文化人について

家主からコンサートに招待された。イタリアといえばオペラで、ヴェネツィアといえばフェニーチェ劇場であり、そこにはそこで行く予定もあるのだけれど、今回はそうかしこまったものではない。招待された場所はそのフェニーチェのすぐ傍にあるAteneo Venetoであった。ここはここで当然のように歴史のある建物であり、ヴェネツィアの文化を語るうえで大事な場所だと家主は言う。

実はこのコンサートより前、ヴェネト語で書かれた詩の本を探しにここの図書室に入ったことがあった。ここは国が管理しているサン・マルコ広場のマルチャーナ図書館などと比べると身分のチェックが適当で、ろくに注意することも無く貴重な資料を出してきて見せてくれた。長閑なところである。

古い資料で、傷むといけないのでコピーは出来ないとのこと。スマホで写真を撮るくらいは良さそうなものだが、何にしてもそう長いものではないので、マルチャーナで手に入れた別の資料と校合しながらせっせと書き写す。図書室には事務員らしき女性が二人詰めていたのだが、夕方になると双方に電話がかかってきてそれぞれ部屋の外へ出て行ってしまった。そのまま30分ほど話しっぱなしで帰ってこない。本当に長閑なところである。

ちなみにこれはヴェネツィア料理研究に関連した探し物であり、基本的にはただの趣味である。図書館に通っているからといって、古い文献から失われたヴェネツィア料理を復活させようとか、そういう込み入ったことをしているわけでもない。ヴェネツィアのチケーティ(cicchettiという言葉の使い方については以前書いたとおりだが、注意して見ているとヴェネト語訛りのcichetiという表記もよく見かけるのでそちらに合わせる)でよく見られるバッカラ・マンテカートについて調べていたら、バッカラを愛するあまり、それを称える詩を詠んだ人が居るというので興味を持ったのだ。その名をLuigi Pletといい、彼の詠んだバッカラについてのotava(8行詩、標準イタリア語ではottava)は33にも及ぶ。どう考えても阿呆である。そしてそういう人を見つけ出しては嬉々として図書館に出かけていく私もまた同様であろう。第一歌はネット上にもよく出ているので(当然イタリア語、いやヴェネト語だが)、第二歌を訳してお目に掛ける。

    "EL BACALÀ"
       2
Esiste un manoscrito, a Liverpol,
 Portà gran ani in drio, dal Senegal,
 Che, co gh' è mezo, consultar se pol,
 E che xe tuto erudizion, nel qual,
 In modo incontrastabile, se vol,
 Co' vegnìmo a la Storia Natural,
 Ch' el pesse se xe petrificà
 Primo de tuti, fusse un bacalà.

リヴァプールの地に写本があって
セネガルの地から昔持ってきた
半分でもありゃ何でも分かる
すべての知識がその中にはある
知りたいことならすっかり分かる
まず『博物誌』を読んだらいいのさ
世界で最初の魚の化石は
バッカラだったと書いてある

ヴェネト語の説明は煩雑なので省く。苦労して訳したのに内容がまったくないところが素晴らしい。脚韻を日本語訳に取り入れるのは端から無理だとして、音の数だけでもそれらしくしようとしたためにかなり訳をいじってあること、また私は元よりヴェネト語の研究をしているわけではないので、これはいわゆる「豪傑訳」であることもお断りしておきたい。そしてその内容についてであるが、まず詩人というだけで信憑性がないのに、ルイージ・プレットはイタリア人でもあるので、二重の意味で彼の言うことは信じるに値しない。一応調べてみたが、当然『博物誌』に上記のような記述はない。もっとも、『博物誌』自体がルイージ以上に怪しい書物なので、もとよりデタラメだということを示すためのものだろう。

リヴァプールだのセネガルだのという地名もきっと脚韻を合わせるために適当なことを言っているだけである。また、何故ここで化石という言葉が出てくるのか分からない方は棒ダラを買ってきて囓ってみるとよい。

そう、ヴェネツィア料理といえば、レデントーレの時に話題にしたBigoli in salsaであるが、その後何回か見つけて頼んでみたところ、他の店ではすべて常識的な範囲の塩味で出していた。最初に食べたあの店は一体何にこだわったせいでああなったのだろう。

まあいい。ともあれ、イタリアだからといってルイージのような奇妙な人ばかりではないということは一応言っておかねばならぬ。家主に招待されたコンサートの話に戻ろう。

アテネーオ・ヴェネトのAula Magna(大講堂)へ入ると、壁と天井一面に描かれた絵が圧倒的である。どこかで見たことがあるような気がして、これは誰が描いたのかと問うてみたところ、ティントレットだということであった。ヴェネツィア派の絵画がヴェネツィアの古い建物にあることに何の不思議もないのだが、とんでもない街だとあらためて思う。

今回のコンサートのお題は「ヴェネツィア音楽の精髄 ジュリオ・ルエッタ・ファビアン」というものである。このお題はどうもジュリオの作った曲の題名にちなんでいるようだ。本当はジューリオ・ルエッタ・ファッビアンという方が原語の発音に近いのだが、ここはジュリオで通す。

Giulio Ruetta Fabbian(1925-2011)というのはヴェネツィア生まれ、ヴェネツィアのBenedetto Marcello音楽院でピアノと作曲を習ったという、生粋のヴェネツィアーノである。50年代から60年代にかけ、I Gondolieri Cantoriというグループと共に、美しくロマンティックなヴェネツィアのイメージを外国にまで広めた、という人らしい。

コンサートに先駆け、家主が司会者のような立場にあって、専門家からの話を聞くという講演会があった。当然私の語学力では十分の一も理解できなかったのであるが、ここで話をなさっていたLeopoldo Pietragnoliという方の書いたものは日本語にもなっているとかいないとか言っていたような気がする。帰ってきてから軽くネットで探してみたが今のところ見つからない。何かご存じの方はおられようか。

講演の後にはジュリオの曲のピアノ演奏があった。弾き手はフェニーチェのPrimo Maestroだったという人とその娘(こちらも当然相当な経歴の音楽家)である。そんな人たちの演奏をただで聴いてよかったのだろうか。この街の文化は一体どういうからくりで動いているのだろう。

ゴンドリエリの歌であるから、どれもドラマティックな展開があるような曲ではない。始終ラグーナのゆったりとした波に揺られているような曲調で、講演でイタリア語を詰め込まれて緊張した頭には非常に心地よいものであった。

