何も食べない妻、あるいは魔法の指輪について

食欲の減退する季節となったのでそれらしいタイトルの話を選んでみた。短いものなので今回は二本立てである。


'NA MUGIER CHE NO MAGNA

一組の夫婦がありました。あるときその妻が夫に、自分はもう何も食べない、と言い始め、そのとおり二度と食事をしているところを見せることはありませんでした。

ある夜のこと、その夫は代夫に会い、その代夫は家の方はどうかと尋ねました。「順調ですよ」夫は答えます。「でも妻が何も食べなくなってしまって、なのに今までにないほど太っているんです。」―「なんてことだ!」代夫は言います。「うちの妻はちゃんと食べていますが、釘みたいに痩せてますよ。彼女は何も食べてないと言っていますが、私に言わせれば彼女は私よりも、それどころか貴方よりも食べてますね。」彼は続けます。「釘を四本あげますから、彼女に見られないようにそれをキッチンの四隅に打ち込むのです。そうしたら貴方は出かけて、何時間か待つ。家へ帰ったらその釘がみんな話してくれるでしょう。私と貴方のどっちが正しいか、見てみようじゃありませんか。」夫は釘をもらい、代夫に挨拶をして別れました。そうして家に帰り、その釘をキッチンの四隅に打ち込みます。

朝になり、彼は妻に言います。「行ってくるよ。」彼女は「どうぞいってらっしゃい。」と言いました。「ああ、やっと行ったわ。さあ着替えなくっちゃ。」彼女は農婦が1クァルトゥッツォ[約1/4L]の生クリームを持ってくるのを待って、その後でおいしいコーヒーを淹れます。四つか五つの丸パンを漬し、彼女はずっと食事をしていなかったかのような勢いで食べ始めました。彼女は言います。「さて、おやつはおしまい、夕飯のことを考えなくっちゃ。」彼女は立派な乳と尻をもったメンドリ、2リッブラ[1リッブラは約300g]の米、そして半ボッカーレ[1ボッカーレは約1L]の良質なワインを用意し、すべてを料理し、そしてまた食べ始めました。ひたすら食べ、ひたすら飲みます。

そのとき、キッチンの四隅にあった釘の一本が言いました。「彼女は何をしてるの?」別の一本が言います。「食べてるよ。」また別の一本が言います。「旦那抜きでね。」もう一本が言いました。「この犬畜生は毎日こうしてるんだね!」彼女は振り返りますが、誰もいません。すると釘たちはもう一度同じことを言いました。彼女はあっちこっちを見ますが、やはり誰も見えません。「誰かいるのかしら?」そうして彼女は食べたものが夫に見られないようにみんな外に捨て、テーブルをきれいにして暖炉を丁寧に掃き、すべて元どおりに片付けました。

少しして夫が帰ってくると、彼は言いました。「食事はしたか?」―「いいえ」彼女は言いました。「何も食べてませんよ。」するとあの釘の一本が言いました。「嘘だね。さっきまで食べてたよ。」別の一本が言います。「おやつを食べて、夕飯も食べたね。」また別の一本が言います。「おやつには生クリーム入りのコーヒーに浸した丸パンを五つ、夕食には立派なメンドリとお米のスープを食べて、上等のワインを半ボッカーレ飲んだね。」そしてもう一本が言いました。「このアバズレは毎日こうしてるね。」―「この犬畜生め!」彼は言いました。「帰ってきたときにお前が何も食べたがらない理由が俺にも分かったよ!…毎日そうしてたんだな!」ポカポカと彼は何度も彼女を殴って、彼女は半殺しにされました。

翌日彼は出かけて代夫に会い、すべてを話してから言いました。「まったく貴方の言うとおりでしたよ。信じられませんね!」―「言ったとおり」代夫は言いました。「貴方の妻は私よりも、それどころか貴方よりも食べていたでしょう? 諺に『食べない者はもう食べた者』と言います。いいですか貴方、諺というのは根も葉もないものではありませんよ。」


……内容の割に夫と代夫(洗礼の際の名付け親)との会話が丁寧なのは、お互い敬体で話しているのを反映させてあるからである。名付け親が地元の有力者とかだとこういう関係性になるのだろう。

あと、夕飯と訳した「disnar」、これは一日の中で中心となる食事を指すので「正餐」とするのが一番いいのだが、これでは言葉自体がちょっと硬い。この話で妻が食事をしているのは昼から夕方にかけてかと思われるが、だからといって「昼食」ではイメージが軽すぎる。というわけで「夕飯」としている。

