半身について

今回の話に「魔女」が出てくるのを見て、数ヶ月前のことだが、「小さな村の物語」という番組でブラーノが取り上げられていたときのことを思い出した。

話がいきなり逸れるが、この番組はかつて東芝が全面提供しており、番組冒頭では翻るトリコローレをバックにイタリア語で「としーば・ぷれぜんた!(動詞presentareの三人称単数現在形)」と高らかに唱えられていたのだった。ご存じのとおり会社がそれどころではなくなって以来、このナレーションはなくなってしまい、冒頭シーンがどこか間の抜けたものとなっている。CMの半分が別会社のものとなったのは別段構うところではないが、ただ不穏なことに、その会社の分のCMが一時期AC Japanのものに差し替わっていた時期があった。現在はまたその会社が戻ってきているが、長年の視聴者として些か気がかりな状況ではある。

それはともかく、私としてはブラーノはヴェネツィア首都圏の一部であり、ヴェネツィア本島にほど近いこの島を指して「小さな村」とするのは無理があるように思うのだけれども、番組としてはそれで押し通したようだ。これ以前にもサンテラズモが取り上げられていたし、何よりイタリアにおいて理屈というものは都合のいいように使うものである。

この回の登場人物の一人はブラーノで人気のトラットリア「Al Gatto Nero」の店主であり、店内の様子を見て「あのテーブルに座ったっけなぁ」などと思い返しつつ、「黒猫は魔女の使いであり、不吉なものだから一時店名を変えたことがあった」という話を聞いて、やっぱそうなんか、と思ったのを覚えている。別の登場人物に「この島で有名だった魔女の末裔」がいたこともあり、さらにはここまでヴェネツィアの民話を読み進めてきた感覚からいっても、この島で「Gatto Nero」というのと、パリのど真ん中で「Chat Noir」というのとはだいぶ感覚が違うだろうというのは想像がつく。共和国が国策として教会権力を遠ざけてきたという話と、イタリアの民衆の信心深さとについては、まったく別系統で考えなければならないものであるというのが最近分かってきた。


EL MEZO

あるときのこと、一人の女がありまして、その女は身重でありました。そして彼女の住む土地には名の知られた魔女がいたのですが、その魔女は自らの菜園に行って、こう言います。「どういうわけでこんなにパセリができちまったんだか。きっとこれを取ろうって奴が来るだろうねえ。」そして彼女は扉を開けっ放しにしていきました。

するとそこへあの身重の女が通りがかりました。彼女はそのパセリを見て欲しくなり、菜園の中へ入って食べ始めます。食べては食べ、彼女はあっという間に大半を食べ尽くしました。それから少しして、魔女が帰ってきました。彼女は菜園を見渡して言います。「やあ!……みんな食べてくれやがったな! 明日ここに居て誰が来るか見てやろう。」

翌日、果たしてあの女がまたやってきて、残りのパセリを食べてしまいました。そしてその女が外へ出ようとしたとき、魔女が現れていいます。「お前はそこで何をしたんだ?」哀れな女はいいます。「ああ、どうかお慈悲を、見逃してください。私はお腹に子どもがいるものですから。」魔女はいいました。「駄目だ! お前が産むのが男の子にせよ、女の子にせよ、七歳になったらその半分をお前に、もう半分をわしに貰うぞ。」女は分かったといいました。全身が恐怖でいっぱいだったからです。

出産のときが来て、彼女は男の子を産みました。その男の子は成長し、六歳になったある日、魔女の住んでいた辺りの道を通りがかります。魔女はその子を見て言いました。「ちょっと、お前の母さんに、あと一年だって言っておくんだよ。」男の子は言います。「うん、いっておくよ。」そうして彼は家に帰り、母親に言いました。「おかあさん、しらないおばあちゃんが、あといちねんだってぼくにいったよ。」母親は言います。「気にしないでいいのよ、もしその女がまたお前にそう言ったら、頭おかしいんじゃないのって言ってやんなさい。」

そしてこの男の子が七歳になるまであと三ヶ月というとき、魔女はまた言いました。「お前の母さんに、あと三ヶ月だって言っておくんだよ。」男の子は答えます。「ねえおばあちゃん、あたまおかしいんじゃないの!」老婆は言います。「よしよし…構わないさ…わしがおかしいかどうか見ているがいいよ!」男の子は家へ帰って母親に、魔女があと三ヶ月だと言い、彼はあたまおかしいんじゃないのと返事をしたことを話します。母親は「いい子ね、よくやったわ!」と言いました。

そして三ヶ月が過ぎたある日のことです。魔女はあの男の子を見つけ、捕まえて家へ連れ込みました。そうして彼女は男の子をテーブルの上に乗せ、包丁を手に取ると彼を縦半分に切ってしまいました。頭も半分、体も半分です。そして彼女は半分にしたうちの片方に言いました。「お前は家へ帰れ。」そしてもう半分には「お前はわしとここに居るんだよ。」

そうして半身はそこへ残り、もう半身は家へ帰りました。この半身は家へ帰るとすぐに母親のところへ行って言いました。「みてよおかあさん、ぼくはどうなったの?…あのひとはあたまおかしいっていってたよね!」母親は黙っているほかありませんでした。

この半身の男の子は大きくなったところで、何の仕事をしようかと考えました。そして漁師をやろうと思い、ある日ウナギ釣りに出かけたところで見たこともないほど大きなウナギを捕まえます。青年がそのウナギを釣り上げると、そのウナギは言いました。「私を放してくださいな、そして明日また私を獲りにいらっしゃい。」そこで彼はそのウナギを放してやりますと、彼女は水の中へ戻っていきました。その後で漁を続けますと、これまでにないほど沢山のウナギが釣れます。彼は舟を一杯にして家へ帰り、沢山のお金を手に入れました。

そして翌日、彼はまた漁に出かけてあの大きなウナギを捕まえました。彼女は言います。「私を放してくださいな。そうすればウナギへの慈悲により、貴方が望むことは何でも叶うことでしょう。」そこで彼はすぐに彼女を放してやりました。

それから数日後、彼はいつものとおりに漁に出かけました。彼は道を行きまして、ある立派なお屋敷の正面にさしかかります。そのお屋敷のバルコニーには侍女たちを連れた王の娘がおりました。娘はその青年――頭が半分、体も半分、そして足も片方だけです――を見て、大笑いし始めました。彼はそれを見上げて言います。「ああ、貴方は私がこんなだからお笑いになるのですね!…いいでしょう、ウナギへの慈悲により、バルコニーにいる王の娘はお腹がいっぱいになる。」

では半身の青年のことはおいて、何も知らずに身ごもった王の娘の方を見ていきましょう。

娘の両親は娘のお腹が大きくなってきたのを見て言いました。「それはどうしたことだ、お前は身ごもっているのではないか?」娘は何も知らないと答えます。彼らはまた言いました。「何だって?…何も知らない?そんなはずはない。」娘は「いいえ、本当です…まったく何も分かりません。」と言いました。父親は、誰の子かを言えばその男のことは許す、と言いましたが、彼女はやはり、何も知らない、何も分からない、と答えました。

実際のところ、可哀想なこの娘は自分に何が起こったのか知らなかったのですが、それでも彼女は両親から虐げられ、卑しめられてしまいました。

出産のときが来て、娘は可愛い男の子を産みました。彼女の両親は家の名誉が傷ついたことにひどく落胆し、彼女に何が起こったのかを明らかにするために、馴染みの魔術師を呼ぶように命じました。王は自分の娘に起きたことをすべて説明し、この子の父親が誰なのかを知るために何ができるだろうかと尋ねました。魔術師は言います。「何もありません!…その子が一歳になるまで待ちましょう、そうすれば話せるようになります。」

男の子が一歳になるとすぐに王はまたあの魔術師を呼びました。彼は言います。「では、この街のすべての貴族を集めて宴会を開く必要があります。そして皆が広間に集まったらその子に金の実と銀の実を持たせてその中を巡らせます。そうすれば彼は金の実をその父親に、銀の実をその祖父に与えるでしょう。」

そこで王は、とある日にこの街のすべての貴族を集めた宴会を開くというお触れを出し、それから広間に多くの肘掛け椅子を用意させ、貴族たちが広間に集まったところで、乳母の腕に抱かれたあの子を呼びにやりました。そしてその子の腕に例の二つの実を持たせて言います。「これを取り、この実をお前の父親に、こちらの実をお前の祖父に与えよ。」そうして乳母は貴族たちの間を巡っていきます。そして男の子は王に銀の実を渡しました。貴族たちは言います。「祖父が居たのだから、父親も居るはずだ。」しかしそこに居た貴族たちの間に父親は居ませんでした。

そこで王はまたあの魔術師を呼び出します。魔術師は言いました。「ではこの街のすべての平民を集めて宴会を開く必要があります。そうすれば間違いなく分かるでしょう。」王は同じように、とある日にこの街のすべての平民を集めた宴会を開くというお触れを出しました。

