山羊の頭と兎の耳について

次に何を訳そうかと例の民話の本を物色していたところ、塔から人が墜ちていく様子を描いた挿絵が目についた。トルチェッロのアレ(街の原点について - 水都空談)かと思ってその挿絵のある話を読んでみたが、まったくそんな場面は出てこない。イタリア人のすることなので「ああまたか」で済んだけれども、この本の構成はいったいどうなっているのだろう。ともあれせっかく読んだのでここに載せておく。

 

TESTA DA BECO E RECIE DA LIEVRO

昔、一人の母親がありました。その母親には三人の娘があり、彼女たちはこの上なく貧乏な暮らしをしていました。そんなある日のこと、三人娘の一人が言い出します。「ちょっと聞いて! ここで苦しい生活を続けるより、私は外へ出て世界が見たいの、自分で自分の運命をつかみ取ってみたいのよ。」そうして彼女は立ち上がると出て行ってしまいました。

彼女は長い間歩き、とうとうある日、一つのパラッツォを見つけました。彼女はそのパラッツォにガラスがあるのを見て言いました。「上がってみて、ここの主人たちが召使いに雇ってくれるかどうか聞いてみましょう。」彼女は上がり込んで尋ねます。「誰かいませんか?」まったく人影がなく、返事もありません。そこで彼女はキッチンへ行き、銅の鍋に火がかかっているのを見つけました。食器棚を開けるとパン、米などがすべてあって、終いにはワインのボトルまで見つけました。彼女は言います。「つまりここには何でもあるのね。お腹も空いたし、まずはスープでも作ろうかな。」こう言った途端、彼女は二つの手がテーブルの準備をしてくれるのを見ました。そこにリージ[リゾットをスープ寄りに仕上げたヴェネツィア料理]が一皿現れました。彼女は言います。「いただくわ。」彼女はそのリージを食べ始めました。彼女がリージを食べ終えると、二つの手は付け合わせと、さらに若鶏の料理まで持ってきました。彼女は全部平らげます。「ああ、ちょっと疲れた、一息ついたほうが良さそうね。」

例の二つの手が現れていましたが、しかし彼女はまったく見ていませんでした。

十分に飲み食いした後で彼女はパラッツォを見て回り、とても美しい応接室に素晴らしい居間、そして寝室と天蓋付きのベッド、つまりは何もかもがうまい具合に出来上がっているのを見つけました。「何て素晴らしいベッドなの! 早速寝ましょう。」彼女はベッドに横になり、一晩眠りにつきました。朝になって彼女は起き出すと、ベッドの上に座り直して言いました。「ご主人様、どちらにいらっしゃるのですか!」彼女がこう言うとすぐ、例の二つの手がお盆にコーヒーを載せて現れました。彼女はそのコーヒーを飲み、飲み終わると、また二つの手が現れてお盆を持っていきました。そして彼女は服を着ると、パラッツォの中の大きな広間へ行き、たくさんの綺麗な洋服、リボン、スカートなどが入った洋服ダンスがあり、どれも着られそうであるのを見つけます。すぐに彼女は自分の着ていたみすぼらしい服を脱ぎ、女王様のように着飾りました。彼女は元々きれいでしたが、このようにきれいな服を着た今、さらにきれいになりました。

そして彼女は歩廊に出ますと、そのとき一人の王様が通りがかりました。王はこの美しい娘を見て、彼女とお話することはできないかと尋ねます。王は彼女を運命の人だと思ったのでした。彼女は、父も母も居らず、何もお答えできません、またの機会にお返事致します、と答えます。王は丁寧にお辞儀をして馬車で行ってしまいました。

そこで彼女は歩廊の内へ戻り、暖炉のところへ行って言いました。「ご主人様、私はこの誰もいないパラッツォに居場所を見つけ、今、運命の人であろうあの王様に会いました。あの方がお返事を聞きにいらしたときには何と言えばいいのでしょう?」彼女がこう言うと、暖炉の中から声が聞こえました。「祝福よあれ。おまえは美しく、これからもさらに美しくなるであろう!…おまえには病身で弱った祖父がただ一人あり、彼はおまえが結婚すれば喜ぶ、ただ、結婚までにあまり多くの時間がかからなければ…と伝えるのだ。さあ行くがよい。おまえは美しく、これからもさらに美しくなるであろう。」すると彼女はさらに美しくなりました。

