サン・マルコ聖堂について

ヴェネツィアーニは総じて地味で、イタリア南部の人たちと比べると人見知りも強く、とにかく控え目で始末屋、というのがこれまでのイメージであった。パラッツォ・ドゥカーレへ入ったときもその印象は変わることがなく、この自制心こそがヴェネツィア共和国の繁栄の礎であったのだな、と思っていたのだが、これはとんでもない勘違いだったようだ。

サン・マルコ聖堂へ入るのは滞在9ヶ月目にして初めてのことである。これまで前を通り過ぎるだけであったのだが、ちょっとした切っ掛けがあったのでようやく中へ入ってみた。入るのはとりあえずタダだが、例の秘蹟の祭壇の近くへ行くには€2、聖具室の見学には€3のお布施が必要である。しかしここまで来て多少の金をケチっては逆に勿体ない。これこそが見所である。

聖堂の外側にもあるのだが、中へ入ってまず目を引くのは天井のモザイコ画であった。そして暗い灯りに目が慣れると、それ以外の部分がほぼ金で装飾されているのに気付いて気圧される。いや、辟易とする。どうもこれまでのヴェネツィアとは雰囲気が違うようである。保護のためだろう、カーペットなどで遮られて実際には見えないのが残念であるが、帰ってから家主の本に付されている写真を見ると床の紋様もまた手の込んだものであった。

一応は宗教施設であるから、こういう場所はいくら装飾を施そうとも概ね俗悪になる一歩手前で踏みとどまるものだと思っていた。が、この聖堂は迷うことなく突き抜けているではないか。調べてみると三代目のこの聖堂は完成した後にも何度か改修を施され、その度に装飾が付け加えられていったということであった。ヴェネツィア共和国が手に入れた富を脈絡無く吸収していったことでこうなったということか。

聖マルコの柩が出てきたという例のパネルを探して€2を支払い、祭壇の裏側へ回っていくと、Pala d'Oroという祭壇画を見ることができる。是非これは画像検索して見て戴きたいが、これを見て宗教的な有難味などを感じている暇など無い。目に入るのはただ全面の金の輝きと夥しく鏤められた巨大な宝石の数々、感じられるのはヴェネツィア共和国の想像を絶する富力のみである。同行者は、これだけ宝石がある(二千個に近いそうな)のだから一つくらいくれたっていいのに、などと暢気なことを言っていたが、これだけのものを見てまだ欲が出るというのが私には理解できない。これが若さか。ともあれ、パネル探しを忘れて束の間呆然としてしまった。

ちなみにそれらしきパネルはすぐ傍に見つかったが、例の話を知らなければどうということはないものである。周りの観光客も誰一人そのパネルを気にする人はなかった。モノというのはモノガタリが伴わなければ生きることができない。

次に聖具室へと巡る。ここにもまた溜め息しか出ないような銀の燭台や十字架、杯などが展示されているのだが、何とも不思議なことにこれらの品々には邪気がない。彼らにとって富とは一体何だったのだろうかとここで暫し考えることとなった。これらが一人の人間に帰するものではないというのと、美意識や様式というものを一顧だにせず、偏執狂的に詰め込まれた過剰な装飾のためだろう、権力意識や自己顕示欲のようなものが微塵も感じられず、金や銀、高価な細工を玩具のようにして遊んでいるとしか見えないのである。玩具にできるほどまでに貴金属や宝石が溢れかえっていたというのは恐るべきことだが、しかしながら決してそこに溺れているというふうではない。ということは、これはこれでヴェネツィアらしい自制心の表れということになるのか。

ここに一つの聖母子像がある。光背に例の如く幾つもの巨大な宝石を配してあり、真珠とカメオ、そしてまず間違いなくムラーノのガラスのビーズで作った首飾りの合間に幼いキリストが在しているのだが、素朴な表情の母子の図柄が完全に装飾に負けていた。聖母子の魂は金と宝石の輝きによって残りなくかき消されており、宗教的テーマを無機質なモノのレヴェルにまで還元したという点で希有な聖母子像であろう。ヴェネツィアらしくてよい。

とにかく、せいぜいムラーノのガラスでできたシャンデリア程度の贅沢品しか見られない他の建物とはまったく趣が違っている。自分たちで派手な装飾品を身に纏い、屋敷をコテコテに飾り立てるなどというのは気恥ずかしくてできないので、そこで余った財力がこの聖堂に集中しているのだろうか。つまりこの聖堂はヴェネツィアーニの内に秘めた願望を具現するための着せ替え人形みたいなものか、と思い至ったら何だか親しみが湧いてくるようでもあった。

さて、祭壇の正面にあり、聖マルコの遺骸だとラテン語で書いてある石棺にも一応挨拶を済ませ、先日までメンテナンス工事中で閉まっていたカッフェ・フローリアンでお茶をしたところで、ようやくサン・マルコ広場周辺の空気にも馴染んできた。

この日は特設会場の建設が着々と進められている最中であったが、ここは当然、カルネヴァーレの期間中に行われるあらゆるイベントの中心地となる。慣れてきたことだし、私も期間中は足繁くここに通うことになるのかといったらそうではない。実は、カルネヴァーレの間はサン・マルコ広場へは近づくなと言われている。勿論テロの危険性を鑑みてのことである。例のテロの後、次はヴェネツィアだ、という話が一瞬出たことがあったので、皆結構気にしているのだ。

カルネヴァーレのウェブサイトを見ると、以前レガータの起源として紹介したLa Festa delle Marieが初日に行われるとあった。祭りや人混みは基本的に嫌うものの、これだけは観ておこうかと思っていたのだが、イタリア人に行くなと言われては仕方ない。幼い子を持つ母親の意見なので、心配も度が過ぎると一笑に付すこともできるが、しかしこれはイタリアの中でも特に危険に対する嗅覚が鋭いと思われる地方の出身者が言うことでもある。

ヴェネツィアは特殊な空間なので、この島の中に留まる限り、治安に関する意識は特に日本と変えないで済む。しかしここは紛れもなくヨーロッパである。今のところ何も起こってはいないし、何も起こらないまま終わればそれはそれで喜ぶべきことではあるが、どちらにせよ無理を押してまで人混みの中へ出るほどのことではない。

ウェブサイトの過去の写真と説明を見て分かったのだが、La Festa delle Marieは私が期待したものとは違っていた。私は巨大な木造の人形Marioneが観たかったのであるが、現代の「マリアたちの祭り」は単なるミスコンになっているようである。イタリア人は美しい女性が大好きであるから、問題が無ければ生身の女性に出てきてもらいたいという気持ちは分かる。また、今のカルネヴァーレは私が生まれた頃になってから復興された祭りであるから、現代的なアレンジが施されているのも致し方ないのではあるが、それでも釈然としないところは残る。

街を歩いている観光客の仮装にも私としては違和感を感じる。カルネヴァーレの仮装といえば、シンプルかつ薄気味の悪い種々の仮面に黒い外衣を纏うものだと思っていたし、こちらのマスケラの工房の店先などにはそういうマネキンも出ているのだが、どういうわけか観光客たちはことごとく華美で奇抜な衣装を身に付け、自分の存在を誇示しながら歩いているのである。

仮装というものは自らを怪物と化すことで人間としてのアイデンティティを消すところに意味があるのだと思っていた。私はヴェネツィアの街に冷たい霧と黒衣の怪物が忍び寄り這い回り、次第に冥い異界へと変貌していくところが観たかったのであって、チンドン屋が明るく盛大に練り歩く街が観たかったわけではない。

どうやら本来のカルネヴァーレは私が恋したヴェネツィア共和国と共に、すでに歴史の闇の中に消え去っていたようだ。まあ今回の場合、御陰で期間中に外に出る気が失せたというのはありがたいことかも知れないが。

聖マルコについて

すでにプレイベントも始まっており、パスティッチェリアにはfrittelleフリッテッレやgalaniガラーニなど、この時期ならではのお菓子が並んでいる。街はまた混雑し始め、休暇していた店の多くもぽつぽつ営業を始めるようになった。この1月30日からヴェネツィア最大のイベント、カルネヴァーレが始まるのである。