“半身”はこの街のすべての平民を集めた宴会が開かれると聞いて言いました。「私も行ってみたいな。」そして母親のところへ行って言います。「僕に半分のシャツと半分のズボン、片方の靴と半分の帽子を作ってくれないか。王のお屋敷に行きたいんだ。」母は言います。「王様のところに行くなんて何を考えてるの?…だって、貴方が王女様を身ごもらせたわけじゃないんでしょう!」彼は母の言うことを気にもかけず、服を着込んで身なりを整えると、家を出てお屋敷に向かいました。

王は広間に集まった平民たちの前へ出ると、男の子と乳母を呼びにやりました。そして男の子に金の実を渡して言います。「これを取り、この実をお前の父親に与えよ。」乳母が平民たちの間を巡りまして、そして男の子は“半身”を見るとすぐ、その首にすがりついて言いました。「この実を取って、お父さん。」するとみんなが笑い出して言います。「やあ、どこで王女がお前と恋に落ちたと言うんだ?」―「いいや」王は言いました。「この男が娘の伴侶となるのだ。」そうして“半身”と王の娘は結婚しました。

彼らが結婚するとすぐに王は大きな空っぽの樽を作らせ、その樽に三人――父、母、その息子――全員と必要な物すべてを載せ、そして海へと放り出しました。

海は大荒れで、樽は波の上へ下へと揺られます。“半身”は妻がひどく怖がっているのを見て、樽を岸へ寄せようかと尋ねると、彼女はそうしてくれと言いました。彼が「ウナギへの慈悲により」と唱えると樽は海岸に着きました。彼は樽を壊し、三人は外へ出ます。食事時になり、「ウナギへの慈悲により」三人分の飲み物や食べ物、食器などの整ったテーブルが現れました。十分に飲み食いした後、“半身”は妻に言いました。「満足しましたか?」彼女は答えます。「貴方が半身ではなくて全身になったら今以上に満足するのだけれど。」そこで彼は心の中で言いました「ウナギへの慈悲により、私は元に戻って以前よりもっと美しくなる。」その瞬間に彼はとても立派な貴族の格好をした美しい若者となりました。彼は妻に言います。「これで満足しましたか?」彼女は言います。「ええ、満足よ。でもこの海岸に立派なお屋敷があったらそれ以上に満足するのだけれど。」それに対しても彼は、きっとそうしましょう、言います。そして「ウナギへの慈悲により、王の邸宅に相応しいファサードを備えた美しい屋敷、そこには金の実と銀の実の生る二本の木、それに加え、屋敷の世話をする召使い、給仕、侍女が現れる。」瞬く間に王の邸宅に相応しいファサードを備えた屋敷とその他すべてのものが現れました。

数日後“半身”は――といってももう半身ではありませんが――その土地の王や貴族すべてを集めた宴会を開きました。数々の王や貴族に加え、彼の妻の父親も屋敷にやってきます。屋敷に来た王や貴族の前で、“半身”は言いました。「お願いですのでそこにある金の実と銀の実を取らないでください。それを取った者には災いがあります。」彼らは言いました。「何も仰らなくても、誰も取ったりしませんよ。」

彼らは宴会を楽しみ、十分に飲んで食べた後になって、“半身”は心の中で言いました。「ウナギへの慈悲により、金の実と銀の実が現れる――その一つは隣の――我が舅の巾着の中に。」

貴族たちが帰る前、“半身”はバルコニーに出て木の実が二つ、金の実が一つと銀の実が一つずつ無くなっているのを見つけました。みんなが言います。「私は取っていない、私ではない。」―「いいでしょう。」“半身”は言います。「皆さんに検査をしましょうか。」そうして彼はみんなを調べていきました。そして…ありません。木の実はどこにも見つかりません。

とうとう彼は最後に残った舅の検査をしました。すると巾着の中に木の実があったのです。“半身”は言いました。「見つけたぞ! 他の誰でもなかった、貴方が二つとも取ったのだ。こうなったら落とし前を付けていただかないと。」―「私は知らない、何が起こったのか分からない、私は取ってないんだ、神賭けて誓う!」そこで“半身”は言いました。「貴方が潔白であるように、貴方の娘も潔白であったのだ。まさに貴方が娘にしたとおりに私も貴方にやって差し上げよう。」

彼がこう言ったところへ妻が現れ、夫へ向かって言いました。「もういいのです。私のせいであって、父のしたことにも訳があったのです。父が私にひどいことをしたとしても、それでもこの人が私の父なのです。どうか許してやってください。」

“半身”はその熱情に動かされ、彼を許してやりました。そして娘の父である王は、死んだものだと思っていた娘に会い、彼女が潔白であったことを知って喜び、彼らみんなを自分の屋敷へ連れて帰りました。そして彼らはずっと平和と安寧のうちに暮らします。彼らはまだ誰も亡くなっておらず、今もそこに暮らしているということです。


……家に帰された主人公の半身は果たして左半身なのか右半身なのか。これ以外にもあらゆる問題を乗り越えてこの話に挿絵を付けられそうな画家に心当たりが無いではないが、絵心のない私としては何とも言えない。因みに途中から“半身”と引用符を付けたのは原文においてそこから固有名詞化しているためである。これは彼が終盤で“全身”になってしまうために必要となった措置であると考えられる。

さて、まずは冒頭、イタリアンパセリだけを満腹になるまで食べるという行為は現実的に想像しづらい。妊娠すると味覚が変わるという話を聞いたことも無いではないが、男としては何とも言えない。まあ、ここはわざわざツッコむところではなかろう。

男児が魔女へ母親の悪態を伝える場面について、この男児の台詞は「Cara ela」で始まっている。これは魔女に対する親しみを込めた呼びかけであり、この子が「matta」の意味を理解せずにただ母親の言葉をなぞって伝えている様子を表している。子どもが訳も分からずに大人の真似をして問題のある単語を連発し、周りの大人が肝を冷やされるという話を聞いたことも無いではないが、独身者としては何とも言えない。ただしイタリア語のmattoやpazzoという単語は日常会話集にもよく出てくる単語であり、日本語のアレとはかなりニュアンスが違うということは言い添えておこう。イタリアでは「狂気」は身近なものなのである。

それはそうと、盗難の可能性を想定しておきながら菜園の扉を開けっ放しにしておくという魔女の行いが最初は腑に落ちなかった。このときの台詞を「だからってわざわざこんなものを欲しがる奴なんていないだろうねえ」という流れで訳せばその場では辻褄が合うかと思ったが、それではどうしても文法的に辻褄が合わない。この魔女は最初からパセリをエサにして陥れる相手を釣ろうとしていた、と考えたら筋が通ったのでそのように訳しておいた。

そういえば以前訳した「EL VENTO」(風に喰われる人について - 水都空談)にも半分だけ服を着せられる男があったが、この半身というモチーフにはどういう意味があるのか。イタリア語のmezzoにも半人前という意味はあるにはあるが、どうもここへきて、ハーフ・混血・半神半人、つまり今いる世界と別の世界との境界線上に立つ者、のイメージが見えてきたように思う。だからこそこの半身の男児は後にウナギの加護を得ることができたのかと。

因みにこのウナギ(bisatoではなくanguilaだった)の口調を女性ふうにしてあるのは、ウナギが女性名詞であり、ずっと「la」という代名詞で受けられていたからである。半身の青年が「piena(お腹がいっぱいに)」と頼んだ(比喩として分からんではないが、pienaに「妊娠」を指す用例は見当たらない。これはこれで未だに青年の意図が読めない)のを「妊娠」と取り違えるようなうっかりさんの雰囲気は出ているが、深い意味はないので考える必要はない。また、この半身の青年はウナギから神通力を授かった時点ですぐさま身体を復元することができたのではないか、という可能性も考える必要はない。

もう一つ、中盤に出てくる金の実がpomo d'oro、つまりトマトを指す言葉であることに気付いた方もおられようが、他方、銀の実に対応する果実は存在しない。そこで金の実をトマトと訳してしまうと文中で上手く対応しないので、そのまま「金の実」とした。ついでに、これまで「邸宅、宮廷、ビル、建物」を意味するpalazzoという語をイタリアの雰囲気を出すために「パラッツォ」と記していたが、バランスが悪くなってきたので今回から文脈に合わせて訳している。

そして、半身の青年が王の娘に初めて会ってバルコニーを見上げる場面についても記しておきたいことがある。その部分の原文は
Elo issa suzo i oci
Lui issa su i occhi
となっているのだが、何が問題かというと、彼は半身のはずなのに「眼」を意味する「ochio」が複数形なのであった。いかにもイタリア人らしい手落ちであるが、それだけの話である。

