小さな花籠について

件の本に掲載されている話はそれぞれ分量に差があり、そのときの勢いに合わせて適当に見当をつけながらつまみ食いをしているのであるが、ここへきてやっと、巻頭に収められている話に目を通してみた。ところが、素読の段階でこれは「黄金のガチョウ」や「笑わない王女」のヴァリアントだと分かる。

巻頭に借り物の話を置くというのはどういう了見か、これは飛ばしてしまおうかとも考えたが、そういえば彼らには元々オリジナリティを重視する態度がないというか、向こうの文化圏にあっては厳密に起源を云々することに大して意味はないのだった。そう思い直したうえで再読してみたところ、これはこれで、アレンジされた細部にヴェネツィアーニの品格というものがよく表れているのではないかと考えるに至る。小学生くらいの男の子を笑わせようとすればこうなるのも分からんではないが、それでもイタリア人の笑いのセンスってこんな感じやったなぁ、と。

人目につかないこのブログではあるが、紹介程度の分量ならともかく、いくつもの話を丸ごと訳してここへ載せるというやり方については、そろそろ権利関係に注意した方がいいのではないかという問題もあった。が、そもそもこれらは民話であるし、編者の序文の日付が19世紀であることから考えてもまず支障はない。というわけで例の通りお目にかける。


EL ÇESTELO DE FIORI

あるところに王がありまして、その王にはこれまで一度も笑ったことがないという娘がおりました。彼女はどんな娯楽でも手に入れることができましたが、何であろうと彼女の口元をわずかにでも動かすことはできません。父はもうこれ以上どうしてよいか分からなくなり、ある日、以下のようなお触れを出そうと考えました。娘をうまく笑わせた者はそれがどんなに貧しい者であろうと彼女の夫とする、そして王女を笑わせようとこのパラッツォまでやってきて試練に挑んだ者について、失敗した場合は首を刎ねる、というものです。そうして王女を笑わせるために次から次へと多くの者がやってきましたが、上手くいったものは一人もおらず、みんな首を刎ねられてしまいました。

そんな中、あるところにお爺さんがありまして、ある日のこと、花を摘みに出かけました。庭園へ着き、たくさんの花を見て彼は言います。「この庭園の花は本当にきれいだなぁ! どれもみんな摘んでいきたいものだ。」彼は庭園に入って花を摘み始めましたが、そこへ三人の妖精が通りがかりまして、こんな話を始めます。「花を摘んでいるあのジジイを見てよ!」もう一人が言います。「あいつが持ってる籠に魔法をかけちゃうのってどう?」すると最後の一人が言いました。「いいね、あの籠に触った奴はみんなくっついちゃうことにしようよ。」

お爺さんは花を摘んで庭園を出ました。しかし花籠に魔法がかけられていようとはまったく知るよしもありません。彼はしばらく歩いて、ある通りにさしかかりました。もう夜です。「そろそろ夕飯にでもするか。」またしばらく歩くと、一軒のオステリアを見つけました。中へ入って食事を求めます。飲み食いしていると夜も更けましたので、彼は言いました。「夜になったし、もうこれ以上は出歩けないか。でもこの田舎には頼れるところもないな。」彼は亭主を呼んでお勘定を頼みます。「いくら出せばいい?」亭主は答えます。「たくさん。」お爺さんはお金を取り出して支払いました。支払いが済んだ後で、彼は寝床がないだろうかと尋ねます。亭主は、娘たちの部屋の奥にある一室しかないと答えます。お爺さんは言いました。「どこであろうと、このとおり年寄りなので心配は要らんよ。」

こうしてこのお爺さんはオステリアに泊まりました。彼が上がっていくと亭主の三人の娘がやってきてお爺さんの持つ花に目を留め、彼氏にあげる花を一つくれないかと頼みます。お爺さんは、一つもあげられないと答えました。彼女たちはしつこく頼みましたが、それでも彼はまったくあげようとはしないのでした。そこで彼女たちは相談します。「とりあえずほっといて、あいつが寝てから夜中に一番きれいなやつを盗んでやろうよ。」三人はこのように示し合わせました。

お爺さんは支度をしてベッドに入り、眠りにつきます。三人の娘たちもまた寝ようと、自分たちの部屋へ戻って寝る支度をしました。「あいつがぐっすり眠るまで少し待って、それから花を盗みに行こう。」この夜は暑かったので、彼女たちはみんな下着まで脱いでしまいました。そしてお爺さんが寝入った様子なのを窺って、一人が起き出します。お爺さんは目覚めていましたが、いびきをかくふりをしながら、真っ暗で何も見えない中で、この娘がすることをずっと窺っていました。そして、この娘が花を取ろうとすると、花籠にくっついてしまいました。

ベッドの中で最初の娘を待っていた残りの二人は言いました。「どうしたんだろう。やたら時間かかってるよね?」お爺さんが起きないので、彼女たちは気を抜いて話し始めます。最初の娘が言いました。「花籠にくっついちゃって戻れないの。」「待ってて、私が引っ張ってあげる。」もう一人が起き出して引っ張りに行きました。何度も引っ張りますが、彼女もまたくっついてしまいます。ずっと待っていた三人目の娘は、誰も戻ってくる気配がないのを見て言いました。「まったくどうなってんのよ。誰も戻ってこないじゃない? もし気付かれたらボコボコにされるよ?」他の二人は答えました。「あんたも来て、はがせないかどうかやってみてよ。二人ともくっついちゃって戻れないのよ。」三人目も起き出して引っぺがしに行きましたが、彼女もまたくっついてしまいました。

お爺さんはベッドの中で寝たふりをしながらひそかに思いました。「これは面白いことになったな。えらく頑張っているようだが、どうしたものやら。」花籠にくっついてしまった三人の娘はお爺さんに呼びかけます。「お爺さんお願い。この花籠を外してよ。私たち離れられなくなっちゃったの。」お爺さんは言いました。「私の花を盗みに来たのだろう。外してはやらん。」娘たちはこのままでは父親にばれてしまうのではないかと怖くなり、泣き出しました。お爺さんは言います。「わしもどうしたらいいのか分からん。くっついたままにしておくより他にないんだ。」娘たちもどうにもなりません。お爺さんは独りごちました。「どうしてこんなことが起きたのだろう。何も見た覚えはないが、この花を取りに行ったときに魔法でもかけられたのだろうか。」そうして彼は考えました。「これは王女様のところへ行くのにお誂え向きだな。」

翌日になり、お爺さんは起き出して言いました。「わしも挑戦してみたいと思うんだ! 首を刎ねられる可能性はあるけれども。」娘たちは泣き出しながら言いました。「お爺さんお願い、私たちを離してよ。私たち裸だし、お父さんがこれを見たら間違いなくぶっ殺されるわ。」彼は言います。「娘たちよ、わしもどうすればいいのか分からんのだ。これがいったいどういうことなのか、わしがこれらの花を摘みに行ったときに魔法をかけられたんじゃないかとは思うんだけれども。まあ、こうなったら一蓮托生、何も言えることはない。わしと一緒に来い。」こうして娘たちは彼と一緒に家を出ます。裸なので三人とも恥ずかしがって泣いていましたが、起きる前だったので彼女たちの父親は何も気づきませんでした。

しばらく歩くと、彼らはアヴェマリアを歌いながら歩いている墓守に出会いました。この墓守は手に教会の扉を開けるための鍵束を持っていましたが、この一行を見て言いました。「おい、この恥知らずのジジイ! そんな格好の三人の娘を往来に連れ出して何とも思わないのか?」そして彼は三人娘の一人のおしりに鍵束を宛てがいました。そして彼もまたくっついてしまいました。

彼らはみんなくっついたまま、お爺さんの後ろについてしばらく歩き、パンの入っているたらいを頭に載せたパン職人に会いました。彼はこの一団を見て言います。「このくそジジイめ、どうしてそんな格好の娘たちを連れて表を歩いているんだ、可哀想に!」そうして墓守に蹴りを入れようとしましたが、彼もまたくっついてしまいました。

彼らがさらに歩くと、うんこをしている男に出会いました。この男は彼らの様子を見て言います。「やあ、ひどいものを見たなぁ! こんな一行は今まで見たことがないぞ。」彼は(お許しを)おしりにうんこを付けたまま立ち上がり、パン職人に蹴りを入れようとしましたが、彼もまたくっついてしまいました。

お爺さんはこの出来映えのばからしさを見て言いました。「ああ、わしは年寄りだけれども、きっと王女様を笑わせるぞ。」彼らはさらに歩きますが、くっついた三人の娘はいつも一番恥ずかしがっていました。一番最初からくっついていましたし、人々はみんな彼女たちを見ていたからです。

そうして少し進んだところに、草を食べているガチョウたちがいました。ガチョウたちはおしりにうんこがついた男を見ると、そのうんこを食べようと寄ってきましたが、そのガチョウたちもまたくっついてしまいました。

お爺さんは言います。「もういい! これ以上は要らん!」そこで彼らはその場で止まり、お爺さんは覆いを手に入れてみんなを隠し、そうしてまた進んでいきました。

さらに歩いて、彼らは例の王女様のパラッツォにたどり着きました。入口のところに門番がいて、何の用かと尋ねますので、お爺さんは王女を笑わせに来たのだと答えます。門番は言いました。「ああ、多くの者がやってきたが、誰も上手くいかなかったのだぞ。」お爺さんは言います。「結構、私も挑戦してみたいのだ!」―「分かった分かった、それなら何も言うまい…」そしてこの門番は召使いを呼びました。召使いは王のところへ行って言います。「偉大なる王陛下、王女様を笑わせようという者が参りました。」王は言います。「中へ入るように伝えよ。」

そうしてお爺さんは一行とともに前へ出ました。彼は件の王女が部屋にいるのを見つけると、この一行の覆いを取ってみせます。これを見ると王女は大笑いし始めたのでした。もうこれ以上無理というところで彼女は言います。「十分、もう十分よ! これは傑作だわ!」そうすると、くっついていたものすべてがばらばらになりました。

王は自分の娘が自由を取り戻したのを見て満足しました。彼女は魔法をかけられていたのです。そして彼はお爺さんに言いました。「おまえが我が娘の結婚相手となろう。」お爺さんは答えます。「偉大なる王陛下、もし王女様が結婚を望まないのであれば、私は貴族にしていただくだけでいいのですけれども。」王は答えます。「いや、王の言葉に二言はない。おまえが彼女の結婚相手となるのだ。年を取っていたとしても問題ではない。」―そうしてお爺さんはそこに留まり、王の娘と結婚しました。

それから王はくっついていた者みんなに金を与え、それぞれの家へ送り届けました。そしてあの娘たちですが、王女は彼女たちを頭からつま先まできれいに着飾らせ、一人一人に高価な贈り物をしましたので、彼女たちもすっかり満足して家に帰りました。


……「お花を摘みに」という表現はもしかするとこれが起源なのだろうか。それはともかく、亭主が勘定を求められて「たくさん(tanto)」と答えるところがちょっと不自然かと思ったが、ここに具体的な額を入れるのも難しいであろうし、適当にぼかしてあるのだろう。墓守の鍵が何の役に立っているのかもよく分からないような気がするが、墓守の行動は娘の尻を隠そうとしたものだろうか。ともあれ尻と鍵という組み合わせにはなにやら象徴的な意味がありそうである。