その翌日、彼女がバルコニーに出ると、あの王がやってきました。王は彼女を見るとすぐに言いました。「私のことをどうお考えなのかお聞かせください。」彼女は、病身の弱った祖父しかいませんので、彼を家に上げるわけにはいきません、祖父は私の結婚を望んでいますが、あまり時間はありません、とにかく今のところはこうしてバルコニー越しにお話をいたしましょう、と答えます。王は分かったと言いました。

このように愛を語らいながら八日が経ちました。彼女は暖炉のところまで行って言います。「おじい様、お話をするようになってもう八日です。次はなんと言えばいいのでしょう。」祖父は答えます。「彼と結婚するのだ、そしてこの家の中のものをすべて外へ持ち出す作業を始めよ。おまえ自身に何一つ残してはならないぞ…よく覚えておけ、いいか、よくおぼえておけよ! さあ行くがよい。おまえは美しく、これからもさらに美しくなるであろう。」すると彼女はさらに美しくなりました。

そして娘がバルコニーへ出るとすぐに王の姿が見えたので、彼女は、馬車を寄越して、パラッツォの中のものをすべて持ち出せばすぐに結婚できる、と言いました。そこで彼らはその後八日かけてこのパラッツォの中のものを外へ持ち出しました。そんな中、王はその父に言いました。「聞いてください父上、私の婚約者は驚くほど豊かなものをお持ちなのです。他でもない、私たちのような君主でもこれほど上質なものは持っておりません。そして父上、彼女の何と美しいことか。」

彼女の方に戻りましょう。

彼女はパラッツォの中を一掃し、そこが空っぽになると、最後に外へごみを捨てに行きました。彼女は金のロケットを一つ持って出ず、飾り棚の上に置いておきました。「これはここを出るときに持っていきましょう。」そしてバルコニーへ出るとすぐ、かの王が二頭立ての馬車でやってくるのが見えました。彼が着くと、彼女は祖父のところへ行って言います。「おじい様、私は行きます。私の婚約者が私を連れに来たのです。ご心配なさいませんように、このパラッツォから何もかも持ち出して掃除もしておきましたので。」祖父は言いました。「よし、よくやった、ありがとう。おまえは美しく、これからもさらに美しくなるであろう。おまえの行く先には金色の星が輝くであろう。」すると一つの星が真正面に現れ、元々彼女は美しかったのですけれども、さらに美しく見えるようになりました。

彼女は階段を降り、彼女を連れに来た婚約者の元へ行きました。彼はこの美しい娘を見るとすぐに抱きしめて馬車に乗せ、二人は出発します。そして道の半ばまで来たとき、娘は言いました。「ああ、なんてこと、私の金のロケットを忘れてきてしまったわ…まったく…引き返してあれを取りに行かないと。」王は言います。「ああ、戻ることはありません、放っておきなさい。別のものを用意してあげますよ!」彼女は「いいえ、戻らなきゃ、あれを取りに行きたいの。」そこで彼らは馬車の向きを変え、もと来た道を戻りました。彼女は馬車を降り、パラッツォに上がります。王は下で待っていました。彼女は暖炉のところへ行って言いました。「おじい様?」彼は答えます。「何かあったか?」「たいしたことではありません。」と彼女は言いました。「私が金のロケットを忘れていきましたことをご容赦ください。」―「ここから出て行け。」と彼は言いました。「出て行け、山羊の頭に兎耳、おまえには何一つ忘れないよう、何もかも持ち出すように十分言いつけたではないか。出て行ってしまえ、山羊の頭に兎耳!」するとその瞬間、彼女は山羊の頭に兎の耳という姿になってしまいました。彼女は階下へ降り、これ以上ない恐怖を感じながら婚約者の馬車のところまで行きます。この醜い有様を見て彼は言いました。「だから戻るなと言ったではないか。」彼女は答えます。「メェー、メェー…よくわかんない。」王は言います。「どうしたらいいのだ? 父にはおまえがとても美しいと言ったのに…ああ、おまえを家に連れて帰るわけにはいかない。」「メェー、メェー…よくわかんない!」そこで彼は言いました。「この近くに私の小さな家がある、そこにおまえを置いておこう。」