帰ってから調べてみるとI Gondolieri CantoriのCDというのがあって、日本でも某大手通販サイトに一つだけ在庫があった。イタリアにいるのだからその辺で売っているだろうと思い、翌日リアルト橋の傍のCDショップへ行ってみるが、I Gondolieri CantoriのCDはもう流通していない、あるいはそもそも流通に乗ったものではない、というようなことを言われ、ここで手に入れることは出来なかった。

私のイタリア語の聞き取りはまだ相当に怪しいので実際のところはよく分からないが、店を出た後すぐ、日本に残った最後の流通品を注文しておく。聴くのは帰国後のこととなるが、慌てるようなものでもないだろう。

ちなみに、某大手通販サイトに出品されているものを手に入れようと思えばまだ出来ないことはないが、今のところ私の買った価格の四倍強の値が付いている。ただ、ダウンロードでも手に入るみたいなので、聴くだけならわざわざ高値でCDを買うこともないのではないか。

ゴンドリエレが歌を歌っているのはしばしば耳にするが、やはり独特の歌は知る人が少ないので受けが悪いのか、“Volare”(ビールのCMで日本でも有名)などの流行歌を歌っていることもあるという話である。ヴェネツィアに旅行してゴンドラに乗ろうとお考えの方は、予習しておいたうえでこのI Gondolieri Cantoriの曲をリクエストしてみたらきっと面白いことになるのではなかろうか。高いものなので私はもう乗らないが。

衝突のない文化について

とある日の帰り道、いつものように家の傍のRiva del Vinへ出たところで、カナル・グランデの対岸にあるCa' RoredànとCa' Farsettiの様子がいつもと違うのに気づいた。例のテロの関係だろう、イルミネーションが青・白・赤のトリコロールになっていたのである。この建物は今はお役所で、イタリアの祝日であった先日の諸聖人の日の頃には緑・白・赤のトリコローレとなっていたのだが、旗を掲げるのにもいろいろな理由があるものだ。

また18日の夜、お誘いがあってリアルトの広場で待ち合わせをしていたときのこと。リアルト橋周辺は早仕舞いする店が多いのでどこもシャッターが降りていたのだが、そこで店舗毎に張られた張り紙が目に入った。7時からサン・マルコ広場でテロの犠牲者を追悼するためキャンドルを灯す、というようなことが書いてある。せっかくなので酒が入る前に見に行ってみた。しかし人はまばらで、キャンドルの数も思っていたよりは大人しいものである。警官や消防士が何人もうろうろしているのが物々しい。

当然のこと、灯火を囲んでいる人々は一様に沈痛な面持ちであった。さすがにこれだけ距離が近いと日本人の感覚とは違うのだろうと想像はつくが、ただ、世界のどこかで紛争によって人が殺されなかった日などあるのだろうか。目につくところで人が死んだからって今さら騒ぎ立てるのは些か想像力に欠けるのではないか、と思うのだが、これは私の方にも何かが欠けているのかもしれない。

イタリアが何の躊躇もなくフランス側に立ってこの事件を解釈するのは分からないではない。しかし例えば、結婚式に集まって祝砲を撃っていたところを誤認され(お手頃とはいえ、カラシニコフで祝砲を撃つのは慣習としてどうかと思うが)、不意に精密誘導弾を撃ち込まれた人々と、今回の犠牲者とを区別する感覚は私にはない。

ということでこの話題にそれほど興味はないのだ。上の方から注意するようにとの連絡が回ってきたが、何に気をつければいいというのだろう。人が多く集まる場所には出向かない、という程度のことしか思いつかない。

少し警官の姿が増えたこと以外、この街に特に変わったことはないように思える。寒くなり、観光客向けのイベントも少なくなるこの時期は人も少なくなるので、ここぞとばかりにあちこちの道で石畳を引っぺがして工事を始めたことくらいのものか。

そんな中、11月21日には先日のサン・マルティーノに続く地元のお祭りとしてサルーテ聖堂の祭日があった。これもよく知られたものであり、検索すればいくらでも出てくるので例によって詳しい由来は省く。レデントーレと同じようにペストの終焉を願って建設を計画したというか、ペストをなんとかしてくれたら教会を寄進してやると誓ったという、その思考回路が面白い。神に対しても札束で頬をはたくような頼み方しか出来ないのがヴェネツィアのヴェネツィアたる所以である。ガイドを読むと当時の政府がこれこれの手順でいくら援助したとかいう金額も書いてあった。矢継ぎ早に追加支援を決めていったといえば聞こえはよいが、最初に出し惜しみしておきながらすぐに不安になったようにも見えるところが特にそれらしくてよい。

ともあれ、レデントーレが観光客を呼ぶ一大イベントであるのに対し、こちらは人々の健康を祈るための祝日なので、ドージェ(の代わりの市長)が教会を訪れるだとかいうこともなく、人々が教会に集うことそのものがメインである。こちらの祭日でも同じように運河に仮設橋が架けられるのだが、ジュデッカにあるレデントーレ修道院とは違い、サルーテ聖堂は普段でも歩いて行ける場所にある。ジュデッカ運河とカナル・グランデでは幅が大きく違うため、この祭日のために架けられる橋はそう大きなものではない。ちょっと拍子抜けした。

周辺の屋台では聖堂に納めるための蝋燭が売られ、あいにくの雨にもかかわらず善男善女が詰めかけていた。聖堂内へ入るとちょうどミサが始まった時間帯で、神父が説教を始めている。話し方がゆっくりで、また使われている単語も単純なものが多いので何となく意味が分かるような気もするが、完璧に理解出来るというところまでは程遠い。

内陣と訳していいのだろうか。マリアと四人のエヴァンジェリスティの像が設えられた祭壇とその裏側へ向かう人々は正面と左右の三方に別れ、順番に規制線が解かれて少しずつ通されていた。今回はこちらで知り合った日本人の教員や学生が総勢六名となって見物に繰り出していたのだが、皆でその順番待ちの列に加わって祭壇へ向かう。どういうわけか、私はここでえらく緊張した。

何度も書いているが私には信仰心がない。よってこれは神に対する畏敬の念に起因するものではなく、信心を持った人々が怖くて緊張しているのである。多くの人がいるので祭壇の左側にある説教壇は直接見えないのだが、各所にモニターが設置されていてそれが映るようになっている。列に並んだ前後の人々は神父の導きに合わせて祈りの言葉を唱和したり、賛美歌を歌ったりしていたのだが、そういう人々の間にいると、私のような者がここに混じっていてよいものだろうか、彼らの祈りの邪魔になってはいないだろうか、と考えてしまうのだ。

