安寧の日々について

最近は本業の方がちょっと忙しく、これといって面白い出来事はないようである。月末辺りからはまたあれこれ用事が始まるし、街を歩いているとそろそろヴェネツィア名物のアレの気配もあるのだが、それはまた始まってからの話としよう。

唐突なようだが、私のTagliazucca(南瓜切)は男の子である。物に名前を付けたうえに性別まで設定し始めたなんてとうとうこの人……と後へ寄った方はちょっと待って欲しい。

イタリア語にも男性名詞と女性名詞というものがあるという話は何度も書いているが、基本的には男性名詞は-o(複数形-i)、女性名詞は-a(-e)で終わる。人の名前もおおむねこれに準拠していて、
 Marioマリオ―Mariaマリア
 Paoloパオロ―Paolaパオラ
となる。男性名が-iで終わって、
 Luisiルイージ―Luisaルイーザ
 Giovanniジョヴァンニ―Giovannaジョヴァンナ
というパターンも多い。そして姓の方はというと、一族全体を表すために複数形の-iで終わっていることが多い。アルマーニ、フェラーリ、ストラディヴァーリ、ガリバルディ、ムッソリーニ、ベルルスコーニなどは-iで終わっているが、しかしジャコーザ、ジュジャーロ、チマローザ、ロンブローゾ、ボルジァ、ジローラモ(訂正:あのジローラモさんは姓名が日本風の表記で、こちらが名前だった)という例もあるので絶対ではない。イタリアでは原則が貫き通されるということは絶対にない。

そんなこんなで私の名前はちょっとイタリア人には抵抗があるらしい。姓が-oで終わって名前が-iで終わるので、ちょうどイタリアのルールと逆なのだ。マ氏などは当初から名前の方で私を呼んでいたので、イタリア人はのっけからフランクなのだなと思っていたら、どうもイタリア語のルールに従って姓と名を勘違いしていたようである。それに気づいてからしばらくは「プロフェッソーレ」という呼び方になったが、大げさなのでやめてくれと頼み、結局また名前で呼んでもらうというところへ落ち着いた。

さて一通りルールが頭に入ったところで引っかかるのがLucaルカという名前である。ジョヴァンニ(ヨハネ)もそうだが、これはevangelisti(福音史家)に由来する名前なので、-aで終わるのに男性名であったりする。

そしてエヴァンジェリスタかつヴェネツィアの守護聖人でもあるMarcoの場合、その女性形はMarcaとはならず、縮小辞を付けて、
 Marcelloマルチェッロ―Marcellaマルチェッラ
となる。ちなみに男性名のマルチェッロさんの場合、親しい人からは省略されてMarceマルチェと呼ばれることになる(後に分かったが、マルチェッラさんも同様にマルチェになっていた)のだが、これによってマルコのラテン名と一致するという副産物もある。聖マルコの象徴、そしてヴェネツィアの象徴となってこの共和国の旗にも印されている有翼のライオン(「leone alato」で画像検索)はたいてい本を持った姿で描かれ、そこには戦時を除いてほぼ間違いなく、
    “Pax tibi Marce, evangelista mevs”
  (安寧は汝と共にある、マルコ、我が福音を伝える者よ)
と書いてあるのだが、ヴェネツィアの人々にとってはこうやってマルコのラテン名を見る機会も多く、これを狙って付けているのかも知れない。この言葉の由来となった伝説も家主の本に書いてあるのだが、面倒なのでまたの機会とする。

して残る一人のエヴァンジェリスタ、Matteoマッテオ(マタイ)であるが、これはどういじったら女性名になるのだろう。ルカと同じでちょっと思いつかない。

ともあれ、私の可愛いTagliazuccaであるが、taglia(切る)もzucca(カボチャ)も-aで終わってそれぞれ女性名詞である。ところが、複合語になるとこれが男性名詞扱いになるのだという。イタリア語にはないのだけれどもラテン語にはneutro中性名詞というものがあったので、感覚的にはこのネウトロになるということであった。

なぜこうやって性にこだわるかというと、イタリア語では冠詞も形容詞も性と数に合わせて変化するので、これがはっきりしないと文章の中で使えないのである。例えば先ほど書いた「私の可愛いTagliazucca」はmio caro Tagliazuccaであってmia cara Tagliazuccaではない。

事程然様にイタリア語というのはしち面倒くさいのだが、これにはイタリア人自身も対応しきれないことがあったりする。ヴェネト語でウナギを表すbisatoビサート(標準イタリア語ではanguillaアングィッラ)という言葉はトレッカーニで調べると今書いたように男性名詞となっているのだが、ヴェネツィア料理の本を見ていると女性名詞として使われていたりする。どう見ても前回も話題にしたbissaビッサ(蛇)から派生した言葉なので、元の単語の性を受け継いだものとして使われているわけである。標準イタリア語のアングィッラが女性名詞であることもまた意識されているのかも知れない。

そしてまた外来語への対応となると余計にややこしいことになる。初歩の頃に何かで読んだ話だが、日本の「柿」はそのままイタリア語へ入ってcachiカーキとなっているそうである。外来語はたいがい性数変化しないのであるが、それはそれとして基本的にイタリア語では-iで終わるのは男性形複数である。よってこれが外来語であることを知らずに、イタリア語の文法に則って単数形をcacoカーコと言う人があるのだそうな。

ちょくちょく買い物に行く例の「アドリア海生活協同組合」、最近はここの会員になるべきか否かでちょっと迷っている。もう滞在期間も折り返しが見えてきたところだし、今さらという気もしてどうも踏み切れないのだが、レジで毎回会員証を持っているかどうか尋ねられるのでその度に考えるのである。会員になった方がいいか、と聞いてみたらいろいろ特典を教えてもらったのだけれども、それはそれとして、ここで面白いのはその会員証の発音である。

カードはイタリア語ではcartaカルタであり女性名詞である。だから例えば「赤いカード」と言おうと思ったらrossoロッソという形容詞を女性形に変化させてcarta rossaカルタ・ロッサと言わなければならない。コープは当然coopなのだけれども、イタリア語は開放音なので、どうやら単語が子音で終わるというのが我慢ならないらしい。ここの会員証はcarta coopというのだが、この「コープ」が形容詞coopoになった後で女性形へ変化、また-oo-と綴りが重なるところはイタリア語ではまず促音になる(母音が重なるのはイレギュラーだが)ので、結局のところcarta coopaカルタ・コォッパと聞こえるのだ。coppaコッパ(コップ、カップ)という単語が別にあるので最初は何のことやら分からなかったが、どう聞いても会員証のことを指しているのでよくよく考えてみたわけである。

文学者の出来損ないだから言葉についてあれこれ考えるのはクセのようなものなのだけれども、それでもこんなしょうもないことを長々と考えていられるくらい波風の立たない生活が続いているのである。最初に書いたとおり、ヴェネツィアの運河の波はもう足元へ迫りつつあるのだけれども。