閑話休題。それにしても気になるのは、魔女の家に残された方の半身のその後である。こちらの半身も恙なく人生を全うしたのだろうか。

これまでヴェネツィアの民話を読んできてずっと引っかかっているのが、こういった回収されない枝葉の話があまりにも多いところである。例えばこの話の場合、現代的な物語の作法では、最終的に魔女と対峙してパセリ盗難の償いをするなり、逆ギレしてやっつけるなりした結果として元に戻る必要があると思うのだ。

しかし一方で、何となく分かるような気もするのである。半身を取られたところで魔女との取引は相手の条件どおりに終了、そして「江戸の敵を―」ではないが、「コンスタンティノープルでの損失はアレクサンドリアで埋める」とばかり、とっ散らかしたままで常に前だけを向いて進んでいくというのはいかにもヴェネツィアのイメージに適う考え方ではないだろうか。今のは私が適当に作ったが、きっとこんな慣用句がヴェネツィアにもあるはずで、時間ができたら辞書の慣用表現のところを端から読んでみようと思う。

七年間口を利かなかった娘について

以前も同じような展開があったと思うが、慣用的な悪態を吐いたらそのまま文字通りのことが起きるというのはどういう理屈なのだろう。Benedetto, maledettoという語彙の周辺を見ていると時折そういう気配を感じることもあるのだけれども、イタリアもまた言霊の国なのだろうか。

男どもがどうしようもなく阿呆であり、女たちがひたすら逞しいのもいつものことであるが、今回の冒険はいつにもまして長く厳しいものとなっている。だからといってガリバーのような風刺や、宝島のように奇想天外な展開があるわけではなく、ただ「お強いですね」とか「えげつないですね」としか言いようのないところにヴェネツィアの土地柄が伺えるような気がせんでもない。今回の主人公の強さについて、その絶対値はハリウッド映画並みではないかと思うのだが、ではこの話を映画にアレンジできるかと考えると何かが噛み合わない。ともあれ見ていただこう。


LA SORELA MUTA PER SET'ANI

あるときのこと、父と母、二人の息子、そして一人の娘という一家がありました。父は旅商人をしておりまして、ある日も出かけていきました。そうしたところで二人の息子が母に言います。「僕たちはお父さんに会いに行ってくるよ。」母は言います。「ええ、行ってらっしゃい。」そして二人の若者は立ち上がると、出かけていきました。

彼らはある森にたどり着き、そこで普段のように遊び始めます。少し経ったところで、彼らは遠くの方に父がいるのを見つけました。そこで彼らは駆け寄っていき、足にまとわりついて言いました。「お父さん、お父さん、お父さん!」父は機嫌が悪かったので、二人の息子にこう言いました。「邪魔するんじゃない!…どこかへ行け、目障りだ!」しかし子どもたちは気にせず、どこかへ行こうともしません。父は怒りっぽい人でしたので、いきり立って言いました。「畜生め、悪魔に連れていかれてしまえ!」その瞬間、悪魔が現れて二人とも連れ去って行ってしまいましたが、父は何も見ていませんでした。

父が家へ帰ると、彼の妻は息子たちに会わなかったかと尋ねました。彼は、誰にも会わなかったと答えます。彼女は何か悪いことが起きたのではないかと想像して悲嘆に暮れ、卒倒してしまいました。そして子どもたちを探しに行くと言い出します。そこで父は彼らに悪態を吐いたこと、その後で姿が見えなくなったことを話しました。

この兄弟の妹は、兄たちのことを聞いて言いました。「危ない目に遭うだろうけど、私が彼らを探しに行くわ。」父と母は行かせようとしませんでしたが、彼女は、これは私の役目、私の運命だ、私は行きたいんだと何度も訴えました。とうとう彼女はいくらかの食料を携え、旅立ちました。

彼女は歩きに歩き、ある老人に出会いました。その老人は言います。「どこへお行きかね、お嬢さん?」彼女は兄弟を探していること、彼らがどこにいるか分からないことを話します。するとその老人は言いました。「このまま進みなさい。もう一人のじいさんに出会ったら、彼が教えてくれるだろう。」そこで彼女は歩きに歩き、もう一人の老人に出会いました。この老人も同様に、もう少し先へ進んでもう一人の老人に会うといい、彼が教えてくれるだろう、と言いました。

歩きに歩き、彼女は三人目の老人に会いました。同じように二人の兄たちについて尋ねます。すると彼は言いました。「先へ進むと、鉄の門のあるパラッツォにたどり着くだろう。その門を開ければ、そこで一人の紳士に出会うはずだ。お前の兄に会ったかどうか、彼に尋ねなさい。彼が悪魔だとしても恐れてはいけない。」若い娘は勇気を振り絞ってそのパラッツォまで行きました。そして例の紳士に会います。彼は彼女に、ここで何を探しているのかと尋ねました。彼女は、悪魔が連れていった二人の兄を探しているのだと言います。その紳士は言いました。「よろしい!…この先へ行けば二十四個のベッドの並んだ大広間がある。彼らはそのベッドの上にいることだろう。」娘はその大広間へ行き、二人の兄がベッドに寝ているのを見つけて言いました。「あらお兄さん、どうしたの? ご機嫌な様子だけど!」兄たちは言いました。「こっちへ来てこれがご機嫌なものかどうか見てみるといいよ。」そこで彼女が傍へ行ってみますと、なにやら揺らめくものが見えました。なんとそれは沢山の炎だったのです。そこで彼女は、どうすれば彼らを助けることができるのかと尋ねました。彼らは言います。「七年の間、お前が一言も口を利かないでいられたら僕たちは助かる。でもお前はきっとあらゆる困難に遭うことだろうよ。」娘は言いました。「いいわ、分かったから大人しくしていてね。」彼女は外へ出ました。広間から出ますと、あの紳士が「自分の方へ来るように」と彼女に手振りで示しました。彼女はかぶりを振って「行かない」と示し、十字を切って出ていきました。

彼女は歩きに歩き、森へと戻ってきます。あまりに疲れていたので彼女は地面に倒れ伏し、眠ってしまいました。彼女にとって幸運なことに、そこへ狩りに来ていた一人の王様が通りかかりました。王は後ろに控えていた従者に言います。「ここに居るのは何と美しい女性だろう!」そして彼はその若い娘の傍へ行き、そこで何をしているのかと尋ねます。彼女は身振りで、何でもない、と答えました。彼は自分と一緒に来ないかと尋ね、娘は頷きます。王は、小声で話しても彼女がすべて理解しているのを見て言いました。「どうしたのですか? 話せない人というのは耳も聞こえないものですが、貴方はどうもすべて理解できているようだ!」彼女はそれを聞き、かぶりを振って、聞こえないのではないと伝えました。

そこで王は馬車に彼女を乗せ、家へ連れて帰りました。

家に着き、王は母親に、森で寝ていた娘を見つけた、彼女は話ができないが、彼女と結婚したいと言いました。母は、彼女は駄目だ、彼に相応しい娘ではない、彼女は駄目だと繰り返し言います。王は言いました。「もういい、十分だ。私の自由にする、私は彼女を伴侶にしたいんだ。」そうして彼は彼女と結婚しました。

この母親は底意地の悪い人でしたので、この嫁に大きな恨みを抱き、あらゆる種類の意地悪や嫌がらせをしました。それでもこの娘は決して話をしませんでした。

そうするうちにこの娘は懐妊し、あと数日で出産ということになりました。そこでこの母親は息子に偽の手紙を送ります。ある町でひどい飢饉が起き、領民たちはみんなろくに食べられないというのです。王は身重の妻を措き、準備をして出かけていきました。そして娘の出産の時が来ます。彼女は男の子を産みました。しかし例の女は産婆に言い含めてベッドに犬を入れさせ、赤ん坊は箱に詰めてそれをパラッツォの屋上へ隠しました。

可哀想な娘はすべてを知って心から泣きましたが、兄たちの苦難を思って黙り続けました。

その直後、母親は息子に手紙を書き、彼の妻が犬を産んだと知らせました。王はその手紙を読み、その様子を想像します。すぐに彼は母への返事を書き、妻についてはもう何も関知したくない、名誉が大事であるから、生計に足る金子を彼女に与えたうえで彼が戻る前に彼女を追い出しておくように、と知らせました。そこであの犬畜生の年増はどうしたでしょうか?…彼女は腹心の召使いを呼び、彼女を遠くへ連れていってそこで袋詰めにして海に沈め、衣服をすべて持ち帰るようにと命じます。召使いは、仰せのとおりに、と答えました。

翌日、この召使いは馬車と馬を用意し、あの娘のところへ行って言いました。「奥様、少し外の空気を吸っていらしたらどうですか?…どうぞおいでください、きっと外の空気はいいですよ!」彼女は頷き、召使いと共に出かけました。

