほぼ間違いなく、
    “Pax tibi Marce, evangelista mevs”
  (安寧は汝と共にある、マルコ、我が福音を伝える者よ)
と書いてあるのだが、ヴェネツィアの人々にとってはこうやってマルコのラテン名を見る機会も多く、これを狙って付けているのかも知れない。この言葉の由来となった伝説も家主の本に書いてあるのだが、面倒なのでまたの機会とする。

して残る一人のエヴァンジェリスタ、Matteoマッテオ(マタイ)であるが、これはどういじったら女性名になるのだろう。ルカと同じでちょっと思いつかない。

ともあれ、私の可愛いTagliazuccaであるが、taglia(切る)もzucca(カボチャ)も-aで終わってそれぞれ女性名詞である。ところが、複合語になるとこれが男性名詞扱いになるのだという。イタリア語にはないのだけれどもラテン語にはneutro中性名詞というものがあったので、感覚的にはこのネウトロになるということであった。

なぜこうやって性にこだわるかというと、イタリア語では冠詞も形容詞も性と数に合わせて変化するので、これがはっきりしないと文章の中で使えないのである。例えば先ほど書いた「私の可愛いTagliazucca」はmio caro Tagliazuccaであってmia cara Tagliazuccaではない。

事程然様にイタリア語というのはしち面倒くさいのだが、これにはイタリア人自身も対応しきれないことがあったりする。ヴェネト語でウナギを表すbisatoビサート(標準イタリア語ではanguillaアングィッラ)という言葉はトレッカーニで調べると今書いたように男性名詞となっているのだが、ヴェネツィア料理の本を見ていると女性名詞として使われていたりする。どう見ても前回も話題にしたbissaビッサ(蛇)から派生した言葉なので、元の単語の性を受け継いだものとして使われているわけである。標準イタリア語のアングィッラが女性名詞であることもまた意識されているのかも知れない。

そしてまた外来語への対応となると余計にややこしいことになる。初歩の頃に何かで読んだ話だが、日本の「柿」はそのままイタリア語へ入ってcachiカーキとなっているそうである。外来語はたいがい性数変化しないのであるが、それはそれとして基本的にイタリア語では-iで終わるのは男性形複数である。よってこれが外来語であることを知らずに、イタリア語の文法に則って単数形をcacoカーコと言う人があるのだそうな。

ちょくちょく買い物に行く例の「アドリア海生活協同組合」、最近はここの会員になるべきか否かでちょっと迷っている。もう滞在期間も折り返しが見えてきたところだし、今さらという気もしてどうも踏み切れないのだが、レジで毎回会員証を持っているかどうか尋ねられるのでその度に考えるのである。会員になった方がいいか、と聞いてみたらいろいろ特典を教えてもらったのだけれども、それはそれとして、ここで面白いのはその会員証の発音である。

カードはイタリア語ではcartaカルタであり女性名詞である。だから例えば「赤いカード」と言おうと思ったらrossoロッソという形容詞を女性形に変化させてcarta rossaカルタ・ロッサと言わなければならない。コープは当然coopなのだけれども、イタリア語は開放音なので、どうやら単語が子音で終わるというのが我慢ならないらしい。ここの会員証はcarta coopというのだが、この「コープ」が形容詞coopoになった後で女性形へ変化、また-oo-と綴りが重なるところはイタリア語ではまず促音になる(母音が重なるのはイレギュラーだが)ので、結局のところcarta coopaカルタ・コォッパと聞こえるのだ。coppaコッパ(コップ、カップ)という単語が別にあるので最初は何のことやら分からなかったが、どう聞いても会員証のことを指しているのでよくよく考えてみたわけである。

文学者の出来損ないだから言葉についてあれこれ考えるのはクセのようなものなのだけれども、それでもこんなしょうもないことを長々と考えていられるくらい波風の立たない生活が続いているのである。最初に書いたとおり、ヴェネツィアの運河の波はもう足元へ迫りつつあるのだけれども。

