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魚料理について

18世紀、共和国が滅び行く頃にもヴェネツィアには多くの漁師がいた。マランゴーニという人のリポートによると、1784年には、「聖アンドレアのスクオーラ[組合]は、i venditori di pesce, i vallesani e i batellieriを含めて3390人を擁していた」という。最初のはそのまま魚売りで、次のヴァッレザーニというのはvalligianiで語義は「谷間の住人」であるが、あれこれ調べた結果、どうも養殖業者のことのようである。

ヴェネツィアにはmoecaという名物があり、脱皮した直後の小さめのカニを丸ごとフライにして食す。リアルト市場でも運が良ければ出ているが、ヴェネツィア料理の会をやったときにはタイミングが合わなくて出せなかったのは今思い返しても残念である。値段は確かキロ当たり60ユーロ弱くらいだったか。かなりの高級食材であるが、この養殖業者も今ではかなり少なくなっているそうな。ちなみにこのmoeche fritteはヴェネツィア市中で伝統料理を出す店へ行けばおおむねいつでも食べられる。店名にanticaやanticheなどとある店を選ぶのがわかりやすいだろう。

で、最後のバテッリエリは船頭という語とほぼ同じだが、販売人、養殖業者ときて最後に漁師、というこの並びは分かるようで分からない。battello、つまり小型の舟を使った漁師はpescatoriとは別扱いであるようにも読める。ともあれ、これに加えて「1796年の二つの宣誓書によると、ペッレストリーナを含むキオッジャの漁師は約10,000人、ブラーノの漁師は4,000人を数えた」ということである。

彼らが使う船にはla bragagna, la granzera, i pieleghiその他tartane, tartanelle, bragozziというものがあった。ブラガーニャは底が平らで、全長9-11メートルほどの舟、これはラグーナの女王と言われていたという。手元の船舶事典の復元イラストを見ると、三本の帆を立てることができ、網を巻き上げるための器具も備え付けられた、そこそこ大きい船である。グランゼーラについては(軽くて帆があるカニ獲り用の舟)と注があるのだが、こちらで調べてみると「曳き網漁のための網」とあった。この本の筆者の読み違えだろうか。そしてピエレーギを調べていると「ラティンセイル」という言葉が出てきて、調べ物がどんどん船の構造の方へ脱線していく。やはり船舶免許を取りに行くべきか。今のところそんな余裕はないが。

ヴェネツィアの古い料理書にはどういう訳かあまり魚料理の記載がないそうだが、歴史家という生き物はその程度で挫けたりはしない。穀物租税法と公定価格に関する記録を使って、中世(1173年、ドージェ・ツィアニの時代)以降、ヴェネツィアの食卓に最も多く上った魚を調べ上げている。trote, storioni, rombi, orate, barboni, passere, sogliole, anguille, lucci, tincheとあり、順番に、マス、チョウザメ、ヒラメ、タイ、ニゴイ、ツノガレイ、シタビラメ、ウナギ、カマス、テンチとなる。今とそう変わらないようでもあるが、淡水魚は今ではあまり見ないような気もする。

マランゴーニによると、「もっとも珍重された魚はle orade de varie, dette della corona[ヨーロッパヘダイ] e le orade vecchie, i branzini[スズキ], il pesce matto scortegado (zigrinato)」だそうな。ヨーロッパヘダイは調べがついたがle orade vecchieが分からず、スズキは常識レベルだとして、ペーシェ・マット・スコルテガード[乱暴に皮をはがされた、の意か]というのがさっぱり分からない。スズキは今でもやたらと人気で滞在中もよく食べたものだが、ヴェネツィアのものより先日いたぎ屋で出してもらったものの方が美味しかった。淡泊な魚は場所によって匂いがつくということらしいが。

そしてその他小さいもの、一山いくらで売られた雑魚としてはmenuagia mora, paganelli, schile, anguele, marsioni、これらは順に、クロハゼ、よく分からないがハゼの一種、ヨーロッパエビジャコ、トウゴロウイワシ、ハイイロハゼとなる。やたらとハゼの類いが目立つが、これはヴェネト語でil go、標準イタリア語でghiozzoといい、よく市場で見かけたものである。ブラーノではこれを弱火でひたすら煮込んで溶かし、ブロードを作っておいてリゾットに使うのだそうな。そのレシピは滞在中に訳してあったが、あまりに手間がかかるので実際に作ったことはない。トウゴロウイワシについてはワカサギのようにフライで食べるようである。

種類はそんなものとして、次にこの時代のヴェネツィアでどれほどの量の魚が消費されていたのかを見積もるため、彼らはまたあれこれ史料をこねくり回している。が、ここがまたよく理解できない。1リッブラ[重量の単位]というのがおおむね0.476999kgに相当するそうで、ここでマランゴーニは、
「ヴェネツィアの十万の人が一週間に一人頭2リッブラ[つまり約1kg]の魚を食べたものとして、一年分の量は10-8,000,000リッブラ以上という計算になる」
と書いているのだが、つまり
 100,000(人)×2(libbre)×52(週)=10,400,000
ということである。人口に関する前提が省略されているのだろうが、下限が8,000,000となっている理由が分からない。ともあれ、週に2リッブラと仮定すれば年間消費量は一人当たり50.56kgとなるので相当なものであるが、肝心の「週に2リッブラ」の根拠も省略されている。

また「毎年国の養殖場から本国へ5,000コルバのウナギが卸される」という数字も残っているそうで、「1コルバは200リッブラ」、つまり約95.380kgになる(手元の計算と微妙にずれるのが気持ち悪い)そうだから、5,000コルバは約477トンになる。人口で割れば一人当たり年間5kg弱ということになるが、あまりに多すぎやしないか。

リストランテでは今のところウナギのグリル以外は食べた経験がないが、レシピについてはこれまでいくつか訳している。トマトで煮込んだり、中にはchiocciole di terra、つまりカタツムリと一緒にした料理もあった。まったく味が想像できないが、ロンドンでは労働者階級の栄養源だったという話をどっかで読んだこともあるし(いかにも不味そうな料理だと思ったことは覚えている)、レシピの数からみても馴染み深い食材であったのは間違いないようである。

以上のように、非常に多くの魚がヴェネツィアで消費されていたということになるのだが、ここまで説明しておきながら、ゴルドーニの作中の食卓では魚は滅多に出てこないという。「シンプルで大衆的にすぎ、揚物、煮物、焼物の他にはその料理集に入れるに値しない」と考えられたためだとされているが、とにかくそのレシピは非常に少なく、il brodeto[ブロードで煮たもの]、lo sguazzeto[シチュー]、il saòr[南蛮漬け]、la buzaraくらいしかない。最後のブザーラというのは例のとおりに炒めた食材にトマトと白ワイン、トウガラシ等で味付けしたもので、この調理法についてはまた面倒な起源論があるのだが今回は省略。

現代のヴェネツィアで大人気の魚料理は、往事は下層民向けのものであったということだ。とはいってもヴェネツィアの下層民というのは、例えば『どん底の人びと』の下層民などというものとはまったくイメージが違う。それはともかく、当時手に入りやすかったものには重きが置かれないというのは当然のことで、現代のように失いかけて初めてその有り難さに気付くというのもまたお約束である。