結末部分を見るに、王女に魔法をかけていたのも例のイタズラ三妖精の仕業かと思えるが、何よりも「うんこ」のインパクトが強すぎるため、それ以外の何もかもがどうでもよくなってしまうのであった。往来を歩いていたらうんこをしている男に出会い、その男がその体勢のままフランクに話しかけてくるというだけでも大概のことだが、さらにそいつが尻からうんこをぶら下げたまま襲いかかってくる、というような状況も中世のイタリアではありうることだったのだろうか。

だいたいこの男、一行を見て「ひどいものを見た」などと言っているが、せっかく若い娘たちがあられもない姿を披露してくれていたところへ、ひどいものを見せられたのはこっちの方である。きれいな花で始めておいてうんこで落とす、というこの落差は計算してのことであろうが、それにしてもやって良いことと悪いことがあるのではないかと思う。

山羊の頭と兎の耳について

次に何を訳そうかと例の民話の本を物色していたところ、塔から人が墜ちていく様子を描いた挿絵が目についた。トルチェッロのアレ(街の原点について - 水都空談)かと思ってその挿絵のある話を読んでみたが、まったくそんな場面は出てこない。イタリア人のすることなので「ああまたか」で済んだけれども、この本の構成はいったいどうなっているのだろう。ともあれせっかく読んだのでここに載せておく。

 

TESTA DA BECO E RECIE DA LIEVRO

昔、一人の母親がありました。その母親には三人の娘があり、彼女たちはこの上なく貧乏な暮らしをしていました。そんなある日のこと、三人娘の一人が言い出します。「ちょっと聞いて! ここで苦しい生活を続けるより、私は外へ出て世界が見たいの、自分で自分の運命をつかみ取ってみたいのよ。」そうして彼女は立ち上がると出て行ってしまいました。

彼女は長い間歩き、とうとうある日、一つのパラッツォを見つけました。彼女はそのパラッツォにガラスがあるのを見て言いました。「上がってみて、ここの主人たちが召使いに雇ってくれるかどうか聞いてみましょう。」彼女は上がり込んで尋ねます。「誰かいませんか?」まったく人影がなく、返事もありません。そこで彼女はキッチンへ行き、銅の鍋に火がかかっているのを見つけました。食器棚を開けるとパン、米などがすべてあって、終いにはワインのボトルまで見つけました。彼女は言います。「つまりここには何でもあるのね。お腹も空いたし、まずはスープでも作ろうかな。」こう言った途端、彼女は二つの手がテーブルの準備をしてくれるのを見ました。そこにリージ[リゾットをスープ寄りに仕上げたヴェネツィア料理]が一皿現れました。彼女は言います。「いただくわ。」彼女はそのリージを食べ始めました。彼女がリージを食べ終えると、二つの手は付け合わせと、さらに若鶏の料理まで持ってきました。彼女は全部平らげます。「ああ、ちょっと疲れた、一息ついたほうが良さそうね。」

例の二つの手が現れていましたが、しかし彼女はまったく見ていませんでした。

十分に飲み食いした後で彼女はパラッツォを見て回り、とても美しい応接室に素晴らしい居間、そして寝室と天蓋付きのベッド、つまりは何もかもがうまい具合に出来上がっているのを見つけました。「何て素晴らしいベッドなの! 早速寝ましょう。」彼女はベッドに横になり、一晩眠りにつきました。朝になって彼女は起き出すと、ベッドの上に座り直して言いました。「ご主人様、どちらにいらっしゃるのですか!」彼女がこう言うとすぐ、例の二つの手がお盆にコーヒーを載せて現れました。彼女はそのコーヒーを飲み、飲み終わると、また二つの手が現れてお盆を持っていきました。そして彼女は服を着ると、パラッツォの中の大きな広間へ行き、たくさんの綺麗な洋服、リボン、スカートなどが入った洋服ダンスがあり、どれも着られそうであるのを見つけます。すぐに彼女は自分の着ていたみすぼらしい服を脱ぎ、女王様のように着飾りました。彼女は元々きれいでしたが、このようにきれいな服を着た今、さらにきれいになりました。

そして彼女は歩廊に出ますと、そのとき一人の王様が通りがかりました。王はこの美しい娘を見て、彼女とお話することはできないかと尋ねます。王は彼女を運命の人だと思ったのでした。彼女は、父も母も居らず、何もお答えできません、またの機会にお返事致します、と答えます。王は丁寧にお辞儀をして馬車で行ってしまいました。

そこで彼女は歩廊の内へ戻り、暖炉のところへ行って言いました。「ご主人様、私はこの誰もいないパラッツォに居場所を見つけ、今、運命の人であろうあの王様に会いました。あの方がお返事を聞きにいらしたときには何と言えばいいのでしょう?」彼女がこう言うと、暖炉の中から声が聞こえました。「祝福よあれ。おまえは美しく、これからもさらに美しくなるであろう!…おまえには病身で弱った祖父がただ一人あり、彼はおまえが結婚すれば喜ぶ、ただ、結婚までにあまり多くの時間がかからなければ…と伝えるのだ。さあ行くがよい。おまえは美しく、これからもさらに美しくなるであろう。」すると彼女はさらに美しくなりました。

その翌日、彼女がバルコニーに出ると、あの王がやってきました。王は彼女を見るとすぐに言いました。「私のことをどうお考えなのかお聞かせください。」彼女は、病身の弱った祖父しかいませんので、彼を家に上げるわけにはいきません、祖父は私の結婚を望んでいますが、あまり時間はありません、とにかく今のところはこうしてバルコニー越しにお話をいたしましょう、と答えます。王は分かったと言いました。

このように愛を語らいながら八日が経ちました。彼女は暖炉のところまで行って言います。「おじい様、お話をするようになってもう八日です。次はなんと言えばいいのでしょう。」祖父は答えます。「彼と結婚するのだ、そしてこの家の中のものをすべて外へ持ち出す作業を始めよ。おまえ自身に何一つ残してはならないぞ…よく覚えておけ、いいか、よくおぼえておけよ! さあ行くがよい。おまえは美しく、これからもさらに美しくなるであろう。」すると彼女はさらに美しくなりました。

そして娘がバルコニーへ出るとすぐに王の姿が見えたので、彼女は、馬車を寄越して、パラッツォの中のものをすべて持ち出せばすぐに結婚できる、と言いました。そこで彼らはその後八日かけてこのパラッツォの中のものを外へ持ち出しました。そんな中、王はその父に言いました。「聞いてください父上、私の婚約者は驚くほど豊かなものをお持ちなのです。他でもない、私たちのような君主でもこれほど上質なものは持っておりません。そして父上、彼女の何と美しいことか。」

彼女の方に戻りましょう。

彼女はパラッツォの中を一掃し、そこが空っぽになると、最後に外へごみを捨てに行きました。彼女は金のロケットを一つ持って出ず、飾り棚の上に置いておきました。「これはここを出るときに持っていきましょう。」そしてバルコニーへ出るとすぐ、かの王が二頭立ての馬車でやってくるのが見えました。彼が着くと、彼女は祖父のところへ行って言います。「おじい様、私は行きます。私の婚約者が私を連れに来たのです。ご心配なさいませんように、このパラッツォから何もかも持ち出して掃除もしておきましたので。」祖父は言いました。「よし、よくやった、ありがとう。おまえは美しく、これからもさらに美しくなるであろう。おまえの行く先には金色の星が輝くであろう。」すると一つの星が真正面に現れ、元々彼女は美しかったのですけれども、さらに美しく見えるようになりました。

彼女は階段を降り、彼女を連れに来た婚約者の元へ行きました。彼はこの美しい娘を見るとすぐに抱きしめて馬車に乗せ、二人は出発します。そして道の半ばまで来たとき、娘は言いました。「ああ、なんてこと、私の金のロケットを忘れてきてしまったわ…まったく…引き返してあれを取りに行かないと。」王は言います。「ああ、戻ることはありません、放っておきなさい。別のものを用意してあげますよ!」彼女は「いいえ、戻らなきゃ、あれを取りに行きたいの。」そこで彼らは馬車の向きを変え、もと来た道を戻りました。彼女は馬車を降り、パラッツォに上がります。王は下で待っていました。彼女は暖炉のところへ行って言いました。「おじい様?」彼は答えます。「何かあったか?」「たいしたことではありません。」と彼女は言いました。「私が金のロケットを忘れていきましたことをご容赦ください。」―「ここから出て行け。」と彼は言いました。「出て行け、山羊の頭に兎耳、おまえには何一つ忘れないよう、何もかも持ち出すように十分言いつけたではないか。出て行ってしまえ、山羊の頭に兎耳!」するとその瞬間、彼女は山羊の頭に兎の耳という姿になってしまいました。彼女は階下へ降り、これ以上ない恐怖を感じながら婚約者の馬車のところまで行きます。この醜い有様を見て彼は言いました。「だから戻るなと言ったではないか。」彼女は答えます。「メェー、メェー…よくわかんない。」王は言います。「どうしたらいいのだ? 父にはおまえがとても美しいと言ったのに…ああ、おまえを家に連れて帰るわけにはいかない。」「メェー、メェー…よくわかんない!」そこで彼は言いました。「この近くに私の小さな家がある、そこにおまえを置いておこう。」

王は毎日この娘のところへ通いました。彼女がまた美しい姿に戻って欲しいと思っていたからです。彼は彼女が必要とする物をすべて持っていきました。

美しくも醜いこの娘はこうしてなんとか生活していましたが、この問題は王の父の耳にも届きました。彼の息子は怪物に恋している、というのです。そこで父王は息子を呼んで言いました。「何を考えているのだ。おまえは別荘に置いておる醜い獣に恋をしているというが? よく考えろ、奴を放り出せ、さもなくば私が奴に死を与えよう!」

そこでこの若者は彼女のところへ行って言いました。「お聞きください、一つ言わねばならないことがあります。私が獣と恋に落ちていると私の父が知るようになり、私があなたを捨てなければあなたに死を与えるというのです。」彼女は言いました。「メェー、メェー…よくわかんない。」若者は言います。「どこへ連れて逃げればいいでしょうか?」彼女は答えました。「このようなあなたのご厚意以外は何も要りませんが、黒いビロードの服と黒いヴェールをくださいませ。祖父のところへ行って、彼のせいで死ぬことになると言ってやります。」彼は「間違いなく持ってこよう」と言いました。

そうしてこの若者は黒いビロードの服と黒いヴェールを手に入れ、かの娘のところへ持っていきました。彼女がそれを身に着けてくまなく全身を隠すと、二人は馬車に乗り込んで祖父のパラッツォへ向かいました。