ならず者への対処法について

948年1月31日、ナレンターニといわれる海賊がヴェネツィアを襲撃した。この1月31日というのはヴェネツィアの守護聖人であるサン・マルコの聖遺物がヴェネツィアにもたらされた日(828年のこと)なので、当然のごとく祭日となっている。そしてこの日、サン・ピエトロ・ディ・カステッロ大聖堂(カステッロのサン・ピエトロ大聖堂、ヴェネツィアの一番アドリア海に近いところにある)では祝賀のために多くの結婚式が執り行われようとしていたそうな。嫁入り道具というものには貴重品が多いので、賊にとっては格好の獲物でもある。ナレンターニたちは奇襲をかけ、数々の宝飾品とともにあろうことか花嫁たちもさらっていったという。

しかしヴェネツィアというのは一瞬たりともひるまない。だいたい彼らは基本的に“海の男”なので気性が荒いのだ。儀式に参列していたドージェ(ヴェネツィア総督)、カンディアーノⅢ世は即座に追撃隊を編成するように命を下し、ヴェネツィアの男たちはあっという間にナレンターニに追いついた。そして短い戦闘の末に海賊たちを打ち破るのだが、しかしながら彼らが捕虜とした海賊は一人もいなかったという。至極単純な話で、その場で全員殺した、ということだ。そして哀れなナレンターニの遺体は人間扱いをしてもらえず、すべて海に投げ捨てられたのだとか。ヴェネツィアの男たちも相当怒っていたのだと思われる。

そもそも海の上でヴェネツィアと喧嘩して勝てるわけがないのだ。

そしてこのとき特に活躍したらしいのが、サンタ・マリア・フォルモーザ教会に信徒会の拠点を持つ箱作りの職人たちで、褒美を与えようといったドージェと彼らの間にここで不可解なやりとりがある。だがイタリア人のジョークというのは前にも書いたとおり、どこで笑っていいのかよく分からないものだし、本筋に関係ないので省略。

何か大きな事件があったら必ずお祭りにするのがこちらの習わしであった。実際には順序が逆という可能性もあるが、後述するようにそこはあまり考えてはいけない。ともあれ、無事に花嫁たちが戻ってきたのを祝って毎年2月2日に行われるようになったその祭りの名を"festa delle Marie"という。正式にどう訳されているのかは知らないが、MarieというのはMariaの複数形で、帰ってきた花嫁たちのことを示しているのだろうから、「マリアたちの祭り」としておく。

最初は例の花嫁たちを模して毎年十二人の「マリア」を選んで結婚式を行い、お祝いということで彼女らには豪華な服やら宝石やら持参金やらが与えられたそうだが、こういうのは当然、選ばれた人と選ばれなかった人との間でトラブルになる。仕方がないので、このマリアたちは木で作られた巨大な人形で代用されるようになった。

ときに、イタリア語には拡大辞というものがあって、語尾に-oneや-ona(女性形)を付けると、元の単語のより大きなものを示すことができる。よってこの十二体の巨大な人形はMaria+onaで"Mariona"それを複数形にして"Marione"マリオーネと呼ばれていた。男性形単数と同じ形になるのが紛らわしいようだが、実際のイタリア語の文章の中では性と数に合わせた冠詞が付くのでそれほどでもない。

拡大辞というものがあればやはり縮小辞というものもあって、これは語尾に-ino(女性形-ina)、-ello(-ella)、-etto(-etta)を付ける。ジュリアという名前に付ければジュリエッタ、という具合である。このお祭りの際には露店でマリオーネの小さな複製を売っていたそうで、するとその人形の名前はMariona+ettaで"Marionetta"マリオネッタ、となる。なんだか聞いたことがある言葉になった。家主の本にはこれ以上コメントがないのだが、「人形」という意味の「マリオネット」という言葉はこれが起源だとでもいいたいのだろうか。確かに一つの単語に拡大辞と縮小辞が共に付いているというのは言われてみれば不思議なことであって、そういう起源があったといわれると納得させられそうになる。

しかし「ああそこのイタリア人今うまいこと言うたな」というときには注意した方がいい。歴史的に正しいとか正しくないとか、そんな段階の話ではない。初めて家主の本について書いた折に示したとおり、「歴史」と「物語」はイタリア語では共に"storia"で最初から区別がないのだ。それらはすべてレトリックを駆使して創り出すべきものであって、彼らの話をうっかり信じると自分が恥をかくことになる。