さて、では貴族階級は何を食べていたかというと、もちろん肉ということになるが、これについてはまた次回。現代のヴェネツィア料理だと肉料理はフェーガトかカルパッチョくらいのものしか知らなかったが、調べてみたら結構な広がりがあった。見たことのないレシピがたくさんあるので、つぎはちょっと時間がかかりそうである。

カルロ•ゴルドーニについて

カルロ・ゴルドーニ(1707-1793)はヴェネツィア生まれの著名な喜劇作家。モデナ出身の医師であった父ジュリオと母マルゲリータ・サヴィオーニ(サルヴィオーニ)の間に生まれ、本人は中産階級ということになるのだが、父の往診につきあって様々な社会階層の人々を観察し、またキオッジャの刑事書記局に勤めた経験などが後の劇作に資したと言われる。最初の幕間劇を書いたのはヴェネト州の北方にあるフェルトレというところで仕事をしていた時期とされるが、父親の死に伴いヴェネツィアに帰った後、彼は弁護士の勉強をしながらその創作活動を展開していった。

ただし彼の生涯の中でヴェネツィアにいた期間というのは少なく、ペルージャ、リミニ、ジェノヴァ、ピサ、ローマなど、陸続きのイタリア半島内とはいえ、あちらこちらへと渡り歩いたのはヴェネツィアーノの宿命か。彼は革命の嵐が吹き荒れるパリにいたこともある。

その名を冠した劇場があるのは勿論、San Tomàにある生家も観光名所となっており、Campo S. Bartolomioには立派な銅像まで立てられている。リアルト橋を渡ってすぐのところ、私も滞在中は毎日のように通っていた広場であるが、ここはヴェネツィアの中では比較的広く、その銅像の回りにはいつも多くの人がたむろしていた。その人達のためにいくつかゴミ箱が設置され、またそれを狙って多くのハトも集まっていたものだが、そうすると当然糞害がひどくなるわけで、いつだったか、銅像のクリーニングに伴ってゴミ箱も撤去されていたということがあった。カルネヴァーレの頃だったので単にイベント向けの対応なのかもしれず、今頃は元の通りという可能性もあるけれども、往来の盛んな広場であまり人に顧みられることのない彼の銅像に心静かな日々のあらんことをと願うばかりである。

さて、久しぶりに料理の話題ではないようにも思えるがそれは甘い。冒頭の記述は''La Cucina di Carlo Goldoni''『カルロ・ゴルドーニの料理-1700年代のヴェネツィアの食卓』という本を参照したものである。ゴルドーニの一生は十八世紀をほぼカバーし、それはまた「至上の光輝に満ちたヴェネツィア共和国」の最後の時期でもあった。彼のコメディアの中にはヴェネツィアの市井の人々の生活が活写されているが、イタリア人の生活は美味い食い物と美しい女性を中心に回っているので、そこには当然料理の描写もある。そこから当時のヴェネツィア料理を窺い知ろうというのがこの本の趣旨である。

話は飛ぶが、暇がある時にANSAというイタリアのニュースサイトを見ることがある。ここのニュースのカテゴリーの中には「Terra&Gusto」というものがあるのだが、季節の料理だとかワインの出来具合だとか誰それというシェフが賞を取っただとか、そういうニュースに需要があり、一つのカテゴリーを作らないと収まらないのがイタリアという国である。ゴルドーニについてこのような本が大真面目に作られるのも極めて自然なことであろう。

ちなみに日本ではどうだろうかと思って主要な新聞社のニュースサイトを確認したところ、M新聞のサイトでかろうじて、トップページの「ライフ」のカテゴリーを選択したところに「食」というものがあったが、これはちょっと残念な出来だった。今年の酒はどこそこが出来がいいだとか、春野菜が豊作だとか、そういうことが知りたければ日本農業新聞を読まなければいけないのだろうか。ジャガイモが不足しているだの、イカナゴが獲れないだの、ウナギやマグロが減っているだのと、否定的なものなら大手でもニュースにするようだが。

調子に乗って脱線するが、最近あれこれ料理について調べるうちにたどり着いたサイトでレシピの動画を観るのも面白い。
http://ricette.giallozafferano.it/Crostata-alla-confettura-di-albicocche.html
なるほどMicroPlaneはそっち向きで使うか、という発見があるのも動画ならではのことであるが、そういったまともな話だけではなく、イタリア人が餃子を作っている動画などは、笑えるようでだんだんとムカついてくるところが何ともいえない。
http://ricette.giallozafferano.it/Ravioli-di-carne-giapponesi-Gyoza.html
大げさに「Gyoza!!」と言いながら手を合わせる動作を繰り返し見ていると、映画「TAXi」(2だったか)の「ニンジャ!!」を思い出す。

餃子はイタリア語でRavioli di Carne Giapponesi (Gyoza)となっている。そういえば何度目だったかの「うち飲み」で餃子を作るという方がいらした際、それに合うワインを求めてリアルトのMille Viniに行き、店主に対して必死で餃子の説明をしたことがあった。「ラヴィオリに似た食べ物で作り方はこうで……」と手振りを交えて長々と説明したのだが、ラヴィオリに例えたのがまさかの正解である。その時は「それはきっとかなり油っぽい料理だからこれとこれをこの順番で飲め」と丁寧にワインを選んでもらったものだが、あのおっちゃんは元気にしているだろうか。

ついでなので次の動画も観ていただきたい。
http://ricette.giallozafferano.it/Sushi-all-italiana.html
蕎麦ざるの上に巻き寿司を置いたり、米を研ぐときに盛大に米粒をこぼしていたりなど、ツッコミどころ満載である。まあ、私も知らずに西洋の食器の使い方や調理法を間違えていることもあるのではないか、と考えると笑ってばかりもいられない。

この時代になってもまだ間違ったままの情報が流布しているのか、様々な誤解やアレンジが起こるのは仕方がないにしても、日本としては世界に向けて基準となる情報を発信すべきではないのか、と思って英語で日本食のレシピの検索をしてみたところ、某放送協会のウェブサイトにたどり着いた。やっていることはやっているのだな。

本題に戻る。件のゴルドーニの本は、
I 当時のヴェネツィアの食生活に関する論考
II 作中で料理の出てくる場面の抜粋
III ヴェネツィアとその近郊のリストランテのシェフによる各料理の現代でのレシピ
という構成となっている。このIII章の店の名前をざっと見ていったところ、ヴィチェンツァの店がやたらと多く、ヴェネツィアにしても一番多いのはキオッジャ、そしてイェーゾロ、メストレという地名が続く。本島内の店はハリーズ・バーを含めて三軒だけだった。

ヴェネツィアの美食スポットは実のところキオッジャなのではないか。そうなると一年近くヴェネツィアに滞在しておきながら一度も行ったことがないのが悔やまれるが、そうはいってもここはかなり本島から遠い。地図で見るとそうでもないような気がするけれども、ヴァポレットというのは実にのんびりした乗り物なのである。ヴェネツィアに住み、自家用ボートが持てるような人でもなければ気軽に遊びに行けるところではない。

