七つの海について

こちらに来てからかなり痩せた。すっかりベルトが緩くなってしまっていたのだが、だからといってベルトの奥の穴を使えばいいというものではない。ベルトには大抵五つの穴が空けられているものだが、これは真ん中の穴を使ったときに余りの部分がちょうどよく収まり、美しく見えるようにデザインされている。だいたいベルトの調整が必要になるまでにはある程度の期間があるもので、その間に革に癖がついてしまっているということもあり、ここは面倒であってもきちんと革を切って調整しなければならない。

今私が使っているベルトはバックルと革の接続部分に穴を開けなければならないタイプなので、仕方なくRATTIへ行って革用のパンチを買ってきた。この店、当初は雑貨屋と書いたが、品揃えに見慣れてくると、どうも日本のホームセンターに近いもののようである。

収まりがいいように調整してみると、ちょうどベルトの穴二つ分、測ってみると5cmほど腰回りが細くなっていた。食生活の変化というのは当然あるものの、毎日三食、規則正しく満足するまで食べている。ここへ来る前はヴェネツィアは物価が高いと脅されていたのだが、それは外食をした場合に限ってのことであって、何度か紹介したとおり、生活に必要なものは近頃の円安を差し引いてもまだ日本より安い。パルマやサン・ダニエレの生ハムに各種のチーズ、地中海性気候に育まれた野菜や果物、そして何よりアドリア海の海産物を目一杯使った食生活(近くのスーパーで買い物をしていれば自然にそうなる)でも、自炊していれば一日€10もかからない。ワイン代は別途であるが、ボトル一本€10強のワインを週に二本空けたところで一日€3程度であるので何の遠慮もいらない。煙草が割高なのは生活のために(健康のためにではなく)ちょっと考えたいところではあるが。

きっちり食べているのに何故痩せるかというと、それは当然、この街で生きるにはひたすら歩くほかないからである。私は万歩計などというものを持ち歩くほど健康に関心はないし、スマートフォンの同機能も鬱陶しいので切っているが、用事があってちょっと遠出をしたときなど、同行している人に聞いてみたら三万歩を越えていたという日もある。

最近特に歩いた用事はというと、ビエンナーレを見てきたことであろうか。5月からずっとやっているのは知っていたものの、何となく気が乗らずに放っておいた。しかしせっかく二年に一回の機会にこの地にいるのだし、ここはマ氏から宿題として出されている見学場所の一つでもある。あと数日で終わるということもあって、涼しくなったのを機に出かけることにした。

ヴァポレットでジャルディーニの会場へ行くと、結構人が並んでいる。おそらくこれでも少なくなった方なのだろう、大人しく列に並んで順番を待つ。ジャルディーニとアルセナーレの両方に入れる当日分のチケットを購入、係の女性(当然のように美人)が最後に「じゃあ楽しんできてね」とウィンクしながら首を傾げてみせた仕草が余りにも決まっていて、何をするにしても芝居がかった国だな、と苦笑しながら会場内へ。

しかしよくもまあ世界中からこれだけの量の展示物を集めたものである。二日間分の入場券というのが存在するのももっともなことであるが、しかし結論から言うと、二日もかけて観るほどのものでもない。

現代芸術というのは私の肌に合わんのかな、と思いながらも片っ端から見て回る。Gran Bretagna(グレートブリテン)のものなどは、そうそう、現代芸術ってこういうのよくあるわな、と思うようなものだった(「biennale Gran Bretagna(Great Britainの方がいいか)」で画像検索、黄色い風船みたいな素材のものと一連の下半身だけの石膏像)。私などはこういうものを観ても今さら何とも思わず、何故ここに刺さっている煙草はキャメルなのだろう、そこには何か意味があるのだろうか、などとぼんやり考えながら観ていたが、やはりこれはちょっと子供に見せられるようなものではない(したがってよい子は検索してはいけない)。だいたい入口に展示してあるものを一目見ればその先に何があるか分かりそうなものだが、芸術に対し深い理解を持つ御両親に連れられて館内へ入ってきてしまった女の子が今にも泣き出しそうな顔をしていたのには、申し訳ないが笑ってしまった。トラウマにならなければいいが。

イタリアに限ったことではなかろうが、彼らは常に当時最先端の芸術家や建築家に仕事を任せることで今の街並みを作り上げてきたわけだから、やっていることは今も昔も変わらないはずだし、その歴史を自覚しているからこそ、この街はこうやってビエンナーレを続けているのではないかとも思う。だがそれにしても、一体何が違うというのだろう。芸術とは何か、というのは創っている方にはまた言い分があるのだろうけれども、私の好みからいうと、どうも発想の奇抜さやメッセージ性に頼る割合の多いものは観ても面白くないようである。

手仕事の重み、というのだろうか。例えば、片手で持てるような大きさの煉瓦を幾つも積み上げて作った巨大な教会や、その中の壁一面の絵画を見れば、そこに携わった幾人もの人の祈りの重さを感じ取ることができる。しかし、廃材を集めて並べたものを見せられても、(イスラエルの展示だっただけに)言いたいことは分からんでもないが……以上に言葉が出てこない。

その点で、祖国だから贔屓目に見ているということもあろうが、日本の展示(Chiharu Shiota, The Key in the Hand, 2015)は興味深いものだった。多くの人から集められた今は使われていない無数の鍵を、二艘の木の船を結節点として建物内に張り巡らせた赤い糸で吊り下げてあるというものだが、それぞれの歴史を背負って古びた鍵と、糸を張って一つ一つそれを吊していく作業の中には、イタリアが最も大事にしている「人間そのもの」の姿があったように思う。私が館内へ入る際に入口ですれ違ったおっちゃんも、ため息をつくように「Bello…」と呟いていた。先日の聖アントニオ聖堂のところでも書いたように、私自身はすでに「祈る力」を持たないのだけれども、それはその力の強さと危うさを充分に知っているからであって……などと訳の分からないことを書き出すとまた芹男氏に馬鹿にされそうなのでここで留める。それもまた我々の様式美というものではあるが。

その足でアルセナーレの会場の方へも回ったが、そんなこんなで特筆すべきものはない。船のドックに巨大な鳥のオブジェが吊り下げられていたもの(Xu Bing, Phoenix, 2010、北京とニューヨークを行き来しながら活動している中国人だそうである)くらいか。でもこれは半分以上が展示場所の持つ力だろう。帰ってきてからスマホを確認すると、九割方がアルセナーレの施設そのものの写真だった。

さすがにしんどかったので帰りもヴァポレットを使う。するとカナル・グランデへ入った辺りで、例の赤と白(紅白というのとはちょっとちがう、また、何かランク付けがあるのだろうが黒と白の人もいる)の横縞のシャツではなく、グレーのTシャツというか、要は普段着で客を乗せずにゴンドラを漕いでいる若者を見かけた。見習いなのであろうか。どうやらラグーナにも順調に後継者が育っているようである。