海岸に着くと、召使いは娘に言いました。「さあ奥様、下の方へいらしてください。貴方を袋詰めにしてお召し物すべてを持ち帰るよう言い付かっております。」可哀想な娘はひざまずき、目に涙を浮かべて、どうか命ばかりは助けてくれるようにと身振りで訴えました。彼女は召使いに何度も頼み、そして召使いは袋詰めにはしないと約束し、髪を切ったうえで来ているものはシャツまですべて脱いでくれればいい、代わりにシャツとズボンは自分のをやる、と言いました。彼女は受け入れるほかありませんでした。そうして召使いは彼女の衣服を持って家に戻り、彼女は海岸に取り残されました。

数時間後、幸運なことに一隻の船がそこを通りがかりました。哀れな彼女は自分を乗せてくれるよう合図を送ります。船には兵士たちが乗っていましたが、彼らはその合図を見て海岸に近づき、彼女を乗せました。彼女が船に乗り込むと、彼らは「ボウズは何て名前だ?」(彼らは若い男を見つけたと勘違いしていたのです)と尋ねました。彼女は身振りで、何人かの若者と舟に乗っていたのだがその船が転覆し、彼だけが生き残ったのだと伝えます。兵士たちは言いました。「まあいい、話ができなくてもここじゃあ誰もお前を悪いようにはしないさ。」

戦いが始まって、彼女もまた大砲を撃つのを手伝います。女であることがばれないように、彼女はできることなら何でもしました。仲間たちは「彼」の腕前や度胸を見て、すぐに一目置くようになりました。

長い時が経ってその戦争に決着がつくと、彼女は職務を辞めたいと申し出て、彼らはそれを認めました。

彼女はそのとき居た土地からどこへ行けばいいのか分かりませんでした。なんとか彼女は朽ち果てた一軒の家を見つけ、夜になっていたのでその家へ入ってそこで休みます。そうして夜中になると、足音が聞こえてきました。彼女はじっと見張り、その家の裏手から十三人の強盗たちが出てくるのを目撃します。彼女は彼らをやり過ごし、それから立ち上がると、彼らの出てきたところから中に入りました。中へ入ると、広間の中心に整えられた大きなテーブルがあります。テーブルの上には十三人分の食べ物がありました。ものすごくお腹の減っていた彼女は、彼らに気付かれないように料理を少しだけ食べました。食べた後、まだ夜中でしたので、彼女はもと居た場所へ戻ります。強盗たちが帰ってきて、広間に入ってきました。

ここでこの娘が気付いて慌てたことに、彼女はお皿の上にスプーンを忘れていました。強盗の一人がそれに注目して言います。「おい、ここに密偵が来たかもしれないぞ。」仲間の一人が言います。「よし、もう一度外へ出るぞ、誰か一人はここで隠れていろ。」そうして強盗たちは外へ出て、一人はそこへ残りました。

安全だと思った彼女は家の中へ戻ってきます。彼女が入ってくるとすぐ、強盗が姿を現して言いました!「やあ、捕まえたぞ畜生め!…こうなったら落とし前は付けてもらうぞ!」哀れな彼女は驚いて、身振りでもって、彼女が話せないこと、どこへ行ったらいいか分からなくて偶然ここを通りがかったのだと伝えます。するとこの強盗は、怖がらなくてもいいと言い、お腹が減っていないかと尋ねたうえで十分な食べ物をくれました。そうするうちに他の仲間たちが戻ってきて、事の顛末を聞きます。彼らは娘に、こうなった以上ここにとどまって貰わなければならない、断るなら殺さなければならなくなる、と言いました。彼女はそれを受け入れるほかありませんでした。そうして彼女はそこに留まりました。

この強盗たちは決して彼女を一人にしませんでした。そんなある日、強盗たちの頭領が言います。「明日の夜、お宝を盗み出すために全員で王(彼はその王の名を言いました)のパラッツォへ行くので、お前も一緒に来る必要がある、断るならお前を殺す」彼女は身振りでもって、分かったと言いました。

その王は、この娘の結婚相手だったのでした。

彼女はすぐに偉大なる王陛下へ宛てて手紙を書き、十三人の強盗が明日の真夜中にお宝を盗み出し、彼を暗殺しに行くので、家の守りを固めるようにと知らせます。

王はその手紙を受け取るとすぐにすべての召使いを呼び、守りを固めて強盗がこのパラッツォにやってくるのに備えるように命じました。

夜の十二時ぴったりに、強盗たち全員とあの娘はパラッツォの門の前に到着します。彼らは安全だと信じ切っていましたので、門から入っていきました。最初に強盗たちの頭領、彼の後に五人の仲間が続きます。すると彼らは皆一瞬で殺されてしまいました。そこで残りのものはあちこちへと逃げ出し、あの娘を一人そこへ残していきました。お分かりだとは思いますが、彼女は強盗の格好をしています。

彼らは彼女を捕まえ、串刺しにするために王のパラッツォの正面に処刑台を据え付けました。

彼女が殺されるべき時が近づいてきます。処刑まであと一日となりました。彼女は身振りでもって、自分は王が彼女の死を命じるのを待っていると伝えます。王はその願いを許しました。彼は処刑台のところへ彼女を引き出してくるように命じます。そして彼女が階段の一段目を上ったとき、そのときはまだ三時だったのですが、彼女は身振りでもって、四時まで待って欲しいと伝えました。彼らはそれを認めます。

四時の鐘が鳴り、彼女が階段をもう一段上ったとき、地響きのような音が聞こえてきて、二人の戦士が現れました。二人の戦士はその伴侶を死に追いやろうとしている王の前へ出て、話をする許可を求めます。王は、言ってみよ、と言いました。そこでこの二人の戦士は、どういう訳でこの若者[訳注:男性形]に死を与えようとするのかと尋ねました。そこで王はその理由を彼に説明させようとしますが、彼はいつもどおりだんまりです。彼らは、この人は男ではなく、実は彼らの妹なのだと言いました。そして彼らは、どうして彼らの妹が話をしないのか、すべて王に説明し、彼女に向かって言いました。「さあ話して、もう俺たちは助かったんだ。」彼らはかの娘の許へ行きました。

そして彼女は衆人環視の前で、彼女が王の伴侶であると言い、彼女の赤ん坊を殺してベッドに犬を入れさせた、かの婦人の悪行について語りました。そして言います。「このパラッツォの屋上へ行ってそこにある箱を見つけ、私が産んだのが犬なのか、あるいは坊やなのかを見てみなさい。」王はすぐにパラッツォの上に人を遣り、箱を持ってこさせました。彼らが箱を開けると、そこには子どもの骨が残っていました。

そこで人々は皆叫びました。「彼女を追いやったやつはどこだ、あの女王と産婆を連れてこい!」彼らはそうして、その二人の老婆を串刺しにしました。そしてあの娘はパラッツォに戻って王とともに暮らし、二人の兄は廷臣の筆頭になりました。


……「ボウズは何て名前だ?」のところは
i ghe dimanda chi el xe(原文)
loro hanno domandato chi lui era(標準イタリア語)
they asked who he was(英語)
であって、名詞や形容詞に性別のある言語ならではの表現となっており、間接話法のまま日本語に直すとどうしても違和感が残るので例によって豪傑訳にしてある。髪を切って以降この娘はずっと男と勘違いされ、間接話法中では「el」で表されているところ、煩雑なので肝心なところ以外は注釈を付けていない。王が一目惚れしたほどの美人が髪を切った程度のことで男と勘違いされるというのもどうかと思うが、近代以降とでは女性の髪型についての感覚が違うだろうからそれは措く。

二人の兄は呪いが解けた後にどうやって妹を見つけたのか、という点については判然としないが、大方かの悪魔紳士が気まぐれに教えてくれたりしたのだろう。また、手紙が書けたのであれば、喋れないというのは彼女の冒険全体を通して大した障害にならないのではないかとも思うが、そこを否定するとすべてが崩壊するので突っ込んではいけない。さらに細かいことを言うと、ずっと監視されていたのに手紙を出す隙をどうやって見つけたのか、そもそも誰が手紙を取り次いだのか等、収拾がつかなくなる。

一時は母親の手紙を信じた王が「もうそんな女のことは知らんから追放しとけ」と言ったことが有耶無耶になったままなのがどうにも許せないのだが、近代の賢しらで文句を付けるのも詮無いことであろう。

何も食べない妻、あるいは魔法の指輪について

食欲の減退する季節となったのでそれらしいタイトルの話を選んでみた。短いものなので今回は二本立てである。


'NA MUGIER CHE NO MAGNA

一組の夫婦がありました。あるときその妻が夫に、自分はもう何も食べない、と言い始め、そのとおり二度と食事をしているところを見せることはありませんでした。

ある夜のこと、その夫は代夫に会い、その代夫は家の方はどうかと尋ねました。「順調ですよ」夫は答えます。「でも妻が何も食べなくなってしまって、なのに今までにないほど太っているんです。」―「なんてことだ!」代夫は言います。「うちの妻はちゃんと食べていますが、釘みたいに痩せてますよ。彼女は何も食べてないと言っていますが、私に言わせれば彼女は私よりも、それどころか貴方よりも食べてますね。」彼は続けます。「釘を四本あげますから、彼女に見られないようにそれをキッチンの四隅に打ち込むのです。そうしたら貴方は出かけて、何時間か待つ。家へ帰ったらその釘がみんな話してくれるでしょう。私と貴方のどっちが正しいか、見てみようじゃありませんか。」夫は釘をもらい、代夫に挨拶をして別れました。そうして家に帰り、その釘をキッチンの四隅に打ち込みます。