考えるほどに懐かしさが募る。私がヴェネツィアに戻ることのできる日は来るのだろうか。

まあいい。この本はI章の部分が一番面白いのだけれども、今回はふざけすぎたので次回に回そう。

料理学校について

先日、近くにある農協の直売所で野菜を物色していたときのこと、エンダイブという見慣れない野菜が目に留まる。ポップには「炒め物にするかそのままサラダに」と書いてあったが、これがどういうわけか気になって仕方がない。何に使うかも決まらないままにとりあえず購入して帰った。

洗いながら細部を観察していると、茎の形状と感触がヴェネツィアにいた頃の記憶を刺戟するようである。調べてみると、このエンダイブ(和名:キクヂシャ)はチコリーの近縁種だとあった。チコリーはイタリア語ではradicchioラディッキオといい、つまりエンダイブはヴェネト州特産のradicchio trevisoラディッキオ・トレヴィーゾの遠縁に当たるということになる。

こんな細々とした縁にまで引っかかるほどおまえはヴェネツィアが恋しいのか、と呆れたが、懐かしいものは仕方なかろう。そういえば今くらいの時期でもradicchio tardivo(タルディーヴォは晩生の意)が市場に出ていたな、と思い返すともういけない。あの頃と同じようにこれでリゾットを作ることにする。

ラディッキオ・トレヴィーゾは赤い色をしており、プロシュットを炒めたものを合わせると赤い食材同士の競演で目にも鮮やかなリゾットが出来上がるのであるが、エンダイブは当然の如く青い。この違いを無視して同じようにプロシュットを使うのも芸がない、何かより白っぽい肉の方が合うのではないかと考えた末、ツナ缶があったのを思い出した。

料理をする際まで中身より見た目のことを先に考えるこの性向はどうかと思う。ともあれ、味の方も一応及第点であった。元のレシピの素材が受け持っていた役割を分析して的確に置き換えていけば、素人のアレンジもそう失敗することはない。

さて、帰国してからちょうど一年ほど経つ。その間、「イタリアで何をしていたのか」と問われる度に「ヴェネツィア料理の研究をしていた」と答えていたのはもちろん冗談のつもりだったのだが、最近はどうも洒落にならなくなっているようである。文学研究の方は足を洗った、というかそもそも片足しか入ってなかったみたいなのでもういいとして、ヴェネツィア史の勉強として家主の本も読み進めたいところなのではあるが、ここのところは故あってずっとイタリアの料理学校のサイトばかりを眺めている始末。

しかしイタリア語を訳すというのは私にはまだまだ難しい。英語ならば反射的に文が出てくるのに、その経験が役に立たないというか、文章の構造からしてまったく違うクセがあるように感じる。それに、
la sua continua propensione ad approfondire, indagare e imparare, alla scoperta......
とあるうちの「approfondire(探究する)」「indagare(調査する)」「imparare(習う)」のように、似たような意味の言葉をやたらと重ねて使うのも困りものだ。とにかく三つ重ねるのが修辞学の基本だとは小プリニウスも言っていたような気がするが、装飾過多なイタリア語はそのまま日本語にするとどうしてもクドい。これを上手に均すのは大変な仕事である。

参考にしようと思って表示を英語に切り替えられないかとサイト内をあちこち探したところ、そのようなものは見当たらなかった。イタリア人男性と同じく、ヴィジュアル的には凝りに凝ったサイトだというのに、言語に関しては強気のイタリア語一択である。今のところこの翻訳は正式な要請ではないはずなので彼らがどれほど本気なのかは分からないが、国際共通語たる英語を無視してイタリア語の次に日本語のサイトを用意しようというのは一体どういう了見かと首を傾げた。暫し考えた末、「イギリス人やアメリカ人などに食い物の味が分かろうはずがない」というのがイタリア人の認識なのではないか、との結論に至る。

冗談はともかく、これはきっと日本に縁のあるヴィチェンティーノが居たから思いついただけのことであって、いつもの行き当たりばったりではないかと思う。上手くいけばそれでよし。上手くいかなかったらスプリッツでも飲もう。

目下、メインの部分の下訳はひとまず終わり、講師陣のプロフィールを訳しているところであるが、この仕事がまた非常にストレスフルである。文章が難しいとかそういうことではない。彼らが修行時代を送った、あるいは現在経営している店というのがいずれも錚々たるものであって、片っ端から行ってみたくて仕方がないのである。

とりあえずこちらをご覧いただきたい。
https://www.alajmo.it/it/sezione/la-montecchia/la-montecchia
https://www.alajmo.it/it/sezione/le-calandre/le-calandre
http://www.ristorantecracco.it/
http://www.degpatisserie.it/
http://latanagourmet.incellulare.it/
http://www.aimoenadia.com/
http://www.aquacrua.it/
http://www.ristorantetrequarti.com/
http://www.lapeca.it/lapeca/
http://www.sandomenico.it/
http://www.anticobrolo.it/newsite/ristorante-anticobrolo-padova.html
http://lalocandadipiero.it/
http://www.foodboutiqueverona.com/
料理学校がヴィチェンツァにあるためか、その講師たちのリストランテやパスティッチェリアの多くはヴェネトからロンバルディアにかけての地域にある。パドヴァのカッフェ・ペドロッキの近くに名高い店がある
http://www.caffecavour.com/
のを知ったときなど、滞在中の不勉強をいくら後悔しても足りなかった。何度も前を通っておきながらいかにもお洒落で高そうな店なので素通りしていたが、こんなことになるなら無理をしてでも入っておくべきだった。

寂しいことに州都たるヴェネツィアで出てくる名前はエクセルシオールくらいのものであって、都会ではなく、いい素材を手に入れるためだということで自然豊かな地方の山間部に宿泊施設込みで立地しているリストランテが多い。いわゆるオーベルジュというやつかと思ったのだが、しかしそう名乗っているところは少ないようである。イタリア語でlocandaという言い方をしているところもあり、これは辞書を引くと「安ホテル,安宿;小さなレストラン兼ホテル」とあるものの、ウェブサイトを見る限りどうやったって安そうには見えない。ともあれ規模が変わると呼び名も変わるのか、それともフランス起源の文化への対抗心なのか。

そうはいってもミシュランの格付けに関しては素直に受け入れているというか、むしろ星が付いていることを純粋に誇っているし、Chef de cuisineだとかCommisだとかいう、いわゆるブリゲードのシステムについてはそのままフランス語を使っている。また特に必要だとは思えないところで英語を使っているのが散見されるのも不思議である。日本人に言わせれば、いい加減見慣れてしまった英語よりもイタリア語のままにしておいてもらった方がエグゾティシズムをかき立てられると思うのだけれど、イタリア人はイタリア人でやはり外来語を使った方がかっこいいと思うようである。

翻訳というのは結局その文章の背後にある文化を知らないとどうにもならないわけで、ブリゲードのような厨房の階級制度や「全イタリア調理師連盟」なるものの存在など、こんな機会が無ければ知ることはなかっただろう。こうやってまた中途半端な知識が増えていくわけだが、さて、私はこんなことをしていていいのだろうか。とりあえず楽しいからいいか。

パーネについて

イタリア人の主食はパンである。パスタではない。

日本語の語彙でいうパスタ、つまりスパゲッティやらペンネやらは概ねプリーモで出されるものである。イタリア料理のコースは基本的に、

○antipastoアンティパスト(前菜)+aperitivoアペリティーヴォ(食前酒)
○primo piattoプリーモピアット(第一皿、スープ)
○secondo piattoセコンドピアット(第二皿、メイン)
〔+contornoコントルノ(付け合わせ)〕
○dolceドルチェ(デザート)+digestivoディジェスティーヴォ(食後酒)