その陰に隠れてあまり話題になることもないのだが、1月31日というのは聖マルコの聖遺物がヴェネツィアにもたらされた記念日である。混み合う前にと思って先日サン・マルコ聖堂へ入ってみたということもあるので、ここでちょっと記しておこう。久しぶりに家主の本によるヴェネツィア案内であるが、しかしそもそもこれは54代ドージェであり、文人でもあったアンドレア・ダンドロの記録に拠ったものだということである。各所で話の内容や年号などに現在の通説と異なる部分があるのはその所為かと思われるが、とりあえずそのままとする。

このエヴァンジェリスタの行跡については様々な伝説があるのだが、エルサレムに生まれたマルコは使徒ペテロによって洗礼を施され、その忠実な代弁者・使者となった。その後ローマから北へ向かって進んでアクィレイアに到着、そこに最初のキリスト教会を創設したということになっている。このアクィレイアというのはヴェネツィアの北西100kmほど、電車なら三時間強の位置にある。

マルコはその後、ローマへの帰途についた。航海は順調に始まったが、しかしそれで終わっては伝説にならない。リーヴォアルト(リアルトの語源となった言葉だが、もともとこの言葉はヴェネツィアの中心部、現在のサン・マルコ地区の辺りを指していた)の湿原にある島々の近辺へくると不意に(都合よく)風が激しさを増し、荒れ狂う時化となったというのである。エヴァンジェリスタを乗せた船はやむを得ず、小島の間を流れる運河へ待避した。

彼が降り立ったのは現在ではサン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ修道院が建てられている辺りだとされている。ヴェネツィア北岸、アルセナーレの側の辺りで、ここら辺にはCelestia(天国)という、いかにもそれらしい名のヴァポレットの乗降場があるのだが、しかしここにはマルコが降り立った地であることを示すモニュメントも観光客の姿も見られない、落ち着いた場所である。

何とか嵐を避けることのできた船乗りたちは、漁師たちのあばら屋で手厚いもてなしを受けた。ところがマルコは一人海岸にひざまずき、熱心に祈り始めたとされる。彼は法悦に陥り、光に包まれて天から降りてきた天使を見た。
  “Pax tibi Marce, evangelista mevs”
「安寧は汝と共にある、マルコ、我が福音を伝える者よ」天使はこう彼に告げた。「恐れることはない、福音を伝える神の使者よ。苦難はまだ多いが、汝の死後この場所に比類なき街が興り、汝の肉体はそこに安らぎを見出すこととなろう。そして汝はその街の守護者となる」
その間に嵐は止み、マルコは旅を再開することができた。彼はローマへ到着し、福音を説くためにまたそこからアレクサンドリアへ赴く。多くの人々が彼の話を聞くために駆けつけ、エジプトの街のキリスト教徒の数は夥しいものとなった。

そんなある日、憎しみに駆られた異教徒たちが彼の背中を切りつけ、そして馬車に縛り付けて街中を引きずり回した後、牢獄に閉じ込めるという事件が起きる。夜になると、その傷を癒やすために天使が降り立った。しかしその後もつらい殉難の日は続き、三日目にマルコは亡くなったのである。それは西暦68年の4月25日のことであった。

4月25日というのはイタリアの解放記念日でもあるので紛らわしいのだが、聖マルコの祝日として知られるのはこちらの日付である。この日までヴェネツィアに居ることができないというのが心残りでならないが、ともあれ、彼の遺体はアレクサンドリアの教会に安置され、その後数世紀が経った。かの天使が予言したとおり、ヴェネトのラグーナには一つの街が作りあげられてゆき、マルコの降り立った地には住民が小さな教会を建てて、ドージェは毎年そこを訪れて祈祷を捧げた。その福音史家への崇拝は非常に大きなものとなり、アレクサンドリアへ行ったヴェネツィア商人は皆その遺骸を崇めることを常としていた。

そして、11代ドージェであったジュスティニアーノ・パルテチパツィオが二人の商人、ブオーノ・ダ・マラモッコ(マラモッコのブオーノ)とルスティコ・ダ・トルチェッロ(トルチェッロのルスティコ、マラモッコとトルチェッロというのは地名)を使ってアレクサンドリアから聖マルコの遺骸を盗み出したという例の有名な話になるのだが、これについては他所にいくらでも書いてあるので例によって省略。

828年の1月31日、その福音史家の遺骸はヴェネツィアに到着、そしてそれは政治権力が宗教権力より優位にあることを示すため、司教のところにではなくドージェのところへと持ち込まれ、まずは聖テオドール教会に安置された。

そもそもそれまで聖テオドーロ(この地での愛称はトダーロ)を守護聖人としていたヴェネツィアがなぜ聖マルコを欲したかというと、聖テオドーロというのが、できればそこから独立してその影響力を排除したいと考えていたビザンチンの聖人であったこと、そして、アクィレイアにあった司教座大聖堂を拠点とする教会権力との角突き合いの中にあって、「アクィレイアの教会の創設者である聖マルコはヴェネツィア共和国の独立を願ってこの地に自らの遺骸を移されたのだ、これこそが神の意志である」という方向へ話を持って行きたかったからである。何もかも計算尽くで動くのがヴェネツィアであって、この共和国はただの信仰心から干涸らびた遺骸を欲したりはしない。

聖遺物というのは金による取引が禁止されているので、どちらかというと「信仰心から盗み出した」、そして聖マルコの場合、「アレクサンドリアの教会がイスラム教徒によって壊されようとしていたので、その遺骸を救出するために危険を冒した」という方が表向きには通りがいいのだが、実際のところ、アレクサンドリアの教会の内通者にはかなりの報酬が渡されたという話である。必要であればドージェや十人委員会(まだこの時代にはないのだが)の判断でいくらでもこういうことができたという、この柔軟性がヴェネツィア共和国の強みであった。

それはそれとして、聖マルコの遺骸がヴェネツィアにもたらされたことで人々は高らかにこの街の守護聖人マルコを称揚し、ドージェ、ジュスティニアーノ・パルテチパツィオは、その聖遺物を管理するのにふさわしい教会の建設を速やかに開始すると布告、4年後にその教会は完成する。そしてここから始まるサン・マルコ聖堂という建物の歴史が非常に興味深い。

ちなみに日本語だとサン・マルコ聖堂、サン・マルコ大聖堂、サン・マルコ寺院という書き方が混在するようだが、パラッツォ・ドゥカーレとつながっており、ドージェの私的な礼拝堂として建設されたこの建物は本来「聖堂(basilica)」である。「大聖堂(cattedrale)」というのは中央の教会から指定された司教座大聖堂のことで、確かに現在は大聖堂となってはいるのだけれども、教会の権力を頑なに遠ざけていたヴェネツィア共和国の建物としては「聖堂」と呼ぶ方が相応しい。

最初のサン・マルコ聖堂はまだ草の茂る空地に作りあげられた、ロマネスク様式とビザンティン様式の要素を含んだ木と煉瓦の建物で、後にヴェネツィアのシンボルとなる、かの壮麗な聖堂とはかけ離れた建築物だった。それは仕方のないこととして、「汝の肉体はそこに安らぎを見出す」と例の天使が告げたにもかかわらず、聖遺物の受難はこれからが本番である。なにしろこの時代、ヴェネツィアの家々はほぼすべて木で作られており、火事は頻繁なものだったのだ。守護聖人の教会もまた火事に遭い、焼失してしまったのである。そしてその際に聖マルコの遺骸は跡形もなく失われてしまったという。面白いのはここからである。

1004年、23代ドージェであるピエトロ・オルセオロⅡ世によって再建された教会が献納された際も、その聖遺物が再び見出されることはなかった。聖遺物を失ったままの守護聖人の教会を献納するというのは、ヴェネツィアのすべての人々にとって非常に心苦しいことであった。そこで彼らは、まだこの街に守護聖人がいなかった頃のように、父なる神に直接助けを求め、祈り始めたのである。ドージェと評議委員、ドージェ夫人とその子女も慎ましい装いをして祈った。貴族とその使用人、聖職者、商人、職人、人夫、漁師も祈った。つまりヴェネツィア全体が祈りを捧げたのである。