王は毎日この娘のところへ通いました。彼女がまた美しい姿に戻って欲しいと思っていたからです。彼は彼女が必要とする物をすべて持っていきました。

美しくも醜いこの娘はこうしてなんとか生活していましたが、この問題は王の父の耳にも届きました。彼の息子は怪物に恋している、というのです。そこで父王は息子を呼んで言いました。「何を考えているのだ。おまえは別荘に置いておる醜い獣に恋をしているというが? よく考えろ、奴を放り出せ、さもなくば私が奴に死を与えよう!」

そこでこの若者は彼女のところへ行って言いました。「お聞きください、一つ言わねばならないことがあります。私が獣と恋に落ちていると私の父が知るようになり、私があなたを捨てなければあなたに死を与えるというのです。」彼女は言いました。「メェー、メェー…よくわかんない。」若者は言います。「どこへ連れて逃げればいいでしょうか?」彼女は答えました。「このようなあなたのご厚意以外は何も要りませんが、黒いビロードの服と黒いヴェールをくださいませ。祖父のところへ行って、彼のせいで死ぬことになると言ってやります。」彼は「間違いなく持ってこよう」と言いました。

そうしてこの若者は黒いビロードの服と黒いヴェールを手に入れ、かの娘のところへ持っていきました。彼女がそれを身に着けてくまなく全身を隠すと、二人は馬車に乗り込んで祖父のパラッツォへ向かいました。

彼女は家に上がり、暖炉のところまで行って言いました。「おじい様?」「誰だ?」「私です、おじい様。」「何だというのだ、山羊頭、兎耳。」彼女は言います。「おじい様、お聞きください。あなたのせいで私は死を申し渡されました。」「私のせいだと?」と彼は答えます。「…戻ってこないようにすべてのものを外へ持ち出し、何一つ忘れてはならぬと言わなかったか? おまえが金のロケットを忘れていなければ自由にしてやったのに。そうでないから罰を与えたのだ。」娘は言いました。「あのときのような美しさは望みません。でもせめてこのパラッツォに来たときのような、神のお造りになったままの姿に戻りたいのです。おじい様、どうかお慈悲を、元にお戻しください。」「よし」祖父は言いました。「何も忘れてはおらんな?」「はい」娘は答えました。「飾り棚のところに置き忘れました金のロケットも持っておりません。今度は確かです。」祖父は言います。「では行くがよい。おまえは美しく、これからもさらに美しくなるであろう。」すると彼女はとても美しくなり、かつてのような姿に戻りました。

そして彼女は階下へ降り、婚約者の馬車のところへ行きました。彼は彼女が以前のように美しく、いやそれよりもっと美しくなったのを見てすっかり安心し、彼女を抱きしめて言いました。「もう私の父もあなたに死を与えるとは言わないでしょう。もちろん、獣と恋に落ちているなどとも!」

二人が父王のパラッツォに着くと、父が出てきました。若者は父王に言います。「私の愛する醜い獣をお連れしました。」「ああ」父は言いました。「息子よ、おまえが正しかった。彼女はこれまでにないほど美しい。」彼は彼女を抱きしめ、またきつく抱擁し、彼らがすぐに結婚するよう望みました。そしてその娘に、人々が彼女のことを見られるよう、まずはバルコニーに出るようにと望みます。

そのパラッツォのバルコニーの下にはすぐに多くの人々が集まり、その美しい娘を見て彼らは叫びました。「万歳! 我らが新しき女王に万歳!」

数日後、二人の若者は結婚しました。彼らは堆肥に生えたハツカダイコン、ハゲネズミ、毛をむしったネコ、平鍋に入れたナンキンムシの結婚式を行い、彼らはその日は何も食べず、翌日にも残しませんでした。すべて終わって、ローズマリーの小枝が一つ残りました。これでおしまいです。「ワインで乾杯。」