例の家主の本によると、八世紀前半にはすでにヴェネツィアの人々は“七つの海を知る男たち”という評判を得ていたようである。しかし大航海時代もまだ遙か先のこと、この“七つの海”は現在のそれとはまったく違うものであった。

そして家主が言うには、この“七つの海”はなんとプリニウスに拠った言葉らしい。プリニウスについて調べるという名目でこの地へ派遣されてきた私としては、こう聞いて調べないわけにはいかない。というわけで『博物誌』第3巻第120節より引用する。

“(パドゥス川の)その次の河口はカプラシア河口、それからサギス河口、そしてウォラネ河口、これは以前オラネ河口と呼ばれていた。これらすべてがフラウィア運河をつくっている。この運河は最初トスカナ人によってサギス河口から作られ、かくして川の流れを、七つの海といわれるアトゥリアニ族の沼に注ぎ込み、そこにはトスカナ人の町アトリアの有名な港があって、それが以前、現在アドリア海と呼ばれている海にアトリアという名を与えたのである。”
(『プリニウスの博物誌 第Ⅰ巻』中野定雄・中野里美・中野美代訳、雄山閣、1986年)

パドゥス川というのは現在のポー川である。アトリアがアドリアになるのだからアトゥリアニ族というのは現在のアドリア近辺に住んでいた人々のことなのだろう。ポー川の支流の河口というのは無数にあるし、イタリアの詳しい地図も手元になく(近々探しに行かねばなるまい)、またアパルタメントに居ては最終手段のトレッカーニも碌に使えないので、今のところそれぞれの地名について詳しいことは分からないが、それはそれとして、少なくともプリニウスの時代であった二千年ほど前からヴェネツィアの男たちがアドリア海をうろちょろし始めたこの頃まで、彼らにとって“七つの海”というのはヴェネツィアのラグーナからアドリア海西岸を南に下ってコマッキオまでの間、今ではDelta del Poデルタ・デル・ポーと言われている辺りに連なる沼や湾を指す言葉であったらしい。海という言葉の概念が多少違うような気もするが、ヨーロッパでの用例としては最古の部類に入るだろう。GoogleMapでこの辺りを広く表示して遠目に眺めてもらうと、なんとなく七つの水域が数えられるかと思う。後々ヴェネツィアは“アドリア海の女王”と称されるほどの権勢を誇るようになり、それとともに“七つの海”という言葉が示す範囲も広がって今に至る、ということになるのだろうが、最初はえらくこぢんまりとしていたものである。

郷里の食について

こちらに来てから初めて米を炊いた。

別に今さら里心がついたわけではない。どこへ行っても出されたもので満足する質であるし、父親が長野県出身で母親が埼玉県出身、自身の生まれは神奈川県で一番長く暮らしたのは兵庫県、という人生なので県単位のナショナリズムというものも持ち合わせておらず、これがなければ生きていけないという食材もない。

だからたとえば日本酒が好きだからといってわざわざイタリアで探して呑もうという気にはならない。ワインしかなければそれだけを呑んでいて事足りる。ここから北西方向のとある島国では違うらしいと聞くけれども、おおむねその土地にあるものが一番美味いに決まっているのだ。ワインなどはローマからヴェネツィアに運んだだけでも味が落ちる、とこちらの先生は仰っていた。

イタリアでは肉も魚も果物も本当に美味い。ちなみにヴェネト州特産のものもあると言えばあるのだが、野菜に関してはあまり見るべきものはなく、これはやはり南部の方がよいらしい。

で、何もかもが安い。旬に合わせて綺麗に品物が入れ替わるので、これもそろそろ終わりだろうと思うが、スーパーへ行けばブドウやら桃やら杏子やらが1kgで€3程度である。ブドウなんぞは€2を切っていることもある。リアルト市場では品が良い分ほんのちょっと高くなるが、それであっても日本では考えられない安さではないか。杏子なんてものはこれまで意識して食べたことがなかったが、こんなに美味しいものだとは思わなかった。

どこのリストランテでもドルチェにmacedonia(フルーツポンチ)を出し、ただ果物を切って盛りつけただけのそれがすぐに売り切れるという話も納得できるというものだ。ただし私はザバイオーネを使ったものの方がお気に入りである。ちなみにこのマチェドーニアという呼称、古来よりマケドニアが交通の要衝であって複雑な歴史を持つため、その民族構成が雑多であることに由来しているそうな。

イタリアの気候風土とそれが生み出す作物とは、プリニウスがそれを褒め称えた二千年前から変わることなく素晴らしいもので在り続けている。経済的、社会的にはいくつか問題を抱えているとはいえ、それは所詮私のような余所者に関係のあることではない。一年暮らす程度の関わりであればここは天国である。遠く故国を離れて留学しているとはいえ、このイタリアの地で夏目漱石を気取るような真似はどうやったって無理である。

ではなぜ米を炊いたのかというと、先日こちらへご旅行にいらした先輩から、のどぐろの茶漬け、ふくふりかけ、そしてふくのお吸い物を手土産に戴いたからである。「ふぐ」ではなくて「ふく」なのは山口県での慣用だったか。パスタに絡めるといういう使い方もあるかもしれないと今思いついたが、数に限りがあるのでわざわざ冒険することもあるまい。

何度か書いたとおりイタリアでもsushiが知られているわけだから、探せば炊飯器も売っているかもしれないが、これだってそこまですることもないだろう。鍋で米を炊く要領については大阪ガスのウェブサイトにご教示いただき、caraffa(計量カップ)だけは必要だったので買ってきた。味気ないような気もするが、インターネットというのは本当に便利なものである。何で読んだのだったか、昔は留学先から母親に国際電話をかけて米の炊き方を聞いたとかいう話があったような。

米はこちらでも売っている。ヴェネト州は電車に乗って見ていると沿線にずっとトウモロコシ畑が続くのだが(なのでポレンタが有名)、イタリア北部のポー川流域では稲作が盛んなので、イタリアはヨーロッパの中ではかなり米を食べる国なのだそうな。ただし主食としては食べない。アランチーノ(小さなオレンジの意)という丸いライスコロッケや米を使ったサラダなどがよく見られるのだが、同じ炭水化物でいうと、日本におけるジャガイモのような扱いなのだろうか。

まあしかし、日本人に最も馴染みのあるイタリアの米料理といえば何より各種のリゾットだろう。そしてこのrisottoというのは元の単語に縮小辞がついた形であって、それを外してriso(リーゾ)というのがイタリア語で米を意味する単語である。すると、ああそうかrice(ライス)か、ということになる。