昼夜途切れることなく続いたその祈りのささやきを聞き届けざるを得ず、主はとうとう、聖マルコにその姿を現すようお命じになったのであった。そう、荘厳なミサが行われていたときのこと、焼け残ったものであった大理石の壁柱の壁が突然裂け、列席者の驚嘆、歓喜、そして畏怖の中、マルコはその腕を外へ差し出したのである。

感謝を捧げるための荘重な儀式の後、盗難や涜神の危険に備えるため、その遺骸は新たに教会の中に作られた秘密の場所に安置された。ただドージェと聖堂参事会員長のみがその場所を知っていた。その秘密はあまりに注意深く守られたので、時が経ち、この土地に聖マルコが安置されているということが忘れられてしまうほどだったという。

……パドヴァの聖アントニオ聖堂へ行くと分かるが、聖遺物というのは非常に強い信仰の対象となっており、持っていればこれ以上に教会の権威付けになるものはない。通常であれば、これでもかというくらいきらびやかに、そして自慢げに、人目に付くような中心部に飾られているものである。後は察して貰いたい。

ここまででも何ともいえない話なのだが、しかしまだ終わりではない。1050年頃のこと、またもや恐ろしい火事があり、教会は完全に焼失することとなる。炎は建物に重大な損害を与えながら瞬く間に広がり、人々は真っ先に、聖遺物が焼き尽くされてしまったのではないかと恐れた。その後の聖堂の再建工事は1094年になってやっと完成、その間もやはり守護聖人の遺骸が見つけ出されることはなかったのではあるが、32代ドージェ、ヴィタリーノ・ファリエルは6月25日に建物の献納式を行うことを決めた。

もうどうコメントすればいいのか分からないが、ここでまたヴェネツィアの人々は同じように祈り、そして今一度、荘厳なミサの行われていた間に神意によって建物の壁が崩れ、光の中から聖マルコの古い柩が現れたというのである。今回の場合、聖遺骸そのものではなく、柩というところにちょっと遠慮が表れている。さすがに無理があると思ったのか。

この柩は新しい教会の、当然また秘密とされた場所へ安置されることとなるのだが、しかしこの奇跡的な出来事を祝うため、人々がそれを直接崇めることができるようにと半年の間は公に展示された。このような機会には貴賤の別なくあらゆる人々の間でお祭り騒ぎとなるものであり、何人かの研究者はここにヴェネツィアのカルネヴァーレの起源を見出しているという。ただし私の経験からいうと、イタリア人がこういう言い方をした場合の信憑性は皆無である。カルネヴァーレの起源についての話など、幾つあるのか知れたものではない。

柩は出てきたものの、聖人の遺骸そのものはあいにくながらその形跡を失ったまま長い年月が過ぎた。それがやっと見つかったのはなんとヴェネツィア共和国が崩壊して十数年が経った1811年、聖堂の修復作業が行われていた間のことであったという。現在それは最も大きな祭壇の下に埋葬されているそうな。また、秘蹟の祭壇の左側面の支柱の上、その前で灯明の燃えるところに、モザイコで飾られた大理石の四角いパネルが見える。その場所こそ、1094年6月25日、聖者の柩が信者の前へ奇跡的に姿を現したところだという。

というわけで実際にそのパネルを見に行ってみたのだが、長くなったので一旦休憩。

香気と冷気について

新鮮なハーブが手に入ったのでハーブティーを手作りしてみました。今回はtimoタイム、salviaセージ、rosmarinoローズマリーのブレンドで、これらのerbe aromatiche(ハーブ)はもちろんリアルト市場で買ったものです。お湯を注いだ瞬間からお部屋がステキな香りでいっぱいになって、とってもリラックスできます。

自分で書いておきながら寒気がする。確認しておくが、私は四十に手が届こうというオッサンである。完全に道を間違えているような気がするが、もう考えても仕方がないような気もしてきた。ともあれ何故こんなことになったのか、順を追って説明しよう。

芹男氏来訪中のとある一日、リアルト市場で仕入れた食材で料理がしたいという氏のたっての御希望で朝から市場へ繰り出した。リアルト市場は昼過ぎにはどこも閉まってしまうので、朝から買い物をして昼食を作ろうという算段で、調理を行うのはもちろん市場のすぐ傍にある私のアパルタメントである。

日本にいた頃も折に触れて二人で珍道中を繰り広げていたので、基本的にやっていることは普段と変わらない。日本であれば、芹男氏が目を輝かせてあれやこれやと買い物をするのに黙ってついて行き、荷物を持つだけで済むのだが、しかしこの地ではいいモノを扱っている店への案内やら通訳やらをしなければならない。

ところが、すべて私に任せてくれればいいものを、芹男氏はご自分でイタリア語を話そうとなさる。せっかく店の人がsfilettare(魚をおろす、市場へ通うためには重要な動詞である)して欲しいか、と訊ねてくれて私が肯定したのに、横から余計なことを言ってそのままになったりなど、私が市場に通い出した頃と同じような失敗をなぞっていったのだった。まあ、氏の腕があればちょっと手間が増えただけのことで済むのであるが。

氏も完全に暴走モードに入り、まず最初の店ではシャコ1kg、ジャコウダコ四匹、ホウボウ一尾、シタビラメ一尾、アサリ一袋。青果店の方ではインゲン一つかみ、ズッキーニ四つ、ブロッコリー二つ、ラディッキオ・トレヴィーゾ二つ、レモン二つ、カストラウーレ五つ(とそれに付随する大量のイタリアンパセリ)、ルーコラ一つかみ、オレンジ四つ。そして肉屋で馬肉のカルパッチョを200gと購入。ここまでで締めて€60程度である。しかしこれだけのものがあると、この金額が高いのか安いのか判断のしようがない。シャコがでかい上に安い、と仰って芹男氏は興奮していらしたが。

そして問題のハーブである。リアルト市場で常時ハーブを扱っている店は、私の知る限りでは三箇所ある。どちらかというと広場から遠い方、露天ではなく建物の一階に入っている店が一番よい店なのだが、今回は肉屋を出たところでその話になったので、すぐ目の前にある方の店へ行く。モノがいいかは別として、おっちゃんはいい感じであった。そこでタイム、セージ、ローズマリーを一束ずつ、と手に入れたのである。

一回の料理では使い切れなかったそれらが現在、ハーブティーとして私の手元にあるわけだ。どこの店でも€2/一束で、その単位でしか買えないので仕方ない。かなり前に買ったpeperonciniトウガラシもやはり€2で、一年程度では使い切れない量が手に入る。こういったものが枝のままテーブルの上に飾られているのをたまに見かけるので私もその真似をしてハーブを飾ってみたところ、部屋が無駄にオシャレになってしまった。もう到底男の一人暮らしの部屋には見えない。どうしてくれよう。

さて、芹男氏がこれらの食材をどのように料ったかについてであるが、これは当然、氏のブログにお任せする。氏が私のアパルタメントで好き放題やっている間、私は語学学校へ行っており、ほとんど出来上がったものしか見ていないのだ。よって私の出番は片付けのみとなった。

家事の中で私が一番最初に完璧に身に付けたのは掃除、後片付けである。以前書いたように、実家暮らしが長くて料理が後回しになった所為で自然にそうなったのだと思っていたのだが、しかしこの日、私がこのように育ったのは芹男氏を初めとする大学の先輩たちに因るところも多分にあったのではないかと考え直した。思い出してみると、大学時代はやたらと共同研究室の掃除をしていたような気がする。

パラッツォ・ドゥカーレの呪いだとはこの時点で思いもしなかったが、この日すでに芹男氏の体調は下降気味であり、私が片付けに入ったらすぐに寝入ってしまわれた。これはこれで好都合である。かなり昔のことだが、やはり昼間からあちこち駆け回った後、飲みに行くにはまだ早いから大学の研究室でちょっとコーヒーを飲んでいきたい、と芹男氏が仰ったことがあった。ところがコーヒーを飲んでいる時間より準備や後片付けの時間の方が遙かに長く、私が念入りに機材やカップを拭いている間、ずっと待ちきれない様子でいらした、ということがあったのである。もちろん気付かないふりをして完璧に片付けたが。