朝になり、彼は妻に言います。「行ってくるよ。」彼女は「どうぞいってらっしゃい。」と言いました。「ああ、やっと行ったわ。さあ着替えなくっちゃ。」彼女は農婦が1クァルトゥッツォ[約1/4L]の生クリームを持ってくるのを待って、その後でおいしいコーヒーを淹れます。四つか五つの丸パンを漬し、彼女はずっと食事をしていなかったかのような勢いで食べ始めました。彼女は言います。「さて、おやつはおしまい、夕飯のことを考えなくっちゃ。」彼女は立派な乳と尻をもったメンドリ、2リッブラ[1リッブラは約300g]の米、そして半ボッカーレ[1ボッカーレは約1L]の良質なワインを用意し、すべてを料理し、そしてまた食べ始めました。ひたすら食べ、ひたすら飲みます。

そのとき、キッチンの四隅にあった釘の一本が言いました。「彼女は何をしてるの?」別の一本が言います。「食べてるよ。」また別の一本が言います。「旦那抜きでね。」もう一本が言いました。「この犬畜生は毎日こうしてるんだね!」彼女は振り返りますが、誰もいません。すると釘たちはもう一度同じことを言いました。彼女はあっちこっちを見ますが、やはり誰も見えません。「誰かいるのかしら?」そうして彼女は食べたものが夫に見られないようにみんな外に捨て、テーブルをきれいにして暖炉を丁寧に掃き、すべて元どおりに片付けました。

少しして夫が帰ってくると、彼は言いました。「食事はしたか?」―「いいえ」彼女は言いました。「何も食べてませんよ。」するとあの釘の一本が言いました。「嘘だね。さっきまで食べてたよ。」別の一本が言います。「おやつを食べて、夕飯も食べたね。」また別の一本が言います。「おやつには生クリーム入りのコーヒーに浸した丸パンを五つ、夕食には立派なメンドリとお米のスープを食べて、上等のワインを半ボッカーレ飲んだね。」そしてもう一本が言いました。「このアバズレは毎日こうしてるね。」―「この犬畜生め!」彼は言いました。「帰ってきたときにお前が何も食べたがらない理由が俺にも分かったよ!…毎日そうしてたんだな!」ポカポカと彼は何度も彼女を殴って、彼女は半殺しにされました。

翌日彼は出かけて代夫に会い、すべてを話してから言いました。「まったく貴方の言うとおりでしたよ。信じられませんね!」―「言ったとおり」代夫は言いました。「貴方の妻は私よりも、それどころか貴方よりも食べていたでしょう? 諺に『食べない者はもう食べた者』と言います。いいですか貴方、諺というのは根も葉もないものではありませんよ。」


……内容の割に夫と代夫(洗礼の際の名付け親)との会話が丁寧なのは、お互い敬体で話しているのを反映させてあるからである。名付け親が地元の有力者とかだとこういう関係性になるのだろう。

あと、夕飯と訳した「disnar」、これは一日の中で中心となる食事を指すので「正餐」とするのが一番いいのだが、これでは言葉自体がちょっと硬い。この話で妻が食事をしているのは昼から夕方にかけてかと思われるが、だからといって「昼食」ではイメージが軽すぎる。というわけで「夕飯」としている。

さて、ナイフだったりパスタ生地で作った鶉だったり、人外のモノが話し出して真実を証言するというのはもうお定まりの展開となっており、今回のそれは「釘」となっていた。何故こうなったのかというと、冒頭近くにあるとおり、ヨーロッパには「釘のように痩せた」という慣用表現があるので、これを飽食で太った者と対比させたものかと思われる。

そして最後のところで出てくる諺のフルヴァージョンは以下のようになっている。

Chi non mangia (a desco) ha già mangiato (di fresco), oppure è innamorato.
食事の進まない者は今しがた食べた者か、恋をする人(小学館『伊和中辞典』)

珍しく女性の立場が押され気味なのは、今回の話がこの諺を出発点としてふくらませたものだからだろう。タイトルに反してこの妻がもりもりと食事しているのは微笑ましい光景だが、その時間を共有したいと思ってもらえなかったこの夫の心中や如何。独身者である私としても食欲の失せる話である。そして食欲を無くした序でにもう一つ、この機会に尾籠な話を片付けてしまおう。イタズラ三妖精が再登場して最初からアクセル全開、期待どおりにやりっ放しにしてくれている。


L' ANELO FADÁ

あるときのこと、とある大草原に立派なうんこがありました。そこへ三人の妖精が通りがかり、その一人は他の二人に向かって「このうんこに洗礼を与えて綺麗な女の子にしようか」と言いました。もう一人は「そいつに指輪を与えよう」と提案し、三人目は「その指輪を填めているかぎり、そいつは「うんこ!」の一言しか言えないようにしてやろう」と言いました。

そうしてそのうんこからとびきり綺麗な娘が現れました。王女様のように着飾り、頭には宝冠を着けています。三妖精は行ってしまい、彼女はそこに残されました。

そこへ一人の王様が通りがかり、娘に挨拶をします。彼女は答えました。「うんこ!」―彼はもしよければ馬車に乗っていただけないかと申し出ますが彼女はただ「うんこ、うんこ」とそれ以外は答えないのでした。

彼女は本当に本当に綺麗だったので、王は彼女を家へ連れていき、彼女と結婚したいと母に言いました。母は、彼女は教養がないので駄目だと言います。彼は、彼女がいいんだ、彼女が知らないことはこれから教える、と答えました。彼女は勉強して、彼は彼女と婚約しました。

ある日曜日のこと、彼らは婚約者の娘をミサに連れていきました。皆がこの美しい女性を見るために挨拶にやってきます。多くの紳士淑女が挨拶に来ましたが、彼女は「うんこ!」以外に答えないのでした。

寺男が霊魂のための小箱を持って回ってきます。皆が寄進を行いました。彼女は小銭を持っていませんでしたが、そのままでは外聞が悪いので、彼女は填めていた指輪を外し、それを小箱の中へ入れました。その指輪を一目見た教区司祭は、説教の前でしたので寺男を説教壇のところまで呼びましたところ、寺男はすぐに参ります。すぐさま司祭は小箱を開け、指輪を取ると自分の指に填めました。一息ついた後、彼は立ち上がって話を始めます。「我が親愛なる兄弟たちよ」と言うはずだったのですが、「うんこ、うんこ」そしてずっと「うんこ」しか言えませんでした。

教会にいたすべての人々の騒ぎぶりが想像できますでしょうか! みんなが叫びました。「彼は狂った、彼は狂ってしまったぞ!」しかし彼はひたすら言い続けました。「うんこ、うんこ!」

そうした後、あちらへ帰る人、こちらへ帰る人がいて、婚約者の娘もまた家に帰りました。このときから、婚約者の王、その母親、そしてみんなが驚いたことに、彼女は他の人々と同じように話し始めました。そして「うんこ」と口にすることは二度とありませんでした。


……この「うんこ[merda]」というのは世界共通、罵るときにも使われる言葉であるから、「クソが!」と訳す方が適切かと思われるが、いつぞやも書いたとおりにここに載せる段階ではあまり色を付けない下訳の状態に留めている。民話だからといって子ども向けにチューニングしたところでこれらの話を子どもに読み聞かせる日本人がいるとも思えないし、学術的に訳したところで意味のある仕事とも思えない。このブログの読者は指折り数えられる程度であるし、何となくこちらの方が面白いと思うのでこうしておく。

「クソが!」しか言わないこの娘にどうやって教育を施したのかなど、判然としない部分は数多くあるが、おそらく考えても無駄なので今回はここまで。

独身者たちについて

ヴェネツィアである必然性が今ひとつ感じられないような話が続いたので、今回は「Venezia」という単語が出てくる話を読んでみた。が、まずタイトルにあるorfaroniという単語がどの辞書にも載っておらず、ネットで検索してもこの話以外では使われていない。こういうことはこれまでにも何度かあり、テキストデータが丸ごと公開されていたおかげで、これらの民話の著作権が切れていることがはっきりしたのは一方で収穫であった。それはともかく、San Pieroが数行先でSan Pietroになっていても一向に気にしない人たちの作った本であるから、表記が定まっていなかったり揺れがあったりするのは致し方ない。

単数形はおそらくorfarone、この語尾を拡大辞であるとして外してみるとorfaroとなるが、もちろんこれでもそれらしき意味は出てこない。ネットの検索は拡大辞や縮小辞の有無をある程度織り込んでくれるので、この程度の操作で分かるものなら最初から出てくるのである。ここからは勘でいくしかない。

