季節の行事について

 

  有る程の芋投げ入れよ鍋の中

 

今や伝説となったラジオドラマ「芋煮会」を聴いて以来、芋煮なるものにいつかは参加したいものだと、この季節が巡ってくる度に考える。東北に知り合いが居ないこともないのだけれど、しかし実際にはなかなか行く機会がない。

里芋を使うという共通点はあれど、それ以外の材料(主に使用する肉の種類)や味付け(味噌か醤油か)に関しては、東北各地方それぞれの地域ナショナリズムに端を発する異常なまでのこだわりがあるらしい。特に山形(牛肉が主)と宮城(豚肉が主)の間の対立は熾烈を極め、越境者が何も考えずに準備に関わって厳正なる鉄の掟に触れた場合、会場となる河原には芋煮用の薪を使った磔台が組み上げられ、咎人は火刑に処されるとかいうこともあったとかなかったとか。

またあるとき、山形県のある女性と宮城県のある男性が恋仲となったのだが、その年の秋のこと、男性の母親から芋煮用の肉を買ってくるように頼まれたその女性が山形の慣習に従い牛肉を、しかもあろうことか米沢牛を買って帰ったということがあった。それを見た宮城の男性の両親は激怒して二人の仲を引き裂いてしまい、故郷へと帰ったその女性は芋煮会用に作られた巨大鍋(通称「鍋太郎」、直径6メートル)の中で煮えたぎる芋煮へと身を投じ、儚き命を絶ったとかいう悲しい恋の物語もあったとかなかったとか。

これまで折に触れ紹介してきたとおり、料理に関する地域間対立はイタリアでもよくある話であるが、イタリアにしても東北にしても、実物を見たことがないが故に種々の風説によって勝手なイメージを膨らませていくのが面白いのであって、『高岳親王航海記』の蟻塚に嵌まった石の如くに、手に取ったら最後、その光を失ってしまうようなものなのかもしれない。東北はヴェネツィアより遙かに近いのであるが、遠きにありて思うもの、としておいた方がよいのであろうか。もっとも、彼の大プリニウスは各地を巡って自分の目であらゆるものを見たうえで、なお荒唐無稽な『博物誌』を著した。実物を見たからといって負けてしまうような想像力ではまだ甘いのだとも思える。

ではそろそろ本題に入ろう。ヴェネツィアの民衆の季節行事としては、二大祝聖記念日、聖マルタとレデントーレというものがあった。エウジェニオ・ムザッティという人によると、「共和国の初期のこと、七月にもっともよく食されるシタビラメの漁に出た人たちは日が落ちる頃に陸に上がり、少し涼しくなった空気の中で一息ついて長い仕事の疲れを癒やした。そして最も外側の岸、つまりサン・ニコロ通りのサンタ・マルタの家[教会]の辺りでその日の獲物を使って質素な酒宴を開くのである。最下層の人々も聖マルタの晩餐(7月29日)に相応しい一張羅を引っ張り出し、sfogio in saorシタビラメのサオールに乾杯するために多くの人々が集まって陽気に騒いだ。木の筏が揚げられたことでザターレ[ザッテレ]といわれた対岸のフォンダメンタとの間を隔てるジュデッカの運河沿いには、美しく飾られ、照らし出されたあらゆる形と大きさの舟が見られた。たとえば甘美な響きが度々流れ出てくる裕福な貴人のpeotaペオータから、シタビラメ漁に使われ、市民家庭の事情から賃貸しされて祭りに姿を見せたtartanaタルターナなど。小枝で飾られ、それぞれの家族の食事のために準備された質素な職人たちのbattelliバッテッロも欠かせない。それは普段から使っている紙提灯でわずかに照らされ、その中では小さなランプが燃えていた。また、宴会の準備をしていなくても、また他にたいした動機がなくても、混み合う舟の間を気の向くままに流していくのが好きだったり、シタビラメを揚げたり伝統的なサオールを用意したりしているカフェや酒場、そして行商人の料理を楽しむ人々で埋め尽くされた岸辺の愉快な光景を楽しむために流していったりする人たちの軽快なgondoletteゴンドレッタもあった。」

シタビラメは一般にsogliolaという。ヴェネツィアではよく見られる魚だが、滞在中は専らグリルで食した。サオールといえばsarde in saorであり、シタビラメのサオールというのは残念ながら覚えがない。聖マルタ教会はヴェネツィアの南西の端、珍しく車道のある区域にあって、カ・フォスカリ大学のサン・セバスティアーノの校舎から近いので授業の帰りに一度だけその大外を歩いたことがある。が、当時は車道近くを歩くことに恐怖を覚えるような状態となっていたので、車のエンジン音を警戒しながら歩いた覚えしかない。

ローマ広場周辺からこの地域にかけては近代まで何らかの工場として使われていたような建物が多い。その工場や倉庫群へと繋がっている線路跡も残っており、それはそれで味があるにしても、一つ一つが大きいうえにのっぺりしているため、ヴェネツィアと聞いて一般に思い出すようなものとは趣が異なる。ただしこの辺りを散歩した日は例のcaigo(霧)が強く出ており、霞んだ景色の中で撮った写真はそれなりにヴェネツィアらしい出来であった。

それはそれとして、聖マルタの祭日というのも知らないのでちょっと検索してみたが、特に何も出てこないようである。日程が近いのでレデントーレに呑み込まれてしまったのであろうか。

ムザッティ氏の記述に戻る。「レデントーレの祭日[七月の第三日曜日]の人出もそれに引けを取るものではない。というのも、サン・マルコ広場からジュデッカのサン・ジョヴァンニまで荘厳な行列が渡っていくこととなる木製の仮設橋を介してそこへ簡単にいくことができ、その祝聖祭日の夜の間、人々はそれを利用して、この島の岸辺や美しい庭園へと散らばり、日中の暑さで疲れた体を癒やすのだった。そこにはまさに、皆で集まって騒ぐために混ざり合い、草の上に横たわったり、簡素な食堂の中に座っていたりする陽気な人々の集まりがあった。彼らは質素な食事のために集い、そこで鶏のローストを味わった。しかし何にもまして、慎みと節度を保ったユーモアと快活なお喋りを楽しんだのだった。ザッテレからジュデッカ島まで、もう一つはサンタ・マリア・デル・ジッリォの渡し場からサルーテ(ザッテレからすぐ)までをつなぐ二つの仮設橋によって、レデントーレの祝聖祭日の宵から当日の夕暮れまでずっと人々の活況は続いた。その島のフォンダメンタ沿い、一キロメートルほどの空間全体にアニス酒の水割、フェンネル、鶏のロースト、フルーツ、フリッテッラ、玩具などを売る人の列が途切れなく見られた。そしてレデントーレ教会のあるサン・ジャコモ広場ではzarese moreザレーゼ・モーレ(赤黒サクランボ)売りが声を切らして叫んでいた。」

仮設橋や物売りに関しては今でも同じようなものがあるが、「慎みと節度を保ったユーモアと快活なお喋り」というのはもう期待できないだろう。ヴェネツィアーニがそれを失ったというのではない。この日はヴェネツィアに観光客が押し寄せる一大イベントなので、どこもかしこも朝から晩まで雑然としているのである。ヴェネツィアを愛する余所者としては申し訳ないというほかない。