外国で米というと多くの方は細長いインディカ米を想像されるかもしれないが、イタリアの米の多くはいくらか品種が違うとはいえ、基本的にはジャポニカ米の系統であって、形も日本でみるものと同じである。スーパーでざっと見たところ、arborio、carnaroli、roma、ribe、vialone nanoと種類があった。手元のイタリア料理の本(日本語)によると、イタリアの米は銘柄ではなく粒の大きさの順に、
スペルフィーノ(カルナローリ)
フィーノ
セミフィーノ(ナーノ)
コムーネ
と四段階に分類されるということだからカルナローリとナーノは分かったのだが、それ以外は辞書にも載ってないので何のことやら分からない。

ともあれ、計量も火加減もマニュアル通り、時間通りに蒸らしも終わったときには何となく気が浮き立ってくるのを感じた。リゾットもアランチーノも食べているから米そのものは久しぶりでもなんでもないが、やはり「ご飯」となると嬉しいものである。

それだけに、鍋のフタを開けたときの失望感というのは筆舌に尽くしがたいものがあった。切ないとはこういうことかと。

調理に失敗したわけではない。大阪ガスのサイトには火加減の写真まであって、これに従えばまったく料理の経験がなくても失敗することなどないだろう。先ほど書いたとおり基本的には日本の米と一緒だから、水加減や火加減に特段のアレンジが必要だということもない。

問題はその色である。真っ白なご飯を想像していたらこれが全体的にうっすらと黄色いのだ。精米技術の違いか、それともやはり品種の違いか。研いでいるときからその違いは感じていたし、結果が違うことも予想して然るべきではあったのだが、これはもう、ただ期待に目が眩んでいたとしか言いようがない。

食べてみれば味はちゃんとした「ご飯」だったし、鍋の底にはちょうどいいお焦げもある。茶碗や箸などはあるはずもなく(一応島内でも売ってはいる)、ミネストローネなどに使う少し底の深い皿とスプーンを使ったのだが、多少の趣の違いはそれとして、食べきったときには先ほどの失望も忘れてすっかり満足していた。そしてこの日の教訓から翌日は米を念入りに研いでみたところ、色は少し改善されたようでもある。ただあんまりしつこく研ぐと米が割れそうだし、その辺の加減は今後の研究課題となるか。また、絶望的にワインに合わないというのも解決すべき重要な問題なのだが、これはsecco(辛口)のものを探していくつか試してみる他ないだろう。

この日はとりあえずふりかけを戴いたが、お茶漬けの方はどうするかと考え、そういえば芹男氏からは玉露を戴いていたな、と思い出した。日本茶というのもこちらに来てから見向きもしなかったのでまったく道具が揃っておらず、計量カップを探しに行ったついでにbollitore(ヤカン)、colino(茶こし)、teiera(ティーポット)と購入してあるのだが、しかし玉露で茶漬けというのもどうかと思う。tè verde(緑茶)は安物のティーパックも売っているのでそちらを使うか。

この日偶然買っておいたバッカラがご飯のおかずになったのは発見だった。どこでも見るマンテカートではなく、baccalà conditoというものである。味付けバッカラという程度の意味だが、cucina nostrana、郷土料理と書いてあった。ちなみにcucinaクチーナは「料理(キッチンという意味でも使う)」、nostranoへ派生する前のnostroノストロという単語は「私たちの」という意味で、ここでコーサ・ノストラという言葉を思い出した方もおられようかと思う。

詳しい方のヴェネツィア料理の本を見るとやはり載っていて、玉ねぎ、ニンニクと一緒に煮込んで戻した干鱈をオリーブオイルに漬け、白ワインビネガーで味付けして刻んだパセリを振ったものとあった。この日買ったものには玉ねぎの姿もニンニクの気配もなかったが、スーパーの惣菜コーナー(だいたい肉の売り場と一緒になっていて、当然量り売り)で売られているものは万人向けに調整してあるのだろうか。

魚料理はご飯に合わせやすいか、これならおにぎりの具にしてもよいのではないか、と思い至り、しかしこの程度のことならすでに誰かがやっているのではないかと思って「イタリアン おにぎり」で検索したらレシピが幾つも出てきた。バッカラを使ったものは見受けられなかったが、それにしても、とりあえずバジルかモッツァレッラかトマトを使えばイタリアン、という安易な認識はどうにかならないものか。日本のsushiだって同じ目に遭っているのだから仕方がないともいえるが、ここはイタリアびいきとして苦言を呈しておきたい。

それはそうと、バッカラ・マンテカートの方は日本におけるツナマヨのような手軽さと人気と味だから絶対におにぎりに合うと思うのだが、誰かやってみてもらえないだろうか。

薔薇の蕾について

二日後は別の先輩御一家のご案内。前日到着されていたカンナレージョの投宿先まで伺って合流し、まずはリアルトの市場を散歩。それからメインの通りをずっと下ってS. Margherita広場で一休みする。

こちらの御一行にはお子さんが二人いらっしゃる。ともに何とも利発なうえに人なつっこい御兄弟で、まさか子供に手をつながれてヴェネツィアの街を散歩することになろうとは思わなかった。自分には子供どころか結婚の気配すらないが、子供の相手をしているとなんとなく優しい心持ちになってくるのが不思議である。私も歳を取ったものだ。

御兄弟は時差に加え、慣れない土地での緊張もあるのか、すぐに疲れてしまった様子。兄上のほうはさすがに頑張っていたが、弟さんはこれ以上歩くのも難しい様子だったので、昼食のためにリアルトへ戻るのにはヴァポレットを使うことにした。

ヴァカンツァの時期のヴェネツィアはオフシーズンであって、人はそんなに多くない。ヴァポレットの混み具合にも余裕があったが、船縁は御一家に譲り、私は中央付近に立っていた。隣には二十歳前とも見える若い女性の二人組がいる。そう混んでもいないのに妙にくっついてくるなと思ったら、この二人組がスリだったのである。

イタリアの女性はいわゆるムダ毛の処理をあまりしない。彼女たちの腕が視界の隅に入って、これは野性的であると受け止めればいいのだろうが、日本人にとっては見慣れるまでにちょっと時間がかかるわな、などと暢気に考えていたのがいけなかった。そういう下らないことはきっちり観察しているのに、やたらと距離が近いことについて警戒しなかったのは、久しぶりに知った顔に会ったことで安心していたせいでも、またすでにスプリッツが入っていたせいばかりでもないか。

何しろ一度鞄の金具が外れているのに気づいて中身を確認し、閉じ直しているのである。私が金具を閉め忘れるわけがないし、マグネット式とはいえ、そう簡単に開くものでもない。さらには私の前にいたおばちゃんが、この二人組が不自然に距離を詰めてくるのを邪魔に思って文句を言っていた。それでももう一度狙ってきたこの娘たちも大胆なものだが、この時点で気づかなかったのだから、こちらもなめられても仕方ない。

