独身者たちについて

ヴェネツィアである必然性が今ひとつ感じられないような話が続いたので、今回は「Venezia」という単語が出てくる話を読んでみた。が、まずタイトルにあるorfaroniという単語がどの辞書にも載っておらず、ネットで検索してもこの話以外では使われていない。こういうことはこれまでにも何度かあり、テキストデータが丸ごと公開されていたおかげで、これらの民話の著作権が切れていることがはっきりしたのは一方で収穫であった。それはともかく、San Pieroが数行先でSan Pietroになっていても一向に気にしない人たちの作った本であるから、表記が定まっていなかったり揺れがあったりするのは致し方ない。

単数形はおそらくorfarone、この語尾を拡大辞であるとして外してみるとorfaroとなるが、もちろんこれでもそれらしき意味は出てこない。ネットの検索は拡大辞や縮小辞の有無をある程度織り込んでくれるので、この程度の操作で分かるものなら最初から出てくるのである。ここからは勘でいくしかない。

唯一形の似た単語はorfano(孤児)、話の内容から考えても何とかつなげられそうなので、これに拡大辞を付けたときに訛ったのだということにする。「相互に血縁関係を持たない成人男性の集団」をどう訳すかということになって、とりあえず「独身者たち」としてみた。ミシェル・カルージュの方はcélibataireという形容詞なので、残念ながら例の機械とはまったく関係がない。


I ORFARONI

あるときのこと、ここヴェネツィアにある夫婦があり、この妻には一人も子どもがありませんでした。そのため二人だけで暮らしておりましたところ、ある日、夫が妻にこう言います。「俺と一緒に荷方舟で出かけよう。」彼らは荷物をまとめ、その荷物をある島へと運ばなければならないのでした。そこは独身者たちのいる島なのですが、彼らは野蛮で、全身が毛むくじゃらです。彼女がここに来るのは初めてでしたので、島に着く前に夫は妻に言いました。「陸に上がってはいけないぞ、分かるか? もし上がったら、奴らがすぐにお前を連れていってしまうからな。」この女は陸に上がらないと約束しました。

到着すると、舟の男たちは商品を運ぶため、すっかり遠くへ行ってしまいました。この夫もまた行ってしまい、彼は妻を一人にしてしまいました。女というものはみな好奇心の強いものです。哀れなこの女にもまた好奇心がありました。夫が少しずつ離れていくのを見ると、彼女は扉から出て、島を見ようと船尾に立ちました。そして彼女は遠くの方に美しい八重咲きの罌粟の花があるのを見つけます。彼女は言いました。「あそこにきれいな花があるわ! あれは取りに行かなくちゃ。」彼女は活発で大胆な女性でしたので、陸へと橋板を渡してその上を渡っていきます。そして上陸すると罌粟の花を取りに行きました。

その罌粟の花を取り上げたとき、彼女は、地面の穴のような扉からあの凶暴な男たちの一人が現れるのを見ました。その男は一言も話さずに彼女を捕まえ、その棲家へと抱えていきました。彼女は怖くなって叫びました。「ああ、お助けを! 誰かお願い! 死んでしまうわ!」おどろいたことに棲家にはたくさんの男たちがうろついていて、なにやら話していましたが、残念なことに彼女には何一つ理解できません。彼らはみんな彼女に優しく、何かともてなそうとします。けれども、彼らは何を食べさせればいいのかも分からないのでした。というのも好ましいものが何一つなく、彼らは草だけを食べて満足していたからです。可哀想なことに、彼女はろくに食事もできませんでした。

そして時が経ち、彼女は努力に努力を重ねて彼らの食生活に慣れていきました。そして時が経つにつれて彼女は彼らの言葉も学び、彼らの言うことがすべて分かるようになります。彼らはとても親切にしてくれようとしましたが、彼女にとってはみんな厄介者なのでした。しかし、そんな中でも特に彼女に親切な者が一人ありまして、彼女は多少の愛着がないでもないのでした。彼はまるで怪物のようでしたけれども。そんなこんなで彼女は身重になり、男の子を産みます。その子は半分彼女に似て毛がなく、半分彼に似て毛むくじゃらでした。彼らはみんな同じようで、みんながその子に世話を焼こうとしますので、そうすると誰がその子の父親なのか分からなくなりそうでしたが、それでも彼女は彼にだけ特に愛着を感じるのでしたが、彼女はいつも、彼は彼女が愛するほどではないとも考えていました。

さらに時は進み、彼女は一人目の子と同じような姿をした子をさらに二人産みました。独身者たちは特に彼女の世話を焼き、子どもたちを育てます。実のところ、彼女はたくさんのものを与えられていましたが、棲家の外にはなかなか出してもらえませんでした。彼らは子どもたちに不安を与えたくなかったので、彼女を外に出すのは危ないと思っていたのです。

そうして何年も過ぎたある日、彼女は岸に荷方舟を見つけました。そこで彼女はどうしたのでしょう? 彼女は棲家に戻り、独身者たちがどこにいるかを確認しました。そして彼らがそこで子どもたちとお喋りしながら笑っているのを見ると、心の中でこう言います。「逃げ出すにはこの機会しかないわ。」彼女は棲家の外へ出ましたが、彼らは特に騒ぎもしません。彼女が逃げ出すとはまったく考えていなかったのです。