ならず者への対処法について

948年1月31日、ナレンターニといわれる海賊がヴェネツィアを襲撃した。この1月31日というのはヴェネツィアの守護聖人であるサン・マルコの聖遺物がヴェネツィアにもたらされた日(828年のこと)なので、当然のごとく祭日となっている。そしてこの日、サン・ピエトロ・ディ・カステッロ大聖堂(カステッロのサン・ピエトロ大聖堂、ヴェネツィアの一番アドリア海に近いところにある)では祝賀のために多くの結婚式が執り行われようとしていたそうな。嫁入り道具というものには貴重品が多いので、賊にとっては格好の獲物でもある。ナレンターニたちは奇襲をかけ、数々の宝飾品とともにあろうことか花嫁たちもさらっていったという。

しかしヴェネツィアというのは一瞬たりともひるまない。だいたい彼らは基本的に“海の男”なので気性が荒いのだ。儀式に参列していたドージェ(ヴェネツィア総督)、カンディアーノⅢ世は即座に追撃隊を編成するように命を下し、ヴェネツィアの男たちはあっという間にナレンターニに追いついた。そして短い戦闘の末に海賊たちを打ち破るのだが、しかしながら彼らが捕虜とした海賊は一人もいなかったという。至極単純な話で、その場で全員殺した、ということだ。そして哀れなナレンターニの遺体は人間扱いをしてもらえず、すべて海に投げ捨てられたのだとか。ヴェネツィアの男たちも相当怒っていたのだと思われる。

そもそも海の上でヴェネツィアと喧嘩して勝てるわけがないのだ。

そしてこのとき特に活躍したらしいのが、サンタ・マリア・フォルモーザ教会に信徒会の拠点を持つ箱作りの職人たちで、褒美を与えようといったドージェと彼らの間にここで不可解なやりとりがある。だがイタリア人のジョークというのは前にも書いたとおり、どこで笑っていいのかよく分からないものだし、本筋に関係ないので省略。

何か大きな事件があったら必ずお祭りにするのがこちらの習わしであった。実際には順序が逆という可能性もあるが、後述するようにそこはあまり考えてはいけない。ともあれ、無事に花嫁たちが戻ってきたのを祝って毎年2月2日に行われるようになったその祭りの名を"festa delle Marie"という。正式にどう訳されているのかは知らないが、MarieというのはMariaの複数形で、帰ってきた花嫁たちのことを示しているのだろうから、「マリアたちの祭り」としておく。

最初は例の花嫁たちを模して毎年十二人の「マリア」を選んで結婚式を行い、お祝いということで彼女らには豪華な服やら宝石やら持参金やらが与えられたそうだが、こういうのは当然、選ばれた人と選ばれなかった人との間でトラブルになる。仕方がないので、このマリアたちは木で作られた巨大な人形で代用されるようになった。

ときに、イタリア語には拡大辞というものがあって、語尾に-oneや-ona(女性形)を付けると、元の単語のより大きなものを示すことができる。よってこの十二体の巨大な人形はMaria+onaで"Mariona"それを複数形にして"Marione"マリオーネと呼ばれていた。男性形単数と同じ形になるのが紛らわしいようだが、実際のイタリア語の文章の中では性と数に合わせた冠詞が付くのでそれほどでもない。

拡大辞というものがあればやはり縮小辞というものもあって、これは語尾に-ino(女性形-ina)、-ello(-ella)、-etto(-etta)を付ける。ジュリアという名前に付ければジュリエッタ、という具合である。このお祭りの際には露店でマリオーネの小さな複製を売っていたそうで、するとその人形の名前はMariona+ettaで"Marionetta"マリオネッタ、となる。なんだか聞いたことがある言葉になった。家主の本にはこれ以上コメントがないのだが、「人形」という意味の「マリオネット」という言葉はこれが起源だとでもいいたいのだろうか。確かに一つの単語に拡大辞と縮小辞が共に付いているというのは言われてみれば不思議なことであって、そういう起源があったといわれると納得させられそうになる。

しかし「ああそこのイタリア人今うまいこと言うたな」というときには注意した方がいい。歴史的に正しいとか正しくないとか、そんな段階の話ではない。初めて家主の本について書いた折に示したとおり、「歴史」と「物語」はイタリア語では共に"storia"で最初から区別がないのだ。それらはすべてレトリックを駆使して創り出すべきものであって、彼らの話をうっかり信じると自分が恥をかくことになる。

それはともかく、マリアたちが巨大な木像に置き換えられる前の「マリアたちの祭り」では、十二人の花嫁たちは船で教会に連れてこられるのが常であったという。その船がいつの間にか競争を始めるようになり、一番に着いた者は表彰されるようになっていった。これがヴェネツィアのレガータ(レガッタ、ボートの競技会)の起源なのだとも言われている。

以上の話は14世紀の末頃にラテン語で書かれたとある短詩が根拠になっているということで、公的な史料がきちんと残っているもののなかで一番古いのはまた別の話なのだそうだが、こっちはどうも味気ない話であるし面倒なのでこれも省略。ちなみにこの「マリアたちの祭り」は1380年に廃止され、その後は長らく絶えていた。ここ数十年、観光都市として生きていくために目玉になるようなイベントを歴史の中から掘り起こそう、という動きに伴ってこの祭りも復興されたのだが、しかし時期的にはかの有名なカルネヴァーレ(カーニバル)と被るということで、1999年からはその最初のイベントとして行われるようになっているとのことである。

さて、あきれたことにここまではすべて前置きなのだが、9月の最初の日曜日、ヴェネツィアではRegata Storica(歴史的レガッタ)というイベントがあった。このレガッタには幾つもの部門があるのでそれによって多少折り返す場所が変わるのだが、基本的にはジャルディーニの辺りからスタートし、カナル・グランデへ入っていったん駅前まで行ってから折り返して、カ・フォスカリ前がゴールとなっている。このCa'というのはcasa「家、邸宅」の略であり、そしてこれは前にも説明したような気がするが、フォスカリというのはドージェも輩出したヴェネツィアの名門である。

このフォスカリ家の豪華な邸宅は今はヴェネツィア大学の本部となっている。それはつまり私が客員研究員として軒先を借りている大学の本部であるということで、今回、特等席であるカ・フォスカリへ招待されてレガッタを見物するという幸運に恵まれた。役得である。

普段は学長の船が泊められているカ・フォスカリの運河側に浮桟橋の特設会場が設けられ、ここにはどうも金を払った客か主催者の招待した客しか入れないようになっている様子である。私が向かったのはしかしこちらではなく、大学の関係者はカ・フォスカリの上層階のバルコニーから見物するというふうになっていた。ただこれでは多少距離が遠くなるうえ、足元の辺りにあるゴールは特設会場の屋根が邪魔になって見づらいので、はっきりいって特等席というほどのものではなかった。と最初は思った。

しばらくはバルコニーに張り付いていたのだが、飲み物を用意してあるとの案内があったのでそちらへ行ってみる。すると、vetro di Murano(いわゆるヴェネツィアングラス)のシャンデリアが幾つも下がっているカ・フォスカリの壮麗なホールでは潤沢に用意されたプロセッコや多種多様なチッケッティが振る舞われており、眺めが遠いのはもうどうでもよくなった。そして、ホールに設けられたモニターでレガッタの進行状況をチェックし、ゴールが近くなったときだけバルコニーへ出るというのが正しい楽しみ方なのだということを学ぶ。下の特設会場で観客席に縛り付けられている人々が哀れに思えてくるぐらい貴族的であった。