彼女は家に上がり、暖炉のところまで行って言いました。「おじい様?」「誰だ?」「私です、おじい様。」「何だというのだ、山羊頭、兎耳。」彼女は言います。「おじい様、お聞きください。あなたのせいで私は死を申し渡されました。」「私のせいだと?」と彼は答えます。「…戻ってこないようにすべてのものを外へ持ち出し、何一つ忘れてはならぬと言わなかったか? おまえが金のロケットを忘れていなければ自由にしてやったのに。そうでないから罰を与えたのだ。」娘は言いました。「あのときのような美しさは望みません。でもせめてこのパラッツォに来たときのような、神のお造りになったままの姿に戻りたいのです。おじい様、どうかお慈悲を、元にお戻しください。」「よし」祖父は言いました。「何も忘れてはおらんな?」「はい」娘は答えました。「飾り棚のところに置き忘れました金のロケットも持っておりません。今度は確かです。」祖父は言います。「では行くがよい。おまえは美しく、これからもさらに美しくなるであろう。」すると彼女はとても美しくなり、かつてのような姿に戻りました。

そして彼女は階下へ降り、婚約者の馬車のところへ行きました。彼は彼女が以前のように美しく、いやそれよりもっと美しくなったのを見てすっかり安心し、彼女を抱きしめて言いました。「もう私の父もあなたに死を与えるとは言わないでしょう。もちろん、獣と恋に落ちているなどとも!」

二人が父王のパラッツォに着くと、父が出てきました。若者は父王に言います。「私の愛する醜い獣をお連れしました。」「ああ」父は言いました。「息子よ、おまえが正しかった。彼女はこれまでにないほど美しい。」彼は彼女を抱きしめ、またきつく抱擁し、彼らがすぐに結婚するよう望みました。そしてその娘に、人々が彼女のことを見られるよう、まずはバルコニーに出るようにと望みます。

そのパラッツォのバルコニーの下にはすぐに多くの人々が集まり、その美しい娘を見て彼らは叫びました。「万歳! 我らが新しき女王に万歳!」

数日後、二人の若者は結婚しました。彼らは堆肥に生えたハツカダイコン、ハゲネズミ、毛をむしったネコ、平鍋に入れたナンキンムシの結婚式を行い、彼らはその日は何も食べず、翌日にも残しませんでした。すべて終わって、ローズマリーの小枝が一つ残りました。これで何も言うことはありません。「ワインで乾杯。」


……女の子が何らかの理由で家を飛び出し、然る後にお金持ちっぽい館に不法侵入、無銭飲食という流れは定番と化しているようだ。しかし今回はヒロインが家を出る動機に始まり、あちこちで話の作りがぞんざいなのが残念である。イタリア人の作ったものだから仕方ないが、母親と他の二人の姉妹に一切の台詞が与えられていないのも悲しいし、三姉妹であった必然性も最後まで分からずじまいである。子どもが多くて口減らしの必要性があったというふうにこっちで深読みすることはできるが、それにしてももう少し書き込んでおいて欲しいものである。

「二つの手」というのは原文でdô man、ヴェネツィア語は最後の母音が頻繁に落ちることからこれはdue maniと取るのが原則に適ったやり方である。が、常識が邪魔をして、このmanは英語由来の単語なのではないかとも考えた。この場面でヒロインの娘が即座に目の前の現実を受け入れて食事を始めるのがまったく腑に落ちず、何か読み違えているのではないかとあれこれ考えたのである。だが、たとえ二人の男だったとしても、誰もいなかったところへいきなり現れたものに対してツッコミを入れない理由は無い。後の展開から考え、この程度の不思議はヴェネツィアーニには当たり前なのだということで納得しておく。

彼女が食事を終えて一息ついたところでこの二つの手が再び現れ、彼女に無視されるところも何だかよく分からないのだが、翌朝の目覚めのコーヒーの場面を見るに、この手は一つの動作が終わったら一旦下がり、また次の動作の際に再び現れる仕様になっているものと考えられる。つまり最初の食事の場面においては、この二つの手がディジェスティーヴォでも出してやろうかと考え、さあ出番だと出掛かったところが、彼女が満足してしまったために手持ち無沙汰になってしまったということか。だとするとちょっと可愛いようでもある。

そして中盤から重要なアイテムとなる金のロケットであるが、原文は'na rocheta d'oroとなっており、rochetaで辞書を引くと標準イタリア語のrazzoと出る。これは打ち上げる方のロケットや花火を指す言葉であるが、時代的にも文脈上でも打ち上げロケットというのはあり得ず、花火にしてもまったく馴染まない。大体なんだ、金の花火って。

首から提げるロケットは英語ではlocketであるが、前回、ヴェネツィア語corteloが標準イタリア語coltelloであった例に見られるように、ヴェネツィア語においてはしばしば[r]と[l]の転訛が起こる。どう考えてもそれ以外あり得ないので、アクセサリーのロケットということにしておいた。イタリア人は普段、ジャッポーネは[r]と[l]の発音がなってないとさんざん馬鹿にしてくれるし、私もヴェネツィア滞在の初めの頃、買い物に行く度に店の人から執拗な、いや懇切丁寧な発音指導を受けたものだが、おまえらも人のことは言えない。まったく適当な奴らである。

また、「メェー」しか言えなかった山羊頭が、死の危険が迫った途端に饒舌になるのも都合がよすぎる。まともに話せるのならもっと早くどうにかできただろうに。やり直しが利くにしても何か転機となる道具立てが必要だと思うのだが、その辺の設定も甘い。

ところで、山羊は悪魔の比喩ということでまあ分からんでもないが、兎の耳というのは何を表しているのだろう。この娘は言いつけを守らなかったせいで罰を受けたのだから、しっかり話が聞けるように、ということなのだろうか。

そしてもう一つ厄介なのが結末の結婚式の場面である。調べたところ「毛をむしられたネコ」という表現には「歌の下手な人」という意味があるらしいので、これらの比喩はそれぞれ結婚式の余興を表したもののようだ。が、他のものについては今のところ調べがつかない。また、何も食べない云々というところは、新郎新婦は式の間は何も食べられず、招待客がすべて平らげて何一つ残らなかったという状況を指すものと思われる。

死んだ男について

以前買ってきてもらったヴェネツィア語の辞書にはまとまった文法解説があって、これがなければ何も始められなかった。また、ヴェネツィア語を読もうとする人間にとって聖典とも言える、Boerioという人が作った辞書があるのだけれども、それがいつの間にかGoogle Booksで検索を掛けて読めるようになっていたのにも非常に助けられている。

今の日本に何人いるのだか分からないけれども、このBoerioの辞書を始めとして、古いヴェネツィア語の辞書がいくつもネット上で使えるというのはヴェネツィア語の研究者にとっては夢のような状態であろう。とはいえこれで喜ぶのは私の知る限り、京都のほうの大学にいらっしゃる中東史の先生くらいのものである。そういえばお元気でいらっしゃるのであろうか。

このように環境は整っているのだが、ゴルドーニの本は切りのいいところまで訳せたのでしばらく寝かせることとする。この先はゴルドーニの戯曲に沿って料理を見ていく章となっているのだが、ヴェネツィア語にもだいぶ慣れてきたとはいえ、端からすべて自分で訳すのはあまりにも効率が悪い。すでにゴルドーニの喜劇にいくつもの邦訳があるということはつまり、ネットが発達する前から苦労してヴェネツィア語を研究してきた人たちがいるということである。ここでその偉大な先達に敬意を払ってその研究成果に全面的に頼りたいところなのではあるけれども、無職の私には趣味の本を購う金がない。図書館に通う時間的な余裕はないこともないのだが、そこまでの精神的な余裕はない。

ということで、以前一つだけ訳した(黄金の果実について - 水都空談)ヴェネツィアの民話の本を久しぶりに開いてみたのである。

ところで、私はこの3月までひたすら日曜日のない暮らしを続けていたのだが、その日曜日は休日出勤とする代わりに、取れるはずもない振替休日を付与して目の前の人件費を抑える、という処理が行われていた。そしてそれについては退職時に清算するという話をそこそこ責任のある人から聞いていたのである。しかしいざ辞めてみたところで40日近くまで積み上がったそれがすべて踏み倒される、つまりは2ヶ月分に近い労働の対価を丸ごと無かったことにされるという扱いを受けたのだった。

さすがにこれには力が抜けて、これでは次の仕事を見つけるまで持たんな、と考えていたところで目についたのが、件の民話の本の「L'OMO MORTO」、omoは標準イタリア語のuomoであるのでつまり「死んだも同然の男」というタイトルであった。時宜を得たりとはこのことである。訳してお目にかけよう。

 

L'OMO MORTO

あるところに王様がありまして、その王には一人の娘がおりました。さてある日のこと、その娘は侍女たちとバルコニーにおりました。その時一人の老婆が通りがかり、このように言います。「お嬢様、私めにお慈悲を。何かくださいませ。」「ええいいわよ。」と娘は言い、鐚銭を下へ放り投げてやりました。老婆は言います。「お嬢様、これでは少なくて…もうちょっとくださいませ。」そこで彼女はさらに小銭を投げてやりました。老婆はもう一度言います。「お嬢様、もう少しくださいませ。」そこでこの王女は言いました。「何が言いたいというの、面倒な奴ね。二度もやったじゃない。これ以上はやれないわ。」すると老婆はこの娘の方を向いて言いました。「ではもう何も言うまい。天に誓い、おまえはもう、死んだ男を見つけないかぎり結婚することができないのだ。」

この娘はバルコニーの中へ入り、悲嘆のあまり倒れて泣き出してしまいました。彼女の父がそれを見つけて何を泣いているのかと尋ねますと、彼女は老婆が「死んだ男を見つけないかぎり結婚することができない」と言ったことを伝えます。父は答えました。「おろかなことを、そういうことには気をつけなければ!」彼女は言います。「もう二度とあんなことはしないわ、でもなるようになるわよ、私はその人を見つけに行きたいの。」「おまえが望むようにすればいいのだけれども」父は言います。「おまえがいなくなってしまうと思うと…」と、父は泣き出しましたが、彼女はそれを気にすることなく、立ち上がって出て行ってしまいました。

彼女は何日も道を行き、ある夜、すべて大理石で作られたパラッツォにたどり着きます。入口が開いているのを見て彼女は中へ入り、階上へ進みました。夜だったので何もかもよく見えません。彼女は尋ねました。「誰かいませんか?」―誰も答えません。キッチンへ進むと、ブリキ鍋の中でお肉が煮えています。食器棚を開け、中に入っているものを見て彼女は言いました。「ここには誰かいるみたいね。」そして何日も旅をしてお腹が空いていたので、彼女は食事を始めました。食事の後、ある部屋の扉を開けると、ベッドがあります。「明日になるまで寝ましょう、それから何が起こるか様子を見ることにするわ。」―翌日、彼女は起き出すとパラッツォを見て回ります。すべての部屋を開け、終いに、美しい男が死んだように横たわり、その足の傍に大きなカードのある部屋を見つけました。そこにはこう書いてあります。「一年三ヶ月と一週間、付き添って世話をした者はその最愛の伴侶となるであろう」彼女は言いました。「やっと探していた人を見つけたわ。こうなったら昼も夜もここにいなきゃ。」実際、その後彼女は食事などの用事以外では片時もその場を離れませんでした。

彼女はずっと一人で死んだ男の世話をしながら、一年が経ちました。そんなある日、運河から呼び声が聞こえます。「奴隷はいらんかー召使いはいらんか。」彼女は言いました。「まあ、下へ行ってせめて一人はお手伝いを買わないと。疲れてこれ以上はどうにもできないし、少しは休まないとね。」そこで彼女はバルコニーへ出て奴隷たちを呼び、一人の女奴隷を買いました。そして常に傍に置いておきました。