それはともかく、マリアたちが巨大な木像に置き換えられる前の「マリアたちの祭り」では、十二人の花嫁たちは船で教会に連れてこられるのが常であったという。その船がいつの間にか競争を始めるようになり、一番に着いた者は表彰されるようになっていった。これがヴェネツィアのレガータ(レガッタ、ボートの競技会)の起源なのだとも言われている。

以上の話は14世紀の末頃にラテン語で書かれたとある短詩が根拠になっているということで、公的な史料がきちんと残っているもののなかで一番古いのはまた別の話なのだそうだが、こっちはどうも味気ない話であるし面倒なのでこれも省略。ちなみにこの「マリアたちの祭り」は1380年に廃止され、その後は長らく絶えていた。ここ数十年、観光都市として生きていくために目玉になるようなイベントを歴史の中から掘り起こそう、という動きに伴ってこの祭りも復興されたのだが、しかし時期的にはかの有名なカルネヴァーレ(カーニバル)と被るということで、1999年からはその最初のイベントとして行われるようになっているとのことである。

さて、あきれたことにここまではすべて前置きなのだが、9月の最初の日曜日、ヴェネツィアではRegata Storica(歴史的レガッタ)というイベントがあった。このレガッタには幾つもの部門があるのでそれによって多少折り返す場所が変わるのだが、基本的にはジャルディーニの辺りからスタートし、カナル・グランデへ入っていったん駅前まで行ってから折り返して、カ・フォスカリ前がゴールとなっている。このCa'というのはcasa「家、邸宅」の略であり、そしてこれは前にも説明したような気がするが、フォスカリというのはドージェも輩出したヴェネツィアの名門である。

このフォスカリ家の豪華な邸宅は今はヴェネツィア大学の本部となっている。それはつまり私が客員研究員として軒先を借りている大学の本部であるということで、今回、特等席であるカ・フォスカリへ招待されてレガッタを見物するという幸運に恵まれた。役得である。

普段は学長の船が泊められているカ・フォスカリの運河側に浮桟橋の特設会場が設けられ、ここにはどうも金を払った客か主催者の招待した客しか入れないようになっている様子である。私が向かったのはしかしこちらではなく、大学の関係者はカ・フォスカリの上層階のバルコニーから見物するというふうになっていた。ただこれでは多少距離が遠くなるうえ、足元の辺りにあるゴールは特設会場の屋根が邪魔になって見づらいので、はっきりいって特等席というほどのものではなかった。と最初は思った。

しばらくはバルコニーに張り付いていたのだが、飲み物を用意してあるとの案内があったのでそちらへ行ってみる。すると、vetro di Murano(いわゆるヴェネツィアングラス)のシャンデリアが幾つも下がっているカ・フォスカリの壮麗なホールでは潤沢に用意されたプロセッコや多種多様なチッケッティが振る舞われており、眺めが遠いのはもうどうでもよくなった。そして、ホールに設けられたモニターでレガッタの進行状況をチェックし、ゴールが近くなったときだけバルコニーへ出るというのが正しい楽しみ方なのだということを学ぶ。下の特設会場で観客席に縛り付けられている人々が哀れに思えてくるぐらい貴族的であった。

レガッタそのものも面白かった。普段のヴェネツィアでは見られない、競技用のpupparini、mascarete、caorline、gondolini(すべて複数形で表記)等の各種の舟は形状にも漕ぎ方にもそれぞれ特徴があったし、女性の部門のレースではなぜか多くの人が一様に白のワンピースを着ていたのも訳が分からないなりにぴったりはまっていた。何かモデルになっている説話だか映画だかがあったりするのだろうか。

普段ヴェネツィアで観光客から金をふんだくっているゴンドリエレ、つまりゴンドラの漕ぎ手は男ばかりであるし(女性も居ないことはないという話だが実際には見たことがない)、なかなか女性が舟を漕ぐというのも珍しいことなのだろうな、と思ったら実はそうでもない。

家主の本に拠れば、実は昔から野菜などの荷物を運ぶために女性も舟を漕いでいたのだという。舟を使わなければどこにも行けない土地であったのだから考えてみれば当然のことで、農家の嫁がマニュアルの軽トラを運転できないではやっていけないのと同じことである。女性のレガッタの記録は1481年にまでさかのぼることができるとのこと。