さて、ナイフだったりパスタ生地で作った鶉だったり、人外のモノが話し出して真実を証言するというのはもうお定まりの展開となっており、今回のそれは「釘」となっていた。何故こうなったのかというと、冒頭近くにあるとおり、ヨーロッパには「釘のように痩せた」という慣用表現があるので、これを飽食で太った者と対比させたものかと思われる。

そして最後のところで出てくる諺のフルヴァージョンは以下のようになっている。

Chi non mangia (a desco) ha già mangiato (di fresco), oppure è innamorato.
食事の進まない者は今しがた食べた者か、恋をする人(小学館『伊和中辞典』)

珍しく女性の立場が押され気味なのは、今回の話がこの諺を出発点としてふくらませたものだからだろう。タイトルに反してこの妻がもりもりと食事しているのは微笑ましい光景だが、その時間を共有したいと思ってもらえなかったこの夫の心中や如何。独身者である私としても食欲の失せる話である。そして食欲を無くした序でにもう一つ、この機会に尾籠な話を片付けてしまおう。イタズラ三妖精が再登場して最初からアクセル全開、期待どおりにやりっ放しにしてくれている。


L' ANELO FADÁ

あるときのこと、とある大草原に立派なうんこがありました。そこへ三人の妖精が通りがかり、その一人は他の二人に向かって「このうんこに洗礼を与えて綺麗な女の子にしようか」と言いました。もう一人は「そいつに指輪を与えよう」と提案し、三人目は「その指輪を填めているかぎり、そいつは「うんこ!」の一言しか言えないようにしてやろう」と言いました。

そうしてそのうんこからとびきり綺麗な娘が現れました。王女様のように着飾り、頭には宝冠を着けています。三妖精は行ってしまい、彼女はそこに残されました。

そこへ一人の王様が通りがかり、娘に挨拶をします。彼女は答えました。「うんこ!」―彼はもしよければ馬車に乗っていただけないかと申し出ますが彼女はただ「うんこ、うんこ」とそれ以外は答えないのでした。

彼女は本当に本当に綺麗だったので、王は彼女を家へ連れていき、彼女と結婚したいと母に言いました。母は、彼女は教養がないので駄目だと言います。彼は、彼女がいいんだ、彼女が知らないことはこれから教える、と答えました。彼女は勉強して、彼は彼女と婚約しました。

ある日曜日のこと、彼らは婚約者の娘をミサに連れていきました。皆がこの美しい女性を見るために挨拶にやってきます。多くの紳士淑女が挨拶に来ましたが、彼女は「うんこ!」以外に答えないのでした。

寺男が霊魂のための小箱を持って回ってきます。皆が寄進を行いました。彼女は小銭を持っていませんでしたが、そのままでは外聞が悪いので、彼女は填めていた指輪を外し、それを小箱の中へ入れました。その指輪を一目見た教区司祭は、説教の前でしたので寺男を説教壇のところまで呼びましたところ、寺男はすぐに参ります。すぐさま司祭は小箱を開け、指輪を取ると自分の指に填めました。一息ついた後、彼は立ち上がって話を始めます。「我が親愛なる兄弟たちよ」と言うはずだったのですが、「うんこ、うんこ」そしてずっと「うんこ」しか言えませんでした。

教会にいたすべての人々の騒ぎぶりが想像できますでしょうか! みんなが叫びました。「彼は狂った、彼は狂ってしまったぞ!」しかし彼はひたすら言い続けました。「うんこ、うんこ!」

そうした後、あちらへ帰る人、こちらへ帰る人がいて、婚約者の娘もまた家に帰りました。このときから、婚約者の王、その母親、そしてみんなが驚いたことに、彼女は他の人々と同じように話し始めました。そして「うんこ」と口にすることは二度とありませんでした。


……この「うんこ[merda]」というのは世界共通、罵るときにも使われる言葉であるから、「クソが!」と訳す方が適切かと思われるが、いつぞやも書いたとおりにここに載せる段階ではあまり色を付けない下訳の状態に留めている。民話だからといって子ども向けにチューニングしたところでこれらの話を子どもに読み聞かせる日本人がいるとも思えないし、学術的に訳したところで意味のある仕事とも思えない。このブログの読者は指折り数えられる程度であるし、何となくこちらの方が面白いと思うのでこうしておく。

「クソが!」しか言わないこの娘にどうやって教育を施したのかなど、判然としない部分は数多くあるが、おそらく考えても無駄なので今回はここまで。