この本の編者であるジャンピエロ氏はこう言う。
「1700年代、祝聖祭日の騒ぎの向こうには、彼らの日常生活に即し、フラトーラ[惣菜屋、大衆食堂]やフリトリーノ[フリットやポレンタを売った店]に端を発した庶民の料理があり、それは書物に多く書き残すに値しないほどに単純な料理であった。しかし、恒常的な外来物の流行、味気なく、うわべだけの創造性、即席の安易な調理法の中にありながらも、すでに見たように、現代へと続いて今も人々の味わっているヴェネツィア料理文化の基幹でありつづけるほどに、人々の実生活に即したものであったことを記して締めくくりとしよう。
 それはヴェネツィアーノが日々食べ続けている料理のおかげ、また毎朝早起きして魚市場へ駆けつけ、午後は丸々「curar schie」[スジエビを茹でて]過ごし、彼らの料理が本物かつ貴重なヴェネツィア文化の中心であると考える多くの愛好家たちのおかげである。ガイドブックに載らないこの大多数の人々こそ、かの至上の光輝に満ちた共和国の香り、美味、そして繊細さを今も味わうことのできる人たちなのである。」

ドルチェについて

毎年5月31日が近づくとタバコの害を主張する報道が増え、煙の味が些か苦くなる。タバコの場合は被害をはっきりと定量化できるから攻撃しやすいのだろうが、しかしそもそも誰にも一分の迷惑もかけずに生きていくことなどできるのであろうか。他人様の寿命を一秒たりとも縮めてはいけないと突き詰めていったら、身体的にも精神的にも他人に関わることができなくなってしまわないか。人間が生きていること自体が悪だというなら分からんでもないが。

子供の頃はタバコの煙が大嫌いで、今でもこれが好きになったというわけではない。そして健康被害の科学的根拠に関して面倒な議論をしている人があるにしても、タバコの煙を不快に思う人がいるのは厳然たる事実である。が、いつの頃からか世間が一斉にタバコを攻撃するようになったのを見て多少違和感が生じ、自分としては喫煙者の側に立とうという気になった。文学部らしいというか、若気の至りというか。まあ、私のことなどどうでもよい。

ヴェネツィアはかなり喫煙者に甘い。建物の中はまず間違いなく禁煙だが、大きめのカンポには概ね灰皿付きのゴミ箱が設置されており、常に誰かが一服している。紙巻きは税金が高いのでお金のない学生などは刻んだ葉だけを買い、自分で巻いて吸う人が多いというふうに聞いたのだが、しばしばその中には違う種類の葉っぱが混じるという。また観光客の歩きタバコも日常のことであって、その吸い殻は皆が躊躇うことなく道端へ捨てていた。こう書くと完全に無法地帯である。

目の前に運河があればそこへ捨てる人もありそうなもので、淀みにタバコのフィルターが吹き寄せられている様子は想像するに容易いが、実のところそういった光景は記憶にない。そして石畳の方の美観はどうなるのかというと、毎日掃除夫が箒で街中を掃き清めてくれるお陰で保たれている。

リアルト付近は主要観光スポットなので清掃は最優先に行われる。この掃除は毎朝のゴミの回収とセットであるため、私が下宿していた辺りはやたらと回収時間が早く、寝坊してタイミングを逃すこともままあった。当然パッカー車などは使えないので回収は基本的に人力である。数多ある橋の階段を越えられるように設計された特殊な手押し車を使い、Attenzione!と連呼しながら観光客の群れを切り開いて進む彼らに、ヴェネツィア市民の日々の生活を見出したものだった。

すでに見たように、ヴェネツィアの伝統を今に伝えるにあたっては様々な「アルテ(職業組合、ギルド)」が重要な役割を果たしてきた。職能集団といえば今ではかの清掃業者かヴァポレットの運航会社、そしてゴンドリエリくらいしか目につかないが、往事のヴェネツィアで特に重要だとされていたのはpistòri、これはパンの製造者である。主食であるからして、この食物は中世の終わりまで広範な法規制の対象となっており、その規制は小麦粉の品質、作業法、パスタの種類、調理方法、販売、価格にまで及んだ。

ヴェネツィアには、l'albus(白パン)、tota farina(全粒粉パン)、そしてil traverso(篩った小麦粉を使ったものと推測されている)というタイプのパンがあったという。ジュゼッペ・タッシーニという人によるとヴェネツィアのパンは「今では失われた熟練の技によって、虫に食われないという特徴を持っていた」そうな。これはつまり「日持ちした」と言いたいのだと思われる。

前回取り上げた牛タンのサルミストラータについて調べていた際、保存料として硝酸カリウムを遠慮なくぶち込むというやり方を見た。現代でもハムやソーセージについてあれこれ議論となっているのが折に触れて見受けられるが、船旅の糧食とすることを最優先に改良が行われ、結果、虫も食わなくなったパンというのは一体どんな味がしたのだろう。

イタリア人が調べても分からないことを日本人が考えても仕方ない。それはそれとして、この街でもっとも豪華なパンはbuffettoといった。マランゴーニによると「精選された極上の小麦粉で仕立てられた真っ白なパンで、少量のバターや砂糖が加えられることもある」とのこと。ヴェネツィアではポレンタでも黄色いものより白いものの方が高級とされるが、手間を加えて精製されたものの方が珍重されるのは日本の米でも同じ理屈で、別に珍しいことではない。現代では真っ白の方が不自然だといってあれこれ混ざったパンの方が流行っている様子なのもまた同様である。

もうひとつ重要な組合にlasagnèriその他パスタ類製造者の職業組合というものがあり、これは1638年になってつくられたものだという。共和国の歴史を考えればかなり新しい部類に入るが、しかし彼らはすぐにヴェネツィアの食において重要な役どころを占めるようになる。ラザニェーリたちは自身の工房でパスタを売るだけではなく、自分の家でパスタや菓子を作りたいという人々の要請に応え、精製した小麦粉も売るようになった。

さらにはscaletèriあるいはbuzoladi[チャンベッラ職人と但してあったが、ブッソーラが元であるように思える]と呼ばれた菓子職人もあり、彼らは道端で菓子を売っていた。マランゴーニによるとしかし「この行商人たちは、一箱以上のチャンベッラとコンフォルティーノ(コショウと蜂蜜ベースの菓子)を持ち歩くことを許されていなかった」という。この職種は多くの禁則、たとえばパスタ菓子を女性・馬・鶏・鳥の形にしてはいけないとか、堅信式の期間中は教会内で菓子を売ってはいけないなどという、ときにはむしろ滑稽とも見えるような規制に縛られていた。

そして真打ちとなるのがfritolèriである。またもやマランゴーニによると「今日においても大衆的な菓子のトップであるように思われるヴェネトの国民的な菓子la frìtola (frittella)はこの街のあちこちの地区で売られており、たいていは外から作業の様子が見えるような木造の四角いバラックの中で作られていた」。

これらの職人達は製造と同時に販売もしており、「大きな板の上で小麦粉をこね、その後オイル、ラード、あるいはバターを使い、三脚にのせた大きなフライパンで揚げていた。調理が済むとそのフリッテッレは、様々な方法で豪華に彩られた錫や白鑞製の皿に陳列された。また他の皿には商品の美味しさを宣伝するため、松の実、干しブドウ、シトロンなど、使われている素材が並べられていた」。

全体的にヴェネツィア料理ではラードなどの獣脂を使わず、desfrito[ヴェネト語で炒め物]の調理にはオリーヴオイルやバターを使うのが基本である。ついでにいうと、炒め物に使うペースト[下味]にはほぼ常にイタリアンパセリと玉ねぎをみじん切りにしたものが使われていた。よってラードを使うのはほぼフリトーラに限られていたそうだが、コストの面ではそちらの方が安くついたのだろうか。ちなみにイタリア語でラードはstruttoあるいはsugnaという。lardoという言葉も別に出てくるので暫し考え込んだが、これはどうも脂身という文脈で使われるようである。