そんなことを振り返りながら、心置きなく私のcucinaキッチンを取り戻す作業に没頭した。都合二時間以上かかっただろうか。なにしろワンルームの部屋の流しというのは小さいもので、やたらと作業効率が悪いのである。ちなみにコンロの方は四連の大きなものが備えられており、日本人には何かバランスがおかしいようにも見えるのだが、イタリア料理というものは同時並行であれこれやらなければいけないものなのでこれはこれで正しい。イタリア人がずぼらでちゃらんぽらんだから後片付けの効率性というものをまったく考えていないわけでは断じてなく、物事の優先順位が違うだけのことである。異文化を理解するというのはそういうことだ。そういうことにしておこう。

5時には起きると仰ったがお疲れの様子なのでそのまま寝ていてもらい、7時頃にはいい頃合いだとみて近くのCaffè del Dogèでエスプレッソを飲んで目を覚ましてから、これも繰り返し御希望であったbacaro(ヴェネツィア方言で居酒屋を指す)巡りへ。ベタな観光客向けコースだったのではあるが、しかし有名店が有名店であるのにはそれなりに理由があるものだと勉強になった。ヴェネツィアのバーカロにはそれぞれに趣向を凝らしたチケーティがあるのだが、Do Moriのfondi di carciofo(カルチョーフィの太い部分を輪切りにしてブイヨンで煮込んだもの)やDo Spadeのfioli di zucca ripieni di baccalà(カボチャの花にバッカラを詰めて衣を付け、揚げたもの。この料理法はシチリアに起源があると語学学校の先生に教えられた)は確かに美味しい。

ちなみにDo Spadeにはカ・フォスカリの日本語学科で学んだという店員がいて日本語が通じる。初めてこの店に入ったとき、この方が珍妙な京都弁を使ったので面食らった覚えがあるのだが、これは絶対に京都人の仕業ではなく、大阪のおばちゃんが面白がって変なことを教えたのに違いないと睨んでいる(追記:後日御本人に伺ったところ、関西の方に留学なさっていたということではあったのだが、果たしてそれだけで「おまっとさんどした、堪忍どすえ」という語彙が身につくものだろうか。ちなみに、芹男氏と行った翌日に店の近く、というか家の近くで偶然行き交って挨拶したこともあって、この方には顔を覚えて貰えたようだ。この日は開口一番「お帰りやす」と言われた)。せっかく日本に興味を持ち、真面目に勉強してくれた人に何てことをするのだ。

さらに近くのアポナル広場のバーカロからリアルト橋を渡ってカンナレージョ、そしてミゼリコルディア運河の辺りへと三軒を巡り、すべての店で最低二杯ずつワインを飲んだ。昼食の時点で当然飲み始めているし、私は片付けの間もずっと飲んでいたので、この日は一体どれくらい飲んだのやら分からない。この街の冷気が私に味方したとはいえ、芹男氏より量をこなしたことなど初めてではないだろうか。

アックァ・アルタについて

年末年始は特別なこともなく、ただ仕事をしながら過ごしていた。大晦日にサン・マルコ広場のカウントダウンに出かけようかと考えたこともあったが、ナターレの頃に少し体調を崩していたこともあり、大事を取ったのである。カウントダウンのイベントはこの先また見る機会があるかもしれないが、リアルト橋の傍の閑静なアパルタメントの一室に佇み、一人でソアーヴェを飲みながら年越しの瞬間を迎えるということはもう無いだろう。

年が明けてからは、とある先生のお誘いでフェニーチェのコンサートに行って五嶋みどりのヴァイオリンを手の届くような距離で聴いたりなどと、相変わらずのんびりしていたのだが、しかし優雅な生活はそう長くは続かなかった。カルネヴァーレ直前のこの閑散期に、芹男氏がヴェネツィアを再訪されたのである。しかも運がいいのか悪いのか、ちょうどアックァ・アルタに当たったので面倒なことこの上なかった。

某有名海賊マンガでも知られるアックァ・アルタだが、これは満月・新月の辺りの大潮に加え、湾に海水を吹き寄せる南風、高潮を引き起こす低気圧等の諸条件が重なって起きるものだそうな。したがって、毎年決まった時期に必ず起こるというものではない。

だいたい9月くらいから心配をし始めるものだと来たばかりの頃に聞いており、シーズンになってから県のウェブサイトの予報ページを探して見たところ、やはりスマホの予報アプリがあったので使ってみた。このサイトで紹介されているアプリには二種類あって、パドヴァ大学の学生だった人たちが作ったものと、お役所の方で作ったものとがあるのだが、お役所が作ったものはサービス過剰で重たくて使いづらい。こういう傾向は世界共通なのだろうか。元となる予報データは共通であるからもちろん私はシンプルな方を使っているが、しかしこちらのアプリは場所の情報が文字でしか出ない。つまり土地勘のない人間には役に立たない代物なので、旅行者はお役所が作ったものを使うとよい。そちらでは地図の上に危険箇所が色分けして表示される。

ただ、この予報はせいぜい三日分しか出ないし、しかもその予報も5cm~10cmくらいの範囲でころころ変わる。これがどうにも中途半端である。海面すれすれのこの街にとってはその5cmが大切なのだが、やはり条件が複雑すぎてどうにもならんのだろう。

とうとう来るぞ、というときになると三時間ほど前に空襲警報のようなサイレンが街に響き、それに続いてどこからかアラーム音が聞こえてくる。二日目の夜に芹男氏と食事をしていた店で、うちのアパルタメントで聞こえるのと同じアラーム音を聞いた。すると防災無線のようなものがあるのだと思われる。

聞くところによるとこの冬はどうも外れらしく、大きなものは昨年10月、ちょうどベルギーから帰ってきた辺りに一回起こったきりであった。あの頃に前振りをしておきながらもこれまで話題とすることがなかったのはそういう訳である。して、先ほど挙げた諸条件を見て戴ければお分かりかと思うが、アックァ・アルタには雨が付き物となる。道の狭いこの街を傘を差しながら移動するのはただでさえ億劫であり、加えて足下にまで気を遣わなければならないというのはあまりにも鬱陶しい。ピークの数時間さえ外せばたいしたことにはならないので、時間に縛られない生活をしているのをいいことにこれまでは上手に避けていたのであるが、しかし滞在期間の限られる芹男氏をあちこち案内しなければならないとなると、これはちょっと追い詰められたかもしれない。

駅の近くにあるホテルまで芹男氏を迎えに行かなければならなかった朝のこと。7時くらいに例のサイレンとアラームが鳴り、家を出るかという時間になってから窓の外を見てみると、隣のPalazzo Dieci Saviの通路が水を湛えていた。文字通りに最高潮の時間だったのだが、実のところ、ヴェネツィアに住んでいるのに私はまだ長靴を買っていなかったりする。部屋には先住民が置いていった長靴があるのだが、しかし他人の履いた靴というのは余程のことがない限り履きたくない。

ヴェネツィアーニならば当然長靴を持っており、予報とアラームで事前にアックァ・アルタが起こるのを知って長靴で出勤する。長靴といえば、最初のアックァ・アルタの日、シルバーのスーツにえらくスタイリッシュな茶色の長靴を履いた、まるで植民地の探検に出かけたイギリス人のような紳士を見かけたが、これはきっとお金持ちの旅行客であろう。完全に街から浮いていた。

こういう日にはゴム底とビニールで出来た派手な色の簡易長靴があちこちの店頭に出るので、一般の観光客の場合はそれを買い、靴の外から装着して歩くことになる。同じものであっても値段は場所によって€5~10程度と開きがあるが、必要になったらその場で買うほかないので、いちいち値段を気にしている余裕はないだろう。