レガッタそのものも面白かった。普段のヴェネツィアでは見られない、競技用のpupparini、mascarete、caorline、gondolini(すべて複数形で表記)等の各種の舟は形状にも漕ぎ方にもそれぞれ特徴があったし、女性の部門のレースではなぜか多くの人が一様に白のワンピースを着ていたのも訳が分からないなりにぴったりはまっていた。何かモデルになっている説話だか映画だかがあったりするのだろうか。

普段ヴェネツィアで観光客から金をふんだくっているゴンドリエレ、つまりゴンドラの漕ぎ手は男ばかりであるし(女性も居ないことはないという話だが実際には見たことがない)、なかなか女性が舟を漕ぐというのも珍しいことなのだろうな、と思ったら実はそうでもない。

家主の本に拠れば、実は昔から野菜などの荷物を運ぶために女性も舟を漕いでいたのだという。舟を使わなければどこにも行けない土地であったのだから考えてみれば当然のことで、農家の嫁がマニュアルの軽トラを運転できないではやっていけないのと同じことである。女性のレガッタの記録は1481年にまでさかのぼることができるとのこと。

特にこの日、私より少し年上かな、というくらいの普段着っぽい格好の女性が二人で漕ぐ舟があって、レースをしているタイミングではないところであちらへこちらへと行き来していたのが目に付いた。これがまた、ヴェネツィアの肝っ玉母さんの生活の歴史が自ずと二重写しになってくるような、堂に入った漕ぎっぷりであったのだ。この舟が一番印象に残ったと言ってもよいかもしれない。

それはそれとして、見物の前から目当てにしていた舟もあった。レガッタの前のcorteo acqueo(水上行列)で見られる"bissona"(複数形bissone)という祭礼用の大型の船である。だいぶ前に一度書いたが、ヴェネト語で「蛇」を意味する"bissa"ビッサ(標準イタリア語ではbisciaビッシャ)という単語に例の拡大辞が付いた形で、その「大蛇」という名が示すとおりに細長く、舳先に貴賓席があってやたらと装飾が施されている。

ヴェネツィアの男たちにはやんちゃな人が多いわけだから、昔からこういうイベントには揉め事が付き物であったらしいのだけれども、家主によると、このビッソーネが弓を装備してレガッタの最初に行われる水上行列の先頭をゆき、騒ぎを起こす者たちへ容赦なくテラコッタの弾を撃ち込んで回ったという。この弾はラグーナでオオバンなどの水鳥を狩るときに使われたものだそうで、まず間違いなく殺傷能力がある。何にしてもやることが荒っぽい人たちである。

パドヴァ大学について

こちらに来てから変わったことがもう一つあって、どうも私は少し感傷的になったような気がする。何度も書いたとおり、ここのところずっと読んでいる家主の本にはこの街に伝えられる民話が集録されているのだけれども、ボッコロの由来についての話など、美しい貴族の娘と吟遊詩人、そして娘の父親である厳格なヴェネツィア貴族、と登場人物が揃ったところで、もうその先どうなるかがすべて見通せるような、いかにも単純なお話である。どう考えたって作り話なのだが、そんな約束どおりの話でも結末のところまで読み進めていくと、何となく胸に迫ってくるものがあった。

ピピンの侵攻を撃退した809年の非常に有名な戦いの場面についてもまた、何もかもすでに日本で読んで知っているのだが、それでも、ラグーナのことを知らないフランク族の大きな船が次々に浅瀬で座礁し、そこへヴェネツィア人たちが襲いかかってきて一方的に――家主の言葉によると「虐殺」レベルで――やっつけられるところでは、やはり胸がすくような感覚があった。ちなみにここにピピンを欺いて陥れる老婆についての話があって、これがまた型どおりでありながら面白いのだが、これは聞いたことがあったようななかったような。

これらの感傷について芹男氏ならばすべてこの街のせいにするのであろう、確かに現場にいるというのは大きいのだけれども、しかし私の場合、ただ物語に飢えているというだけのことではないかとも思う。

日本にいた頃も毎日のように何かしら読んでいたわけだが、消費のスピードが速いせいで知らぬ間に感覚が鈍麻していたのではないだろうか。こちらでは読むものが限られてくるし、何を読むにも日本語の倍以上に時間がかかる。また、右も左も分からない環境と限られた期間のなかで何かしらの研究成果をあげなければいけないということもあり、普段は味気ない論文をちまちま読んでいる時間の方が多い。物語を読むというのは今の私にとって非常に贅沢なことなのである。

それでも一応研究者くずれであるからして、自分の研究がいくらか形を成してくればそれはそれで面白い。先日はそのためにパドヴァへ赴いた。

気に掛かっていた論文がパドヴァ大学の図書館に行かないと見られないということで、この街へ来るのももうこれで三度目である。初めて来たときに大学の場所は教えてもらっていたので迷うことなく近辺まではたどり着いたのだが、図書館の入口が分からない。

イタリアに「キャンパス」という概念はない、と最初のときに案内して下さった先生が仰っていたのだが、こちらの大学の施設というのはおおむね街中のあちこちに点在している。街自体が何百年もの歴史のなかですでに動かしがたくできあがっているところへ新たに大学を作ったから、ということになるのか。パドヴァ大学は世界で二番目に古い大学(ちなみに一番はボローニャ大学)なのであるが、それでも街の歴史の方が遙かに勝っているのだ。

したがって、知らなければどれが大学の建物なのか区別が付かない。巨大な門があるのでとりあえずそこをくぐると道の左側にはそれらしい建物が連なっているのではあるが、反対側は見るからに普通の住居である。しばらくうろうろしてから一番大きいと見られた建物に入り、受付があったので図書館の場所を尋ねると、同じ建物の三階にあるという。

ここからは早かった。図書館の受付で、カ・フォスカリの研究員なのですが入れますか、と聞いたら、もちろんと歓迎されたうえ、本を見つけ出して論文をコピーするところまで全部向こうでやってくれたのである。書架の間を彷徨することを覚悟、というか楽しみにしていたのに、十分もかからずに用事が終わってしまった。コピーの代金も必要ないという。

日本でもそうだが、図書館というものは利用する際に茶代すら払うことがないので、司書の方々にいろいろとやってもらうのはなんだか気が引けるものである。それでもやむを得ずに何かしら頼むとみんな常に嬉々として応対してくれるような気がするのだが、向こうとしては自分の知識を生かす機会を狙っているものなのだろうか。イタリアでは金を払っても突っ慳貪な対応をされることも多いだけに、こうも親切にされると恐縮してしまう。

用が済んだのに図書館に留まるのもどうかと思ったので、内部を見て回るのはまたの機会にして街を散歩する。スクロヴェーニ礼拝堂のところの公園でのんびりしている人が居たので、私もそれに混じって木陰で論文を読みながらしばらく時間をつぶし、またたいして用事もないのに聖アントニオ聖堂へも行ってみた。三時前だったのだが、やはりお勤めの時間でなければチェックはそう厳しくない。係員はずっとスマホを見ていてこちらを一瞥しただけだったし、それどころか帰りに見たときには席を外していた。