特にこの日、私より少し年上かな、というくらいの普段着っぽい格好の女性が二人で漕ぐ舟があって、レースをしているタイミングではないところであちらへこちらへと行き来していたのが目に付いた。これがまた、ヴェネツィアの肝っ玉母さんの生活の歴史が自ずと二重写しになってくるような、堂に入った漕ぎっぷりであったのだ。この舟が一番印象に残ったと言ってもよいかもしれない。

それはそれとして、見物の前から目当てにしていた舟もあった。レガッタの前のcorteo acqueo(水上行列)で見られる"bissona"(複数形bissone)という祭礼用の大型の船である。だいぶ前に一度書いたが、ヴェネト語で「蛇」を意味する"bissa"ビッサ(標準イタリア語ではbisciaビッシャ)という単語に例の拡大辞が付いた形で、その「大蛇」という名が示すとおりに細長く、舳先に貴賓席があってやたらと装飾が施されている。

ヴェネツィアの男たちにはやんちゃな人が多いわけだから、昔からこういうイベントには揉め事が付き物であったらしいのだけれども、家主によると、このビッソーネが弓を装備してレガッタの最初に行われる水上行列の先頭をゆき、騒ぎを起こす者たちへ容赦なくテラコッタの弾を撃ち込んで回ったという。この弾はラグーナでオオバンなどの水鳥を狩るときに使われたものだそうで、まず間違いなく殺傷能力がある。何にしてもやることが荒っぽい人たちである。

パドヴァ大学について

こちらに来てから変わったことがもう一つあって、どうも私は少し感傷的になったような気がする。何度も書いたとおり、ここのところずっと読んでいる家主の本にはこの街に伝えられる民話が集録されているのだけれども、ボッコロの由来についての話など、美しい貴族の娘と吟遊詩人、そして娘の父親である厳格なヴェネツィア貴族、と登場人物が揃ったところで、もうその先どうなるかがすべて見通せるような、いかにも単純なお話である。どう考えたって作り話なのだが、そんな約束どおりの話でも結末のところまで読み進めていくと、何となく胸に迫ってくるものがあった。

ピピンの侵攻を撃退した809年の非常に有名な戦いの場面についてもまた、何もかもすでに日本で読んで知っているのだが、それでも、ラグーナのことを知らないフランク族の大きな船が次々に浅瀬で座礁し、そこへヴェネツィア人たちが襲いかかってきて一方的に――家主の言葉によると「虐殺」レベルで――やっつけられるところでは、やはり胸がすくような感覚があった。ちなみにここにピピンを欺いて陥れる老婆についての話があって、これがまた型どおりでありながら面白いのだが、これは聞いたことがあったようななかったような。

これらの感傷について芹男氏ならばすべてこの街のせいにするのであろう、確かに現場にいるというのは大きいのだけれども、しかし私の場合、ただ物語に飢えているというだけのことではないかとも思う。

日本にいた頃も毎日のように何かしら読んでいたわけだが、消費のスピードが速いせいで知らぬ間に感覚が鈍麻していたのではないだろうか。こちらでは読むものが限られてくるし、何を読むにも日本語の倍以上に時間がかかる。また、右も左も分からない環境と限られた期間のなかで何かしらの研究成果をあげなければいけないということもあり、普段は味気ない論文をちまちま読んでいる時間の方が多い。物語を読むというのは今の私にとって非常に贅沢なことなのである。

それでも一応研究者くずれであるからして、自分の研究がいくらか形を成してくればそれはそれで面白い。先日はそのためにパドヴァへ赴いた。

気に掛かっていた論文がパドヴァ大学の図書館に行かないと見られないということで、この街へ来るのももうこれで三度目である。初めて来たときに大学の場所は教えてもらっていたので迷うことなく近辺まではたどり着いたのだが、図書館の入口が分からない。

イタリアに「キャンパス」という概念はない、と最初のときに案内して下さった先生が仰っていたのだが、こちらの大学の施設というのはおおむね街中のあちこちに点在している。街自体が何百年もの歴史のなかですでに動かしがたくできあがっているところへ新たに大学を作ったから、ということになるのか。パドヴァ大学は世界で二番目に古い大学(ちなみに一番はボローニャ大学)なのであるが、それでも街の歴史の方が遙かに勝っているのだ。