私はヴェネツィアーノではないので出来ることなら今さら長靴は買いたくないし、観光客でもないので不細工な簡易長靴を履きたくもない。ヴェネツィアの地理に詳しいのと時間に余裕があるというマージナルな特性を武器に、残り二ヶ月間、最後まで避けて通るつもりである。

ともあれ、予報通りの潮位であれば何とかなるはずだが、と思いながら部屋を出ると、アパルタメントの前の広場までは水が来ていない。ちなみにそこから数歩進んだcampo S. Giácomo di Rialto、いわゆるリアルト広場は池と化していた。こうやってほんの数センチの高低差で変わってしまうものであり、アプリを見たり何度か現場に遭遇したりするうちに各所の危険度もある程度把握できているので、行けるだろうと思っていつもの靴のまま家を出て駅へ向かう。私がいつも通る近道はやはりあちこちで水に浸かっていたので、結局一番メインとなっている道を選び、ローマ広場から回り込んで駅前まで到着。

最初の目的地であるフラーリ聖堂の辺りに問題が無いのはこの道すがらに確認しており、そこを見ているうちにピークも過ぎるだろうと思っていたのだが、次の目的地であるアッカデミアへ行こうとしたところ、バルナバ広場の南でまた道を阻まれた。今回のアックァ・アルタはなかなか強敵である。

芹男氏は突っ切っていきたい様子であったが、ヴェネツィアを観光するのにがっついてはいけない。この日は遠回りした御陰で午後二時までの開館時間を逃し、後日に回すこととなったが、わずか四日間程の滞在期間、それもアックァ・アルタの起こる期間にあれもこれもと詰め込み、いい飲食店が片っ端からferie(長期休暇)を取っているという悪条件の中で最終的にほぼ辻褄を合わせたのは優秀なガイドがあってこそである。例えば今回、サン・マルコ広場にはほぼ毎日のように行ったのだが、その場で最も効率的な道を選びつつも毎回違った道を通って行き、また違った道を通って帰るという離れ業までこなしたのだ。少しくらいこちらのこだわりを通してもよかろう。

一般の観光客なら必ず道に迷って時間を失い、この街のことを知らずに立てた計画ならば三分の一も達成できないに違いない。しかしヴェネツィアで道に迷うというのは必然でありながらも大事な経験の一つだったりする。

さて、アッカデミアを措いて向かったのはPalazzo Ducale、ドージェ宮である。人混みと行列が嫌いな私はこれまで中に入ることがなかったのだが、何しろ今は閑散期なので貸し切りのような状態であった。広大な部屋の数々と膨大な絵画に圧倒され、改めてヴェネツィア共和国の度外れた国力を思い知り、それでありながらも引き締まった造作にこの国を千年続かせた堅い節制を見て取る。とにかくどの部屋にいても名状し難い重圧を感じた。国としては200年以上も前に潰され、ドージェや十人委員会の人々の姿もすでに無くなって久しいというのに、この建物は明らかにまだ生きている。

Ponte dei Sospiriため息橋の内部を通って監獄へ向かう。パラッツォ・ドゥカーレの方だけでも十分怖いのだが、こちらもまた当然のように怖い。見物客が耐え切れなくなるのを見越したのか、所々で見学コースをショートカットして戻れるようになっているほどである。窓の極端に少ない堅牢な石造りの監獄の中にはアックァ・アルタと雨のせいでじめじめとした寒さが這いまつわっており、こんなところに入れられたら数ヶ月も持たないのではないかと感じるような厭わしい空気だったのだが、しかし芹男氏と私は嬉々として端から端までじっくりと見て回り、どん底の部屋にあった囚人達の落書きの解説を見てはケタケタ笑っていたのだった。この後、最終日に向けて芹男氏はどんどん体調を崩していったのだけれども、それはここの空気が体に障った所為ではないかと思う。それともこの場所で何かに取り憑かれたのだろうか。

ナターレについて

イタリア語ではクリスマスのことをNataleという。この日の挨拶はメリー・クリスマスではなく、Buon Natale!というのであるが、街には英語のクリスマスソングも流れているし、店頭に英語でMerry Xmasと書いてあるところも多いので特にこだわりはないらしい。いかにも観光都市らしいユルさである。ちなみにサンタクロースのことはBabbo Nataleといい、これは「クリスマスおやじ」という程度の意味である。聖ニコラウスはあまり意識されていない様子だ。

この時期にはパスティッチェリーアに限らずスーパーにまで、パンドーロというサッカーボールくらいの大きさのケーキが山積みにされているのだが、これはヴェネツィアではなくヴェローナのお菓子だそうな。同じヴェネト州の都市とはいえ、普段はその間でも何かと食材や料理の違いをアピールするのがイタリア人なのだが、適当なものが無いときは都合良くスルーしてもいいらしい。ちなみにミラノのお菓子であるパネットーネもまた山積みで売っている。パンドーロより幾らか取り扱い量は少ないが。

忙しくてあまり気にしている余裕はなかったのであるが、12月に入ってからのヴェネツィアは御多分に洩れず、着々とナターレの色に染まっていった。日毎に通りや広場にイルミネーションが増えていくのは観察していたが、一番いいのはこれを橋の上から眺めてみることである。少し高いところから見ると、様々な色が運河の水面に映えて殊更に美しい。

スーパーの店員がサンタの帽子をかぶり、機嫌良くクリスマスソングを歌いながら商品を陳列しているのを見ながら、何もかも日本と一緒だな、と考えてしまい、いやその考え方はおかしい、と思い直る。

しかしここで、キリスト教国でもない日本が何故大々的にクリスマスを祝うのか、などという話をしたいのではない。そもそも教会がこの日をイエス・キリスト生誕の日としたこと自体がかなりいい加減な話だったのではないか。だいたいこの時期に祭りといえばどう考えたって冬至の祭りであり、暦の発達でちょっとずつずれていったのではないかとも思われるが、要するにこれは新年のお祝いである。

太陽神が主神であるという宗教はキリスト教以前の土着宗教の時代からいくらでもあるが、冬至というのは太陽の勢力が回復へ転じたことを祝う日であり、「復活」というイメージもちょうどよかったりしたので適当に習合したのだろう。この日が降誕祭になったのはイエスの死後数百年が経ってからだったはずで、結局のところ本当の誕生日がはっきりと分からなかったのでお座なりに定めたのに決まっているではないか。元々がそういう話なのだから、日本人の浮かれ様にもいちいち目くじらを立てるには及ばない。

Vaticanoを擁するイタリアという国であれこれ見聞しながら感じるのは、国にしても宗教にしても人にしても、とにかく都合がよすぎることである。矛盾や突っ込みどころはいくらでもあるのだが、それは言うだけ野暮なことだ。人や組織や歴史は間違いや矛盾を抱えているものなのだ、というのが前提である。文句を言ったところで、何を今更、と怪訝な顔をされるだけであろう。これまで様々な例を示してきたが、その場しのぎの積み重ねで何もかも上手くいくのがこの国の不思議なところである。

ともあれ、普段でも十分に芝居がかっているこの街は、この時期さらにロマンティックな粧いを増す。しかしヨーロッパの人々はこの時期は穏やかに過ごすものらしく、街には観光客より地元の人間の方が目立つ。珍しく団体客を見かけたと思ったらそれは韓国人である。相対的に中国人が減ったような気もするが、彼らは春節になったらまた大挙してやってくるのだろう。

街を歩いていると、人気の少ない路地へ入ったところでカップルが徐に抱き合ってキスを始める、などというのはこの時期に限らずこちらでは日常の風景である。この街でロマンに浸ってくれているのは仮寓する私の身としても歓迎すべきことではあるのだが、しかし後ろを歩いている人間としてはちょっと困る。

狭い路地で二人して抱き合っていられると横を通り抜けることもできない。数歩後ろに私がいることに気づかないのは、彼らがお互いのことしか見えていないバカップルだからではなく、私が意味もなく足音や荷物が擦れる音を消しながら歩いているためでもあるので、こちらにも幾分かの責任はある。ここへきて咳払いでもして邪魔するわけにもいかないし、引き返すわけにもいかないし、仕方がないので一通り事が済むまでただ眺めているしかない。私はただ、狭い道であちこち目移りしながらちんたら歩いている邪魔な観光客を避けたいがために裏道を通っているのに、何故ちょくちょくこんな気苦労をせねばならんのか。