例の売店の方へも回って何か土産になりそうなものはないかと物色するが、どうも異教徒へのお土産として面白いものはなさそうである。パドヴァへは神戸から大阪へ行くくらいの手間であるから、リクエストがあれば何か買って帰るので個別にご注文を。

その後はパドヴァ大学の象徴ともいえる建物、Palazzo Bo(ボー宮殿とでもいうのか)へ。図書館や講義棟などの集中するメインの区画からはちょっと離れているが、逆に街の中心部には近い。主に卒業式などで使われる施設だそうで、内部をきっちり見て回るには予約が必要である。そしてまたここにはHerena Lucretia(イタリア語はhを発音しないので、エレーナ・ルクレティア)という女性の像がある。世界で二番目に古いこのパドヴァ大学で、世界で初めて大学を卒業した女性だそうな。

ここにも売店があってエレーナのグッズなんかも売っているのだが、たとえば、彼女を見習って頑張ってお勉強しましょうね、というお土産をあげて素直に喜ぶ子供というのはそうそういるものではない。とはいえ一人だけ心当たりがあるので、ここではいくつか土産になりそうなものを見繕って購入しておいた。

その後はこれまたお馴染みのパッラーディオの建築で、ヴィチェンツァのBasilica Palladiana(パッラーディオの公会堂)と同じように船底をひっくり返したような屋根を持つPalazzo della Ragione(ラジョーネ館)、そしてカフェ・ペドロッキの写真を撮ったりしながら街をうろうろする。ペドロッキはスタンダールが絶賛したとか二階が何やら美術館だか博物館だかになっているとかいう話をこちらの方から伺っていたが、何にしても高そうなので店内には入らず。この日は観光で来ていたわけではないし、いつでも来られる距離なのでその辺はがっつく必要もない。

そんな感じで、特に何か面白いことが起きるということもなく、ただ散歩して帰ってきただけの一日だった。ヴェネツィアと違って街が広いせいなのか、人との距離があるし、毎日ヴェネツィアの街を見ているせいでヨーロッパの街並みに対するエクゾティシズムもすでに摩滅しているから、気分は大阪を歩いているのと大差がない。最初に来たときにラジョーネ館にある市場の肉屋に目を付けていたのだが、この日は時間帯が悪かったのか、それともそもそも市場の開かない日だったのか、入口からして閉まっていたので、買い物も碌に出来ずにしまった。

とはいえ、この日手に入れた資料は重要なものだった。研究の話を書いても誰も興味がないだろうから詳しいことは省くが、そっちはほぼ方が付いたという形勢である。パドヴァ大学の司書の方々には深く感謝せねばなるまい。ここで書いたって届きゃしないが。

七つの海について

こちらに来てからかなり痩せた。すっかりベルトが緩くなってしまっていたのだが、だからといってベルトの奥の穴を使えばいいというものではない。ベルトには大抵五つの穴が空けられているものだが、これは真ん中の穴を使ったときに余りの部分がちょうどよく収まり、美しく見えるようにデザインされている。だいたいベルトの調整が必要になるまでにはある程度の期間があるもので、その間に革に癖がついてしまっているということもあり、ここは面倒であってもきちんと革を切って調整しなければならない。

今私が使っているベルトはバックルと革の接続部分に穴を開けなければならないタイプなので、仕方なくRATTIへ行って革用のパンチを買ってきた。この店、当初は雑貨屋と書いたが、品揃えに見慣れてくると、どうも日本のホームセンターに近いもののようである。

収まりがいいように調整してみると、ちょうどベルトの穴二つ分、測ってみると5cmほど腰回りが細くなっていた。食生活の変化というのは当然あるものの、毎日三食、規則正しく満足するまで食べている。ここへ来る前はヴェネツィアは物価が高いと脅されていたのだが、それは外食をした場合に限ってのことであって、何度か紹介したとおり、生活に必要なものは近頃の円安を差し引いてもまだ日本より安い。パルマやサン・ダニエレの生ハムに各種のチーズ、地中海性気候に育まれた野菜や果物、そして何よりアドリア海の海産物を目一杯使った食生活(近くのスーパーで買い物をしていれば自然にそうなる)でも、自炊していれば一日€10もかからない。ワイン代は別途であるが、ボトル一本€10強のワインを週に二本空けたところで一日€3程度であるので何の遠慮もいらない。煙草が割高なのは生活のために(健康のためにではなく)ちょっと考えたいところではあるが。

きっちり食べているのに何故痩せるかというと、それは当然、この街で生きるにはひたすら歩くほかないからである。私は万歩計などというものを持ち歩くほど健康に関心はないし、スマートフォンの同機能も鬱陶しいので切っているが、用事があってちょっと遠出をしたときなど、同行している人に聞いてみたら三万歩を越えていたという日もある。

最近特に歩いた用事はというと、ビエンナーレを見てきたことであろうか。5月からずっとやっているのは知っていたものの、何となく気が乗らずに放っておいた。しかしせっかく二年に一回の機会にこの地にいるのだし、ここはマ氏から宿題として出されている見学場所の一つでもある。あと数日で終わるということもあって、涼しくなったのを機に出かけることにした。

ヴァポレットでジャルディーニの会場へ行くと、結構人が並んでいる。おそらくこれでも少なくなった方なのだろう、大人しく列に並んで順番を待つ。ジャルディーニとアルセナーレの両方に入れる当日分のチケットを購入、係の女性(当然のように美人)が最後に「じゃあ楽しんできてね」とウィンクしながら首を傾げてみせた仕草が余りにも決まっていて、何をするにしても芝居がかった国だな、と苦笑しながら会場内へ。

しかしよくもまあ世界中からこれだけの量の展示物を集めたものである。二日間分の入場券というのが存在するのももっともなことであるが、しかし結論から言うと、二日もかけて観るほどのものでもない。

現代芸術というのは私の肌に合わんのかな、と思いながらも片っ端から見て回る。Gran Bretagna(グレートブリテン)のものなどは、そうそう、現代芸術ってこういうのよくあるわな、と思うようなものだった(「biennale Gran Bretagna(Great Britainの方がいいか)」で画像検索、黄色い風船みたいな素材のものと一連の下半身だけの石膏像)。私などはこういうものを観ても今さら何とも思わず、何故ここに刺さっている煙草はキャメルなのだろう、そこには何か意味があるのだろうか、などとぼんやり考えながら観ていたが、やはりこれはちょっと子供に見せられるようなものではない(したがってよい子は検索してはいけない)。だいたい入口に展示してあるものを一目見ればその先に何があるか分かりそうなものだが、芸術に対し深い理解を持つ御両親に連れられて館内へ入ってきてしまった女の子が今にも泣き出しそうな顔をしていたのには、申し訳ないが笑ってしまった。トラウマにならなければいいが。

イタリアに限ったことではなかろうが、彼らは常に当時最先端の芸術家や建築家に仕事を任せることで今の街並みを作り上げてきたわけだから、やっていることは今も昔も変わらないはずだし、その歴史を自覚しているからこそ、この街はこうやってビエンナーレを続けているのではないかとも思う。だがそれにしても、一体何が違うというのだろう。芸術とは何か、というのは創っている方にはまた言い分があるのだろうけれども、私の好みからいうと、どうも発想の奇抜さやメッセージ性に頼る割合の多いものは観ても面白くないようである。