という構成になっており、このプリーモにスパゲッティなどの炭水化物が置かれ、メインの料理に合わせてまたパンを食べるという構成に日本人はまず面食らうものである。だが、プリーモピアットというのは元をたどればminestraミネストラであり、これはスープを意味する言葉となっている。

イタリア料理にはcucina riccaクチーナ・リッカ(リッカというのは英語のrichに当たる)、cucina poveraクチーナ・ポーヴェラ(真っ直ぐに訳すと「貧乏料理」)という区分があるが、クチーナ・ポーヴェラ、つまり庶民の食卓においてミネストローネにペンネや短く折ったスパゲッティを入れてヴォリュームを増やすなどというのは常套であるわけで、このようにミネストラが起源を無視しながら発展し、minestre asciutte(乾いたミネストラ)を経て現在の「プリーモ・ピアット」となったのである。つまりここに出てくるパスタはあくまで「付け足し」だということだ。実際は付け足しとは思えない量で出てくるが、軒を貸して母屋を取られるというのは行き当たりばったりを信条とするイタリアではままある話である。柔軟だと言えば聞こえは良いが、歴史を読み解こうとする者にとってはややこしいことこの上ない。またその歴史が長いだけに余計である。

さて、パスタはあくまで脇役だということに納得してもらったところでpaneパーネの話である。イタリア料理の店に行くとプリーモの直前からセコンドの終わりまで、卓上にずっとパン籠が置かれているものであるが、これにはいつ手を出したものやらと困惑する日本人も多いことであろう。食事の進行状況に合わせて適宜、という他に正解はないのだろうが、例えば家に人を呼んで食事をする場合、食卓にパンが出されていないとか足りなくなるなどということがあると嫁は後でこっぴどく叱られることになるのだそうな。それくらいイタリア人はパンを喰らう。

日本に帰ってきてからあちこちへパンを求めに行くようになった。神戸市民の常としてイタリアに行く前から知ったパン屋はいくつかあったが、以前から食べていたものは口に合わなくなってしまったのである。イタリアでは何もかもが原理主義的というか、いや、深く考えているはずはないからただ原始的なのだろうが、パンは小麦・酵母・塩・水と、以上で作るのが原則である。オリーヴオイルだの何だのと加えられたものは別扱いで、店頭ではきちんとその旨表示がなされている。

ここで問題となるのは味ではない。これは日本に来たイタリア人も口を揃えていうことなのだが、日本のパンはイタリアのものと比べるととにかく柔らかすぎるのである。「軽くトーストして外はカリッと、中はふんわり」とか要らんし。そんなふわっふわしたパンでクロスティーニが作れるかいな。パン作るときに三温糖を入れるとか何考えとんねん。

ということである日のこと、イタリアで小麦まみれとなり、糖質制限だのグルテンフリーだのという流行に逆らってどういうわけか10%以上も減量して帰ってきた私は、すっかりイタリアにかぶれた舌に合うパンを探して三田の方まで足を伸ばしたのだった。

いかにも中途半端な田舎の風景の中をフウィヌム(愛車)で進んでいくと、地方三桁国道沿いに古民家風の建物がある。駐車場へ入るとロードバイク用のスタンドがあった。たまに街中でガードレールや電柱に立てかけられた自転車を見かけることがあるが、ロードバイクは基本的に車体にスタンドを付けないものである。ロードバイク原理主義者は目的地にこういうものを見つけるとちょっと嬉しい。

イタリアは日本と並ぶ自転車王国である。これは自転車の利用者が多いとかいうことではなく、自転車のコンポーネントにおいて、日本のシマノとイタリアのカンパニョーロの二社が非常に大きなシェアを誇るという事実に拠る。イタリアに行く前からこのことは知っていたが、何しろヴェネツィアでは自転車に乗れないので、向こうにいる間は特に思い出すことはなかった。カンパニョーロの本社はヴィチェンツァにあるそうだが、そこへ三度も通っておきながらそれと知らずにいたというのも迂闊なことである。ボッテガ・ヴェネタもここにあるというし、なかなか侮れない街だ。

カンパニョーロのコンポーネントはそれを見ながらワインが飲めるほどに美しいが、同程度のシマノの製品と比べるとかなり値が張るために、実際はシマノが選ばれることの方が多い。いつものパターンである。先ほど名前を出したボッテガ・ヴェネタもそうだが、職人の手仕事の美しさを残したものの方がよいと分かっていても、同程度で安いものがあれば人はそちらに流れるものだろう。イタリアは大量生産の冷たさに対して脊髄反射的に抵抗する国であり、今のところはどうにかこうにかそれを自分たちの強みとすることができているが、他人事ながら先行きが心配である。まあ、ローマの末裔たちのことであるから、傍目には危なっかしくても結果的には誰よりも遠くまで走っていくことになる、という展開もありそうなことではあるが。

駐車場で足踏みしたが、件のパン屋の店内へ。入口のドアノブからして凝った物で、一瞬開け方に迷った。店内は梁を目立たせた内装が印象的で、壁の装飾もユーズド感を演出した小洒落たものとなっており、また綺麗にディスプレイされたパンにはセンスの良いポップが添えてあったりと、非の打ち所のない当世風の店である。しかも店主は鳥打ち帽にベストを着用、故あってしばらく雑談を交わしたが、「外国での修行経験を生かしながらも日本の風土に合ったパンを」などと、雑誌のインタビュー記事にでもありそうな優等生ふうなことを仰せであった。実際に取材された経験があって、その時の紋切り型が反射的に出てきたものだと思うが。

勿論パンはどれも美味しかった。特に店の名前を冠したパンは私の求める「食事の傍らにあるべきパン」として適したものだと思う。ただ、もやもやしたものを抱えながら帰途につき、途中で近くのケーキ屋(ここは以前から知った店)に立ち寄ったときにこれと得心がいったのだが、中途半端なニュータウンにありがちなドイツ風の、つまりメルヘンな山小屋風の店構えというのは日本の田園風景の中ではひたすらうさんくさい。ヴェネト州の北部はアルプスであり、ヴィチェンツァなども山岳地帯であるから当然ヴェネツィアとは建築物の雰囲気が違ってくるのだが、そこで本物の「ヨーロッパの山の家」を見た後では何もかもが嘘っぽいのだ。憧れる気持ちは分からないではないというか、むしろ多大なる共感を寄せるところではあるが、一軒だけが頑張ったところで町全体の雰囲気は変えようがない。中途半端な嘘っぽさに違う種類の嘘っぽさを加えたところで、ただ空回りの感しかない。そこへきて、店構えがヘンゼルとグレーテルなのに店のイメージキャラクターはアリスだとかいう、ちぐはぐな真似をされると余計に訳が分からなくなる(これはケーキ屋の話)。