さらに三ヶ月間お世話を続けたところで、疲れてしまった娘は例の奴隷に言いました。「いいこと、これから寝るので三日間はそのままにしておいて。四日目になったら起こしてね。それまでは呼んだり起こしたりしないでちょうだい、頼んだわよ。」女奴隷は言いました。「静かにして、起こしたりは致しません。」娘は横になり、女奴隷を昼夜死んだ男の傍に置いておきました。

三日経ち、四日目になりました。お世話が終わるまではあと一日です。娘はずっと寝ています。女奴隷は言いました。「彼女を起こす頃合いだけど、起こしてやらないわ!寝かせたままにしてやるのよ。」

お世話の終わる瞬間が来ましたが、女奴隷は彼女の主人をまだ寝かせたままにしておきました。そうしている間に時が過ぎ、かの男は起き上がると、女奴隷を見て抱き寄せ、こう言いました。「ああ、おまえが私の妻となるのか。」その瞬間、魔力が解けて、パラッツォ全体が目覚めます。使用人、給仕、侍女たちなど、多くの人が起き出してきました。

かの娘は多くの人々がざわめくのを聞き、起き上がって嘆きました。「ああ、なんてこと!…あの女狐は私を起こさなかったのね、私の運命ももう終わり、もうチャンスはないわ!」

かの死んだ男は王様であり、偉大な領主でした。この王は女奴隷に言います。「おまえがずっと一人で世話をしてくれたのか。」彼女はなんと答えたでしょう?「一人の女に手伝ってもらいました。一日のうち少しだけで、でもいつも寝ていました。」王は聞きます。「その人は今どこにいる?」彼女は答えました。「彼女の部屋で寝ています。いつもどおりに。」

王はこの女奴隷と結婚することにしました。

王女となるべき女奴隷は華やかで金の刺繍をした衣装を身につけましたが、元が卑しいので何一つ似合いません。八日間にわたるパレードと、結婚式へ向けた大きな宴が開かれることになりました。その宴の後で、王は家来たちすべてをtola bianca[tavola bianca、結婚式の前に新居で行われる軽食会]でねぎらいたいと考えます。そこで王は婚約者に、彼女をずっと手伝ってくれていた召使いも来させるように、と言いました。彼女は、あの人はずっと寝ていて来ないだろうから呼ばない、と答えます。その一方で、かの娘は一日余計に寝ていたばかりに幸運を逃したことをずっと嘆いていました。

八日間のパレードの後に王はその治める土地の様子を見に行くことにし、出かける度に家来に贈り物を手に入れてこようと考えて、次のように婚約者に言いました。「おまえの召使いも呼ぶように。彼女にも何かやりたいので、何が欲しいのか聞きたいのだ。」家来たちと、あの召使いが呼ばれました。ある人はネッカチーフ、次の人は洋服、またある人はズボン、そのまたある人は礼服。彼は忘れないようにすべて紙に書き付けていきます。そして女奴隷の召使いの番がやってきました。彼女はとても若くて美しい女性であり、優美で綺麗な話し方をしています。彼女が好ましかったので、王は彼女のことが気に入りました。そしてこう言います。「美しい人よ、何なりと欲しいものを言いなさい。」そこで彼女は「火打金と黒いろうそく、そしてナイフをくださいましたら幸いに存じます。」と答えました。王は彼女が望んだ三つの品に驚きましたが「よしよし、忘れずに持ってきてやるので安心するとよい。」と言いました。

こうして王は出かけました。しなければならないことを済ませ、すべて終わったところで家来たちのための買い物をします。ネッカチーフ、礼服、洋服、ズボンなど、すべてのものを手に入れ、家へ帰ろうと商船に戻りました。ところが、彼の船は前にも後ろにも動こうとしません。そのとき船員たちが言いました。「王陛下、何かお忘れなのでは?」彼は答えます。「いや、何一つ忘れてはいない。」そして彼がメモを見直すと、婚約者の召使いが言っていた三つの品を忘れていたことに気付いたのでした。すぐに彼は陸に上がり、まっすぐにとある店へ入って、例の三つの品が欲しいと言います。店の人たちはこう答えました。「これらのものをどなたにお贈りになるのか伺ってもよろしいでしょうか。」彼は自分の召使いにやるのだと答えます。「よろしい」と彼らは答えました。「お戻りになっても何も渡してはいけません。彼女を三日間待たせ、その三日の後にその召使いの部屋へ行って『水を一杯くれ』と仰ってください。それから彼女にこの三つの品を与えます。タンスの上に置いて、それからあなたはベッドの下かテラスに隠れてください。そして彼女がすることを見張るのです。」「分かった。」と王は言いました。そしてお金を払い、店を出ました。

家へ帰るやいなや、家来たちがみな出迎えに駆けつけてきました。王はそれぞれに約束の贈り物を与えます。最後にあの娘がやってきて、例の三つの品が手に入ったかと尋ねます。王は言いました。「やれやれ、せっかちな!…ああ、手に入れてきた、そのうち与えるとも。」すると彼女は部屋へ戻って泣き出してしまいました。そして独りごちます。「別にあの方が何もくれなくてもいいのよ。」次の日が来て、彼女はまた贈り物について尋ねます。王もまた言いました。「おまえは本当にせっかちな!…取らせるとも、もちろん。」さらに二日経ってから、王は娘の部屋へ行ってこう言いました。「さあ、おまえの品を与えよう。しかしまずは水を一杯持ってきてくれ。喉が渇いた。」彼女はお水を取りに行きました。すると彼はすぐに三つの品をタンスの上に置き、そしてベッドの下に隠れました。さて、彼女は戻ってきましたが、王の姿が見えません。彼女は言いました。「まあ、あの方は今日もまた何もくださらないの。」彼女は水の入ったカップをタンスの上に置くと、例の品が置いてあるのに気付きました。彼女は飛びあがって喜ぶとドアに大きな掛け金を掛けて衣服を脱ぎ、打ち金を打って黒いろうそくに火を灯すとテーブルの上に置きました。そしてナイフを取ってテーブルの上に突き刺し、ナイフの前に身一つで跪いて言いました。「おまえは私がまだ、王である我が父君の家にいた時、老婆が私に向かって、死んだ男を見つけなければ結婚できないと言ったことを覚えているか?」ナイフは答えます。「はい、覚えております。」「おまえは私が外の世界に出てパラッツォを見つけ、そこで死んだ男を見つけたことを覚えているか?」そのナイフは答えます。「はい、覚えております。」そして「私が一年と三ヶ月付き添いの世話をした頃、手伝いのためにあの忌々しい女奴隷を手に入れ、疲れていたので三日間寝かせてくれと私が言ったこと、ところが彼女が丸々一週間私を寝かせたままにしておいたこと、そしてかの死んだ男が目覚めた時、彼女が抱きついて、彼があの女を婚約者としたことは?」ナイフは答えます。「あいにくのことながら覚えております。」「良心に従い、幸運を得るべきなのは…? 一年と三ヶ月苦労した私であるか、それともほんの数日そこにいたあの女であるか?」ナイフは答えました。「あなたです。」そして彼女は言いました。「おまえがそのことを分かっていて、幸運は私のものとなるべきであったというのが確かなら、テーブルを離れて私の胸を刺せ。」ナイフが抜ける音を聞き、王はベッドの下から飛び出して娘を抱きしめました。彼は言います。「すべて聞いていた、おまえこそが私の伴侶だ! 今は気を落ち着けてこの部屋にいなさい、私に考えがある。」

そして王は女奴隷のところへ行って言いました。「やっと旅が終わった。パレードをしよう。」「まあ、あまり無駄遣いはしないでね。」と彼女は言いました。彼は旅行をする度にいつも使い込むというのです。

ようやくパレードが行われ、その後で宴が行われます。王は女奴隷に言いました。「家来たちを皆tola biancaに呼びたい。おまえの召使いにも来て欲しいので呼んでくれないか。」女奴隷は言います。「まあ、放っておいてくださいな、あんなヒキガエル[無愛想な人]!」王は「そうか、おまえが呼びに行かないのなら私が行こう。」と言います。仕方ないので彼女が行って呼んできました。かの娘は涙ぐみながら食卓に着きます。何もかも分かっているのでした。

宴が終わった後、皆が話を終えて、王の番がやってきました。王は言います。「私の友人が生まれた、ある王の治める街で起きたことだ。ある若い娘が一年と三ヶ月の間付き添いの世話をした。その一年と三ヶ月の後、彼女は手伝いのために一人の女奴隷を手に入れる。その娘は疲れていたので眠ろうとして、奴隷に向かって、三日間だけ彼女を寝かせて、その後起こすようにと言った。ところがその奴隷は彼女を起こすどころか、一週間も寝かせっぱなしにしたのだ。こうして死んだ男が目覚めた時、彼は女奴隷が世話をしてくれたのだと思い、その娘ではなく女奴隷を婚約者としたのだ。だが今、おまえたちに問いたい。王の婚約者とすべきなのは、一週間だけの女か、それとも一年と三ヶ月世話をした女か?」そこで皆は答えました。「一年と三ヶ月の人です。」王は言います。「よし、皆の者、この人が一年と三ヶ月付き添ってくれた人だ。そしてこいつは彼女が買った女奴隷だ。では主人を押しのけたこの醜い黒人女に死を与えるよう、皆に命ずる。」皆がその言葉に従い、彼女は広場の真ん中に引き出され、瀝青の樽の上で火刑に処されました。

そうして、この王と婚約者となった若い娘はずっと幸せに、満足して暮らしました。もう何も言うことはありません。


……さて、岸辺に建つ大理石のパラッツォや運河をやってくる奴隷商人、火刑に使う瀝青の樽(船の建造には欠かせない材料であった)など、ヴェネツィアらしい舞台装置がある一方で、何故この父娘は老婆の呪いの言葉を頭から信じているのか、また父王が意外に人格者なのはどういう必然性があるのかというふうに、突っ込みどころは数多ある。tavola biancaという習慣も知らなかったし、結婚祝賀パレードと買物旅行の前後関係についても最後まで腑に落ちないところがあるのだが、まずはこの物語のヒロインについてである。

たしかに冒頭の物乞いに対する彼女の態度は褒められたものではないだろうが、時代と場所を考えれば格別ひどいものとは言えないだろう。が、何を措いてもこの娘はあまりに強すぎないか。「呪いを受けて悲嘆にくれる→現状を受け入れて開き直る→課題を果たすと決意し、父が泣くのを無視して出発する」までの切り替えの早さについては、読む者に違和感と戸惑いを感じさせる間もないほどの疾走感がある。これくらいのメンタリティの強さと行動力がなければヴェネツィアでは生き残れないということなのだろうか。

後半の贈り物の場面については、王が部屋の中に隠れるためには他の家来たちと同じように渡すわけにいかないというのは理解できる。が、だからといって三日も待たせる理由がよく分からない。三という数字は要所で使われているけれども、何にせよこのように理不尽な放置プレイにもじっと耐えるところが涙ぐましい。これだけ強い人が自決寸前まで追い込まれるという展開にはそこはかとなく共感するものがある。