手仕事の重み、というのだろうか。例えば、片手で持てるような大きさの煉瓦を幾つも積み上げて作った巨大な教会や、その中の壁一面の絵画を見れば、そこに携わった幾人もの人の祈りの重さを感じ取ることができる。しかし、廃材を集めて並べたものを見せられても、(イスラエルの展示だっただけに)言いたいことは分からんでもないが……以上に言葉が出てこない。

その点で、祖国だから贔屓目に見ているということもあろうが、日本の展示(Chiharu Shiota, The Key in the Hand, 2015)は興味深いものだった。多くの人から集められた今は使われていない無数の鍵を、二艘の木の船を結節点として建物内に張り巡らせた赤い糸で吊り下げてあるというものだが、それぞれの歴史を背負って古びた鍵と、糸を張って一つ一つそれを吊していく作業の中には、イタリアが最も大事にしている「人間そのもの」の姿があったように思う。私が館内へ入る際に入口ですれ違ったおっちゃんも、ため息をつくように「Bello…」と呟いていた。先日の聖アントニオ聖堂のところでも書いたように、私自身はすでに「祈る力」を持たないのだけれども、それはその力の強さと危うさを充分に知っているからであって……などと訳の分からないことを書き出すとまた芹男氏に馬鹿にされそうなのでここで留める。それもまた我々の様式美というものではあるが。

その足でアルセナーレの会場の方へも回ったが、そんなこんなで特筆すべきものはない。船のドックに巨大な鳥のオブジェが吊り下げられていたもの(Xu Bing, Phoenix, 2010、北京とニューヨークを行き来しながら活動している中国人だそうである)くらいか。でもこれは半分以上が展示場所の持つ力だろう。帰ってきてからスマホを確認すると、九割方がアルセナーレの施設そのものの写真だった。

さすがにしんどかったので帰りもヴァポレットを使う。するとカナル・グランデへ入った辺りで、例の赤と白(紅白というのとはちょっとちがう、また、何かランク付けがあるのだろうが黒と白の人もいる)の横縞のシャツではなく、グレーのTシャツというか、要は普段着で客を乗せずにゴンドラを漕いでいる若者を見かけた。見習いなのであろうか。どうやらラグーナにも順調に後継者が育っているようである。

例の家主の本によると、八世紀前半にはすでにヴェネツィアの人々は“七つの海を知る男たち”という評判を得ていたようである。しかし大航海時代もまだ遙か先のこと、この“七つの海”は現在のそれとはまったく違うものであった。

そして家主が言うには、この“七つの海”はなんとプリニウスに拠った言葉らしい。プリニウスについて調べるという名目でこの地へ派遣されてきた私としては、こう聞いて調べないわけにはいかない。というわけで『博物誌』第3巻第120節より引用する。

“(パドゥス川の)その次の河口はカプラシア河口、それからサギス河口、そしてウォラネ河口、これは以前オラネ河口と呼ばれていた。これらすべてがフラウィア運河をつくっている。この運河は最初トスカナ人によってサギス河口から作られ、かくして川の流れを、七つの海といわれるアトゥリアニ族の沼に注ぎ込み、そこにはトスカナ人の町アトリアの有名な港があって、それが以前、現在アドリア海と呼ばれている海にアトリアという名を与えたのである。”
(『プリニウスの博物誌 第Ⅰ巻』中野定雄・中野里美・中野美代訳、雄山閣、1986年)

パドゥス川というのは現在のポー川である。アトリアがアドリアになるのだからアトゥリアニ族というのは現在のアドリア近辺に住んでいた人々のことなのだろう。ポー川の支流の河口というのは無数にあるし、イタリアの詳しい地図も手元になく(近々探しに行かねばなるまい)、またアパルタメントに居ては最終手段のトレッカーニも碌に使えないので、今のところそれぞれの地名について詳しいことは分からないが、それはそれとして、少なくともプリニウスの時代であった二千年ほど前からヴェネツィアの男たちがアドリア海をうろちょろし始めたこの頃まで、彼らにとって“七つの海”というのはヴェネツィアのラグーナからアドリア海西岸を南に下ってコマッキオまでの間、今ではDelta del Poデルタ・デル・ポーと言われている辺りに連なる沼や湾を指す言葉であったらしい。海という言葉の概念が多少違うような気もするが、ヨーロッパでの用例としては最古の部類に入るだろう。GoogleMapでこの辺りを広く表示して遠目に眺めてもらうと、なんとなく七つの水域が数えられるかと思う。後々ヴェネツィアは“アドリア海の女王”と称されるほどの権勢を誇るようになり、それとともに“七つの海”という言葉が示す範囲も広がって今に至る、ということになるのだろうが、最初はえらくこぢんまりとしていたものである。

郷里の食について

こちらに来てから初めて米を炊いた。

別に今さら里心がついたわけではない。どこへ行っても出されたもので満足する質であるし、父親が長野県出身で母親が埼玉県出身、自身の生まれは神奈川県で一番長く暮らしたのは兵庫県、という人生なので県単位のナショナリズムというものも持ち合わせておらず、これがなければ生きていけないという食材もない。

だからたとえば日本酒が好きだからといってわざわざイタリアで探して呑もうという気にはならない。ワインしかなければそれだけを呑んでいて事足りる。ここから北西方向のとある島国では違うらしいと聞くけれども、おおむねその土地にあるものが一番美味いに決まっているのだ。ワインなどはローマからヴェネツィアに運んだだけでも味が落ちる、とこちらの先生は仰っていた。

イタリアでは肉も魚も果物も本当に美味い。ちなみにヴェネト州特産のものもあると言えばあるのだが、野菜に関してはあまり見るべきものはなく、これはやはり南部の方がよいらしい。

で、何もかもが安い。旬に合わせて綺麗に品物が入れ替わるので、これもそろそろ終わりだろうと思うが、スーパーへ行けばブドウやら桃やら杏子やらが1kgで€3程度である。ブドウなんぞは€2を切っていることもある。リアルト市場では品が良い分ほんのちょっと高くなるが、それであっても日本では考えられない安さではないか。杏子なんてものはこれまで意識して食べたことがなかったが、こんなに美味しいものだとは思わなかった。

どこのリストランテでもドルチェにmacedonia(フルーツポンチ)を出し、ただ果物を切って盛りつけただけのそれがすぐに売り切れるという話も納得できるというものだ。ただし私はザバイオーネを使ったものの方がお気に入りである。ちなみにこのマチェドーニアという呼称、古来よりマケドニアが交通の要衝であって複雑な歴史を持つため、その民族構成が雑多であることに由来しているそうな。

イタリアの気候風土とそれが生み出す作物とは、プリニウスがそれを褒め称えた二千年前から変わることなく素晴らしいもので在り続けている。経済的、社会的にはいくつか問題を抱えているとはいえ、それは所詮私のような余所者に関係のあることではない。一年暮らす程度の関わりであればここは天国である。遠く故国を離れて留学しているとはいえ、このイタリアの地で夏目漱石を気取るような真似はどうやったって無理である。