唯一形の似た単語はorfano(孤児)、話の内容から考えても何とかつなげられそうなので、これに拡大辞を付けたときに訛ったのだということにする。「相互に血縁関係を持たない成人男性の集団」をどう訳すかということになって、とりあえず「独身者たち」としてみた。ミシェル・カルージュの方はcélibataireという形容詞なので、残念ながら例の機械とはまったく関係がない。


I ORFARONI

あるときのこと、ここヴェネツィアにある夫婦があり、この妻には一人も子どもがありませんでした。そのため二人だけで暮らしておりましたところ、ある日、夫が妻にこう言います。「俺と一緒に荷方舟で出かけよう。」彼らは荷物をまとめ、その荷物をある島へと運ばなければならないのでした。そこは独身者たちのいる島なのですが、彼らは野蛮で、全身が毛むくじゃらです。彼女がここに来るのは初めてでしたので、島に着く前に夫は妻に言いました。「陸に上がってはいけないぞ、分かるか? もし上がったら、奴らがすぐにお前を連れていってしまうからな。」この女は陸に上がらないと約束しました。

到着すると、舟の男たちは商品を運ぶため、すっかり遠くへ行ってしまいました。この夫もまた行ってしまい、彼は妻を一人にしてしまいました。女というものはみな好奇心の強いものです。哀れなこの女にもまた好奇心がありました。夫が少しずつ離れていくのを見ると、彼女は扉から出て、島を見ようと船尾に立ちました。そして彼女は遠くの方に美しい八重咲きの罌粟の花があるのを見つけます。彼女は言いました。「あそこにきれいな花があるわ! あれは取りに行かなくちゃ。」彼女は活発で大胆な女性でしたので、陸へと橋板を渡してその上を渡っていきます。そして上陸すると罌粟の花を取りに行きました。

その罌粟の花を取り上げたとき、彼女は、地面の穴のような扉からあの凶暴な男たちの一人が現れるのを見ました。その男は一言も話さずに彼女を捕まえ、その棲家へと抱えていきました。彼女は怖くなって叫びました。「ああ、お助けを! 誰かお願い! 死んでしまうわ!」おどろいたことに棲家にはたくさんの男たちがうろついていて、なにやら話していましたが、残念なことに彼女には何一つ理解できません。彼らはみんな彼女に優しく、何かともてなそうとします。けれども、彼らは何を食べさせればいいのかも分からないのでした。というのも好ましいものが何一つなく、彼らは草だけを食べて満足していたからです。可哀想なことに、彼女はろくに食事もできませんでした。

そして時が経ち、彼女は努力に努力を重ねて彼らの食生活に慣れていきました。そして時が経つにつれて彼女は彼らの言葉も学び、彼らの言うことがすべて分かるようになります。彼らはとても親切にしてくれようとしましたが、彼女にとってはみんな厄介者なのでした。しかし、そんな中でも特に彼女に親切な者が一人ありまして、彼女は多少の愛着がないでもないのでした。彼はまるで怪物のようでしたけれども。そんなこんなで彼女は身重になり、男の子を産みます。その子は半分彼女に似て毛がなく、半分彼に似て毛むくじゃらでした。彼らはみんな同じようで、みんながその子に世話を焼こうとしますので、そうすると誰がその子の父親なのか分からなくなりそうでしたが、それでも彼女は彼にだけ特に愛着を感じるのでしたが、彼女はいつも、彼は彼女が愛するほどではないとも考えていました。

さらに時は進み、彼女は一人目の子と同じような姿をした子をさらに二人産みました。独身者たちは特に彼女の世話を焼き、子どもたちを育てます。実のところ、彼女はたくさんのものを与えられていましたが、棲家の外にはなかなか出してもらえませんでした。彼らは子どもたちに不安を与えたくなかったので、彼女を外に出すのは危ないと思っていたのです。

そうして何年も過ぎたある日、彼女は岸に荷方舟を見つけました。そこで彼女はどうしたのでしょう? 彼女は棲家に戻り、独身者たちがどこにいるかを確認しました。そして彼らがそこで子どもたちとお喋りしながら笑っているのを見ると、心の中でこう言います。「逃げ出すにはこの機会しかないわ。」彼女は棲家の外へ出ましたが、彼らは特に騒ぎもしません。彼女が逃げ出すとはまったく考えていなかったのです。

彼女は一刻も早く岸に着いて荷方舟に乗りたいと思いました。彼女は不安と恐怖でいっぱいになりながら走ります。そして彼女は荷方舟の上に従兄弟が、つまり夫の兄弟がいるのを見つけて言いました。「私はあなたの従姉妹よ…お願い…私を乗せて!」この従兄弟は哀れで不運なその女を見て、彼もまた叫びました。「従姉妹よ、こっちへ…急げ…早くこっちへ!」彼も走ってくると彼女を馬に乗せ、橋板を渡って彼女を荷方舟の中へ連れていきます。彼女は裸でした。ひどいことに彼らは獣のような暮らしをしており、何も身に着けなかったからです。そこで荷方舟の他の男たちを騒がせないように、従兄弟は彼女にズボンとシャツを着せました。

彼は橋板を外し、舟は岸から離れます。岸との距離が空くと、その従兄弟は元のとおりに彼女の髪を肩まで下ろしたまま、荷方舟の船尾の高いところに立たせました。奴らが外に出てきたら彼女が見えるようにするためです。

彼らの方はといいますと、棲家に彼女の姿が見えないのに気付き、彼女を愛していたあの男が言います。「探してくるよ、彼女が棲家にいないんだ。」彼はあっちを探し、こっちも探しますが、彼女はどこにもいません。彼は言いました。「彼女は逃げ出したのか?」彼は岸から少し離れたところに一艘の荷方舟があるのを見て岸へ向かい、あろうことか彼女がその荷方舟の上にいるのを見つけます。そこで彼は自分たちの言葉で叫びました。「ああ、お願いだから陸に戻ってくれ! 帰ってきてくれ、俺がどれほど君を愛しているか知っているだろう! お願いだから戻ってきておくれ、君には三人の子もいるんだ!」彼女は彼らの言葉で答えます。「もう何も聞きたくない…あの獣たちは貴方が世話して…私は十分苦しんだわ、もうこれ以上何も聞きたくないの!」彼女の恐ろしい考えを聞いて彼は言いました。「それならば!」彼は棲家に戻り、他の男たち皆に言います。「ああ、なんてことだ、俺たちのあの女が逃げ出したぞ!」子どもの一人と一緒にいた者、もう一人の子と一緒の者、皆が岸に向かい、子どもたちと一緒に彼女が陸に戻ってきて、彼らが今までどおりよく世話をするから、彼女もそうしてくれるようにと懇願します。しかし彼女は何も言いません…彼女はもう何も聞きたくないのでした。そこで憤った皆は、三人の子の片足を取って吊り下げました。すると子どもたちはひどく泣き始めます。しかし舟は離れていき、彼女は彼らがするままにしておくのでした。彼女はヴェネツィアに帰りました。

彼女の夫が彼女の哀れな姿を見たときの様子が想像できるでしょうか! 彼は彼女がどうしていたのかを尋ねました。彼女はあの罌粟の花が彼女を数々の危機に陥れたこと、そして独身者たちとの生活について語ります。しかし彼女は離婚されることを恐れ、三人の子どもについては何も言いませんでした。夫は言います。「まあよかった、もう二度とお前を外に連れ出すことはできないな。」そうして彼女はもう二度とヴェネツィアを離れることはありませんでした。そうするうち、彼女は子どもたちのことを考えてひどく苦悩することもありましたが、そのまま亡くなりました。


……途中でヒロインが独身者の一人とわずかに心を通わせたような描写があったのに、逃げ出すとなったらそれは勘違いであったと言わんばかりに一切合切捨てていくというのは如何なものか。舟を見たら迷わず逃亡を決断、子どもが人質にされたところで露ほどの逡巡も見せず、あらゆるフラグを叩き折って一目散にヴェネツィアへ帰っていくところは不自然なまでに潔い。感情を排して自分の利益を瞬時に計算、即座に実行に移して完遂までは絶対に気を抜かない、と言い換えていけばこれまで見てきたヴェネツィアーネ(女性複数形)のイメージと矛盾はしない。

しかし物語の伏線というものをここまで綺麗に無視されると逆に現実性が増すというか、何か実話を基としているような気配も感じられはしないだろうか。何しろオチの焦点が合わないというか、先述のとおりこの話の寓意は「問題を乗り越えて異なる人種と心を通わせる」でもなく「逃げだそうとしたのを切っ掛けに自覚される母性」でもなかった。最後に残ったのは「やっぱりヴェネツィアの中が一番安心」なのである。いつぞやのナレンターニの話(ならず者への対処法について - 水都空談)が思い出されるようでもあるし、この話だけ明確に「ヴェネツィア」を舞台にしている理由もそこら辺に求めることができようかと。