ロマン溢れる街に住んでいるとはいえ、私自身の生活はそれとは無縁である。かなり前、「故国を遠く離れて留学しているからといって、この国で夏目漱石を気取るような真似はどうやったって無理だ」と書いたことがあるが、では森鴎外の真似だったらできるかといえば、それもまた私には無理な話だ。そろそろ帰国が視野に入ってきたのだが、その後の生活手段の見通しが立たない身ではそれどころではない。

こちらへ来てから弱点であった料理を中心として飛躍的に女子力が高まっているということもあり、一人で生きていても特に問題はないと言えばない。あとはこの時期、編み物さえ出来るようになればもう向かうところに敵はないのではないかと思う。何と戦っているのか自分でもさっぱり理解できないが、ブラーノへ行ってレースの編み方でも身につけてこようかと考える昨今である。

書きながら思い出したが、そういえば一度母親に編み物を習ったことがあった。自分から興味を持ったのか、母親が教えようとしたのか。いったい私はどういう教育方針で育てられたのだろう。

こうして例の如く意味のない思索に耽るvigilia di Nataleクリスマスイヴの夕方のこと、どういうわけか部屋の呼び鈴が鳴った。Babbo Nataleが来るにはまだ時間が早いし、そもそもオートロックであるパラッツォの入り口を無視し、いきなり私の部屋の呼び鈴を鳴らせる人物など一人しかいない。ドアを開けてみると、果たしてマ氏であった。年格好はバッボ・ナターレに似付かわしいと言えなくもないが。

聞くと、この時期もずっとヴェネツィアに留まっているのか、と。ずっといると答えると、マ氏が所有する隣の部屋に親戚が泊まりに来るのだが、今は部屋の暖房をマニュアルモードで低い温度にしてある、だから彼らが寒いと言ってきたら通常のモードに直してやってくれないか、とのことだった。店子の使い方に遠慮のない家主である。しかも直接の家主ではないのに。

とうに時期を迎えていながらもこれまで話題とすることがなかったが、イタリアのriscaldamento暖房装置は、日本でもたまに見かけるオイルヒーターのような器具に温水を循環させることによって熱を供給するものである。石造りの建物は一度冷やすと温め直すのが大変なので基本的にはどこでも付けっぱなしで、まず18度以下に下げることはない。

そして私の住むパラッツォは設備が比較的新しいので、曜日と時間帯ごとに細かい設定をしておけばサーモスタットが働いて温度を調整してくれるようになっている。朝になったら少し温度を上げて、仕事に出る時間帯になったら止める、その間も下限に設定した18度を下回ったらまたちょっと動かす、という具合である。とは言っても結局はただ付けるか消すかだけの単純なものであり、構造上、動き出してから部屋が暖まるまでにかなり時間差があるものなので、その辺を織り込んで設定してやる必要がある。

ちなみに私の部屋へ温水を供給するcaldaiaボイラーは例のマ氏の部屋側にあって共用となっているらしく、実はこれまでに三回、それが止まってお湯が出なくなったことがある。暖房が動かないだけではなく、シャワーのお湯も出ない。シャワーに入っていると次第にお湯がぬるくなっていくのでそれと分かるのだが、とりあえずその日はボイラー内に残ったお湯で何とかしのげる。翌朝台所でお湯が出ないのを確認してから連絡し、スイッチを入れに来てもらう、ということを繰り返し、三回目のときにはマ氏が業者と共にやってきて隣の部屋でなにやら大がかりな修理作業が行われた結果、今のところ再発はない。

それはそれとして、問題はその暖房装置のコントロールパネルの使い方を家主であるマ氏自身がちゃんと理解していないということだ。最初に暖房の付け方を教えに来てくれたときにそれが判明したので、仕方なく私自身で説明書を読み込んで設定方法を身に付けた。

その後、街で偶然会ったときにそのことを報告したら、それは私にとってもありがたいことだ、と言われて今に至る。マ氏の部屋は店子が入っていない間は別荘代わりにちょくちょく知り合いらしき客が泊まりに来るのだが、その度に、何曜日の何時に客が来るから温度はこれくらいで、などと細かい設定をやらされるのである。

マ氏は戦闘機乗りで大学の講師、しかも理系、という人物である。何度も目の前でやって見せているのだし、マニュアルモードに切り替えが出来たというのだから、今はもうすべての操作法を理解しているのではないかと思うのではあるが、先に述べたようにイタリア人の矛盾を突くのは野暮というものである。今回は単純にこちらへ来るのが面倒だから甘えたいだけなのだろう。

そうこうするうちに午前0時を回り、25日を迎えたところで街の教会の鐘が盛大に鳴り始めた。この街での生活も残り三ヶ月を切ったが、しかし春はまだ遠いようである。

ムラーノ島での暴走について

暴走というのは際限がないから暴走というので、例のヴェネツィア料理の食事会でアペリティーヴォを出すためのフルートグラスはvetro di Murano、いわゆるヴェネツィアングラスのものを用意した。そのためにムラーノ島まで行ってきたのだが、これもまた一仕事だったのである。

それにしてもヴェネツィアングラスというのは不思議な言葉だ。「ヴェネツィア」の形容詞はイタリア語ではvenezianoヴェネツィアーノ、英語ではvenetianヴェニーシャンとなるのだが、そのどちらでもないというか、絶妙に混ざっている。日本の外来語がいかに適当であるかがよく分かる言葉で、イタリア人のことだけを馬鹿にすることはできないな、とごくわずかに反省した。ちなみに街中での英語表記はMurano glassである。

本島内にもガラスの店はいくらでもあり、毎日街中で店先のガラスを見比べているから、店の構えと価格帯を見れば本物と偽物の違いはもう何となく区別できるような気もするのだが、やはり本物はそれなりの値段がするものである。分かりやすく公認のシールが張ってあるものもあって、そういうものを取り扱っている店で金を惜しまずに買えばとりあえず安心なのだが、ただの観光客と違って時間があるのをいいことにあちこちの店を見て回った。

ムラーノへ渡ると、ヴァポレットの乗降場のすぐ近くにあったCAM VETRI D'ARTE srlという店が目を引いた。ショーウィンドウからもお高い感じがこれでもかというくらいに伝わってくる店なので一瞬躊躇したが、ちょうど良さそうなフルートが見えたのでとりあえず入ってみることとする。しばらく眺めていると高そうなジャケットを着た店員が声を掛けてきて、何を探しているのか、と尋ねられる。

この店で面白いのは、店の奥のあちこちにそれぞれテーマの違う部屋があり、客が探しているものに応じてそこを一つ一つ案内しながら品物を見せてくれることである。ヴェネツィアという街では古い建物の構造を大きく変えずに使うことを強いられるために大変不思議なレイアウトをとっている店が多いのではあるが、その副産物として、奥へと通されると何も買わずに店を出るというのが非常にやりにくくなるのが困りものである。しかしそれも一つの狙いなのだろう。

長い廊下を歩いて階段を上って次の部屋へ向かう間、どこから来たのかと英語で問われ、そこで当然日本だと答えたわけだが、JapanではなくGiapponeと答えたために、イタリア語が話せるのか、と聞き返された。少しは話せると返したら、そこからは容赦なくイタリア語での説明が始まる。要点を外すことは少なくなったものの、それでも半分くらいしか分からないのだが。

雑談の間、ここへはプリニウスの研究に来ているのだと話したところ、この店員はプリニウスのことを全く知らなかった。こちらからいくつか教えてやったくらいのものである。まあ、澁澤龍彦の名前を知っている日本人も決して多くはないだろうし、そういうものなのだろうが。