フリッテッラというのは小麦粉、砂糖、牛乳、卵などを混ぜて作った生地を揚げたものの総称である。要は単なるドーナツ菓子であるが、ヴェネツィアではカルネヴァーレの時期に作られる球形のものがもっとも有名だろう。また帰国直前の昨年三月、行きつけのパン屋で「こいつはヴェネツィアの伝統的なお菓子だよ」と言われ、いかにも復活祭風の卵形の揚げ菓子をオマケにもらったのだが、これも「フリッテッラ」と言っていた。

エリオ・ゾルズィは「カルネヴァーレとすべての祝聖記念日にはフリットーレ、謝肉祭最後の木曜日にはガラーニが作られた」と記しているが、この「ガラーニ」も生地は同じようなものである。板状に薄く延ばして所々切り目を入れて揚げ、仕上げに粉砂糖をしこたま振りかける。

ヴェネツィアを出ればこのフリッテッラにはさらに多くのヴァリエーションがあり、イタリア各地で独特の形をしたものが作られている。そして形が違うだけではなく名前まで変わることがあり、そうすると同じような味でも別のものとして認識されるようだ。先述した「パスタ菓子を女性・馬・鶏・鳥の形にしてはいけない」という規制の背景にはそういうことがあるのだろう。これは揚げ菓子ではないが、馬と聞いて以前紹介したサン・マルティーノというパスタ菓子のことが思い出された。

生地からして違うものにzaetiという菓子があるが、これはzaeti(ヴェネト語)→zaleti→gialletti(標準イタリア語)とたどって「黄色い」という形容詞につながるものであって、トウモロコシの粉が入っているためにこのように呼び習わされる。しかしbussola braneo (bussola di Burano)とesse di Branoの二種は、丸形(ブッソーラは羅針盤の意)かS字形かという違いだけで、作り方は同じである。ちなみにこれらは食後にreciotoとかzibibboとかヴィン・サントとかいう糖度の高いワインに漬けて食べることが多い。

この辺までは滞在中に見知っていたが、エリオ・ゾルズィの邸宅におけるvigilia di Nataleクリスマスイヴの夕食についての回想を見ると、クロッカンテ、モスタルダ[クレモーナの菓子、マスタード入りシロップに漬けた果物のピクルス]、マンドルラートに加え、i stortiというものが目についた。このエリオ・ゾルズィという人についてはまだきちんと調べていないが、最後の証人というか、近代に生き残ったヴェネツィア貴族だったのだそうな。この人の息子のアルヴィーゼ・ゾルズィが昨年までご存命であったと言えば時代感覚が分かるだろう。

クロッカンテはスペイン起源とみられているが、モスタルダとマンドルラートはクリスマスの時期に作られたヴェネツィア特有の菓子だという。マンドルラートは辞書を引くとヌガーのことだとあり、だとすればフランスの方へ遡っていくはずなのだが、ヴェローナのコローニャ・ヴェネタという地区で生まれたものとされている。画像検索してみたところ、あちこちのパスティッチェリアで山積みになっていたのはこれだったのかと思い至ったが、いかにも味がしつこそうでまったく食指が動かなかったような記憶がある。

ストルティという菓子については覚えがない。どうやら一時期失われていた菓子のようで調べてもわずかな情報しか出てこないが、ガンベロ・ロッソのウェブサイトにも載っていたのでまったくマイナーというわけでもない。ソフトクリームのコーンのような形に作ったcialdeというものにホイップクリームを詰め込んで食す。

ヴェネツィアのお菓子なのにティラミスの話が出てこないと訝しむ方もおられようが、これはかなり歴史が浅いもののようなので今回は出番がない。ともあれ、今のうちから年末に向けて菓子作りの修行を始めなければいけないような気がしてきた。相変わらず先の見通しが立たない状況なのではあるが。

庶民の食卓について

ヴェネツィア共和国時代、国家的な正餐は年に五回あったそうである。これらは順に、
○4月25日:守護聖人聖マルコの祭日
○キリスト昇天祭[移動祝祭日]:999年にドージェ、ピエトロ・オルセオロII世がアドリア海を平定するためにヴェネツィアを出航したのを記念する日
○6月15日:聖ヴィトゥスと聖モデストの祭日で、1310年のこの日、バイアモンテ・ティエポロのクーデター未遂事件があったことを記念する日
○9月30日:聖ジローラモの祭日、この日もなにやら事件があったみたいなのだが、ここの記述を訳しただけではよく分からない。塩野さんの本をひっくり返せば分かりそうなものだが、今は宿題とする。
○12月26日:最初の殉教者聖ステファノの祭日で、コンスタンティノープルからヴェネツィアへその聖人の聖遺物が移されたことを記念する日となっている。

キリスト昇天祭は一般的にAscensioneアシェンシオーネというが、ヴェネト語ではSènsaという。この祭日はSposalizio del Mare(海との結婚)の儀式で知られており、今年は次の日曜日になっているようだ。ウェブサイトを見るとこれに合わせてレガータも開催されるとあったが、とすると、滞在中のこの時期に偶然観たレガータはセンサのものであったか。当時はまだ不慣れでヴェネツィアについて詳しいことを何も知らなかったが、カルネヴァーレやレデントーレと並ぶヴェネツィアの大事なイベントにギリギリかすっていたことを今さらながらに知る。

ピエトロ・オルセオロII世についてはちょっと検索して戴ければすぐに分かるほどの偉人なので説明は省略。この祭日の祝宴にはオルセオロの偉業の達成に深く貢献したことを記念してアルセナーレの職工が百人ほど招待された。彼らの前に供されたのは、
arance belle grosse, lingua salata, salami di Firenze, offelle, torte, savoiardi grandi, sfogliate, cagliate, cedri grossi e pan di Spagna
大ぶりのオレンジ、塩タン、フィレンツェのサラミ、オッフェッラ[北伊のパンケーキ]、パイ、サヴォイビスケット、スフォリアータ[折りパイ]、カリャータ[凝乳物]、大きなシトロンの実やスペインのパンからなる十種のアンティパスト、と記録されている。名門の貴顕や大使はアルセナーレの職工たちがもてなされているその隣のサロンで宴席に臨み、こちらには十二種のordoverオルドヴェルが並べられた。ご想像のとおり、オルドヴェルというのはフランス語のオードブルに由来する。前回見たことだが、嘆かわしいことに十八世紀のヴェネツィア貴族はフランスかぶれである。

その後、温かいメイン料理が運ばれてきたが、こちらには多くの肉料理があり、その中にはハトのラグーのパイ、メンドリのローストやボイル、そしてデザートにアーティチョークやフェンネルなどがあったという。

このほかの祭日についてざっと見ていくと、聖ヴィトゥスと聖モデストの祭日にはrisi coi pedocchi[ムール貝のリゾット]、これは現代に伝わるrisotto ai frutti di mare[海の幸のリゾット]の祖先だという。risottoというのは想像通りのリゾットであるが、ヴェネト語でrisiとある料理は本来、少しスープ寄りで汁気の多いものである。以降は便宜上「粥」と訳す。

聖マルコの祝祭の期間中はアンティパストにsfoge in saor[シタビラメの南蛮漬け]が供された。これはまた聖マルタの祭日前夜に民衆の間でも口にされていたという。4月25日の祝宴にはtrote[マス]が用意されるのが常だったそうだが、その式典の配膳に関する文書にはこう示されているそうな。「もし水産物が不漁で同種のものが不足した場合は、牛か子牛のタン、あるいは切ったpersutto[プロシュット?]で賄うことも可能である。もし牛がやせていれば、スズキかヒラメを茹でたもの、その他シタビラメ、アカザエビ、カニなどのフリットで代用しても良い」。