S. Tomàの降り場で二人組が降りていった後、また金具が開いているのに気づいて中身を確認し、財布を掏られたと気づいた。背を向けられていたので顔はよく覚えていないし、携帯を使うのが難しいこの土地で先輩御一家と離れたら再び合流できるのか、などと一瞬であれこれ考えた後、そんな場合ではないと判断してすぐにヴァポレットを降りて追いかけた。

幸運だったのは、この辺りのヴァポレットの乗降場付近は概ね中心の道に辿り着くまで横道がなく、ずっと一本道になっているということである。イタリアのスリは観光地を転々としながら仕事をすると聞いたことがあるので、おそらく彼女たちはそれほどヴェネツィアの道に通じていなかったのではなかろうか。そうでなければもう少し逃げやすい降り場の直前になってから仕掛けてきていたはずである。もしリアルトの直前でやられていたなら完全にお手上げだった。

先ほども書いたように私は相手の顔を覚えていなかったのだが、この顔で猛然と追いかけてこられたのでさすがに恐怖を感じたのか、向こうから私に声をかけ、「シニョーレ、これが落ちてましたよ」などと適当なことを言って返してくれた。少しでも危ないと感じたら即座に諦めてしらばっくれた方が得策なのだろう。

こういう人たちは安全なところへ着くまでは慌てて仕事の成果を確認したりはしないのだと思われる。中身だけ抜き取られていたということもなく、現金もカードも完全に無事であった。結果的に被害なしで勉強になったのはよかったが、現金だけの被害なら何とかなっても、大学の身分証やカード類を失うと相当なダメージを負っていたところである。可愛い娘たちだと思っていたらとんでもない棘を隠し持っていたものだ。まったく油断ならない。

その後徒歩で(ヴェネツィアは主要な道でも狭いので、人通りが多いところは走ろうにも走れない)リアルトへ向かい、先輩御一家とも無事に再会できた。ロスティッチェリアで軽い昼食をとり、御一家は夕食まで宿でお休みになるということだったので、私はまたヴァポレットを使って駅まで、今度は芹男氏と芒男氏を迎えに行く。大忙しである。

だいたい私たちのような人種は常に知識が先行するもので、芹男氏はあれが見たいこれが見たいというものをすでに幾つもお持ちであった。こちらはただ連れていくだけでいいので案内は楽であったが、ご希望のポルテゴだけは未だに分からずじまいである。何しろ、運河があって橋が架かっていて奥にマリア像がある、などというポルテゴはヴェネツィア中に無数にある。もう少し早く言ってくれればいいものを、いくら何でもこれだけの手がかりでは分かるはずもない。幾つか心当たりのポルテゴにお連れしたがすべて外れであった。涼しくなったらもうちょっと歩き回って探してみよう。

暑い中をさんざん歩き回った後、マ氏がヴェネツィアで一番美味いと推薦してくれていたS. Lio教会近くのBoutique del Gelatoでジェラートを買う。するとそこの店員が、あなたたちはジャッポネージ(複数形)か、と聞いてきた。肯定したところ、おそらくVi comportate con eleganza.という表現だったと思うのだが、あなたたちは上品だから分かった、というようなことを言われた。私は近づいただけでスリの小娘が大人しく盗品を返すほどの人相であるし(狙われた時点でなめられてはいるのだが)、他の二人もまた芹男氏のブログにあるように、たいがい厳ついオッサンである。三人ともエレガンツァなどという言葉とはほど遠い人間なのだが、褒められて悪い気はしない。しかし、どこと比べてそう言っているのかと考えると単純に喜んでいい話でもないような気がする。

それともあれか、これもやはり「ゑみや洋服店」で作ったシャツのせいかもしれない。『王様の仕立て屋』というマンガによれば、イタリア人はちょっとした服装の違いに気づいて相手の素性を見抜く、恐るべき人たちだということになっているので。

その後はS. Polo広場から南西へ進んだところの角の文房具屋へ。この店がまた面白かったのだが、その後先輩御一家と合流し、総勢七人となった夕食の様子も含め、ここは芹男氏のブログにお任せしよう。

さて、皆さんがヴェネツィアを発った後でまた家主の本を読んでいたところ、ヴェネツィアにはbòcoloといって、毎年4月25日になると付き合っている女性に蕾のままの赤いバラを贈る習慣があるという話が出てきた。その起源にはモロシーナというヴェネツィア貴族の娘とロドルフォという吟遊詩人との間に繰り広げられた悲しい恋の物語があるのだが、定型通りのお話だし、あまりあちこち訳してこういうところへ載せると家主に怒られそうなので省略。

で、この習慣がどれほど有名なものなのかとネットで検索してみたところ、日本でも特に『ARIA』というマンガで紹介されて知られているようである。そこではボッコロというふうに表記されているようだが、ヴェネト語の発音規則上これは少々気になる。家主の解説によると標準イタリア語ではbocciolo(ボッチョーロ、蕾の意)に相当する言葉であるのだが、ことごとく促音が抜けるというヴェネト語の特徴とアクセントの位置に鑑みて、どう捻ってもbòcoloは「ボーコロ」である。まあ、細かいことは気にしないのがイタリアに関わる者のマナーか。ヴェネト語はヴェネト語として、現代イタリア語に慣れた若者にとっては逆に発音しづらいだろうし、実際のところはボッコロという発音で通っているのかもしれない。

それはともかく、ARIAのファンサイトを見ていると、この街には「不幸の石」なるものがあるとのこと。これは初耳であるが、先日不幸な目に遭ったばかりでこういう情報に触れるのも何かの縁だと思い、場所も紹介されていたので早速見に行ってみた。

思い立ってアパルタメントを出てから十分で着く。リアルトからはすぐそこである。S. Canciano教会のすぐ近くで、サイトで紹介されていたとおり、傍の壁には警告のためと思しきSTOPの落書きがあり、見ていると地元の人らしきおばちゃんが当たり前のようにこれを避けながら通り抜けていた。ヴェネツィアは基本的に右側通行なのであるが、買い物カートを引きずりながらそれまで右の壁に沿って歩いていたそのおばちゃんは、すれ違う人もないのに石の直前で急に左側へ回り込んだのだ。これは明らかに「不幸の石」を意識した動きである。

ここは何度か通った覚えがあり、これまで知らずに踏んでいた可能性が非常に高い。信心がないので別に踏んだって構わないのだが、それより気になったのは、通りの向こうの建物の二階からじっとこちらを見つめているオッサンの存在である。もしかするとこのオッサンは、観光客が知らずに「不幸の石」を踏んで歩くのを見ながら暗い楽しみに浸っているのではないかと想像してみた。「不幸の石」そのものよりこのオッサンの方が余程怖い。