品物はもちろんどれも素晴らしく、本島にある小さな店では見られないような一点物もたくさんあって、こちらとしても目が肥えたので大変にありがたいことではあったのだが、お手頃なフルート六脚が値引き後でも€400だという。しかし私はそこで何の躊躇いもなく買い物が出来る程に裕福ではない。ちょっと島を一巡りして考えます、とかなんとか言い訳をしつつ、どうにか店を出てからあちこち歩くが、やはりなかなかこれといったものはない。先の店を出てから橋を渡って右に進んですぐ、博物館方面に行く途中にはピンク色が主体のグラスばかりを飾っている工房系の店があってここの品物も気にはなったが、やはりそれなりのお値段がした。この店の名前は覚えておきたいので、また近いうちにムラーノへ渡ることとなろう。

その後、もう少し目を慣らしておこうと思ってガラス博物館に入ってみた。何というか、職人的な技術というのは突き詰めていくと必ず遊びの領域に入るものなのだな、と感じさせるようなものが多く、大変勉強になる場所である。ヴェネツィア共和国の終焉に近づくにつれてそういう退廃的な作品が多くなるというところが型通りで面白い。そして現代作家の作品が迷走と暴走の狭間にあるのもまた例の如しである。

それにしても、完全に実用性を無視し、ガラスという素材の限界へと果敢に挑戦した細工の数々については清々しいという他に形容詞が見当たらない。ヴェネツィアのその辺のpalazzoにぶら下がっているシャンデリアも大概ふざけたものではあるが、ここに展示されているものはそれも通り越してもう訳が分からないレベルに達している。手仕事の延長にこういうものが出てくるのが芸術の本質ではないのか、とはビエンナーレを見に行ったときにちょっと書いたが、こういう仕事が出来るからイタリア人は油断ならないのだ。ヴェネツィアに観光にいらしたならばここは一回見ておくべきだろう。

博物館を出た後、いかにも地元の直売店ふうに、一点物の芸術系の品と実用系の品が雑多にラインナップされているという微妙な構えの店があったので入ってみる。店主らしきじいちゃんが近づいてきたのでフルートを探していると伝えると、六脚セットのものを見せてくれた。

このグラスには内側に螺旋状の模様が付けてあり、液体を入れるとそれが消えたように見えるという細工があった。じいちゃんが得意気に水を入れて実演してくれたのだが、実はこれについては一軒目の店ですでに見せてもらっていたりする。さらにいうとこれは私のアパルタメントにある安物のグラスにも応用されており、どうもイタリアでは定番の細工のようだ。グラスを打ち鳴らして音を聴かせてくれるのもこれまた定番の営業手法であり、この島のグラスは独特の配合でガラスに金属が混ぜられているのだとかで、普通のガラスとは色や音が明らかに違う。慣れた人ならそれで本物と偽物とが区別できるようになるのかもしれない。

またそのせいでムラーノのグラスは強度が高いのだろう、打ち鳴らすにしても持ち運ぶにしても店の人間のガラスの取り扱い方がかなりぞんざいである。ガラスをよく知っていて慣れているからだと考えることもできるが、偽物だから取り扱いが雑になっているようにも見えるところが素人には難しい。

ともあれ、例の螺旋状の細工に加えてグラスの縁に施されたプラチナの線、そして打ち鳴らした音が一軒目の店で見たものと同じようなグラスを一式見つける。一軒目のものと違ってプラチナの細工がちと大人しいが、カクテルが主体だと考えればこれくらいで十分だとも考えられよう。大きさや細工が多少不揃いなのは、これらが基本的に手作りであるのと、ある程度実用的な中間価格帯の品はやはり中級クラスの職人が手がけるためであるので、これによって本物だとか偽物だとか言うことはできない。いや、偽物の方が割り切ってコスト削減のために機械化しており、むしろそちらの方がきっちり揃っているという可能性だってある。

しかし面白いのは、€590という値札である。一軒目のものより多少品が劣るのにこの値段はないなと思って見ていたところ、じいちゃんはいきなり€290まで値を下げた。怪しいことこの上ないが、こちらの商習慣というものが分からないので何ともいえない。一日歩き回ってあれこれ学習した目には買ってもいい品物だと映ったが、この値付けについてはどう解釈したものかと考えあぐねてその電卓の数字をしばらく眺めていたところ、じいちゃんはさらに、現金なら€250でいい、と言う。税金対策か。レシートもくれなかったし。

ともあれ、リアルトの近くの店だとこれより少し小さなフルートグラスが一式で€190であり、値段としては妥当な線なのでここで手を打つこととした。ちなみに、現金で直接持ち帰りなら値引きするという店は他にもたくさんある。本島の方ではそういう店は見ないし、やはり品揃えが違うので、ガラスを買うなら多少無理をしてでもムラーノへ渡ることをお勧めしたい。本島の店の人は、ムラーノで買うと割高だ、とは言うが、ムラーノのグラスをムラーノ島で買ったという物語が大事なのであって、そこに価値を見出せるなら悪い値段ではなかろう。しかし、これをあらためて日本へ持ち帰るにはどうすればよいのだろうか。

リアルト市場での暴走について

市場で事件があったとかいう話ではないので勘違いしないで戴きたい。暴走したのは私である。

縁あってこちらで知り合いとなった日本人の先生方には普段からいろいろとお世話になっており、また、イベントがあると一緒になって繰り出したりするということについてはこれまでにも何度か書いている。

その交流のシンボルとなっているイベントに、「うち飲み」と題された食事会がある。字面のままのイベントで、ヴェネツィアで外食すると高くつくので(と言いながらちょくちょく行ってはいるが)それぞれの先生方のお宅へ集まってひたすら酒を飲もうというものであり、これまで、第一回「ヴェネツィアの食材で作る和食」、第二回「オーガニックピッツァ」、第三回「大阪・名古屋の居酒屋」というテーマで行われてきた。

最近ヴェネツィア料理の勉強に無駄な力が入っているとは先日も書いたが、それはこの食事会に関したものだったのである。上から順に降りてきて、第四回の企画・製作が私に託されたのであった。私のアパルタメントにはそんなに人が入らないので、会場はまた別の先生のお宅をお借りするという寸法である。

日本での私を知る人の中には驚いた方もあるのではないか。何しろ実家暮らしということもあって、私は数年前までまったく料理ができなかったのである。ここでの自炊のためにイタリア料理の勉強をしていたことをすでにご存じの方々もあり、日本を発つ前に堺の包丁(例のTagliazucca)を贈って戴いたということはあるが、しかし学生時代には考えられないことではなかったか。

もう十年近くも前、大学の研究室で鍋が行われた際のこと。買い出し等では私もテキパキ動いていたのだが、調理が始まったらもう何も出来ないので、ただじっと座っていることしかできなかった。それを見た後輩に「何もしない空男さんを初めて見た」と言われたくらいである。「何も出来ない」と言わなかったのがこの後輩の優しさであるが、それはそれとして、これまで役に立たない能力は山ほど身につけてきたというのに、料理だけはすっぽり抜け落ちていたのだった。しかし、日本でこちらに来る準備をしていた一年の間にはもう、ピッツァを生地から作ったり、ニョッキを作ったりなどとしていたのだから、人間幾つになっても変わろうと思えば変わるものである。

これまでの「うち飲み」担当の先生はそれぞれご自分の得意分野で料理をなさっており、上述のように日本を思わせるテーマも見られるのだが、私は今書いたとおり、ここでの自炊のために料理を学び始めたのでイタリア料理しか出来ない。真正面から突っ込むしかなかろうということで、第四回のテーマは「La cucina vaneziana」とした。芹男氏がお聞きになったら、悪い冗談だ、と仰ることであろう。

冗談は本気でやれ、というのが私の人生のモットーである。逆にいうと、ふざけたことにしか力が入らないということになるが、私の人生が失敗続きであるのはこの辺に原因があるのかも知れない。ともあれ、イタリア語の勉強と称してこれまで読み漁った料理の本の中から、ヴェネツィアの歴史や文化にかかわる蘊蓄がある料理ばかりを選び出してメニューを構成し、料理毎にいちいち解説を加えるという鬱陶しい食事会を企画した。資料はイタリア語と日本語の対訳としたので、最終的にA4で14ページに上る。我ながらよくやったものだと思う。ちなみに、当日のリアルト市場での仕入れの都合や、他のメニューとのバランスの問題からボツとなったメニューがこれとは別に5ページ分ある。メニューは以下のようなものとなった。