日本人の場合「土用の丑にはウナギを食べる」と一度決めたら、万難を排して何が何でも準備をしておくようなイメージがあるが、もっとも重要な祭日用の食材であったとしても無かったら無いで適当に濁す、というやり方が彼らのイメージにぴったりである。

ウナギといえば、この魚は本来冬が旬なのである。クリスマスイヴには、庶民の各家庭で「極上のカラスミのアンティパストに始まり、伝統的なウナギ料理やホタテのリゾットの並ぶ食卓」に人々が集ったという。このほかクリスマスイヴの定番料理として「サケ、i cavoli crespi[チリメンキャベツか]、モスタルダ、il mandorlato[アーモンドケーキ]」などが挙げられているが、モスタルダやマンドルラートなどの菓子については後日まとめることとする。

ウナギでもっとも好まれた調理法はin umido[トマト煮込み]だった。また、大きなものはグリルでロースト、小さなものはsull'ara[ローリエの上に並べてオーブンで焼く]という調理法もあったとのこと。この辺は簡単に応用できるかもしれない。

庶民の家庭でも祭日には肉料理を食べる習慣があった。サルーテ教会の祭日である11月21日のカストラディーナ、レデントーレ前夜のニワトリやカモのロースト、カルネヴァーレの最後の数日にはラヴィオリやシチメンチョウ、そして復活祭には子牛肉やフォカッチャ、さらに8月1日にはカモを食べたとのこと。

そのほかには牛タンのsalmistrata、家禽、羊肉、雄牛肉、豚肉、ハチノスなどが庶民の食卓に上ったそうだが、見慣れないのがサルミストラータという言葉である。辞書を引くと「塩と硝酸カリウムで処理し、薬味入りの塩水に浸ける」とあり、ちょっと検索してみると、まず塩と硝酸カリウムを溶かした水に数日間浸け、その後弱火で煮込んで仕上げるという流れになっていた。簡略化したレシピもあったが、長いものでは一ヶ月近く塩漬けにするようである。細部は違うが、結局のところは日本でもよく知られた「牛タンの塩漬け」であった。

しかし庶民にとって、特別な料理を必要とする祭日は実際のところ少ない。それ以外の日は身近に手に入るもの、つまりヴェネツィアを取り巻くラグーナや運河に満ちていた魚介類を主に食べていた。ヴェネツィアの大衆料理といえばすでに何度も取り上げたフェーガト・アッラ・ヴェネツィアーナ、バッカラ・マンテカート、ポレンタの三つに始まるが、ミネストラから並べると、

la minestra di risi in brodo con il sedano セロリとブロード粥のミネストラ
la minestra di risi con la luganega ソーセージ粥のミネストラ
la minestra de risi co le verze チリメンキャベツ粥のミネストラ
la minestra de risi e fagioli インゲン豆粥のミネストラ
i risi e bisi エンドウ豆粥、これについてはこれまでに何度も書いた。
i risi in cavroman カヴロマン粥(切り分けた去勢羊肉を入れ、セロリやニンジン、玉ねぎ、ミックスした香辛料で味付けしたもの)
などがあり、リゾットになると、

il risotto de cape ホタテ[だと思うのだがマテ貝かもしれない]のリゾット
il risotto de peoci ムール貝のリゾット
il risotto de bisato ウナギのリゾット
il risotto de scampi (del Quarnaro) アカザエビのリゾット(クァルナロ[アドリア海北東、現クロアチア領の湾]産)
il risotto de sepoline 小イカのリゾット
il risotto a la bechera 肉屋風リゾット[詳細不明]
il risotto a la sbiraglia  ズビラーリア風リゾット(レバーや鶏の内臓を使う)
il risotto de zuca カボチャのリゾット
などが挙げられている。

この後はパスタ料理で、例のビーゴリ・イン・サルサの他にいくつか見慣れないものが挙げられているのだが今回は省略。これらの料理の中には肉類や野菜がかなり混じっているが、魚介類は基本的にもっとシンプルな調理法で食べられていた。新鮮なものが手に入る土地だとどこでもこういった流れになるものだが、ヴェネツィア料理研究家としては物足りないような気がせんでもない。ともあれ調理法別に並べると、

lessati茹でたもの:
l'asià, la raza, il brancino, la bosega. ホシザメ、エイ、スズキ、メナダ

arrostiti alla griglia (rosti in graèla) グリルでローストしたもの:
cievoli, code de rospo, sgombri, triglie, tonno, orate, sardoni, storioni. ボラ、アンコウ、サバ、ヒメジ、マグロ、タイ、イワシ、チョウザメ

fritti フライにしたもの:
sfogi (sogliole), passarini, costolette de San Pietro, marsioni, bisatei picoli, scampi, calamaretti, moleche. シタビラメ、ヨーロッパヌマガレイ、マトウダイ、ハイイロハゼ、小型のウナギ、アカザエビ、イカ、モエカ

アンコウのグリルは確かに美味しかった。ボラは『博物誌』で読んでからずっと探していたが、結局これといったものに出会えなかったのが心残りである。これに加え、茹でてオイルやレモンで味付けしたle schie[スジエビ]というものがあり、これはアンティパスト・ミストを頼むとよく入っていた覚えがある。ポレンタに載せても美味しかった。bovoleti co l'aglioというのはカタツムリを茹でてオイル・ニンニク・イタリアンパセリで味付けしたものとあるが、これは残念ながら食べたことはない。

まだあった。
i folpi, le tante varietà di cappe, le seppie, le sardelle e poi ancora gatti e cagnetti, gò, passarini, angusigole, varagni. マダコ、ホタテ各種、イカ、イワシ、そしてナマズやイソギンポ、ハゼ、ヨーロッパヌマガレイ、ヨウジウオ、クモウオ、
これらは茹でたものが各オステリアの店先や道端の行商人のところで売られていたというのだが、こういったいわゆるストリートフードについてはこの後で一章を割いて語られている。現代だとレッサート[茹でたもの]ではなくフリット・ミスト[魚介のフライ]があちこちで売られており、観光客が手にしていたのをよく見かけたものだが、ともあれ今回はこの辺で。

貴顕の食卓について

エリオ・ゾルズィという人によると、かつてヴェネツィアーニは一般的に一日二回の食事を取っていたそうである。十一時から正午の間に取る軽食、おおむね一皿のみで済ますmerenda、そしてミネストラと二、三皿の料理からなっていて、午後五時、これをora dogaleと言ったそうだが、その時間帯から始められたdisnarあるいはpranzoの二つとなっている。

プランツォという単語は標準イタリア語でも習うが、ディズナルというのは辞書に載っていない。ヴェネツィア語辞書を引くとdesinareのことだと書いてあって、これだと標準イタリア語の辞書にもあった。「食事[正餐]を取る」という意味のトスカーナの言い回しだそうで、いつものことだが同じことをいうのに地方差がありすぎて面倒なことこの上ない。ただしそもそもイタリア語には同義語というものが非常に多く存在し、修辞学の伝統に従って日常的に表現をひねくりまわすものなので、この程度で文句を言っていては彼らにはつきあえない。

「オーラ・ドガーレ」のdogaleというのはドージェの形容詞形(パラッツォ・ドゥカーレの「ducale」と同じ)なので全体的には「ドージェの時間」となるが、これは「ドージェが謁見を終えた時刻。書記局が閉まり、国家の各部局、司法局、評議会も仕事を中断して、皆が食事に向かう時刻」だそうである。その仕事が始まる時間ではなく、それを終える時間、つまり「よっしゃこれから遊ぶぞ!」という時間にドージェの名を冠するところがいかにもイタリア人である。