祭壇へ通される順番が来た途端にスマホで写真を撮りまくっている観光客らしき人もいたし、実際のところそう気にする必要はないのだと思われる。内陣を抜けると記念品を売っているところがあって、私もそこでガイドを一冊買い求めたのだが、ここで同行していた学生が「Japan?」と声を掛けられていた。彼女がそれを肯定すると、その人は手を合わせて拝むような仕草を見せ、「Arigatou.」と言う。英語の発音から察するに彼自身も観光客なのかもしれず、イタリア人が私たちのような存在をどう受け止めるのか、ということはこれだけでは分からない。しかしイタリア人がいちばんいい加減に決まっているし、結局のところ邪魔だとも何とも考えていないのだろう。

それにしても私自身がこういった風に、日本人に興味を持つ人から声を掛けられたことがないのは何故だろうか。同時に派遣されている先生の場合、一人で飲んでいたらちょくちょく声を掛けられることがある、というふうに仰っている。実際、二人で例の如くカンナレージョのカンティーナで飲んでいたときのこと、私が二杯目のワインを注文するために店内へ入り、グラスを持って外に戻ってみたら見知らぬイタリア人と話していたということもあった。

私の場合、声を掛けられたと思ったら、アカデミア橋はこっちで合っているのか、とイタリア語で聞かれていたりする。ああそうだあっちへ進め、と反射的に答えた後になって、なんでイタリア人がヴェネツィアで東洋人に道を聞くのかと疑問が湧いた。この街にも東洋系の移民がいくらか存在するので理屈に合わないことはないのだが、どうも釈然としない。私は観光客に見えないのだろうか。現実には先ほどの先生の方があらゆる意味でイタリアとヴェネツィアに馴染んでいるのだが。

それはさておいて、聖堂を出た後は近くの通りへ。ここには主に食べ物の屋台が立ち並び、縁日風の風景となっている。日本と大きく違うのは、売られている食べ物が大方甘いものだということだ。ただ、すべてを知っているわけではないけれども、ヴェネツィアの菓子は目にしなかったように思う。砂糖をまぶした巨大な揚げパンはどこのものだか分からないが、マルツァパーネ(マジパン)や円錐形のアランチーニはシチリアの方の食べ物だったはずだ。同行した先生(先ほどの方とは別)はアーモンドやクルミなどを飴がけした菓子にひかれたご様子で、お買いになったものを私もちょっと戴いたのだが、アーモンドというのはシチリアのドルチェによく見られるもので(そもそもマルツァパーネがそうだった)、そっちの方でよく栽培されているものだと読んだ覚えがある。まあ、綿飴やリンゴ飴まで売っていたし、その辺もあまり気にしないのだろう。

最近ヴェネツィア料理の勉強をしていて改めて感じたことだが、ヴェネツィア共和国は地中海全域を股に掛け、ヨーロッパのみならずアジアやアフリカなど、あらゆる地域のあらゆる物品を貿易品として取り扱っていた国である。つまりこの街には何があっても、どんな人がいてもおかしくないということだ。御陰で私も気楽にやらせてもらっているが、それで特に何の問題もなかったというか、むしろその共和国時代の方が上手くいっていたというのは本当に幸せなことではなかったかと思う。今の世界とは何が違っていたというのだろうか。

冬の到来について

SAN MARTINO
ヴェネツィアとその後背地にだけ見られるお菓子、サン・マルティーノは11月の11日、この聖人の祝祭にあたって作られます。その馬にまたがった騎兵の形はある伝説にちなんだものです。

その昔、警備の任務に当たっていた古代ローマの兵士マルティーノは、巡回の最中に半裸の乞食に出会いました。そこで彼は自分のマントを二つに裂き、それをその物乞いに与えたのです。次の夜、夢の中にイエスが現れ、彼にお礼の言葉を述べました。そして彼が再び目覚めたとき、彼のマントはすっかり元の通りになっていたのでした。

この聖人の聖遺物が同じ名前の教会に保管されていたので、この祭りはヴェネツィアにおいて特に盛んで、今でもヴェネツィアの子供たちは鍋や蓋を打ち鳴らしながら歌を歌い、代わりに小銭や駄菓子を貰いながら家や商店を巡ります。この祭りの期間中にヴェネツィアの人々は皆、サン・マルティーノという柔らかいパスタ菓子を食べるのですが、多くのマンマたちは紙の上でその形を切り抜き、子供たちと一緒に飾り付けをしながら我が家でそのお菓子を作るのです。

久しぶりに家主の本、というわけではなく、これはヴェネツィア料理の本からの引用である。多くの人が引っかかったと思うのだが、イタリア語でパスタというのは小麦粉で作ったものすべてを指す言葉である。スパゲッティ、ヴェルミチェッリ、ブカトーニ、リングィーネ、カペッリーニ、フェデリーニ、キタッラ、パッパルデッレ、ストロッツァプレーティ、ニョッキ、テスタローリ、カヴァテッリ、ガルガネッリ、トロフィエ、オレッキエッテ、フェットゥチーネ、ラザーニャ、ラヴィオリ、タリアテッレ、ファルファッレ、ペンネ、リガトーニ(以上、日本人が想定する方の「ぱすた」の種類だが、おそらくこれでもまだ十分の一にも満たない)だけではないのだ。イタリア語ではtortaケーキもbiscottoビスケットもcornettoクロワッサンもまたパスタであり、菓子屋のことはpasticceriaという。

故あって最近また料理の勉強に無駄な力が入っているのだが、新しく買った本をぱらぱらと眺めていて目に留まったのがこのサン・マルティーノである。この菓子の騎兵の形を抜くために使う、30cm四方程度の巨大なプラスチックの型が雑貨屋で売られているのはしばらく前から目にしており、一体何なのだろうかと気になっていたのだが、実はこの料理の本を買って帰るちょうどその道すがら、その型を買って帰る親子を見かけていたのであった。そしていざ分かってみると、街中のあらゆるパスティッチェリーアでこのお菓子が売られているのが目につく。値段はおおむね€20前後だが、中には€40くらいするものまである。

サン・マルティーノの祝日である11月11日の直前にこのレシピに出会ったのも奇縁である。これも聖人のお導きか、と思ったので、アルセナーレの近くにあるサン・マルティーノ教会へ足を運んでみた。例のブチントーロの模型を売っていた店のすぐ傍であり、最近の散歩コース沿いなので迷うことはない。サン・マルコ地区周辺は用事がなくてあまり近づかないため、その辺りで細い道に入ると今でもちょっと怪しいが、基本的にはもうヴェネツィアで道に迷うことはない。