彼女は一刻も早く岸に着いて荷方舟に乗りたいと思いました。彼女は不安と恐怖でいっぱいになりながら走ります。そして彼女は荷方舟の上に従兄弟が、つまり夫の兄弟がいるのを見つけて言いました。「私はあなたの従姉妹よ…お願い…私を乗せて!」この従兄弟は哀れで不運なその女を見て、彼もまた叫びました。「従姉妹よ、こっちへ…急げ…早くこっちへ!」彼も走ってくると彼女を馬に乗せ、橋板を渡って彼女を荷方舟の中へ連れていきます。彼女は裸でした。ひどいことに彼らは獣のような暮らしをしており、何も身に着けなかったからです。そこで荷方舟の他の男たちを騒がせないように、従兄弟は彼女にズボンとシャツを着せました。

彼は橋板を外し、舟は岸から離れます。岸との距離が空くと、その従兄弟は元のとおりに彼女の髪を肩まで下ろしたまま、荷方舟の船尾の高いところに立たせました。奴らが外に出てきたら彼女が見えるようにするためです。

彼らの方はといいますと、棲家に彼女の姿が見えないのに気付き、彼女を愛していたあの男が言います。「探してくるよ、彼女が棲家にいないんだ。」彼はあっちを探し、こっちも探しますが、彼女はどこにもいません。彼は言いました。「彼女は逃げ出したのか?」彼は岸から少し離れたところに一艘の荷方舟があるのを見て岸へ向かい、あろうことか彼女がその荷方舟の上にいるのを見つけます。そこで彼は自分たちの言葉で叫びました。「ああ、お願いだから陸に戻ってくれ! 帰ってきてくれ、俺がどれほど君を愛しているか知っているだろう! お願いだから戻ってきておくれ、君には三人の子もいるんだ!」彼女は彼らの言葉で答えます。「もう何も聞きたくない…あの獣たちは貴方が世話して…私は十分苦しんだわ、もうこれ以上何も聞きたくないの!」彼女の恐ろしい考えを聞いて彼は言いました。「それならば!」彼は棲家に戻り、他の男たち皆に言います。「ああ、なんてことだ、俺たちのあの女が逃げ出したぞ!」子どもの一人と一緒にいた者、もう一人の子と一緒の者、皆が岸に向かい、子どもたちと一緒に彼女が陸に戻ってきて、彼らが今までどおりよく世話をするから、彼女もそうしてくれるようにと懇願します。しかし彼女は何も言いません…彼女はもう何も聞きたくないのでした。そこで憤った皆は、三人の子の片足を取って吊り下げました。すると子どもたちはひどく泣き始めます。しかし舟は離れていき、彼女は彼らがするままにしておくのでした。彼女はヴェネツィアに帰りました。

彼女の夫が彼女の哀れな姿を見たときの様子が想像できるでしょうか! 彼は彼女がどうしていたのかを尋ねました。彼女はあの罌粟の花が彼女を数々の危機に陥れたこと、そして独身者たちとの生活について語ります。しかし彼女は離婚されることを恐れ、三人の子どもについては何も言いませんでした。夫は言います。「まあよかった、もう二度とお前を外に連れ出すことはできないな。」そうして彼女はもう二度とヴェネツィアを離れることはありませんでした。そうするうち、彼女は子どもたちのことを考えてひどく苦悩することもありましたが、そのまま亡くなりました。


……途中でヒロインが独身者の一人とわずかに心を通わせたような描写があったのに、逃げ出すとなったらそれは勘違いであったと言わんばかりに一切合切捨てていくというのは如何なものか。舟を見たら迷わず逃亡を決断、子どもが人質にされたところで露ほどの逡巡も見せず、あらゆるフラグを叩き折って一目散にヴェネツィアへ帰っていくところは不自然なまでに潔い。感情を排して自分の利益を瞬時に計算、即座に実行に移して完遂までは絶対に気を抜かない、と言い換えていけばこれまで見てきたヴェネツィアーネ(女性複数形)のイメージと矛盾はしない。

しかし物語の伏線というものをここまで綺麗に無視されると逆に現実性が増すというか、何か実話を基としているような気配も感じられはしないだろうか。何しろオチの焦点が合わないというか、先述のとおりこの話の寓意は「問題を乗り越えて異なる人種と心を通わせる」でもなく「逃げだそうとしたのを切っ掛けに自覚される母性」でもなかった。最後に残ったのは「やっぱりヴェネツィアの中が一番安心」なのである。いつぞやのナレンターニの話(ならず者への対処法について - 水都空談)が思い出されるようでもあるし、この話だけ明確に「ヴェネツィア」を舞台にしている理由もそこら辺に求めることができようかと。

だいたい、離縁を恐れて元の旦那に子どものことを隠すところなどは妙に生々しく、敢えて子ども向けに創り出すような部分ではなかろう。それともヴェネツィアーニの教育というのは幼少期から一貫して現実的なのか。それもまたこれまで見てきたイメージに適うものではあるが。

途中「女というものはみな好奇心が云々」というのがあって、こういう言い方は現代では何かと問題になりそうではあるのだがそれはともかく、以前「これらの話はおそらくヴェネツィアの女性が語り手となって、子どもたちに向けて作り上げた物語ではないか」と見立てたのを覚えておいでだろうか。女性が中心人物となり、自分の力で数多の苦難を乗り越えて幸せを手にするという話型をエンターテインメントとして一方に置いてきたうえで、他方今回は、女が一人でヴェネツィアの外へ出るとこんな目に遭うこともあるのだよ、という娘たちへの教訓を示したものであるように思える。