ちなみに、この三田のパン屋は「味取」という別のパン屋に教えて戴いた。多井畑厄神の傍にあるこの店で「うちに来るぐらいならそっちの方が近い」と言われたので行ってみたのである。結果的には私の家からは反対側にほぼ同距離であったというだけでなく、店の方向性まで正反対なのは面白いことであった。夏場に店に伺ったときには店主が流行を超越したシュールなデザインのTシャツ姿で作業をしていたし、店構えは子供の頃に小銭を握りしめてガムや駄菓子を買いに行った昭和の駄菓子屋の雰囲気、というか実際に煙草屋だった店舗をそのまま使っている。そして酒を呑んでは「パンより米の方が美味い」と放言し、クリスマスには流行なのでシュトーレンを作ってはみたが、客(私は客と思われていないのかもしれないが)に向かって「僕はこれはあまり好きではない」とのたまう(イタリアで濃い味のドルチェに慣れた私の舌には合った)。せっかく美男美女の夫婦が神戸の街角で小さなパン屋をやっているというところまでカードが揃っているのに、この絶妙な外し方が堪らない。それなのに(だからこそか)これが正解としか思えないのが素晴らしいところである。

当然ながらここのパンは絶品である。過日「バッカラ当番」(このときのことも書こうと思っていたが、何しろ二ヶ月ほども前のことなので詳細は、

ヴェネツィア同窓会@神戸|サバイバル☆サバティカルinVenezia

を参照のこと)が開催された際に「味取」のパンを仕入れていったのだが、これはヴィチェンティーノにも好評であった。こちらが何も言わないうちに「これは天然酵母だ」と看破されたのだが、イタリア人てのは皆がパンに対して斯様に鋭敏な感覚を持っているものなのだろうか。ともあれ、今後も三田よりは多井畑の方へ通うことが多くなりそうである。

黄金の果実について

バッカラ関連レシピの翻訳が済んだのはいいが、出来上がった後に数えたところその数は重複分も含めて26に上った。この重複分というのは例の「バッカラ・マンテカート」で、これは基本中の基本料理なのでどの本にも載っているものなのだが、どれを見比べても細部が違う。きっとイタリア人の数だけ異なったレシピがあるのだろう。相変わらず自己主張の強い人たちであることよ、と思ったが、日本におけるカレーのようなものだと考えれば事情は何処も似たようなものなのかも知れない。残りのレシピも似たような材料と似たような調理法のもので、苦労して訳した割に達成感は少なかった。

例によって話が明後日の方向へ向かうが、過日六甲の居酒屋で飲んでいた際、おでんのメニューとしてトマトを出す店があるという話を顔馴染みの客から聞いた。正確にはその出汁を使って別にトマトを煮込んだものだそうだが、冬の料理に夏の食材の組み合わせというのは何となく落ち着かない。ルールとか作法とかいうものはこうやってなし崩しに変化していくものなのだろうかと眉を顰めたが、そこでヴェネツィアの民話の本に「Pomo d'oro」という題の話があったことを思い出した。

バッカラ関連レシピにおいてもイタリア料理に欠かせない食材であるトマトの出番は多かったのだが、これをイタリア語でpomodoroという。pomo d'oroが元の形で、pomoというのは果実を指し、oroとは金のことである。因みにPomonaというのは古代ローマの果実の女神、豊穣の女神であって、この名はもちろん『博物誌』にも出てくる。

季節はすっかり秋となり、今さらトマトの話をするのもどうかとは思うのだが、以前も書いたとおり、元々このブログをご覧になる方々は余程の物好きに限られているので問題なかろう。誰からも見られる場所に在りながら誰にも顧みられることがない、というのは執事に欠くべからざる素質である。

例の民話は何しろヴェネト語で書かれているから翻訳には時間がかかるものと覚悟していたが、意外なことに一通りノートに書き写した時点で概ね話が理解できた。zogarという単語を見て十秒ほど考え、ああgiocareか、と分かるようになったのはヴェネツィアに一年間住んだ功徳か、はたまたルイージ・プレットの御加護か。また一つ金にならない技能を身に付けてしまった自分が頼もしい限りであるが、ともあれ話の方をお目にかけよう。

POMO D'ORO
あるところに一人の王様がありまして、この王には三人の娘がおりました。みな美しかったので王は三人ともとても可愛がっておりましたが、その中でも末娘には格別に目をかけておりました。ある日のこと、王は行幸し、戻った際に三人の娘に贈り物をします。長女にはイヤリング、次女には指輪、そして末娘には黄金の実(トマト)をあげました。

上の二人の娘は望んだものを父から与えられたにもかかわらず末娘を妬み、このトマトまでも自分たちのものにしようとします。ある日、二人はこう言いました。「ねえちょっと、みんなで遊びに行きましょうよ。」末娘は答えます。「ええいいわね、さあ行きましょう。」三人は連れ立って出かけました。

三人は歩きに歩き、dô montagne(二つの山、固有名詞)があるところへ着きました。「さあ着いたわ。」長女はこう言うと、無言でナイフを取り出し、末娘を殺してしまいます。そして二人は末娘の腸を引きずり出してその場へ残し、遺体はまた別の離れた場所へ捨てました。

彼女たちが戻るとすぐ、父はこう言いました。「末娘はどこだ?」彼女たちは、「三人皆で遊びに行ったのですけれども、末の娘は走ってどこかへいってしまったのです。だからあちこち探したのですけれど、見つけることはできませんでした。」と答えました。そのとき王がどれほど悲しんだことか、想像できるでしょうか! 彼はすぐに国中の人々に向かって娘を探しに行くように命じ、娘を連れ戻したものには莫大な褒美を取らせると宣言しました。そのため皆があらゆる場所を探して歩きましたが、彼女を見つけることはできませんでした。それもそのはず、彼女はとっくに死んでいたからです。ではここで父親のところから離れて、姉たちに殺された娘の方へ目を移すこととしましょう。

少し後、件のド・モンターニェの中腹へ一人の農夫が通りかかり、そこにあった綺麗な腸を見つけました。彼は言いました。「これはいい、一つギターを作ってこの腸を弦にしよう。」そして、いい音がするかどうか試しに弾いてみたところが、その音色はこう言っているように聞こえました。

  《歌えや歌え、可愛いおまえ
   二人の姉さん、狂った雌犬が
   ド・モンターニェで私を殺した
   黄金の実が食べたいばかりに
   歌えや歌え、私のいい子!》

彼は他の綺麗な曲を弾こうとしましたが、このギターはうんともすんともいいませんでした。この歌以外は何も歌おうとしないのです。「まったくおれは運がいい、このギターと一緒にあちこち巡ればポレンタを食うには困らないぞ。」そして彼はこのギターを携えて出かけ、道端で演奏してそれまでにないお金を儲けました。ギター自身が歌うなんてのは前代未聞だったからです。

ある日のこと、彼はあの王様の街に到着しました。例のように演奏しながら王の屋敷のバルコニーの下を通りがかり、王はギターがあの歌を歌うのを聴きました。

  《歌えや歌え、可愛いおまえ
   二人の姉さん、狂った雌犬が
   ド・モンターニェで私を殺した
   黄金の実が食べたいばかりに
   歌えや歌え、私のいい子!》

王はこの歌を聴いてすぐ、末娘が歌っているのに間違いないと思いました。そして人を遣り、「すぐに来てそのギターについて詳しく教えよ、もし来なければ牢屋へ入れるぞ。」とその男に伝えました。すると男は「生活のためにここへ来て流しをしているのです、私はここに留まります。」と返事をします。王が怒って「とっとと来い馬鹿者め!」と言いますと、彼はこう答えました。「どちらかというと行きたくありません、王が何かくださると仰るまではここにおりたいものですね、なにしろ私はロンバルディアの家族を養わなけりゃならんので。」