しかし1700年代というのはヴェネツィアが絶頂を超え、そしてその終焉に向かう時期なのであった。ポンペオ・ゲラルド・モルメンティという人がこう書いている。「貴族階級は彼らに優雅な生活をもたらしているものが何であるかを考慮することもなく、翌日のことすら考えずに、投げ捨てるかのようにしてその富を使い尽くした。彼らの日々はただ無為、無益なもので満たされていた。彼らの最大の関心事は遊戯と食事のみだった」。

遊戯用のテーブルは多くの遊び仲間や食客で賑わい、彼らは食堂から食堂へと渡り歩いた。貴族階級の間ではたまに、もっとも豪奢で美味にあふれた正餐を出せるのは誰か、という競争が行われた。それぞれ異なった三つの部屋に三つの食卓を用意し、一つの部屋ではスープと煮込み料理、二つ目の部屋では肉料理が出され、最後に三つ目の部屋のテーブルの上にはドルチェや果実、ジェラートが山と積まれている、というようなことも行われたそうである。

が、こういう記述を読んでいてもヴェネツィアの場合はあまり面白くない。貴族どものやっていることが当たり前すぎるというか、ムラーノのガラス職人ほどには突き抜けた想像力が見られないのだ。フランスの貴族のように無邪気なほど調子に乗りまくって退廃を極めているのではなく、どこかしらに成金的な限界が垣間見えるのがどうにも残念である。ヴェネツィアの貴族階級はイタリア語でpatrizi、そしてフランスのはnobiltàと書き分けられているのだが、この間にはどういう違いがあるのだろう。

共和国最後のドージェにルドヴィーコ・マニンという人があるが、彼はカンポフォルミオの恥辱の日の数日前、牡蠣とムール貝が採れるアルセナーレの養殖場の監督をとある人物に託し、2,400ダース以上の吟味された最上の牡蠣と400ダースの中級品、そして500ダースの大きなムール貝の「引き渡しをさらに細かく仕切る」ように命じたそうである。

あれこれの話を総合するに、このとき彼はナポレオンとともに本土の自分の邸宅にいたことになるのだが、これは本島の役所に向かって「食材の支払いを分割しておけ」とかいうケチな命令ではない。「手間がかかっても鮮度が大事だからちょっとずつ持ってこい」という指示である。国が滅ぶというまさにその時であっても、人間というものは日常に引きずられてその本質が見えないものなのだろうか。それともプレッシャーに圧し潰されまいとして些事の手配に没頭しようとしたのだろうか。

「ヴェネツィアはまだ限界に達してなどいない!」と信じるためのものだったとこの本の著者(これまで名前を出さなかったがGiampiero Roratoという方)はいうのだが、これはどう見ても「ジオンはあと十年は戦える!」と同じだ。何とも悲痛な叫びである。

ヴェネツィアの国としての運命はここで措いて料理に関して見ていくと、1700年代の終盤、つまり共和国がナポレオンにぶっつぶされて以降、フランスの影響で貴族向けの料理に突如として根本的な変化がおきたということが言われている。貴族階級の邸宅ではフランス人の料理人を雇うことが流行り、それにともなって伝統料理が衰退していったということがザネッティという人によって非常に強く糾弾されているのである。まずその本のタイトルが『気高きヴェネツィアの歴史を保存するための記録(未刊)』となっている時点で相当のヴェネツィアびいきであることが分かるが、その内容はやはり激烈であった。

「フランス人料理人は大量のクズ料理、ソース、ブロデット、そしてとりわけ四対のハトを澄んだブロードにしたエストラット[エキス]によってヴェネツィア人の胃袋をめちゃくちゃにした。これは奴らが来てすぐのことだ(略)今はニンニクと玉ねぎがやたらと流行していて、ほとんどすべての料理に入っている。肉と魚は食卓に着いたと思ったらすっかり形を変えられてしまうほどだ(略)。大量のハーブ、スパイス、ソースやなんかですべてが隠され、ごちゃまぜになっている」。

前回玉ねぎが昔からヴェネツィアの特産であったと書いたが、それはそれで正しいのである。「もっともよく知られた料理のうちの二つ、玉ねぎなしではあり得ないものであるフェーガト・アッラ・ヴェネツィアーナとサルデ・イン・サオールを思い出せば足りるが、もともとニンニクと玉ねぎが昔からヴェネツィア料理の中で十分な市民権を持っていたにしてもザネッティの記述は正しい」というのがジャンピエロ氏の意見である。

ここで「クズ料理」と訳した単語はporcheriaというものなのだが、ソース、ブロデット、エストラットと料理名が並ぶ中では違和感がある。イタリア語の場合はこうやって単語を並べるとき、一つ目がまとめで二つ目以降が具体例、「奴らのクズ料理、つまりソースやブロデットやなんか……」という意味合いになるのだろうか。

イタリア料理と日本料理の共通点としてしばしば「素材を活かす」という点が挙げられるが、肉や魚について原形をとどめないほどに加工したり、やたらと材料を付け加えるという点が当時から批難されているのが面白い。素材を活かした料理を作りたければ新鮮で良質なものを手に入れなければいけないわけで、その点でイタリアも日本も地理的に恵まれているのである。今ほど流通が発達していない時代、不毛の地には不毛の地でそれなりに生きていくための知恵が必要だったわけで、そう怒らなくても良いものをとも思うけれども、ヴェネツィアーニとしてはやはりフランスに対しては特別な感情があるのだろう。新しい支配者や新しい流行にすぐに乗っかっていく貴族達とそうでない人との対比を見ていると、戦後の日本に重なるようでもある。

以下はゴルドーニの「反抗心」の一幕である。旧訳を確認しに行く余裕がないので拙訳で我慢されたい。

ドロテア   「一度に一皿ずつ持ってこさせましょう。コンテ、あなたはどう思う?」
コンテ    「もちろん一度に一皿ずつよ。それが本来の食事というものだわ」
フェッランテ 「僕もそう思うよ。最初はミネストラ、そして次は……」
ドロテア   「いいえ、ミネストラは最後よ。コンテはどう思って?」
コンテ    「すごくいいと思うわ。今どきフランスではスープとミネストラは最後だっていうふうに先生が教えるのよ」
フェッランテ 「でも最初に胃を温めておくのがいいとは思わないかい?」
ドロテア   「いいえシニョーレ、流行には合わせなきゃいけないわ。(給仕に向かって)サラミはテーブルに残しておいてちょうだい。残りは片付けていいわ」

「先生」の訳が今ひとつ定まらないのだが、そのうち直す。これ以外にワインについての話もあるのだが、狂ったように多くの銘柄が列挙されていて煩雑なので今回は省略。

肉料理について

古いヴェネツィア料理について調べていればもちろんヴェネツィア語の文章に行き当たるわけで、昨年買ってきてもらったヴェネツィア語辞典は本当に重宝している。紙の辞書というのはときに思いがけない言葉との出会いをもたらすもので、先日は調べ物の最中にこんな言葉を見つけた。

Tògo: togo, fico, forte, in gamba, bravo.

ヴェネツィアには「強い、すごい」という意味を持つ「トーゴ」という単語があり、「つよーい!」あるいは「すごーい!」と表現したいときには"Che togo!"、つまり「うわ、おまえめっちゃトーゴーやん!」などというらしい。その由来については以下のような説明があった。

"La versione più accreditata sull'origine di tale vocabolo afferma che essa dovrebbe derivare dallo stupore suscitato nel 1905 dalla clamorosa vittoria dell'ammiraglio giapponese Togo sulla flotta russa durante la guerra russo-giapponese del 1904-1905".