だいたい、離縁を恐れて元の旦那に子どものことを隠すところなどは妙に生々しく、敢えて子ども向けに創り出すような部分ではなかろう。それともヴェネツィアーニの教育というのは幼少期から一貫して現実的なのか。それもまたこれまで見てきたイメージに適うものではあるが。

途中「女というものはみな好奇心が云々」というのがあって、こういう言い方は現代では何かと問題になりそうではあるのだがそれはともかく、以前「これらの話はおそらくヴェネツィアの女性が語り手となって、子どもたちに向けて作り上げた物語ではないか」と見立てたのを覚えておいでだろうか。女性が中心人物となり、自分の力で数多の苦難を乗り越えて幸せを手にするという話型をエンターテインメントとして一方に置いてきたうえで、他方今回は、女が一人でヴェネツィアの外へ出るとこんな目に遭うこともあるのだよ、という娘たちへの教訓を示したものであるように思える。

フリウリの民が如何にして生まれたかについて

とりあえずイエスが出てくる話をまとめて片付けてしまおうと思って深く考えずに選び出し、見るからに短い話だったので油断していたのだけれども、今回もなかなかに扱いが難しい話である。避けたつもりであったのに程なく「うんこ」に突き当たったことも憂慮すべきなのではあるが、問題はそこではない。まずは見ていただこう。


COME XE NATA LA NAZION DEI FURLANI

我らが偉大な主は、聖ペテロとともに馬に乗って散策にお出かけなさいました。語らううちに聖ペテロは主に申します。「主よ、貴方はあらゆる民をお生みになりました。それは良き民ばかりです。しかしフリウリの民はお創りなさいませんでしたね。」主はお答えになります。「いえ、フリウリの民も創りたかったのですが、神を罵るような言葉しか発しないような劣悪な民となってしまったのです!…本当かどうか、見てみますか?」主が馬から降りられたところ、そこに大きな大きな犬のうんこがあります。主がそのうんこに蹴りを入れたもうと、一人のフリウリ人が現れ出てきました。―「神のこん畜生め」そのフリウリ人は言います。「俺様が出てきてやったぞ。」そこで主は聖ペテロに仰いました。「彼らが本当に涜神の民であるのを御覧になりましたか?…ええ、かつてもこのとおりだったのですよ。」このようにしてフリウリの民は生まれたのでした。


……どう文体を工夫しても冗談にしかならないが、それにしてもヴェネツィアーニから「うんこ野郎」扱いされるフリウラーニとは一体何なのか。

フリウリはヴェネト州の東にあり、オーストリアと国境を接する地域である。ここの産物で日本人にも馴染みのあるものといえばサン・ダニエーレのプロシュットくらいではないかと思うが、それはともかく、この地域はヴェネツィアの敵であった蛮族共が侵攻してくる方向にあった。ランゴバルド王国、シャルルマーニュ、そしてアクィレイア司教区と、どの時代であっても何かしらヴェネツィア共和国と衝突している。その後15世紀には共和国の支配下に入るのだが、対立していた古代の歴史的記憶が残っているということなのだろうか。

18世紀、その歴史の終焉へと向かうヴェネツィア共和国はいろいろあって(詳しいことは塩野七生氏か永井三明氏の著書にあたられたい)遠距離交易の優位性を失い、後背地での農業や工業に依存する割合を高めていた。そんな時代にフリウリの各都市は絹織物・紡績・銅細工などで共和国の経済を支えてくれていたらしいのだが、そんなつながりはこの話からは微塵も感じられない。

アナクロニズムについては今さらなので突っ込まないが、わざわざイエスの口を借りて「劣悪な民」と言わせるところには並々ならぬ敵意が感じられる。1100年間の歴史の中であらゆるところと悶着を起こしてきたヴェネツィア共和国であったが、「ピピン」や「トルコ人」については現在のヴェネツィア語の慣用表現にまで残っているものがあり、それは余所者でも少し勉強すれば納得できるものばかりである。しかし、これまで共和国について読んだり聞いたりした話のなかで「フリウリ」という言葉がこれほど強調されたものについては覚えがない。

ということでお手上げである。何かご存じの方は是非ご教示賜りたい。

十尺の布について

前回の話ではイエスが前座だったので、もう少し扱いのよい話を今回と次回でご紹介していこうと思う。どういう訳か相方は常に聖ペテロであって、これはヴェネツィアとの関連で言うと、彼が漁師だったからではないかと思う。

サン・ピエトロといえばまずはヴァティカンの大聖堂であろうが、一応ヴェネツィアのカステッロ地区にも彼の名を冠した聖堂がある。家主の本でレガータの起源の話(ならず者への対処法について - 水都空談)を読んでいたときにその名が出てきたので、私も一度ヴェネツィアの東端にあるその大聖堂まで行ってみたことがあるのだが、場所が場所だけにあまり観光客の近づくところではない。どちらかというと実務的な印象のある地域であった。

それはそれとして、イタリアの漁師町でサン・ピエトロと言えばまずはマトウダイのことである。体側の黒色斑は聖ペテロがそれを捕らえたときに指で掴んだ痕跡なのである、とヴェネツィア料理の本に書いてあった。どうしたって片手で掴んで指が届く位置ではないし、指の跡だとすると大きすぎるように見えるのだが、こういう話は最初からまともに取り合ってはいけない。日本語の「的鯛」程度の比喩しか飲み込めない私には、あれをまず指の跡だと見立て、聖人に結びつけていくことのできる奔放な(強引な)想像力が羨ましい。


I ÇINQUE BRAZZI DE TELA

聖ペテロと主のお二人が旅装束で街道を歩いておりました。そしてある晩のこと、彼らは遅くなってからある家の前にたどり着きました。聖ペテロは主に申します。「主よ、今晩はここで寝ることにいたしましょう。」主は仰いました。「ええ、そういたしましょう。」彼らが戸をたたくと、一人の女が出て参ります。彼らはその女に言いました。「私たちは旅の者でで、この時間までずっと歩いてきたのですけれ、今晩寝る場所を貸していただければありがたいのですけれども。」女は答えました。「ええどうぞ、いくらでもゆっくりしていってください、喜んで寝床をお貸ししましょう。でもちゃんとしたベッドがなくって、藁束が少し、あとは十尺ほどの布きれしかないのです。今すぐ持っていきますんでシーツ代わりに敷いてくださいな。」―「これはどうも」彼らは言いました。「できるかぎりで結構です…十分にくつろげますよ。」そうして女は寝床を用意しました。そして彼らは快適に夜を過ごし、眠りにつきました。

翌朝になって二人は目覚め、出発しようとしますと、女はすでに起き出してポレンタを作っています。女は言いました。「もう少し待っていてくださいな、ポレンタを作ってますんで、貴方たちもちょっと食べていってください。」―「いえいえ」彼らは言いました。「ありがとうございます、親切な方、寝床を貸していただいただけでもありがたいのに、また親切にしていただきまして。この後で貴女が最初に行ったことを、貴女は一日中続けることになるでしょう。」―「ああ、はい。」彼女は言います。そして彼らは行ってしまいました。

一人残された女は言いました。「ああ、すぐに藁を片さなくっちゃ。」そうして彼女は寝床を片付けに行きます。藁の上には布が敷いてありました。そして何ということでしょう! 彼女が布を引き出して、引き出して、引き出して、引き出して、次から次へと布を引っ張り出す手が止まらないのでした。そうしていると、彼女の夫が食事の準備の具合を見るために帰ってきました。彼女は言います。「ああ、食事ですって! 朝からずっとこうやって布が出っぱなしなのよ。昨日寝床を貸してあげた人たちが出て行くときに私に言ったのよ。最初にやったことを一日中やることになるってね。それで寝床を片付けようと思って布を引っ張ったら、後から後から布が出てくるのよ。」夫はすっかり嬉しくなって、家を出ると代母に会ったのでこう言いました。「お話ししたいことがあるのですよ代母様、家の妻が今朝からずっと布を引っ張り出し続けているんです、というのも、昨日寝床を貸してあげた人たちが出発する前に言ったのです。彼女が最初にやったことを一日中やることになるって。彼女が布を引っ張り出したら、今でもまだ次から次へと布を引っ張り出しているのですよ。」―「なんとまあ」彼女は言いました。「それはよかった! あんた達のところにいたその二人が私のところにも来てくれるといいのだけれど。」そういうと彼女は帰りました。そして驚いたことに、夜になるとあの二人の旅人がやってきたのです。「奥さん、もしよければ」彼らは言いました。「今晩寝床を貸してはいただけませんでしょうか?」彼女は例の布の二人組に抜け目なく備えていましたのでこう答えました。「寝床を貸してあげるのは何でもないんです、お二人がゆっくりするのに十分なくらいは。でもベッドがないのですよ。藁束が少し、あとは十尺ほどの布きれしかなくってね、すぐに用意しますから。」そこで主はお答えになりました。「奥さん、布を敷くまでもありませんよ。藁だけで十分です。」しかし彼女は布を敷かなければ藁しか手に入らないのを分かっていたので、こう言います。「いえいえ、これくらいはできますので、敷いてあげましょう。」彼女は言うとおりに藁を敷き、快適な夜を過ごせるようにしてから、彼女も眠りにつきました。