ではなぜ米を炊いたのかというと、先日こちらへご旅行にいらした先輩から、のどぐろの茶漬け、ふくふりかけ、そしてふくのお吸い物を手土産に戴いたからである。「ふぐ」ではなくて「ふく」なのは山口県での慣用だったか。パスタに絡めるといういう使い方もあるかもしれないと今思いついたが、数に限りがあるのでわざわざ冒険することもあるまい。

何度か書いたとおりイタリアでもsushiが知られているわけだから、探せば炊飯器も売っているかもしれないが、これだってそこまですることもないだろう。鍋で米を炊く要領については大阪ガスのウェブサイトにご教示いただき、caraffa(計量カップ)だけは必要だったので買ってきた。味気ないような気もするが、インターネットというのは本当に便利なものである。何で読んだのだったか、昔は留学先から母親に国際電話をかけて米の炊き方を聞いたとかいう話があったような。

米はこちらでも売っている。ヴェネト州は電車に乗って見ていると沿線にずっとトウモロコシ畑が続くのだが(なのでポレンタが有名)、イタリア北部のポー川流域では稲作が盛んなので、イタリアはヨーロッパの中ではかなり米を食べる国なのだそうな。ただし主食としては食べない。アランチーノ(小さなオレンジの意)という丸いライスコロッケや米を使ったサラダなどがよく見られるのだが、同じ炭水化物でいうと、日本におけるジャガイモのような扱いなのだろうか。

まあしかし、日本人に最も馴染みのあるイタリアの米料理といえば何より各種のリゾットだろう。そしてこのrisottoというのは元の単語に縮小辞がついた形であって、それを外してriso(リーゾ)というのがイタリア語で米を意味する単語である。すると、ああそうかrice(ライス)か、ということになる。

外国で米というと多くの方は細長いインディカ米を想像されるかもしれないが、イタリアの米の多くはいくらか品種が違うとはいえ、基本的にはジャポニカ米の系統であって、形も日本でみるものと同じである。スーパーでざっと見たところ、arborio、carnaroli、roma、ribe、vialone nanoと種類があった。手元のイタリア料理の本(日本語)によると、イタリアの米は銘柄ではなく粒の大きさの順に、
スペルフィーノ(カルナローリ)
フィーノ
セミフィーノ(ナーノ)
コムーネ
と四段階に分類されるということだからカルナローリとナーノは分かったのだが、それ以外は辞書にも載ってないので何のことやら分からない。

ともあれ、計量も火加減もマニュアル通り、時間通りに蒸らしも終わったときには何となく気が浮き立ってくるのを感じた。リゾットもアランチーノも食べているから米そのものは久しぶりでもなんでもないが、やはり「ご飯」となると嬉しいものである。

それだけに、鍋のフタを開けたときの失望感というのは筆舌に尽くしがたいものがあった。切ないとはこういうことかと。

調理に失敗したわけではない。大阪ガスのサイトには火加減の写真まであって、これに従えばまったく料理の経験がなくても失敗することなどないだろう。先ほど書いたとおり基本的には日本の米と一緒だから、水加減や火加減に特段のアレンジが必要だということもない。

問題はその色である。真っ白なご飯を想像していたらこれが全体的にうっすらと黄色いのだ。精米技術の違いか、それともやはり品種の違いか。研いでいるときからその違いは感じていたし、結果が違うことも予想して然るべきではあったのだが、これはもう、ただ期待に目が眩んでいたとしか言いようがない。

食べてみれば味はちゃんとした「ご飯」だったし、鍋の底にはちょうどいいお焦げもある。茶碗や箸などはあるはずもなく(一応島内でも売ってはいる)、ミネストローネなどに使う少し底の深い皿とスプーンを使ったのだが、多少の趣の違いはそれとして、食べきったときには先ほどの失望も忘れてすっかり満足していた。そしてこの日の教訓から翌日は米を念入りに研いでみたところ、色は少し改善されたようでもある。ただあんまりしつこく研ぐと米が割れそうだし、その辺の加減は今後の研究課題となるか。また、絶望的にワインに合わないというのも解決すべき重要な問題なのだが、これはsecco(辛口)のものを探していくつか試してみる他ないだろう。

この日はとりあえずふりかけを戴いたが、お茶漬けの方はどうするかと考え、そういえば芹男氏からは玉露を戴いていたな、と思い出した。日本茶というのもこちらに来てから見向きもしなかったのでまったく道具が揃っておらず、計量カップを探しに行ったついでにbollitore(ヤカン)、colino(茶こし)、teiera(ティーポット)と購入してあるのだが、しかし玉露で茶漬けというのもどうかと思う。tè verde(緑茶)は安物のティーパックも売っているのでそちらを使うか。

この日偶然買っておいたバッカラがご飯のおかずになったのは発見だった。どこでも見るマンテカートではなく、baccalà conditoというものである。味付けバッカラという程度の意味だが、cucina nostrana、郷土料理と書いてあった。ちなみにcucinaクチーナは「料理(キッチンという意味でも使う)」、nostranoへ派生する前のnostroノストロという単語は「私たちの」という意味で、ここでコーサ・ノストラという言葉を思い出した方もおられようかと思う。

詳しい方のヴェネツィア料理の本を見るとやはり載っていて、玉ねぎ、ニンニクと一緒に煮込んで戻した干鱈をオリーブオイルに漬け、白ワインビネガーで味付けして刻んだパセリを振ったものとあった。この日買ったものには玉ねぎの姿もニンニクの気配もなかったが、スーパーの惣菜コーナー(だいたい肉の売り場と一緒になっていて、当然量り売り)で売られているものは万人向けに調整してあるのだろうか。

魚料理はご飯に合わせやすいか、これならおにぎりの具にしてもよいのではないか、と思い至り、しかしこの程度のことならすでに誰かがやっているのではないかと思って「イタリアン おにぎり」で検索したらレシピが幾つも出てきた。バッカラを使ったものは見受けられなかったが、それにしても、とりあえずバジルかモッツァレッラかトマトを使えばイタリアン、という安易な認識はどうにかならないものか。日本のsushiだって同じ目に遭っているのだから仕方がないともいえるが、ここはイタリアびいきとして苦言を呈しておきたい。

それはそうと、バッカラ・マンテカートの方は日本におけるツナマヨのような手軽さと人気と味だから絶対におにぎりに合うと思うのだが、誰かやってみてもらえないだろうか。

薔薇の蕾について

二日後は別の先輩御一家のご案内。前日到着されていたカンナレージョの投宿先まで伺って合流し、まずはリアルトの市場を散歩。それからメインの通りをずっと下ってS. Margherita広場で一休みする。

こちらの御一行にはお子さんが二人いらっしゃる。ともに何とも利発なうえに人なつっこい御兄弟で、まさか子供に手をつながれてヴェネツィアの街を散歩することになろうとは思わなかった。自分には子供どころか結婚の気配すらないが、子供の相手をしているとなんとなく優しい心持ちになってくるのが不思議である。私も歳を取ったものだ。

御兄弟は時差に加え、慣れない土地での緊張もあるのか、すぐに疲れてしまった様子。兄上のほうはさすがに頑張っていたが、弟さんはこれ以上歩くのも難しい様子だったので、昼食のためにリアルトへ戻るのにはヴァポレットを使うことにした。