この聖人の伝説については聞いたことがあったような気がする。改めて検索してみると話の細部がそれぞれに異なっているようだが、イタリアでなくとも伝説というものはそういうものなので仕方ない。

「この聖人の聖遺物が同じ名前の教会に保管されていた」というのは、過去の継続的な状態を表すイタリア語の「直説法半過去」の受動態で書かれている。また伝説の部分は、現在と関わりを持たない遠い過去を表す「直説法遠過去」という時制で書かれているのだが、日本語に訳すときにはこの違いをどう表したものだろう。ちなみにイタリア語の時制には直説法、命令法、条件法、接続法などの分類を除いても現在、近過去、半過去、大過去、遠過去、先立過去、未来、先立未来、ジェルンディオを使った進行形、とあるのでこれ以上の詳しい説明は勘弁してほしい。

ともあれ、現在はここに聖遺物がないということなのか、と考えながら教会に入り、それらしきものはないかと一巡してみるが、ちょっとまだよくわからない。なにしろ宗教施設というものは見るのに気を遣うものである。聖アントニオ聖堂のように、これでもか、と自慢するように展示されていれば分かりやすいのだが。

そういえば、サン・マルコ大聖堂の方には聖マルコの遺骸が収蔵されているということになっている。アレクサンドリアからそれを運んできた(盗んできた)ときの伝説は非常に有名なもので、大聖堂の表のアーチにもそのときの様子が描かれていたりするのだが、では現在その遺骸は大聖堂のどこにあるのか、ということに関しては聞いてはならない。私もこれ以上の説明は控えよう。

入口の傍で教会のガイドが売られていたので覗いてみると、古代のヴェネツィアの地区区分図が載っていたのですぐさま購入する。この古代の地区名は家主の本にぽつぽつ出てきていたのだが、もともと土地勘がないのでその記述だけでは今ひとつ自信が持てなかったのである。それはそうと、このガイドによるとここには聖マルティーノのチュニカ、指の骨、脛骨が収められていたとのことだが、脛骨は教会の修復代のカタにヴェネツィア内の他の教会に預けられ、聖人の祝日にだけ行列を組んでサン・マルティーノ教会へ戻ってきていたとのことである。しかしこれも大過去で書かれており、結局今はどうなっているのか分からない。

翌日から始まって一週間ほど続く祝祭の日程を記したパンフレットも置いてあったので一つ貰って帰る。と、11日には子供たちが路地を巡ってお菓子を貰うという例の百鬼夜行があるようだ。

11日の夕方になってから市中へ出てみる。あらゆるcalli(路地の複数形)に鍋の蓋と玉杓子を手にした子供たちが跳梁跋扈し、けたたましい金属音と喊声に覆い尽くされたヴェネツィア全域は阿鼻叫喚の巷と化す、というような展開を期待したいところだが、さて、高齢化の進むこの街にどれほどの子供が居るものか。

案の定、子供たちは多くても四、五人のグループで、かならずベビーカーを押した親がついていた。ほぼ日本でいう未就学児童に限られるようで、完全に大人の統制下にある。ほほえましいものではあるけれども今ひとつ物足りない。バールやオステリアでジュースやお菓子を貰ったり、タバッキでアメ玉などを貰ったりしているのは分かるが、しかし中には化粧品店を強襲しているグループもあった。ここでは一体何が貰えたのだろう。

あちこちのカッレを歩いてみるが、サン・マルコ地区のメルチェリーアといわれる辺りで値段も態度もお高くとまっている店舗を狙うグループはやはり少ないようである。数日前から冷え込んでラグーナにはずっと霧が出ているのだが、観光客の姿もまばらなスキアヴォーニには鍋の金属音も届かない。静かな岸辺から霧にかすんだジュデッカを眺めていると、この聖人の祭日は冬を知らせる合図でもある、という話を思い出した。

きちんとお歌を歌ってからご褒美を貰っているグループはほとんど目にしなかったが、リアルトに戻ってみると、商店のおばちゃんのほうが音頭を取って子供たちを歌わせているという場面を目にする。伝統というものはこうやって大人がきちんと伝えていかないといけない。

といったところで、私自身は子供たちに受け継いでもらえるような伝統を何かしら身につけているのだろうか、と考えて少々寂しい思いになった。以前、私は県単位のナショナリズムを持たない、と書いたことがあるが、郷土愛なるものを持てないことの裏返しとして、余所者であることには慣れているはずである。よってこの街でも心許ない思いをしたことはないのだが、生まれた土地に自分の拠り所を置いて頑固なまでに揺らがないイタリアの人々を見ていると、そういう人たちがなんだか羨ましいようでもある。

職人の生き様について

冬が近づき、すっかり日が暮れるのも早くなった。ora legale(直訳すると法定時刻、夏時間のこと)が終わったので時計が一時間遅くなり、例えばそれまで夕方6時が日没だったとして、それが翌日の同じ頃合になると時計は5時を指している、ということになるので、そこには人為的な原因もある。

パソコンやスマホは勝手に切り替えてくれるので、寝ている間に勝手に時刻が変わる。そしてそのまま体内時計に合わせて起きると、あれ、なぜ今日はこんなに早く目が覚めたのか、ということになる。しかし自分で買ってきて部屋に置いている安物の時計にそんな器用な切り替えはできない。

朝起きてからしばらくスマホの時計で動いていて、ふと部屋の時計をみたらその時刻だけ1時間進んだままだったりするのである。これにはちょっと肝を冷やした。切り替わるのは10月最後の日曜日と決まっているから実害は少なくて済むのだが。

また、ただでさえ低い太陽の高度がこの季節にはさらに低くなるので、昼間はやたらと眩しい。日本ではサングラスというと夏のものというイメージだが、こちらではこの季節でも掛けている人を見かける。私もずっと欲しいと思っているのだが、この人相でサングラスを掛けると冗談では済まないのでこればかりは我慢する外はない。度入りのサングラスというのはまた値が張りそうでもあるし。

空気もすっかり冷たくなったので冬用の厚手のジャケットを出してきて、春秋用の薄手のジャケットはクリーニングに出した。店は6月に話題にしたところと同じ近所の店である。

店へ行ってジャケットを見せると€6、と言われた。前回は€8払った記憶があるのでおかしいなと思い、傍にあった料金表を見るとやはり「giacca €8」と書いてある。それを指して、間違っているのではないかと言ったら、店主は、いや€6だと言い張った。