翌朝になり、彼女は早々に起き出すと、キッチンにこもってポレンタを作ります。旅人達が降りてきますと、彼女はそれを見て彼らのところへ行き、言いました。「少し待ってくれますか、貴方たち。一緒にポレンタを食べませんか?」―「いえいえ」彼らは言いました。「昨晩寝床をお貸しいただいただけで十分ですのに、また親切にしていただきまして。今日貴女が最初に行ったことを、貴女は一日中続けることになるでしょう。」そして彼らは行ってしまいました。

この女はすっかり嬉しくなり、上がっていって布を引っ張ろうとします。が、まさにそのとき、彼女はおしっこがしたくなって、こう言いました。「ちょっと待って。まずおしっこをして落ちついてから、一日中布を引き出すとしようかね。」彼女はおしっこをしに行きます。そしておしっこをしておしっこをしておしっこをして、丸一日おしっこをしました。彼女は布を引き出す代わりに、胃も腸も何もかもから水分を引き出されてしまいました。

その翌朝、主がお通りになり、最初に彼に会った女が駆け寄って言いました。「すごいですよ! 貴方たちに寝床を貸してあげた後、貴方たちは私にこんなにいいお返しをしてくださいました。」そこで主は仰います。「貴女たちのように清廉で、親切にしてくれる人はいいのですよ。貴女は恩寵を目当てに寝床を貸してくれたのではありませんので。しかし私が一日中布を引き出せるようにしたのを聞いて寝床を貸してくれた貴女たちの代母は、貴女たちに「私のところにも来てくれるといいのだけれど」と言いました。そうではなく、節度をもち、欲得ずくの親切ではなかったならうまくいったでしょうに。欲得ずくの親切に価値はありません。」こう仰せになると、彼は行ってしまいました。


……宗教色が出てきて、これは典型的な寓話かな、と気を抜いたところですかさず下ネタをぶっ込んできた。油断ならないものである。

Çinque brazzi(cinque braccia)については1 braccioが約60cm程だというので適当に合わせた。ありがたいお話であるばかりで大した突っ込みどころがないので、今回はこれでおしまい。

正義について

今回の話の冒頭に、前回触れた何ともいえない[che]の例があった。ヴェネツィア語の単語をそのまま標準イタリア語と英語の単語に置き換えてみたので、どうにも解釈できないこのもどかしさを是非とも体感して欲しい。

'Na volta  ghe giera  un contadin   che el gaveva so mugier che la    gera gravia.
Una volta c'era         un contadino che lui aveva sua moglie che lei   era   gravida.
One day   there was a   peasant   that he had     his wife      that she was gravid.

この場合cheの節は位置と文脈から考えて二つとも関係詞節と思われるのだが、どういう訳だか節の中に主語が残っており、単語を端折らずに訳すと「あるところに一人の農夫がいて、彼には妻がいて、彼女は身重だった。」というふうになる。確かに幼稚に聞こえるわな。ひたすら接続助詞でつないでいく日本の近代以前の文章に通じる気配がないこともないが、そういう面倒なことは学者に考えてもらおう。

ともあれ、これは前回見た、[主語]の後に[主格代名詞]が重なるという現象と関連するものと思われる。英語の"She walks."の[walks]という動詞が疑問文において[does]と[walk]に分離し、[walk]だけが元の位置に残るのを想起してもらいたい。これと同様、ヴェネツィア語の[主語]と[主格代名詞]は緩やかに一体化しており、[主語]はなにかの拍子にどこかへ行ってしまっても、[主格代名詞]は定位置に残り続けるのではないだろうか。

と考えてはみたが、[主格代名詞]までもが省略される関係詞節も当然のように使われているため、この仮説は一瞬にして崩壊するのであった。「標準的な関係詞節とこの[che]の節とではニュアンスが変わり、使い分けが存在するのではないか」というふうにこの仮説を捩じ込んでいくこともできなくはないが、これ以上は面倒だ。イタリア相手に理屈を捏ねた私が愚かであったとし、諦めて話の本筋をご紹介しよう。


EL GIUSTO

あるところに、身重の妻を持つ一人の農夫がありました。ある日のこと、この農夫は妻に言いました。「生まれてくる子に洗礼を受けさせるのに、代父母になる人は本当に正しい人であってほしいものだな。」それから数日して、妻は坊やを産みました。そこで彼はその赤ん坊を腕に抱き、家を出て正義の人を探しに行きます。

歩きに歩いて、彼は一人の男、我らが主に出会いました。彼は言います。「この息子に洗礼を受けさせなければならないのですが、正しい人でなければこの子の洗礼を任せたくないのです。貴方は正しい人ですか?」主は答えます。「さあ…私が正しいかどうかは分からないな。」

そこでこの農夫はさらに進み、ある女性に出会います。彼女はマリアでした。彼は言います。「この息子に洗礼を受けさせなければならないのですが、正しい人以外にはこの子の洗礼を任せたくないのです。貴女は正しい人ですか?」―「それは分かりません」マリアは答えました。「しかし、さらに行けば正しい人が見つかるでしょう。」

そういうわけで彼はさらに進み、また一人の女性に出会いました。彼女は死神でした。彼は言います。「これまで会った人たちが貴女のところへ行けと言いました。貴女が正しい人だというのです。この息子に洗礼を受けさせなければならないのですが、正しい人以外には任せたくないのです。貴女は正しい人ですか?」―「そうです。」死神は言いました。「私は正しいものと信じています!…まずはその赤ん坊に洗礼を与えましょう。その後で私の正しさを見せたいと存じます。」そうして彼らはその息子に洗礼を施します。

それから彼女は、奥まで見通せないほど長大な広間へと農夫を連れていきました。そこには多くの灯明が点っています。「代母様」これらの灯明を見て驚いた農夫は言いました。「このたくさんの灯明は何なのですか?」死神は言います。「これらの灯りは皆、この世界にいる者すべての魂です。見てみたいでしょう、お父様も? そちらが貴方ので、こちらが貴方の息子のものです。」そして農夫は、自分のそれが今にも消え入りそうなのを見て言いました。「代母様、油がなくなってしまったときは?」―「そのときは」死神は答えました。「私と一緒に来ていただくことになります。なにしろ私は死神ですので。」

「ああ、どうかお慈悲を」農夫は言いました。「ともかくも息子のところから少し油を取って、私のところに足してください!」―「いえいえ、お父様」死神は言いました。「私にはまったく何もできないのです…貴方が知りたいと望んだ正義、貴方が見つけた正義です。さあ、家に戻って、貴方の為すべきことをなさいませ。私が期待するのはそれだけです。」


……今回はだいぶ短い。このブログは長文が読める人しか近づけないよう、一つの記事について原稿用紙8枚分程度を目安としているのだけれども、ここのところ20枚分を超えるものが続いていたもので、これでは何とはなしに物足りないような気もする。この話は「死神の名付け親」が元となっているようだが、取っかかりのところで終わってしまったような印象である。元ネタとの関係で言えば、グリム童話ではろうそくであったものがこの話では油を使う灯火となっている点も気になるのだけれども、ヴェネツィアの燃料事情についてはこれまで考えたことがなく、手がかりもないのでとりあえず於く。

[giusto]という単語は、この話の文脈では「厳格」とするのが最も近いように思うが、今の段階では直訳のままにしておこう。今回はオチが今ひとつ消化不良であるが、しかし例の「3」縛りでイエスとマリアを前座に使ったところはなかなか思い切ったものであった。そして真打ちの死神の口調については、農夫に対して敬体で話しているという事情もあるのだが、私の趣味で少々誇張してあることをお断りしておく。

洗礼に関して、農夫が死神に対して代母[comare]という呼び方をするのは理解できるのだが、洗礼後に死神の方が農夫のことを代父[compare]と呼ぶようになるのが分からない。本文では「お父様」と誤魔化しておいたが、幼児洗礼が施された後、代父母と実父母の関係はどういったものになるのだろう。この辺りは土着の人に聞かなければどうしようもないかと思うが、どなたかご存じの方はいらっしゃるだろうか。

さて、今回は久しぶりに男性が中心人物となっているが、自分の寿命を認識した瞬間のこの父親のクズっぷりというか、ある意味ではあまりにも自分に正直なところがよい。これまで見てきたように、この民話の本ではひたすら女性が活躍し、最後は結婚で終わると言う話が多かった。これらの話を創り出して子どもたちに読み聞かせたのは女性が中心であったものと推察されるのだが、それはそれとして、彼女たちが男性をどのような生き物として認識していたのかがよく分かろうというものである。