ところで、何を今さらという感もあるが、ナイフが喋り出すというのはいかにも荒唐無稽である。corteloというヴェネツィア語はその筋の辞書を引くとcoltelloと出るのでナイフで間違いはないのだが、corteloと似たような綴りの単語を探してみるとcorteggioという筋も無いことは無い(ただし標準イタリア語の[g]は大概ヴェネツィア語で[z]に転訛するので、あまりいい筋とは言えない)ので、一時は「従者」という可能性も考えた。そうすると会話ができたところで何の問題もないのだが、そうはいっても「従者」をタンスの上に置いたり、それを取り上げてテーブルの上に置けるはずはないし、人間であったなら王がベッドの下に隠れるのを見ていることになってしまうので、また違うところで筋が通らなくなる。

最後の自決寸前の場面を訳していてナイフということに落ちついたが、それでも喋るのは何故かという問題にうまいこと筋を通してくれたのが「黒いろうそく」である。これは黒魔術を行う際の道具であって、ナイフはつまり魔術の依り代である。衣服を脱いだ(原文に従えば一応シャツ一枚だけは着ている)のも儀式のための潔斎だろう。だからこそこれを売った店の人は「こんなものを欲しがる人間のすることはしっかり監視しておけ」と王に対して忠告したのであった。

この「黒いろうそく」については日本語で検索しても出てくるが、イタリア語で検索すると本気のサイトがいくつも出てくる。昔ながらの考え方を大事にするというか、イタリア人がどこかで近代化を拒絶しているふうなのは一年足らずの生活の中でも折に触れて感じられたことだが、このように普段はあまり感じられない世界観の「壁」がふとした時に見えると、いつもイタリアをオモチャにしている私にも滅多に笑わないイタリア人の目が思い出されて、冷や水を浴びせられたような気分になる。

あと、schiavaは現代の感覚では「奴隷」というより「下僕」というくらいのほうが近いような気がするのだが、これまでヴェネツィアについて読んだ本の中ではこの単語は常に「奴隷」だったのでそれで通した。最後の「黒人女」もど真ん中の剛速球だが、いわゆる「時代背景と作品の価値を鑑み(以下省略)」ということで加減はしていない。

ブルジョワの食卓について

ヴェネツィア大学の軒先を借りていた頃のこと、肩書きだけはそれなりに客員研究員というものであったため、日本語学科の建物の三階(イタリア語では二階)、教員の研究室のあるフロアの一角に机を与えられていた。もっとも、図書館の最下層で文献を漁り、必要な物をコピーしたらアパルタメントに帰って訳すという生活の流れがあり、また研究室に行ったところで私以外の人間が居ることも少ないので、安定したWi-Fiを使う用事のあるときだけパソコンを提げていく程度のものであった。

そのときはパソコンの調子が悪くなっていたのだが、サポートの整わないイタリアで初期化をするのもリスクが大きい。仕方がないので久しぶりに日本語学科の建物へパソコンを持ち込み、BIOSの辺りまで手を入れながらあれこれ苦心していた。アップデートや再起動待ちなど、とかくパソコンのメインテナンスは時間のかかるものである。

ところで、日本語学科には当然日本語の本が必要となるわけだが、それは図書館の方ではなく日本語学科の二階と三階に配されていた。東京の某有名私立大学から寄贈されたものが多く目につき、一流どころと付き合いがあるんやったらそらうちらの大学なんぞはのらくら躱されてなかなか相手してもらえんわな、と妙に納得した覚えがある。これは私の待遇の話ではない。では何の話かと問われるとそれは立場上説明しづらい。

ともあれ、待ち時間を潰すのによいものはないかと書架を物色し、『須賀敦子全集』が目に留まったので手に取ってみたのだった。当時は勿論イタリア語の本ばかりに囲まれており、日本の本の手触りや質感に何とはなしの懐かしさと、そして何故か、疎外されるようなのっぺりした感覚を覚えたものである。

さて、なぜ今さらこのようなことを思い出したのか。

この二年ほど勤めていたブラック企業の軛からどうにか逃れ、めでたく中年フリーターへと返り咲いた先日のこと、久しぶりに大きな書店で書棚の間を巡っていたところで『須賀敦子全集』が文庫化されていたのを見つけた。一巻がなかったのでとりあえず二巻を買って帰ったのだが、読み始めたところで、あのときヴェネツィア大学の三階で読んだものと同じ巻であったことに気付く。文の構成順序がイタリア語のものであることが体感的に分かるようになったというのがあのときと比べて多少なりとも進んだところであるが、久しぶりに読んでみたところで、悲しみを書き付けたり、誰かの肩に預けられるのは強さなのだな、とつくづく思った。

私とは時代も立場も異なり、また言語能力についても遙かに及ばないわけだが、ヴェネツィア滞在記を書いてもなぜ私の場合はこのようにエレガンテにいかないのだろうか。なぜイタリアで須賀氏が出会ったのはウンベルト・サバであったのに、私が出会ったのはルイージ・プレットのような阿呆だったのだろう。類は友を呼ぶとでもいうのか。

嘆いてばかりいても仕方がないので本題に入る。ゴルドーニに導かれて18世紀のヴェネツィア料理について見ていくのは今回で一区切りとなる。

カルロ・ゴルドーニはヴェネツィアーニの伝統に則って浮き沈みの大きい人生を送ったが、何もかもすっ飛ばして最後の三十年ほどの期間を過ごしたパリにいた頃、「MÈMOIRES」に記されたこんなエピソードがある。

「マダム、イタリア人にはパンのスープをあげましょうか?」ド・ラ・クリシュ氏は、ジェニオ・イタリコ座での昼食会にともに招かれていた愛らしい貴婦人に向かって言った。「我々の流儀でやりますと、彼に何を出せば良いのでしょう?」「マカロニですよマカロニ、イタリア人はマカロニしか食べないのですよ!」

この引用に続く解説文をとりあえず引く。引用の「」と重なってややこしいことこの上ないが、[]内は断りがない限り私の註である。

ジュゼッペ・マッフィオーリはメモワールのこの場面に注目して次のように言う。「ヴェネツィアを出発する以前、ゴルドーニはおそらくビーゴリ、メヌエーリ、タッリャテッレ、タッリョリーニ、そしてラザーニェを食していた。当時すでにレオナルディの『Apicio Moderno』(1791年出版)によって広く知られていたにせよ、まずトマトスープのパスタは食べていなかった。」加えて、「ヴェネトのパスタは、フェデリーニやタッリャテッレ、または米と同様に使われていた種子類を主にブロードで食していた。炒ったトマトを隠し味程度に使うことはあった。当地のものではなくプーリア起源で、大小のリガトーネのようなものであるスビオーティやスビオティーニがときにインゲン豆のミネストラにも加えられた。陸路よりも海路で運ぶのにより適しており、またすべてのヴェネトの船はバーリやブリンディジの港に寄ることが義務づけられていたので、ナポリのパスタよりはプーリアのパスタの方がより多く話題に上っている。パステ・コンツェ[paste condite味付けパスタ]となるとほぼ常に挙げられるのはラザーニェで、パスティッサーダやストゥファディンのような特定の料理のソースが調味料として用いられる。しかしヴェネトの人々にとって常に最上位にあるのはビーゴリである。ビーゴリと言えば全粒粉を使った茶色いものであるが、精白した粉をベースとしたより大きくどっしりとしたもの、またはヴィチェンツァのレシピのように卵を使ったもの、カモのラグーを使ったものもある。ともあれこれは特別な料理で、日常的に作るものではなかった。」

……料理の本であるのは承知しているが、それでもツッコむのはそこではなかろう。イタリア人が「マカロニ食い」と馬鹿にされているのは放っておいていいのか。ゴルドーニはマカロニを食べていないから的外れだというのはどこへ向けた反論だというのだ。

まあ、イタリア人が気にしていないならそれでよい。さて、当時のヴェネツィアのそこそこの家庭の料理は「LA CAMERIERA BRILLANTE」でブリゲッラという登場人物がその主人の食事について語るところに見られる。

「粗布の上に、普段どおりの米やパスタのミネストラ……雄鶏と雄牛肉。子牛肉のロースト一つとオゼレーティ[ucceletti小型の鶏を焙ったもの]二つ……次の料理、これはストゥファディン、あるいはポルペッテ四つかムール貝のようなもの、そしていくらかのチーズ、フルーツ……しかしタルトはない、パイもない、野生の獲物もない……」

そしてもうちょっとましなブルジョワの家については「UNA DELLE ULTIME SERE DI CARNOVALE」で描かれている。以下はドメニカが午後五時の夕食を準備するところである。

「raffioiラヴィオリのソースを作る手伝いをして、深鍋でシチューを作って、そしてそこにムール貝も入れたいわね、鶏肉をきれいにして、シチメンチョウの詰め物を作って、ポルペッテも捏ねとかないとね。ワインの用意も……」

大概の料理は現在でもそのままであるが、小鳥の串焼きあるいは鉄板焼きだけは郷土料理とたいして関係がないというので、あいにく今となっては珍しいものとなっているそうな。

もうひとつ、「LE MASSERE」の中にこのような対話がある。

ドロテア   料理は得意?

メネギーナ  メンドリの煮込み、ロースト、giustar
       [aggiustareの関連語と思われるが未詳]
       リージもできるし、ちょっと危なっかしいけど
       必要ならおいしいソースも作れるし。

ドロテア   私はてんで駄目、お祭りごとに
       もう一皿お肉は出すけど、それでおわり。
       お腹がふくれれば十分よ。何であなたはそんなにできるのよ?
       節約しないと今にどん底行きよ。

この最後の「節約しないと今にどん底行きよ」という台詞は当時の貴族階級に向けた警鐘であると解説されているのだが、イタリア人のツッコミのセンスにはどうも違和感を拭えない。表面的にはどう考えても料理ができないドロテアの負け惜しみとしか聞こえないのだがどうか。

この後は当時ヴェネツィアに押し寄せていたフランス料理に対し、「マカロニ食い」が罵詈雑言を投げつけながらの解説が続くのだが既出のものが中心なので省略。salsaソースに関するところだけちょっと見ておきたい。これもトレヴィーゾの大美食家とされるマッフィオーリの解説に拠る。

「もちろんフランスの流行は共和国でも見受けられる。ヴェネツィアのトラットリアの主人たちは最近フリカンドやフラカッセを勧めてくるが、それはつまるところソース仕立てのスペッツァティーノと、子牛、子羊、ニワトリを下ごしらえして一口大にしたものを煮込み、卵黄を入れて和えたもののことで、多くの煮込み料理とロースト料理、フリットとシチューの中の一つでしかない。」

ヴェネツィアでは「ボイル料理にソースが添えられる。イタリアにはpavarà[pepe]からいわゆるグリーンソースまで多くの伝統的なヴァリエーションがあり、またcren[ホースラディッシュ・セイヨウワサビ]、パンの柔らかい部分、野菜や固茹で卵、イワシ、tarantello[マグロ系の魚と思われるが未詳]、マグロに合わせて供された。それでも、ヴェネトの人々は常に出された食材がごてごて飾られずにきちんと見えるのを好み、ソースは肉全体を覆うのではなく肉の傍らに少量で控え目にしていたのであって、肉であろうと魚であろうと少量のコショウにオイル、ニンニク、イタリアンパセリをベースとした最も古めかしいソースが常に好まれていたというのが事実である。」