この遣り取りで王はやっと理解し、このギターが歌うのを聴き続けたかったのでこう言いました。「歌え歌え、百姓め、なかなか気に入ったぞ。」ギターは二、三度あの歌を歌い、そして何も言わなくなりました。そうしてから王はこの農夫に言います。「私のもとへ来い、そのギターがなぜ同じ歌しか歌わんのか教えて欲しいのだ。」農夫は答えました。「陛下、どうしてこのギターがこの歌以外は歌わないのか、私にも分からないのです。」そこで王が「詳しい経緯を教えて欲しいのだ。」と言いますと、「賢明にして偉大なる王陛下、ある日のこと、私が散歩に出ましてド・モンターニェの中腹へさしかかりますと、腸が落ちているのを見つけたのです。私はこう独りごちました。『何て綺麗な腸だろう! 一つ立派なギターを作ってこれを弦にしよう』、私がそのとおりにいたしますと、そのギターはいつも同じ歌を歌うようになったのです。」王は言いました。「分かった分かった! 褒美にこの袋を受け取るがよい。そして今しばらくここにとどまれ。」そしてすぐに王は二人の娘を呼び出しました。「近う寄れ。そして私に真実を教えて欲しい。おまえたちは末娘に何をした? ここに一つ不可思議なことがある。私はこれについてはっきりさせたいのだ。」彼女たちが、末娘は見失った、どうなったかは知らない、と答えますと、王は言いました。「よし、このギターが何を言うか聴くがよい。」農夫に向かって演奏をするように命じると、ギターは歌いだしました。

  《歌えや歌え、可愛いおまえ
   二人の姉さん、狂った雌犬が
   ド・モンターニェで私を殺した
   黄金の実が食べたいばかりに
   歌えや歌え、私のいい子!》

王はかの農夫に言いました。「さて、このギターが常に同じ歌しか歌わないわけをこの娘たちに教えてやってくれ」。農夫は答えます。「ド・モンターニェの辺りを歩いておりますと、地面に腸が落ちているのを見つけまして、そこでギターを作ってこの腸を弦にしようと思いついたのです。出来上がったギターを弾いてみますと、こいつはあの歌を歌い出し、これ以外の曲はまったく歌わないのです。」

これを聞いた娘たちは逃げだそうとしましたが、激しく震え出してもう立っていることもできなくなり、態度を変えて赦しを請いはじめました。王は「ああ、もうこれ以上何も言う必要はない。おまえたちの野蛮な心がかわいそうな乙女を死に追いやったのだ。おまえたちも同じ目に遭わせてやろう。」と言います。娘たちは泣きながら「お父様、どうかお慈悲を!」と懇願しましたが、王は「いや、おまえたちは死ななければならぬ!」と言い、兵士たちに命じて二人の娘をド・モンターニェの中腹、彼女たちが妹を殺した場所まで連れていきました。兵士たちはそこで彼女たちを処刑し、さらに彼女たちの腸を引きずり出して辺りへ投げ捨てたのです。このようにして、凶暴な雌犬たちは彼女たち自身をも死に追いやることとなったのでした。

……ええとこのお嬢ちゃんたちがナイフ一つで人を、それも肉親を殺してその内臓を引きずり出し、道端に放り出すというえげつなさは、百歩譲って「中世のイタリアだから」と大目に見ることができないこともない。しかし、野天に人の臓物がぶちまけられているのを見て、即座に「やあこれは素敵な腸だ、これでギターでも作ろうかな。」と展開する思考回路というのは俄には納得できかねる。

それにしても何故これがヴェネツィアの民話なのだろう。「飯を食うには困らない」という表現が「ポレンタを食うには困らない」となっているところ以外、ヴェネト州ならではという点は見当たらないようだが、「わずかでも自分の利益になることなら躊躇うことなく人を殺す」、「権威者に呼び出されても報酬が約束されるまでは動かない」というところは彼ららしいと言えないこともない。

疑問はまだある。この話の主眼は独りでに歌うギターなのではないかと思うのだが、それにもかかわらず題名が「POMO D′ORO」であるのは何故か。この話から読み取るべきことは、「トマトはイヤリングや指輪などの装飾品よりも価値があり、殺人•死体損壊および死体遺棄の動機となるほどまでに魅力的なものである」ということなのであろうか。

過ぎ去った春について

季節はとうに夏であるが、ここのところしばしばSpaghetti Primaveraを作っていた。プリマヴェーラというのはイタリア語で「春」という意味である。これはヴェネツィア料理でないどころか、そもそもイタリアではなく北米で作られたレシピなのだそうだが、ヴェネツィアかぶれの私が何故このようなものを作る気になったのかというと、そのレシピをマ氏から直伝されたからである。

滞在許可証の受領のためにマルゲラまで連れて行ってもらった際に雑談の中で教えてもらい、その後トロンケットからリアルトへ戻るヴァポレットの中でメモに書き付けたものを貰ったのだけれども、イタリア人直筆の文字というのは日本人にはとても読みづらい。私の会話能力が心許ないので、特に最初の頃はマ氏からたくさんのメモをもらったものだが、その度に苦労させられたものである。このレシピについては後日、とあるシチリアーノの助けを借りてやっとのことで解読した。

そういえばヴェネツィアの市中で最初の頃に戸惑ったのは彼らの数字の書き方であった。彼らの書く「1(いち)」はl(エル)との区別のために上部の切り返しの部分が非常に長く、ひどいときには⊿のように見えるので、日本人の目には「4」に近いのである。tramezzino(サンドウィッチ)一つが€1,70なのと€4,70なのとでは大きな違いだ。ヴェネツィアというのはこんなに物価の高いところなのか、と勘違いしたのも今はいい思い出である。

ともあれ、マ氏のレシピはスカローニョ(エシャロットのことだが、タマネギで代用可)のみじん切り、さらにニンジン、セロリ、ズッキーニの千切りを炒めたところへ茹でたパスタを和え、塩コショウ、オリーヴオイル、パルミジャーノで味付けするというもので、素材から見るに「春野菜のスパゲッティ」というくらいが適当だろうか。ネットで見てみると、組み合わせる野菜には無数のヴァリエーションがあるようだった。

スパゲッティと絡めてフォークで食べるので、千切りはかなり細く、そしてニンジンやズッキーニなどはそのままの長さで縦に切るくらいに長くした方が食べやすい。そしてこの「千切り」であるが、マ氏のレシピにはtagliati alla julienne、つまり「ジュリエンヌ流に切る」と記されていて、これは辞書を引いても間違いなく千切りの意となっている。綴りから見てフランス語起源なのは間違いないが、それにしても「ジュリエンヌ切り」という言い方はどうだろう。フランス語ではJeanジャン(男性名)に対してJeanneジャンヌ(女性名)となるのだから、ジュリエンヌも女性名なのだろうか。そうするとPaulineポーリーヌはPaulの女性形だったか、などと思考が横っ飛びする。