安く上がるのはありがたいが、理屈が分からないのは不安で仕方ない。そしてその不安はまた違う意味で的中するのであった。

二日後には仕上がっているとのことだったが、指定された日にはいろいろ用事があったので、夕方、あと30分程で閉店という時刻になって店へ赴く。すると私の顔を見た店主が、「ああ、あのジャケット!」と言って何やら慌てた様子である。何ごとかと思ったら、まだアイロンを掛けていなかったらしい。仕舞うものだから別に急ぐものではないし、この国の人ならそれくらいのことはあるだろうと理解しているので出直しても構わなかったのだが、ここからまたイタリア人らしいリカバリーを見せてくれた。

一瞬そのまま引き渡そうとしたのを私は見逃していないのだが、やはりプロとしての自制心が働いたらしく、決心するようにため息をついた後、ものすごいスピードでアイロン掛けを始めたのである。ちなみに作業場は店の外からでも丸見えの位置にある。

何十万もするブランド品ではないが、だからといって安いものでもない。気に入っているものなので最初はちょっと不安になったのだが、しばらく見ていると、まあ大丈夫か、という気になってきた。肝心なところではふっと速度が緩んで丁寧になるのである。やはりプロの手つきは違う。

私の母親は若い頃、洋服を作る仕事をやっていた。私が最初にアイロン掛けをやらされたのは、さて何歳のときだったか。一度仕込まれているとはいえ、長い間自分でやることはなかったのだが、私も着るものにこだわるようになってからはせっせとアイロン掛けをするようになっている。

母親は今でもなんやかやと自分で生地を買ってきては自作する。洋服だけではなく、帽子、鞄、椅子のクッション、枕カバー、終いにはトイレットペーパーのホルダーカバーまで作るので、家にはプロ仕様のごついミシン、そしてスチーム用の水のタンクが別体になっているのにそれでもやたらと重いアイロン、さらにはそれに付随する小道具が揃っている。物の価値が分かるようになってきたら、いい道具を見ると自分でも使いたくなってくるものであり、したがって私はアイロン掛け、とくにワイシャツのアイロン掛けについて語り出すとかなりうるさい。ただし、語ったところで誰も聞く耳を持たないし、人前で披露する機会のあるものでもないので、実際に語ったことはない。

そういえばこちらに持ってきているエプロン(イタリア語ではgrembiule)は、私がデザインして母親の指導の下に型紙を作り、生地については私が選定したものの、後はすべて母親に丸投げして作ってもらったものである。正面の生地は白、そして右サイドは深緑、左サイドは深紅の生地に切り替えてあり、要はイタリアの国旗を模してある。

これに食いついたのがマ氏であった。部屋に引っかけてあるこのエプロンを見て、これはイタリアで買ったのか、日本で買ったのか、と部屋に来る用事がある度に聞かれた。最初の頃は咄嗟に答えられず、もたもたしていたらすぐに話題が切り替わってしまっていたのだが、何度目のことだったか「これは私の母親が作ったのだ」と答えたところ、えらく考え込んだ表情になった。おそらく売っている場所が分かったら自分も買おうと思っていたのである。型紙は残っているはずだからもう一度作ってもらえるだろうし(ただし作っている最中に横からあれこれ口を出して細部を直してもらっているので、まったく同じ物とはならないが)、これは私が日本に帰る際、プレゼントとして置いていってもよいかもしれない。

例によって話が遠回りをしたが、店主の手つきを見ていたところ、高速でアイロンを動かしているのにジャケットの方はわずかに波打つこともない。スチームと力加減で適度にアイロンを浮かし、生地を傷めないように動かしているということだろう。背抜きのジャケットなので裏地はかなりばらつきやすいのだが、それをまとめる手つきも鮮やかであった。

そして前回も褒めたラペルの仕上げであったが、ここはハンガーに掛けて天井のレールから吊り下げた状態で裏側から手を当て、綺麗に立体的な曲線を付けながらアイロンを掛けていたのである。当然素手での作業であるし、裏側からといってもラペルという物は下へ行くほど細くなるので、素人では危なくてとても真似のできるものではない。これは想像もつかなかった。

仕事を忘れていたのはプロとしてどうかと思うが、イタリア人としては問題なかろう。そしてその技の方はというとこれは紛れもなくプロのものであった。こんな機会でもなければ一生見ることもなかっただろうし、とにかく面白かったので、仕上がったところで、Brava!と言葉を掛ける。皮肉は一切ない。ちなみにイタリア語ではこのBravoという形容詞も性と数によって変化させなければならない。ここの店主は女性である。

私の褒め言葉に、店主は決まり悪そうに頭を下げた。イタリア人にお辞儀をする習慣があるとは聞いたことがないが、こちらが日本人だと知れているからだろうか。

今回のことはいいネタになったからよしとするが、しかし現在着ている冬物のジャケットはどうしたものか。日本に帰る前に一度クリーニングに出す気でいたのだが、イタリア人の仕事というのは良くも悪くもイタリア人の仕事である。

職人技とズボラなスケジュール管理が概ねセットになっているのはどうにもならないものなのだろうか。それとも、ちゃらんぽらんに生きているから、ギリギリになって辻褄を合わせるために高度な技術が必要になるということなのだろうか。イタリアというのは本当に愉快な国である。

ステータスシンボルについて

さて例のペルメッソ受領の日のこと、まずはリアルトの桟橋でマ氏と待ち合わせ、ヴァポレットでトロンケットへ向かった。ここはヴェネツィアにあっても普通の観光客はまず行くことのない場所である。私も滞在半年にして初めて足を踏み入れた。

ここには駐車場と大型客船の船着き場しかない。つまりヴェネツィアの住民か、あるいはクルーズ船に乗ってやって来るような観光客しか用のない場所なのだ。駐車場は一時利用も可能であるが、一日目に€30弱、その後24時間毎に€21が加算されるので、この駐車場を利用することのできる人もまた普通の観光客ではない。ちなみに住人であれば€100/月だそうな。

ここで思いがけず懐かしいエンブレムを見ることになった。トロンケットの乗降場の向かいに客船CRYSTAL SERENITYが停泊していたのである。この船を運航しているクリスタル・クルーズ社はちょっと前まで日本郵船の子会社であったのだが、父親が日本郵船に勤めていた関係で、クリスタル・クルーズ社の最初の豪華客船クリスタル・ハーモニー(今は郵船クルーズが買い取って「飛鳥II」と改名)がお披露目で神戸港に寄港した際、内部の見学に行ったことがある。

あれはバブルの終わりの頃だったか。このとき確か、世界一周で千八百万円、という部屋を覗いた覚えがある。客船としてはそう大きなものではないし、おそらくもっと高い船もあるのだろうけれど、何にしても私に乗る機会があるとは今になっても思えない。それはそれとして、この会社の船に掲げられているタツノオトシゴが向かい合ったエンブレムは紋章化の具合がスマートで、その透明感のある緑色と相俟っていつ見ても優雅である。