この辺りは始末屋のヴェネツィアーニのイメージに沿うものであった。

さて、そしてこの時代を解説していて外すことのできないのが「カフェ」である。店の名前や歴史については他所でいくらでも解説されているが、当時のメニューについて詳しく書いてあったので挙げておこう。

1683年のヴェネツィア、プロクラティエ・ヌオーヴェにAll'araboという看板を掲げた最初のカフェがその扉を開き、また1689年にシチリア人のプロコピオという人物が監修し、そこから名を取ってProcopeと名付けられたヨーロッパ最初の近代的カフェがコメディ・フランセーズの前に開店したと考えられているその時から、実質的にヨーロッパを通して新たな時代が始まった。

すぐにヴェネツィアでは多くのカフェが店を開き、サン・マルコ広場には一時35軒もの店があったと見られている。これらの店内ではコーヒーに加え「氷水、あるいは清涼飲料(orzate[アーモンドフラッペ]やリモナータのようなもの)、カップ入りチョコレート、ロゾリオ(ヴェネツィアで作られたリキュール)、papine(ミルクや様々な材料を使ったシャーベット)baicoli, bussoladi, bigné[シュークリーム]にフリトーレが供された。客を呼ぶためにmandorle confettate[糖衣で覆ったアーモンド]、ビスコッティーニ、一服のタバコ、これが一杯のコーヒー込みで締めて4ソルディ(1723年当時)で提供されるようになった。」とマランゴーニが書いている。

……ロゾリオというのは現在のアペロルやカンパリのようなものではないかと思う。バイコーリやブッソーラは今はヴェネツィア中のスーパーでも売っている。小さなシュークリームも思い返してみると大学の近くのパスティッチェリアで食べたような気が。ともあれ話を戻す。

加えて「1720年12月29日は、イタリアのみならずヨーロッパのカフェの年代記・歴史上最も大事な日として記録されている。サンマルコ広場、プロクラティエ・ヌオーヴェにカフェAlla Venezia Trionfanteが開店したのだ。それはすぐに所有者の名前(フローリアン、あるいはフロリアーノ・フランチェスコーニ)にちなんでFlorianと名を変え、最上級の貴族階級の客が通うようになって、あっという間に最も知られた旅行ガイドにおいて注目と評判を集め、好評となった。

フローリアンの行く手では、1723年(やはりプロクラティエ・ヌオーヴェ)にAuroraという看板を掲げたカフェが開店したが、これもヴェネツィアで最も輝かしく豪華なカフェの一つと考えられている。Quadriという、1700年代の終わりにジョルジョ・クアドリ(コルフ島出身)が開いた店(サン・マルコ広場のプロクラティエ・ヴェッキエ)も同様に記録に残されており、それらの店ではヴェネツィアーニが何よりもsemada[原註:メロンの種、アーモンド、砂糖のジュースをベースとした飲み物]、そして初めてトルコ風に淹れられたコーヒーを味わった。Orso coronato(現在のLavena)にはcodega[原註:広場のポーター]が通い、Chioggiaは船員のたまり場となり、Martiniはジュスティニアーニ劇場[未詳]の俳優、その後フェニーチェの俳優が常連となった。」

これらの店は1700年代のヴェネツィアの文化を少なからず特徴付けたが、古い伝統を逼塞させたわけではなく、実際のところ人々はグラスに入ったワインを飲み続け、「magazeni」に通った。アルヴィーゼ・ゾルズィが記録するところに拠ると「そこは抵当を預かって貸しにもしてくれるところで、bastioniという下層階級向けのオステリア、さらにmalvasieと同様にヴェネツィアの多くの地名に跡を残し、そこへはギリシャやキプロスのワインが一杯ほしいという貴族たちも通ったのだった。」

ワインに関しては「Enoteche」という作品中、「素晴らしきピエトロ・コンタリーニ氏と麗しきマリーナ・ヴェニエル婦人との間の幸福に包まれた結婚式に際して」詠まれた滑稽な短詩の中で以下のように描かれている。ヴェネツィア語の詩であるから例の如く豪傑訳となることをお断りしておく。特にドイツ人のところが今一つの出来である。

 グラスがブルゴーニュのワインで満たされると
 すぐにフランス人は賛歌を歌い出す
 ライン川流域のワインとともにドイツ人は
 私の後に続こうと並び出す
 さらにスペイン人がその後に続き
 スペインのティントを飲んで活気づく
 イギリス人はパンチの甕を抱えて飲む
 フリウリ人はピコリットを、ペルシア人はキプロスを
 「我らの酒をジョッキに入れてここへ持て」
 (麗しきヴェネツィア人が笑いながら言う)
 しかし上質なものがまったくなくて
 ブルゴーニュやアリカンテのほうを飲んだがまし
 パドヴァ人やヴィチェンツァ人たちは
 Ponente西方やLevante東方のがお気に入り
 遠くのものをありがたがるのも分かるが
 私は我らの酒を呑むのが一番だ

疲れ切った人について

平均して月に240時間程度という労働時間はこの国ではたいしたことないのかもしれないが、私がイタリア帰りだということを少しは考慮してほしい。毎日のようにNon esisto senza vacanza! と心の中で叫んでいるのだが、日本人である上司の耳には届かないようである。

碌に休みも取らずに、半年以上にわたって一日中建物の中でじっとしているような仕事を続け、たまに録画した「小さな村の物語」を観たり、4月25日にはrisi e bisiを作ったり、後先考えずに大量のバッカラ・マンテカートを作ったりしてひたすらイタリアを懐かしみながら考えたこともあるのだが、ここはそういうことを書く場所ではないので措く。

さて、間が空いたことを幸いにしばしヴェネツィアから離れ、田園地帯へ向かってみるのもよかろう。こちらにとって幸いなことに、そしてそこに住むことになった当人にとっては残念なことに、この土地の人々の生活はヴェネツィアの政治や経済の情勢とも密接につながっていた。共和国の力が衰えたことで財を失った貴族たちが都落ちしていった、という流れがあって、そのお陰で当時の様子が記録に残ったことが「こちらにとって幸い」である。

貴族階級であるイァコポ・アントニオ伯爵と淑女アンジェラ・ティエポロとの間の息子であったGasparo Gozziガスパロ・ゴッツィという人が今回の主人公である。彼は崩壊しつつあった一家の財政を立て直すことができず、1740年の秋、Motta di Livenzaの少し先にあるVicinale[Visinale?] di Pasianoの田園地帯の邸宅へ隠遁した。友人たちに当てた多くの手紙の中の一つで自身が述べているらしいのだが、そこで彼は主に「読書、思索、執筆」に専念したという。

では彼の友人であるアントン・フェデリーゴ・セゲッツィに宛てられた最初の書簡を見てみよう。「ああ、かくも私は疲れ、打ちひしがれている。互いに会われぬ恋人たちのように煩悶に満ちた手紙で遠くから愛を確かめ合うことに。私を慰めてくれ、一度でもいいから慰めてくれ。この小さな屋敷は君たちのご来迎の栄を賜る日が来ればいくらかましにはなるだろう。私の小さな隠れ家に君たちが集まってくれたらそれが私にとってどれほど嬉しいことか! このMeduna[Metuna?] di Livenzaメトゥーナの岸辺で我々の交わすであろうメッザ・ヴォーチェの歌声のなんと麗しきことか! 詩人たちにとってそこは祝福された場所であり、私の家から一マイル離れたところにあるノンチェッロではその昔ナヴァジェロ[Andrea Navagero、共和国の公認歴史家]が散歩していたものだ。その頃のようにその最奥にニンフたちが居るかどうかは分からないが、しかし、マスやカワヒメマスがいて、一人のニンフを選び出すだろう。さあ行こう、小舟に乗ってFossettaフォッセッタまで。それから主の御名において荷馬車屋の手に身を委ね、モッタに着いたら別の荷馬車に乗り換えれば、そこから二時間ほどで私の話している小さな邸宅が見つかるだろう。すぐに慣れてしまって、道中がいくらか退屈なものとなるのは事実だ。輝かしき偉大なBrentaブレンタ川では、進むごとに邸宅が見えるが、それはきっと奇妙で、ときに倒壊した家のように見えるだろう、または長い長い並木が続き、そして大地はキリストの恩寵を欠いた土地のように見えることだろう。しかし少しの居眠りと鞭の音、さらに馬の首の鈴の音がそれを紛らわせてくれる。そしてここに着いたら、最初は生け垣の中に隠れた十か十二羽のナイチンゲールが歓迎してくれる。それはこのうえなく耳に快いはずだ。私は入口に立っていて、君たちに駆け寄って歓喜に満ちた抱擁をする。そしてまもなくオンドリ、カモ、若鶏、シチメンチョウがクジャクみたいに君たちにつきまとうことになる。きっとやっかいだが、しかし我慢する必要がある。というのも、これらの獣たちに何か言えとか、こちらの言うことを聞けとかいうのは不可能で、そいつらは君たちのために命を差し出し、茹でられたり串刺しにされたり切り分けられたりすることになるからだ。この練兵の指揮官は跛の田舎娘で、こいつは美味いパスタというものを見たことがない。それは彼女がこの練習生たちを心から愛しているからで、奴らを締める度に感極まって、べそをかきながら鶏たちの死を見届けるのだ。飲み物はルビーのように色づいたワインで、飲んだと思ったら喉から膀胱へ巡り、そして地面へ落ちる。パンは今降っている雪のように真っ白だ。しかし何にもまして最上の喜びは、満足のあまり声がすぐに力を失い、常に歌っていられないことだ。もしこの小さな屋敷が君たちのお気に召さなければ、ゴンドラを呼び、カバンやトランクを持ってそれに乗り込んで急いで帰ってしまえばいい。君たちの機嫌を損ないたくはないから。」

出てきた地名をヴェネツィアから近い順に並べると、リヴェンツァ川に沿って遡りながら、モッタ、メドゥーナ、ヴィシナーレ、ノンチェッロとなる。フォッセッタという地名は検索するとキオッジャの辺りに見つかるのだが、どう考えても文脈に合わないので今のところ不明。ニンフ云々の件については、ナヴァジェロの記述にニンフが出てくるのであろうというのはそれとして、その後の部分はちょっと意味が通らない。しかしいくら考えても分からないので放置。この手紙は最後の部分が自虐的というか、突然自暴自棄になるところがちょっと心配である。

もちろん行ったことがないのでどんな場所だか分からないのだが、平野部の田園地帯を荷馬車に揺られて旅するというのは悪くないイメージである。今行こうとすればバスに乗ることになるのだろうが、古いFIAT 500あたりを借り出してガタゴト走っていきたいものだ。そうすると帰りにゴンドラに乗れないのが難しいところではあるが。