お分かりだろうか。「この用語の起源についてもっとも信頼性の高い説は、1904-1905年の日露戦争の最中、日本の東郷提督がロシア艦隊に劇的な勝利を収めたことで巻き起こった1905年の衝撃に由来するというものである」というのだ。

これがイタリアの中でもヴェネツィアでしか通用しないというのは、この地が開国以降日本と強いつながりを持っていたせいか、それとも海洋強国であったが故に海戦についてとりわけ強い関心があったためか。ちなみに私の辞書は"DIZIONARIO DEL VENEZIANO RECENTE"すなわち「現代ヴェネツィア語辞典」(recenteはvenezianoを修飾しているので「最新版の辞典」ということではないと思う)、しかも2011年初版であるので、この言い回しは今でも残っているということになる。

どこまでが冗談なのか分からないが、「東洋の果ての日本人とかいう奴らは時々とんでもないことをしたり、とんでもないものを生み出したりする」という西洋人のステレオタイプはこういう印象が100年以上も積み重ねられてきた上にあるのだろう。お互い様だが、エグゾティシズムというのは毎度愉快なものである。

さて、ではさらに100年ほど遡って先日の続きを。

1780年頃のヴェネツィアにおける牛の年間消費量は14,545頭とされている。彼らの話はヴェネツィア本島の人口を10万人として進められているが、現在の日本の人口を1.27億人とするとこれが当時のヴェネツィアの約1270倍、ここ数年の日本の年間出荷頭数は乳牛を除いて肉牛のみで40万~50万頭ほどになるのだそうで、50万を1270で割れば約394頭となる。

するとその消費量は約37倍という計算になるのだが、そもそもイタリア人と日本人の食生活、牛肉消費量が根本から違うということ、さらにはイタリア料理では子牛肉をよく使うため、頭数で比較すると重量ベースの比較より消費量が多く見えるだろうということを加味してもまだ凄まじい数字である。人口についての前提がおかしいのかもしれないと思ったが、ヴェネツィアのコムーネのウェブサイトを見ると現在の人口は26万人ほどであるから、どういう史料に拠ったのかは分からないにしても200年前で10万人という設定も大きく外していることはないものと考えられる。とにかくヴェネツィアーニはよく牛を食った。

これらの肉類は、コムーネから年毎に認可を受け、当初はリアルトとサン・マルコでのみ開業を許された業者によって売られていた。その店は「bancheバンケ」と言い習わされ、そこで働く人は「bechèriベケーリ」と呼ばれていたという。1600年代の終わりには公的独占権が緩和され、1700年代を通して多くのライセンスが与えられるようになったことで販売網が広がったとのことである。

そして牛肉だけではなく、テッラフェルマ(本土)から入ってきた家禽類としては以下のようなものが挙げられている。
gran quantità di polli, galline, tacchini, chiamati anche pollastri d'India o, più semplicemente, dindi, colombini di casa (detti di sottobanca), torresani, osellame e selvatici in genere (germani reali ed anatidi selvatici vari, folaghe, quaglie, francolini, pernici, fagiani, oche, chiurli, e altri)
ニワトリ、メンドリ、シチメンチョウ(「ポッラストリ・ディンディア(インド若鶏の意)」あるいはより単純に「ディンディ」といわれた)、イエバト(ソットバンカといわれた)、トウバト、オゼッラーマ(沼鴨の意)と並んできて、最後の括弧内はマガモ、オオバン、ウズラ、シャコ、ライチョウ、キジ、ガチョウ、シギなど、ガンカモ科を中心とした野禽類となっている。

古いヴェネツィアの家庭料理だといわれてanatraカモを食べたことがあったが、現代の方の肉料理のレシピを見るとこのカモに加えてbeccacciaヤマシギ、colombaハト、fagianoキジ、faraonaホロホロチョウ、germano reale (masorin)マガモなどの鳥類を使ったものが大半を占めている。金に飽かして大量に牛を食べていたという割には牛肉料理のヴァリエーションが少ないようだが、現代の場合は「肉の国」フィレンツェに正面から対抗するよりも鳥類や魚介類を使ったものの方が独自色を出しやすいという計算もあるように思える。

それはともかく、当時これら鳥類の肉を扱う業者は「galinèriガリネーリ」や「pollaroliポッラローリ」といわれていた。卵を売る「ovaròliオヴァローリ」、そして「onti sotiliオンティ・ソティーリ〔unti sottili、ヴェネト語はイタリック、標準イタリア語は通常表記としている〕」と呼ばれたバターを売る「butirrantiブティッランティ」という人々がそれに続く。大雑把な「肉屋」というものがいて彼らが扱う品々がたくさんあるということではなく、売るものに対していちいち「~売り」という言葉があるのが面倒である。流通や経営を効率化せずになるべく個々の権益を守ろうとする傾向は今のイタリアでも見られるように思うが、食肉の販売に際して品目ごとに当局の許可が必要だったとか、それにともなってそれぞれ業者が集まってアルテといわれる組合を形成していったとかいう歴史的背景を見ると、なるほどそういうことかと思う。

そんな中に「luganeghèriルガネゲーリ」という人たちもいた。彼らが扱っていたものは「moreli de lugànegaモレーリ・デ・ルガーネガ」という腸詰めが中心で、つまりは加工肉の業者である。この言葉は手元の辞書ではmurèlo de ugànega=rocchio di salsicciaとなっており、morelimurèloのようにちょくちょく音位転換が起こるのが余所者には厳しい。おかげで単語一つ調べるのにも手間がかかって仕方ない。

彼らは牛の「menuzzamiメヌッザーミ」(頭、脚、内臓)を手に入れることもできた。1700年代末にルガネゲーリが販売していた加熱済みのminuzzami〔語義的にはまさにホルモン〕の価格表が残されている。
 Trippe cotte - s. 6 alla libbra
 Doppion (intestino retto) - s. 8 alla libbra
 Spienza cotta (milza) - s. 10 alla libbra
 Piedi cotti - s. 4 alla libbra
 Carne di tasto e modegal (basso ventre e collo) - s. 28 alla libbra
 Lingua cotta - s. 32 alla libbra
 トリッパ〔ハチノス〕-リッブラあたり6ソルド
 ドッピオン(直腸)-リッブラあたり8ソルド
 スピエンツァ・コッタ(脾臓)-リッブラあたり10ソルド
 脚-リッブラあたり4ソルド
 タストとモデガル(下腹部とネック)-リッブラあたり28ソルド
 タン-リッブラあたり32ソルド
トリッパは日本のイタリア料理の本でもよく見かけるし、zampone(豚足)などはヴェネツィアのスーパーにも常においてあるので見知っていたが、何しろこれまで魚料理を中心に研究していたこともあり、ここまでモツが利用されていたというのは聞いたことがあるようでもそれほど気にしたことがなかった。そして今回、ゴルドーニの作中の料理をリストアップして食材をチェックしているうちに引っかかったのが、meola〔midollo骨髄〕とcervello〔脳髄〕である。

"Cento risi colla meola de manzo e la so loganega a torno via"
刻んだニンニク、玉ねぎと一緒に牛の骨髄に火を通し、米を入れてリゾットにしたうえでソーセージ(リゾットと一緒に茹でる)を添えたもの。料理の名前を見た時点では豚骨と同じようにスープを取るのかと思ったが、骨髄を抜き出してそのまま使うようだ。粉骨砕身とはこのことか。長きにわたって牛を食らい続けてきた人々の食べ方は何とも念の入ったものである。

"Cervella tenere"
牛や山羊の脳を下ゆでして氷水で締めた後にスライスし、衣を付けて揚げたもの。ホルモンだから当然のことだが「とにかく安くついた」と書いてあるので、庶民の料理だったのだろう。この作り方だったら……と思って試しに「cervello fritto」で検索してみたらフィレンツェとローマで取り合いに、つまりどちらの郷土料理かで揉めているようだったので、残念ながらヴェネツィア料理ではない。