このまま家主の本を読み進めれば、どこかでこの「不幸の石」に関する伝説も出てくるのであろうか。ちょっと楽しみである。

隣り合わせの聖と俗について

ここ二日ほど夜になる度に雷雨があり、ヴェネツィアの街はすっかり涼しくなった。この先数日間はまだ天気が優れないとの予報なのだが、さて、これが一通り過ぎたら秋の気配が感じられるようになるのであろうか。何ともタイミングの悪いことである。

というのも、先週は先輩方が二組、盆休みを利用してイタリア旅行にいらしていたからである。イタリアでも8月15日の聖母被昇天祭を中心に一週間強のヴァカンツァとなって大学にも図書館にも入れなくなっており、この週はガイド役に専念することとなった。

まず最初の一行、先輩とその御同僚の二人を迎えにマルコ・ポーロ空港へ行く。この書き方では味気ないので、以下先輩のブログに倣って芹男氏と芒男氏としよう。そしてそのブログにおいて私は空男であり、ちなみにいうと、このブログのタイトルはこの渾名にちなんで芹男氏に付けて戴いたものなのであった。さらにいうと、この空男という名は以前書いたように私の本来の姓がとある天空神と似通っていることに由来している。

で、合流後はどういう訳かヴェネツィアを横目にバスと電車でパドヴァへ移動。このお二人はこの翌日ミラノまで行き、さらにその翌日にヴェネツィアへ戻ってくるという旅程である。よってこの日はCappella degli Scrovegni(スクロヴェーニ礼拝堂)やBasilica di Sant'Antonio(聖アントニオ聖堂)へ御案内。実は縁あって少し前にヴィチェンツァとパドヴァには遠足に行っており、私は二回目となるので案内はスムーズであった。

詳しいことは芹男氏のブログ

新・鯨飲馬読記

を見ていただいたらよいかと思うが、聖アントニオ聖堂で芒男氏が服装チェックに引っかかって入れなかったことについては一つ書いておきたいと思う。中には軽快な格好をしていてもチェックを素通りしていた人があったので、それを見た芒男氏は人種差別だと憤慨しておられた。ヨーロッパでの生活経験は私なんぞより芒男氏の方が遙かに長いので、その仰るところには間違いがないかとも思うが、ここに関しては一概にそうとも言えないのではなかろうか。

前回来たときは聖アントニオの墓の裏へ回る巡路へ進み、巡礼者が墓に直接手を触れることができるようになっていた。日本風にいうとここはパワースポット(軽い言葉だ)となっており、奇跡を信じて本気で巡礼に来る人が絶えないのである。そして墓の傍にはパネルがあり、ここへ来たことで病気が治ったとかいう人々がお礼参りにやって来て納めたメダルと写真とが所狭しと並べられていた。

ちなみにこのとき私は墓に手を触れていない。キリスト教に限らず、私には信仰心というものが微塵もないのだが、真剣に信じている人を茶化すような真似には意味がないので、軽々しい行いは慎もうと考えてのことである。

さてしかし、二度目のこの日は墓の周辺が封鎖されていて巡礼路に入れなかった。正式には何というのか知らないが、折悪しく夕方のお勤めの時間にさしかかっていたようで、一周して中央部分に戻ってみると、居並んだ人々と墓の間に設けられた壇上に神父が立って何やら説教を始めている。なるほど、この状況で信者たちの視線の先に観光客がうろうろしていたらぶち壊しになるだろう。

スクロヴェーニ礼拝堂へは金を払って入るが、聖アントニオ聖堂は中へ入るのに金を取られることはない。つまりこの聖堂は観光施設ではなく、生きている宗教施設なのである。ならば地元の信者が普段着で入ってくるのは自然なことだともいえる。

逆にしてみれば分かりやすいか。高野山が世界遺産に登録されたことで外国人観光客が増えたのはいいが、彼らは日本人なら自ずと分かるルールが理解出来ず、当初は些少の軋轢があったというニュースを以前見た覚えがある。高野山に来た外国人観光客が一目で分かるのと同様、私たちはこの地では明らかに異物である。それはもうお互い様なので仕方がないのではなかろうか。一応文句を言われない格好をしていた私と芹男氏であっても、もう少し遅くなり、お勤めが佳境に入るタイミングであったら入れてもらえなかったのではないかと思われる。

お勤めの間は物音を立てるのが憚られたので動けず、やっと終わったところで、異教徒(私は無神論者であるから異教徒ですらない)がうろうろして申し訳ありません、と内心謝りながら出口へ向かう。正面にある入口は基本的に一方通行で、出口は別に設けられている。

そちらへ向かうと、巡礼者は必ず売店の中を通ってから外に出るように作られている。そもそも聖アントニオの墓の区画で天井を見上げただけでもあれこれ突っ込みたくなるのだが、聖堂内部の豪奢な造りに打ちのめされた後でこの売店へ誘導されると、先ほど内心で謝ったのが一変、何やら言いたくなるのを抑えるのに苦労するような品揃えである。だがしかし、ここは黙っているのが礼儀というものだろう。

その後はすぐ近くのオルト・ボタニコ(植物園)でゲーテが見たという棕櫚の木を眺め、ヴィチェンツァへ移動。芒男氏の御友人であるイタリア人がこの街に住んでいらして、合わせて四人で夕食となる。前回来たときにも見たBasilica Palladiana(パッラーディオの公会堂)の中の店でしこたまワインを飲み、その後はその屋上のバールへ上がる。こちらへ上がるのは今回が初めてで、これがまた素晴らしい場所だった。

終電でヴェネツィアへ戻る。酒を飲んで終電で帰るなんて真似をイタリアでもすることになろうとは思わなかったが、ヴェネツィアへ戻ってくると何となく安心した。こちらが多少慣れたというのもあるが、千年以上も異邦人が出入りしてきた土地の雰囲気はやはり東洋人にも優しい。せっかくの深夜の散歩であるからあちこちで夜景を写真に収め、カナル・グランデに出たところのお気に入りの場所で一服していると、通りすがりの女性から火を貸してくれと頼まれた。

すでに日付も変わっている時間帯であったが、妙齢の女性が深夜でも一人で出歩き、見知らぬ東洋人に声をかけるのに何の躊躇もいらないのがヴェネツィアという街である。一歩テッラフェルマへ入ってメストレの辺りでは少し怪しくなってくると聞いたが、ヴェネツィアのこの治安の良さは特筆すべきものだろう。が、そうやってすっかり安心していると足下を掬われることになるのであった。それについてはまた次回。