別の友達、ルイージ・ピッツィに宛てられたガスパロの手紙の中では、サン・レオナルドの祝祭が描写されている。それは彼の邸宅からそう遠くない場所で復活祭の木曜日に祝われ、人々は土地の農家の草原のうえに佇み、昼食を取る。「(男女の農夫たちは)森に着いたら小さな教会へ赴き、祈りを終えたところで楽しい時間が始まる。ここでかごを開いて、frittate fredde冷たいフリッターテ, ova sode固茹で卵, odorifere cipolle e capi d'agli香しいタマネギやニンニクを取り出すのだ。そして何よりZuccheカボチャの栓を開ける。その身は白か朱色のワインで満たされており、樽、カラッファ、そして招待客の杯となる。立っている人、座っている人、寝そべっている人が居て、大地のうえで食事が始まる。爪でちぎって、あごで砕いて、そして愛を込めて例のカボチャに口づけるのだ……飲み食いの合間に冗談が混じる……。」こう書く合間に彼は友人に問いかける。「君もここに来て、道端にフリッテッレの店が建つのを見てみないか? ほかにも見物はある、そいつは田舎の人たちだ。通りを歩くのも壮観で、両側にいろんな類いの店が連なっているのが見える。それに頭巾を被った女の子たちを見るのも素晴らしい。彼女たちが自在に操るフライパンから立ち上るオイルで、彼女らの頭巾は煤けているのだ。」

先の手紙で家禽がたくさん出てきていたのもそうだが、フリッターテや固茹で卵と、卵を使ったものが並ぶのもヴェネツィアとは違って内陸らしい。odorifere cipolle e capi d'agliというのは字義通りに「香しいタマネギやニンニク」と訳してみたが、検索してもこの手紙の原文が出てくるだけだった。ハーブか何かで香り付けした漬け物のようなものだと思われる。

白や朱色のワインとある部分の「朱色」というのはvermiglioという単語で、ワインの色を表すのに赤・白・ロゼ以外にそういう単語を使うのかと思って調べてみたが、この言葉はワインと関連した場合には産地を指すことが多いようだ。ガルダ湖の北の方だからそこまで遠い場所ではないが、当時の距離感覚ではここからワインを運んできたとも考えられないので単純に朱色ということで決着。そしてカボチャをワインの容器として使うというのはどう考えても誤訳ではないかと思われるのだが、文法的にはほぼこれで間違いない。ただし、当地で使われていたワインの容器がその形状から「カボチャ」と呼び習わされていたという解釈もできないことはない。

それにしても田舎では祝祭の出店が素朴である。これがヴェネツィアだと以下のようになる。

バターやチーズを加えたポレンタ、そしてドルチェ・デ・ヴェデーロ、これはゾンピーニという人によると「良質な牛の血」、つまりバルドーナの一種であり、したがって後には豚の血で作られることもあったという。さらに「安物の」魚、「2ソルド」や「1マルケット[聖マルコの肖像が描かれたヴェネツィアの通貨]」のザエーティ、フリトーラとズィビッボ、はたまたフォルピ・ダ・リージつまり卵を持ったものや、雄であるフォルピ・ダ・コーチョ[ともにイイダコ]、サザエあるいはカラグオイ、洋梨やリンゴを煮たペトラーリなどが売られていた。

街の路地に散らばったタコ売りたちは人々の気を引くためにこう叫んだ、「どうだい!子持ちダコだよ!雄ダコはいらんか!」。そしてサザエ売りについてはエミリオ・ニンニがこう書いている、「ヴェネツィアの街では、丸々として大きいよ!熱々のハゼもいかが!という呼び声の聞こえない場所はなかった」。

ヴェデーロというのはヴィテッロ、つまり子牛肉だと見当がつくが、baldonaバルドーナの一種といわれてもそんなものは知らない。カラグオイというのはサザエ売りを指す方言のようである。ともあれ、ヴェネツィアの方が全体的に暑苦しくて生臭いのは十分お分かりいただけたであろう。やっぱりこれくらい元気でないといけないのか。

季節の行事について

 

  有る程の芋投げ入れよ鍋の中

 

今や伝説となったラジオドラマ「芋煮会」を聴いて以来、芋煮なるものにいつかは参加したいものだと、この季節が巡ってくる度に考える。東北に知り合いが居ないこともないのだけれど、しかし実際にはなかなか行く機会がない。

里芋を使うという共通点はあれど、それ以外の材料(主に使用する肉の種類)や味付け(味噌か醤油か)に関しては、東北各地方それぞれの地域ナショナリズムに端を発する異常なまでのこだわりがあるらしい。特に山形(牛肉が主)と宮城(豚肉が主)の間の対立は熾烈を極め、越境者が何も考えずに準備に関わって厳正なる鉄の掟に触れた場合、会場となる河原には芋煮用の薪を使った磔台が組み上げられ、咎人は火刑に処されるとかいうこともあったとかなかったとか。

またあるとき、山形県のある女性と宮城県のある男性が恋仲となったのだが、その年の秋のこと、男性の母親から芋煮用の肉を買ってくるように頼まれたその女性が山形の慣習に従い牛肉を、しかもあろうことか米沢牛を買って帰ったということがあった。それを見た宮城の男性の両親は激怒して二人の仲を引き裂いてしまい、故郷へと帰ったその女性は芋煮会用に作られた巨大鍋(通称「鍋太郎」、直径6メートル)の中で煮えたぎる芋煮へと身を投じ、儚き命を絶ったとかいう悲しい恋の物語もあったとかなかったとか。

これまで折に触れ紹介してきたとおり、料理に関する地域間対立はイタリアでもよくある話であるが、イタリアにしても東北にしても、実物を見たことがないが故に種々の風説によって勝手なイメージを膨らませていくのが面白いのであって、『高岳親王航海記』の蟻塚に嵌まった石の如くに、手に取ったら最後、その光を失ってしまうようなものなのかもしれない。東北はヴェネツィアより遙かに近いのであるが、遠きにありて思うもの、としておいた方がよいのであろうか。もっとも、彼の大プリニウスは各地を巡って自分の目であらゆるものを見たうえで、なお荒唐無稽な『博物誌』を著した。実物を見たからといって負けてしまうような想像力ではまだ甘いのだとも思える。

ではそろそろ本題に入ろう。ヴェネツィアの民衆の季節行事としては、二大祝聖記念日、聖マルタとレデントーレというものがあった。エウジェニオ・ムザッティという人によると、「共和国の初期のこと、七月にもっともよく食されるシタビラメの漁に出た人たちは日が落ちる頃に陸に上がり、少し涼しくなった空気の中で一息ついて長い仕事の疲れを癒やした。そして最も外側の岸、つまりサン・ニコロ通りのサンタ・マルタの家[教会]の辺りでその日の獲物を使って質素な酒宴を開くのである。最下層の人々も聖マルタの晩餐(7月29日)に相応しい一張羅を引っ張り出し、sfogio in saorシタビラメのサオールに乾杯するために多くの人々が集まって陽気に騒いだ。木の筏が揚げられたことでザターレ[ザッテレ]といわれた対岸のフォンダメンタとの間を隔てるジュデッカの運河沿いには、美しく飾られ、照らし出されたあらゆる形と大きさの舟が見られた。たとえば甘美な響きが度々流れ出てくる裕福な貴人のpeotaペオータから、シタビラメ漁に使われ、市民家庭の事情から賃貸しされて祭りに姿を見せたtartanaタルターナなど。小枝で飾られ、それぞれの家族の食事のために準備された質素な職人たちのbattelliバッテッロも欠かせない。それは普段から使っている紙提灯でわずかに照らされ、その中では小さなランプが燃えていた。また、宴会の準備をしていなくても、また他にたいした動機がなくても、混み合う舟の間を気の向くままに流していくのが好きだったり、シタビラメを揚げたり伝統的なサオールを用意したりしているカフェや酒場、そして行商人の料理を楽しむ人々で埋め尽くされた岸辺の愉快な光景を楽しむために流していったりする人たちの軽快なgondoletteゴンドレッタもあった。」

シタビラメは一般にsogliolaという。ヴェネツィアではよく見られる魚だが、滞在中は専らグリルで食した。サオールといえばsarde in saorであり、シタビラメのサオールというのは残念ながら覚えがない。聖マルタ教会はヴェネツィアの南西の端、珍しく車道のある区域にあって、カ・フォスカリ大学のサン・セバスティアーノの校舎から近いので授業の帰りに一度だけその大外を歩いたことがある。が、当時は車道近くを歩くことに恐怖を覚えるような状態となっていたので、車のエンジン音を警戒しながら歩いた覚えしかない。

ローマ広場周辺からこの地域にかけては近代まで何らかの工場として使われていたような建物が多い。その工場や倉庫群へと繋がっている線路跡も残っており、それはそれで味があるにしても、一つ一つが大きいうえにのっぺりしているため、ヴェネツィアと聞いて一般に思い出すようなものとは趣が異なる。ただしこの辺りを散歩した日は例のcaigo(霧)が強く出ており、霞んだ景色の中で撮った写真はそれなりにヴェネツィアらしい出来であった。

それはそれとして、聖マルタの祭日というのも知らないのでちょっと検索してみたが、特に何も出てこないようである。日程が近いのでレデントーレに呑み込まれてしまったのであろうか。

ムザッティ氏の記述に戻る。「レデントーレの祭日[七月の第三日曜日]の人出もそれに引けを取るものではない。というのも、サン・マルコ広場からジュデッカのサン・ジョヴァンニまで荘厳な行列が渡っていくこととなる木製の仮設橋を介してそこへ簡単にいくことができ、その祝聖祭日の夜の間、人々はそれを利用して、この島の岸辺や美しい庭園へと散らばり、日中の暑さで疲れた体を癒やすのだった。そこにはまさに、皆で集まって騒ぐために混ざり合い、草の上に横たわったり、簡素な食堂の中に座っていたりする陽気な人々の集まりがあった。彼らは質素な食事のために集い、そこで鶏のローストを味わった。しかし何にもまして、慎みと節度を保ったユーモアと快活なお喋りを楽しんだのだった。ザッテレからジュデッカ島まで、もう一つはサンタ・マリア・デル・ジッリォの渡し場からサルーテ(ザッテレからすぐ)までをつなぐ二つの仮設橋によって、レデントーレの祝聖祭日の宵から当日の夕暮れまでずっと人々の活況は続いた。その島のフォンダメンタ沿い、一キロメートルほどの空間全体にアニス酒の水割、フェンネル、鶏のロースト、フルーツ、フリッテッラ、玩具などを売る人の列が途切れなく見られた。そしてレデントーレ教会のあるサン・ジャコモ広場ではzarese moreザレーゼ・モーレ(赤黒サクランボ)売りが声を切らして叫んでいた。」

仮設橋や物売りに関しては今でも同じようなものがあるが、「慎みと節度を保ったユーモアと快活なお喋り」というのはもう期待できないだろう。ヴェネツィアーニがそれを失ったというのではない。この日はヴェネツィアに観光客が押し寄せる一大イベントなので、どこもかしこも朝から晩まで雑然としているのである。ヴェネツィアを愛する余所者としては申し訳ないというほかない。