どのような女性だか知らないが、千切りの異名とされるようになったジュリエンヌの身の上とは一体どれほど凄絶なものであったのか、とあれこれ想像を巡らして勝手なイメージを作り上げたうえで、とはいえそのような女性とはなるべくお近づきにはなりたくないものだ、とさらに勝手なことを考えながらとりあえず検索してみた。すると某ネット百科事典に「Jean Julienという名のコックに因む」とあるではないか。Jeanであれば男性である。だったら切り裂き魔でも女性の方がよかったのに。

例えばFegato alla venezianaだとかBaccalà alla vicentinaという料理名を見ると、fegatoもbaccalàも男性名詞(baccalàはaで終わっても元が外来語なので男性名詞)であるけれども、venezianaやvicentinaは形容詞の女性形となっている。これはおそらくalla (cucina) venezianaというふうに女性名詞が間に省略されているのではないかと思うが、julienneもフランス語の形容詞を女性形に活用したものということだろう。まったくつまらない話である。

つまらないといえば、最近は早朝から深夜にかけて単純労働に明け暮れ、生活にも甚だ彩りがない。忙しいせいで例のバッカラ関連レシピの翻訳はまだ半分も進まないのであるが、そんな中、さらに私を追い詰めるかのようにヴェネト語の辞書がもたらされた。

まだヴェネツィアにいたある日のこと、Campo S. Maria Formosaの近くの書店でヴェネツィアの民話をまとめた本を二冊ほど購い、アパルタメントに帰ってから開いてみたら当然のようにヴェネト語で書かれていた(表紙のタイトルは標準イタリア語だった)ということがあった。仕方がないので帰るまでにまた辞書を探しておこうと思っていたのだが、忙しさに紛れて忘れてしまっていたのである。

ということで、6月初頭までヴェネツィアに留学していた学生(神戸の人)に頼んで適当な物を見繕ってきてもらったのである。ちなみにこの学生は帰り際に電子辞書を託した学生(東北)とは別で、また、1月にサン・マルコ聖堂に連れ立っていった学生(神奈川)とも別の人である。学生だけではなく先生方にしてもそうだが、ヴェネツィアではイタリア人だけではなく、多くの愉快な日本人と出会ったものだった、とあらためて思う。

さて、辞書が手元に来たのはいいが、先述のとおりなかなか腰を据えて読む時間がない。それでもぱらぱらとこの辞書の凡例を読んでいたところで気が遠くなったのだが、何がひどいかといって、一口にヴェネト語とはいってもヴェネツィア語とムラーノ語とブラーノ語とキオッジャ語の間ではアクセントや動詞の活用、そして代名詞の使い方が微妙に異なるなどというのである。

そういえば昨年の末頃、霧に包まれたサン•セバスティアーノの学舎で「これがcaigoというものか」とヴェネツィア大学の先生に尋ねたとき、この単語が通じなかったことがあった。ヴェネト語でラグーナに出る霧のことを指す言葉のはずだ、と説明したら「ああcaligoのことか」と納得された。

bigoiとbigoli、あるいはmoecaとmolecaという例を見知っていたのでヴェネト語に「l」が入ったり入らなかったりすること自体は知っていた。さらに広い範囲でいうと、定冠詞複数の「gli」はヴェネツィアでは「リ」に近い発音だが、シチリアーニは大きく口を横に広げて「イ」と発音する。それはそれとして驚いたのはその後であった。

「l」が入るか入らないかについては標準イタリア語の影響などを含んだ時代による変化ではないかと見当をつけていたのだが、その先生は「うちの辺り(サン•マルコ地区)ではcaigoとは言わないけれども、別の地区ではそう言うかも知れない」と仰せになったのである。つまりヴェネツィア本島内でもセスティエーレ(カステッロ地区、サン・マルコ地区、カンナレージョ地区、サン・ポーロ地区、サンタ・クローチェ地区、ドルソデューロ地区)毎に言葉遣いに違いがあるかもしれないというのだ。

それはもう誤差と言ってしまってよい(私の「caigo」がこのとき通じなかったのは、発音上の問題か、あるいは「イタリア語に不慣れな日本人がヴェネト語を使うはずがない」という文脈上の解釈の問題とも考えられる)のではないかと思うし、どうしてこの狭い島の中でこの程度の違いが収斂されていかないのかさっぱり理解できないのだが、しかしこの間の微妙な揺れというものが飲み込めなければ場合によっては辞書を引くことができないのではなかろうか。こうやってその場の勢いであれこれと手を伸ばしてはその度に泥沼に嵌まっていくというのはいつものことであるが、さすがにこれはキツい。私が買った本はいったい何処の島の何処の地区の言葉で書かれているのだろう。

口の開け方について

未だに慣れないのだが、そういえばパソコンが常時ネットにつながっているのだったと気付いてrisi e bisi e fragoleを画像検索してみたところ、単にイチゴが上に乗っかっているだけで特にどうということはなかった。イタリアの名誉のために一応ことわって置くが、ネットに関しては私が仮寓していたリアルトのアパルタメントが特別だったのである。他の先生方の家や留学生の寮ではきちんとネット環境が整っていた。

して、ヴェネツィアかぶれとしては当然のこと、4月25日にrisi e bisiを作ってみたのだが、旬の素材で作ったらさすがに味が違った。この料理、古いレシピではインゲンの莢を捨てることなく、塩ゆでした後に裏ごし器でつぶしてペースト状にしたものを加えるという一手間がある。参考とした本によると、食材をわずかなりとも無駄にすることが許されなかった往事の様子が思い起こされる、との評であった。

実際にそっちのレシピでやってみたところ、火も水も手間も余計にかけて繊維質の多い莢からわずかな栄養を搾り取ることにどれほどの意味があるのかは今ひとつ分からなかった。イタリアでは料理の最中にトマトをつぶしたりする機会も多いと思われ、そのために裏ごし器という道具が日本より身近であるのだろうが、日本の我が家にある道具でこれをこなすのは一苦労である。ちなみにここで裏ごし器としたpassaverduraという機械は、日本語で「裏ごし器」と書いて想像されるものとはちょっと違う。新鮮な豆を使って作ったのが初めてなので味の違いについてはそっちに気を取られており、莢のペーストの効果については色味が変わること以外には何ともいえないのではあるが、ともあれ、ヴェネツィア、あるいはヴェネト州にもそういう貧しい時代があったということだけは何となく実感できた。

4月25日頃にヴェネツィアの街のウェブサイトを見ていたところ、解放記念日や聖マルコの祝日、そしてこれも以前紹介したbocoloボーコロ、ボッコロの記事があったのだが、現代のボーコロでは伴侶だけではなく母や娘にも薔薇の蕾が贈られる、というふうになっていた。日本のバレンタインチョコレートが女性同士で、あるいは自分自身にも贈られるものとなったように、イベントを盛り上げるために拡大解釈を繰り返して対象を広げていく、というのはどこにでもある話である。しかしイタリアには3月8日のfesta della donnaにも女性にミモザの花を贈るという習慣があるのだ。似たようなイベントが間を置かずに続くのなら差別化が必要ではないかと思うのだが、まあ、彼ら自身が楽しくやっているのであれば取り立てて問題とすることでもない。

気候や風土によってあれこれ違いはあるが、イタリアでそういう違いを一つ一つ取り上げて突き詰めていると、人間というのは何処で生きていても根本的に同じものだ、という結論に行き着くことがしばしばであった。