栄華を極めていた頃のヴェネツィアには世界中から食材が集まっていたので、ヴェネツィアらしいものより目新しいものの方が好まれたのだろうと思う。「ヴェネツィアらしい牛肉料理」というのはなかなか難しいようだ。

ヴェネツィアらしい肉料理というものを考えるに、「この周辺でなければ手に入らない肉」となるとやはり水鳥ということになる。そしてもう一つ、何を合わせていくかというのもポイントとなるだろう。フェーガトやサオールなどを思い出してもらえば納得できるかと思うが、実はヴェネツィア周辺では玉ねぎが大量に作られていたそうな。殺菌作用があるおかげで船旅にも向いた、と聞くといかにもヴェネツィアらしくなってくる。この筋でカモやオオバンなどの方をもう少し調べてみようと思う。

魚料理について

18世紀、共和国が滅び行く頃にもヴェネツィアには多くの漁師がいた。マランゴーニという人のリポートによると、1784年には、「聖アンドレアのスクオーラ[組合]は、i venditori di pesce, i vallesani e i batellieriを含めて3390人を擁していた」という。最初のはそのまま魚売りで、次のヴァッレザーニというのはvalligianiで語義は「谷間の住人」であるが、あれこれ調べた結果、どうも養殖業者のことのようである。

ヴェネツィアにはmoecaという名物があり、脱皮した直後の小さめのカニを丸ごとフライにして食す。リアルト市場でも運が良ければ出ているが、ヴェネツィア料理の会をやったときにはタイミングが合わなくて出せなかったのは今思い返しても残念である。値段は確かキロ当たり60ユーロ弱くらいだったか。かなりの高級食材であるが、この養殖業者も今ではかなり少なくなっているそうな。ちなみにこのmoeche fritteはヴェネツィア市中で伝統料理を出す店へ行けばおおむねいつでも食べられる。店名にanticaやanticheなどとある店を選ぶのがわかりやすいだろう。

で、最後のバテッリエリは船頭という語とほぼ同じだが、販売人、養殖業者ときて最後に漁師、というこの並びは分かるようで分からない。battello、つまり小型の舟を使った漁師はpescatoriとは別扱いであるようにも読める。ともあれ、これに加えて「1796年の二つの宣誓書によると、ペッレストリーナを含むキオッジャの漁師は約10,000人、ブラーノの漁師は4,000人を数えた」ということである。

彼らが使う船にはla bragagna, la granzera, i pieleghiその他tartane, tartanelle, bragozziというものがあった。ブラガーニャは底が平らで、全長9-11メートルほどの舟、これはラグーナの女王と言われていたという。手元の船舶事典の復元イラストを見ると、三本の帆を立てることができ、網を巻き上げるための器具も備え付けられた、そこそこ大きい船である。グランゼーラについては(軽くて帆があるカニ獲り用の舟)と注があるのだが、こちらで調べてみると「曳き網漁のための網」とあった。この本の筆者の読み違えだろうか。そしてピエレーギを調べていると「ラティンセイル」という言葉が出てきて、調べ物がどんどん船の構造の方へ脱線していく。やはり船舶免許を取りに行くべきか。今のところそんな余裕はないが。

ヴェネツィアの古い料理書にはどういう訳かあまり魚料理の記載がないそうだが、歴史家という生き物はその程度で挫けたりはしない。穀物租税法と公定価格に関する記録を使って、中世(1173年、ドージェ・ツィアニの時代)以降、ヴェネツィアの食卓に最も多く上った魚を調べ上げている。trote, storioni, rombi, orate, barboni, passere, sogliole, anguille, lucci, tincheとあり、順番に、マス、チョウザメ、ヒラメ、タイ、ニゴイ、ツノガレイ、シタビラメ、ウナギ、カマス、テンチとなる。今とそう変わらないようでもあるが、淡水魚は今ではあまり見ないような気もする。

マランゴーニによると、「もっとも珍重された魚はle orade de varie, dette della corona[ヨーロッパヘダイ] e le orade vecchie, i branzini[スズキ], il pesce matto scortegado (zigrinato)」だそうな。ヨーロッパヘダイは調べがついたがle orade vecchieが分からず、スズキは常識レベルだとして、ペーシェ・マット・スコルテガード[乱暴に皮をはがされた、の意、斑点のある魚か]というのがさっぱり分からない。スズキは今でもやたらと人気で滞在中もよく食べたものだが、ヴェネツィアのものより先日いたぎ家で出してもらったものの方が美味しかった。淡泊な魚は場所によって匂いがつくということらしいが。

そしてその他小さいもの、一山いくらで売られた雑魚としてはmenuagia mora, paganelli, schile, anguele, marsioni、これらは順に、クロハゼ、よく分からないがハゼの一種、ヨーロッパエビジャコ、トウゴロウイワシ、ハイイロハゼとなる。やたらとハゼの類いが目立つが、これはヴェネト語でil go、標準イタリア語でghiozzoといい、よく市場で見かけたものである。ブラーノではこれを弱火でひたすら煮込んで溶かし、ブロードを作っておいてリゾットに使うのだそうな。そのレシピは滞在中に訳してあったが、あまりに手間がかかるので実際に作ったことはない。トウゴロウイワシについてはワカサギのようにフライで食べるようである。

種類はそんなものとして、次にこの時代のヴェネツィアでどれほどの量の魚が消費されていたのかを見積もるため、彼らはまたあれこれ史料をこねくり回している。が、ここがまたよく理解できない。1リッブラ[重量の単位]というのがおおむね0.476999kgに相当するそうで、ここでマランゴーニは、
「ヴェネツィアの十万の人が一週間に一人頭2リッブラ[つまり約1kg]の魚を食べたものとして、一年分の量は10-8,000,000リッブラ以上という計算になる」
と書いているのだが、つまり
 100,000(人)×2(libbre)×52(週)=10,400,000
ということである。人口に関する前提が省略されているのだろうが、下限が8,000,000となっている理由が分からない。ともあれ、週に2リッブラと仮定すれば年間消費量は一人当たり50.56kgとなるので相当なものであるが、肝心の「週に2リッブラ」の根拠も省略されている。

また「毎年国の養殖場から本国へ5,000コルバのウナギが卸される」という数字も残っているそうで、「1コルバは200リッブラ」、つまり約95.380kgになる(手元の計算と微妙にずれるのが気持ち悪い)そうだから、5,000コルバは約477トンになる。人口で割れば一人当たり年間5kg弱ということになるが、あまりに多すぎやしないか。

リストランテでは今のところウナギのグリル以外は食べた経験がないが、レシピについてはこれまでいくつか訳している。トマトで煮込んだり、中にはchiocciole di terra、つまりカタツムリと一緒にした料理もあった。まったく味が想像できないが、ロンドンでは労働者階級の栄養源だったという話をどっかで読んだこともあるし(いかにも不味そうな料理だと思ったことは覚えている)、レシピの数からみても馴染み深い食材であったのは間違いないようである。

以上のように、非常に多くの魚がヴェネツィアで消費されていたということになるのだが、ここまで説明しておきながら、ゴルドーニの作中の食卓では魚は滅多に出てこないという。「シンプルで大衆的にすぎ、揚物、煮物、焼物の他にはその料理集に入れるに値しない」と考えられたためだとされているが、とにかくそのレシピは非常に少なく、il brodeto[ブロードで煮たもの]、lo sguazzeto[シチュー]、il saòr[南蛮漬け]、la buzaraくらいしかない。最後のブザーラというのは例のとおりに炒めた食材にトマトと白ワイン、トウガラシ等で味付けしたもので、この調理法についてはまた面倒な起源論があるのだが今回は省略。