船というのはなぜどれもこれも美しいのだろう。技術的には水や空気の抵抗を考えているうちに自然と今の形に収斂されていったということなのだろうが、あの曲線の美しさというのは人類が作ったものの中でいちばん魅惑的なのではないか。クリスタル・セレニティの場合は客船であるから船としてはどちらかというとふくよかなのであるが、客室部分に入れられた逆台形のラインによって視覚的な重たさが舳と艫に集中させられることになり、それが全体のスタイルを引き締めている。ホンダの車の無駄なキャラクターラインとはえらい違いで、考え抜かれたデザインだと感心した。思い出すだけで身震いするほどに美しい船である。

Nave, Bàrca, Góndola, Peàta, Caorlìna, Mascaréta, Bissóna, また某有名マンガでも見たことのあるGalèraガレーラと、各種の船を表す名詞の大半が女性名詞であるように、船というものが古来より女性に準えられるのも故無しとしない。日本に帰ったら船舶免許を取りに行こうかと真剣に考えている今日この頃。

ちなみにヴェネツイアの市中では稀に「NO GRANDI NAVI(大型船は出て行け!)」という横断幕や、それに類した落書きを見ることがある。大型客船がヴェネツィアに寄港する際に立てる波は殊の外強く、主に古い建物がダメージを受けるという理由でクルーズ船の寄港に反対している人たちがあるのだそうな。実際はただの僻みだと思うが。私の先遣者はこの運動について社会学的に研究していたそうで、その縁でいうとクルーズ船は敵だと言えないこともないのだが、個人的には悪であろうと何であろうと美しいものの味方である。クリスタル・セレニティに出逢ったときにそう決めた。

その後のクェストゥーラでの用事があっという間に終わったことは前回書いたが、用が済んだ後はマ氏の用事で近くのLEROY MERLINというフランス系のホームセンターに行ったり、パノラマというショッピングモールを巡ったりした。マ氏によるとパノラマはそこそこ名の知れたブランドの店ばかりが入っているのでちょっと価格帯も高めで気に入らない、とのことである。ホームセンターの近辺にあるNave de Vero(これはヴェネト語で、標準イタリア語ではdi vetroの意味だと言っていたような気がするが自信はない)の方が安くていい、とのことだった。

ヴェネツィアーニは黒を好み、総じて地味であるとは先日も書いたが、彼らは本当に始末屋である。マ氏が空軍大佐であったことについてもまた以前述べたと思うが、七十歳を超えた今も航空学校の教官をしているそうな。共同経営とはいえリアルト橋のすぐ側のパラッツォを所有していることからも金銭的に余裕があることは確実なのだが、しかし彼の車はフィアットのクロマである。実用一辺倒の飾り気のないものであった。ちなみに後席にはチャイルドシートがついている。

途中で休憩してコーヒーを飲んだ後のこと。乗り込む前に私がつらつらと車を眺めていたところ、右前のフェンダーについた傷に注目していると勘違いしたらしく、それはgenero娘婿がやったのだと言う。自分の運転が下手だと思われるのはやはりイタリア人として許せないようだ。そういえば最初に書くのを忘れていたが、彼の車は当然マニュアルシフトである。そして当然のように飛ばす。ヴェネツィアと本土とをつなぐリベルタ橋では110km/h以上のスピードを出していた。

車は娘夫婦と共用なのだという話の流れで船も持っているという話を聞いたのだが、車に関しては、六歳になる孫娘から「じいちゃんの車は何色? うちの車は灰色なんだよ。」と聞かれたことがあったそうな。いやそれはオレの車なんだ、と言い返すわけにもいかずに答えに窮した、といってマ氏は大笑いしていた。それはそうと、話に集中する度にハンドルから両手を離して手振りを交えたり、話の間ずっと低速運転を続けて後続車に迷惑をかけたりするのはやめて欲しい。久しぶりに『ヘタリア』の一場面を思い出した。ともあれ、ヴェネツィアーニが倹約家であるという以前に、今の時代に結婚して子供がいれば経済的に何かと思うようにならないこともあるだろうと、娘夫婦にも些か同情の余地はある。

最近、とある方にヴェネツィアーニの服の趣味について伺ったところ、ヴェネツィア人は服装や物(例えば時計や車やボート)でステータスを表すということはしない、ベルルスコーニみたいな派手な格好は南部の成り上がり者がするものだという意識がある、とのことだった。イタリア南北の人間性の違いや対立についてはちょくちょく聞く話ではあるが、ただ、ヴェネツィアに限って考えてみるとやはりカルネヴァーレに思いが至る。

よく言われることだが、マスケラ(マスク)を身につけてマントを身に纏い、一個の怪物となるというのは、自分の社会的なアイデンティティを消すということである。ヴェネツィアーニが年がら年中黒子のような服装をしているのはそれに通じるところがあるのではないだろうか。これもおそらく塩野氏の本に教えられた話のような気がするが、ヴェネツィアはイタリアの中でも例外的に狭い街であり、どこを歩いていてもすぐに知り合いに会う生活というのは結束の強い共同体をつくり出すのに寄与する一方、他人との距離が近すぎて時に息の詰まるものでもある。

濃密な人間関係から離れ、暫し息を抜かんとして影と化す、というとしかし綺麗事に過ぎる。社会が狭いと、ちょっと目立つものを身につけていただけであれやこれやと噂の種になるようなこともあるのではないか、と日本人としては考えてしまう。

余所者としてはいちいち舞台裏のことを詮索する必要もないのではあるが、だからといって観光客のように舞台上で役者に徹するというふうにもいかない。どこで生きていても人間というのは厄介なものである。

滞在許可証について

イタリアでの私の身分証がやっとできた。ここで話題とするのはPermesso di soggiornoペルメッソ・ディ・ソッジョルノ、いわゆる滞在許可証というものである。もちろん大学のほうの身分証は初めの頃に貰っており、研究活動のほうはいたって順調に進んでいる。

イタリアに観光以外の目的でビザを取得して三ヵ月以上滞在する場合、最初に県(と訳していいのだろうか)の役所(prefettura)へ行ってCodice fiscaleコーディチェ・フィスカーレというコードを発行して貰う。これは直訳すると税務番号という意味を持つが、イタリアではこれがないとあらゆる経済活動が出来ない。正式な賃貸契約書も書けないし、家賃の銀行振込のときにも提示を求められる。ネットでスクロヴェーニの予約をするときにも記入させられたような記憶がある。そして例のごとく、これを発行して貰うのにイタリア到着から二週間かかった。しかしこれは大学のほうの都合があったので、お役所仕事のせいばかりではない。