……女の子が何らかの理由で家を飛び出し、然る後にお金持ちっぽい館に不法侵入、無銭飲食という流れは定番と化しているようだ。しかし今回はヒロインが家を出る動機に始まり、あちこちで話の作りがぞんざいなのが残念である。イタリア人の作ったものだから仕方ないが、母親と他の二人の姉妹に一切の台詞が与えられていないのも悲しいし、三姉妹であった必然性も最後まで分からずじまいである。子どもが多くて口減らしの必要性があったというふうにこっちで深読みすることはできるが、それにしてももう少し書き込んでおいて欲しいものである。

「二つの手」というのは原文でdô man、ヴェネツィア語は最後の母音が頻繁に落ちることからこれはdue maniと取るのが原則に適ったやり方である。が、常識が邪魔をして、このmanは英語由来の単語なのではないかとも考えた。この場面でヒロインの娘が即座に目の前の現実を受け入れて食事を始めるのがまったく腑に落ちず、何か読み違えているのではないかとあれこれ考えたのである。だが、たとえ二人の男だったとしても、誰もいなかったところへいきなり現れたものに対してツッコミを入れない理由は無い。後の展開から考え、この程度の不思議はヴェネツィアーニには当たり前なのだということで納得しておく。

彼女が食事を終えて一息ついたところでこの二つの手が再び現れ、彼女に無視されるところも何だかよく分からないのだが、翌朝の目覚めのコーヒーの場面を見るに、この手は一つの動作が終わったら一旦下がり、また次の動作の際に再び現れる仕様になっているものと考えられる。つまり最初の食事の場面においては、この二つの手がディジェスティーヴォでも出してやろうかと考え、さあ出番だと出掛かったところが、彼女が満足してしまったために手持ち無沙汰になってしまったということか。だとするとちょっと可愛いようでもある。

そして中盤から重要なアイテムとなる金のロケットであるが、原文は'na rocheta d'oroとなっており、rochetaで辞書を引くと標準イタリア語のrazzoと出る。これは打ち上げる方のロケットや花火を指す言葉であるが、時代的にも文脈上でも打ち上げロケットというのはあり得ず、花火にしてもまったく馴染まない。大体なんだ、金の花火って。

首から提げるロケットは英語ではlocketであるが、前回、ヴェネツィア語corteloが標準イタリア語coltelloであった例に見られるように、ヴェネツィア語においてはしばしば[r]と[l]の転訛が起こる。どう考えてもそれ以外あり得ないので、アクセサリーのロケットということにしておいた。イタリア人は普段、ジャッポーネは[r]と[l]の発音がなってないとさんざん馬鹿にしてくれるし、私もヴェネツィア滞在の初めの頃、買い物に行く度に店の人から執拗な、いや懇切丁寧な発音指導を受けたものだが、おまえらも人のことは言えない。まったく適当な奴らである。

また、「メェー」しか言えなかった山羊頭が、死の危険が迫った途端に饒舌になるのも都合がよすぎる。まともに話せるのならもっと早くどうにかできただろうに。やり直しが利くにしても何か転機となる道具立てが必要だと思うのだが、その辺の設定も甘い。

ところで、山羊は悪魔の比喩ということでまあ分からんでもないが、兎の耳というのは何を表しているのだろう。この娘は言いつけを守らなかったせいで罰を受けたのだから、しっかり話が聞けるように、ということなのだろうか。

そしてもう一つ厄介なのが結末の結婚式の場面である。調べたところ「毛をむしられたネコ」という表現には「歌の下手な人」という意味があるらしいので、これらの比喩はそれぞれ結婚式の余興を表したもののようだ。が、他のものについては今のところ調べがつかない。また、何も食べない云々というところは、新郎新婦は式の間は何も食べられず、招待客がすべて平らげて何一つ残らなかったという状況を指すものと思われる。