APERITIVO
 Mimosa
 オレンジとプロセッコのカクテル。ヴェネツィアのカクテルといえばBelliniであるが、これは夏のカクテルで、実はRossini(春、イチゴ)Bellini(夏、白桃)Tiziano(秋、アメリカブドウ)Mimosa(冬、オレンジ)と、季節に応じたカクテルがそれぞれにある。作り方はすべて、砂糖で味を調整した果汁三分の一にプロセッコ三分の二をゆっくり注ぐだけ。

ANTIPASTI
 Bacalà mantecato
 バッカラのクロスティーニ
 Capesante ai feri
 マリネしたホタテ貝に薄切りのパンチェッタを巻き、セージの葉と交互に串に通してグリルしたもの。カペ・サンテというのはサン・ジャコモ(聖ヤコブ)貝のヴェネツィアにおける呼び名。
 ...ed altri cicheti
 その他いろいろ

PRIMI
 Risi e bisi
 エンドウ豆のリゾットというか、リゾットにしては汁気が多いので、これがリゾットなのかミネストローネなのかということについては議論があるようだ。そういうことを真剣に論じることの出来る人たちを羨ましく思う。4月25日の聖マルコの祭日には、この料理がドージェの食卓に供されるというのがヴェネツィア共和国での慣習であった。本来は春の季節の料理であるが、ヴェネツィアのスーパーには季節を問わず、どんな小さい店にも必ず冷凍のエンドウ豆が置いてある。それほどに人気のある料理なのだろう。
 Spaghetti alla busara
 スカンピのスパゲッティ

SECONDI
 Garusoli lessi
 アクキ貝の塩茹で。この貝から採れる赤紫色の染料は貴重なもので、テュロスで作られていたこの紫染料を取り扱うことでヴェネツィアは大もうけしていた。洋の東西を問わず紫色というのは権力と経済力を誇示するものであったわけで、もちろんヴェネツィア共和国の旗はこの染料で染められていたのである。今回出せなかったMoeche fritteもそうだが、この料理はアンティパストとして出されることもある。
 Filetti di San Pietro con zucchini
 マトウダイのバター焼き。サン・ピエトロは使徒ペテロのこと。
 (Sgroppino)
 レモンジェラートに生クリームとプロセッコとウォッカを混ぜたもの。今では食後のドルチェとされているが、本来はヴェネツィア貴族の食卓において、魚料理と肉料理の間の口直しとして考案されたと伝わる。その本来の形式で出してみた。
 Carpaccio di cavallo
 馬肉のカルパッチョ、ヴェネツィア風。有名な話だが、カルパッチョはヴェネツィアのハリーズ・バーという店で考案された料理である。何故牛肉ではなくて馬肉なのかは後述。
 Coniglio con carciofi
 兎肉とカルチョーフィの煮込み、レモン風味。この辺の特産だというカストラウーレという名の小さくて柔らかいカルチョーフィを使用。

CONTORNO
 Verze sofegae
 サボイキャベツ。時間と調理器具のやり繰りの都合で実際には出せず。人の家で料理をするというのは難しいものである。

DOLCE
 Tiramisù
 ティラミス。これは私の手によるものではなく、メンバーの中のとある学生に作ってきてもらった。このドルチェについては来たばかりの頃に一度書いたことがある。

これだけ見せられても何のことやら今ひとつ分からないだろうが、詳しく解説をしていたらいくら紙幅があっても足りないので省略。興味のある方がもしいらしたら資料をお送りする。資料にはすべてレシピを付してある。

それにしても、ヴェネツィアまでやって来て兎を解体することになろうとは夢にも思わなかった。スーパーでは切り分けたものをパックにして売っているが、それでは面白くないので、リアルトの肉屋で丸ごとそのまんまの姿で売っているものを自分で捌いたのである。一回目の練習ではやはり上手く出来ず、その後YouTubeで兎の解体動画を繰り返し見て勉強したところ、二回目にはそこそこの形になった。こういうものは体の構造を立体的に把握出来てからでないと上手くいかない。

ヴェネツィアはそもそも大きな動物の肉が手に入らない島であった。ヴェネト州全体を見ればアルプスに近いところでサラミやプロシュット(ハム)を作っていたりするのだが、しかしイタリア人に聞いたところ、ヴェネト州で肉といえば基本的には馬肉なのだということである。実際リアルト市場にはショーウィンドウに馬の絵が描かれた馬肉専門店があり、今回のカルパッチョはそこで仕入れた。そうは言っても結局のところ馬というのは後背地のものであり、これも基本的にはサラミにするものだそうな。というわけでこの島には大型家畜、つまり牛肉や豚肉を使った郷土料理というのがなかなかない。ここのリストランテでメニューに載っている肉料理は大概ミラネーゼとかフィオレンティーナである。

ヴェネツィア料理といっても、昔ながらの郷土料理と、ハリーズ・バー風の都会的料理の二つの流れがあって、例えばヴェネツィアの肉料理といえば牛肉のカルパッチョが最も有名ではあるものの(あとはfegatoレバーくらいか)、これは当然後者である。古くから伝わるというヴェネツィアの肉料理では、ラグーナ周辺で捕まえたり、この狭い島々でも家禽とすることの出来たカモ、アヒル、ホロホロ鳥や兎などの小動物を使ったものが多いのだ。

それにしても、私の風貌はこちらでは目立つのだろうか、すぐに顔を覚えられ、前を通る度に何か買っていけと声を掛けられるようになった店がメルカート内に数軒出来てしまって、最近は歩きにくいことこの上ない。何せここの店はどこも結構押しが強いのだ。青果市場の方には何か買うと必ずイタリアンパセリをおまけに付けてくれる店なんてのもある(訂正:ほぼ毎回買うので勘違いしていたが、これはカストラウーレを買ったときのみだった。一緒にしておくと長持ちしたりするのだろうか)のだが、常連客の獲得に必死なのだろう。前にも書いたが、ここはヴェネツィアの名所でありながら観光客からの収入があまり期待できない。観光客向けに、その場でホタテやエビにレモンを搾って食べられるようにしてある店もあるにはあるが、そこはいつも何となく活気がない。

ここの店の人々にはやはりヴェネツィアーノが多いのか、ここでまた一つ新しいヴェネツィア方言を覚えた。「Grazie.」というのは通常「グラツィエ」と発音するのだが、とある店のおっちゃんが「グラッシェ」と言っていたのである。その後、街中でおばあちゃんが「Graxie amore! グラッシェ、アモーレ!」と挨拶していたのも耳にした。

だいぶ前にスーパーの肉売り場で、「そのハモンセラーノをドシェントおくれ!ドシェントよドシェント!」とまくし立てているおばちゃんも見たが、「シェント」というのはおそらく「centoチェント、100」のヴェネト語での発音で、敢えて表記すれば「xento」となるのだろうか。どうも日本語でいうところのタ行がサ行に転訛するようである。同じ要領で、「ヴェネツィア」というのも実は標準イタリア語風の発音であって、ヴェネト語では「Venexiaヴェネシャ」が正しい。

ちなみに「ドシェント」の「doド」というのは「dueドゥエ、2」である。リアルトには観光地としても有名な「Do Mori」というオステリアがあるが、これはサン・マルコ広場にある「二人の鐘撞き」の像のことだ。話がややこしくなるが、「moro(単数形)」は本来モーリタニア人を指し、そこから転じてアフリカ系のイスラム教徒を指すようになった言葉である。しかし、何故彼らがここで鐘撞きとなっているのかは知らない。ヴェネツィアのすべてを知るには一年ではとても足りない。

あれこれこの街で学んだ上で、ヴェネト語の辞典に「leoneレオーネ、獅子」がヴェネト語では「lionリオン」になると書いてあったのを見て、ああやっぱり、と思ったのだが、ヴェネト語というのは何となくどれもフランス語の発音に近くなっているような気がする。同じロマンス語の系統として、ヴェネト語がフランス語に似通っていても何ら不思議はないのだが。