現代のヴェネツィアで大人気の魚料理は、往事は下層民向けのものであったということだ。とはいってもヴェネツィアの下層民というのは、例えば『どん底の人びと』の下層民などというものとはまったくイメージが違う。それはともかく、当時手に入りやすかったものには重きが置かれないというのは当然のことで、現代のように失いかけて初めてその有り難さに気付くというのもまたお約束である。

さて、では貴族階級は何を食べていたかというと、もちろん肉ということになるが、これについてはまた次回。現代のヴェネツィア料理だと肉料理はフェーガトかカルパッチョくらいのものしか知らなかったが、調べてみたら結構な広がりがあった。見たことのないレシピがたくさんあるので、つぎはちょっと時間がかかりそうである。

カルロ•ゴルドーニについて

カルロ・ゴルドーニ(1707-1793)はヴェネツィア生まれの著名な喜劇作家。モデナ出身の医師であった父ジュリオと母マルゲリータ・サヴィオーニ(サルヴィオーニ)の間に生まれ、本人は中産階級ということになるのだが、父の往診につきあって様々な社会階層の人々を観察し、またキオッジャの刑事書記局に勤めた経験などが後の劇作に資したと言われる。最初の幕間劇を書いたのはヴェネト州の北方にあるフェルトレというところで仕事をしていた時期とされるが、父親の死に伴いヴェネツィアに帰った後、彼は弁護士の勉強をしながらその創作活動を展開していった。

ただし彼の生涯の中でヴェネツィアにいた期間というのは少なく、ペルージャ、リミニ、ジェノヴァ、ピサ、ローマなど、陸続きのイタリア半島内とはいえ、あちらこちらへと渡り歩いたのはヴェネツィアーノの宿命か。彼は革命の嵐が吹き荒れるパリにいたこともある。

その名を冠した劇場があるのは勿論、San Tomàにある生家も観光名所となっており、Campo S. Bartolomioには立派な銅像まで立てられている。リアルト橋を渡ってすぐのところ、私も滞在中は毎日のように通っていた広場であるが、ここはヴェネツィアの中では比較的広く、その銅像の回りにはいつも多くの人がたむろしていた。その人達のためにいくつかゴミ箱が設置され、またそれを狙って多くのハトも集まっていたものだが、そうすると当然糞害がひどくなるわけで、いつだったか、銅像のクリーニングに伴ってゴミ箱も撤去されていたということがあった。カルネヴァーレの頃だったので単にイベント向けの対応なのかもしれず、今頃は元の通りという可能性もあるけれども、往来の盛んな広場であまり人に顧みられることのない彼の銅像に心静かな日々のあらんことをと願うばかりである。

さて、久しぶりに料理の話題ではないようにも思えるがそれは甘い。冒頭の記述は''La Cucina di Carlo Goldoni''『カルロ・ゴルドーニの料理-1700年代のヴェネツィアの食卓』という本を参照したものである。ゴルドーニの一生は十八世紀をほぼカバーし、それはまた「至上の光輝に満ちたヴェネツィア共和国」の最後の時期でもあった。彼のコメディアの中にはヴェネツィアの市井の人々の生活が活写されているが、イタリア人の生活は美味い食い物と美しい女性を中心に回っているので、そこには当然料理の描写もある。そこから当時のヴェネツィア料理を窺い知ろうというのがこの本の趣旨である。

話は飛ぶが、暇がある時にANSAというイタリアのニュースサイトを見ることがある。ここのニュースのカテゴリーの中には「Terra&Gusto」というものがあるのだが、季節の料理だとかワインの出来具合だとか誰それというシェフが賞を取っただとか、そういうニュースに需要があり、一つのカテゴリーを作らないと収まらないのがイタリアという国である。ゴルドーニについてこのような本が大真面目に作られるのも極めて自然なことであろう。

ちなみに日本ではどうだろうかと思って主要な新聞社のニュースサイトを確認したところ、M新聞のサイトでかろうじて、トップページの「ライフ」のカテゴリーを選択したところに「食」というものがあったが、これはちょっと残念な出来だった。今年の酒はどこそこが出来がいいだとか、春野菜が豊作だとか、そういうことが知りたければ日本農業新聞を読まなければいけないのだろうか。ジャガイモが不足しているだの、イカナゴが獲れないだの、ウナギやマグロが減っているだのと、否定的なものなら大手でもニュースにするようだが。

調子に乗って脱線するが、最近あれこれ料理について調べるうちにたどり着いたサイトでレシピの動画を観るのも面白い。
http://ricette.giallozafferano.it/Crostata-alla-confettura-di-albicocche.html
なるほどMicroPlaneはそっち向きで使うか、という発見があるのも動画ならではのことであるが、そういったまともな話だけではなく、イタリア人が餃子を作っている動画などは、笑えるようでだんだんとムカついてくるところが何ともいえない。
http://ricette.giallozafferano.it/Ravioli-di-carne-giapponesi-Gyoza.html
大げさに「Gyoza!!」と言いながら手を合わせる動作を繰り返し見ていると、映画「TAXi」(2だったか)の「ニンジャ!!」を思い出す。

餃子はイタリア語でRavioli di Carne Giapponesi (Gyoza)となっている。そういえば何度目だったかの「うち飲み」で餃子を作るという方がいらした際、それに合うワインを求めてリアルトのMille Viniに行き、店主に対して必死で餃子の説明をしたことがあった。「ラヴィオリに似た食べ物で作り方はこうで……」と手振りを交えて長々と説明したのだが、ラヴィオリに例えたのがまさかの正解である。その時は「それはきっとかなり油っぽい料理だからこれとこれをこの順番で飲め」と丁寧にワインを選んでもらったものだが、あのおっちゃんは元気にしているだろうか。

ついでなので次の動画も観ていただきたい。
http://ricette.giallozafferano.it/Sushi-all-italiana.html
蕎麦ざるの上に巻き寿司を置いたり、米を研ぐときに盛大に米粒をこぼしていたりなど、ツッコミどころ満載である。まあ、私も知らずに西洋の食器の使い方や調理法を間違えていることもあるのではないか、と考えると笑ってばかりもいられない。

この時代になってもまだ間違ったままの情報が流布しているのか、様々な誤解やアレンジが起こるのは仕方がないにしても、日本としては世界に向けて基準となる情報を発信すべきではないのか、と思って英語で日本食のレシピの検索をしてみたところ、某放送協会のウェブサイトにたどり着いた。やっていることはやっているのだな。

本題に戻る。件のゴルドーニの本は、
I 当時のヴェネツィアの食生活に関する論考
II 作中で料理の出てくる場面の抜粋
III ヴェネツィアとその近郊のリストランテのシェフによる各料理の現代でのレシピ
という構成となっている。このIII章の店の名前をざっと見ていったところ、ヴィチェンツァの店がやたらと多く、ヴェネツィアにしても一番多いのはキオッジャ、そしてイェーゾロ、メストレという地名が続く。本島内の店はハリーズ・バーを含めて三軒だけだった。

ヴェネツィアの美食スポットは実のところキオッジャなのではないか。そうなると一年近くヴェネツィアに滞在しておきながら一度も行ったことがないのが悔やまれるが、そうはいってもここはかなり本島から遠い。地図で見るとそうでもないような気がするけれども、ヴァポレットというのは実にのんびりした乗り物なのである。ヴェネツィアに住み、自家用ボートが持てるような人でもなければ気軽に遊びに行けるところではない。

考えるほどに懐かしさが募る。私がヴェネツィアに戻ることのできる日は来るのだろうか。

まあいい。この本はI章の部分が一番面白いのだけれども、今回はふざけすぎたので次回に回そう。