ヴァカンツァの時期のヴェネツィアはオフシーズンであって、人はそんなに多くない。ヴァポレットの混み具合にも余裕があったが、船縁は御一家に譲り、私は中央付近に立っていた。隣には二十歳前とも見える若い女性の二人組がいる。そう混んでもいないのに妙にくっついてくるなと思ったら、この二人組がスリだったのである。

イタリアの女性はいわゆるムダ毛の処理をあまりしない。彼女たちの腕が視界の隅に入って、これは野性的であると受け止めればいいのだろうが、日本人にとっては見慣れるまでにちょっと時間がかかるわな、などと暢気に考えていたのがいけなかった。そういう下らないことはきっちり観察しているのに、やたらと距離が近いことについて警戒しなかったのは、久しぶりに知った顔に会ったことで安心していたせいでも、またすでにスプリッツが入っていたせいばかりでもないか。

何しろ一度鞄の金具が外れているのに気づいて中身を確認し、閉じ直しているのである。私が金具を閉め忘れるわけがないし、マグネット式とはいえ、そう簡単に開くものでもない。さらには私の前にいたおばちゃんが、この二人組が不自然に距離を詰めてくるのを邪魔に思って文句を言っていた。それでももう一度狙ってきたこの娘たちも大胆なものだが、この時点で気づかなかったのだから、こちらもなめられても仕方ない。

S. Tomàの降り場で二人組が降りていった後、また金具が開いているのに気づいて中身を確認し、財布を掏られたと気づいた。背を向けられていたので顔はよく覚えていないし、携帯を使うのが難しいこの土地で先輩御一家と離れたら再び合流できるのか、などと一瞬であれこれ考えた後、そんな場合ではないと判断してすぐにヴァポレットを降りて追いかけた。

幸運だったのは、この辺りのヴァポレットの乗降場付近は概ね中心の道に辿り着くまで横道がなく、ずっと一本道になっているということである。イタリアのスリは観光地を転々としながら仕事をすると聞いたことがあるので、おそらく彼女たちはそれほどヴェネツィアの道に通じていなかったのではなかろうか。そうでなければもう少し逃げやすい降り場の直前になってから仕掛けてきていたはずである。もしリアルトの直前でやられていたなら完全にお手上げだった。

先ほども書いたように私は相手の顔を覚えていなかったのだが、この顔で猛然と追いかけてこられたのでさすがに恐怖を感じたのか、向こうから私に声をかけ、「シニョーレ、これが落ちてましたよ」などと適当なことを言って返してくれた。少しでも危ないと感じたら即座に諦めてしらばっくれた方が得策なのだろう。

こういう人たちは安全なところへ着くまでは慌てて仕事の成果を確認したりはしないのだと思われる。中身だけ抜き取られていたということもなく、現金もカードも完全に無事であった。結果的に被害なしで勉強になったのはよかったが、現金だけの被害なら何とかなっても、大学の身分証やカード類を失うと相当なダメージを負っていたところである。可愛い娘たちだと思っていたらとんでもない棘を隠し持っていたものだ。まったく油断ならない。

その後徒歩で(ヴェネツィアは主要な道でも狭いので、人通りが多いところは走ろうにも走れない)リアルトへ向かい、先輩御一家とも無事に再会できた。ロスティッチェリアで軽い昼食をとり、御一家は夕食まで宿でお休みになるということだったので、私はまたヴァポレットを使って駅まで、今度は芹男氏と芒男氏を迎えに行く。大忙しである。

だいたい私たちのような人種は常に知識が先行するもので、芹男氏はあれが見たいこれが見たいというものをすでに幾つもお持ちであった。こちらはただ連れていくだけでいいので案内は楽であったが、ご希望のポルテゴだけは未だに分からずじまいである。何しろ、運河があって橋が架かっていて奥にマリア像がある、などというポルテゴはヴェネツィア中に無数にある。もう少し早く言ってくれればいいものを、いくら何でもこれだけの手がかりでは分かるはずもない。幾つか心当たりのポルテゴにお連れしたがすべて外れであった。涼しくなったらもうちょっと歩き回って探してみよう。

暑い中をさんざん歩き回った後、マ氏がヴェネツィアで一番美味いと推薦してくれていたS. Lio教会近くのBoutique del Gelatoでジェラートを買う。するとそこの店員が、あなたたちはジャッポネージ(複数形)か、と聞いてきた。肯定したところ、おそらくVi comportate con eleganza.という表現だったと思うのだが、あなたたちは上品だから分かった、というようなことを言われた。私は近づいただけでスリの小娘が大人しく盗品を返すほどの人相であるし(狙われた時点でなめられてはいるのだが)、他の二人もまた芹男氏のブログにあるように、たいがい厳ついオッサンである。三人ともエレガンツァなどという言葉とはほど遠い人間なのだが、褒められて悪い気はしない。しかし、どこと比べてそう言っているのかと考えると単純に喜んでいい話でもないような気がする。

それともあれか、これもやはり「ゑみや洋服店」で作ったシャツのせいかもしれない。『王様の仕立て屋』というマンガによれば、イタリア人はちょっとした服装の違いに気づいて相手の素性を見抜く、恐るべき人たちだということになっているので。

その後はS. Polo広場から南西へ進んだところの角の文房具屋へ。この店がまた面白かったのだが、その後先輩御一家と合流し、総勢七人となった夕食の様子も含め、ここは芹男氏のブログにお任せしよう。

さて、皆さんがヴェネツィアを発った後でまた家主の本を読んでいたところ、ヴェネツィアにはbòcoloといって、毎年4月25日になると付き合っている女性に蕾のままの赤いバラを贈る習慣があるという話が出てきた。その起源にはモロシーナというヴェネツィア貴族の娘とロドルフォという吟遊詩人との間に繰り広げられた悲しい恋の物語があるのだが、定型通りのお話だし、あまりあちこち訳してこういうところへ載せると家主に怒られそうなので省略。

で、この習慣がどれほど有名なものなのかとネットで検索してみたところ、日本でも特に『ARIA』というマンガで紹介されて知られているようである。そこではボッコロというふうに表記されているようだが、ヴェネト語の発音規則上これは少々気になる。家主の解説によると標準イタリア語ではbocciolo(ボッチョーロ、蕾の意)に相当する言葉であるのだが、ことごとく促音が抜けるというヴェネト語の特徴とアクセントの位置に鑑みて、どう捻ってもbòcoloは「ボーコロ」である。まあ、細かいことは気にしないのがイタリアに関わる者のマナーか。ヴェネト語はヴェネト語として、現代イタリア語に慣れた若者にとっては逆に発音しづらいだろうし、実際のところはボッコロという発音で通っているのかもしれない。

それはともかく、ARIAのファンサイトを見ていると、この街には「不幸の石」なるものがあるとのこと。これは初耳であるが、先日不幸な目に遭ったばかりでこういう情報に触れるのも何かの縁だと思い、場所も紹介されていたので早速見に行ってみた。

思い立ってアパルタメントを出てから十分で着く。リアルトからはすぐそこである。S. Canciano教会のすぐ近くで、サイトで紹介されていたとおり、傍の壁には警告のためと思しきSTOPの落書きがあり、見ていると地元の人らしきおばちゃんが当たり前のようにこれを避けながら通り抜けていた。ヴェネツィアは基本的に右側通行なのであるが、買い物カートを引きずりながらそれまで右の壁に沿って歩いていたそのおばちゃんは、すれ違う人もないのに石の直前で急に左側へ回り込んだのだ。これは明らかに「不幸の石」を意識した動きである。