こちらの大学で聞いたところによると、このコーディチェ・フィスカーレは日本に居る間にイタリア大使館でも申請できるという話なのだが、実際のところは確認していないので分からない。どちらにせよ私にとってはすでに終わった話である。

その後また本土のほうの警察署(questura)の移民局へ出頭し、ビザや移民統合事務局の認可証、大学の受入書類などを確認したうえで写真を提出、そして指紋を採られる。スキャナのような機械で一本ずつすべての指紋を採った後、さらに人差し指から小指までをまとめて一回、親指をもう一回、極めつけにいわゆる掌紋まで採り、当然もう片方の手についても同じ手順を踏む、という念の入りようである。

これらの手続きは始まってしまえばそう時間はかからないのだが、それまでの待ち時間がとにかく長い。こちらの大学職員の方が付き添ってくれていたのだが、その人のほうが我慢できない様子であった。私は待つことに慣れているので三時間ほど地蔵のように微動だにしないで待っていたのだが、こっちが落ち着いているのがまたイタリア人の気に触るらしく、余計イライラしているのが面白かった。

さて、これが5月末のことである。その際、この後30日以内にはペルメッソが出来上がったことをSMSで連絡するので取りに来るように、と言われたが、連絡が来たのは9月末のことであった。彼らの言う30日とは30営業日のことかもしれないと最初のうちは考えたが、それすら軽やかにぶっちぎった。人がせっかく好意的に解釈してやろうと骨を折っているのに、もうこの数字にはどのような意味を与えることもできない。さすがイタリアである。

表向きにはちゃんとしているように繕っているが、実際この国では何もかもがザルである。家賃の振り込みの際、銀行の窓口では毎回ペルメッソはないかと聞かれていたのだが、向こうもその実態は重々承知している、というか銀行だって似たようなものなので、無いと言えば済し崩しに切り抜けられた。顔馴染みになってからはパスポートの提示すら必要なくなったが、それが後で問題になるということもない。

彼らはごく稀に思い出したように厳格になり、自分の仕事の存在理由を主張し始めることがある(以前書いた聖アントニオ聖堂の警備員がいい例である)が、これは癇癪みたいなものなのですぐに元通りの適当な仕事に戻る。そういうタイミングに当たったら運が悪いと思って出直せばいいだけである。最初の頃は、言われたことはきちんとやらなければ、書類は不足無く揃えなければ、と日本人たる私は考えたのであるが、もういい加減慣れた。これでは移民の不法就労が横行するのももっともなことである。

それにしても、もう滞在期間も折り返したことだし、これまで滞在許可証が無くて困ったことなど何一つなかったので、別にもう受けとらなくてもいいようなものだが、出来上がったと言われては仕方ない。

しかしここで一つ問題があった。役所への出頭日がベルギー出張の日と重なったのである。のんびり仕事をしたうえに最悪のタイミングに重ねてきたわけで、この間の悪さというのもまた天才的なものだとしか言いようがない。仕方がないのでマ氏に相談したうえで役所へメールを送ったところ、一週間後になってやっと返事があり、違う期日を指定してきた。

ベルギーから帰ってきた翌日となるが、まあいいだろうと思っていると、数日後に電話がかかってきて、また延期だという。咄嗟に理由を聞き返すだけの会話力がないのでとりあえず言うことだけ聞いておいたが、同じようにベルギーへ行っていたもう一人の派遣者である先生の場合、一度は同じように延期を頼んで同じ日に延ばされていたものの、再延長はなかったようである。まったく見当が付かないが、聞いたところでどうせまともな理由ではなかろう。

紆余曲折を繰りかえし、面倒に面倒を重ねてきたわけだが、しかし仕上げのペルメッソの受け取りは一瞬で終わった。何度も期日が変わったせいで完全にイレギュラーな時間に指定されていたようで、同行してくれたマ氏が入口近くの窓口で尋ねると、もう配布は終わった、との返事。日本人同士のつながりでここのタイムテーブルについてはよく分かっているし、こいつらが行き当たりばったりで動いていることはとっくにお見通しなので、こちらもいちいち驚いたりはしない。向こうが先の電話の後で寄越した日程変更についてのメールを見せたところ、中へ入ってその旨を伝えろと言われ、着いてから10分もしないうちに受けとることができた。他の方の報告によると、上手くタイミングを合わせても一時間はかかるとのことだったのだが。

よって、イタリアに留学し、ペルメッソについて思い悩んであれこれ検索した結果このブログにたどり着いた、という方には何の参考にもならないことをここで謝っておく。そういう方は、東京の方の大学からいらしている先生のブログ、

サバイバル☆サバティカルinVenezia

をご参照いただきたい。私は客員研究員なので大学の方がいくらかサポートしてくれたのと、家主が世話好きなのとで相対的にかなり楽をしているようだ。大学のハウジングオフィスとつながっている物件には同じような境遇の人ばかりが入るからであろう、マ氏は二年前にもここの大学にアルゼンチンからやって来たprofessoressa(professore教授、の女性形)の世話をしたと言っていた。

イタリア語には男性名詞と女性名詞の別があるので、このようにこっちに聞くつもりがなくとも話題としている人の性別が分かってしまう。このプロフェッソレッサについては以前にも話を聞いており、初めの頃に問題としていた「先住民」ではないかと踏んでいたのだが、「二年前」ということは間にもう一人居るのだろうか。最初に入ったときの部屋の埃の積もり具合からは、一年間誰も入らずに放置してました、という可能性もなくはないのだけれど。

ベルギーについて

ブリュッセルはただひたすら寒かった。到着したのは昼過ぎだったので最初はそう違いは感じなかったものの、なにしろ朝がきつい。サンカントネール公園の近くに宿を取ったので朝早く公園に散歩に出てみたが、もう完全に冬の空気だった。コートを用意しておいて正解である。それでも軽く体調を崩したが。

空港からホテルに向かうバスの中でアナウンスを聞いていると、途中に「なーとー」という停留所があって思わず降りそうになったが、ブリュッセルにはNATOの本部もあるのだった。ここはEUの中心地であり、それゆえ私が日本で所属する大学のEUオフィスもこの街に置かれている。今回私に課せられた用務は、そこで開かれるワークショップに参加して発表を行うというものであった。