この本の編者であるジャンピエロ氏はこう言う。
「1700年代、祝聖祭日の騒ぎの向こうには、彼らの日常生活に即し、フラトーラ[惣菜屋、大衆食堂]やフリトリーノ[フリットやポレンタを売った店]に端を発した庶民の料理があり、それは書物に多く書き残すに値しないほどに単純な料理であった。しかし、恒常的な外来物の流行、味気なく、うわべだけの創造性、即席の安易な調理法の中にありながらも、すでに見たように、現代へと続いて今も人々の味わっているヴェネツィア料理文化の基幹でありつづけるほどに、人々の実生活に即したものであったことを記して締めくくりとしよう。
 それはヴェネツィアーノが日々食べ続けている料理のおかげ、また毎朝早起きして魚市場へ駆けつけ、午後は丸々「curar schie」[スジエビを茹でて]過ごし、彼らの料理が本物かつ貴重なヴェネツィア文化の中心であると考える多くの愛好家たちのおかげである。ガイドブックに載らないこの大多数の人々こそ、かの至上の光輝に満ちた共和国の香り、美味、そして繊細さを今も味わうことのできる人たちなのである。」

ドルチェについて

毎年5月31日が近づくとタバコの害を主張する報道が増え、煙の味が些か苦くなる。タバコの場合は被害をはっきりと定量化できるから攻撃しやすいのだろうが、しかしそもそも誰にも一分の迷惑もかけずに生きていくことなどできるのであろうか。他人様の寿命を一秒たりとも縮めてはいけないと突き詰めていったら、身体的にも精神的にも他人に関わることができなくなってしまわないか。人間が生きていること自体が悪だというなら分からんでもないが。

子供の頃はタバコの煙が大嫌いで、今でもこれが好きになったというわけではない。そして健康被害の科学的根拠に関して面倒な議論をしている人があるにしても、タバコの煙を不快に思う人がいるのは厳然たる事実である。が、いつの頃からか世間が一斉にタバコを攻撃するようになったのを見て多少違和感が生じ、自分としては喫煙者の側に立とうという気になった。文学部らしいというか、若気の至りというか。まあ、私のことなどどうでもよい。

ヴェネツィアはかなり喫煙者に甘い。建物の中はまず間違いなく禁煙だが、大きめのカンポには概ね灰皿付きのゴミ箱が設置されており、常に誰かが一服している。紙巻きは税金が高いのでお金のない学生などは刻んだ葉だけを買い、自分で巻いて吸う人が多いというふうに聞いたのだが、しばしばその中には違う種類の葉っぱが混じるという。また観光客の歩きタバコも日常のことであって、その吸い殻は皆が躊躇うことなく道端へ捨てていた。こう書くと完全に無法地帯である。

目の前に運河があればそこへ捨てる人もありそうなもので、淀みにタバコのフィルターが吹き寄せられている様子は想像するに容易いが、実のところそういった光景は記憶にない。そして石畳の方の美観はどうなるのかというと、毎日掃除夫が箒で街中を掃き清めてくれるお陰で保たれている。

リアルト付近は主要観光スポットなので清掃は最優先に行われる。この掃除は毎朝のゴミの回収とセットであるため、私が下宿していた辺りはやたらと回収時間が早く、寝坊してタイミングを逃すこともままあった。当然パッカー車などは使えないので回収は基本的に人力である。数多ある橋の階段を越えられるように設計された特殊な手押し車を使い、Attenzione!と連呼しながら観光客の群れを切り開いて進む彼らに、ヴェネツィア市民の日々の生活を見出したものだった。

すでに見たように、ヴェネツィアの伝統を今に伝えるにあたっては様々な「アルテ(職業組合、ギルド)」が重要な役割を果たしてきた。職能集団といえば今ではかの清掃業者かヴァポレットの運航会社、そしてゴンドリエリくらいしか目につかないが、往事のヴェネツィアで特に重要だとされていたのはpistòri、これはパンの製造者である。主食であるからして、この食物は中世の終わりまで広範な法規制の対象となっており、その規制は小麦粉の品質、作業法、パスタの種類、調理方法、販売、価格にまで及んだ。

ヴェネツィアには、l'albus(白パン)、tota farina(全粒粉パン)、そしてil traverso(篩った小麦粉を使ったものと推測されている)というタイプのパンがあったという。ジュゼッペ・タッシーニという人によるとヴェネツィアのパンは「今では失われた熟練の技によって、虫に食われないという特徴を持っていた」そうな。これはつまり「日持ちした」と言いたいのだと思われる。

前回取り上げた牛タンのサルミストラータについて調べていた際、保存料として硝酸カリウムを遠慮なくぶち込むというやり方を見た。現代でもハムやソーセージについてあれこれ議論となっているのが折に触れて見受けられるが、船旅の糧食とすることを最優先に改良が行われ、結果、虫も食わなくなったパンというのは一体どんな味がしたのだろう。

イタリア人が調べても分からないことを日本人が考えても仕方ない。それはそれとして、この街でもっとも豪華なパンはbuffettoといった。マランゴーニによると「精選された極上の小麦粉で仕立てられた真っ白なパンで、少量のバターや砂糖が加えられることもある」とのこと。ヴェネツィアではポレンタでも黄色いものより白いものの方が高級とされるが、手間を加えて精製されたものの方が珍重されるのは日本の米でも同じ理屈で、別に珍しいことではない。現代では真っ白の方が不自然だといってあれこれ混ざったパンの方が流行っている様子なのもまた同様である。

もうひとつ重要な組合にlasagnèriその他パスタ類製造者の職業組合というものがあり、これは1638年になってつくられたものだという。共和国の歴史を考えればかなり新しい部類に入るが、しかし彼らはすぐにヴェネツィアの食において重要な役どころを占めるようになる。ラザニェーリたちは自身の工房でパスタを売るだけではなく、自分の家でパスタや菓子を作りたいという人々の要請に応え、精製した小麦粉も売るようになった。

さらにはscaletèriあるいはbuzoladi[チャンベッラ職人と但してあったが、ブッソーラが元であるように思える]と呼ばれた菓子職人もあり、彼らは道端で菓子を売っていた。マランゴーニによるとしかし「この行商人たちは、一箱以上のチャンベッラとコンフォルティーノ(コショウと蜂蜜ベースの菓子)を持ち歩くことを許されていなかった」という。この職種は多くの禁則、たとえばパスタ菓子を女性・馬・鶏・鳥の形にしてはいけないとか、堅信式の期間中は教会内で菓子を売ってはいけないなどという、ときにはむしろ滑稽とも見えるような規制に縛られていた。

そして真打ちとなるのがfritolèriである。またもやマランゴーニによると「今日においても大衆的な菓子のトップであるように思われるヴェネトの国民的な菓子la frìtola (frittella)はこの街のあちこちの地区で売られており、たいていは外から作業の様子が見えるような木造の四角いバラックの中で作られていた」。

これらの職人達は製造と同時に販売もしており、「大きな板の上で小麦粉をこね、その後オイル、ラード、あるいはバターを使い、三脚にのせた大きなフライパンで揚げていた。調理が済むとそのフリッテッレは、様々な方法で豪華に彩られた錫や白鑞製の皿に陳列された。また他の皿には商品の美味しさを宣伝するため、松の実、干しブドウ、シトロンなど、使われている素材が並べられていた」。

全体的にヴェネツィア料理ではラードなどの獣脂を使わず、desfrito[ヴェネト語で炒め物]の調理にはオリーヴオイルやバターを使うのが基本である。ついでにいうと、炒め物に使うペースト[下味]にはほぼ常にイタリアンパセリと玉ねぎをみじん切りにしたものが使われていた。よってラードを使うのはほぼフリトーラに限られていたそうだが、コストの面ではそちらの方が安くついたのだろうか。ちなみにイタリア語でラードはstruttoあるいはsugnaという。lardoという言葉も別に出てくるので暫し考え込んだが、これはどうも脂身という文脈で使われるようである。

フリッテッラというのは小麦粉、砂糖、牛乳、卵などを混ぜて作った生地を揚げたものの総称である。要は単なるドーナツ菓子であるが、ヴェネツィアではカルネヴァーレの時期に作られる球形のものがもっとも有名だろう。また帰国直前の昨年三月、行きつけのパン屋で「こいつはヴェネツィアの伝統的なお菓子だよ」と言われ、いかにも復活祭風の卵形の揚げ菓子をオマケにもらったのだが、これも「フリッテッラ」と言っていた。

エリオ・ゾルズィは「カルネヴァーレとすべての祝聖記念日にはフリットーレ、謝肉祭最後の木曜日にはガラーニが作られた」と記しているが、この「ガラーニ」も生地は同じようなものである。板状に薄く延ばして所々切り目を入れて揚げ、仕上げに粉砂糖をしこたま振りかける。

ヴェネツィアを出ればこのフリッテッラにはさらに多くのヴァリエーションがあり、イタリア各地で独特の形をしたものが作られている。そして形が違うだけではなく名前まで変わることがあり、そうすると同じような味でも別のものとして認識されるようだ。先述した「パスタ菓子を女性・馬・鶏・鳥の形にしてはいけない」という規制の背景にはそういうことがあるのだろう。これは揚げ菓子ではないが、馬と聞いて以前紹介したサン・マルティーノというパスタ菓子のことが思い出された。

生地からして違うものにzaetiという菓子があるが、これはzaeti(ヴェネト語)→zaleti→gialletti(標準イタリア語)とたどって「黄色い」という形容詞につながるものであって、トウモロコシの粉が入っているためにこのように呼び習わされる。しかしbussola braneo (bussola di Burano)とesse di Branoの二種は、丸形(ブッソーラは羅針盤の意)かS字形かという違いだけで、作り方は同じである。ちなみにこれらは食後にreciotoとかzibibboとかヴィン・サントとかいう糖度の高いワインに漬けて食べることが多い。

この辺までは滞在中に見知っていたが、エリオ・ゾルズィの邸宅におけるvigilia di Nataleクリスマスイヴの夕食についての回想を見ると、クロッカンテ、モスタルダ[クレモーナの菓子、マスタード入りシロップに漬けた果物のピクルス]、マンドルラートに加え、i stortiというものが目についた。このエリオ・ゾルズィという人についてはまだきちんと調べていないが、最後の証人というか、近代に生き残ったヴェネツィア貴族だったのだそうな。この人の息子のアルヴィーゼ・ゾルズィが昨年までご存命であったと言えば時代感覚が分かるだろう。

クロッカンテはスペイン起源とみられているが、モスタルダとマンドルラートはクリスマスの時期に作られたヴェネツィア特有の菓子だという。マンドルラートは辞書を引くとヌガーのことだとあり、だとすればフランスの方へ遡っていくはずなのだが、ヴェローナのコローニャ・ヴェネタという地区で生まれたものとされている。画像検索してみたところ、あちこちのパスティッチェリアで山積みになっていたのはこれだったのかと思い至ったが、いかにも味がしつこそうでまったく食指が動かなかったような記憶がある。

ストルティという菓子については覚えがない。どうやら一時期失われていた菓子のようで調べてもわずかな情報しか出てこないが、ガンベロ・ロッソのウェブサイトにも載っていたのでまったくマイナーというわけでもない。ソフトクリームのコーンのような形に作ったcialdeというものにホイップクリームを詰め込んで食す。

ヴェネツィアのお菓子なのにティラミスの話が出てこないと訝しむ方もおられようが、これはかなり歴史が浅いもののようなので今回は出番がない。ともあれ、今のうちから年末に向けて菓子作りの修行を始めなければいけないような気がしてきた。相変わらず先の見通しが立たない状況なのではあるが。