伝説について

かつて全世界をおおい尽くした大雨をもって人類に試練をお与えになった主は、またその恩寵のしるしをも与えようとお考えになりました。世界を水の底に沈めた恐ろしい豪雨の記憶を消し去るため、世に二つとない素晴らしいもの、神の恩寵を語り継ぐよすがとなるものを創り出すおつもりになったのです。長くお考えになった末、全能の神は、星々の輝き、月の光の銀色、太陽の光の金色、高い空の青色、嵐の海のあぶくの白色、夕焼けの空の赤色、そして雨を知らせる雲の灰色をお集めになりました。それらをすべて小さな袋にお詰めになってから天使たちを召し出すと、この袋を地上にもたらし、その価値にふさわしい地へその中身を振りまいてくるよう命じられたのです。天使たちはすぐに出発し、全世界の上空を飛んであらゆるところを見て回りました。その中には本当に美しい場所もいくつかありました。しかしそれでも神の授けられた命令に適うような土地は一つもなかったのです。もう引き返そうかと考えたそのとき、天使たちは遠くの方に驚くべき景色を見つけました。かすかな細長い土地が水の上にわずかに浮かび上がっていたのです。そこでは優雅な鳥たちが風と戯れながら低く飛び、またその風は沼地の葦を撫でて優しい調べを奏でています。その地は創造されたときのままの魅力をたたえていたのでした。その狂おしいほどの美しさにうっとりとした天使たちはそこで立ち止まり、ゆったりとした身ぶりでその喜ばしい土地へと袋の中身を振りまきました。するとたちまち、その小さな島々のうえに金の円蓋が立ち上がり、白い大理石の館、そびえ立つ鐘楼、滑らかな石畳の敷きつめられた広場、そして彫像やモザイコ画で飾り立てられた教会が現れたのです。このようにしてヴェネツィアは生まれました。だからこの地は本当に神様の贈り物なのだということです。

……これまで言及することがなかったが、うちの家主は物書きである。最初の頃にマ氏から説明されたところによると、新聞の主幹をやっているとかいう話で、普段は講演やなんやかやで忙しい、ということだった。初めて会ったときにその新聞を一部戴いたのだが、新聞といってもおそらくヴェネツィアの地方紙で、またどうやら季刊のもののようである。知られた人なのかと思って名前を検索してみるといくつか著書もあるようだった。そこでそのリストをプリントアウトして持ち歩き、いくつか本屋を巡ってみたのだが、しかしこれがまたなかなか大変なものだったのである。

ヴェネツィアは土地が狭いので本屋も小さいところが多い。店の棚に並べられる本の数が制限されると売れる本に特化していくのは当然の成り行きであって、したがってここの本屋には地図かガイドブック、イタリア料理の本ばかりが並んでいるのである。だが、ヴェネツィアは海産物で知られる街だからであろう、その棚の中に当然のような顔をして「Sushi」「Sashimi」の本が混じっている。

ついでにいうとこちらのスーパーではマグロやサケの切り身に「Sashimi」と表示されているし、また醤油も売られている。それもキッコーマン。ただしワサビを見かけたことはまだなく、彼らがサビ抜きでどうやってSushiを食べているのかは分からない。さらについでに寿司ネタでいくと、最近こちらのASTORIAという会社が「YU Sushi Sparkling」なるワインを売り出したという話をこちらの先生から伺った。寿司に合わせて極辛口に作ってあるらしく、まだ店頭で実物を見たことはないが、これはボトルのデザインがなかなか綺麗なのでちょっと検索してご覧戴きたい。ちなみに「YU」とはどういう意味かとこちらの先生が問うてみたらしいのだが、向こうから販促しておきながらも担当者が勉強不足だったのか、芳しい答えは得られなかったとのことだった。よく分からないけど何となく格好いいから、という理由で外来語を使うのはどこの国でも一緒らしい。

さて、それはそれとして家主の本の話に戻ろう。大手チェーン以外の本屋にはそれぞれ得意とする言語や分野というものがあって、目当ての本を探すためにはヴェネツィア内をあちこち歩き回らなければならない。で、結局のところはまたこちらの先生の助力を仰いだ。先生が「古本屋」と呼んだ店へ連れていってもらって見つけたのだが、どうもこちらでは、新刊書店→発売からちょっと時間の経った本を扱う店→さらに刊行の古い本を扱う店へ、と本が流れていくようで、ここで「古本」というのは一度読者の手に渡ったものを指すのではなく、日本で言う「新古書」に近い。だからここでいわれる「古本屋」で買っても本は綺麗だし、値段も新刊当時と変わらない。ただしこちらでは本を値引きして売るのが習慣であるので、定価というわけでもない。

そうして手に入れたのは、ヴェネツィアの歴史に関する本である。イタリア語の勉強も兼ねて端から訳しているのだが、この地の人々の間で受け継がれてきたおとぎ話をその歴史の合間へ織り込んでいる、というのがこの本の特徴ということになるのだろうか。「歴史」も「物語・おとぎ話」もイタリア語では同じくstoriaになるというか、そもそもギリシャ語にhistoriaという言葉があってラテン語のhistoriæとなり、イタリア語ではhを発音しないのでistoria、そしてstoriaとなっているわけだから、英語でいうhistoryもstoryも同じ言葉なのだと言われれば納得するほかはないのだけれども、それにしてもこれを文脈だけで訳し分けなければならないというのは骨である。それともあれか、歴史とは結局作り話であるという達観がここには示されているのだろうか。ともあれ、この本の序文にも書いてあったのだが、政治史の研究が定まって幹が通ったところで、枝葉の「民衆の歴史」に目が向けられるという流れはこれまたどこの国でも一緒らしい。

家主の他の本のタイトルを見てみると、ヴェネツィアに関するものとおとぎ話などに関するものが半々くらいで、ヴェネツィアに関するこの本もどちらかというとそういう「伝説」の部分に力が入っているようだ。ちなみに残りの本についてであるが、月末に電気のメーターの確認にやってきたマ氏が、私が家主の本を読んでいるのを見て喜び、残りはオレが買ってきてプレゼントしてやる、と言ってくれた。単純に喜ぶべきなのか、それともプレッシャーをかけられたと考えるべきなのか。

で、冒頭に掲げたのはこの本の最初の部分で紹介されている、ヴェネツィアの起源に関する伝説である。おとぎ話であるから話の構造が単純なのは仕方ないが、色を集めて袋に詰めて、という部分はいかにもこの街らしく華やかで美しい。そこから考えると、どうもヴェネツィアの全盛期に創出された話であるように思われる。

歴史に関する部分はこちらへ来る前に塩野七生氏の本で学んでいたお陰で私の語学力でも充分理解出来るし、ところどころへこういう「おはなし」が差し挟まれるので、かなり分厚い本であるにもかかわらず読んでいて飽きない。さて、帰国するまでにすべて訳出できるであろうか。

日陰について

以前スプリッツの話をした際、cicchettoチッケット(複数形cicchetti)という言葉について「少量の酒」と書き、その後また別のところで、これはもしかしたら意味が違うかもしれない、と書いていたことがあったかと思う。解明が進んだのでご報告しよう。