したがって、知らなければどれが大学の建物なのか区別が付かない。巨大な門があるのでとりあえずそこをくぐると道の左側にはそれらしい建物が連なっているのではあるが、反対側は見るからに普通の住居である。しばらくうろうろしてから一番大きいと見られた建物に入り、受付があったので図書館の場所を尋ねると、同じ建物の三階にあるという。

ここからは早かった。図書館の受付で、カ・フォスカリの研究員なのですが入れますか、と聞いたら、もちろんと歓迎されたうえ、本を見つけ出して論文をコピーするところまで全部向こうでやってくれたのである。書架の間を彷徨することを覚悟、というか楽しみにしていたのに、十分もかからずに用事が終わってしまった。コピーの代金も必要ないという。

日本でもそうだが、図書館というものは利用する際に茶代すら払うことがないので、司書の方々にいろいろとやってもらうのはなんだか気が引けるものである。それでもやむを得ずに何かしら頼むとみんな常に嬉々として応対してくれるような気がするのだが、向こうとしては自分の知識を生かす機会を狙っているものなのだろうか。イタリアでは金を払っても突っ慳貪な対応をされることも多いだけに、こうも親切にされると恐縮してしまう。

用が済んだのに図書館に留まるのもどうかと思ったので、内部を見て回るのはまたの機会にして街を散歩する。スクロヴェーニ礼拝堂のところの公園でのんびりしている人が居たので、私もそれに混じって木陰で論文を読みながらしばらく時間をつぶし、またたいして用事もないのに聖アントニオ聖堂へも行ってみた。三時前だったのだが、やはりお勤めの時間でなければチェックはそう厳しくない。係員はずっとスマホを見ていてこちらを一瞥しただけだったし、それどころか帰りに見たときには席を外していた。

例の売店の方へも回って何か土産になりそうなものはないかと物色するが、どうも異教徒へのお土産として面白いものはなさそうである。パドヴァへは神戸から大阪へ行くくらいの手間であるから、リクエストがあれば何か買って帰るので個別にご注文を。

その後はパドヴァ大学の象徴ともいえる建物、Palazzo Bo(ボー宮殿とでもいうのか)へ。図書館や講義棟などの集中するメインの区画からはちょっと離れているが、逆に街の中心部には近い。主に卒業式などで使われる施設だそうで、内部をきっちり見て回るには予約が必要である。そしてまたここにはHerena Lucretia(イタリア語はhを発音しないので、エレーナ・ルクレティア)という女性の像がある。世界で二番目に古いこのパドヴァ大学で、世界で初めて大学を卒業した女性だそうな。

ここにも売店があってエレーナのグッズなんかも売っているのだが、たとえば、彼女を見習って頑張ってお勉強しましょうね、というお土産をあげて素直に喜ぶ子供というのはそうそういるものではない。とはいえ一人だけ心当たりがあるので、ここではいくつか土産になりそうなものを見繕って購入しておいた。

その後はこれまたお馴染みのパッラーディオの建築で、ヴィチェンツァのBasilica Palladiana(パッラーディオの公会堂)と同じように船底をひっくり返したような屋根を持つPalazzo della Ragione(ラジョーネ館)、そしてカフェ・ペドロッキの写真を撮ったりしながら街をうろうろする。ペドロッキはスタンダールが絶賛したとか二階が何やら美術館だか博物館だかになっているとかいう話をこちらの方から伺っていたが、何にしても高そうなので店内には入らず。この日は観光で来ていたわけではないし、いつでも来られる距離なのでその辺はがっつく必要もない。

そんな感じで、特に何か面白いことが起きるということもなく、ただ散歩して帰ってきただけの一日だった。ヴェネツィアと違って街が広いせいなのか、人との距離があるし、毎日ヴェネツィアの街を見ているせいでヨーロッパの街並みに対するエクゾティシズムもすでに摩滅しているから、気分は大阪を歩いているのと大差がない。最初に来たときにラジョーネ館にある市場の肉屋に目を付けていたのだが、この日は時間帯が悪かったのか、それともそもそも市場の開かない日だったのか、入口からして閉まっていたので、買い物も碌に出来ずにしまった。

とはいえ、この日手に入れた資料は重要なものだった。研究の話を書いても誰も興味がないだろうから詳しいことは省くが、そっちはほぼ方が付いたという形勢である。パドヴァ大学の司書の方々には深く感謝せねばなるまい。ここで書いたって届きゃしないが。