正義について

今回の話の冒頭に、前回触れた何ともいえない[che]の例があった。ヴェネツィア語の単語をそのまま標準イタリア語と英語の単語に置き換えてみたので、どうにも解釈できないこのもどかしさを是非とも体感して欲しい。

'Na volta  ghe giera  un contadin   che el gaveva so mugier che la    gera gravia.
Una volta c'era         un contadino che lui aveva sua moglie che lei   era   gravida.
One day   there was a   peasant   that he had     his wife      that she was gravid.

この場合cheの節は位置と文脈から考えて二つとも関係詞節と思われるのだが、どういう訳だか節の中に主語が残っており、単語を端折らずに訳すと「あるところに一人の農夫がいて、彼には妻がいて、彼女は身重だった。」というふうになる。確かに幼稚に聞こえるわな。ひたすら接続助詞でつないでいく日本の近代以前の文章に通じる気配がないこともないが、そういう面倒なことは学者に考えてもらおう。

ともあれ、これは前回見た、[主語]の後に[主格代名詞]が重なるという現象と関連するものと思われる。英語の"She walks."の[walks]という動詞が疑問文において[does]と[walk]に分離し、[walk]だけが元の位置に残るのを想起してもらいたい。これと同様、ヴェネツィア語の[主語]と[主格代名詞]は緩やかに一体化しており、[主語]はなにかの拍子にどこかへ行ってしまっても、[主格代名詞]は定位置に残り続けるのではないだろうか。

と考えてはみたが、[主格代名詞]までもが省略される関係詞節も当然のように使われているため、この仮説は一瞬にして崩壊するのであった。「標準的な関係詞節とこの[che]の節とではニュアンスが変わり、使い分けが存在するのではないか」というふうにこの仮説を捩じ込んでいくこともできなくはないが、これ以上は面倒だ。イタリア相手に理屈を捏ねた私が愚かであったとし、諦めて話の本筋をご紹介しよう。


EL GIUSTO

あるところに、身重の妻を持つ一人の農夫がありました。ある日のこと、この農夫は妻に言いました。「生まれてくる子に洗礼を受けさせるのに、代父母になる人は本当に正しい人であってほしいものだな。」それから数日して、妻は坊やを産みました。そこで彼はその赤ん坊を腕に抱き、家を出て正義の人を探しに行きます。

歩きに歩いて、彼は一人の男、我らが主に出会いました。彼は言います。「この息子に洗礼を受けさせなければならないのですが、正しい人でなければこの子の洗礼を任せたくないのです。貴方は正しい人ですか?」主は答えます。「さあ…私が正しいかどうかは分からないな。」

そこでこの農夫はさらに進み、ある女性に出会います。彼女はマリアでした。彼は言います。「この息子に洗礼を受けさせなければならないのですが、正しい人以外にはこの子の洗礼を任せたくないのです。貴女は正しい人ですか?」―「それは分かりません」マリアは答えました。「しかし、さらに行けば正しい人が見つかるでしょう。」

そういうわけで彼はさらに進み、また一人の女性に出会いました。彼女は死神でした。彼は言います。「これまで会った人たちが貴女のところへ行けと言いました。貴女が正しい人だというのです。この息子に洗礼を受けさせなければならないのですが、正しい人以外には任せたくないのです。貴女は正しい人ですか?」―「そうです。」死神は言いました。「私は正しいものと信じています!…まずはその赤ん坊に洗礼を与えましょう。その後で私の正しさを見せたいと存じます。」そうして彼らはその息子に洗礼を施します。

それから彼女は、奥まで見通せないほど長大な広間へと農夫を連れていきました。そこには多くの灯明が点っています。「代母様」これらの灯明を見て驚いた農夫は言いました。「このたくさんの灯明は何なのですか?」死神は言います。「これらの灯りは皆、この世界にいる者すべての魂です。見てみたいでしょう、お父様も? そちらが貴方ので、こちらが貴方の息子のものです。」そして農夫は、自分のそれが今にも消え入りそうなのを見て言いました。「代母様、油がなくなってしまったときは?」―「そのときは」死神は答えました。「私と一緒に来ていただくことになります。なにしろ私は死神ですので。」

「ああ、どうかお慈悲を」農夫は言いました。「ともかくも息子のところから少し油を取って、私のところに足してください!」―「いえいえ、お父様」死神は言いました。「私にはまったく何もできないのです…貴方が知りたいと望んだ正義、貴方が見つけた正義です。さあ、家に戻って、貴方の為すべきことをなさいませ。私が期待するのはそれだけです。」


……今回はだいぶ短い。このブログは長文が読める人しか近づけないよう、一つの記事について原稿用紙8枚分程度を目安としているのだけれども、ここのところ20枚分を超えるものが続いていたもので、これでは何とはなしに物足りないような気もする。この話は「死神の名付け親」が元となっているようだが、取っかかりのところで終わってしまったような印象である。元ネタとの関係で言えば、グリム童話ではろうそくであったものがこの話では油を使う灯火となっている点も気になるのだけれども、ヴェネツィアの燃料事情についてはこれまで考えたことがなく、手がかりもないのでとりあえず於く。

[giusto]という単語は、この話の文脈では「厳格」とするのが最も近いように思うが、今の段階では直訳のままにしておこう。今回はオチが今ひとつ消化不良であるが、しかし例の「3」縛りでイエスとマリアを前座に使ったところはなかなか思い切ったものであった。そして真打ちの死神の口調については、農夫に対して敬体で話しているという事情もあるのだが、私の趣味で少々誇張してあることをお断りしておく。

洗礼に関して、農夫が死神に対して代母[comare]という呼び方をするのは理解できるのだが、洗礼後に死神の方が農夫のことを代父[compare]と呼ぶようになるのが分からない。本文では「お父様」と誤魔化しておいたが、幼児洗礼が施された後、代父母と実父母の関係はどういったものになるのだろう。この辺りは土着の人に聞かなければどうしようもないかと思うが、どなたかご存じの方はいらっしゃるだろうか。

さて、今回は久しぶりに男性が中心人物となっているが、自分の寿命を認識した瞬間のこの父親のクズっぷりというか、ある意味ではあまりにも自分に正直なところがよい。これまで見てきたように、この民話の本ではひたすら女性が活躍し、最後は結婚で終わると言う話が多かった。これらの話を創り出して子どもたちに読み聞かせたのは女性が中心であったものと推察されるのだが、それはそれとして、彼女たちが男性をどのような生き物として認識していたのかがよく分かろうというものである。