そもそも手元の小学館の伊和辞典に「(グラッパなど強い酒について)少量の酒」とあったのが始まりである。派生して別の意味もあるのだが面倒なのでここでは省略。で、この電子辞書にはオックスフォードの伊英辞典もついているのでそちらも見てみると「(liquore)bracer, short, shot, snifter BE」とあった。どれも少量の強いアルコールという意味の単語であってまったく齟齬はない。ちなみに「BE」というのは「British English」の略号だそうな。

ところがヴェネツィアの市中へ出ると、どこへ行っても酒のつまみのようなものを指して「cicchetti」と書いてある。一箇所や二箇所ではないので誤用ではありえないし、後で引用するようにヴェネツィア料理の本でもチッケットは「食べる」ものと書いてある。明らかに辞書の記述が現実に合っていないのだが、まあ、同じ酒に関する言葉であるし、時代によって意味が変化するようなことだってあるだろう、日本やイギリスで編纂された辞書であれば多少の間違いやずれが生じるのも仕方ないかと思っていた。

そんな中、研究に関して手元のこの辞書では間に合わない単語に遭遇することも増えてきた。今後のイタリア語の勉強のためにもまた必要だろうと思い、イタリアの国語辞典についてこちらの先生に教えを請うたところ、TRECCANIトレッカーニという辞典を教えていただいたのである。これはイギリスのブリタニカのように、由緒があるイタリアの国立百科事典(Enciclopedia)だそうで、辞書(Dizionario)、同義語類語辞典(Sinonimi)としての機能もある。

「機能もある」という書き方が辞典にはそぐわないような気もするが、それもそのはず、この辞典はネットで使えるものなのだ。大学教授が信を置いて使うような辞典がネットで誰でも無料で使えるというのはちょっと驚いた。日本で最も権威ある辞典といえば小学館の『日本国語大辞典』であるが、これをネットで使おうと思ったらそれなりの対価を必要とするはずである。

見てのとおり、国が作るか一出版社が作るかというところに直接的な原因があるが、それはまた間接的には、文化事業に対する人々の理解度が違うということでもあるかと思う。それはそれとしても、日本で国家事業として同じようなものを作ろうとしたら、きっと反対する人が出てくるのではないか。国家が行えばそこに権威化という作用が働くのは仕方のないことで、国が「正しい日本語」を固定化すれば文化の多様性が抹殺される、とか何とか面倒なことを言い出す人が必ずあるだろう。

ところがイタリアでは、国家が集めた知識を皆が平等に利用できるようにする、ということが自ずと優先されているわけだ。これを見て、この国では保険や公共交通機関が妙に安いのを思い出した。きっと税金の観念と似たようなものなのである。

交通機関なら電車でも船でも、高いものを利用しようと思えばそういう選択肢がいくつもあり、日本人からは階級差があからさまなように見える場面もある。しかし、使える人にはそれ相応のものを用意したうえでぱーっと使ってもらい、そのお金をその他大勢の最低限のラインを維持するために回すというのも充分筋が通っている。貴族のいないこの時代、富裕層がいつまでも富裕層である保証もないわけで、どこまでこの構造が維持できるかという点は別の問題だが。

日本人が考える「平等」って何なのだろうかとちょっと考え込んでしまったのだがそういう話はつまらないので放っておいて、イタリアと比べてみた場合、日本人は「国家」というシステムを信用しきれていない、ということはまず言える。ここの人々が「イタリア」というものに対して持つ信頼感は、しかし日本の政治家が言うところの「愛国心」と同じものではない。何というか「年季が違う」のだ。共和制というものが二千年以上前に存在していた国では何もかもが日本と違いすぎる。どうも私には上手く説明できないが、ともあれ、この国と人々との関係は日本人が真似しようとしてできるものではないという気はする。

さてさてまた盛大に遠回りをしたが、私もイタリア共和国のおこぼれに与ってcicchettoについてトレッカーニで調べてみたところ、次のようになっていた。
cicchétto s. m. [dal fr. chiquet, der. di chiqueter «sminuzzare»]. –
1. Bicchierino di liquore forte, come acquavite o sim.: bere un c.; ricomparvero più volte a bere cicchetti su cicchetti (Pavese).
やはり「少量の強い酒、蒸留酒など」と書いてあり、「チッケットを飲む」という用法を示したうえで、パヴェーゼの一節が引用されている。前後の文章の流れが分からないし、イタリア語はイタリア人と同じで都合の悪いときには当たり前のように原則を無視するから自信は持てないのだが、おそらく「彼らは幾度となく現れてはチッケットにチッケットの杯を重ねた」という訳になる。

どう見たところで手元の辞書の方と一緒である。イタリアの国立の辞典にそう書いてあるのだからもう間違いない。途方に暮れてこちらの先生に伺ってみたところ、なんのことはない、結局例の「ヴェネト語」というお答えだった。要所要所で権威にまつろわぬ人々である。

少なくともヴェネトではチッケッティを「おつまみ」という意味で使うのは間違いない、そしてここでは少量の酒は「ombra」というのだと教えられ、その表現は例のヴェネツィア料理の本の序文で見たことがあったのをすぐに思い出した。ヴェネツィアの漁師がcaigo(ラグーナ特有の霧のこと、これもヴェネツィア方言)に阻まれて漁に出られず、

 Allora tanto vale andare a bere un'ombra di vino e mangiare un cicchetto.
だったら(オステリアへ行って)軽くワインでもひっかけ、チッケットをつまんでいてもおんなじことだ。

という内容の文があったのだ。ちなみにombraという言葉は標準イタリア語では「日陰、影」を指す。何しろ日差しの強いこの地でのことであるから、
「ちょっとそこの日陰で一休みしてワインでも飲もうや」
「ちょっと日陰で飲もうや」
「ちょっと日陰へ」
「日陰」(グラスを傾ける仕草が伴う)
とだんだん約まってきたのではないかと想像してみた。日本語にも酒に関する隠語が山ほどあるが、やはり酒という言葉は直接使いづらいというか、何かしら後ろめたさが伴うものなのだろう。

バールへ入ってきて開口一番、"Dammi un'ombra di prosecco."(プロゼッコ一杯くれ)とか言っているゴンドリエーレとか、一度見てみたいものだ。

そうそう、プロゼッコをプロゼッコというのは本当にヴェネツィアだけらしい。ちょっとでも離れたら「プロセッコ」になるのだそうな。

水面に映る灯について

一週間ほど前のこと。こちらではレデントーレの祭があった。その由来などは検索して他で見てもらった方が早いので省く。日程はだいたい7月の第3日曜日ということになるのだったか。その日曜日がメインで土曜日はその前夜祭ということになるのだが、前夜祭の方が盛り上がるのは日本でもすっかり定着したキリスト教の祭日と同じである。