ワークショップは朝早くから行われるので前日にブリュッセルに入ったのだが、夕食をどうしようかと考えながら街を歩いてみたところ、どうも適当な店が見当たらない。中華料理やsushiの店は論外。小綺麗な店があったので表に出ているメニューを見てみると、その店はスパゲッティが中心で、なかにはnero di seppie(イカスミ)などと書いてある。何でヴェネツィアからやってきてわざわざここでイタリア料理、しかもヴェネツィア料理そのものを食わなけりゃならんのかと消沈。結局スーパーを見つけてそこで出来合いのものを買って済ませた。いかにも出張中のサラリーマンといった風情である。

ちなみにこの国はフランス語とオランダ語(の方言)が公用語なので、スーパーはフランス系のカルフールである。店員の応対はヴェネツィアよりも丁寧だった。ただ、バスの運転は明らかにベルギーの方が荒い。イタリアのバスだって日本に比べればかなり攻める方で、ランナバウトなどではいつもふりまわされているのだが、何というか、イタリア人は丁寧になめらかに飛ばすのでまだ動きが読める。ところがベルギーのバスはとにかく発進と停止がきつく、不快極まりない。二連バスの重量で急発進と急停止を繰りかえしていればすぐに駆動系が駄目になると思うのだが、ベンツのバスはトランスミッションが頑丈にできているのだろうか。

翌朝、ホテルの近くに欧州委員会の本部であるベルレモンというビルがあるというのでとりあえず行ってみる。周辺の地区はどこもかしこも忙しく工事が行われ、どこにでもありそうなオフィス街という趣の巨大な建物が林立しているが、その中でも一際目を引く奇妙な形をしたビルがベルレモンである。しかしわざわざ見に行くほどのものではなかった。

自由になる時間はほとんどないので、とっととオフィスに向かう。この街には鉄道やバスやトラムが張り巡らされているようだが、路線を調べてみたところ、歩いて30分の距離が20分に短縮できるといわれてもあまり効率がよいとは思えない。ヴェネツィア在住の人間としては徒歩で移動する方が気楽なので歩いて行く。

土曜日の朝だったが、中学生くらいの子供の集団をよく見かけた。揃いでラクロスの道具を持ったグループもあったし、部活動のようなものがこちらにもあるのだろうか。フランス語を話すグループの方が多いようだったが、見ていると人種の混ざり方がヴェネツィアよりも多様である。ヴェネツィアというのはイタリアの中でもかなり特殊な街なので、比較しても意味はないのだが。

ほとんどオフィスに缶詰状態だったので観光などできはしないし、大学の金で出張しておいてのんびり観光などしていたらそれはそれで問題なのだが、ワークショップの始まった二日目の夜、食事の前後にグラン・プラスに立ち寄った。しかし発表の準備に忙殺されていてベルギーについて下調べなどをしている余裕はなかったので、グラン・プラスについても予備知識がない。細部の建築様式についてもいくらか観察できるようにはなっているものの、その場でゴシックだと言えるほどには目が肥えていないし、また修復直後だったそうでえらく金ぴかな建物も目に付いたが、謂れが分からなければ世界遺産だと言われても感心の仕様がない。後で調べてコクトーが絶賛していたと知ったが、そんな話もあったかな、という程度である。

さて、食事が終わった後、ホテルに帰ろうとそのグラン・プラスで一人別れて歩き出すが、その後完全に道に迷った。一応おおまかな方向だけは教えてもらって出発したのだが、すぐに怪しいと分かる。日本から来た先生方がまとまって宿泊しているホテルで地図を貰っていたものの、これは表示範囲が狭くて大して役に立たず、また自分の宿泊しているホテル周辺なら事前に頭に入れているといったところで、その範囲にも到達できない。

とりあえず見たことのあるものにたどり着くまで歩くほかなかろうと思って進むと、大きな道路沿いにある巨大な観覧車の足元に着いた。これは見たことのないものである。今調べ直してみても一体どこまで行ったのかさっぱり分からない。どうにもならんなと思って、ちょっと飲みに行っていたという風情の地元民らしき三人組のおっさんに道を尋ねる。そのうちの一人が英語を話してくれたので、サンカントネール公園の傍のホテルまで帰りたいのだが、と説明すると、この時間ではもうトラムも動いていないから、と言ってタクシーをつかまえてくれた。それにしても無駄なところで冒険をしたものである。ただ、乗ったタクシーがシュコダ(運転手に確認したところ、ブリュッセルでの発音はスコダだったが)のオクタヴィアだったのはちょっとした拾い物だった。

帰りが遅くなった御陰でこの夜は風呂を沸かすのを諦めざるを得ず、シャワーだけで済ませることとなった。リアルトのアパルタメントにはシャワーしか付いておらず、せっかく半年ぶりに出会ったバスタブだというのに、一回しか利用できなかったのは無念だとしか言いようがない。

三日目に用事が終わってからは他の先生方にくっついてWITTAMERという有名らしいチョコレートのお店に行く。席がなかなか空かず、他の先生方はお土産を買いに店舗内に入っていったので、表の席で国語学の先生と二人、ホットチョコレートを頼んで席を確保しながら待つ。この国には二つの公用語があると先に書いたが、駅名や道路標識などはかならずその両方を使って二重に表記されている。この店でテーブルクロス代わりに敷いてくれる紙にも二通りに何やら書いてあったのだが、不思議なのはその隣に「ごゆっくりどうぞ(原文ママ)」と書いてあることであった。日本人はベルギーといえばチョコレートしか思い浮かばないのであろうか。さて、この表記が中国語に置き換えられるのはあと何年か、などという話をしながらチョコレートを味わう。

その後は夜の飛行機でヴェネツィアに戻る。他の先生方はもう一泊される方が多いようだったが、飛行機で一時間半ちょっとの距離でわざわざもう一泊する理由もない。移動のための航空機代は別途支給されるものの、滞在費用はヴェネツィアへの派遣費用の中から賄うことになっているので宿代は自腹なのである。

空港から出ると、ぽつぽつと雨が降り始めた。湿度が上がって、ベルギー帰りの身には空気がまとわりつくようである。この街でコートを着るのはしばらく先になりそうだ。暗闇のなかを進むアリラグーナの船内には数組の観光客が見られたが、時計は23時を回っており、カップルの旅行客も言葉少なである。夜だからか心なしかスピードは控えめだったが、窓に当たる雨音は少しずつ強くなっていくようだった。この時期にこうやって低気圧が来ると、ヴェネツィアでは厄介事が一つ増える。この翌日から始まってまずは三日ほど面倒な思いをしたのだが、詳しいことはまた改めて。