私は基本的に異端者と呼ばれるような人々ばかりを研究対象としており、ヴェネツィアにいた間もキリスト教の教義に引っかかるようなテーマで研究せざるを得なかった。ヴェネツィア共和国というのは自分たちが生き残るためなら十字軍の矛先をキリスト教徒へとねじ向けることすら敢えてする国であったが、欧州のとある国では現代でも神を冒涜すると現実的に刑法上の罪に問われるらしい。カトリックの総本山の国に滞在する間、この無神論者が何処で地雷を踏むことになるかとびくびくしていたのだった。

ところが、イタリアは欧州とアジア・アフリカとの境界、つまりイスラム世界という他者と直面するところに位置しているためか、あるいは総本山であることが精神的な余裕を生み出しているのか、結局は特に問題となるようなことはなかった。考えてみると、どの宗教でも総本山の近くには原理主義というものがないような気がする。逆にいうと、拠り所となるものが無い場所であると、信徒としてのアイデンティティを得るために「極端な実践によるアピール」という選択肢が生まれるのではないかとも考えてみた。

例によって話が飛ぶが、そうするとヴェネツィアから遠く離れてしまった私が「ヴェネツィア帰り」であることをネタにするためにも、やはり「極端な実践」が必要となるわけである。

と言っても今のところ生活に余裕がないので、家主の本を読み進める時間もなかなかとれない。せいぜい、バッカラに関するレシピを片っ端からまとめて訳している程度である。レシピの翻訳というのは実際に作ってみなければ大事なところで言葉の選択を間違えることがあるので、ここのところ肝心要の素材である干鱈・棒鱈といわれるものを探しているのだが、これがなかなか手近なところでは売っていない。

また、これら食材探しのついでにちょくちょくワインも物色しているのだが、日本のスーパーなどで売っているワインはコルク栓を使わないタイプばかりとなっているのが少々気にかかった。飲み残す際に便利ではあるもののどうも味気ない。

中でも一番の問題は、ヴェネツィアで手に入れたcavatappi栓抜きの出番がないということである。道具にはこだわる質なので滞在中にあれこれ手を尽くして探したところ、帰国する頃にはどういうわけか四本もの栓抜きを手に入れていたのだった。一般的にイタリアの家庭で使うものは、瓶のうえに固定してスクリューをねじ込むと両側のレバーが上がっていき、それを下ろすとコルク栓が抜けるようになっているタイプのものであるが、私が手に入れたのはすべてウェイターズナイフと言われるタイプである。こちらは通常、ソムリエやカメリエーレ(給仕)が使うものであるのだが、当然のことながら私は大勢でワインを飲む場面にあっては給仕役を務めることが多い。

一本目はリアルト橋の傍にある馴染みのタバッキ(煙草屋)で手に入れた。デザインはイタリアだが中国製で€6。このタバッキのおばちゃんと向かいにあるワイン屋のおっちゃんは、おそらく私がヴェネツィアで最も多く言葉を交わした人物である。

おばちゃんの方は先の熊本の地震のときにもメールをくれたが、6月辺りに日本に旅行に来るという話だったから何かと様子が気になるのだろう。東京~京都~広島と回る予定なのだそうで、ヴェネツィアでは日本の地図が手に入らない、と相談されてあれこれ手を尽くしたこともあった。世界に名だたる観光都市で他所の観光地の地図が手に入らないのは当然のことのようにも思えるが、住民にとっては不便な話である。

それにしても、東京と京都は何となく分かるが、そこへ広島が加わるのはどういうわけか。そういえばヴァポレットの乗降場などにある旅行会社の広告でしばしば厳島神社の写真を見た覚えがあり、その時は何故数多の観光地の中から厳島が選ばれているのかピンとこなかったのだが、これはもしかすると水没つながりではないのか。しかし、わざわざ極東の島国に出かけてまでアックァ・アルタを観ることもないと思うのだが。

それはそれとして、この一本目の栓抜きは馴染みの店で買ったものだけに愛着もあるのだけれども、中国製というのは少々物足りない。

そんな中、あれは初冬の頃だったか、大学の語学の授業で一緒になった人々とカ・フォスカリの近くの店で食事をしていたとき、店員が見慣れない型の栓抜きを使っていたのを見た。気になったので「その栓抜きは何処で売っているのか」と尋ねところ、「ワイナリーの販促用のもので売っているものではない」と説明した後で、奥から新しいものを出してきてプレゼントしてくれたのである。これにはMontagnerというワイナリーのロゴがあるのだが、後にあちこちのワイン屋で尋ねてもここのワインを取り扱っているところは見つからなかった。

三本目も同じ要領である。また別の店で店員がテーブルの下に落としていった栓抜きを見つけ、届けた際に二本目と同じ質問をしたところ、ほぼ同じ遣り取りでプレゼントしてもらった。こちらにはTerramusaというワイナリーのロゴが入っているのだが、ここのワインもまた見つけられなかった。だいたいイタリアに限らずワイナリーというのは多すぎるのである。日本のビール業界のように大手に収斂されてしまっているということがないので、この世界には分け入っても分け入っても切りがない。まったくうらやましい話だ。またこの栓抜きにはMuranoという刻印があり、同じタイプのもの(ただし当然ながらワイナリーのロゴはない)がsalizada S. Canzianの刃物店で売られているのを後に見つけたが、これがムラーノ島と関係があるのかどうかは知らない。

こうして二本目と三本目は酔いに任せた積極的なコミュニケーションの末に手に入れた。帰国直前、日本に荷物を送るために郵便局へ行ったときにもイタリア語を褒められたことがあったが、いくら英語が通じるとはいっても、やはりイタリアではイタリア語で話した方が何かと受けがいい。特に日本人の話すイタリア語はよく誉められる。

言語には閉鎖音(閉塞音)と開放音という区分があると向こうで聞いたのだが、イタリア語と日本語は共に開放音なのだそうな。さすがに言語学の説明は手に余るので詳しいことは適当に検索して調べてほしいところであるが、とりあえず英語のbankとイタリア語のbancaを見比べてもらえばわかりやすいのではなかろうか。銀行の語源はイタリア語のbanco(机)で、さらにいうと銀行というものはそもそもヴェネツィアで生まれたという話があるのだがそれはともかく、日本語もイタリア語も単語が母音で終わるのが基本なのである。そのせいで、英語とイタリア語で語源を一にする単語、あるいは近代になって英語からイタリア語に入った外来語であっても、辞書で見るとシラブルの切り方がずれていたりする。

そういえば、とある店で食事をしたときに珍しく突き出しが出てきて、まだ最初だったのでイタリア語ではなく英語で「これはプレゼントだ」と説明されたことがあった。しかしその発音はpresentではなく明らかにpresentoであって、日本人の中学生の英語を聞いているかのような気分になったものである。この店員は昔船乗りをやっており、商船に乗って日本にも行ったことがあるという話だったのではあるが問題はそういうことではない。

とにかく、日本人の発音はイタリア人に聞き取りやすく、その逆もまた同様、ということだ。したがって日本人にとってイタリア語は学びやすい言葉であると思うのだが、あまり需要がないのは残念なことである。

だいぶ長くなった。最後の四本目についてまだ説明していないが、これについてはまたそのうち出番があるだろう。