その前夜祭で花火が上がるというのが有名らしく、またカルネヴァーレに次ぐヴェネツィアの一大イベントと聞いては見逃すわけにはいかない。些か潤いには欠けるが、同時期にこちらに派遣されてきた縁で何かというと一緒に行動する三匹のおっさん(全員日本人)で花火見物に繰り出そうということになった。

花火はジュデッカ運河に据え付けられた台船から打ち上げられる。ということは、当然ではあるが、ヴェネツィアの中心であるサン・マルコ広場周辺、スキアヴォーニから見るのが一番だということになる。先日マ氏に聞いたところによると、ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世の像の台座に登って見物すればよく見える、若い奴らは台座のもっと上の方まで登ったりするんだ、という話だったが、そういうことは勢いのある人たちに任せよう。私たちは歳を取ってひねくれているので、人が多く集まるであろう場所は避け、ザッテレの方へ向かうという手筈を立てた。

それはそれとして、その混雑ぶりがどういうものなのか一目見ておきたいので、夕食の約束の一時間以上前にアパルタメントを出て、一人サン・マルコ広場に偵察に行ってみた。しかし六時前後のサン・マルコ広場は普段とそう変わりはない。

拍子抜けしてアカデミア橋を渡るが、サルーテ教会の辺りまで行ってみるとだんだんそれらしくなってきた。観光客はまずサン・マルコ広場へ向かうであろうから、ここら辺を狙うのは慣れた地元の人たちなのであろう。場所取りのシートが隙間なく敷き詰められている。サルーテ教会辺りの島の先端、Punta della Doganaといわれる場所にいたグループなどは早くも盛り上がっていたが、だいたいの人はただ寝っ転がっていたり、本を読んだりして時間をつぶしているようだった。

ザッテレまで進み、明朝のメインイベントでドージェがレデントーレ教会まで渡っていくという仮設橋のところまで行く。今はこの橋を架けるのにイタリア軍が動員されるのだそうで、橋脚となる台船を数箇所に配置したうえで、がっちりとした立派な木橋が架けられている。但し元来この橋は沢山の船を繋げて作るものであったという話で、それにちなんでいるのだろう、橋の周辺を埋め尽くした見物客の船が互いに綱で連結されていた。

このように伝統を大切にし、それに誇りを持って忠実に記憶していこうとする人々がイタリアにはいくらでもいるのだから、昔ながらのやり方で橋を架けようとしても皆喜んで協力するだろうに、とも思うが、そんな橋を作ったらジュデッカ運河は完全に通行止めとなってしまう。巨大なクルーズ船などは当然無理だが、現代の仮設橋は小さい船なら下を通れるように作ってあるのだ。お祭りのためであっても一瞬たりとて経済活動を止める訳にはいかない。いやむしろここで稼がなければいけない。世知辛いものである。

橋の袂は動けないほど人が集まっているので通り抜けることもできない。迂回して待ち合わせ場所へ向かうが、すれ違う人を見ていると大きく膨らんだスーパーの袋やピッツァの箱をもった人がちらほらと居る。場所取りの係と合流してこれからゆっくり飲み食いするのだろう。何しろ花火は十一時半からなので、これから相当な時間をつぶさなければいけない。何度も書いているが、この時期のヴェネツィアの空が完全に暗くなるのは九時から十時前である。開始時間が遅いのはそのせいだとこのときは考えていた。

おっさん方と合流してタヴェルナで夕食。ここでBigoi in salsaなるものを初めて食す。ビーゴリというのはこの地方に特有の太いパスタで、後日こちらの先生に伺ったときなどは「うどん」と仰っていたほどのものである。暇潰しに訳しているヴェネツィア料理の本にはBigoliと書かれているのだが、現場での表記はBigoiであった。同様にZaletiというヴェネトの菓子も実際に店で見るとZaetiというふうにLが抜けるのだが、こちらの先生によるとヴェネト語というものはそういうものらしい。これだからイタリア語は切りがない。

レシピ本の注釈を見ると、Bigoi in salsaは祭日の前夜など、小斎日に食べるものだ、と書いてあったので頼んでみたのだが、レデントーレはキリスト教のイベントというよりは地元のお祭りなので、ちょっと違ったかもしれない。注文時に店の人が注意してくれてはいたのだが、アンチョビを大量に使ったもので相当に塩辛い。物珍しいというだけのものであって、こちらへ旅行されることがあってもまずおすすめはしない。

食事が終わってからザッテレへ向かう。例の橋は通行が解禁されていて人が動いているので、せっかくだからとこれを渡ってドージェに先駆けレデントーレ教会へ。どちらかというとこのお祭りはここが中心なのだから、ジュデッカも相当な人手である。教会脇では福引きのようなものもやっているし、見慣れた形式の出店まであった。教会前の階段は居並んだ人々で野球場の観客席のようになっていて、この辺は日本人にも馴染みのあるお祭りの雰囲気である。それでもレデントーレ教会へ一歩入ると、その内部は打って変わってひんやりとした静謐な空気に充たされており、歴史のある宗教施設の力というものを感じさせられた。

ザッテレへ戻って花火が始まるのを待つ。しかしいざ始まってみると、予想通りたいしたことはなかった。技術も演出も日本のものには遠く及ばない。イタリア国旗をイメージしていると思しき単純な赤と緑の花火が三割くらいもあったか。とにかく単調で物語性がなく、五分も見ていれば飽きる。これを見ていると、日本の花火はもっと外国人客を呼べるな、と思った。

日本のものは「花火大会」と銘打たれて、花火そのものを観賞するのが目的である。時期を考慮すれば迎え火や送り火のようなものと繋げて考えることもできるのかもしれないが、ともあれ、花火にはどういった歴史や意味合いがあるのかなどと今まで考えたことはなかったし、またここにいては調べる方策もない。それでも改めて思うに、夜空に華々しく広がってまたすぐ消えゆくものをただじっと眺める、というのは世界的にも変わった習慣なのではないだろうか。

ヨーロッパ全体のことは知らないが、このレデントーレの花火はその色彩の妙を楽しむというのではなく、祭日を迎えたことを喜び、祝砲を打ち上げるという意味合いが強いのだと思われる。それであれば花火そのものの演出に興味が向かないのも無理はないだろう。打ち上げ時間が日付の変わるところにかかっているのは、ただ空が暗くなるのが遅いからというわけではないようだ。年末のカウントダウンと同じなのだと考えればよいか。

終わった後には見物客の船が一斉に帰って行く。そちらの方がまた壮観で、暗い水面に船の灯火が連なって流れてゆく様をアカデミア橋の上から眺めていると、さながら蛍の群れのようであった。こちらの方がよほど日本人の嗜好に合うというものであるが、やはりこの地ではそういったものを眺めて余韻に浸ろうなどという人は少ない。何しろ祭りは翌日が本番なのだから、これからまだまだテンションを上げていかなければいけないのだろう。ただの花火見物でもいろいろ違って考えさせられるものである。