ここは何度か通った覚えがあり、これまで知らずに踏んでいた可能性が非常に高い。信心がないので別に踏んだって構わないのだが、それより気になったのは、通りの向こうの建物の二階からじっとこちらを見つめているオッサンの存在である。もしかするとこのオッサンは、観光客が知らずに「不幸の石」を踏んで歩くのを見ながら暗い楽しみに浸っているのではないかと想像してみた。「不幸の石」そのものよりこのオッサンの方が余程怖い。

このまま家主の本を読み進めれば、どこかでこの「不幸の石」に関する伝説も出てくるのであろうか。ちょっと楽しみである。

隣り合わせの聖と俗について

ここ二日ほど夜になる度に雷雨があり、ヴェネツィアの街はすっかり涼しくなった。この先数日間はまだ天気が優れないとの予報なのだが、さて、これが一通り過ぎたら秋の気配が感じられるようになるのであろうか。何ともタイミングの悪いことである。

というのも、先週は先輩方が二組、盆休みを利用してイタリア旅行にいらしていたからである。イタリアでも8月15日の聖母被昇天祭を中心に一週間強のヴァカンツァとなって大学にも図書館にも入れなくなっており、この週はガイド役に専念することとなった。

まず最初の一行、先輩とその御同僚の二人を迎えにマルコ・ポーロ空港へ行く。この書き方では味気ないので、以下先輩のブログに倣って芹男氏と芒男氏としよう。そしてそのブログにおいて私は空男であり、ちなみにいうと、このブログのタイトルはこの渾名にちなんで芹男氏に付けて戴いたものなのであった。さらにいうと、この空男という名は以前書いたように私の本来の姓がとある天空神と似通っていることに由来している。

で、合流後はどういう訳かヴェネツィアを横目にバスと電車でパドヴァへ移動。このお二人はこの翌日ミラノまで行き、さらにその翌日にヴェネツィアへ戻ってくるという旅程である。よってこの日はCappella degli Scrovegni(スクロヴェーニ礼拝堂)やBasilica di Sant'Antonio(聖アントニオ聖堂)へ御案内。実は縁あって少し前にヴィチェンツァとパドヴァには遠足に行っており、私は二回目となるので案内はスムーズであった。

詳しいことは芹男氏のブログ

新・鯨飲馬読記

を見ていただいたらよいかと思うが、聖アントニオ聖堂で芒男氏が服装チェックに引っかかって入れなかったことについては一つ書いておきたいと思う。中には軽快な格好をしていてもチェックを素通りしていた人があったので、それを見た芒男氏は人種差別だと憤慨しておられた。ヨーロッパでの生活経験は私なんぞより芒男氏の方が遙かに長いので、その仰るところには間違いがないかとも思うが、ここに関しては一概にそうとも言えないのではなかろうか。

前回来たときは聖アントニオの墓の裏へ回る巡路へ進み、巡礼者が墓に直接手を触れることができるようになっていた。日本風にいうとここはパワースポット(軽い言葉だ)となっており、奇跡を信じて本気で巡礼に来る人が絶えないのである。そして墓の傍にはパネルがあり、ここへ来たことで病気が治ったとかいう人々がお礼参りにやって来て納めたメダルと写真とが所狭しと並べられていた。

ちなみにこのとき私は墓に手を触れていない。キリスト教に限らず、私には信仰心というものが微塵もないのだが、真剣に信じている人を茶化すような真似には意味がないので、軽々しい行いは慎もうと考えてのことである。

さてしかし、二度目のこの日は墓の周辺が封鎖されていて巡礼路に入れなかった。正式には何というのか知らないが、折悪しく夕方のお勤めの時間にさしかかっていたようで、一周して中央部分に戻ってみると、居並んだ人々と墓の間に設けられた壇上に神父が立って何やら説教を始めている。なるほど、この状況で信者たちの視線の先に観光客がうろうろしていたらぶち壊しになるだろう。

スクロヴェーニ礼拝堂へは金を払って入るが、聖アントニオ聖堂は中へ入るのに金を取られることはない。つまりこの聖堂は観光施設ではなく、生きている宗教施設なのである。ならば地元の信者が普段着で入ってくるのは自然なことだともいえる。

逆にしてみれば分かりやすいか。高野山が世界遺産に登録されたことで外国人観光客が増えたのはいいが、彼らは日本人なら自ずと分かるルールが理解出来ず、当初は些少の軋轢があったというニュースを以前見た覚えがある。高野山に来た外国人観光客が一目で分かるのと同様、私たちはこの地では明らかに異物である。それはもうお互い様なので仕方がないのではなかろうか。一応文句を言われない格好をしていた私と芹男氏であっても、もう少し遅くなり、お勤めが佳境に入るタイミングであったら入れてもらえなかったのではないかと思われる。

お勤めの間は物音を立てるのが憚られたので動けず、やっと終わったところで、異教徒(私は無神論者であるから異教徒ですらない)がうろうろして申し訳ありません、と内心謝りながら出口へ向かう。正面にある入口は基本的に一方通行で、出口は別に設けられている。

そちらへ向かうと、巡礼者は必ず売店の中を通ってから外に出るように作られている。そもそも聖アントニオの墓の区画で天井を見上げただけでもあれこれ突っ込みたくなるのだが、聖堂内部の豪奢な造りに打ちのめされた後でこの売店へ誘導されると、先ほど内心で謝ったのが一変、何やら言いたくなるのを抑えるのに苦労するような品揃えである。だがしかし、ここは黙っているのが礼儀というものだろう。

その後はすぐ近くのオルト・ボタニコ(植物園)でゲーテが見たという棕櫚の木を眺め、ヴィチェンツァへ移動。芒男氏の御友人であるイタリア人がこの街に住んでいらして、合わせて四人で夕食となる。前回来たときにも見たBasilica Palladiana(パッラーディオの公会堂)の中の店でしこたまワインを飲み、その後はその屋上のバールへ上がる。こちらへ上がるのは今回が初めてで、これがまた素晴らしい場所だった。

終電でヴェネツィアへ戻る。酒を飲んで終電で帰るなんて真似をイタリアでもすることになろうとは思わなかったが、ヴェネツィアへ戻ってくると何となく安心した。こちらが多少慣れたというのもあるが、千年以上も異邦人が出入りしてきた土地の雰囲気はやはり東洋人にも優しい。せっかくの深夜の散歩であるからあちこちで夜景を写真に収め、カナル・グランデに出たところのお気に入りの場所で一服していると、通りすがりの女性から火を貸してくれと頼まれた。

すでに日付も変わっている時間帯であったが、妙齢の女性が深夜でも一人で出歩き、見知らぬ東洋人に声をかけるのに何の躊躇もいらないのがヴェネツィアという街である。一歩テッラフェルマへ入ってメストレの辺りでは少し怪しくなってくると聞いたが、ヴェネツィアのこの治安の良さは特筆すべきものだろう。が、そうやってすっかり安心していると足下を掬われることになるのであった。それについてはまた次回。